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佐藤醇吉「満洲探検回想録」をめぐって : 一九一二年鳥居龍蔵の第二回朝鮮半島調査の記録

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佐藤醇吉「満洲探検回想録」をめぐって   ―一九一二年鳥居龍蔵の第二回朝鮮半島調査の記録―(熊谷   常正) らんと欲し一月廿六日支那橇に乗りて輯安を出 発し鴨緑江の氷上を走ること七日にして帽兒山 に着す、帽兒山は満洲臨江縣治の所在地にして 附近に帽子の如き山あるを以て其名あり其対岸 は朝鮮の中江鎮にして昔閭延府の在りし處なり、 予等中江鎮の我が憲兵隊に泊し分隊長吉村中尉 の厚遇を受く、翌日中尉の先導にて臨江に渡り 其城跡を探ぐる、時に知縣之を知り予等を以て 軍事探偵なりとし大に怒り其調査を迫害す、予 等百方之を弁解したるも彼聴かず強て此処を調 査せんとならば宜しく予が首を刎ねて然る後決 せよと大地に胡坐かきて動かぬ様水滸伝中の林 冲其儘の姿なるに呆きれ果てゝ如何ともなさん 様なく吉村中尉の意見もあれば止むなく中途に して引揚ぐるに至れり後にて聞けば彼仝日安東 縣の支那衛門に電報を以て変装したる日本軍人 五名管内に侵入せるを発見し本官は之を管外に 放逐せりと極めて大袈裟なる自家功名の通告を 発したる由、予等の傍若無人なる探検は満洲各 所の官憲を激昂せしめたるものと見え東三省新 聞にも予等の行動を痛罵せる記事あるを見たり、 予等素より大胆なる行動を取り来りしと雖も彼 等を激昂せしむる道理一も存せざりしなり、只 感情に依て凡てを推定する彼等は一も二もなく 日本人を秘密探偵と恠しむのみ、輯安の知縣は 比較的事理に通じ予等の当地に滞在せる間厚意 を以て調査を助けたるが忽ち排日党の誣告を受 け突然休職を命ぜらるゝに至れり、然るに満洲 の人民は官憲と反対に日本人に対し頗る楽観的 なり、彼等予等を目して軍事探偵なりとするこ と官憲と同一なるも自國の事を対岸火視する彼 等には何の心なし彼等予等に語て曰はく満洲も 程なく日本の領たるべし、宜しく御引立を乞ふ と、臨江の調査を果たし得ざりし予等は更に翌 日朝鮮側より之を調査せんとし居るに又々知縣 は馬隊の兵を忍ばせて予等の行動を偵察せしめ たるも我が憲兵に発見せられて一目散に逃げ行 くを見たり、 37「満洲探検回想録( )」 二月五日中江鎮を出発す親切なる吉村中尉は正 月の餅の残りなりとて堅き鏡餅を餞別として與 へられたり、此日一寸先は見え分かぬ程の大雪 降りなりしも寒気さして強からず再び鴨江に氷 上を橇にて走り朝鮮側なる土城里に到り憲兵派 遣所に泊す若き憲兵諸氏と夜具を引きかぶり寝 物語に夜の更くるを知らず、翌朝九時土城里を 出発暗夜を冒して慈城に着す、慈城は町といふ 程の町にあらねど我が憲兵分遣所、陸軍守備隊 等ありて何となく賑はしき處なり、慈城に二泊 して江界に進む、途中旅宿を失ひ深更まで吹雪 の中を辿り漸く従浦鎮の憲兵出張所に到りて泊 す軍隊生活の事とて所長自ら献立して夜食を供 す今に其厚意を忘れ難し、二月九日江界に着す、 江界は江界江岸に在り我移民も頗る多く平安北 道中屈指の都会なり江界には四五日休養してそ れより再び楚山に出で、昌城、碧潬、玉江鎮を 過ぎ義州に到る、予等の満洲旅行はこれにて大 団円を告げ急行京城に帰ることゝなれり、久し く満洲の山野に原始的生活をなし来たれる予等 は義州に着して遥に安東、新義州方面に汽車の 黒烟を望みて田舎者の始めて都会に出でし心地 せり、予等義州を去るに臨み幾度か満洲の山を 顧み久しく親しみ来れりし満洲の自然に思はず 哀別の涙を滴てぬ、 三月五日午前八時新義州を発し、午後七時京城 に着す、始めて半歳の旅装を解く。 (終はり) 挿図⑮ (懐仁?)

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盛岡大学紀要   第三十五号 き處多し、加之満洲は如何なる寒村僻地に至る も飯店旅宿ありて容易に旅舘を失ひ空腹に苦し むことなきも朝鮮の田舎は此等の不便しばしば ありて旅行に困難を感ずるなり。 34﹁満洲探検回想録︵卅三︶ 予等楚山より直洞、渭原、高山鎮、伐登鎮を経 て輯安縣城に入る、輯安は鴨緑江岸にある都会 にして高句麗時代の遺跡地として最も有名なる 處なり、此処に彼の有名なる高麗の碑あり、碑 の高さ二丈余巾四面各々五尺余、此碑は今より 一千四百年前高句麗の始祖鄒牟王十七世の孫好 太王の死後高句麗の功績を後世に伝へんため建 設せるものなりと伝へらる、此地以前は柏の 森林にてはれ久しく此の碑を知るものなかり しが光緒八年盛京将軍左宗棠之を発見して以来 世に知らるゝに至りしと云ふ、此附近の平原一 帯に古墳累々として其数幾万なるやを知らず、 其中最も大規模のものは古碑の東方に在る将軍 塚と称するものと西方に在る永楽太王の古墳と 称するものゝ二個なり将軍塚と称するものは精 巧なる花崗岩の切石を以て七段に築かれたるピ ラミット形のものにて内槨の構造更に精巧を極 め高句麗時代の建築を代表するものといふべし、 槨内には二個の石棺あり今は破壊せられて正し き原形を見る能はず此古墳をめぐりて小なる古 墳の二三あり之て殉死の墓なるべし、予等試に 将軍塚を測量せるに外部の高さ約四丈巾地平線 に接せる部分にて九丈五尺槨内の高さ一丈八尺 巾各一丈七尺五寸入口の廊下高さ六尺余巾略々 之と同じ永楽太王の陵墓と目せらるゝものは将 軍塚よりも一層大なるものなれども槨内の構造 は将軍塚に劣れり、此の古墳より発見せる瓦磚 を見たるが此の瓦磚には願太王陵安如山固如岳 と願文を刻せり。 35﹁満洲探検回想録︵卅四︶ 輯安城の北方二里許の處に山城子と称する處あ り、此処に古城の跡や古墳あり古城は自然の山 岳を利用したるものにて城門と思ぼしき處に今 も石垣の遺これを見る、又官殿跡と思はるゝ處 より網目形の瓶磚を発掘したるが此瓦磚は大宰 府の都府楼の跡より発見さるゝものと同形のも のなり、一行の鳥居君の説によれば此山城は彼 の魏の毋丘儉が高句麗を攻め落したる丸都城な るべしと、彼の有名なる毋丘儉の戦功紀念碑は 板石岺なる丸都山上より発見せられたるを以て 丸都城は板石岺ならんと称する人あるも実地探 検を試み地理上の関係より推すも丸都城は此の 山城たるを疑はず、予等此山城を調査したる後 板石嶺に毋丘儉の碑の出處を探る、此処は輯安 の西北四里許の處に在り、最初予等は只板石嶺 とのみ聞き麻線溝の上流をり羊腸たる山路を 登りて仝處に到り或農家に泊し附近の村長を呼 び碑の出處を問ひしに板石嶺には大板石嶺と小 板石嶺の二つあり碑の出でし處は小板石嶺にし て此処より三四里西南に在りと云ふ、此処まで り着きし無駄骨折を呟けどもなし、翌朝四 時に起きて小板石嶺を差して出発す夜は未だ明 けざれども月光冴え渡りて白雪に包まれたる高 山深谿を照らす光景実に面白し、漸くにして小 板石嶺の麓に到り当地の村長を訪ふて碑の出處 を聞きしに幸にも其出處は村長所有の地所にて 当時の顛末など詳しく物語り且つ村長自身二三 の人夫を連れて予等を案内せり、隠岨なる山を 登りて頂上に達し碑の出でし處なりと云ふ個所 を見たるも積雪の為め只其位置を察するに過ぎ ず、碑は当時の知縣道路開鑿の際発掘したりと 伝へらるゝも実際は土地に埋もれ居たりしには あらずして正しく地上に立てるものを知縣は村 民の無智なるを幸に発掘に言寄せて之を運び去 り私有となすに至れりと云ふ、仝知縣は今は官 を辞して奉天に居住し猶此碑を秘蔵し居れり、 此碑は目下歴史家の珍重するものにして石刷せ るものを稀に見る事あり、此碑の出でし處より 麓に達する旧道ありて鏃、鎧の類発掘せられた るものを附近の農民の所持せるを見たり、此等 は高句麗時代のものたるは疑ふべからず、此岺 を踰えて東南に進めば丸都城たる山城子の背面 に出づ母丘儉は高句麗を攻むるに正面攻撃の至 難なるより背面より不意討をなせるものと見做 すを得べし、恰も源氏の軍が鵯越の険より平氏 の軍を討つしと同一なり。 36﹁満洲探検回想録︵卅 ︶ ﹂ 板石嶺を去つて再び輯安に帰り最早当地の探検 も了へたれば尚進んで鴨緑江の上流帽兒山を探

