高瀬武次郎年譜稿 : 東洋大学の漢学者たち(その一
)
著者名(日)
吉田 公平
雑誌名
井上円了センター年報
号
15
ページ
161-324
発行年
2006-09-20
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002771/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja高瀬武次郎年譜稿
東洋大学の漢学者たち︵その一︶吉田公平§ξ§
はじめに 井上圓了は大正八年六月六日に逝去した。その時、高瀬武次郎は五十二歳。京都帝国大学の教授であった。高 瀬は﹃鼓腹集﹄巻末に附した﹁拙著目録﹂の﹁略歴﹂では、︵明治︶三十一年七月に東京帝国大学文科大学漢学 科を卒業し、﹁三十九年一月東京帝国大学講師ト為ル、之ト同時二哲学館、日蓮宗大学、仏教大学、早稲田大学、 曹洞宗大学、明治大学ノ講師ト為ル。此頃二同志ト王学会ヲ組織シ陽明学ヲ研究セリ。﹂という。その翌年明治 四十年七月に京都帝国大学文科大学助教授に任ぜられている。井上圓了が逝去したおりに、高瀬武次郎が作った 弔詩は、次の通りである︵﹃鼓腹州﹄二十八頁︶。 弔甫水博士 大正八年六月六日、東洋大学創立者、仏教界曉将、妖怪研究者甫水、井上圓了先生逝去於萬域大連客舎、賦 此以弔焉、余十年間為東洋大学講師。 麗殺五州妖怪軍。究明真理起斯文。等身著書育英業。杜宇声中忽芙君。 ここで東洋大学の講師を十年間務めたというのは、恐らく大学を卒業すると同時に東洋大学の講師となり、京都 161 高瀬武次郎年譜稿大学に赴任するまでの十年間を勉めたことをいうのであろう。この間に王学会を組織して陽明学を研究した同志 とは東敬治のことである。東敬治もまた東洋大学に勤務していた。高瀬武次郎は京都帝国大学に赴任すると、石 崎東国の大阪陽明学会の中心的役割を果たすことになる。東敬治は高瀬が京都に去ると、王学会を陽明学会に改 組して機関誌﹃陽明学﹄を根城に大活躍をする。二人は東京と大阪・京都の東西に別れて、陽明学運動を展開す る。高瀬は、﹁火の玉﹂の陽明学運動を展開した石崎東国とは、複雑な関係を持つことになるが、東敬治と肝胆 相照らす仲であった。この二人が東洋大学勤務を機縁に生涯に亘る親交をを続け、共に大きな役割を果たした。 東敬治に関しては不十分ながら﹁東敬治年譜稿﹂︵﹃白山中国学﹄十一号︶を先に発表したが、東洋大学に縁の ある高瀬武次郎は、京都支那学の学風とは異質なためにか、あるいは国体論者に終結したがためか、これまで全 く無視されてきた。しかし、大阪陽明学会では高瀬武次郎は枢要な位置を占め、石崎東国の陽明学理解を浮き立 たせる鏡の役目をも果たしている人物なので、近代陽明学を考察する際の鍵となる人物でもある。その準備作業 の一つとして﹁高瀬武次郎年譜稿﹂を示すことにする。極めて不十分なものであることは重々承知している。今 後、博雅の士のご教授を得て、補訂作業を継続していくことにしたい。 高瀬武次郎は東京大学を卒業した後に東洋大学に奉職した。その後に、京都帝国大学文化大学に赴任して、定 年を迎えるまで在職した。高瀬武次郎の指導教官は井上哲次郎である。高瀬武次郎は学生時代から陽明学研究を 中心にすえて学業に励んだ。哲学といえば所謂西洋哲学、西哲が脚光をあびていた時代である。中国哲学・漢学、 それも陽明学に多大の感心を懐いたのには、高瀬武次郎の個人的な関心が促したわけだが、時代の趨勢も与って 力があった。そのことを端的に示すのが処女作である﹃日本之陽明学﹄である。文学士高瀬武次郎に請われて井 上哲次郎は序文を認めている︵﹁日本之陽明学叙﹂。明治三十一年十一月十五日執筆︶。 162
井上哲次郎は、陽明学は教育哲学として有意義であること、徳川時代の儒教哲学の分派である朱子学派.古学 派・陽明学派・折衷学派の中では尤も実行を重んずる学派であること、中国の陽明学よりも活力に満ちているこ と等を述べた後に、異学が禁制された時代は過ぎ去り、﹁今や自由意志の天地なり、諸学競ひ起り、異説あらそ いひ生ず、此時に際して宣に独り陽明学をして欝屈して伸びざらしむべけんや﹂という。高瀬武次郎の﹃日本之 陽明学﹄が日本における陽明学の梗概を知らしめることを指摘した上で、次のように締めくくる。﹁世の教育家 之れを以て其品性陶冶の資料となさば、宣に多少の効なしとせんや﹂という。微妙な措辞である。日本の陽明学 に関する通史は高瀬武次郎のこの﹃日本之陽明学﹄が晴矢である。在外研究員として独逸に永らく滞在して哲学 の本領を探究してきたという自負心に満ちていた井上哲次郎は、彼の地で日本哲学について講じたこともあった から、期することがあったのかも知れない。井上哲次郎は後に所謂三部作︵﹃日本古学派之哲学﹄﹃日本朱子学派之 哲学﹄﹃日本陽明学派之哲学﹄︶を著すことになるが、我に先んじて﹃日本之陽明学﹄を著した高瀬武次郎のこの壮 挙に対する序文の文面が、すこしく屈折しているのは、こと西洋哲学の紹介、或いは哲学的分野の開拓にかけて は、終生、俺が一番の先駆けであるという意識を持ち続けた井上哲次郎の自負心が無意識のうちに吐露されたも のであろう。それを誘い出したのが高瀬武次郎ということになる。井上哲次郎は哲学界の重鎮として歴史的には 大きな役割を果たす。彼自身が自負したとおり、議論が沸騰するところ、どこにでも顔を出し口を挟んだ。内村 鑑三の不敬事件にまつわる﹁教育と宗教﹂事件ばかりではない。マルチ型言論人であった。行くところ物議を醸 したが、紹介型学者であったがために、一つ一つの立論には必ずしも深みがない。 その点は江戸時代初期の林羅山が江戸時代初期にに果たした役割に類似する。或いは、哲学会を組織し﹃哲学 雑誌﹄を創刊し、哲学館を創設した、もう一人の井上である井上圓了が果たした役割と一脈通ずるものがある。 163 高瀬武次郎年譜稿
近代国家を形成する上で哲学的に立ち向かうべき課題を提示する啓蒙家という色彩が強い。 井上哲次郎の﹃日本陽明学之哲学﹄にしても、日本陽明学を研究する際にはよく引き合いに出されるが、三部 作の内でこの﹃日本陽明学之哲学﹄の出版が送れたのは、先に高瀬武次郎の﹃日本之陽明学﹄が先行していたこ と、この﹃日本之陽明学﹄が吉本譲の鉄華書院から刊行されたことが象徴するように、このころから陽明学を基 本理念とする結社が民間に結成され、陽明学者が次々と発掘され、彼らの自筆の著作や門流による写本が整理さ れて公表されるようになる。さらにその哲学遺産が読解されて、読書界に普及して関心を持つものは読むことが 出来るようになる。その成果を盛り込むことの必要性が自覚されたために、﹃日本陽明学派之哲学﹄が他の﹃日 本古学派之哲学﹄﹃日本朱子学派之哲学﹄に比べて、書き上がりがことさらに遅くなった理由の一つであろう。 古学派にせよ、朱子学派にせよ、その・王役たちの主著はほとんど木版にて印刷されていた。ところが陽明学派 の場合には、中江藤樹・熊沢蕃山・三輪執斎・大塩中斎・佐藤一斎の主著に相当するものは出版されていたもの の、その周辺で活躍していたものの著作は埋没したままだった。埋没したままであったのは陽明学派のものに限 るわけではないというものの、学派呼ばわりされた割には、その度合いが強かった。そのために﹁日本の陽明 学﹂に対する理解が狭隆であった。そのことを象徴的に示すのが﹃漢学者伝記著作大辞典﹄の陽明学に関する記 載である。井上哲次郎の﹃日本陽明学派之哲学﹄の恩恵を受けて編纂されたはずなのに、しかもなお、今から見 ると偏頗な理解の域を出ない。 日本における陽明学を歴史的に理解しようとした、高瀬武次郎の志を壮とする。﹁例言﹂では控えめに叙述さ れているが、黄宗義の﹃明儒学案﹄が意識されていたであろう。 高瀬武次郎は﹃老荘哲学﹄﹃楊墨哲学﹄﹃中国哲学史﹄などを著しており、陽明学の世界に顕踏した人ではな 164
