東南 ア ジア研究 12巻1号 1974年 6月
資料 ・研究 ノー ト
工 業 化 と 村 落 の 変 貌 (
Ⅰ)
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中郡 タ イの オ ム ・ノ-
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村落構成の推移 前 の稿 でオム ・ノー イ村 の地理的,歴史的,および現代 的位置づ げを試み,最後 に都市的進 出の状況を説明 したので, この稿では村 その ものに焦点 を合 わせ,特 に1
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年間について村落構成 の推移,水 田農家 の適応過程, な ら びに社会/圭活 Lの変化を分析す ることにす る01
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年以 降 と した]鞘 内の一つ は,都市的進 出に よる衝 撃がそれ以 前には 見 られない点 にあることは 言うまで もないが,調査技術上 それ よ り重 要 な ことは,た またま当時の水 田農家の状況報告が郡役所 に保存 されていた ことであ る。 この 報吾 は甲に農家 の世帯 に
名 と経営面
積 とを記 した書類にす ぎないけれど も,村 落生活の過去 と 現在 を比較す るための資料を収集す るうえで非常 に有益 で あるo タムボ ンとい うよ うな規模の 大 きい単イ加こつ いて変化の過程を社会人類学的に追求す る場合,調査の出発点 とな るよ うな基 礎的資料が必要で あるが, そ うい う手掛 りと して,農家状況報皆
は住民登録簿 とともに貴重な 存 在であることを この機 会に強調 してお く。 人 口 の 吸 収 過 去1
5
年間の変化の うち巌 も客観的で顕著 な局面 は,人 口や職業構成 とい った村 落の形態上 の変化である。 郡役所に届 け られたオム ・ノーイ村 の月別 出生死 亡件 敬, および転出転入件数*
京都大学東南 ア ジア研 究 センタ-2
5
東南 アジア研究 12巻1号 を整理 し,1969年 1月現 在 の人 口 5,816人 を基 礎 に して過去 10年 間の人 口の推移 を再構成す る と表4の ど と くで あ る
。
郡
下 の人 口推移 を同じよ うに して算 IH1,す る と表5の よ うにな るが,両 者 の傾 向は きわ めて対照的で あ る。 表4によ ると,村 の人 口は1963年 1月か ら1972年 9月 までの約10年 間 に,3,406人か ら6,930 人 に膨 れ上 が り約2倍 に急増 して い る(〕 これに対 して郡 の人 「廿ま同 じ期間 に1.4倍 の増加 をみ るにす ぎない。 他 の統 計を検 討 して も (表 6参照), 郡全 体,県 全体 と して は増加 の割合 は低 く全 国平 均 の1.3倍 を下回
り,流 出の傾 向が うかが え る()オム ・ノー イ村 の特異な人 口増加 は, 工 業化 とい うこの村 の特殊 な状況 に もとづ く人目吸収 力にillうところが大 きい。 郡全 体 と しての人 I_1増加数9,()29人 の うち74.4% は 自然 増 に もとづ き, 社会増 は25.6% にす ぎない。 これに対 して オム ・ノー イ村 では, 増加分3,524人 の うち自然増 は22.7% にす ぎない のに比べて,社会増 は77.3% を示 してお り,郡
の傾 向 とち ょうど正反対で あ る。 自然増 につ いて は, オ ム ・ノー イ村 のほ うが郡全 体 よ りも蓄積 率は わずか なが ら低 いが,両 者 の問 に顕著 な差 異は見出 されない.事
実,1963年 の人 口1,000人に対す る10年間 の増加数 は, オム ・ノーイ村 で234人, 郡会休 で は 261人で あ る。 このわず かな 差異 は両者 と も基 本的に同 様 な傾 向 をた ど りなが らも, 出生 率 に若干の違 いが ある ことに もとづ いて い る。す なわ ち郡 全 体 につ いてみ る と, 人目 1,000人 に対す る死 亡者の割合 は10年をつ うじて ほぼ一定 して 6.3-7.5人で あ るが, 他 方, 出生者 の割合 は38.0人 か ら26.4人 と低下 して い るた めに, 結果的 に 自 然増 は人 口1,000人 に対 して30.2人 か ら20.0人 へ と低T Lなが ら蓄積 されて い る。 オム ・ノー イ村 で も同 じ傾 向がみ られ, 人 口1,000人 に対す る死 亡者 の割 合は10年 をつ うじて 6.9-9.4人 とほぼ一 定 して い るが,他 方, 出産者 の割合 は42.0人か ら20.1人- と低下 して い る。 出生
率の 低下 は人 口1,000人 に対 して 32.6人か ら11.1人- と低下 しなが ら蓄積 され るので, 蓄積 の度合 は郡全 体 よ りも少 し下 回 ることにな る。 オ ム ・ノ ー イ村 と郡 全体 の人 口推移 の本質 的差 期 ま自然増 よ りも社会 増 につ いて顕著 で あ る。 とい うのは1963年 の人 口1,000人 に対す る10年 間 の社会 的増加数 は郡全体で は90人 にす ぎ ないのに対 して, オ ム ・ノー イ村 で は800人 に も達す るか らで ある。 表 4,5か ら明 らか なよ う に,郡全 体で は転 出者 が転入者 を上回る年 が4年 もあ り,転入者 が最 も多い年 で も,社会増 は 人 口1,000人 に対 して23.9人 にす ぎない。 これに比べてオ ム ・ノー イ村 では, どの年 につ いて も転入者 は転 出者 よ りも大幅 に上回 り, 転入 者が最 も多い年で は社会増 は人口1,000人 に対 し て132.9人 とな って い る。 ことに 1967年以 降,工場数 が急 増 したのに ともな って社会増 もまた 激 しさを加 えて い る。 したが ってオム ・ノー イ村 の 人 口増加 は 工 場建設 に もとづ く 流入 人 口に 帰せ られ ることは 明白で あ る。 もっと もそればか りか,工場建設 は逆 に流 出人 口の抑制 力 と して作用す る ことも 当然考 え られ る√)その摩合 を直接示す質料 は ないが,大雑把 な推定 をす るな ら,現在,村 内の 26水野 :工業化 と村落の変貌 (Ⅱ) 表 4 村 の 人 [」推 移 (1963-1972) 63 64 65 66 67 68 69 70 7-7 2 円 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 ま つ⊥ 11 1 1 1 1 1 1 一J 1 ( :i m/I 加 増 63 64 65 66 67 68 69 m 71 72
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38 舶 仙 51 訓 E3 死 「1 3 -只U 4 6 7 2 9 2 「1 5 9 0 7 5 8 9 りん LJ 2 3 4 2 2 4 3 」7 9 7 1 1 9 6 9 cc 5 6 1 2 1 nU ハU 9 6 7 6 6 6 パリ l 「 -1 0 9 .4 一八. 7 8 5 ハU 6 」「 一・ 1 7 9 バリ 5 8 J .. 4 9 7 1 1▲ l 1 1J 1 2 3 1 11 798 r 表 5 郡 の 人 口 推 移 (1963-1972) 亡 =1 71 49 81 別 82 79 23 08 7 「レし リム ↓-「l 「J 1 l 1 2 2 1 †んノ 777 767 1.303 839 1.964 1.322 694 695 759 615 862 875 (;72 1.169 803 1 682 993 1,110 393 . 1.881 1,()34 表 6 郡・
県
・全国の人「用巨移 (196()∼1970) 人 11 1 世 帯 数 一世帯平 均 t : ∴ __二 グ ラ トゥム 19701 40,925 6・855i 6・0 農 家 数 3,718,361(62.5%) 3,410,309(73,9%) 11,199(34.0〝 ) 13,976(5().3〝) 2,867(41.8〝) 3,269(61.3〝) 27 社 会増 「 人目(1月) 1 4 7 4 7 只い り山 2 3 父U O 7 9 6 1 だU 4 5 3 7 1 1 2 1 -2 「1 2 7 5 2,726 3,406 3,618 3,893 4,299 4,459 4,645 4,991 5,198 5,516 6,310 6,930 (9月宋) 3,524 536 25,719 148 25,960 642 26,881 - 64 28,362 -- 13 28,964 -117 30,632 274 . 31,197 761 32,106 847 33,508 34,748 1 2,308 . 9,029 農 家 人 口 19,589,705(74.6%) 69,575(34.7%) 86,674(52.3%) 17,503(42.8%) 20,906(63.9%)東南 アジア研 究 12巻1号 全 世帯 の うち約 半数 は流入世帯, 他 の半数 は在住者 の世帯 で あ って, 後者の うち3分 の2は 1957年 当時 の 世帯 ない しその蹟接 の系統 を 引 くもので あ り,残 り3分 の 1はいわば村 に留 ま っ た分 出者 の世 帯で ある。 しか も分 出者のなか には農家 は きわ めて少 な く,大部分が工場労 働者 で あ る。 た とえば部落
No
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,No
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2,N
o.3,No.1
1につ いてみ ると, 現せ描手数4
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軒 の うち流 人世帯
は212軒,1957年、榊 寺の世帯