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佐藤醇吉﹁満洲探検回想録﹂をめぐって   ︱一九一二年鳥居龍蔵の第二回朝鮮半島調査の記録︱︵熊谷   常正︶ る此月の感想も今更の如く切実に感ずるなり、 翌朝六時韮菜園を発し新開河の村にて朝食を喫 し老 但 嶺の峻峰を横断す、老 但 嶺も長白の支脈 にして海抜五千五百メートルの峻嶺なり、絶頂 には峨々たる岩山を背景として建てる三層楼の 寺院あり恰も雪舟の楼閣山水を見る如し、嶺を 下れば鴨緑江に注ぐ小河の源流に出づ、更に此 小河に注ぐ六筋の小支流あり、即ち一道溝より 六道溝の名あり。 32﹁満洲探検回想録︵卅二︶ 支那にては河の大なるものを江と呼び小なるも のを溝と呼ぶものゝ如し、此流れに沿ふて谿谷 をれば河水のれたるもの道路に氷結して人 馬の通行頗る困難を極む、此辺にて満洲に移住 する朝鮮人の或は徒歩にて、或は馬車にて行く を見る谿谷を出でゝ平地をると数時間にして 楡樹林子に到り此処にて一泊す、モハヤ朝鮮も 程近し、翌日楡樹林子を出発し鴨緑江を距てゝ 松の生い茂れる朝鮮の山を望みては我が故郷に り着きし心地してうれしさかぎりなし、開原 を出発して四十余日言語風俗を異にせる田舎旅 行に幾多の不便と寂寞を感じたる旅人としては 我植民地の同胞に会することの如何に嬉しきか は斯る旅行をなせる人ならでは察し難きことな り、予等外察溝に着するや支那人に托して対岸 の憲兵派遣所に通ずれば憲兵某君早速来り迎へ 握手して健康を祝す、それより鴨江の氷上を渡 りて楚山に向ふ此時予の乗り来れる馬車馬は氷 上に踏みすべりて後脚をフラフラに挫き到底使 用に堪へかたきを以て附近の民家に遺棄するの 止むなきに至りしが予等の去るに及びしきりに 悲鳴をあげて其苦痛を訴ふるものゝ如し、四十 余日の間予を乗せて厳寒と戦ひつゝ満洲の山野 を踏破し今日かぎりにて首尾よく其役目を果た すべかりし間際に此不幸を見たるは畜生ながら 哀憐の情に堪へざりき曾て櫻井忠温氏の談にて 戦時に於て人間と馬との情的悲劇の演ぜらるゝ 事あるを聞きしが我が此度の経験にて誠にさも あるべきことなりと思はれたり、予は馬夫に金 廿圓を与えて他日馬の供養をせよと云ひしに彼 れも落涙して謝せり、斯る出来事の為めに時を 移して日は全く暮れぬ、雪明かりを便りて暗路 をり行く程に或小川に架ける土橋を渡らんと したるに又もや馬が足をふみはづして小川に落 皆々途方にくれて騒ぎわめき居りしが遥か彼方 の民家より提灯をかざして急ぎ来るものあり、 予等之を喜び近づき来らばしばし提灯を借らん と待ち居たるに提灯を持ち来れるは鮮人の老 但 にて彼は暗夜人声の騒々しきをあやしみ来れる 旨を述べ且つこれより先きは道路悪ければ此提 灯を楚山まで貸して参らすべしと云ふ予等厚意 を謝し此一穂の燈影を千騎万騎と頼み深更に及 び漸く楚山に着す。 33﹁満洲探検回想録︵卅 ︶ ﹂ 楚山に着せるは丁度十二月廿七日にて淋しき邑 内も正月の準備に忙しげに見えたり、節季を知 らぬ予等旅人はしばし此処に休養せん積りなれ ば行李の整理や襯衣の洗濯、郵便を認むるの外 只小児の如く呑気なりし、人間といふものは安 心すると角なまけ勝になりて抵抗力を失ふも のなり、予等今まで酷寒の中を朝は未明に起き 夜は深更に寝ね寸時も油断なくふるまひ来りし が楚山に着して身の安楽になるに随て気弛み心 撓みて朝寝もすれば一寸戸外に出ても寒気を恐 るゝに至れり、贅沢と安楽は人間の活動を殺す 微菌なりと云ふべし、併て楚山の正月は実に愉 快なりき、官民合同の新年会に野葡萄の酒を味 へ歌留多や、謡曲、蓄音機など余興のかずかず 旅情を慰むるもの頗る多かりき、楚山には我が 憲兵分隊陸軍守備隊、裁判所、郡庁、慈恵病院 等ありて移住民とては此等の役所を相手の旅舘 商店を営むものあるに過ぎず、朝鮮にては憲兵 隊にて警察を司るものゝ如く楚山の憲兵隊を見 舞ひし時鮮人の罪人の収監せられ或は拷問に附 せらのゝを見たり、概して日本は朝鮮に善政を 布き着々革新に努めつゝあり、病院ありて貧者 に施療し郵便貯金を奨励するなど朝鮮國民の為 め寧ろ祝福せざるを得ず、正月五日楚山を出発 して再び満洲方面に進む、今までの満洲旅行は 頑丈なる支那馬車にて比較的便利なりしもこれ よりは鴨緑江岸の地帯を探検することゝて朝鮮 橇の外に駄馬と人夫を雇へり、満洲は万事大陸 的にて如何なる山野も縦横に巾広き道路を通じ 居るも朝鮮に至りては道路も巾狭く若し仮りに 支那馬車を使用するも馬車路幅に余りて進み難

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盛岡大学紀要   第三十五号 ふるのみ、五龍山城の如きも由緒詳かならず、 然れどもは高句麗時代のものたるは疑ふべか らず、 30﹁満洲探検回想録︵卅︶ 五龍山城を調査した夜なりき、懐仁の知縣は兵 士五名と探偵二人を随ひ突然予等の旅宿に入り 来り予等の山城調査を詰責し退去をる、予等 護照を示し其理由を明言したるも頑迷なる彼等 は毫も之を聴かず遂に横暴の挙に出てん権幕を 示し来る、予等は支那官憲の迫害を豫て覚悟し 居る處而も一行朝鮮総督の命を帯び公然探検に 従事するものなれば万一無法の迫害を加ふるに 至らばこれぞ國際談判の端緒となるべきを信ず れば彼等の迫害は物の数とも思はず彼等に向て 逆襲的に其言辞の無礼を責め強て我等に退去を らば直ちに奉天の我が領事に訴へて都督衙門 に厳談すべしと威嚇したるに彼は俄に狼狽した る風にて最初の権幕何處にか消え失せ軍事上の 調査ならばゆるゆ滞在せられよと握手して去る、 満洲内地の支那官憲は日本人の侵入を忌むこと 如此、故に郵便物の如きも官衙新聞社に宛てた るものは没収して返送せざることすらあり、懐 仁には時計直しを業とする日本人一人居住せり、 仝人の語る処を聞けば最初は幾度か退去を命ぜ られしも種々なる口実を以て今日まで居住し居 りしなりと云へり、 懐仁の知縣は市民に人望なしと聞けり彼は人民 より取り立てし租税を以て私腹を肥やし下級の 吏員や兵士に棒金を与えざること四五ヶ月に及 び為めに不平を抱けるものは機会だにあらば暴 動を起さんと待ち構ふるなり、支那官憲の腐敗 堕落と共に満洲内地の行政は実に不規律千万に て政府の事業は殆んど信頼し難し、 予等懐仁の郵便局にて小包便を出さんとしたる に小包税一定し居るにも関せず仝一の物を今日 出すと明日出すに依て局員勝手に変更して九十 銭のもの一圓となり其理由を糺したるに九十銭 の誤なりと申訳云ふ、これ彼等の故意の値上げ にして規定の外に十銭の利益を私する為めなり、 葉書切手の如きも日本の如く売下る所あるが時 として其代金の異なる處あり殊に滑稽なるは郵 便配達の不行届なることなり、郵便局より遠き 田舎には配達せざるものゝ如く其郵便物は郵便 局内に陳列して心当りのものは持ち行くべしと の掲示ありこれが受取人や宿所不明の故にも非 ず只遠方にして配達し難きとの意なるに於ては 郵便制度の不備と云はざるばからず 31﹁満洲探検回想録︵卅一︶ 或日の夕方懐仁市街を散歩したるに店頭に檜の 如き小枝を列べて盛んに売るものあり、これ年 中行事のものなるべしと思ひそを購ひ行く支那 人に問へば彼は只観るためなりと答ふるのみ、 一体支那人は風流心なく今まで経過し来る處に ても町と云はず田舎と云はず室内又は庭前に何 ら風流を示すべきもの見えず、室内には大福帳 や算盤などあれども美術的装飾更になく庭らし き場所には一本の鑑賞木さへなく馬豚の糞尿の み散乱し居るなり、此点に至りて日本人は一般 に風流心に富めり如何に雨漏る賤が伏屋の軒端 にも四季折々の花開らき居るは常なり、支那人 も昔文化の高度に達したる時代は高尚なる趣味 の國民なりしも今は文化の衰亡と共に趣味また 頽廃す、支那人は詩を作るよりは田を作れの國 民なり、日本人は詩をつくりつゝ田も作る國民 なり詩を作りつゝ田を作る國民には未来あり希 望あり、予は切に日本人を愛し愛國者たらざる を得ず、予は詩を作りて田を作らざる國民と田 を作りて詩を作らざる國民は同一種族の低級民 族なりと信ず、 十二月二十三日の朝六時懐仁を出発す、巡警局 より護衛の兵一名を附し呉れたり、再び邊石哈 䏸 を通過し双子に出て富爾江口に到る、此処 は渾江と富爾江の合流地点にて沃野開らけ其東 方には懐仁の五龍山の同形の山城高く聳ゆ土人 は之を干溝山と呼べり、懐仁より此地方にかけ 古墳山城の多く分布するより考ふるも高句麗時 代には如何に枢要の地なりしかを推知するを得 べし、 此処に一泊して翌日紅石拉子、黒穴子を経て韮 菜園と称する村落に到る、此夜は陰暦十一月十 六日に当り皎々たる明月高く峯頭に懸り昔安部 仲麿が三笠山の月を思ひ浮べて故國を慕ひけん 心情を今我が身の上に知られたるを覚ゆ殊に淋 しき此の山村に長途の旅に疲れ果てし体躯を横 へつゝ異郷の月を眺むる旅人にとりては陳腐な