い。しかしながら、陽明学の研究とその宣揚が高瀬武次郎の本領であったことは動かない。 明治時代以降には、西洋哲学・基督教・近代産業科学が新運を打開する新思潮となった。しかし、それは更地 に輸入されたのではない。江戸時代に熟成された既存の哲学思潮が媒介役をはたし、時に鋭く対立して排斥する こともあった。新思潮の斬新さに驚いて熱狂的に吸収した時期が過ぎ去ると、日本社会との親和性が問題にな り、改めて伝統思想が脚光を浴びて、再評価運動が起る。国粋主義・国体論の路線に走るものもあるが、西洋思 想の視点を最大限に生かした面貌を一新するような解釈をするグループも誕生する。西洋思想の受け皿として、 或いは伝統思想を再生する際の主潮として活用された一思潮が陽明学であった。 これまで、陽明学は、中国のそれにせよ日本のそれにせよ、近世思想の一翼として位置づけられて研究される のが通例であった。しかし、儒学思想ながら、こと陽明学は近代においては、単に客観的に研究する対象では必 ずしもなかった。一貫して、現代哲学として或いは生活哲学として生きられた哲学思想であった。井上哲次郎が 陽明学は実行・実践を重んずる哲学思想であると強調するのは、思惟構造が実践実行を重視する論理になってい ることをのみ述べているのではない。所謂陽明学者たちが﹁陽明学﹂を生きたことをも含意している。それは近 代においてこそ顕著であった。 さしずめ、近代における陽明学運動の立役者をあげるならば、次の四人であろう。 吉本譲。号鉄華。鉄華書院を・王管。鉄華書院版﹃陽明学﹄を発刊。 東敬治。号正堂。王学会主管。﹃王学雑誌﹄を発刊。陽明学会を・王管。﹃陽明学﹄を発刊。東洋大学教授。 石崎酉之允。号東国。大阪陽明学会主管。﹃陽明﹄﹃陽明主義﹄を発刊。 高瀬武次郎。号慢軒。東洋大学講師。京都帝国大学教授。 165 高瀬武次郎年譜稿
この四人の内、東敬治と高瀬武次郎は東洋大学にゆかりの深い人である。東敬治についてはその年譜稿の作成 を試みた。資料の範囲が限られていたために、極めて不十分なままにある。その補正を今後の課題としたい。吉 本譲・石崎東国の基礎研究については後日に期する事として、ここでは高瀬武次郎に関する事跡を記す基礎資料 の一端を年譜様式に記すこととしたい。不備に終わることはやむを得ない。次の作業および高瀬武次郎理解、引 いては近代日本における陽明学運動の↓端を理解する つの手がかりを獲たいがための作業である。なお︵?︶ は執筆の年月日が銘記されていないものであるが、推測して記した。 166
高瀬武次郎年譜稿
一八六八年。明治元年。戊辰。一歳。 十二月十六日。讃岐に生まれる。︵﹃鼓腹集﹄ 一八六九年。明治二年。己巳。二歳。 一八七〇年。明治三年。庚午。三歳。 一八七一年。明治四年。辛未。四歳。 一八七二年。明治五年。壬申。五歳。 一八七三年。明治六年。癸酉。六歳。 一八七四年。明治七年。甲戌。七歳。 一八七五年。明治八年。乙亥。八歳。 一八七六年。明治九年。丙子。九歳。 ﹁拙著目録﹂︶一八七七年。 一八七八年。 一八七九年。 一八八〇年。 一八八↓年。 一八八二年。 一八八三年。 一八八四年。 一八八五年。 一八八六年。 一八八七年。 一八八八年。 八八九年。 一八九〇年。 一八九一年。 一八九二年。 一八九三年。 一八九四年。 明治十年。丁丑。十歳。 明治十一年。戊寅。十一歳。 明治十二年。己卯。十二歳。 明治十三年。庚辰。十三歳。 明治十四年。辛巳。十四歳。 明治十五年。壬午。十五歳。 明治十六年。癸未。十六歳。 明治十七年。甲申。十七歳。 明治十八年。乙酉。十八歳。 明治十九年。丙戌。十九歳。 明治二十年。丁亥。二十歳。 明治二十一年。 明治二十二年。 明治二十三年。 明治二十四年。 明治二十五年。 明治二十六年。 明治二十七年。
甲癸壬辛庚己戊
午巳辰卯寅丑子
o o o o o o o 二十一歳。 二十二歳。 二十三歳。 二十四歳。 二十五歳。 二十六歳。 二十七歳。 167 高瀬武次郎年譜稿一八九五年。明治二十八年。乙未。二十八歳。 一八九六年。明治二十九年。丙申。二十九歳。 一八九七年。明治三十年。丁酉。三十歳。 一八九八年。明治三十一年。戊戌。三十一歳。 〇七月。﹁東京帝国大学文科大学漢学科卒業。其後チ直二大学院二入リ支那哲学史ヲ研究シ、五年ノ後チ先秦諸 子哲学ト題シテ学位論文ヲ提出シ、三十八年十一月二文学博士ノ学位ヲ受ケタリ。三十九年一月東京帝国 大学講師ト為ル。之ト同時二哲学館、日蓮宗大学、仏教大学、早稲田大学、曹洞宗大学、明治大学ノ講師 ト為ル﹂﹁此頃二同志ト王学会ヲ組織シ陽明学ヲ研究セリ。﹂︵﹃鼓腹集﹄巻末﹁拙著目録﹂︶ 〇十月。﹁中島仲強﹂︵﹃陽明学﹄五十八号四1五頁。十月五日刊︶ 十月。﹁新刊予告。﹃日本之陽明学﹄。鉄華書院﹂︵鉄華書院﹃陽明学﹄五十八号巻末広告。十月五日刊︶ 十月。﹁東西哲学比較研究︵一︶﹂︵鉄華書院﹃陽明学﹄五十九号。三1四頁。十月三十日刊︶ 十月。﹁神道無念流の祖福翁府君神道碑並序﹂謹訳。︵鉄華書院﹃陽明学﹄五十九号。十月三十日刊︶ 〇十一月。﹃日本之陽明学﹄刊︵十一月十五日。井上哲次郎の﹁叙﹂︶ ﹁東西哲学比較研究︵二︶ーソクラチースと王陽明11智徳福合一と知行合一︵甲︶﹂︵鉄華書院﹃陽明学﹄六 十号三ー五頁。巻末に﹁新刊予告﹃日本之陽明学﹄広告。十一月二十日刊︶ 〇十二月。﹁東西哲学比較研究︵三︶ーソクラチースと王陽明11智徳福合一と知行合一︵乙︶﹂︵鉄華書院﹃陽明学﹄ 六十一号三ー五頁。巻末﹃日本之陽明学﹄広告。十二月十五日刊︶ 168
一八九九年。明治三十二年。己亥。三十二歳。 ﹃支那文学史︵自上古至惰末︶﹄︵﹃高瀬博士還暦記念支那学論叢﹄所収﹁高瀬博士著述目録﹂︶ 〇一月。﹁東西哲学比較研究︵四︶ーソクラチースと王陽明11智徳福合一と知行合一︵丙、結論︶﹂︵鉄華書院﹃陽明 学﹄六十二号四−六頁。裏表紙﹃日本之陽明学﹄広告。一月十五日刊︶ 〇三月。﹁東西哲学比較研究︵五︶良知即良心論﹂︵鉄華書院﹃陽明学﹄六十三号三ー五頁。裏表紙﹃日本之陽明学﹄広 告。三月五日刊︶ ﹁東西哲学比較研究︵六︶良知即良心論﹂︵鉄華書院﹃陽明学﹄六十四号三ー八頁。三月二十七日刊︶ ﹁中沢道二並植松自謙﹂︵鉄華書院﹃陽明学﹄六十四号十一ー十二頁。三月二十七日刊︶ 〇五月。﹁近江聖人墓参日記︵上︶﹂︵鉄華書院﹃陽明学﹄六十五号四−五頁。五月二十七日刊︶ 〇六月。﹁雪夜問答開題﹂︵鉄華書院﹃陽明学﹄六十六号七頁。六月二十二日刊︶ ﹁近江聖人墓参日記︵中︶﹂︵鉄華書院﹃陽明学﹄六十六号七ー八頁。巻末﹃日本之陽明学﹄広告。六月二十二 日刊︶ 〇七月。﹁天泉橋上の問答﹂︵鉄華書院﹃陽明学﹄六十七号五ー七頁。七月十二日刊︶ ﹁近江聖人墓参日記︵下︶﹂︵鉄華書院﹃陽明学﹄七ー九頁。巻末に﹃陽明学階梯﹄予告広告。七月十二日刊︶ 〇九月。﹁青年と禅学﹂︵鉄華書院﹃陽明学﹄七十号一頁。中間に﹃日本之陽明学﹄広告。九月十六日刊︶ 〇十月。﹃陽明学階梯﹄広告︵鉄華書院﹃陽明学﹄七十二号裏表紙。十月二十日刊︶ 〇十一月。﹃陽明学階梯﹄広告︵鉄華書院﹃陽明学﹄七十三号裏表紙。十一月五日刊︶ ﹃陽明学階梯﹄広告︵鉄華書院﹃陽明学﹄七十四号巻末。十一月二十日刊︶ 169 高瀬武次郎年譜稿