ない しその酎 妾の系統 を 引 くもの132軒,村 内に留
ま った分 出 世帯 は60軒で あ る() 非 鼻 家 の 増 大 工場建設 を契機 とす る人 口の急 激 な増大 の う らには職 業構成 の変化,す なわ ち非農家 の増大 と水 田農 業 の衰退現象 が と もな ってい るoオ ム ・ノー イ村 の世
帯 数 は,表 7の ど と く1957年 に 449軒で あ ったのが, 1972年末 には 1,182軒 とな り,過去
18年間に 2.6倍 に膨 れ上 が って い る0 人 仁丹ま1
()年 間 に2
倍 の増加 をみたか ら, ほぼ これ と同 じ程 度 に 世帯 数 も増加 した と推定 され,一
世帯 当 りの平 均 は現存 5,9人で あ る。25) 世帯 数 の増加 は水
「H農家 の減少 を大幅 に上回
る非農 家 の増大 に もとづいて お り, ことに二と二場労働 者 世帯 数の増 加がい ち じる しく,飲 食 ・小売店 の 乱立 も印象 的で あ るo 表 7 世 帯 数 の 推 移 (1947-1973) 部 港 1972 官 吏 等 商 売 労 働 者 畑 作 農 ㍗ ;_ f・・ . * 全 世 帯 N o・ 1 ㌢ 42 14 9 18 ∴ N o. 8 : 30 1ノ1 3 12 N 。. 9 ! 3 ≡:言 .i 、 8 18 2 15 畑作
農
* 水 山 農 ll 2 7 /15 45 2 -1 38 13, 17 /1 3() 17 I,13 日 S lli9 No. 12聖 106 3 3 84 14 2 6O ll 1 1957 商 亮 EF 労 働 苫 4 7 「 ・⊥ 〓 ︰ L. I. ー 」 2 9 一 6 -- ■■-「J d」 f 2 2 E f 6 2 一 2 T 1計
・1,182 193 27 848 83 31 .4A9 303 - 129 10 l *は郡役所の記録 :他は聴取 り 7 頃 ¶ 聖 全 世 帯 -0 4。 訓 1 ・ 0 -0 --1 -1 、 -け -19 i 258-トα25) 他の調査(YutSakdejayont;VillageIJifeNear13angkok,SEASI)iscussionPaperNo・65,1973,p・8,I
p.ll)によると平均 6.8人であるが, 高い理由は調査対象に流入世帯があまり合まれていなかったこ
とにあるL
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思われる0水野 :工 業化 と村落の変貌 (Ⅱ) 戦後1947年 頃, オ ム ・ノー イ村 はほ とん ど全世帯 が水 田農 家 で あ った とみな して よ く, その 数 は約300世帯 と推定 され る。 そ して10年 後の1957年 当時で ち, これ らの農家 が村 落構 成 の基 礎 をな して いたO もっとも表7に よ る と,1957年 当時すで に,129名の労働者 世帯 が居住 して いた ことにな るが, その大 部分 は工場労働者 ではな く,運河改修工事 の人夫 と して,農 業労働 者 と して, あ るいはそのほか 雑 多な 日雇的労働者 と して, この村 に 流入 して きた人 々で あ っ て, もともと安定 した職 を持 たない渡世人 的性格 の労働者 で あ った。 しか し今 日で は,労働者 といえば, ほ とん どすべ てが 工場勤務 の労働者,現 場監督, あ るい は警備員 や 運 転手 と して 働 く人 々を 指 して い る。 そ して労働者 の 世帯 は15年間 に129軒か ら 848軒 と6.6倍に増加 した。 そ して工場労働者 の増大 に刺激 されて,飲 食 ・小売 商を営む者 も増 加 し,1957年 当時10軒 にす ぎなか ったのが現在 で は53軒 に増加 して い る。 こ う した非農 家 の急 速 な膨張 とは逆 に,水 田農 家 の数 は303軒か ら193軒 - と急 速 に減少 してい る。 全 体 と して減少 率 は36.4% にな るが,現在水 田農業 に従事 してい る者 の系譜 はつ ぎの よ うで あ る。 表8が示す よ うに,26)1957年 の水 田農 家 の うち現 在 も水 田農 家 に従事 して い る者は,世代 の 交 替 を も含 めて47.1% (136軒)で あ るo 同世代継続者 とは 世帯 主が図- で あ る場合 で あ り, 異世代継承者 とは, 子供 の うち誰かが親 の家で 引き続 き水 間農 業 を営んで い る場合 で あ る。 さ らに,水 田農業 を放棄 し,他 の職業 に転 じた者 は32.5% で あるが, そのなか には世帯主 が変 わ らぬ場合 (同世代 転業者) と子供 に 世帯 主 が移 って しま ってい る場合 (異世代 転業者) が含 ま れて い る。 残 り20.4%は大部分 が一家転 属組で あ り絶 家 が若干含 まれて い る. したが って1957 年 当時の水 田農 家 の うち半数以 上 は転職 した り,他 の ところに移 動 して しまい, 半数以 下が同 - の世帯主 の もとで, あ るいは 子供 を 世rt#主 と して水 田農業 を続 けて い る ことにな るi O そ こで1972年 の水 田農家 をみ ると, 同 世代 と異世代 を合 わせ た77.8% (136軒)は,1957年 当 時 の農 家 を直接 引 き継 いで い る ことがわか る。 残 り22.2%は新 しく水 田農家 とな った世帯 で あ 表 8
水
田 農 家 の 系 譜 1957の 水 田 農 家 ( )内実数 1972の 水 田 農 家 同 世代継 続 普 28.1% (81) ( 同世 代継 続 者 46.2% (81) 転 居・・絶 家 2().4% (59) 「 計 100.0% (289)* 計 100.0% (175)* *は部落N0.9を除 く実数 26) 部落 N0.9については, 1957年当時の水田農家の名簿がな く調査不能であったので,表8の実数は 1957年289軒,1972年175軒としたときの割合である。 29東南 アジア研 究 12幾 1号 り, その うち分 出によるもの
7
.
4
%
(1
3
軒),入村 によるものが1
4
・
5
% (
2
6
軒)で あ る。 入村者 の大部分 は他村か ら小作人 として移動 して きた 世帯で あるが, なかにはオム ・ノー イ村で親 の 農地 を相続 したため帰村 した例が若干 みいだ され る。 農 業 の 衰 退 このよ うに過去1
5
年 間の農家数の減少 はいち じる しく, 水 田農家の仝 担う削こ対す る 割 合 は1
9
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年 にほぼ1
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0
%
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年 には6
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2
年
には1
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・
3
% に低下 した (表7
参照)。 しか も, さきに述べたよ うに,1
9
5
7
年以 降の労働者 の性格 はそれ以 前 とは 全 く異 な ってい る。 これ らの数字を表6に示 した郡,鬼,全 国の農家数の推移 と比較す ると, 工業化 を中心 とす る都 市的進出の衝撃 を蒙 ったオム ・ノー イ村 が, いかに急速 に変化 して きた かが明 らかで ある。 非農家 の増大 とは逆 に水 田農家 の減少がみ られ ることは,オム ・ノーイ村 の水 田農業 その も のが衰退 しつつ あることを物語 ってい る。1
9
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年 当時,オ ム ・ノーイ村 の水 田経営 面積 は全体 で1
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,
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2
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ライに縮小 してお り, それは4
4
.
3
%
減 に相 当す る。 この ことは脱農転業者が多い ことか ら当然であるけれ ども,現在水 田農業 を継続 してい る 者で さえ経営面積を縮小す る傾 向にあ り,一 世帯 当 りの平 均経営面積 は1
9
5
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年 当時の3
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7
ライ か ら1
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.
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ライに減少 して い る。1
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年 と1
9
7
2年 の 自小作別農家形態,および 自小作別面積 は表9
の どとくで,両年代 の問に それほど大 きな差 は見 られない。 しか し自作農, 自小作農,小作農 について減少率をみ ると, 表 9 村内自 ・小作別
農家形態 ( )内実数 自 作 農 自小 作 農 小 作 農計
1957 1972 1 1 1 30・7% (89)㌔ 36・5% (61) 166:0% (2示 十 100.0% (176) 表 10 村内自 ・小作別経営面精
( )内実数ライ 自 作 地 小 作 地 計 1957 ( 1972 38.8%(3,805) 39.6%(2,078) 100.0%(9,831)!loo.0%(5,240) それぞれ3
2
.
9
%,6
6
.
7
%,2
8
.