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佐藤醇吉﹁満洲探検回想録﹂をめぐって   ︱一九一二年鳥居龍蔵の第二回朝鮮半島調査の記録︱︵熊谷   常正︶ 隣室の支那人珍らしがりてしきりに戸 伱 より覗 ふ 、 満洲の支那人には蓄音機は不思議なるも のゝ一なるべし、 十二月十二日通化を発して快當帽子に到る、快 當帽子は其附近に帽子の如き山あるが故に地名 を成せり、此辺に至れば何処も森林多くして旅 舘の如きも大木材を以て豊富に建てられたり、 森林は実に人間の生活に於て天与の恩恵たり、 森林ある處には清泉湧き空気潔く生活の物資自 然に得らる、同じ満洲にても森林なき平原地方 を旅すれば民家は土石や高粱の殻にて辛うじて 雨露を凌ぐ粗家を建つるに餘あり、別けても予 の不快に感じたるは飲料水なりき、森林なき平 原地の旅舘にては何れも飲料水黄色に濁ごりた るものゝみにて到底飲料に堪え難き思ひあり、 翌日快當帽子を出発して高力墓に向ふ折柄寒気 甚しく途上路傍の樹木を見れば氷柱糸の如く垂 れ恰も水晶宮を行く如し予は此奇景に接して瑞 典の画家ダスターフ、フィアエスタードの︵氷 柱︶の風景を想起せざるを得ざりき、かゝる奇 景を現ずるは昨日の温気にて水蒸気を発散した るものが今朝明け方に急変せる寒気の為めなら んと思はる、満洲の冬は三寒四温と称して三日 寒ければ四日温かし此の温度は始終交互する故 酷寒の間にも多少凌ぎよし、四温の時来れば小 春日和の如く温かく車馬や橇の上にて日向ぼっ こしつゝ居眠りを催す程なり、 29﹁満洲探検回想録︵廿〓︶ 高力墓に到り附近の野山をれば一面に萩、女 郎花、あざみの秋草枯れたるまゝにて原形を保 ち恰も植物の腊葉を見る如し之れが秋の真中な らんには如何に美しき色彩を呈するならんよ、 今まで経過し来れる野山を見ても満洲の景色は 啻に山水の雄大を矜るのみならず植物的美観に 於ても面白き画題を発見し得るなり、満洲の冬 景色も特色ありて面白し、満洲の冬の空は絶て 雲を見ることなき青空多く予は旅中殆んど青空 に浮遊する雲影を見たることなくして帰へりぬ、 冬の初めは褐色の野山日光に照らされて黄金の 如く光り其澄み渡りたる青空と相配して自然に 美はしき装飾的色調を現ずるなり又雪の景色も 一入面白し、皚々たる白雪に包まれたる野山は 谷間谷間に淡紫の影を投じ其が間に隠見する高 粱の殻にて無造作に葺かれたる民家より寒烟の 立ち上る有様や雪を背景としたる楡、白楊樹の 木陰より幾群の豚羊を追ひつゝ去来する牧夫の 風俗など一として満洲のロカルカラーを示す画 題ならざるなし 高力墓より一道講岡山嶺を経て拐摩子溝の寒村 に到れば此處には高句麗時代の古墳あり、多く は破壊せられて石槨を露出し其天井石など附近 の農家に運ばれて遠慮なき豚犬ども其面に糞尿 して憚からず、笑ふべきか悲むべきか高句麗王 朝の墳墓今遂に如此万代不朽を祈る人間の欲望 も此に至りて半銭の価値無しと云ふべし、拐摩 子溝を去つて南すること三里にして邊石哈 䏸 に 到れば此處にも高句麗時代の古墳累々たり邊石 哈 䏸 の地形は四面山岳を繞らし南方に開きて 其處に絶壁の岩山対立し恰も自然の城門を形成 せり、拐摩子溝より此地方にかけ古墳の多きと 地相要害を占むるを見れば高句麗時代には如何 に枢要の地たりしかを想像するに足る、翌日邊 石哈 䏸 を出発岩門を南に進むこと廿五清里にし て懐仁縣城に着す、懐仁は渾江の沿岸に在る大 都会にして治縣衙門を始め各種の官衙あり、市 の東北渾江に沿ふて巍然として雲表に屹立せる 山城あり、之を五龍山︵又五女山︶と称す絶頂 は削立せる岩壁屏風の如く繞ぐり恰も人工を以 て築ける城壁の如し、予等或日此山城に登り親 しく之を踏査するに、絶頂は広き高原にして雑 木繁り古き貯水池の如きものあり、又西方の岩 壁開きて城門を成し其城門に人工を加へて石垣 を積めり、麓より絶頂に達するに約二時間半を 要し而も積雪深く脛を没し攀登の困難名状しか たし、此山城の周囲の麓には高句麗時代の古墳 二百余あり、此処の古墳は今まで見来りしもの より規掛少しく大にして其形式も円塚の外に花 崗岩の切石を以て四角に築かれたる石段塚なり、 予は是等の古墳の所在地より五龍山を眺望せる 光景を写生したるが折しも寒気零下三十五度を 示し絵具氷りて運筆自由ならず支那人に命じて 盛んに火を焚きたるも甲斐なく止むなく鉛筆に 換へて写生するに至りき、 満洲の古蹟に付ては記録もなければ口碑伝説も 乏しく其地の官吏や土民に聞くも只知らずと答

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盛岡大学紀要   第三十五号 りしが四方嶺を通過するに及び始めて樅の常緑 樹を見て精神何となく生気を喚起せる心地しぬ、 日本の如き到る處松杉等の常緑樹多き地に在り ては寒中さして珍らしと感ぜざらんも満洲の冬 の如き常緑樹の稀なる地を旅してはしきりに如 此感情に打たるゝなり、色彩の感情に於て緑色 の人心に生気を與ふるは人間の常に植物を愛す る性情より推しても自然なり、四方嶺を下りて 湾口字溝と称する小駅に一泊す此辺一帯に山岳 多くして峻坂嶮路を上下するを以て人馬共に疲 労すれば旅人は先ず此處にて一泊し荷物の整理 や駄馬の鉄蹄を新にして更に旅装を堅固にする なり、翌朝湾口子溝を出発して又々碗口嶺の険 を踰ゆ、碗口嶺は長白の支脈にて道路最も峻嶮 を極む、折柄寒気凛々として積雪路を埋め馬車 幾度か転覆せんとして戦々競々危険名状すべか らず、絶頂に達して紀念の写生をなさんとすれ ば指頭凍りて感覚を失し摩擦して辛うじて凍傷 の難を免がる、嶺を下れば小城子と称する部落 あり、満洲の地名多く其地に実在する或物に因 む小城子と云へば何かの城跡なきやと土人に問 へば附近に土城ありと云ふ、土人に案内を命ず れば彼れ暇なしとて聞き容れず予等案内せざれ ば擲ぐるぞと威せば彼は低頭平身銭を強請して 止まずヨシヨシ案内料は取らすべしと二十銭銀 を投ずれば彼欣然として真先に立ち雪を払つて 路を作て行く、支那人は銭さへ與ふれば如何な る命令も辞せず、此處に彼等の生命あり、銭の 為めに犠牲を惜まざる彼等は笑ふべきにあらず、 予は銭も何も要らず一分たりとも肉体の安楽を 欲する朝鮮の惰民よりは支那人は実に努力の人 民として特色ありと信ず、予は朝鮮を旅する時 鮮人の人夫を雇ひしに彼途中より疲れたりとて 俄に解雇を迫り賃金を増すべしと云ふも聞き入 れず非常に迷惑したることあり、 27﹁満洲探検回想録︵廿六︶ 小城子馬鹿句の部落を過ぐれば又々龍岡の峻嶺 あり、これも長白の支脈にして鴨緑松華二江の 分嶺たり、山容雄大にして松樅樺等の森林蓊鬱 として深山を形成す、これより南下して三密溝 臺に至れば始めて渾河の上流に出づ、最早通化 に程近きを知る予は東奥の山國の産なるが故か 山國を旅する程愉快なるはなし、一行の鳥居君 は淡路島を前に控ゆる徳島の人なればにや満洲 の旅に山谷をるを陰気なりとて忌めり、風土 異なれば個性如此異なる乎、予は山を見れば巨 人の懐に安眠する心地し又予の画眼より見るも 山程変化に富み美しきものあらずと思はるゝな り、 十二月十日午前九時頃通化に着す、海龍以来久 しぶりにて都市を見る、通化は光緒二年の開市 にして今は可なり繁華の町なり、官衙学校商店 等も多少現代式にて学校にはオルガンの音さへ 聞ゆ、支那も漸く舶来品を好む時代に達したる にや商店には日本、独逸の商品美しく飾られた るを見る、当市に一週間前暴動起りて囚人の破 獄や掠奪行はれ官吏は一時他方に避難したりと 云ふ暴徒の首魁は宗社党にて中に日本の浪人も 加はり居りしとか、猶何時暴徒の再起せんも測 り難しとて市街は夕方より早く戸を鎖して往来 の人さへ稀なり、此等の暴徒を制する威力なき 支那警察の無能は実に有名無実の飾り物て畑中 に立てる案山子にも劣れり又甚だしきは警官中 にも暴徒潜みて機会到れば忽ち火の手を挙げて 同類と呼応するものありと伝へらる、予等一日 町の裏手の丘に上りし時其畑中に一連の鐡鎖を 発見したりき、これ暴動ありし時破獄して逃走 せる囚人の遺棄せるものならんと云へり、又同 じ畑中に其名を忘れたるが日本人某の墓と誌せ る大なる墓標の立てるを見たり、之は日露戦役 に於て馬賊を使役して露軍に当たり戦死を遂げ たる人の墓跡なりと云ふ通化附近には朝鮮移民 の家多し朝鮮人は目下頻々として満洲に移住し つゝあり、予等通化より鴨緑江に出づる途上此 等移住民の隊をなして家財道具や家族を一括し て支那荷馬車に積みて行くものに会せること幾 度なるやを知らず通化に住む鮮人にして学校を 設けて移住民の子弟を教育するものあり、彼は 排日主義のものにて他日朝鮮独立の旗挙げを図 らんと欲して少年を教育しつゝありと 28﹁満洲探検回想録︵廿七︶ 通化には日本採木公司あり掏鹿以来始めて日本 人に会し骨肉相遇の思ひあり一夜公司より蓄音 機を借りて旅のつれづれを慰む、言語不通の満 洲の奥にて雲右衛門、奈良丸の浪花節を聴く、