〇十二月。﹃陽明学階梯﹄広告︵鉄華書院﹃陽明学﹄七十五号表紙裏。十二月二十日刊︶ 一九〇〇年。明治三十三年。庚子。三十三歳。 ﹃倫理珠塵﹄︵﹃高瀬博士還暦記念支那学論叢﹄所収﹁高瀬博士著述目録﹂︶ 〇一月。﹃陽明学階梯﹄広告︵鉄華書院﹃陽明学﹄七十六号表紙裏。一月六日刊︶ 〇二月。﹃陽明学階梯﹄広告︵鉄華書院﹃陽明学﹄七十七号表紙裏。二月二十日刊︶ ﹃陽明学階梯﹄広告︵鉄華書院﹃陽明学﹄七十八号表紙裏。二月二十日刊∀ 九〇一年。明治三十四年。辛丑。三十四歳。 ↓九〇二年。明治三十五年。壬寅。三十五歳。 〇五月。﹃楊墨哲学﹄。︵﹃高瀬博士還暦記念支那学論叢﹄所収﹁高瀬博士著述目録﹂︶ 七月。﹃先秦諸子哲学︵学位論文︶﹄︵﹃高瀬博士還暦記念支那学論叢﹄所収﹁高瀬博士著述目録﹂︶ 一九〇三年。明治三十六年。癸卯。三十六歳。 一九〇四年。明治三十七年。甲辰。三十七歳 ﹃王陽明詳伝﹄︵﹃高瀬博士還暦記念支那学論叢﹄所収﹁高瀬博士著述目録﹂︶ 一九〇五年。明治三十八年。乙巳。三十八歳。 一九〇六年。明治三十九年。丙午。三十九歳。 〇三月。﹁陸象山論﹂︵﹃王学雑誌﹄一巻一号。六ー八頁。三月二十五日刊︶ 〇四月。﹁陸象山論︵承前︶﹂︵﹃王学雑誌﹄一巻二号。三ー八頁。四月十五日刊︶ 〇五月。﹁陸象山論︵承前︶﹂︵﹃王学雑誌﹄一巻三号。五ー六頁。五月十五日刊︶ 170
一九〇七年。明治四十年。丁未。四十歳。 〇二月。﹁陽明先生の謄略﹂︵﹃王学雑誌﹄↓巻十二号。七頁。二月十五日刊︶ 〇四月。四月十一日。﹃日本之陽明学﹄改訂版﹁例言﹂。四月二十二日印刷。二十八日発行。榊原文盛堂。定価金 六十五銭。 〇七月。﹁京都帝国大学文科大学助教授二任ゼラル。此秋ヨリ大阪洗心洞学会ノ講師ト為リ、毎月第三日曜日二 出講シ、今日二至ル﹂。︵﹃鼓腹集﹄巻末﹁拙著目録﹂︶ 一九〇八年。明治四十一年。戊申。四十一歳。 〇五月。陽明学会評議員。︵陽明学会﹃陽明学﹄一号。﹁陽明学会主意書﹂。五月一日刊︶ 〇六月。﹁致良知主義を普及する方法﹂︵﹃王学雑誌﹄三巻四号。三1四頁。六月二十一日刊︶ 一九〇九年。明治四十二年。己酉。四十二歳。 〇一月。﹁庭世法と陽明学﹂︵陽明学会﹃陽明学﹄三号。八ー十頁。一月一日刊︶ 〇二月。﹁慮世法と陽明学︵承前︶﹂︵陽明学会﹃陽明学﹄四号。二ー四頁。二月一日刊︶ 〇三月上旬。﹃老荘哲学﹄序。﹁洛北下鴨に於て 慢軒譲﹂。三月二十日印刷。二十五日発行。榊原文盛堂。定価 金壼円弐拾銭。 〇六月一日。﹃老荘哲学﹄寄贈。︵陽明学会﹃陽明学﹄八号﹁寄贈書目﹂﹁嚢きに楊墨哲学を著はせる氏は、今亦本書を 世に公にせり。専ら東洋哲学を攻め、其の造詣を以て老荘の深遠玄妙の思想を縦横論評せるもの、学者一読せざ るべからず。﹂六月一日刊︶ 〇七月。﹁詠大塩中斎先生。明治四十二年七月作︵漢詩一首︶﹂︵﹃鼓腹集﹄一ー三頁︶ 171 高瀬武次郎年譜稿
七月。﹁大塩中齋先生を詠す︵明治四十二年己酉七月作︶﹂︵﹃天泉鼓腹集﹄二百五十四ー二百五十五頁︶ 七月。﹁日名静一君業成帰郷賦贈。明治四十二年七月中旬作︵漢詩一首︶﹂︵﹃鼓腹集﹄三頁︶ 〇八月一日。﹁題自著霊魂滅否論後。明治四十二年八月一日作︵漢詩↓首︶﹂︵﹃鼓腹集﹄三1四頁︶ 八月。﹁四條納涼。明治四十二年八月上旬戯作、贈朝永三十郎君︵漢詩一首︶﹂︵﹃鼓腹集﹄四頁︶ 八月。﹁嵐峡雑詠之一。明治四十二年八月中旬︵漢詩一首︶﹂︵﹃鼓腹集﹄五頁︶ 八月二十五日。﹁和刈谷無隠居士韻詠嵐峡。明治四十二年八月二十五日︵漢詩一首︶﹂︵﹃鼓腹集﹄五頁︶ 八月二十六日。﹁和刈谷無隠翁詩韻詠諸葛孔明。明治四十二年八月二十六日︵漢詩一首∀﹂︵﹃鼓腹集﹄五1六頁︶ 八月二十七日。﹁和刈谷翁詩韻、賦蝉丸授秘曲於博雅。明治四十二年八月二十七日作︵漢詩一首︶﹂︵﹃鼓腹集﹄ 六頁︶ 八月二十八日。﹁和刈谷無隠翁試韻、詠聖人陳察之厄。明治四十二年八月二十八日作、翁時住於洛寺町今出川 立本寺前町︵漢詩一首︶﹂︵﹃鼓腹集﹄六ー七頁︶ 八月。﹁葵橋。明治四十二年八月下旬作。余時住於洛北下鴨、糺林而近葵橋︵漢詩一首︶﹂三鼓腹集﹄七ー八頁︶ 八月三十日。﹁和刈谷翁詩韻、詠卓文君。明治四十二年八月三十日作︵漢詩一首︶﹂︵﹃鼓腹集﹄八頁︶ 一九一〇年。明治四十三年。庚戌。四十三歳。 〇八月。﹁壽碩果、南條文雄博士還暦。明治四十三年八月中潜作︵漢詩一首︶﹂︵﹃鼓腹集﹄八ー九頁︶ 〇九月十一日。二十八回定例講演会にて高瀬﹁抜本塞源論﹂﹁和歌山みやげ話﹂。︵﹃陽明﹄四号八頁。十月五日刊︶ 〇十月。﹁垂誕三千丈﹂︵﹃陽明﹄四号二頁。十月五日刊︶ ﹁前号短評﹂︵﹃陽明﹄四号六頁。十月五日刊︶ 172
十月九日。西区土佐堀会館にて二十九回講演会。高瀬・倉田講師。予告。︵﹃陽明﹄四号八頁。十月五日刊︶ 十月三十 日発信。﹁京だより﹂︵﹃陽明﹄五号六頁。十一月五日刊︶ 〇十一月。﹁如何にして講友を求むべきか﹂︵﹃陽明﹄五号二頁。十↓月五日刊︶ 十一月末執筆。﹁陽明学者に御贈位﹂︵﹃陽明﹄六号三頁。十二月五口刊︶ 十一月十三日。西区土佐堀会館にて三十回講演会。高瀬・倉田講師。︵﹃陽明﹄六号四頁。十二月五日刊︶ 〇十二月十一日。西区土佐堀衛生会館にて三十↓回陽明学講莚。高瀬・倉田講師。忘年会予告︵﹃陽明﹄六号八頁。 十二月五日刊︶ 一九一一年。明治四十四年。辛亥。四十四歳。 ○↓月二十一日。三十二回陽明学講莚︵第四日曜︶高瀬・倉田講師。新年会予告。︵﹃陽明﹄七号八頁。↓月五日刊︶ 〇二月十二日。﹁二月陽明学講莚。午後一時土佐堀衛生会館。各講師出席如例﹂︵﹃陽明﹄八号八頁。二月五日刊︶ 〇三月。﹁陽明学派と浪人会﹂︵﹃陽明﹄九号一頁。三月五日刊︶ 三月十二日。﹁三月陽明学講莚︵三十三回︶。午後一時土佐堀衛生会館。高瀬﹁伝習録講義﹂倉田﹁王陽明詩 文﹂石崎﹁陽明以前の王学﹂予告。︵﹃陽明﹄九号八頁。三月五日刊︶。﹃陽明﹄十号八頁︵四月五日刊︶に実 施報告。 〇四月九日。﹁四月陽明学講莚︵三十五回例会︶自九日午後一時於土佐堀会場。各講師出席会員談話思ひ思ひ﹂予 告︵﹃陽明﹄十号八頁。四月五日刊︶ 〇五月。﹁高瀬博士来簡﹂︵陽明学会﹃陽明学﹄三十一号。五月一日刊︶ 五月。慢軒抄録コ斎の中斎評﹂︵﹃陽明﹄十一号二頁。五月五日刊︶ 173 高瀬武次郎年譜as