1
% で あ り, 白小作農 の減少率が他 の ものに比べて顕著 で あ る。 この点 は,一般的にい って,村人 が小 作を してまで経営面積 を拡張す ること は無意味だ と考 えていることを 示 し て い る。 小作農 の減少率が 予想 したよ りも大 き くない ことは, それが入村者 によ ってあ る 程度補充 されてい るか らであろ う。 以 上, オム ・ノーイ村全体 について過 去1
5
年間の人 目膨張,非農家の増大,水 田農 業の衰退 について眺 めて きたが, こうした 傾 向は一様に進行 しているのではな く, こ まか くみれば,部落の間に違 いが見出され る。 工場の近 くにある部落No.
2
,No.
4
,水野 '.工業 化 と村落の 変貌 (打)
No・
6
,No・1
2
,は変化が激 しく, 周辺部の部落No.1
,No.
3
,No.
8,
.N0.9
は農村 的性格 が比 較的濃厚で あ り, 残 りの
部
落No.
5
,No.7
,No.1
0
,No.ll,No.I
3
は中程度で あ る (前守,p,474の地 図参照)。 これ ら三つの区域 ごとに現在の非農家 の割合,過 去15年 間の水 田農家 減少率,経営 面積減少率を示す と表
1
1の どと くであ る() 表 11 村内水閏農業の衰退状況 (1957-1972) 現 存 工 場 数部落
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3
9 村 全 体
5 .lり ∴ 二 ‥ 二 ・ _一 二 転 居 兼 家 すでに触 れた よ うに,1957年 当時の水 田農家 の うち20.4% は一家転属組 ない し絶 家で ある。 ただ し, その59軒 の うち絶家 5軒,不 明が 6軒 あるので,残 る48軒について移動先 と時期を示 す と表12の どと くである。全 体 と しては, ここ10年 間に- 家転届が増 えてお り,村 内転属は20 秤,-家離村 は25軒である.両 者の閲には職業の点か らみて興味深 い差異 が見 出され る。村 内 転居者 の場合,大部分が移動 とともに転職 してい るのに対 して,村外転 出の場合 は, ほ とん ど 全 部が農村 部に屠住先 を移 し,稲作 ない し果樹畑作 に従事 してい る。 また一家離村 とい うかた ちで都 市に移動 した例 は,かつて水 田農 家で あ った者 のなかには見 拍されない。 村 内転属者 の現職 は表13の ごと くであ り,20軒 の うち16軒 が職業 を変 え,農 業にたず さわ る 者 は 4軒 にす ぎない。 その 4軒 は ともに20ライ以 上 の農地 を所有 してお り,同
じ自作農 で も規 模の小 さい農家 は労働者 にな っている。 自小作農 5軒 は,すべて 自作地 が5ライ程 度 しかな く, 所有地 を処分 し, その金で工場 に近 い便利 な場所 に宅地 を購入 して転居 した世帯 であ る。 小作 農7軒 の うち6軒 は同 じよ うな理 由で, しか しよ り迫接的には地 主が土地 を売却 したのを契機 と して労働者化 して しま った。他 の 1軒 は20ライの農地 を相続 したために移 動 して水 田農業 を 営む 世帯で あ り,小作農ではあ ったが, もともと自作農的性格 をひめた農家 で ある。 これに対 して一家離村 者28軒 の うち転職 した者 は労 働者 1名 , 散 髪屋 1名,小売店 1名,家 鴨飼育者 1名の計 4軒にす ぎず,他 の24軒 はすべて農業 に従 事 している。 そのなかには,かつ ての小作農 のみな らず, 白小作農 や 自作農 も同様 に含 まれてお り,かれ らは,地 主が水 田を売 却 したために, また自分 の土地 を分譲地 に売 り渡 したために, あ るいは借金返済 のために農地 を処分 した後に, 経営条件 の よい ところ, も しくはよ り安価 な 土地 を求 めて移 動 した人 々で ある。スワ ンル ア ンダ, ノー ング ・ケ- ム,サ ンプ ラー ンなど近 くの郡 に適 当な場所 を見 出さ 31東 南 ア ジ ア研 究 12番 1号 なか った者 は,遠 く西 に離 れ た カ ンチ ャナ ブ リー, プ ラチ ュアブ ・キ リカー ン, ラ ヨ ン地 方 に 移 動 し果 樹 畑 作物 の栽 培 に従 事 して い る。 蓑 12 転 属 家 族 数 1957-1961 : 1962∼1966 . 1967-1972 県 内 他 村
4
3 計 頚 p職 … 農 農 農 作 1 作 作 m 計 \ 1 / 日 日 中 I 農農
農 作 にト . F Ⅳ川相 打 M柑 \.」 ′ノ 白日
小 8 19 12 3 6 21 表 13 村 内 転居
者 の 職 業 5 1 7 1 1 表 14 -・家 離 村 者 の 職 業 6 -1 7 ' 7「l 2 3 2 7 1 1 2 ・1 計 . 20 m 18 4 汁 7 5 8 ⊥-9 8 1 「 8 ・.J・日 . ー リ.1 V 水 田農 家の 適 応 過 程 村 落構 成 の推移 につ いて述 べ た こ とか ら明 らか な よ うに, オ ム ・ノー イ村 で は稲 作 放棄 -脱 農 化 の傾 向が きわ めて観 著 で あ るO そ こで つ ぎに1957年 当時 の水 田農 家 が そ の後15年 間 に生 じ た環境 の変 化 に と もな って, どの よ うな過程 を経 て変化 して きたか を標本 調 査 の 資料 に もとづ いて追 跡 しよ う。標 本 数 は35軒 , 母集 団 は1957年 当時 の水 田農 家303軒 か ら転属 ・絶 家59軒 を 除 い た244軒 で あ る。27) 生 活 歴 被 面接農 家 の世帯 主 は1名 を除 いて他 はす べ て 男性 で あ る。年 齢 は最高78右 最低47才で, 27) サ ンプ リングについては, 各部落について1957年の水田農家の名簿のなかか ら転属 ・絶家を除き,そ こか ら3分の 1を無作為寸離 日J,全部落を訪門する予定であ-'た. しか し結果的には, この標本調査 のために訪れた部落は No・4,No・6,No・7,No・12の4部落であった。 これ らの部落は先にも述べたよ うに (表11参照)工業化の進んだ区域を代表 している。 したが って以下の分析は,ある点にかん して村 全体の傾向を幾分強調する方向に傾 くので, 変貌の姿を多少 とも誇張することになるか もしれない。 32水野 :工業化 と村落の変貌 (Ⅱ) 平均年齢 は
6
0
.
9
才で あるO したが って, これ らの 世帯主 は生活力の旺盛 な時期 にそれぞれの環 境 の急激 な変化 を体験 した ことになるO しか し, それまでの生活歴 は単調で, きわめて農村的 な性格が強 く, どこの村 にで も見 出され るよ うな特徴 を示 して い る し, また きわめて等 質的で あ る。 もちろん個 々の農家の事情 は異 な るので,生活歴 も完全 には同一ではないけれ ど も, そ う した違 いが適応過程 に強い影響 を与えているとは思 われない。 各世帯
は全体 と して土着的色彩が濃厚 で ある。35名の うち25名は現住部落に生 まれ, そ こで 結婚 し, 世帯_主 とな った もので,そ03期間は平均 して33.8年 で あるO他 の7名の うち2名はオ ム ・ノー イ村生 まれ,残 る5名はバ ンコク, トンブ リ-, およびナ コー ンパ トムの農村 部生 ま れで あ って,か れ らはいずれ も幼少年期 に両親 とと もに当地 に移 住 して定着 し, そ こで生活を 築 きあげた在住者 である。 世帯主 の期間 も平均す る と,やは り33.5年 と非常 に長い。 世帯主 の教育歴 はすべて小学校 を こえ ることはない とい って も過 言で はない。 このよ うに学 歴 は非常 に低 いけれ ど も, 当時の他 の地域 と比べ ると教育の普及 は良好で あ った と思 われ る。 とい うのは,オ ム ・ノー イ村 あた りはバ ンコクに近 いために,1921年 ヴ ァジ ラウ ッ ト王が勅 令 によ って 小学校教習を 義務 づ けた年 にい ち早 く校舎が 新築 されたか らであ る。 したが って, 修了 していない場合 もあ るけれ ど も,59才以 下の世帯主 はほとん どすべて4年制小学校 に通 っ た経験が あ りその数 は12人 である。 89才以上 の世帯主 のなかには 寺 予屋で教育を 受 けた者が 多 く,15人がオ ム ・ノーイ寺 で読み書 きを修得 して いる。 残 る8