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佐藤醇吉﹁満洲探検回想録﹂をめぐって   ︱一九一二年鳥居龍蔵の第二回朝鮮半島調査の記録︱︵熊谷   常正︶ 程三十五清里、此附近は最も馬賊猖獗の地なり と称せられ戸外に在る農民は何れも武装して小 銃短剣を身に附けて働き居るなり、此部落は始 終馬賊のために三等準備を為し馬賊襲来の合図 ある時は部落を挙げて皆兵たるの覚悟あり、輝 南は戸数かに百戸位の町なれども輝南庁の在 る處にして家並美しき町なり、三年前までは二 三の民家あるにすぎずして馬賊の潜伏せる處な りしも庁を置かるゝに至りて移住民年々増加し つゝありと云へり、予等其れより勝水河、杉松 崗の部落を経て柳河縣に着す、予等の此處に着 するや市民は日本人珍らしと思ひてや人山を築 きて予等の周囲に立ち塞りしかば、一行の豪傑 藤井君ステッキを揮りて追い払へば蛛の子の如 く右往左往に逃げ散る様面白し、巡警局に旅泊 の案内を請へば日本語を解する巡警来りて親切 に世話す、彼は曾つて奉天に在りし時日語を覚 えたりと彼は日語を知らざる周囲の支那人に対 していと傲り顔に何事か饒舌り居れり、翌朝柳 河を出発して大荒溝と云ふ寒村に到る、始めて 白衣の朝鮮人を見る、彼等は満洲人に雇はれて 米作に従事し居るなりと、米を作るは鮮人の得 意とする處、此處の旅宿に来りて久しぶりにて 米らしき米を食ふ、朝鮮は我が植民地なりと思 へば鮮人に会して血族を見るの感あり、況して 通訳の高成建は骨肉相遇の思ひありて此夜は予 等と別れて鮮人の家に泊しぬ。 夜巡警長来りて種々談話を交はし旅の徒然を慰 めぬ、彼は年齢六十余二十年来巡警を奉職し居 るなりと、彼は中華民國政治を忌み頻りに帝王 政治を眷恋し居り日本の帝王政治は予の羨む處、 支那の革命政治は久しからずして破壊さるべし と云へり。 25﹁満洲探検回想録︵廿四︶ 老巡警長予等に告げて曰く大荒溝より二十清里 を距つる楊樹河子と称する處に一の古碑あり文 字奇形にして読むべからずと鳥居君曰く文字奇 形なりと云ふより見れば或は女真碑なるやも知 るべからず若し然りとせばは歴史上最も珍ら しき発見なりと翌朝直ちに同處に至れば果して 女真碑なりき、碑の立てる場所は山城子より通 化に達する往還に沿へる栢の茂れる丘陵の中 腹にあり、碑の高さ約六尺巾四尺位にして自然 石の一面を削りて文字を刻せるものなり、女真 文字は女真族全盛の時代に造られしものにて当 時は四書五経まで此文字にて書かれたりしと字 形漢字の一部を変体せしものゝ如し、予等之を 石刷せんとて二日此處に通へり、折柄酷寒のこ とゝて碑面氷りて苦心云ふべからず、附近の農 夫を雇ひ来りて盛んに火を焚き辛うじて其目的 を果すを得たり、此時附近に駐屯せる支那兵予 等の行動を怪しみしきりに示威的空砲を発すと 聞けり、彼等の虚勢は恰も小児の悪戯に似たり、 十二月七日大雪を冒して楊樹河子を出発通化方 面に行程を進む、行くこと数里村極まる處忽ち 突兀たる峻嶺の峙つを見る、これが四方嶺と称 する峻嶺にして長白山系の一支脈なり、羊腸た る険阪を登りて頂上に達すれば遠近の群山重畳 起伏して恰も波濤の荒ぶるに似たり、脚下を俯 瞰すれば谷間谷間に民家点々として雞犬の聲さ へ聞ゆ、此風景形容すべき言葉なし、満洲の風 景は平原に於て特色なると共に山間に於ても特 色あり、山岳の形容巳に異常なるに相並んで高 梁土石を以て造れるプリミチューブの民家は実 に其配合の美を極め画家をして低徊去る能はざ らしむるものあり、予は満洲の山水を見て我が 東北地方山水甚だ之に類似せるものあるを知れ り、東北の山水雄大荘厳なるは予の常に嘆美す る處而も人は東北は山水の美に乏しと評し文人 墨客の探勝多くは南方に取るものあるは何の故 ぞや、日本人の審美思想は南方趣味にして未だ 北方趣味を知らざるに依るか、尤も東北の山水 は南方の如く快活華麗ならずむしろ陰鬱にして 冥想的なるは争ふべからず、然れども神秘荘厳 にして深大なるアンノンスピリッチの美的表現 は実に東北の山水の物色なり東北の山水を語る もの多くは陸前の松島羽後の男鹿十和田を推賞 するに過ぎず人間の趣味は法律にあらねば其好 悪は其人の自由に任せずしと云はばなし、予 を以て見れば東北にはそれ以上の山水の美各處 に隠匿し居るを信ず如斯満洲の風景の東北の風 景と相似たる處あるを以て予は満洲旅行に一種 の懐かしみを感ずるに至りき、 26﹁満洲探検回想録︵廿五︶ 予等今まで只粛條たる冬枯の野山に飽き果てた