五月十四日。土佐堀会場にて三十六回講演会。高瀬﹁伝習録講義黄修易録﹂︵﹃陽明﹄十二号三頁。六月五日刊︶ 〇六月。﹁葵橋詠﹂︵漢詩︶高瀬の写真掲載。︵﹃陽明﹄十二号三頁。六月五日刊︶ 六月十一日。﹁六月陽明学講莚︵三十七回例会︶﹂予告。︵﹃陽明﹄十二号八頁。六月五日刊︶。﹃陽明﹄二巻一号三 頁︵七月五日刊︶に実施報告。 六月二十三日執筆。石崎東国宛て書簡﹁会気一新熱望仕候﹂︵﹃陽明﹄二巻一号三頁。七月五口刊︶ 〇七月九日︵第二日曜日︶午後一時より土佐堀衛生会館にて﹁七月陽明学講錘︵第三十八回︶高瀬﹁伝習録講義﹂ 予告。︵﹃陽明﹄二巻一号八頁。七月五日刊︶。﹃陽明﹄二巻二号八頁︵八月五日刊︶に実施報告。 七月二十二日執筆。石崎東国宛て書簡﹁高瀬博士より﹂︵﹃陽明﹄二巻二号五頁。八月五日刊︶ 〇八月十日。﹁弱浦夏夜即事。明治四十四年八月十日作︵漢詩一首︶﹂︵﹃鼓腹集﹄九頁︶ 八月中旬。﹁和歌浦所感。明治四十四年八月中旬作︵漢詩一首︶﹂︵﹃鼓腹集﹄九頁︶ 〇九月十七日。成正寺にて﹁大塩家先螢掃苔報告祭﹂予告。︵﹃陽明﹄二巻三号八頁。九月五日刊︶。﹃陽明﹄二巻四 号三・四頁︵十月五日刊︶に実施報告。高瀬、書画輻法帖書籍多数出陳。 〇十月十二日。﹁高瀬博士留学﹂記事全文﹁本会講師たる京都大学助教授文学博士高瀬慢軒先生には十月十日位 一級を進めて従五位に昇叙せられたるが同十二日を以て支那哲学研究の為め清国、独、英三ヶ国に三ヶ年 間留学を命ぜられたり﹂︵﹃陽明﹄二巻五号五頁。十一月五日刊︶ 〇十一月十二日。﹁陽明学講莚十一月十二日午後一時土佐堀会場に於て高瀬博士倉田老子出席講演入場御随意﹂ 予告。︵﹃陽明﹄二巻五号八頁。十一月五日刊︶ 〇十二月。秋山青渓﹁呈高瀬博士書﹂︵﹃陽明﹄二巻六号二頁。十二月五日刊︶ 174
十二月十七日︵第三日曜日︶﹁陽明学講莚︵兼忘年会︶﹂予告。︵﹃陽明﹄二巻六号八頁。十二月五日刊︶ 一九一二年。明治四十五年。壬子。四十五歳。 〇一月。依知川敦﹁送怪軒高瀬博士留学序﹂︵﹃陽明﹄二巻七号四頁。一月五日刊︶ 一月十四日︵第二日曜日︶。陽明学会例会の後、﹁高瀬博士送別会﹂。竹公羽﹁高瀬博士送別会記事﹂。青木斌 ﹁送高瀬博士遊干海外﹂。倉田績﹁高瀬博士をおくり奉りて﹂。﹁高瀬博士送別紀会﹂写真。︵﹃陽明﹄二巻八 号五頁。二月五日刊︶ 一月十五日。石崎酉之允・大阪陽明学会会員各位宛高瀬の書簡﹁着実穏健に永遠に道友を求るそ吾党が王先生 に学ぶ所と存候﹂︵﹃陽明﹄二巻八号六頁。二月五日刊︶ 〇二月。﹁高瀬博士留学記念号﹂高瀬の写真掲載。︵﹃陽明﹄二巻八号一頁。二月五日刊︶ 鈴木豹軒﹁奉送慢軒高瀬博士学遊清独英三国︵辛亥十二月二十四日稿︶﹂︵﹃陽明﹄二巻八号二頁。二月五日 刊︶ 二月。﹃陽明学階梯﹄紹介。︵﹃陽明﹄二巻八号三頁。二月五日刊︶ 二月。林梅哉﹁人格之士高瀬博士を送る﹂︵﹃陽明﹄二巻八号七頁。二月五日刊︶ 二月九日執筆。石崎東国宛て書簡﹁高瀬博士書簡﹂︵﹃陽明﹄二巻九号六頁。三月五日刊︶ 二月十八日︵第三日曜日︶﹁陽明学講莚﹂予告。高瀬は二十九日神戸解績。高瀬留学中は倉田績が﹃伝習録﹄講 義を担当。︵﹃陽明﹄二巻八号八頁。二月五日刊︶。 二月二十八日﹁出発。清、英、独、米ノ四ケ国二留学シ、大正四年三月帰国シ、教授二任ゼラル。支那哲学史 ヲ教授ス。﹂︵﹃鼓腹集﹄巻末﹁拙著目録﹂︶。 175 高瀬武次郎年譜稿
〇三月。門脇三徳﹁送高瀬博士之遊学﹂︵﹃陽明﹄二巻九号三頁。三月五日刊︶ 三月。大江文城﹁奉送怪軒高瀬先生遊支那国蕪詩五章﹂︵﹃陽明﹄二巻九号六頁。三月五日刊︶ 三月。工藤久吉﹁高瀬博士の海外留学を送り奉りて﹂︵﹃陽明﹄二巻九号六頁。三月五日刊︶ 三月。石崎東国﹁高瀬博士お見送りの記﹂︵﹃陽明﹄二巻九号六頁。三月五日刊︶ 三月。依知川朝陽﹁高瀬博士記念号﹂︵﹃陽明﹄二巻九号八頁。三月五日刊︶ 三月五日執筆。石崎東国・若林菱宛て書簡﹁高瀬博士消息﹂︵﹃陽明﹄二巻十号五頁。四月五日刊︶ 〇四月二日執筆。大阪陽明学会会員諸君宛書簡﹁高瀬博士消息︵第二信︶﹂︵﹃陽明﹄二巻十一号四頁。五月五日刊︶ 〇五月六日。北京発信﹁高瀬博士消息︵其三︶﹂︵﹃陽明﹄二巻十二号八頁。六月五日刊︶ 〇七月。編集部屋雑記﹁中華民国留学中なる高瀬先生よりは本号締切りまでに消息見へ吾等よりも御無沙汰をし て居るのが第一に心に苦しく感ずる﹂︵﹃陽明﹄二巻十三号八頁。七月五日刊︶ 七月三十日。﹁大正﹂に改元。 一九一三年。大正二年。癸丑。四十六歳。 〇四月二十六日。餓桃城に遊び、王陽明先生祠堂塑像を将来する。︵﹃陽明﹄六十三号。大正六年四月五日刊︶ 四月二十五日午後四時半。上海十六舗鳴頭より汽船寧紹号に寧波に向けて出帆。 四月二十六日午前六時。寧波着。中村旅館にて休憩の後、午前九時、小蒸気船にて鯨銚行き。船中にて予備調 査、上陸後に実地調査。 四月二十七日。餓挑王陽明遺跡調査。北京語全く通ぜず。 四月二十八日。午前八時、鯨桃を解績し午後○時半寧波到着。︵以上は陽明学会﹃陽明学八十一号﹄﹁鹸銚日記﹂。 176
七月]日刊に由る。︶ 〇五月十九日。夜九時。日清汽船の大貞丸に乗りる。 五月二十日。○時三十分、上海出帆。江西省盧山旅行。長尾雨山・伊藤鴛城・杉野憐山同行。通州・江陰を経 て午後十時、鎮江の丹徒縣に到着。 五月二十一日。午前六時下関に達す。長江を遡航。︵以上陽明学会﹃陽明学﹄八十三号﹁庶山紀行﹂。大正四年九月 一日刊︶ 五月二十二日。長江遡航。午後四時。九江港着。 五月二十三日。盧山観光。 五月二十四日。周謙渓の墓に参詣。午後6時に九江に帰着。︵以上陽明学会﹃陽明学﹄八十四号﹁盧山紀行﹂。大 正四年十月一日刊︶ 五月二十五日。蠕子︵駕篭︶にて盧山に登る。︵陽明学会﹃陽明学﹄八十五号﹁盧山紀行﹂。大正四年十一月 日刊︶ 五月二十六日。盧山山頂の来光。白鹿洞書院に一泊。 五月二十七日。白鹿洞書院内外参観︵以上陽明学会﹃陽明学﹄八十六号。大正四年十二月一日刊。八十七号大正五 年一月一日刊。八十八号大正五年二月一日刊。︶ 五月二十八日。盧山南麓の済勝寺に宿泊。 五月二十九日。東林寺・西林寺参観。午後五時九江の大元旅館に帰着︵以上陽明学会﹃陽明学﹄八十九号。大正五 年三月一日刊︶ 五月三十日。徳安城を参観して午後6時九江に帰着。 177 高瀬武次郎年譜稿
五月三十]日。午前九時、長尾雨山と南京に向かう。午後四時。蕪湖に着く。 〇六月一日。午前七時。南京着。午後六時半。上海着。長尾雨山と別かれる。︵以上陽明学会﹃陽明学﹄九十号。 対処五年四月一日刊︶ ﹁大正二年余訪先生干上海南陽里、時先生為余書論語言志章﹂︵﹃鼓腹集﹄百三十一頁﹁賀鄭蘇識先生﹂︶ 一九↓四年。大正三年。甲寅。四十七歳。 〇三月。﹁高瀬夫人来書﹂︵独逸の住所連絡︶︵﹃陽明﹄三巻二号二頁。三月二十日刊︶ 〇四月十日伯林発信。﹁高瀬博士来信﹂︵﹃陽明﹄三巻四号一頁。五月五日刊︶ 一九一五年。大正4年。乙卯。四十八歳。 〇二月四日。﹁高瀬博士帰朝期11一。﹃久闊多罪小生二月九日ロンドンを去り米国経由三月二十三日横浜着の豫定に て帰朝の途に就き可申候﹄大阪陽明学会︵会員諸君へ宜しく御風声願上候勿々。二月四日出高瀬博士通信ご ︵﹃陽明﹄四巻二号一頁枠外記事。三月五日刊︶ 〇三月。﹁高瀬博士帰朝︵幹事︶﹂︵﹃陽明﹄四巻二号四頁。三月五日刊︶ 三月二十二日。石崎東国﹁︵三月二十一日︶講莚記事﹂﹁終りに京都高瀬博士の帰朝が明後日であるといふこと から是非一つ歓迎会を遣らねばならぬといふ話に成つて、何れ日を期して具体的に計画することにして午 後五時ばかりに散会した、近来の盛会であつた﹂︵﹃陽明﹄四巻三号二頁。四月五日刊︶ 三月二十五日。﹁帰朝偶題。余自明治四十五年二月末、至大正四年三月末、三年間、遊学於清猫英米之四国 、 到庭戦乱勃発、而有血漂杵之惨、三月二十五日、無事帰洛、喜而賦所感﹂︵﹃鼓腹集﹄十頁︶ 〇五月。﹁西洋にも王陽明あり︵高瀬博士来翰︶﹂︵陽明学会﹃陽明学﹄七十九号。五月 日刊︶ 178