人 は全 く無学 であ り, その う ち 6名は小作農 であ ったO なお,小学校通学者 のなかには, 4年 を終 えて さ らに 1- 2年勉強 を続 けた者が2名いる. 小学校 を終 え る と,村 落部では普通-般 にそ うであ ったよ うに,僧 呂 の得度式 までのあいだ家 事 ・農業の手助 けを して過 ごす。オム ・ノーイ村 では僧 呂 と して寺院 で修養す る者の割合が比 較的高 く,34名の男性世帯主 の うち経験 のない者 は3名にす ぎない。 他 の31名は1回ない し3
回の安居期 を寺で過 してい る。 かれ らの大 部分26名はオム ・ノーイ村 で僧 呂 とな り,他 の 5名は近隣の村 の寺院で得度式 を受 けてい る。 こうした生活歴 か らわか るよ うに,村人 の生活空間は きわめて限 られた ものであ った。年 に 何回かバ ンコクに 出か けた り, また兵役 に服す る機会 に都会 の空気 に触 れ る ことを除 くと,大 部分 は出様 に遠 く- 出か ける こと もな く, ほ とん どが限 られた範 囲のなかで もっぱ ら水 田農業 に従 事 していた。 世 帯主34名の うち13名が兵役 に服 してバ ンコク, トンブ リー に駐 在 した経験が あ るが,
帰村 後 と くに異 な った職業 に従事 してい る様 子はない。 また出稼経験者 は5名にす ぎず,か れ らは バ ンコクに数 カ月
滞fi三して官庁 の雇人 と して,大工 と して, あ るいは釘 の箱 詰め作業員 と して 働 いてい るが, すべて 1回の 経験 を もつのみであ って 毎年 出か けるとい うことは なか った。 これ ら5名の山稼 経験者 は現在水 田農業 を継続 して い る者 のあいだではな く, 転業 した者 のな か に見 出され る「)ただ しその経験が現在 の職業 を選択す るうえで特 に影響 を与えた とは思 われ 33東南 ア ジア研 究 12巻 1弓・ ない。 さ らに世 帯主 のなかには,かつて農事の合間 に家畜 商を営んだ者2名,果物 の行商 に出 か けた者2名, また最近飲食店 を営んだ り,副食品を商 った りしたが, お もわ しくな く中止 し た者 2名がい る。 これ らの経済的活動の経験 も現在 の職業 とは直接結 びつかない。ただ 1名だ け,若 い頃か ら商 いに関心があ り,わずかな所有地 を小作 させて, 自給米程度の 自作 をす るか たわ ら種 々様 々な仲買 い活動 を続 けていたが,現在,村 と しては比較的大 きな小売店 を経営す るまでに発 展 してい る者が ある。 バ ンコク-の外 出について は,現在では職業 によ って頻度 と目的は異 な る。 すべての人が農 業 に従事 していた15年前 についてみ ると, 2名を除いて他 はすべて買物,農 具の修理,親戚 訪 問,病院で の診療 のためにバ ンコクに出向かない年 はなか った。 その頻度は21名が年 に数回, 10名は毎月何 回か,そ して 2名が毎 日のよ うに出か けてい る。 2名の うち 1名は母 が病気 だ っ たた め,他 の 1名は保 険会社 の仕事 を引き受 けていたか らで ある。そ して毎月何 回か出か けた 10名は,すべて 自作農家の世帯主 のなかに見 出され るので,小作農 よ りも自作農 のほ うが都会 に出か ける頻 度が高か った といえ る。 全体 をつ うじて言 えそ うな ことは,小作農 よ りも自作農 のほ うが, どち らか とい うと教育程 度がやや 高 く,生活空間 も幾分広 く, それだ け一般的な知識や都会 の空気 をよ り多 く吸収 して いただ ろ うとい う点で ある。生活歴 のその他 の点につ いて は,特 に現在の職業や転業事情 に結 びつ きそ うな有意義 な差異 は見 出 されない。 農 家 形 態 水 田農 家35軒 の適応過程 を意味 のある仕 方で追跡 しよ うとす る場令,基礎 とな る 手 掛 り は 1957年 当時の農家形態で ある。 表15は1957年 の 自作農 と小作農 について農地 所有 と経営面積 の 表 15 農 家 形 態 と 転 業 状 況 農家形態 極 有 秦 表 借入 経営 放 置 ! 現 職 極 肯 貸出 借入 経営 這 置 (面積単位 :ライ) 適 応 類 型 侶 乍勘 56.112.817.159.4 1.O 了転業
1
軸 '54・453・3 0 ('・8(
巨 自作 -隠 居 型 5軒 22軒 小 作 農 13軒 34(
)
0 27.328.3 0 継続11軒 45・0 7・5 7・128・216・4.自作 -継 続 型 8軒
0 015.715.7 0.・小作 -継 続 型 3軒 転業10軒
J 0 0 0 0 (‖ 小作 -労働者型 8軒
1 0 0 0 0 0.小作 -隠 居 型 2軒水野 :工業 化 と村 落 の 変 貌 (Ⅰ【) 状態を一世帯 平均 と してかかげ,ついでそれぞれの農 家形態について継続組 と転業組 に分 け, さ らに現在 の職業活動 の特徴 に もとづいて細分 した うえで, それぞれにつ いて農地 所 有 と経営 状況 を一 世滞平 均 と して示 した もので ある。 1957年 の 自作農組22軒 のなかには地主 自作4軒 および 自小作が9軒 も含 まれてお り,完全 に 自分 の所有農地 のみを 自 ら耕 作 してい る だ け の 自作 農 は6軒 しか ない028)全体的な傾 向 と し ては, これ らの農家 は経営面横 を50-60ライに近 づ けよ うとす る点 にあ り, それ以上所有 して いる場合 は貸 し与えることはあ って も, その程度の所 有であれば原則 と して貸 し出 した り借入 した りせず,所有 面積 が20-30ライであれば,他 の農地 を借用 してで も経営 面横 を拡張 しよ う と努力 していた。60ライ程度 の水 田を経 営す ること, そ してで きればそれだ けの水 田を 自分で 所有 しうることが当時の理想で あ った と考えて よい。 これに対 して小作農観 は農地 を全 く所有 せず,平均30ライた らずの農地 を経営 していた人 々で あ って, そのあた りに小作人 と しての限 界が あ った。 なお, これ らの小作農 のなかには戦前農地 を失 った者が しば しばみ られ る。 これ ら自作農組22軒 と小 作農組13軒について,現 在の職業的活動 を検 討 し,過去 と現在 を比 べ る と, ここ15年 の間に蔑つかの適応過程があ った ことがわか る(,今 日まで水 田農業 を継続 し て きた
自作
二継続型 (8軒),お よび小作 -継続型 (3軒),積極 的に脱農転業化 した 自作 -宿 動型 (8軒), お よび小作 二労働者塑 (8軒), 隠属を機会 に脱農 した 自作 -隠屠型 (5軒), および小作 -隠屠型
(2軒), そ して 自作 -没落型 (1軒) で ある。 これ ら個 々の適応 過程 を 明 らかにす るに先立 って, オム ・ノー イ村全体の稲作放棄 一二二脱農 化に とって注 目すべ き事象 杏 あ らか じめ時代 を追 って指摘 してお く。,第
一一は1957年以 来,分譲地 ・工場連出 の予
定 とと もに水tljの非
農業的価値が高 ま り, 自作農 家 のなかには値上が りに刺激 されて農地 を手放す者 が現 われたが,かれ らはその段階 で脱農化 したわ けで はな く, まず 臼か ら進んで小作農 にな った ことであ る。 したが って村全 体 と して は- 時的に小作農 が 増大 した ことになる。 第二 に1965年以 降, 工場が乱立 しは じめると, か っての小作農 を中心 に労働者化が進行 し,家族 および村 内の農業労働力が奪 われた。そ して第 三 に,多 くの者が工場で働 くよ うにな った結果,農業 と労働者の生活や収入 を比較す る ことが 可能 にな り,村人が農業 の不利 な点 に気付 きは じめた。 その ことは脱農 化に拍車をか けたが, 他方, それは,1957年前後か ら病虫害 と鼠 の被害 によ る不作が続 くとい う事 態 と重な った。第 四に, ところが不作 の事態 とは反対 に,経営費 の増大 は避 けがたい ことで あ ったので,稲作条 件 の悪化が村人 の間に強 く意識 され るよ うにな り,今 日では一般 的 な風潮にな ってい る。第五 に, こう して苦境 にたた された農家 は,かつての小作農 ばか りか,小作農化 した 自作農 も決意 を余儀 な くされて 一挙 に脱農 転業化 の 道 を歩 む ことにな った。 事実, 転業組24軒 の うち7