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盛岡大学紀要   第三十五号 雑話に耽けり居たりしに巡警局長突然三名の兵 士を随へ来り何の会釈もなく傲然として隣室な る予等の行李を目がけて侵入せんとしたりしか ば予等大音声にて如何に官憲たりとて無断侵入 は無礼なりと叱すれば此権幕に彼等は忽ち虚勢 挫けて軟化し去り本官は貴下一行の旅行を保護 せんため見舞へり明日は何処に行かるゝやと巧 みに 伿 辞を弄せるも彼は確かに我等抵抗の勇な くば行李を査め其秘密を知らんとせるものゝ如 し、此夜鐡嶺警察署長の一行当市に着せりと聞 き其宿舎訪ひしが署長一行は馬賊猖獗の区域を 偵察せん為めの旅行なりとて恰も戦時偵察の如 く皆々軍刀ピストルを用意し居れり、然るに予 等一行は馬賊の事は全く打忘れて遺跡風俗の探 求にのみ夢中となり居たる故に署長一行の物騒 なる物語に馬賊の為めにかくも用心せねばなら ぬものかと思へり、馬賊の恐ろしさをさまで心 にかけざりし予等は幸にして旅中一度も其難に はざりしが予等に次で当地を旅せる日本の商 人四人は馬賊に襲はれて金品を悉く掠奪せられ 辛うじて生命を完うし逃げ帰へれりと、又海龍 に着せる二三日前此附近にて馬賊の為に狙撃さ れたるものありと聞けり、海龍より通化懐仁に 至る時は馬賊の巣窟と称せられ危険最も甚だし、 23﹁満洲探検回想録︵廿二︶ 十一月廿九日海龍城を出発して朝陽鎮に向ふ、 途中馬賊の危険ありとて巡警局より騎兵三名を 附して護衛し呉れたり、護衛の兵士は実に厄介 者なり、彼等は道案内位のものにしてスワ馬賊 の襲来となれば先を争ふて逃げ去るものならん のみならず彼等の宿料まで支払はねばならず難 有迷惑とは此事なるべし、支那兵は一種の雇人 の如し、古びたる軍服にびたる銃、剣を帯び 銭を與ふれば叩頭白拝唯々として命維従ふ之を 日本兵に比すれば雲泥の差あり、然れども支那 兵のみを笑ふべからず、日本の武士も漸く銭に 渇し来れるにあらずや、海軍収賄事件の如きむ しろ銭に依て汚されたる罪悪支那軍人以上のも のなり、支那の軍人は最初より銭を貪るを当然 とすればなし而かも陽に忠君愛國を標榜して 陰に私利私欲の悪事を敢てするに於ては言語同 断と云はざるべからず、 海龍より朝陽舘まで約三十五清里此間樺の森 林多く馬賊の出没する處此處ならんかと思はれ 些か気味悪く感ぜり、午後一時朝陽舘に着す、 此處は古鎮の在りし處なるも今はさして繁華の 町ならず、附近に四五の古墳を見るのみ、翌朝 朝陽舘を出発す、昨夜より降り積もりし雪尺余 に達し雪國に産れし予にはさながらに故郷の野 山をる心地して面白し、午後四時輝発城に着 す、此間の行程三十五清里輝発は遼河の支流輝 発江に臨み今は荒寥たる一部落に過ぎざるも昔 は一方に雄視して勢力比類なき王将の居城なり しとて赤岩の断崕高く輝発江岸に崛起し其断崕 を利用して城壁を築きたり、河心より絶頂まで 高サ約八十尺今は雑木茂りて苔蒸せる石垣や塹 壕の跡を見るのみ、西門を入れば昔宮殿と思は るゝ跡ありて礎の處々に埋れ居るを見たり、我 等は此辺より発掘せるものなりとて附近の寺に 秘蔵せる大なる長方形の鉄火鉢を寺僧より買受 けたり、 輝発城は恰かも我生國陸中の判官舘に似たり、 輝発江を北上川とすれば輝発城は判官舘にして 同形のものなり、明の大祖が輝発王を此城に亡 ぼしたるは万暦年間なりと称せらる、 24﹁満洲探検回想録︵廿三︶ 翌日午後一時輝発を出発輝南に向ふ、此間の行 挿図⑭ 揮発城趾

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佐藤醇吉﹁満洲探検回想録﹂をめぐって   ︱一九一二年鳥居龍蔵の第二回朝鮮半島調査の記録︱︵熊谷   常正︶ 21﹁満洲探検回想録︵二十︶ 十一月廿五日山城子を出発東山城子、潤尖堡子、 沙河口の諸駅を経て翌日海龍城に着す此間の行 程百十五清里海龍城は松華江の上流にある都会 にして海龍府のある處なり、市の周囲を繞ぐる 城壁は古代の土城にして高さ凡そ二丈広さ東西 一千三百七十五尺南北一千五百五十尺あり、由 緒年代を土人に聞くも詳かならねども築城の形 式より見れば恐らくは金時代のものならんか、 以前は古き土壁のみ存し居りたりしも光緒四年 府を置かるゝに及び今の如く土壁の上に新に練 塀を築きたるなりと土人は語れり、又城の東門 外に乳山と称する古代の山城あり、此山城は我 が日本の九州奥羽辺にて見る舘の如きものにて 自然の山を利用して頂上に三段の壕をめぐらし 其西方十間ばかりも距れたる丘には数多の竪穴 の跡あり、予は満洲より帰途日向の高千穂に至 り四皇子が峰と称する山城を見たるに其形式毫 も異なる處なきを知れり、 予等一日城外を逍遥してかへるさ、附近の古寺 に入りて休息したりしが齢六十余の寺僧出で来 りて自ら薪を割り火を焚きて茶を沸かし呉れた り、寺僧の風俗は明代の風俗なりとて衣服帽子 ともに今の支那服装と異りて面白き處あり、満 洲の寺は生活程度の低き故にや至て粗末なるも の多く住職の如きも農民とがなき労働に従事 し居るものあり、風俗の話にて思ひ出せるが満 洲も中華民國となりて断髪令が励行せられ官吏 又は当世風を気取るものは多く散髪し居るも昨 今俄に頭の模様替をしたることとて不似合さ加 減むりそ滑稽なる處あり、海龍の旅宿の番頭は なかなかのハイカラものにて散髪してピカピカ する程油にて撫で附け居れども辮髪を切りたる まゝ前方へ逆に撫で反し居るにすぎず、かくす れば何時にても辮髪に復し得らるゝ便法ならん か、予等戯れに彼に向て貴公は猶断髪に未練あ り、貴公の頭は実に両頭に見ゆ一は中華民國一 は愛新覚羅ならずやと云ひたるに彼筆を取りて 猶有故國情云々と書きたるが故國とは清朝を指 したるものなるべし、維新当時に於ける日本の 断髪かくやありしならんと思はれ可笑さ堪え難 し。 22﹁満洲探検回想録︵廿一︶ 予等開原出発以来久しく風呂に入るを得ず体躯 垢に染みて将に半風子の巣窟とならんとせしが 海龍に来りて始めて風呂に入り死より 伻 かへり し心地せり、入浴を好む日本人にとりては満洲 の田舎旅行に風呂なきは第一の苦痛なり実に彼 等田舎人は年中風呂に入ることなく煤の如く垢 に塗みれし手足にて平然人に接して憚らず旅宿 に於て最も不快なるは爪も皮膚も悉く垢だらけ の給仕が茶碗の縁に垢汁を流しつゝ支那茶を進 むることなり、されば予等旅行中は茶も茶碗も 用意して自ら茶を沸して飲みたりき如斯満洲の 田舎は風呂なきに苦しむも都市に来れば中々贅 沢なる風呂屋あり、海龍の風呂屋は瓦造りの 洋風の建築にて浴場には盛んにストーヴを焚き 如何なる酷寒にても真夏の如く暖かし、殊に気 の利きたるは浴客一人に一個の湯槽を供し浴客 の入れ替はる毎に湯を新たにするが故に湯の清 潔なるは日本風の風呂以上なり、別に流しを命 ずれば三助来りて三十分以上も丁寧親切に流し 呉るなり、彼等の浴場は一種の娯楽場の如し、 浴室には浴客の休憩所を設け湯上りに悠々とし て一二時間も茶を喫しつゝ寝転び居るものあり 中には胡弓三味線を弾じて唄うものあり、 支那の官憲は角予等の旅行に狐疑心を抱くも のゝ如く、或日の夕方予等晩食後食卓を囲んで 挿図⑬ 海竜城外乳山の山城

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盛岡大学紀要   第三十五号 ある鐡塀の門を入れば二十間四方ばかりの広き 庭ありて其処には貨物山の如く積まれ拾五六人 の手代見へたり、其家屋の如きも堂々たるもの にて丹壁の色彩美々しく一見して富豪の態度を 示せり、予等携へ来れる紹介状を出して来意を 通ずれば主人出で来りていと丁寧に御泊め申す はよけれど生憎今得意客ありて最上室に泊め置 けり、其他の部屋にてよくば御泊め申すべしと 云ふ、苟くも日本大人たるものは路金に窮して 宿を乞ふにあらず、何処でもよしと低頭平身す るにも及ばず遂に此家の番頭に案内させて他の 旅舘に泊せり、山城子は繁華な町にも似気なく 旅舘は何れも不潔なるものゝみ多く斯くあらん には却て豪商の二等室に我慢をすればよかりし に威張り損ねしこと返へす返へすも口惜しけれ。 20﹁満洲探検回想録︵十九︶ □□□□□□□□□□内にて山城に登□□□□ □□□□□□きても由緒年代□□□□□□□□ □□の形式や地理上より推すも或は高句麗時代 の山城ならんと思はるゝ處あり、其構造を見る に擂鉢形の凹地を有せる自然の山岳を利用して 其頂上に城壁の下には深さ六尺程の塹壕竪穴の 跡あり、城門は東西南北の四門あり、東門より 西門までの距離約六百五十尺、南門より北門ま で約千百六十尺あり、山城子の開市は今より四 十二年前即ち光緒五年なりと伝へらるゝが開市 以前は荒寥たる村落にして此の山城は馬賊の巣 窟として掠奪殺害の頻りに行はれたる極めて物 騒なる地なりしと土人は語れり、予等城の絶頂 に登りし時城壁の片蔭より一疋の野狐現はれ疾 風の如く逃げ去るを見たり、案内の巡警は銃を 以て捜しりしも其影見えずなりぬ、昔は勇猛 猛卒の金城鐡壁今は空しく孤狸の巣窟たり、予 は流転浮沈の定め難き人生の渦に翻弄されて行 く人類の歴史を繰り返してそぞろ哀嘆の情に堪 へざりき。 陰鬱なる冬の空に夕日の影淋しく薄れ行く頃山 城を下りて其麓の農家に入り一杯の茶を無心し たるに農家は何処も淳朴なるものにして此家の 老 但 は親切に茶をわかし饅頭など御馳走し呉た り、饅頭の御馳走は満洲の片田舎によく見る處 なるが普通下品なる食物として紳士の食ふべき ものとなさず、何処かの宿屋にて予等の馬丁に 饅頭を出したるに紳士ならぬ馬丁大に怒り如何 に馬丁なりとて饅頭を食はぬと宿の主人を叱り 附けしことあり、豚肉もなき片田舎には高粱の 饅頭は関の山なり、米利堅粉の豚饅頭は繁華の 地に近き處ならねばあらず、此の家の老 但 は予 等を売薬商と見たるか五歳ばかりの眼病の小児 を連れ来たり此の眼病によき薬無きかと云ふ ︵是れ日本人にて売薬商となりて満洲を旅する ものあるに依る、満洲の田舎には全く医者もな ければ薬もなし、たまたま町に出づれば漢薬の 草根木皮を売るものあるに過ぎず、故に田舎に て病気するものあれば祈祷の如き心理療法ある に過ぎず、よく田舎者の顔に一銭銅貨大の痣の 如きものあるを見たるが、これは彼等の病気し たる時筋肉の一部を強く捻れば病気全治すると 云ふ一種の迷信にてしばしば顔面の肉を捻りし 痕なり、迷信なりと云はんも精神を一處に集め て病を治する方法と見なば強ち理由なきにもあ らず︶ 予等幸に用意し来れる硼酸を與へ且つ其使用法 等細々と説明し聞かせたるに彼只管再拝して謝 す、曾て日本人某支那旅行を企て日本薬局法一 冊と薬品を懐にして医者を気取りて少からぬ旅 費を得たりし例あり、これ支那を無銭旅行する 一策ならんか、 挿図⑫ 山城子ニ於ケル山城スケッチ