五月。﹁英国は王道、独逸は覇道︵倫敦日記の一節︶﹂︵﹃陽明﹄四巻四号一頁。五月五日刊︶ 五月。﹁高瀬博士歓迎は六月﹂︵﹃陽明﹄四巻四号四頁。五月五日刊︶ 五月二十八日。﹁除桃日記﹂を執筆︵陽明学会﹃陽明学﹄八十一号。七月一日刊︶ 〇六月二十日。天満成正寺にて﹁高瀬博士歓迎会﹂︵﹃陽明﹄四巻六号四頁。七月五日刊︶ 六月二十四日発信﹁高瀬博士礼状﹂︵﹃陽明﹄四巻六号四頁。七月五日刊︶ 〇七月。﹁支那飴挑石碑陽明先生真筆題字︵高瀬博士寄贈︶﹂︵陽明学会﹃陽明学﹄八十一号巻頭挿絵。高瀬鱒鋸像。七 月一日刊︶ 七月。﹁餓挑日記﹂︵陽明学会﹃陽明学﹄八十一号。七月一日刊︶ 七月十八日午後二時。陽明学会集会。高瀬博士倉田老師出講予告。︵﹃陽明﹄四巻六号四頁。七月五日刊︶。﹃陽 明﹄四巻七号四頁︵八月五日刊︶﹁本会講莚記事﹂にて実施報告。高瀬は﹃伝習録﹄徐愛録を講義。 七月二十四日 二十八日。伏見仏教青年会夏季講習会で陽明学の講莚の通知︵﹃陽明﹄四巻七号二頁﹁編輯部屋 通信﹂。八月五日刊︶ 〇八月十日1二十日。吉岡氏の泰西学館にて文芸同攻会の夏期講習会に講師依頼。︵﹃陽明﹄四巻七号二頁﹁編輯部 屋通信﹂。八月五日刊︶。﹁文芸上より見たる南華経﹂の論題で講莚した。︵﹃陽明﹄四巻八号四頁﹁編輯部屋通 信﹂。九月五日刊︶ 八月十五日。陽明学集会。高瀬博士倉田老師出講予告︵﹃陽明﹄四巻七号四頁。八月五日刊︶。﹃陽明﹄四巻八号 四頁︵九月五日刊︶﹁陽明学講莚記事﹂にて実施報告。高瀬は﹃伝習録﹄上巻の続きを講義。 〇九月。﹁盧山紀行﹂︵陽明学会﹃陽明学﹄八十三号。九月一日刊︶ 179 高瀬武次郎年譜稿
九月十九日。陽明学会講莚。高瀬博士倉田老師講演予告。︵﹃陽明﹄四巻八号四頁枠外。九月五日刊︶。﹃陽明﹄四 巻九号四頁︵十月五日刊︶﹁陽明学講莚記﹂にて実施報告。高瀬は﹃伝習録﹄徐愛録を講義した。 〇十月。﹁盧山紀行﹂︵陽明学会﹃陽明学﹄八十四号。十月一日刊︶ 十月。﹃縮刷陽明学新論﹄。序践なし。文盛堂書店。十月二十五日印刷。十月三十日発行。定価金壼円。﹁定価 金壼円参拾銭﹂の訂正印。 十月七日午後二時。陽明学講莚。高瀬博士伝習録、倉田老師古本大学講義の予告︵﹃陽明﹄四巻九号四頁枠外。 十月五日刊︶。﹃陽明﹄四巻十号四頁︵十一月五日刊︶﹁編輯部屋通信﹂にて実施報告。 〇十一月。﹁盧山紀行﹂︵陽明学会﹃陽明学﹄八十五号。十一月一日刊︶ 十一月二十一日午後一時。陽明学講演会。高瀬博士伝習録、倉田老師古本大学講義の予告。︵﹃陽明﹄四巻十号 四頁枠外。十一月五日刊︶。御即位式のため十一月二十八日に延期して行う。高瀬は欠席︵﹃陽明﹄四巻十一 号四頁︵十二月五日刊︶﹁編輯部屋通信﹂︶ 〇十二月。﹁盧山紀行﹂。︵陽明学会﹃陽明学﹄八十六号。十二月一日刊︶ 十二月十九日午後一時。高瀬博士伝習録、倉田老師古本大学講義の予告。︵﹃陽明﹄四巻十一号四頁。十二月五日 刊︶。﹃陽明﹄四巻十二号四頁︵大正五年一月五日刊︶の﹁講莚記事﹂に実施報告。高瀬は﹃伝習録﹄講義 と欧州観察談。 一九一六年。大正五年。丙辰。四十九歳。 〇一月。﹁盧山紀行﹂︵陽明学会﹃陽明学﹄八十七号。↓月一日刊︶ 一月十六日午後一時。陽明学講莚・新年会開催の予告。︵﹃陽明﹄四巻十二号四頁。]月五日刊︶。 180
〇二月。﹁盧山紀行﹂︵陽明学会﹃陽明学﹄八十八号。二月二日刊︶ 二月二十日午後一時。陽明学会講莚。高瀬博士伝習録、倉田老師古本大学講義の予告。︵﹃陽明﹄五巻一号四頁。 二月五日刊︶ 〇三月。﹁盧山紀行﹂︵陽明学会﹃陽明学﹄八十九号。三月一日刊︶ 三月十九日午後一時。陽明学会講莚。高瀬博士伝習録、倉田老師古本大学講義の予告。︵﹃陽明﹄五巻二号四頁。 三月五日刊︶。﹃陽明﹄五巻三号四頁︵四月五日刊︶の﹁編輯部屋通信﹂に実施報告。高瀬は出席。 〇四月。﹁盧山紀行﹂︵陽明学会﹃陽明学﹄九十号。四月一日刊︶ 四月十六日午後一時。陽明学会講莚。伝習録、古本大学、洗心洞笥記講義の予告。︵﹃陽明﹄五巻三号四頁枠外。 四月五日刊︶。同頁の﹁編輯部屋通信﹂で石崎は﹁︵印刷費値上がりで難儀だが︶それでも熱心な会員の遠方 にあつて激励され寄稿されるので痛癩を抑いて本誌は出して居るが高瀬博士などは東京陽明に腐る程の原 稿を遣て置きながら一向書きもせぬ、雑誌がツマラヌからか世間が恐いのか分らない﹂︵三月二十二日︶と いう。 〇五月。﹁王陽明先生の画を見る﹂︵陽明学会﹃陽明学﹄九十一号。五月一日刊︶ 〇五月二十一日午後一時。陽明学会講莚。伝習録、古本大学、洗心洞笥記講義の予告。︵﹃陽明﹄五巻四号四頁。 五月五日刊︶ 〇六月。﹁読書。大正五年六月、讃岐木田郡人、壷井流紅見示其詩、次韻酬謝﹂︵﹃鼓腹集﹄十頁︶ 六月十八日。大塩尚志建碑記念追悼会。高瀬出席。︵﹃陽明﹄五巻六号四頁。七月五日刊︶。 六月二十二日発信。石崎宛書簡﹁高瀬博士より﹂﹁拝復御端書落掌先日小生講演の手控有之候も極て粗なるも 181 高瀬武次郎年譜稿
のにて直に投稿覚束なく且又小生目下学年試業中にて論文審査至て多忙到底急の間に合兼候間整理の上と ても何時となるか確定難致に付左様御会知被下度候 頓首﹂︵二十二日︶。︵﹃陽明﹄五巻六号四頁。七月五日 刊︶ 〇七月。﹁大塩格之助ぬしの墓の成れるを祝してよめる﹂︵和歌一首︶︵﹃陽明﹄五巻六号一頁。七月五日刊︶ 七月。﹁孔孟学の将来﹂︵﹃陽明﹄五巻六号二頁。七月五日刊︶ 七月十六日午後一時。陽明学会講莚。伝習録、古本大学、洗心洞笥記講義の予告。︵﹃陽明﹄五巻六号四頁枠外。 七月五日刊︶。﹃陽明﹄五巻七号四頁︵八月五日刊∀の﹁編輯部屋通信﹂にて実施報告。高瀬は出席。 七月下旬。﹁識三奇一覧後。大正五年七月下旬作﹂︵﹃鼓腹集﹄十一頁︶ 七月二十九日。﹁追識。維大正四年十一月。今上陛下登極、時東涯先生浴贈位之聖恩、同年十一月二十八日、 其後喬執行贈位報告祭於堀川古義堂、式後開記念講演会於京都帝国大学文科大学支那学会、又展覧伊藤家 之遺實数十点於会館、此日紀州和歌山垂井氏亦齎其所珍蔵東涯先生真筆三奇一覧乾坤二巻、而陳列焉、観 者威称之以為趙壁 。大正五年七月二十九日。慢軒又識﹂︵﹃鼓腹集﹄十一ー十二頁︶ 創作月不明﹁自戒﹂︵﹃鼓腹集﹄十二頁︶ 〇八月。﹁読書﹂︵漢詩一首︶。︵﹃陽明﹄五巻七号四頁。八月五日刊︶ 八月二十日午後一時。陽明学会講莚。伝習録、古本大学、洗心洞笥記講義の予告。︵﹃陽明﹄五巻七号四頁。八月 五日刊︶。﹃陽明﹄五巻八号四頁︵九月五日刊︶の﹁編輯部屋通信﹂にて実施報告。﹁高瀬博士の伝習録佳興 に入り﹂と評す。 〇九月十五日発信石崎宛書簡﹁高瀬博士より﹂﹁拝啓三重県伊勢津市の旧家苛松︵或平杉か︶正篤︵欺︶氏は中斎 182
先生の書簡百通斗も所持せらるる由伝聞致候中斎先生研究に熱心なる貴兄は早く既に御承知かとも存候へ 共二三日前聞込候まま忘れざる内に一寸御聞に達し置候御調査被下度得る所不勘と察申候勿々不尽﹂︵九 月十五日︶︵﹃陽明﹄五巻九号四頁。十月五日刊︶ 九月十七日午後一時。陽明学会講莚。伝習録、中庸開講、洗心洞笥記講義の予告。︵﹃陽明﹄五巻八号四頁枠外。 九月五日刊︶。﹃陽明﹄五巻九号四頁︵十月五日刊︶の﹁編輯部屋通信﹂に実施報告。高瀬出席。 〇十月。﹁伊藤東涯と藤樹書院﹂︵陽明学会﹃陽明学﹄九十五号。十月一日刊︶ 十月。陽明学会講莚。天満成正寺。九︵十の誤植︶月十五日午後一時。高瀬博士伝習録、倉田老師中庸、石崎 東国洗心洞笥記講義の予告。︵﹃陽明﹄五巻九号四頁。十月五日刊︶。﹃陽明﹄五巻十一号四頁︵十二月五日刊︶ の﹁編輯部屋通信﹂にて実施報告。高瀬は出席。 〇十一月。﹁珍しき伝習録︵京都文化大学蔵︶﹂︵陽明学会﹃陽明学﹄九十六号。十一月一日刊︶ 〇十二月十七日午後一時。天満成正寺。陽明学講莚。高瀬博士伝習録、倉田老師中庸、石崎東国洗心洞笥記講義 の予告。︵﹃陽明﹄五巻十一号四頁。十二月五日刊︶ 一九一七年。大正六年。丁巳。五十歳。 〇一月二十一日午後一時。天満成正寺。定例講莚。高瀬怪軒伝習録講義、倉田何庵中庸講義、石崎東国洗心洞笥 記の予告。︵﹃陽明﹄六十号。 月五日刊︶。﹃陽明﹄六十一号︵二月五日刊︶の﹁編輯部屋通信﹂にて実施報 告。高瀬は出席。新年会開催。 〇二月。﹁物質文明と精神的文明﹂﹁怪軒苦談﹂︵﹃陽明﹄六十一号。二月五日刊︶ 二月十八日午後一時。陽明学講莚。高瀬武次郎伝習録講義。倉田績中庸講義、石崎東国洗心洞講論の予告。 183 ms瀬武次郎年譜稿