1
%
28) 以下,とくにとりたてて言わないかぎり,自作農組はこれらの農家形態を合むものとする。 35東南 アジア研 究 12巻1号 (17軒) は, ここ5年 間,す なわ ち1967年以 降 に水 田農業 を放棄 した人 々で あ る。 村 人 の脱農理 由をそのまま列挙 す ると
,第
一 に,子供 が工場労働者 にな った り, また他 出 し て しま って労働 力がな くな って しまい,水 牛を放牧 に連 れ 出す ことさえ出来 な くな るとい うよ うに,家族 労働力の損失 を理 由 とす る者,第二 に,病虫害 あるいは工場汚 水 のた めに収穫 が お もわ しくない とい うよ うに収 量の低下 を理 由 とす る者,第 三 に,水 田農業 には資金 を投下 しな ければな らないが,収 量が悪 く, いつ も赤字経営 にな るとい うよ うな経営条件 の悪 化 を理 由 と す る者12名,第 四 に, その ことは小作農 に とって きわ めて不利 な状況 を もた らす とい うよ う皮 小作条件 を理 由 とす る もの3名,第五 に,家族労働力が な くな ったばか りか,工場労働 の機会 が多いた めに人 を雇 うことが困難 で あ り, 労賃 も商い とい うよ うに雇用労働 を理 由 とす る者5 人,第六 に,老齢 化 を理 由 とす る者 が4名い る。 稲 作 条 件 表16は1957年,1967年,1972年 につ いて稲 作- ライ当 りの経営状況 を概算 した もので あるO この表か ら, オム ・ノー イ村 の水 田農業 につ いて,近辺 の村 で は見 出 されないよ うな特異 な変 化 が うかが え る。 第一 に気付 くことは,1957年 に比べて1967年 の経 営状態が きわ めて悪 い こ と,第二 に,現 在水 田農業 を継続 して い る農 家 はその悪条 件 に持 ち こたえ, あ るいは旧来 の稲 作 に対す る態度 を変 えた者 で あ る こと,第三 に,純収益 を見 ると,1972年 には一 見 した ところ 1957年 当時 に回復 したかの よ うにみえ るけれ ど も,実際 には経営 費の増大 に見合 うだ けの収入 を得 て い るわ けで はないか ら,効 率 と して は1957年 当時 よ りも憩 い とい うことで あ る。 ま った く 「農 業をす るには金 が い るが,
」
「経 費 をおさえて も損 をす る」 ので あ って,
「ここ7 - 8年来, この よ うに農 業 は悪 くな った」 とい う考 え方 は稲作 を放棄 した者ばか りで はな く, 村人一般 の間 に 広 く浸みわた って い る。 調査 票によると,
世嵩主35名の うち28名は 最近農業 は 「や りに くくな った」 と答 え, 「や りやす くな った」 と答 えた もの は4名にす ぎない。29)そ して29名 の うち13名が,や りに くくな ったのは「1965年以 降」の ことで あ ると し,8名は 「1965 年以 前」
と答 え,残 る6名 は 「1957年以 来」 あるいは 「音か ら」 と答 えて い る。 表 16稲
作経営状況の推移 (-ライ当 り) 粗 収 益 経 11i JT^ 111亡 軒数鞘
労働力両 金 額離
肥料等(
単位 :ライ,タング,バーツ) 籾 種 恒 賃 小 作料い 十 く純収益 1 1996577 i ≡; 甘 ….';:'三:: ; ;…≡.I;: ::;::;;:; 卜 …二55:5;.'23:;≡:;.:1;06:…了 ;67:33 8j163・4i 18314 29) 「やりやす くなった」理由としては,耕転機の導入にともなう肉体労働の軽減をあげている。 36水野 :工業化 と村落の変貌 (Ⅲ) そ こでつ ぎに, 粗収益 と経営費の 推移 を追 いなが ら稲作条件 の悪化の様 子を記そ う。 タイ 全体 の反 当収嶺 は戦後着実 に伸 び,
1
9
5
7
年 当時--ライ当 り1
7
6.
0
キ ロであ ったのが,1
9
6
7
年 に は2
6
8
・
9
キ ロ,1
9
7
0
年 には2
8
7
.
9
キ ロとな って3
0
0
キ ロに近 づ きつつあ ったO中部 タイの平均反 当収 量は全 国を下回 って1
9
5
7
年 当時で2
4
9
.
7
キ ロ,1
9
6
7
年2
9
6
.
4
キ ロ,1
9
7
0
年 には3
0
6
.
8
キ ロ と増加 してい る。サム ッ ト・サー コー ン県 の平 均はか な り前に限界点 に到達 していた らしく,1
9
5
9
年以 後- ライ当 り3
0
0
キ ロを前後 している。
3
0
)
ところがオ ム ・ノーイ村 では,1
9
5
7
年 当時 - ライ当 りの平均が3
0
9
.
6
キ ロ3
1
)
であ って,「
帽 r3タイの平均 よ りも相 当高か ったに もかかわ ら ず, その後悪化 し,1
9
6
7
年 には1
9
2
.
5
キ ロに低下 している。〕1
9
7
2
年には被害 が少 なか ったので かな り回
復 したが,平均反 当収 量は2
5
6
.
3
キ ロに とどま って いる (表1
6
参照)0 反 当収 騒低下 の 主な原因 は病虫
害 と鼠
の被害 であ る(,稲作が 「や りに くくな った」理 由を 世 帯主 に尋ね ると,1
9
名は 「病虫害 と鼠 の被害
」,6名は 「労働力 ない し資金」,2名は 「水不足」, そ して1名は 「小作条件」をあげているo これ らの被害 に対 して農民 は殺虫剤 ・殺鼠剤 を使用 して駆逐 してい る し,郡役 所 も被
害が大 きい と殺虫剤を配 布 した り, また殺鼠 を奨励 した りし てい るo Lか し現 実には余 り効 果がなか った。 こう した被告 に悩 まされ るのはオム ・ノーイ村 にか ぎ った ことではないで あ ろうo Lか し, この村 のよ うに頻繁 に被害 を うけ, それが現 下の 平均収量をい ち じる しく下 回 るほどの収 読低下 とな って現 われてい るとすれば, その理 由 と し て考 え られ ることは,分譲 予定地 ,工場 予定地,放 置水 田な どの増加
によ って環境破壊 が生 じた ために,農地 の管理
状況が悪 くな ったであろ うとい う点である。 近 くの荒廃地 は鼠 の隠れ家 と なる し,水 吐 けの悪化 は病虫書 に対す る稲 の抵抗力を弱める し∴工場汚水 は稲 の生育 を妨 げ る。 米 の値段 は,-般 に,非
常 に良 い年が あるか と思 うと,翌年 は非常 に悪 くな り, その後 じょ じょに回復 してあ る程度 まで 高 くなると, また翌年 は悪 くなるとい うふ うに数年 の周期 を繰 り 返 しなが ら全体 と して少 しずつ高 くな る佃
t.Jを示 すが,オム ・ノー イ村では1
9
6
7
年頃か ら最悪
の時期 と重な る。ふつ う標
準的な農家であれば,収穫 した もo)か ら自給米 と翌年C
))籾種 を取 り 除 き,残 り7
0
% くらいを まず亮 り,3
0
% はあ とで売 る習わ しであ った。 しか し収穫期に全 部売 りつ くし籾種 さえ購入す る 農 家 もあ り, また売 る時期や仲買人 も 異なるので一概 には 言 えな い. だいたい1
9
5
7
年 は-グイア ン (1
0
0
タ ング)につ き1
,
0
0
0
バー ツ前後,1
9
6
7
年 は8
5
0
バ ー ツ 前後,1
9
7
2
年 は1
,
3
0
0
バー ツで あ った。 したが って稲作--ライ当 りの粗収益 は金額 に換算す る と,1
9
5
7
年2
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5
.
6
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6
7
年 は1
8
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.