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佐藤醇吉﹁満洲探検回想録﹂をめぐって   ︱一九一二年鳥居龍蔵の第二回朝鮮半島調査の記録︱︵熊谷   常正︶ の雇人使用して内福らしきを見る、支那は実に 気楽なものなり、斯る僻陬の地に至れば土地の 所有権は官有にはあらず民有にも非ずツマリ誰 のものでもなし所謂天のものなり、此一つ家の 民家も六七年間此家の主人が漂然此處に来り其 森林の多くして土地の肥へたるを見て直ちに移 住し開墾して今日の独尊的生活を為し居るなり と、文明となるに随つて天の物は人の物となり 生存の競争は始まりて兄弟骨肉血を流して争ふ、 予は原始的此の山中に一夜を明かして太古の生 活は人間の自然なるを思へり。 北方の冬は実に静寂を極む、況して村里遠き此 の森林の一夜は山静かにして太古の感ありと云 ふべし、身をオンドルの上に横へて寝に就けば 窓外微かに聞ゆる木枯の音断続してひびく馬鈴 の音に和して自然の音楽を奏づ、飽まで自然に 憧憬し自然の寵児たらんとする予には此刹那の 詩的感想到底筆紙に盡くし得る處にあらず。 宿屋商売にあらぬ農家に泊せることとて予等を 寝かしたる處は物置兼 伯 にて枕頭に豆、高粱、 小麦等の穀類を積み重ね其傍らに驢馬を繋ぎ置 けり。 夜半突然騒々しき人声に目を覚まし何事の起れ るかと枕を擡げ見れば 、一行の鳥居君真赤に なって﹃彼奴を擲ぐれ﹄と通訳の高成君に命じ 居るなり、彼奴とは此家の雇人にて彼は我等の 枕頭に近き土間にて驢馬に臼をかせ居りし こととて其蹄音の喧しさに眠られぬとて怒り居 たるなりき、深更の夜業は彼等の常なるもさり とは餘り客に遠慮なき者共かな。 餘り虫のよすぎる話かも知れぬが予等曾て聞け ることは支那旅行にて豪商豪農の家に泊する時 は無料にて泊することを得べしと云ふことあり 此の家の如きも内福らしく見ゆれば大抵無料な るべしと語り合へる折柄主人出て来りて一人前 五十銭宛の宿料を支払呉れよと云ふ此家の主人 なかなかの吝嗇者なり豚肉も何もなき饅頭位の 御馳走にて仮令無心して泊りしとはいへ五十銭 とは法外の貪り方ヨシヨシ然らば欲するまゝに 取らすべしと一行中の豪傑藤井君彼に向て日本 大人は金銭に廉なりソレ受取れと銀貨に唾して 土間に投ぐれば彼呵々と笑ひつゝ之を拾ふ支那 人は実に金銭の為には屈辱を意とせず否意とせ ざるにあらず感ぜざるなり。 19﹁満洲探検回想録︵十八︶ 翌朝五時牛皮溝を出発し途中横道河子の飯店に 朝食を認め午後三時頃山城子と云ふ町に到る、 牛皮溝より山城子に至る間は山岳倍々せまり来 り森林の中をる、開原出発以来親しみ来りし 清河の流れもモハヤ上流の終極に達し其分水嶺 たる老 但 嶺の高峰を横断する時は其絶景を嘆美 すると共に羊腸たる峻阪を雪を蹴て進む勇壮さ 那翁のアルプス行軍を想起せざるを得ざりき、 予は常に支那の山水画中に日本に於て見るを得 ざる異様な山形を見ては所謂理想化したる山 ならんと思ひしが此間の山容水態明かに画中の 山水其儘なるを見て古人の写生に忠実なりしこ とを知りぬ、予は古人の山水画に山の□法を直 線を以て餘りにシンメトリーに画きたるを見て 斯る造くりものゝ山は実際にあり得るやを疑ひ しが如此山形続々として予の眼前に現はれ出で たるを見て古人は決して空想を弄せざりしを知 れり、 山城子は可なり広き平原の中に在る町にして戸 数三千餘開原出発以来始めて見たる繁華の町な り、其西方に山城の遺跡あり山城子の名之より 出でしならん、予等開原を出発するに当り駅長 の尽力にて同地の支那旅舘福海■■■城子の豪 商に宛てたる紹介■■■■し故山城子に着する や■■■■■■■て豪商を訪ふ、高さ一丈余も 挿図⑪ 古人ノ山水画中ニ見たるものと同形の山スケッチ

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盛岡大学紀要   第三十五号 文字を大書したるを見るは即ち回々教信者の為 牛肉あるを示す意味なるべし、支那は料理に巧 みなり片田舎の料理さへ其味忘れ難し、豚料理 は彼等の最も得意とするだけ其種類の多くして 個々の其味に特色ある處全く珍となすに足る而 かも此等は鹽を以て味附けさるゝに於ては其料 理に独特の秘法ありと云ふを得べし、習慣は遂 に苦痛を忘れしむ予等最初は支那宿の不潔と ひ馴れぬ食物に聊か苦痛を感じたるも今は全く 支那生活になれて苦痛を感ぜざるに至れり、 16﹁満洲探検回想録︵十五︶   ︹  不  明  ︺※六月三〇日は欠落 17﹁満洲探検回想録︵十六︶ 双河鎮の旅宿は比較的清潔にて宿の家族も愛嬌 ありて愉快なりき、一般に支那の風習にや旅宿 に於ても炊事給仕をなすも悉く男子にして絶て 女子の出て来ることなかりしが此家の主婦は乳 呑児を抱きながら予等の前に出て来たりて何か しきりに饒舌するは余程変りものと見えたり其 亭主と見ゆるは支那の田舎者としては珍らしく 物知りの男にて此地方の故事来歴に詳しく聞き て参考となるべきこと多かりき、彼は御世辞な るや否や頻りに支那官憲を罵倒して曰く支那の 官憲は常に圧倒非道なり革命政治に至りて猶然 り、日本は実に官民平等の國なり、上下和同し て諸事に当る露國を敵として勝てるも道理あり 予は曾て上海に在り日本の官吏に接したること もしばしばなりしが如何にも親切寛大なる處あ りて尊敬の念堪へざりしと、官尊民卑の支那に 在りては斯る感情を國民に與ふるも無理ならず、 支那人には愛国心乏ぼしと云ふも凡ての組織愛 国心に遠ざかるのみ國体の異なる處誠に止を得 ざるなり、併し予の満洲を旅して感じたるは支 那は官吏よりも人民に於て勝れる美点多しと思 へり、官吏の腐敗堕落に比して彼等は確かに勤 勉と自衛の精神に富めり、朝は未明より夜は深 更まで孜々とし家業に努力する彼等の胸には頼 み甲斐なき政府に頼らんよりは自我の存在を完 うせんに如かずと思い居るものゝ如し、故に彼 等は人一倍に金を欲して止まず、金是人彼等は 金の外人格なきなり、極端なる個人主義の人常 軌を逸すれば金是人なりに走る豈ひとり支那人 のみならんや、トルストイ伯は支那人を評して 我が理想に近き人民なりと賞せり、伯の如き無 政府主義労働主義の人より見なば或は然らん、 然れども伯は人道の大義を中心としての無政府 労働主義の人なり、支那人は未だ伯の如き理想 に達せざるなり、或人曰く支那は亡ぶることあ るも支那人は亡びずと、に角自己の生存に一 刻も油断せず如何なる労働も辞せざる彼等は一 面に於て確に人類の或理想に猛進しつゝあるな り、 双河鎮には一泊して翌朝六時出発巡警局より途 中馬賊の危険ありとて騎馬の巡警二名を附し呉 れたり、今までは大抵平原をり来たるが此地 方より漸く地形一変して山岳接近し殆ど谿谷を る、東北の山間に生まれたる予は平原をる 時は何となく物足らず無趣味なる感想に打たれ たるが今や山岳深林の地帯に入りて云ふべから ざる□□□□□しぬ、 18﹁満洲探検回想録︵十七︶ 双河鎮を出発し行くこと廿五清里にして牛皮溝 と称する處に至る、此處は人里遠き森林にて殆 ど泊るべき旅宿なし、さればとて日も暮れ空腹 しきりにして前進する勇気なし、漸くにして或 る森陰に只一軒の民家を見出して一夜の宿を借 る、此民家は山中の家なれども家屋広く五六人 挿図⑩ 支那宿ニ於ケル一行ノ藤井君及鳥居君