︵﹃陽明﹄六十一号。二月五日刊︶。﹃陽明﹄六十二号︵三月五日刊︶の﹁編輯部屋通信﹂にて実施報告。高瀬 は出席。 〇三月。﹁種々なる希望﹂﹁慢軒苦談﹂︵﹃陽明﹄六十三号。三月五日刊︶ 三月八日発信、石崎東国宛て書信﹁高瀬博士より﹂︵﹃陽明﹄六十三号。四月五口刊︶ 三月十八日午後一時。天満成正寺。陽明学講莚。高瀬武次郎伝習録講義、倉田績中庸講義、石崎東国洗心洞笥 記論の予告。︵﹃陽明﹄六十三号。三月五日刊︶。﹃陽明﹄六十三号﹁編輯雑記﹂にて実施報告。講義後に高瀬 が﹁心中論、情死論﹂を発題。 〇四月。﹁王陽明先生祠堂塑像︵大正二年四月二十六日。遊除挑城。高瀬慢軒博士将来︶﹂﹁収賄と良心﹂﹁孔子教国 教論﹂﹁帰太虚説の話﹂︵﹃陽明﹄六十三号。四月五日刊︶。 四月十五日午後一時。天満成正寺。陽明学講莚。高瀬武次郎伝習録講義、倉田績中庸講義、石崎東国洗心洞勧 記の予告。︵﹃陽明﹄六十三号。四月五日刊︶。﹃陽明﹄六十四号︵五月五日刊︶の﹁卓上備忘録﹂にて実施報 告。高瀬出席。 四月十五日の陽明学会﹃陽明学﹄百号記念会に高瀬は揮毫又は物品を寄附。但し記念会は渋沢の不都合で流 会。高瀬は不参加。︵陽明学会﹃陽明学﹄百一号。五月一日刊︶ 〇五月。﹁王陽明先生の教育意見﹂﹁東西習俗と心中論﹂︵﹃陽明﹄六十四号。五月五日刊︶ 五月二十日午後1時。天満成正寺。陽明学講莚。高瀬武次郎伝習録講義、倉田績中庸講義、石崎東国洗心洞勧 記の予告。︵﹃陽明﹄六十四号。五月五日刊︶。﹃陽明﹄六十五号︵六月五日刊︶の﹁編輯部屋通信﹂にて実施 報告。高瀬は出席。 184
〇六月。﹁教育勅語の十徳﹂﹁閑谷貴参観記﹂︵﹃陽明﹄六十五号。六月五日刊︶ 六月十七日午後一時。天満成正寺。陽明学講莚。高瀬武次郎伝習録講義、倉田績中庸講義、石崎東国洗心洞節 記の予告。︵﹃陽明﹄六十五号。六月五日刊︶。﹃陽明﹄六十六号︵七月五日刊︶の﹁編輯部屋通信﹂にて実施 報告。高瀬は出席。 〇七月﹁良知の知情意的作用﹂﹁慢軒苦談﹂︵﹃陽明﹄六十六号。七月五日刊︶ 七月十七日午後一時。天満成正寺。陽明学講莚。高瀬武次郎伝習録講義、倉田績中庸講義、石崎東国洗心洞笥 記の予告。︵﹃陽明﹄六十六号。七月五日刊︶。 〇八月。﹁北島雪山先生の巻尾に蹟す︵内題は﹁北島雪山先生を懐ふ﹂︶﹂。︵﹃陽明﹄六十七号。八月五日刊︶ 八月。八月定例講莚。高瀬武次郎伝習録講義、倉田績中庸講義、石崎東国洗心洞笥記の予告。︵﹃陽明﹄六十七 号。八月五日刊︶ 八月十九日。﹁題撫琴荘。大正六年八月十九日、與倉田何庵翁、坐湯於有馬温泉、而宿干森下博氏別業撫琴荘、 森下氏旧号撫屋、故用撫字﹂︵﹃鼓腹集﹄十二ー十三頁︶ 八月二十六日。﹁遊嵐山大悲閣︵行楽社︶。大正六年八月二十六日、與誠堂大江文城、洛東高橋芳、藤山新町徳 之、見山中熊直喜諸君、会於嵐山大悲閣︵此吟会実行楽社之濫膓也︶﹂﹁大悲閣上即興﹂﹁大悲閣小集聯句﹂ ﹁次大江誠堂韻﹂︵﹃鼓腹集﹄十三ー十四頁︶ 〇九月。﹁顧維賢の巻に書す﹂︵﹃陽明﹄六十八号。九月五日刊︶ 九月。九月定例講莚の予告。毎月第三日曜日午後一時。天満成正寺。高瀬・倉田・石崎講義。︵﹃陽明﹄六十八号。 九月五日刊︶ 185高瀬武次郎年譜稿
〇十月。﹁﹃我国の徳育と孔子教﹄に就ての問答﹂︵三島復との問答︶。﹁丁巳初秋会諸友遊嵐峡大悲閣途上﹂︵漢詩 一首︶。﹁山中有作次韻﹂︵漢詩一首︶︵﹃陽明﹄六十九号。十月五日刊︶ 十月。十月定例講莚の予告。高瀬・倉田・石崎講義。︵﹃陽明﹄六十九号。十月五日刊︶ 〇十一月。﹁陽明学と周易﹂﹁鹿川・誠堂・不鳴三君に答ふ﹂︵三君の質問書簡を並載︶。﹁編輯部屋通信﹂にて高瀬の 執筆事情を東国が説明。︵﹃陽明﹄七十号。十一月五日刊︶ 十一月。十一月定例講莚の予告。︵﹃陽明﹄七十号。十]月五日刊︶ 〇十二月。﹁赤塚芸庵と朱王学派﹂︵﹃陽明﹄七十一号。十二月五日刊︶ 十二月定例講錘の予告。︵﹃陽明﹄七十一号。十二月五日刊︶ 一九一八年。大正七年。戊午。五十一歳。 〇一月。﹁新年所感﹂﹁国民道徳﹂︵﹃陽明﹄七十二号。一月五日刊︶ 一月一日。﹁内部生活︵大正七年一月一日北国新聞掲載︶﹂。後に﹃陽明・王義﹄九十五号︵大正八年十二月五日刊︶ に転載 一月二十日定例講莚︵新年会︶の予告︵﹃陽明﹄七十二号。一月五日刊︶。﹃陽明﹄七十三号﹁編輯部屋通信﹂にて 実施報告。 一月十六日。文学博士高瀬高瀬武次郎校閲﹃藤樹先生﹄序。大正七年八月二十三日印刷。滋賀県高島郡教育会 発行。 〇二月。﹁一陽来復﹂︵陽明学会﹃陽明学﹄百十号。二月一日刊︶ 二月。﹁私淑と同化﹂︵﹃陽明﹄七十三号。二月五日刊︶ 186
二月。﹃陽明﹄七十三号︵二月五日刊︶﹁編輯部屋通信﹂にて高瀬の大塩新資料提供を報告。 〇三月。﹁王陽明先生真蹟︵高瀬武次郎氏珍蔵︶﹂﹁易学勤王論﹂﹁掘出物記﹂︵﹃陽明﹄七十四号。三月五日刊︶ 〇四月。﹁観桜訓﹂﹁掘出物記正誤﹂﹁高瀬慢軒氏より︵二十四日京都下鴨︶﹂︵﹃陽明﹄七十五号。四月五日刊︶ 四月十四日。吉野山喜蔵院の﹁蕃山先生歌碑前﹂にて記念撮影︵﹃陽明﹄七十五号の巻頭に写真掲載。五月五日 刊︶。霊前に﹁蕃山先生年譜﹂﹁蕃山先生考﹂を供え、蕃山先生事蹟に関する講話︵﹃陽明﹄七十六号。東国 ﹁吉野蕃山会記﹂。五月五日刊︶ 四月十五日、石崎宛に書信﹁高瀬博士より﹂︵﹃陽明﹄七十六号。五月五日刊︶ 四月二十七日。柴田虎三郎氏、﹁王陽明先生燕居観潮図﹂を携え来訪︵﹃陽明﹄七十八号。高瀬﹁陽明先生燕居観 潮図﹂。七月五日刊︶。 〇五月。﹁王陽明先生の博愛﹂﹁腰折れ﹂︵和歌四首︶︵﹃陽明﹄七十六号。五月五日刊︶ 五月二十三日、石崎宛に書信﹁高瀬慢軒氏より﹂︵﹃陽明﹄七十七号。六月五日刊︶ 〇六月。﹁献身論﹂︵﹃陽明﹄七十七号。六月五日刊︶ 〇七月。﹁陽明主義清談﹂﹁陽明先生燕居観潮図﹂︵﹃陽明﹄七十八号。七月五日刊︶ 七月。﹁近江聖人と其母﹂を投稿。次号まわし。︵﹃陽明﹄七十八号﹁編輯部屋通信﹂。七月五日刊︶ 七月中涜。﹁米騒動﹂︵﹃鼓腹集﹄。十四ー十五頁︶ 〇八月。﹁近江聖人と其母︵挿絵藤樹書院全景︶﹂︵﹃陽明﹄七十九号。八月五日刊︶ 八月二十五日。﹃藤樹先生﹄発行。九月二十八日再版発行。十二月五日三版発行。滋賀県高島郡教育界発行。 八月三十一日。詩仙堂にて漢詩会参加。︵﹃陽明﹄八十号。九月五日刊︶。この時の聯句会については﹃陽明﹄八 187 高瀬武次郎年譜稿