9
バーツにな っている。 このよ うに- ライ当 りの粗収益 は1
9
7
2年のほ うが1
9
5
7
年 当時 よ りも良 いけれ ど も,村人 が言 うよ うに, 昔は現在 に比べて 経営費がかか らなか ったので 差 し引きす ると両年 とも, 純 収益3
0
)
AgriculturalStatisticsofThailand(
1
9
7
0
)
,MinistryorAgriculture,1
9
7
2
・SomeImportantStatistics1
9
6
9
(CahngwatSamtltSakon),NationalStatisti(、a10托(、(
,
,
1
9
7
1・3
1
)1
タングは約1
0
キロ0東南 ア ジア研 究 12巻1号 はだいたい180バ ー ツ余 りにな る (表16)。それ に対 して1967年 は最悪 の年 で あ り46.3バー ツに しかな らない。経営費 のなかで あま り変化 のないのは肥 料,殺虫剤,籾 種,小作料で あるが, 機械維持 費 と労賃部門が い ち じる しく増大 して い る。 それぞれの項 目につ いて検討 す ると,つ ぎのよ うで ある。 小作料 は苦 か ら- ライにつ き10タ ングで変 わ りな く,1957年以 降は金納 が進み100バー ツに 現物 で納 め る こともあ る し, また不作 の年 には小作料 を一 部 ない し全額 免除す る ことも広 く見 出 され る。 化学肥料 の 普及 は早 く,戦後利用 しうるよ うにな るや いなやす ぐ採用 された。世帯 主35名の うち22名が,1957年 当時 まで にす でに肥料 を使用 して いた。 そ して11名は1967年 まで に,残 る 2flはそれ以後で あ る。平 均 して- ライ当 り13-14キ ロを投入 して い る ことにな るが, ほ とん どすべて の世帯 主33名がその効果 を認 めてお り,2名は同じだ と答 えてい る。殺鼠 剤 は35名の うち12名が使用 した と伝 えて い るが, その効果 は使 わぬ よ りま しだ とい う程 度 にす ぎない。 な お奨励 品種 の普及 は顕著 で はない。かつ て採用 した ことの あ る農 家 は35名の うち15名で あ り, 採用時期 もま ちま ちで あ り,激 しさが感 じられない。 経営費増大 の理 由は家族労働 力 の喪失 に関連 して い る。 あ とで も見 るよ うに,1967年頃まで に,各世帯 で は子弟 が工場労働者 とな った り, 進学 した り, その他 の職 に就 いた りして家族 内 の農 業労 働力は減少 して い ったo事 実,水 間農家
一
世帯 当 りの稲作労働人 口は1957年 に3.3人 で あ ったのが,1967年 には2.7人,1972年 には2.1人 と次第 に低下 して い る。 この傾 向は一方で は 経営 面積 の縮小 を もた らしたで あ ろ う し,他 方 では,失 われた労働 力 を家族 の外 に求 め させ た で あろ う。 ところが1967年頃には,すでに村全 体が労働 者化の傾 向に あ ったか ら,水 田農業 に 振 り向ける労働力の供給 が失 われて しま って お り, それを家族 の外 に求 めよ うと して も非常 に むつか し くな って いたに ちが いない。 7- 8年前 な らば労働交換 に よ って金 を使 わな くて も家 族外 か ら労働力を獲得 しえたので, 多数 の人 を雇 う必要 はなか った。 しか し多 くの人が工場 で 働 くよ うにな ると, 不可能 とな り, 賃金 を払 って雇 わね ばな らな くな る。 ところが, もと も と供給 力 がな くな ってい る うえに,工場 の賃 金 が影響 して農作業 の労賃 は高 くな る。 - ライ当 りの労賃 は昔は25バ ー ツで あ ったのか,今 で は45バー ツにな って い る,,また子供で も一 日20バ ー ツで農作業 をす るよ りも,10バ ー ツで よいか ら工場で働 くほ うが よい とい う風潮で あ る。 こ う して苦 と違 って,今 では人 を雇わねばな らない し,労賃 も高くな って い るので,表16のよ う に,1957年 当時- ライ当 り41・2バ - ツで よか った労賃が,1967年 には59.3バ ー ツ, 1972年 に は 84.7バ ー ツ と昔 の2倍 にな って い る。 また最近 では失 われた労働力 を機械化 に よ って補 う傾 向にあ る。 この村 の農 業機械 として 主 な ものは水揚 げポ ンプ と耕転機 で あるLlその うちポ ンプ は1957年頃か らすでに普及 してお り, 38水野 :工業化 と村落の変貌
(
Ⅱ
)
35名の うち18名が使用 した経験 を もってい る。 これに対 して耕転機 の導入 は比較的新 しく1967 年以 後 の ことであ って,現在水 田農業 に従事 してい る8軒 の うち6軒が耕転機 を購 入 している0 以 上,稲作 に必要 な経費 を-弓舌す る と,- ライにつ き1957年110.3バー ツ,1967年136.6バー ツ,1972年163.4バー ツで あ る。 ちなみに,現在農民の 目安 と している- ライ当 りの経費を挙 げ ると,耕起50バー ツ, 田植35バーツ,稲刈 り30バー ツ,肥 料40バ ー ツ,殺虫剤10バ ー ツ,令 計165バー ツで あ って,ほぼ表16の経営費合計 に等 しい。 このよ うにオム ・ノーイ村 では病虫害 と鼠 の被害 による反 当収量 の低下,家族労働力の喪失 による経営費の増大のために水 田農業 は, ここ7- 8年経営が 苦 しくな ってお り,1967年頃は 特 に被害 が大 きか ったために最悪 の状態で あ った ことがわか る。 稲作条件 の全般的悪化 に対す る農家の反応 の仕方 はま ちまちで あるが, それを考慮 しなが ら分析 を進 めよ う。 家 族 労 働 力 さきにみたよ うに家族 内の労働力の喪失 は-般的傾 向である。 しか しその内容 に立 ち入 って 検討 す ると,水 田農業の経済状態の違 いによ って明 らかに二つの傾 向があ ることがわか る。か っての小作農 の間では,1967年 頃まで に 子弟 の工場労働者化が進み,F
さけド農組の子弟 は進学 し た り,他 の職 を求 める傾 向があ った。 表17は1957年 当時の 白小作別稲作経営状況を示 した ものであ るO -瞥 すれば小作農組 の経済 状態は自作農組 に比べ ると相 当悪 か った ことが推察 され る。 - ライ当 りの粗収益 は両者 とも約 300バー ツで あ って,少 な くとも,小作農 で あるために牡産高が低 い とい うことは認 め られない. 経営 費について は,小 作料 を除 くと自作農組 のほ うが小作農組 よ りも, わずか (ll.9バー ツ) に多 くの資金 を投 じているが,小作料が大 き く響 くために- ライ当 りの経営費合計は′J\作農組 のほ うが 自作農 組 よ りは るかに上回
っている。 したが って- ライ当 りの稲作純収 益は,小作農 組 の場合161.0バー ツにす ぎないが,自作農組では187・5バー ツになるrj Lか し このよ うな経 営状態 の差 は農民 に とって あま り重要ではない。か れ らの鼻 も大 きな関心 は,収穫後い くら現 金が手 に入 るか とい うことで ある。 この点 を 考慮す ると,小作農粗 については 年間 - 戸 当 り 4,025バー ツ, 自作農組 は11,062バー ツの純収益が あることにな るが, そ こか らさ らに 自家消 費米 を差 し引いて現金収入 を見積 ると,小作農組の場合 はせいぜ い2,OOOバ ー ツ, 自作農粗 の 表 17 1957年自小作別経営状況 (一・ライ当り) 刀 恒 常 積 層 敬 秤 粗 収 益】 小 作 農 組 「†作 農 耕 5 r 9 2 5 3 2 1 2 機 維 (単位 :ライ,タング,バーツ) 紳 荒 弓籾轟
缶訂
純収益 1 1 39東南 ア ジア研 究 12巻1号 場合 は少 な くとも8,000バ ー ツ くらいの現 金収入 が あ った ことにな り, 両者 の経済状態 に相 当 のひ らきが認 め られ るo 現 金収入 に あえ ぐ小 作農粗 に とって,工場建設 による労働力の需要 はまた とない絶好 の機会 で あ った。表18-19は小学校 4年 を卒業 した (11才以 上の)子弟 の うち世帯 主 と同居 して い る ものにつ いて, その動 向を比較 した もので ある。1957年 当時か ら村 内にはすで に,若 干の子弟 が工場 で働 くよ うにな って いたが,1965年に工場 が乱 立 しは じめてか ら 2- 3年 の間 に小作農 組 の農 家で は多 くの子弟 が農 業 を放棄 して二【二場 で働 くよ うにな り,1967年 までには工場労働者 を主 内容 とす る兼業化 が進行 して いた。実際,表18に よる と子弟 の うち水 田農 業に従事す る者 の割合 は1957年 に75.0% で あ ったのが,1967年 には15.0% と低下 して い る。,そ して これ とは逆 に,工場 労働者 の割合 は15.0% か ら60.0% に増大 して お り, 子弟 の行 えは労働者 に集 中 してい る。 また他 方, 進学 に関心 を も