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佐藤醇吉﹁満洲探検回想録﹂をめぐって   ︱一九一二年鳥居龍蔵の第二回朝鮮半島調査の記録︱︵熊谷   常正︶ 柵を以てせられたるも今は支那の勢力遂に柵外 に出でゝ数百里も蒙古領を犯し居るなり。 開原には四日滞在して旅装の準備をなせり、今 までは汽車旅行にて殆んど遊山的なりしもこれ より全く交通不便の満洲の荒野に純乎たる支那 生活を試みざるを得ざるに至りぬ、心細くもあ れど予の如き満洲の荒野にひとしき東北の山間 に生ひ立ちしものに於ては儀式に捉はるゝ官吏 旅行より気兼遠慮もなき原始的生活に入ること の何となく愉快に感ぜらるゝ處もあり、予等先 づ防寒具として羊の毛皮、手袋、軍用長靴を用 意し日用品としては紙、石鹸、殺虫薬、蝋燭、 手拭等を用意せり、其他日本貨幣を支那銀に替 ふるなど平素事務に疎漏なる予に取ては面倒臭 きことかぎりなし支那旅行には常に支那馬車を 使用するを便とす予等開原駅長永原氏の斡旋に て特別安値に一日一台二円五拾銭づゝにて三台 を雇入れぬ此馬車は一台の車に馬三頭馬夫一人 を附し車体頗る頑丈に造られて之に山羊の毛皮 を裏附けしたる堅固なる幌を設け一人なれば自 由に横臥し得られ胡坐すれば二人共に乗るも左 まで窮屈に覚えず。 15﹁満洲探検回想録︵十四︶ 十一月十四日午前十一時官民諸氏に別れを告げ て開原駅を出発し先ず清河に沿ふて東に進む、 昨日見し開原城の高塔を遥に眺め一歩は一歩よ り淋しき田舎に入る、山なく木なく高梁の切株 鎗の如く立ち列ねたる耕地の平原や寒天に白く 立ちのぼる飯店の烟を見るの外また眼を遮ぎる ものもなし、冬の日の短かさは開原を出でゝ十 五清里︵約六新里は我一里︶位にして日は全く 暮れ果て注多羅束と称する村落に至りて飯店に 投宿し始めて支那宿の味を知る支那宿の不潔は 曾て聞く處なれども予想に倍する不潔さは言葉 の外なり、支那宿は一般に木賃宿式なり、夜具 なく風呂なく只飯かつて一夜の転び寝をする に止まる、されどオンドルの在るは冬の旅客に 取りて、無上の厚遇なり豚料理に米到堅粉のピ ン︵日本の焼に似て中に油と砂糖を含む︶の 御馳走は関の山なれども万事不備の旅宿として 予は支那食の旨きを取柄と感ぜり、一宿五拾銭 とは安きが如きも日本の田舎旅舘に比すれば夜 具と風呂の無き丈高くも思はるゝなり、 翌朝六時に注多羅束の宿を出発約廿清里にして 耿王荘と称する村落に至き此處に一泊して石人 溝の石人を見る、大理石の石人衣冠束帯せるも の二個畑中にあり恐くは金時代のものなるべし 翌朝六時耿王荘を出発す夜来の雪倍々降りしき り見るかぎり一面の銀世界と変じ今まで凹凸甚 だしき道路を馬車に揺られて頭や腰をしたゝか 打たれるが積雪の上を滑るが如く走りて却て乗 り心地よくなりぬ、午後四時頃大姆河の駅に至 り飯店に宿す、此處の宿屋は開原出発以来の清 潔な宿屋にて今まで薄暗きランプ一個の宿屋と 事変り四五個のランプを満堂に燈し其他食器の 如きも比較的清潔なるは何より嬉れし支那の田 舎宿程不潔をるものはなかるべし、部屋とは名 のみ煤け切つたる荒塗りの壁や年中箒を入れし と思はれざる床の上は塵芥堆くして油虫南京虫 の巣窟たり、此等の虫ども夜半顔の上を散歩す る故しばしば夢を破らるゝ事あり、殊に耐え難 きは食器不潔なるにあり豚の油の浸み切つたる 食卓や茶碗の如き一種の臭気ありて更に洗ひ清 めざれば到底食事に用ゐ難し、支那人は油好き の國民なり、何物にも油を加へざれば食はず、 故に御馳走としては豚料理を最上とす牛羊の肉 は第二位のものとして卑しむ、独り回々教を信 ずるもの牛肉を食ふ、間々飯店の障子に回々の 挿図⑨ 馬千総台門跡

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盛岡大学紀要   第三十五号 りて行くこと四里許にして彼の有名なる長柵あ り蜿蜒長蛇の如き土壁茫々たる広野を東西に横 ぎりて其終る處を知らず、土壁の高さ約一丈厚 さ約一丈五尺塹壕の深さ約五尺あり、時方に秋 闌にして満目蘭條たる枯野の色一帯にブラウン を染め紺青の如き天色と相対して色彩の美観を 極む、自然は悠久に其美を失はざるも人類も常 に変遷多し、秋風に空しく其残骸をさらす此長 柵の歴史を追憶して予は無量の感に打たれざる を得ざりき長柵を過ぎて石碑嶺に到れば此地一 帯に地 䆙 高低ありて民家疎らに散點せり我が満 鐡の経営にかゝる炭坑も此処に在り、遺跡とし て見るものは丘の一隅に古墳の跡ありて石羊石 人の胴折れ首缺けたるもの草叢に倒れ伏せるを 見る墳墓の形式より見れば恐らくは遼金時代の ものならんか、 大陸の平原は島國の平原とは大に異なれる地 䆙 を有し巨濤の如くうねる丘陵は遠く望めば山の 如きもさて近づき見れば更に山たるを知らず身 は依然として広野を歩み居るなり、されば満洲 の平原は画題として頗る変化に富み日本の平原 の如く単調のものならず其波の如き丘の上下に 点々として見ゆる人家や柳、柏、白樺の小森の 淋しき野辺を飾りて自然の景趣直ちに理想の画 題を成せり、別けて予の画的印象を深からしめ しは石碑嶺の夕景色なりき、夕陽西に臼かんと する刹那残光紅に丘の上を照らし彼處の森此處 の民家は一面にコバルトの暮靄に包まれて其が 間を支那労働者の馬車追ひつゝ家路に急ぎ行く 光景物淋しき北方寒地の自然を示す好画題なり き、 此夜満鐡炭坑の事務所に一泊す事務員藤井音彦 君頗る歓待を極む、民家に遠き野中に孤立せる 事務所なれども露國式のオンドルありて寒から ず、主人藤井君予等を犒はんため二三里も距は つる民家より酒と鶏を買求め来りて晩に供せ らる、旅の慰めは実にかゝる時に最も痛切に感 ずるなり、予等君に対て馬賊は此處に来ること なきやと問ひしに以前は此の附近に出没せりと 伝へらるゝも今日本人の経営区域に入りてよる 絶て来る事なしと彼等は日本人を恐れての故か。 翌朝再び長春に帰へり満鐡の諸氏並に居留民團 諸氏の歓迎会に出席す満洲に於ける日本人は官 民の別なく親厚頗る厚く日本内地に於て御目通 りもならぬ身分の商人も官員様より呼捨てにさ るゝことなき程平民的なり、人間孤独の悲哀を 感ずる時は最も謙譲の徳あり 、植民地に於て 倍々國民の結束堅きは単に愛國的情緒に基くの みならず孤独の悲哀然らしくものあるを覚ゆ、 14﹁満洲探検回想録︵十三︶ 十一月六日長春を出発して再び鐡嶺に到る当地 の実業家権田氏の案内にて附近の鉢巻山に登る、 鉢巻山は日露戦役に露軍の屯せる城砦にて四面 絶壁天険の地形を占む、此山城は既に古代に於 て用いられたるものなるべし絶頂には三段の塹 壕をぐらし此處より石刀の破片及石鏃を発 見したるより見れば石器時代の昔より城砦たり し事明らかなり。 十一月十日鐡嶺を去つて開原に来り此處にて数 日間滞在して旅装を整へいよいよ是まで親しみ し満鐡と相別れて内地深く侵入することゝなれ り開原駅は開原城には程遠く全く満鐡中心の旅 舘商店あるのみ、予等一日馬車を駆て開原城を 観る、其壮大堅固の絶壁高塔は実に大陸的民族 の精神を発揮せるものと云はざるべからず、中 にも高塔の瓦に佛像を刻せるもの唐代の佛教 美術として精巧比類なし又開原駅より十三哩東 北の馬仲河駅附近には明代の長柵あり其辺門馬 千総臺門は駅の南方一里許の處に在り今は只門 跡を止むるのみ昔時明と蒙古の境界は実に此長 挿図⑧ 石碑嶺スケッチ