十一号︵十月五日刊︶がより詳細。 八月三十一日。﹁訪詩仙堂。大正七年八月戊午三十一日、與久保桧谷、大江誠堂、寺町愛山、新町藤山、高橋 洛東、同訪洛北詩仙堂、終日吟峨、詩仙堂石川丈山先生隠棲之遺跡也︵行楽社第二回吟集也︶﹂︵﹃鼓腹集﹄ 十五ー十六頁︶ 〇九月。﹁順応と逆流﹂﹁大正戊午八月中涜米穀騒動起追懐大塩中斎先生義挙慨然賦之﹂﹁大正七年戊午秋文学士 佐藤廣治君当上野奨学財団留学生之選将遊萬域欣然賦此送﹂﹁詩仙堂小集﹂︵﹃陽明﹄八十号。九月五日刊︶ 九月中涜。﹁送佐藤君。大正戊午年秋九月中涜、文学士佐藤宏治君遊学於禺域、賦此以送之﹂︵﹃鼓腹集﹄十六 頁︶ 九月下旬。﹁近江聖人画像。大正七年戊午九月下旬。後学慢軒高瀬武識﹂︵﹃鼓腹集﹄十六ー十七頁︶ 九月。﹃陽明﹄八十号﹁編輯部屋通信﹂に﹁息遊軒遺蹟﹂題字を揮毫済みと記す。 九月中涜。﹁賀洗心洞再興。大正七戊午秋九月中涜、賀洗心洞再興、当初明治四十年秋九月有志青謀継承大塩 中斎先生之遺志、而設立洗心洞学会 。至大正七年、紛議起而解散焉。余為之講師将三十年、毎月第三日 曜日講伝習録而循環不止也﹂︵﹃鼓腹集﹄十八ー十九頁︶ 〇十月四日。石崎宛に書信﹁高瀬博士より﹂二陽明﹄八十二号。十一月五日刊︶ 十月。﹁禅学と陽明学﹂﹁過詩仙堂﹂︵漢詩一首︶﹁詩仙堂聯句︵漢詩︶﹂︵﹃陽明﹄八十一号。十月五日刊︶ 十月初冬。﹁賀致仕。大正七年戊午初冬、祝白崖中山親和氏致仕、中山君京都帝国大学事務官也﹂︵﹃鼓腹集﹄ 十七ー十八頁︶ 十月二十日。天満成正寺にて陽明学会例会開催。そののち午後三時より財団法人洗心洞文庫報告会。この席 188
上、高瀬が﹁洗心洞文庫﹂という名称が不適切であるという疑義を提案。石崎の答弁有り。︵﹃陽明﹄八十 三号。﹁財団法人洗心洞記事﹂。十二月五日刊︶。発起人・理事・寄付者に高瀬の名が見えない。この頃から両人 の間に隙間風が吹き始めたのか。 〇十一月。﹁送佐藤学士留学萬域︵漢詩 首︶﹂︵陽明学会﹃陽明学﹄百十八号。十一月一日刊︶ 十一月。﹁陽明学一夕話﹂﹁息遊軒趾建碑日和漠㊥青木氏韻﹂︵漢詩一首︶﹁大正七年戊午九月中院祝洗心洞復興﹂ ︵漢詩一首︶︵﹃陽明﹄八十二号。十一月五日刊︶ 十一月十四日。﹁宇宙小観﹂執筆。︵﹃陽明﹄八十三号。十二月五日刊︶ 十一月十五日。石崎宛に書信﹁高瀬博士より﹂︵洗心洞と大阪陽明学会の名称の関係について意見を述べる︶︵﹃陽 明﹄八十三号。十二月五日刊︶ 十一月三十日。京都大学読史会にて大塩中斎関係品を陳列。高瀬も出品︵﹃陽明﹄八十三号。﹁第九回読史会記念 大会陳列品目録﹂。十二月五日刊︶ 〇十二月。﹁宇宙小観︵大正七年十一月十四日欧州大戦の休戦祝賀日之を草す︶﹂︵﹃陽明﹄八十三号。十二月五日刊︶ 十二月。﹁編集部屋通信﹂にて﹃大塩中斎先生年譜﹄﹃洗心洞外集﹄の原稿は石崎の手を離れたが、洗心洞文庫 設立に忙殺されて発行できなかった。高瀬が尽力している旨を述べる。︵﹃陽明﹄八十三号。十二月五日刊︶ 十二月二十九日。﹁忘年会︵行楽社︶。大正七戊午念九、行楽社同人会於洛陽寺町十念精舎、行楽社名始於此日 ︵行楽社第三会也︶此日会者鈴木豹軒、久保桧谷、曽田静庵、大江萬里、新町藤山、諸君及余也﹂︵﹃鼓腹 集﹄十九ー二十頁︶ 一九一九年。大正八年。己未。五十二歳。 189 高瀬武次郎年譜稿
〇一月一日。﹁朝晴雪。大正八己未年一月元旦、恭賦勅題朝晴雪﹂︵﹃鼓腹集﹄二十頁︶ 一月。﹁宇宙神霊論﹂﹁祝白崖中山氏致仕﹂︵﹃陽明主義﹄八十四号。一月五日刊︶ 一月十九日。洗心洞にて第一回開講。高瀬・倉田講義︵﹃陽明・王義﹄八十五号。﹁洞裏独語﹂。二月五日刊︶ 〇二月。﹁良知的宇宙観﹂︵﹁恭賦勅題朝晴雪﹂︵漢詩]首︶﹃陽明主義﹄八十五号。二月五日刊︶ 二月九日。﹁贈位報告。我亡友刈谷無隠居士、浴贈位聖澤、無隠居士少壮従勤王志士田丸直諒、挙兵於筑波山 下 。事敗而幕府追跡甚急、乃伴為商佑、或為雲水僧、猶欲糺合同志、而備嘗辛酸 。後深達禅理、又喜 陽明学、曾作述懐詩、有乱後英雄雨後花之句、昨秋被贈従五位、大正八年二月九日贈位報告祭日作此詩﹂ ︵﹃鼓腹集﹄二十ー二十一頁︶ 二月十六日。﹁陽明会には刈谷無隠居士の御贈位を紀念して高瀬博士と余と追懐談をした。楯間には居士の肖 像生けるが如く、博士が居士の発病一日前惇々軒小会の光栄を語つたのは興味深きものであつた﹂︵﹃陽明 主義﹄八十六号﹁洞裏読語﹂。三月五日刊︶ 二月二十六日。﹁鬼神臆見︵二月二十六日稿︶﹂執筆︵﹃陽明主義﹄八十六号。三月五日刊︶ 二月下旬。﹁追憶井上翁。大正八年四月下旬、於丹波亀岡、執行堰水井上半介翁十周年祭、賦此以贈焉、二月 下旬豫作﹂︵﹃鼓腹集﹄二十一頁︶ 二月二十八日。﹁祝詩。大正八年二月二十八日、祝尽誠中学公十周年、追懐大久保彦三郎先生、尽誠中学校在 讃岐多度郡善通寺町﹂︵﹃鼓腹集﹄二十一ー二十二頁︶ 〇三月。﹁鬼神臆見﹂﹁刈谷無隠翁追懐談﹂﹁祝毒誠中学創立十周年追懐久保彦三郎先生﹂︵漢詩一首︶﹁堰水井上 半介先生十周年祭日賦此為弔﹂︵漢詩一首︶﹁大正戊午十二月念九行楽社同人会於十念精舎﹂︵漢詩一首︶ 190
三陽明主義﹄八十六号。三月五日刊︶ 三月二日。﹁贈伊藤君。大正八年己未春三月初二、伊藤太郎君自勢州来訪余於洛北下鴨寓、会談少時、余有所 感、乃録王陽明先生淀海詩、且附記以四言古詩八句、請熟覧云爾﹂︵﹃鼓腹集﹄二十三頁︶ 〇四月。﹁太乙︵内題は一︶神論﹂︵﹃陽明主義﹄八十七号。四月五日刊︶ 四月二日。﹁弔何庵倉田先生。何庵先生少壮志武、長而従佐藤一斎、受桃江良知学、垂帷於南海四十鹸年、門 人数千人、又達国典、為竃山神社祠官、輸董璽錬凌壮者、至九十講学不倦、鶴髪童顔、音吐朗々、抑揚緩 急、能動人而特致意於敬神尊皇愛国之大義 、終生喫菜食、未曾飲酒啖肉、曳杖遊行、足跡遍天下、大正 八年四月二日卒、享年九十三歳﹂︵﹃鼓腹集﹄二十ニー二十三頁︶ 四月七日。﹁登望海楼。大正八年己未春四月初七、與垂井清右衛門岡部某二君、遊於新和歌浦望海楼、席上口 占﹂︵﹃鼓腹集﹄二十三頁︶ 四月二十日。﹁祝息遊軒遺趾碑竣功﹂二陽明主義﹄八十八号。五月五日刊︶。この式典で﹃孝経﹄を捧読し祝辞を 述べる︵﹃陽明主義﹄八十八号﹁息遊軒遺趾碑除幕記︵東国生ご。五月五日刊︶ 四月二十日。﹁詠月歌碑。大正七年秋、建蕃山熊沢先生詠月歌碑於播州明石城北泰山寺息遊軒遺跡、八年四月 二十日、執行除幕式﹂︵﹃鼓腹集﹄十八頁︶ 四月二十五日。﹁贈岡村閑翁先生。閑翁今年九十有三歳、以陽明学之書宿、寓於大和生駒山瀧寺、不出山四十 除年。然遠近慕其徳而求謁者、毎日不下数人云。余未曾面曙。頃日與余書日、生駒山以杜鵠有名、請一遊 聴焉。乃賦此贈之、時大正八年四月二十五日也﹂︵﹃鼓腹集﹄二十三ー二十四頁︶ 〇五月。巻頭﹁息遊軒遺趾﹂題字。﹁天命論﹂﹁祝息遊軒建碑︵高瀬勝子・和歌]首︶﹂﹁弔何庵倉田先生﹂﹁贈岡村 191 高瀬武次郎年譜稿
閑翁先生︵漢詩一首︶﹂﹁春日與友人遊紀州新和歌浦︵漢詩一首︶﹂︵﹃陽明主義﹄八十八号。五月五日刊︶ 五月十八日。例会。高瀬の講義の後。倉田先生追悼会。高瀬は追悼講演︵﹃陽明主義﹄八十九号﹁洞裏独語﹂。六 月五日刊︶ 五月十八日。﹁弔辞︵何庵倉田先生弔悼記事︶﹂﹁追悼三島中洲先生︵己未五月十八日倉田何庵三島中洲二先生追悼会 席上口占次洪碗青木氏韻︶﹂︵﹃陽明主義﹄八十九号。六月五日刊︶ 五月十八日。﹁追悼何庵中洲二先生。大正八年四月二日、何庵倉田先生卒年九十三、翌五月十三日中洲三島先 生卒年九十一。五月十八日於大阪洗心洞。開二先生追悼会。席上口占。次漠碗青木重斌氏詩韻、岡村閑翁 先生時年九十三、陽明学会三老大家失其二﹂︵﹃鼓腹集﹄二十四ー二十五頁︶ 五月中旬。﹁亀甲紋。大正八年五月中旬、生軒吉田諮君発見亀甲四十九紋、賦此贈之﹂︵﹃鼓腹集﹄二十五頁︶ 五月下旬。﹁贈静庵曽田文甫君。大正八年五月下旬作﹂︵﹃鼓腹集﹄二十五頁︶ 〇六月。﹁道一論﹂﹁吉田生軒君発見亀甲四十九紋賦此贈之︵漢詩一首︶﹂ ﹁贈静観曽田文甫君︵漢詩一首︶﹂︵﹃陽明 主義﹄八十九号。六月五日刊︶ 六月一日。 洛東、 六月四日。 六月五日。 六月六日。 六月六日。 ﹁遊嵐山。大正八年六月初一 行楽社同人会於嵐峡洗心閣、席上口占二首、此日会者豹軒、桧谷、 余及精華耳︵行楽社第四回吟会也︶﹂︵﹃鼓腹集﹄二十六頁︶ ﹁送京都大学畢業生。大正八年六月二日作﹂︵﹃鼓腹集﹄二十六ー二十七頁︶ ﹁贈岡村閑翁先生。大正八月六月初五作﹂︵﹃鼓腹集﹄二十七頁︶ ﹁六月初六見羅振玉氏述懐詩有感乃次韻﹂︵﹃陽明主義﹄九十号。七月五日刊︶ ﹁弔甫水博士。大正八年六月六日、東洋大学創立者、仏教界曉将、妖怪研究者甫水、井上圓了先生 192