つ
余裕がなか った ことは明 らかで, 1957年, 1967年 と も子弟 の うち中学 (小学 校4年後)に在学 して いた ものは5.0% にす ぎない. なお1972年 の在学者 が増 えて い るのは, オム ・ノー イ村 で は1969年以 来 , 7年制義務 教習が実施 されたか らで あるO小 作農組 に対 して 自作農 組 で は,工 場労働 の需要 はそれほ ど魅力的ではな く,1957年 当時か ら, 農 業 に従事
しない子弟 は村 か ら少 し離 れた中学 校 に送 られ る傾 向が見 出され,働 き う る 子 弟 (11才以 上) の うち25.1% が中学 に在学 中で あ った。 そ して1967年で は農業 に従 事す る者, そ の他 の職 を求 める者,進学す る者 の割合 はだいたい 3分 の 1ず つで,残 りの10% あま りが工場 労働者 に な るにす ぎなか った。1972年で の傾 向を眺 め る と,小作農 組 の子弟 は, ほ とん どすべ てが工場労働者 にな る方 向にむか って い るのに対 して, 自作農組で は進学 させ た り他 の職 を求 め る傾 向 にむか って い る ことがわか るしノ 1957 75.0% 1967 15.0%
1972 3.4% 1967 30.7% 40 表 18 小作農糾問居子弟の動向 (11才以日
15・0% 5.0% 5.0% 100% (20) 表 19 自作農組同店子弟の助 LLI](11才以 卜) 9.0% 6.8% 25.1% 100/qo/(44) 2().8% 40.3% 33.4% 100% (72)水野 :工業化 と村落の変貌 (Ⅲ) 脱 養 労 働 者 化 この よ うに小作農 組 は1967年 頃 まで に子弟 が工場労働者 とな って しま うことによ って兼業化 を進 めて きたが, そのなか で も1967年 頃の稲作条件 の悪化 を ひ ど く受 けた小作農 家 は, つ いに 世帯 主 (ない し主 な働 き手) 自身 が工場 労働者 とな る ことによ って完全 に脱農 して しま うこと にな る。 こう した小作 -労働 者型 の農 家 に とって,水 田農 業 は もともと日給米補給 をわずか に 上 回 る程 度 の稲 作収入 しか なか ったか ら (表17参照), 病虫害 や鼠 の被害 による反 当収 量の低 下 は耐 えがたい もので あ った。小
作
-労働者 型の農 家が脱歴 年 に経験 した稲作経営状況 は表20 の ごと くであ る。32) これ らの農 家 はで きるか ぎ り肥 料 の没入 を抑 え, また労働力 を雇 わないよ うに して経 費 を節 減 し,不作 のた めに小作料 を全額 ない し一 部免除 して もらったので,経営費合計 は- ライ当 り 88.3バ ー ツ (表20) に とどめ る ことが で きた。 それは1957年 当時 の小作農組 の経営費 (衰17) の59.7% で あ って 約40% 経 費を削減 した ことにな る。 しか し被害 に加 えて, 肥 料 を節 約 した ことも影 響 したので あろ うか,- ライ当 りの収最 は最低 で12.2タ ングにす ぎない。 したが って 純 収 益は- ライ当 り15.7バー ツ とな り, -農 家 当 りの年間の純収益 は 314バ ー ツに しか な らな い (表20)。 これでは現 金収入 ど ころか, 農 業 を営 む者 に と って最大の魅 力 で ある日給 米 の確 保 とい う最低線 をは るか に下回
り,消費米 を独得 す るに も借 金 を しなければ な らない状 態で あ るo損失 は工場 で働 いて得 た収入 によ って賄 われたで あろ うが, それで も不足 したか も しれな い。 しか も子弟
の収 入に依存 しなければ な らない とす れば,世帯 主に とって これほ ど惨 めな こ とは ないで あろ う。 こう して 世帯 主も白か ら進んで工場労働者 とな り, な しくず し的 に-家総 労働 晋化が生 じる。1972年現在 では, これ らの家族 では平 均 3.1人 が工場で 働いて い る。 以f
二のよ うな小作 -労働 者型に対 して,小作 -隠居型の脱農 年 の経営状 態 は表20のよ うに さ ほ ど悪
くない。 主な理由は小 作料 の全額 免除で あ るO他 方,経 営 費 も節 減 してい るので- ライ 当 りの純収益 は80.4バ ー ツ,農 家-戸 当 りに換算 す ると年 間 2,010バ ー ツの純収益 が あ った こ とに な る。)それ はだいたい 自給米程度 の収入 に相 当す るが, これ らの農家 は小作料 を免 除 して 表20 小作農組脱農時の経営状況 (一一ライ当 り) (単位 :ライ,タング,バーツ) 経 面 数 .」止り1 拷 労働力 *1967年以後の脱農者のみ。 32) 小作-労働者型 8軒のうち7軒は 1967年以降に脱農。他の1軒は ユ960年に脱虚 し,その年の経営状態 は比較的よかったが, 子供が農業を好まず, 甘苦圭も当時存在した唯 一一一の陶器工場の夜警となったの キ機会として稲作手放棄 した0 41東 南 ア ジア研 究 12巻1号 もらった ことで, なん とか苦境 を切 り抜 けることがで きた。 こうした経営状態の悪 さに加 え て,世帯主 白身の年齢や健康, あ るいは子弟 の分 出 とい うことが重な って脱農 の方 向に踏 み切 った と思われ る。 小作 -隠居型2軒 の世帯主 は 今 日それぞれ 子供相手 の 駄菓子屋 を開 いてい る。 その うち1軒 は老夫婦のみの暮 しで あ り,他 の1軒 は工場に働 く孫 娘 との3人暮 しで ある。 脱 鼻非耕作地主的職業化 小作農組 の脱農者 に比べ ると, 自作農粗 の脱農者 は全 く違 った適応過程 を示す。昔か ら白作 農組は子弟 の教育に関心 を示 していた ことはすでに指摘 した ところで あるが, さ らに興味を引 く点 は,脱農 したかつての自作農組 のなかには農地 の売 買の激 しい農家があ り,かれ らは売却 と同時に 白か ら選 んで小作農 に転化 し, その過程 を経ては じめて完全 に脱農転業化 の時期をむ かえ るとい うことで あ る。 こうした傾 向を示す農家の共通点 は
1
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年 当時所有 していた農地 の 全部, あ るいは3
分 の2
以上 を手放 して しまい (表2
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, 現在 は稲作以外 の 自営的職業を積極 表 21 農 地 売 買 高 合 計 (1957-1972) 自作-活動型 自作-隠同型 自作-継続型 軒 軒 軒 8 5 8 的に展開 しよ うと してい る点にあ (単位 :ライ,バーツ) るので, これ らの世帯 を白作 -宿 11957年所有 :売 却 r 購 入 動型 と呼んで お く。 5 0 9 「1 2 4 3 4 3 7 0 0 8 ハh ) 5 り′︼ 0nU
n U 自作 二活動型の農地売買には特 徴 が見 出 され るo 一般 に農家 に と って農地 は財産 と考 え られてい る か ら,所有農地 の大部分 を失 うことは没落を意味す る。 しか し今 まで水 田で あ った土地 に非農 業用地 と しての価値が生 じ,地 価が上昇 す るよ うな状況下 で農地 を売 る機会が与 え られた り, もしくは売 ることをせ ま られた場合,農民 と しては金 は欲 しいが,不動産 と しての農地 は失 い た くない とい う 矛盾 した状況 に陥 る。 一つの 解決策 は値上が りした農地 を手放 し, そのかわ り村外 に同一 ない しよ り広 い農地 を確保 してお くとい う方法である。 自作 -活動型8軒 の うち4
軒 は処分 した金でペ- ウやサ ンプ ラー ンに 水田を買 い求 め小作 させているO他 の2軒 は上
地 の売買をつ うじて利鞘 を得て お り,残 る2軒 は売 り払 ったままで ある()売却 によ り得 た金は家 計支 出や借金の返済,教育費や農機貝の購入 あるいは結婚 の費用 な どの特別費のために使用 し た り,銀行に預金す る場合が ある ことは当然で あるが, 自作 -活動型 の土地売買に ともな う一 般的傾 向 としての非耕作地 主的性格 ない し投機的性格が認 め られ る. いずれにせ よ,農地 の売 買をつ うじて,1
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年 当時所有 していた村 内の水 田を失 った 自作 -活動型の農家 は,手放 した 後 も数年 間, 日給米 を確保す るために平均20ライ余 りの水 田を借用 し一時小作農化す るo 自作 -活動型 の脱農年時の経営状態 は表22の ごと く最悪で,小作農組 の脱農者 よ りも困難 な 状況 に立た されていた。 その最大 の理 由は- ライ当 りの肥料投入量 と労働部門が他 の農家 に比 べていち じる しく高 く, それぞれ52.4バー ツ,9
3
.