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佐藤醇吉﹁満洲探検回想録﹂をめぐって   ︱一九一二年鳥居龍蔵の第二回朝鮮半島調査の記録︱︵熊谷   常正︶ 予等翁に向て支那の革命政治に対する翁の感想 を聞きしに翁は何にか憚るものゝ如く革命政治 などは今軽々しく断じ難し時運の然らしめしも のなればやがて善美の政治たるを得べしと。さ れど翁の顔には明かに現政府を忌み帝王政治に 貴恋するの情見へたり。領事は翁に向つて日本 は貴国と同文同人種の國にて且つ日本の文明は 遠き古より貴国に受くる處多く日本の國教は今 も猶孔孟の道に養はる。貴國と日本の如此関係 あるを知らば今後世界の大勢に鑑みて両國倍々 相提携して東洋の文明を進め彼の白人種と対抗 させるべからずと説くや翁は喜色満面にれ椅 子より起つて恰も剣舞の如く身を躍らし白人を 撃つの状を装ふ有様真に小児の如く無邪気に見 へたり。 領事予等に語て曰く支那の学生は日本に留学し て多くは日本嫌ひとなりと帰へる。事小なるが 如きも我等外交の任に当る者に於ては痛切に日 本の損失なるを感ずと。然りは全く真実なり、 我等の観る處によるも支那留学生に対する日本 人の措置は甚だしく不親切なる處あり彼等を チャンコロと罵り下宿屋は多額の宿費を貪り 売婦を勧めて利得を山分けするものさへ■■■ 支那人を金銭の奴隷■■■る日本人が却て金銭 の奴隷となり■■■の堕落を喜ぶは果して君子 国を自称する國民の価値ありや。 12﹁満洲探検回想録︵十一︶ 此翌日領事の案内にて吉林郊外の関帝を観る、 昨夜の小雨にてアンコロの如き路を支那人力車 に乗りて行くこと一里許にして白樺のまばら に生い立ちし高丘の麓に到る、は即ち此高丘 の絶頂に在り恰も我が愛宕塔の如し、予等車を 下り喘ぎ喘ぎ此高丘を登りて絶頂に達すれば宏 大なる黒瓦の塀ありて門は堅く鎖され居たり、 コトコトと門扉を叩けば四五疋の犬一斉に吠え 立つるを聞き恐ろしさ言はん方なし︵満洲の犬 は性質猛悪にして人にひ附くこと珍しからず、 これ満洲を旅するもののしばしば経験する處な り 、︶やがて寺男の如きもの内より出て来りて 吠え猛る犬を制しつつ門を開きて予等を入れ本 堂に案内す、此處に本尊たる関羽の像を安置せ り、像の高さ一丈ばかりにしてさして古きもの にはあらざるべく紅、黄、青の生々しき支那一 流の彩色には嘔吐を催さんばかりに不快を感じ ぬ、これを美術的に評すれば原色其儘を喜ぶ洋 画の印象派に対する絶好の標本たるべし、鳥居 君曰くかゝる處に支那の民族性の表はるゝを見 るべしと、昨夜領事の言に支那は官尊民卑英雄 崇拝の國なりと云へるを聞きしが三國志の英雄 関羽は明かに彼等の理想の神たるを察するに足 る、さればにや満洲内地を旅して各處に関帝 の建立せらるゝを見る又商家の奥の間には何れ も関羽の画像の掛かれるを見れば彼等は一方に 福の神として祀るものゝ如し、 此附近一帯は風景よく春花秋月遊園地として市 民の 伺 を曳くもの多しと聞く領事の言によれば 秋は此辺り一面に秋草花開きて美しさたとふる ものなしと吉林は実に自然に恵まれたる都会と 云ふべし、 吉林には日本の居留民は甚だ少し、日本人の営 める旅舘とては至極粗末なるもの一軒あるのみ、 身母国に在らんには斯る粗末な旅舘に泊すべし と思はれざるも言語不通の異国に来ては日本人 の旅舘と聞きては何となくなつかしく一夜の夢 も安々と結ばれぬ、他郷に遊ぶにあらずんば故 郷の懐つかしさを知らず骨肉相離れて始めて友 愛の情切なり、國民的結合も母國を去つて倍々 然るを知る、 13﹁満洲探検回想録︵十二︶ 吉林には二日滞在して再び長春に引返へす、支 那旅行の危険は馬賊の襲来なり、予等吉林を出 発せんとして夜半空しく発車を中止されて旅舘 に再び逆戻りせる珍事を演じたりき、是れ或る 一群の馬賊鐡道線路に襲来する形勢ありとの報 知に接したる為めなりき、彼等馬賊は進行中の 客車に向て発砲し或は客車に侵入し来りてピス トル強盗を為すものあるを以て旅客の危険云ふ ばかりなし、 クラシックなる吉林より長春に帰へり来れば長 春は実に現代的なり何事も忙しげに騒々しく之 を活動の地と見れば可し而かもクラシックなる 思想に憧憬する予に於ては長春の文明より吉林 の古風を愛せざるを得ざりき、 長春に滞在の間満鐡会社の厚意にて附近の遺跡 地石碑嶺に行く寒風針の如き一日トロンコに乗

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盛岡大学紀要   第三十五号 林君一行を遇すること頗る懇切を極め旅情を慰 むること多かりき、 吉林は北方の都会なれども四面山を繞らせるを 以て奉天長春の如く寒からず何處を見ても古風 なる空気に充たされて何となく遠き昔の支那を 想像されぬ如此純支那的色彩を失はざるは今ま で鉄道がなく他と交通繁からざりし故ならん、 現代の文明に遠ざかれる吉林は未開を意味する ならんも平素自然を愛する画家に於ては未開の 中にして自然の趣味を感ずるなり、 吉林は実に森の都会なり、楡白楊樹の落葉して 毛の如く密なる小枝を青空に翳し灰紫色の瓦家 の其間に隠見する光景は全く画的なり、此等の 森は黄昏頃に至れば一帯に薄紫を混じたるコバ ルトの煙霞に包まれ其美しき形容すべき言葉な し、 10﹁満洲探検回想録︵九︶ 予等吉林に着するや林領事の言にて当市に満洲 史に通暁せる曹廣禎と云ふ老翁ありと聞き一行 直ちに領事並に通訳と共に馬車を駆つて翁を訪 ふ。門前に到れば執事と思ぼしきもの出で来り ていと重に一行を導きて翁の居間に請すれば 齢六十五六体躯肥満容貌高尚の老翁満面に愛嬌 を湛へつゝ出で来たりて一行に握手を交はし厳 冬の御旅行嘸御難儀ならん老宅諸君の来訪を無 上の光栄に存ずると支那独特の如才なき御世辞 を振り撒く處中々交際なれたるものなり一般に 支那人は交際上手なり。単り翁にかぎらず満洲 各所の大官豪商に会しても同一の感を起さしむ。 翁は曾て知縣を務めたる人なりとて容姿凡て当 世風にて支那服こそ着たれ頭も散髪して銀縁眼 鏡をかけ巻煙草を吹かす處老人ながらもハイカ ラ者なり、日本ならば知事をしたらん人は相当 の居宅を有するものなるに翁の居間は客室兼用 の薄暗き至極質素なるものにて一般に支那風の 間取りとして室の中央は土間左右は床壁の一隅 には書棚を設けて群書山をなせり。支那は礼儀 の國なりとは真なり。我等翁と対話中にも給仕 客の傍を離れずして茶、烟草を進め特に御念の 入りたるは給仕一々巻烟草を取りて客に進め其 名を忘れたるが苧殻の如きものに火を點じたる を持ちりて烟草火として進むるなり。 予等通訳を介して翁と数時間満洲の史跡に就て 対話したるが支那の学者だけに考証を明かにし て秩序的に研究を積みたる處あらざるも口碑伝 説を其儘に記憶し居る處頗る該博なるものあり 先年京大の教授内藤湖南氏も当地に来りし際満 洲史を翁に聞きて得る處多かりしと云へり、故 に翁は今も満洲史に通ずるものは恐らくは自分 と日本の内藤博士に及ぶものなからんと誇り居 るとか、予等翁と別るゝに及び翁は自著の医書 防疫芻言と題するものを一部づつ與へり、所謂 漢家の医論を蒐めたるものゝ如し。 11﹁満洲探検回想録︵十︶ 此夜領事の厚意にて吉林一の料理屋松華江第一 楼に晩の応を受く。此處は松華江岸の最も 見晴らしよき位置を占め折柄夕闇の空に星影清 く冴え渡り漫々たる松華江上には幾多の燈影長 くうねりて波間に躍る金蛇の如く恰も隅田河畔 の夜景を髣髴たり。 曹廣禎の老翁も又此夜の会食に参加してむしろ 此座の珍客なりき。斯くして卓を共にして談笑 に耽ける刹那は情に於て支那人日本人の区別あ るを知らず況して等しく黄色人種にして文字を 一にするを思へば全く親類の如き感なき能はず。 挿図⑦ 長春■■長柵ノスケッチ

参照

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