逝去於萬域大連客舎賦此以弔焉、余十年間為東洋大学講師﹂︵﹃鼓腹集﹄二十八頁︶ 六月八日。洗心洞財団評議会。高瀬は評議員として出席。﹁高瀬博士は従来博士の講席を立てる自家の立場を 説明して真摯の意見を述ぶる所あり﹂︵﹃陽明主義﹄九十号﹁洗心洞財団記事﹂。七月五日刊︶ 六月十一日。﹁己未六月念一設雪堂羅振玉先生祖莚於東山左阿弥楼席上口占﹂︵﹃陽明主義﹄九十号。七月五日刊︶ 六月十四日。生駒に岡村閑翁を訪問。石崎が高瀬・森下を案内。旧知の森山・吉田.池田が同道︵﹃陽明主義﹄ 九十号﹁閑翁訪問記︵上︶﹂。﹁洞裏独語﹂。七月五日刊︶ 六月十四日。﹁與同志訪閑翁先生於生駒山﹂﹁題閑翁先生写真﹂︵﹃陽明主義﹄九十号。七月五日刊︶ 六月十四日。﹁訪岡村閑翁先生。大正八年六月十四日、浪華洗心洞同志十一人同訪、別有閑翁訪問記、先生陽 明学者也、時年九十三﹂︵﹃鼓腹集﹄二十九頁︶ 六月十五日。﹁次羅氏詩韻。大正八年六月初六、見羅振玉氏述懐詩干大阪毎日新聞紙上、有感乃次韻以贈、時 六月十五日也。羅氏名振玉字雪堂、萬域上虞人、清朝忠臣也。避難於我国洛陽比叡山下、過八歳、今将帰 故国﹂︵﹃鼓腹集﹄二十七ー二十八頁︶ 六月二十一日。﹁送羅氏。大正八己未年六月念一、設雪堂羅振玉先生祖莚於洛陽東山左阿弥楼、席上口占﹂ ︵﹃鼓腹集﹄二十九ー三十頁︶ 六月三十日。﹁閑翁訪問記﹂を執筆。︵﹃陽明主義﹄九十一号。八月五日刊︶ 六月。﹁賀富島君栄任。大正八年六月、賀同窓友友島元治君任台湾総督府警視総長﹂︵﹃鼓腹集﹄二十八ー二十九 頁︶ 〇七月。﹁閑翁訪問記︵上︶︵写真入︶﹂﹁送京都大学文学部畢業生﹂﹁奉弔甫水井上博士﹂﹁賀同窓富島元治君任台 193 高瀬武次郎年譜稿
湾総督府警視総長﹂︵﹃陽明主義﹄九十号。七月五日刊︶ 七月二日。﹁贈閑翁先生。岡村閑翁先生今年九十有三歳、頃日語余長寿法、日楽道義、日守些字。先生平生有 磯来喫飯倦来眠之趣。又楽詩酒、宛然如仙。大正八年七月初二作此詩。些者節約也﹂︵﹃鼓腹集﹄三十頁︶ 七月六日。﹁自題糺林慢々軒。洛北下賀茂神社西側、大正八年七月初六作﹂︵﹃鼓腹集﹄三十⊥二十一頁︶ 七月九日。﹁内外平和。大正八年七月九日行楽社吟友会於洛陽寺町今出川十念寺﹂︵﹃鼓腹集﹄三十一頁︶ 七月十日。﹁題荊浩画。大正八年七月十日、題我所蔵之唐荊浩画、赤霞仙衰図、余在北京所求也﹂三鼓腹集﹄ 三十一ー三十二頁︶ 七月十二日。﹁夜愚。大正八年七月仲二作。誹変節改論之新人毛奇堂也﹂︵﹃鼓腹集﹄三十二頁︶ 七月十三日。﹁贈年州翁。大正八年七月仲三、次年州畑廉蔵氏招隠詩的拝寄。年州翁播州人。善蒙刻。又盆栽 堤埴之技也。今菰辞郵便局長職而楽鯨年﹂︵﹃鼓腹集﹄三十二頁︶ 七月十六日。﹁賀竹子刀自八十壽。大正八年七月十六日、賀柳井竹子刀自八十之壽﹂︵﹃鼓腹集﹄三十三頁︶ 七月二十五日。﹁漢碗君来遊。大正八年七月二十五日、青木洪碗君来遊於糺林慢々軒、席上賦詩、余柳次其韻﹂ ︵﹃鼓腹集﹄三十三頁︶ 〇八月。﹁閑翁訪問記︵下︶︵六月三十日購和條約成立を祝しつ・洛北下鴨寓に於て記了︶﹂﹁訪倉田何庵先生遺盧﹂﹁弔 何庵先生︵和歌一首∀﹂︵﹃陽明主義﹄九十一号。八月五日刊︶ 八月一日。﹁狡童。大正八年八月初一、詠狡童某、某司文教者也﹂︵﹃鼓腹集﹄三十三ー三十四頁︶ 八月五日。﹁贈天龍寺納豆干閑翁先生戯賦呈、併乞正し。大和生駒山老仙、時年九十三八月五日作﹂︵﹃鼓腹集﹄ 三十四頁︶ 194
八月六日。﹁賀結婚。大正八年六日、福井安次郎君嬰入江光子嬢、挙行結婚式於洛陽平安神宮、余亦列其式、 賦此為賀﹂︵﹃鼓腹集﹄三十八頁︶ 八月七日。﹁詩仙堂懐古。大正八年八月七日作﹂︵﹃鼓腹集﹄三十四頁︶ 八月八日。﹁訪倉田翁遺盧。大正八年八日、訪倉田何庵先生遺盧於和歌山市西汀町、詩召南甘業篇日蔽帝甘業、 勿勇勿伐る、召伯所菱﹂︵﹃鼓腹集﹄三十五頁︶ 八月九日。﹁和歌浦。大正八年八月九日作。浦在紀州、名明光浦、神亀初、歌聖山部赤人従聖武天皇駕作和歌 浦潮満来歌﹂︵﹃鼓腹集﹄三十五 三十六頁︶ 八月十日。﹁望海楼。大正八年八月十日作。楼在紀州新和歌浦﹂︵﹃鼓腹集﹄三十六頁︶ 八月十日。﹁次松陰君韻。大正八年十日、次五條君訪閑翁先生詩韻﹂︵﹃鼓腹集﹄三十五頁︶ 八月十一日。﹁題蘭嶋先生筆蹟。大正八年八がち十一日、遊於和歌山城岡公園、見蘭嶋伊藤先生所題干大盤石、 唐子西句、山静如太古、日長似小年、蘭嶋先生仁斎先生之第五子、仕干紀伊侯、子孫数世紹家学﹂二鼓腹 集﹄三十六ー三十七頁︶ 八月十五日﹁次月山翁詩韻。大正八己未年八月仲五、次月山山中君訪閑翁先生詩韻併拝呈閑翁先生﹂︵﹃鼓腹 集﹄三十七頁︶ 八月十九日。﹁次書山上人詩韻。大正八年仲九、次永観堂近藤書山上人天橋講習会席上偶成詩韻、述懐拝贈﹂ ︵﹃鼓腹集﹄三十七頁︶ 八月二十四日。﹁遊糺林。大正八年八月二十四日、行楽社同人会吟於洛北下賀茂社内清心軒、此日会者、鈴木 豹軒、大江誠堂、寺町愛山、新町藤山、高橋洛東五君及余也﹂︵﹃鼓腹集﹄三十八頁︶。﹁其二。糺池偶成﹂ 195 高瀬武次郎年譜稿
︵﹃鼓腹集﹄三十九頁︶ 八月二十六日。﹁訪徳本堂。大正八己未年八月念六、與洗心洞同志十一人、訪藤樹書院、別有訪徳本道記、看 雑誌﹃陽明﹄﹂︵﹃鼓腹集﹄四十一ー四十二頁︶ 八月二十八日。﹁擬題馬山坐湯。大正八年八月念八、擬題摂州有馬温泉坐湯、余曾遊馬山、故今追想賦焉﹂ ︵﹃鼓腹集﹄三十九頁︶ 八月下旬。﹁寄懐済斎兄。大正八年下旬作、贈干山田準君﹂︵﹃鼓腹集﹄三十九ー四十頁︶ 八月仲秋。﹁観月。大正八年己未仲秋、行楽社吟会、観月於洛陽寺町四條通下大雲精舎恩賜堂﹂︵﹃鼓腹集﹄四十 ]頁︶ 〇九月四日。﹁追懐根本先生。大正八年九月初四作、先師羽嶽根本通明先生易学大家也、特発明易道合我皇統万 世一系之国体 ﹂︵﹃鼓腹集﹄四十頁︶ 九月。﹁内部の平和﹂﹁洗心洞手簡祓﹂﹁賀柳井竹子刀自八十壽︵漢詩一首︶﹂﹁次漠碗青木氏詩韻︵漢詩一首︶﹂ ﹁題天龍寺納豆︵漢詩一首︶﹂﹁次松蔭五條君訪閑翁詩韻︵漢詩一首︶﹂﹁次近藤書山上人天橋講習会席上偶成 詩珪述懐韻︵漢詩↓首︶﹂︵﹃陽明主義﹄九十二号。九月五日刊︶ 九月。石崎宛の書信︵﹃陽明主義﹄九十二号﹁洞裏独語﹂中に引用。九月五日刊︶ 九月十三日。﹁賀勧孝堂落成。我友静庵曽田文甫君、八年間写孝経一千除巻、以頒布天下焉、又建勧孝堂、大 正八年九月十三日賦焉﹂︵﹃鼓腹集﹄四十ー四十一頁︶ 〇十月。﹁詩仙堂懐古﹂︵陽明学会﹃陽明学﹄百二十八号。十月↓日刊︶ 十月。﹁現今の社会問題と智情意﹂﹁遊新和歌浦望海楼﹂﹁遊下賀茂里糺林﹂﹁糺池納涼﹂﹁摂州馬山坐湯﹂︵﹃陽 196