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バー ツにな って いる点に見出 され る,,これ 42水野 :工業化 と村落 の変貌 (Ⅱ) 表 22 自作農組脱農時の経営状況 (--ライ当り) (単位 :ライ,タング,バーツ) 1 1 らの農 家 は小作農 にな ったに もかかわ らず,経 費 を節 減す るど ころか, 自作農 的気 分 で, あ る いは、机ま企業的感覚で経営 費 を投入 して いたので あ る。 ところが生産高 につ いては,他 の農 家 と同 じよ うに被害 を蒙 ったた めに,反当収量 は- ライ当 り
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タ ングに減少 した。 その結果-ライ当 りの純収 益は-3
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バ ー ツ とな り,-農 家平 均1,000バ ー ツの赤字経 営 とな った。 これ で は 自給米 ど ころか,損失 の穴埋 め も しなければな らない。 したが って, これ らの農 家 に とっ て ほ,企業者的小作経営C
/J失敗が完全 な脱農化 へ の道 を碁 ませ たので あ ろ う。 白作 -活動 型の農家 は, このよ うな小作経営 を行 な うか たわ ら,積極 的 に他 の職業 を探 し求 めて いたが, それ以後, それぞれ当時 の経済活動 を押 し進 め, 今 日では家 内工業 (セ メ ン ト製 品 釘 の箱詰) を経営す る者2名,果樹 ・畑作経営 (ブ ドウ,バ ナナ, マ ッシュ ・ル ー ム) に 従事す る もの3名,飲食 ・小売店 を経営 す る もの2名,保 険会 社社 員1名が あ る。 この よ うな 新 しい職業 を見 つ ける方 法 はま ちま ちで,世帯主 の一般 的 な生 活歴 とは特 に関係 はない。 た と えばマ ッシュ ・ルー ムの栽培者
は数年前 にカセサー ト大学 の技術指導 者 のすす めに したが った ことが契機 とな ってい る し,箱 詰工場 の経営 者の場合 は,息子 が荷揚 げ作業 に従事 して い る関 係で古材 の入手 が容 易で あ り, その息子の発案 で試 み出 した ことが契機 とな ってお り, またセ メ ン ト製品の経 営 者は, 本 人が, 昔寺 院 の 改修修理 を手伝 って い る うちに 作 り方を覚 えたの で, その経験 を生
か して始 めたのが契機 とな ってい る。自
作 -活動型に比べて,自
作 -隠屠型 の農地 売 買 は消極的で あ る。表2
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の よ うに,1
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年 当 時所有 していた農地 の1
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%
しか売 却 してお らず,新 しく購 入 した 二日鋸ま皆 無で あ る。,これ ら の農 家 はで きるだ け農地 を手放 さないよ うに して い るが, よい機会が あれば若 干を売 り,子供 の教育
費や結婚 矧 lHこして子供に店 を もたせ た り,家屋を建 てて や った り, 車を買 って や る費 用 と して, あ るいは農機 具 を購 入 した り, タム ・ブ ン (寄進)をす るための 出費 と して使 うこ とばあ って も, 新 しく土地 を求 め る ことはない。 したが って 自作 -隠f甜 旦は現在 で も平 均72ラ イの農地 を村 内に所 存 して お り,他 の 自作農 組 よ りはは るか に規 模 が大 きい。 これ らの農地 は 小作 に出 して い るので 自作 --隠屠型 も非 耕作地 主化 してい る ことは車実で あ る。 ただ し5軒 の うち2軒 は 子供 が小作人 にな って い る。1
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年 頃の経 営状態 につ いては,自作 =弓恩屠 型 は 自作農雛 の系譜 のなかで も最 もよ く,表22の よ うに脱農時の経営状 態 は 自作 二活動型 よ りもは るか に良
い n そのf
鞘
吊ま,か れ らが企 業者 的 43東南 ア ジア研 究 12巻1号 小作農 の道 を進まず,従来のよ うに謙虚 に自作農 を続 けていたか らで あ る。 自作 -隠屠型 は自 作 -活動型 に比べて経営面積 が大 きいに もかかわ らず,人を雇 うことはで きるだ け避 けて労賃 を抑 え, 肥料 も標準以 上むやみに投入 しなか ったので, - ライ当 りの 経営費合計 は 平均 して 94.0バー ツに控 え ることがで きた。 もちろん小作農組 の脱農者に比べ ると(表20), その額 は大 きいが, 自作 -活動型に比べ ると (表22), 約 半額 にす ぎない。)他方,被害 も他 の農家に比べ ると比較的少 なか った らしく,反当収量は24.8タングで あ って,他 の どの農家 よ りもよい。 そ の結果,- ライ当 りの純収益 は141.2バーツ,-農家 当 りの平均にす ると6,495バー ツにな る。 その額 は1957年 当時 に比べ ると約半額 にな るが, 自作 -活動型のよ うに 自給米 を購入す る必要 はないばか りか,4,000バー ツ くらいの現金収入 があ った ことにな る。 したが って 自作 -隠居型 の場合,脱農の最大 の理 由は経営状況 よ りも,む しろ子弟 の分 出や 転業,および世帯主の老齢化で ある。 これ らの世帯主 は現在,小作 させ なが ら,屋敷地 内 もし くは近 くの土地 を利用 して花や果樹栽培 などを して隠居的な経済活動 を行 な うものが多い。5 軒 の うち1軒 は子供全 員が分 出 し,父親 との3人暮 し,他 の3軒は息子1人 あるいは娘夫婦一 組が同居 してお り,か れ らの非農業的収入に依存 してい る(〕残 る1軒 は再婚であ って特殊 な事 例である。 自作 -没落型は1軒 のみである。 世帯 主は現 在72歳, かつては水 田150ライの所有者であ っ たが,不慮 の交通事故 と借金返済 のために1960年頃3回にわた って処分 して しま ったO現在, 娘夫婦 と同居 してお り,娘婿 と孫 娘 の非農業的職業に依存 してい る。 水 田処分後の残金は子供 7人に配分 した といわれ,今 日,分 出 した他 の子供 はそれぞれ独立 して職 に就いてお り,官吏 にな った者 もあれば商売 を してい る者 もあ って,没落 とい う表現 を使用 したけれ ど も,他 の家 族 と比べて必ず しも悪 い状態ではない。 縮 小 兼 業 化 今 まで説 明 して きた脱農者24軒 に対 して,現 在 も水 田農 業を継続 している農家が
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1軒 ある。 その うち自作 -継続型8軒 は以 前か ら自作農で あ った農家,小作 -継続型3軒 も以 前か ら小作 農で あ った農家で ある。 小作 -継続型 の場合 それほど明確ではないけれど も,両者 に共通 した 一般的傾 向は経営面積 の縮小 および兼業化 の過程で あ る。) 自作 -継続型のなかには, ここ15年間に農地 を売却 した者が4軒, その うち新 しく購入 した 者 が2軒 ある。 この2軒 は所有地 の全 部ではな く,一一部を売 り,家計 費にまわ し,残金で村外 によ り安 い農地 を買い求 めた。 農地 の一部を売却 した 他 の2軒 は家計輿, 教育費, およびタ ム ・ブ ン費 として使用 した。 この ように 自作 -活動型 の場合 と違 って,農地 を売 ると して も全 部ではな く, ご く一部であ り, また農地 を購 入す るとい って も多額 で はない。 したが って表21 のよ うに, 自作 -継続型 は1957年 当時の所有地 を失 うことがなか ったか ら, 自作 -活動型のよ 44水野 :工業化 と村落の変貌 (Ⅲ) うに小作農化す るどころか,1967年 まで経営面積 を さ して減少す る ことな く,1957年 当時 とほ ぼ同 じ状態で水 田農業 を営 んで きた.実際,衰23によると,- 戸 当 りの平 均経営面積 は1957年 当時59ライであ ったが,1967年 で も53ライを維持 している。 経 営状態 につ いてみ ると, 自作 -継続型は15年間をつ うじて概 して他 の農家 よ りもよい ら しい。1967年を除 くと平均 を上回 る収 益 を得 ている (表16,23)。最悪の時期 とされ る 1967年頃 につ いて も, 自作 -活動型 や小作 -労働者型 の農家 よ りも- ライ当 りの純 収益 は高い (表20,22)。 ただ し高 い とい って も, 全般 的 な稲作条件 の悪化は 避 けがた く, 1957年 に比べ ると, - ライ当 りの経営費は 76.8バ ー ツか ら109・4バー ツに増大 したに もかかわ らず, 被害 を受 けて租収益 は 293.3バー ツか ら139.9バ ー ツに低下 してい る。 したが って- ライ当 りの純収益 は30.5バー ツ, -農家平均にす ると 1,616 バーツ となる。 完全 な赤字 を経験 した 自作 -活動型や,消費米 の補給 に もことかいた小作 -労 働者型 に比べて比較的 よか った と して も, それは消 費米 を一部補給 しうる程度 の ことにす ぎな か った。それに もかかわ らず, これ らの農家が脱農 の方 向に向かわず,継続 の方 向に進んだ理 由は どこに求 め られるのだ ろ うか。 衰24は自作 -継続型の農 家を細分 して完全 な自作農 4軒 と,経営拡張 のために小作地 を も借 用 していた 自作農 4軒 に分 けて,経営状況 を示 した ものである。1967年の よ うな稲作条件 が最 悪 の状態では小作料が強 く影響す るために,小作農 ばか りでな く,自小作農 もそれ と同 じよ うな 苛酷 な状態 に追 い込 まれ る。 両者 の経営費 を比べ ると, 自作農 は- ライにつ き95.8バー ツ費や して いるのに対 して,白小作農 は小作料が高 くつ き 125.9バー ツを費や して いる。粗収益 のほ う は逆 に, 自作農 が 172.5バ ー ツに対 して, 自小作 は 97.3バーツ と低 い。 したが って 自作農 の場 合 は,- ライ当 り76.7バー ツ,-農家平均 に して4,602バー ツの純収益があ った ことにな るか ら, 表 23 自作 -継続型の経営状況 (一一・ライ当り) (単位 :ライ,タング,バーツ) 機 収 量 L隻 Ⅶ撃 機 械 維 持 肥料等恒 種 自 作 農 白 小 作 農 労 賃 回、作矧 計 純収益 18.0;76.8声221.5 167.81195.1 表 24 1967年自作 ・白小作農家の経営状況 (-ライ当リ) (単位 :ライ,タング,バーツ) 廿 ・】 46… ト;';; 粗 収_追額 官 費 汁 純収益 172.5】2.5鳥1.3E7.8154,2