Bungaku Kyouiku Kenkyuusya Syuudan
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坂
本
四
方
太
の
生
涯
■
伊
藤
洋
子
〈 自 分 は 元 来 田 舎 者 で 日 本 海 の 海 岸 な る 一 漁 村 に 生 れ た 。 併 し 漁 村 の 子 ど も で も な く、 百 姓 の 子 で も な い 。 昔 な ら 矢 張 侍 の 子 で あ る 。 〉 ( 「 夢 の 如 し 」 ) ロ の 坂 本 四 方 太 ( し ほ う だ ) は 戸 籍 の 名 を 四 方 太 ( よ も た ) と い う 。 四 方 太 は 俳 号 で 他 に 文 泉 子 ・ 角 山 人 ・ 虎 穴 生 と も 号 す。 元 鳥 取 藩 祐 筆 阪 本 熊 太 郎 と チ セ の 長 男 と し て 、 明 治 六 年 鳥 取 県 岩 井 郡 大 谷 村 に 生 ま れ る 。 い わ ゆ る 失 業 藩 士 の 子 で あ る 。 彼 の 生 地 大 谷 村 は、 広 岡 治 明 氏 ( 後 述 ) ら の 話 に よ る と 、 「 み な さ ん 貧 し い 漁 村 を 想 像 さ れ る よ う で す が、 そ う じ ゃ あ り ま せ ん 。 無 学 文 盲 が 一 人 も 居 な い と い う の を 誇 り に し て い る 村 で す 。 ど う い う わ け か 当 時 か ら 先 生 や 医 者 が 多 い の で す 。 」 と い う 。 四 方 太 は こ の 村 で、 祖 父、 父 、 母、 姉 、 妹 ら と 暮 ら す が、 四 歳 の 時 父 が 鳥 取 師 範 学 校 の 漢 学 と 剣 道 の 教 師 と し て 就 職 し た た め、 一 家 は 鳥 取 市 に 移 住 す る 。 も の 心 つ く 頃 か ら 彼 は、 旧 藩 時 代 裏 判 方 ( 会 計 官 吏 ) を 勤 め た 祖 父 に 本 を 教 わ り、 母 か ら は 「 い ろ は 」 の 手 習 い を 受 け 、 夜、 寝 床 で 父 に 「 に に ん が 四 」 を 暗 唱 さ せ ら れ る と い う 日 々 を 送 る 。 復 習 を 怠 る と、 父 は 激 し く 叱 り 母 も 決 し て 疵 う こ と が 無 か っ た 。 明 治 十 三 年 に 鳥 取 公 立 醇 風 小 学 校 に 入 学 す る 頃 に は 、 小 学 校 の 教 科 書 「 小 学 読 本 」 「 地 理 初 級 」 を 学 び 終 え て い た 。 こ う し て、 明 治 十 九 年 県 立 鳥 取 中 学、 二 十 一 年 第 三 高 等 学 校 へ と 順 調 に 進 学 す る が、 途 中 学 制 改 革 が あ り 仙 台 の 第 二 亠 咼 等 学 校 へ 転 校 す る 。 そ の 頃 の こ と を、 彼 は 「 思 ひ 出 つ る ま 丶 」 に 次 の よ う に 書 い て い る 。 〈 明 治 二 十 七 年 に 京 都 の 高 等 中 学 校 が 解 散 せ ら れ て、 吾 々 は 遥 々 と 仙 台 の 高 等 学 校 に 追 遣 ら れ た。 此 時 朝 鮮 に は 軍 が 始 ま る 時 候 は 寒 く な る 、 言 葉 は 通 ぜ ぬ 学 課 は 面 白 く な い、 実 に 客 中 客 と な っ て 客 心 驚 く と い っ た 様 な 仕 合 せ で あ っ た が、 丁 度 吾 々 と 同 じ 運 命 の 下 に 集 ま っ て 来 た 同 窓 の 中 に 、 河 東 秉 五 郎 高 浜 清 と い ふ 二 人 の 松 山 人 が 居 っ た 。 取 り も 直 さ ず 今 の 虚 子 碧 梧 桐 な の で 、 此 両 人 が 発 句 や 文 章 を 作 っ て 学 校 の 雑 誌 の 上 に 遊 子 の 悲 痛 な 情 緒 を 洩 ら し た 。 僕 は 当 時 発 句 な と 一 向 解 せ な か っ た が、 ど う し た も の か 両 君 の 仙 台 雑 吟 を 読 ん で ひ ど く 感 じ た 。 仙 台 客 舎 の 秋 の 趣 味 が 頭 に ジ ー ン と 染 渡 っ た 。 そ れ か ら 一 層 両 君 が 恋 し く て 勘 ら ん 様 な 心 持 に な っ て、 逐 に 我 心 を 打 明 け て 教 え を 乞 う 事 に な っ た 。V
両 君 に 煽 て ら れ、 そ の 気 に な っ て 作 っ た 俳 句 を、 両 君 が 子 規 に 送 り、 そ れ が 新 聞 「 日 本 」 に 掲 載 さ れ る よ う に な っ た の 一40
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で あ る 。 余 程 嬉 し か っ た の で あ ろ う、 「 頓 と 逆 上 し て 仕 舞 う て 仕 事 が 手 に 付 か ぬ 」 (「 思 ひ 出 つ る ま 丶 」 ) と 語 っ て い る 。 明 治 二 十 九 年 二 十 三 歳 の 秋 、 彼 は 東 京 帝 国 大 学 国 文 学 科 に 入 学 の た め 上 京、 憧 れ の 子 規 に 対 面 、 四 方 太 の 生 涯 に と っ て の 決 定 的 な 第 一 歩 が 始 ま る の で あ る 。 三 十 二 年 に 大 学 を 卒 業 し た 彼 は、 母 校 の 助 手 、 附 属 図 書 館 の 司 書 と し て 勤 務 す る か た わ ら、 子 規 庵 の 「 山 会 」 ( 文 章 会 ) の 最 も 優 秀 な 常 連 と な る 。 子 規 が 亡 く な っ た 後 は ホ ト 丶 ギ ス の 写 生 文 の 選 者 と し て 活 躍 、 本 格 的 な 写 生 文 運 動 を す る 中 で、 自 ら も 数 多 く の 写 生 文 を 発 表 す る 。 四 十 一 年、 助 教 授 兼 図 書 館 司 書 官 に 任 命 さ れ る 。 こ の 年、 四 方 太 を 改 め 文 泉 子 と 号 す 。 長 女 文 と 長 男 泉 の 名 を 取 る 。 大 正 元 年 の 暮、 助 膜 炎 に 罹 り 休 職、 続 い て 父 の 死 、 自 宅 が 類 焼 に 遭 う、 写 生 文 活 動 は 思 う 方 向 に 進 ま ず 、 と 恵 ま れ ぬ 生 活 の ま ま 病 状 が 悪 化、 大 正 六 年 永 眠 す る 。 享 年 と っ て 四 十 五 歳 の 生 涯 で あ っ た 。 × × × 偶 然 の こ と な が ら、 私 は ご く 最 近 、 四 方 太 の 御 長 男 泉 氏 に お 目 に か か る 機 会 を 得 た 。 泉 氏 は 三 十 年 ば か り 朝 日 新 聞 社 で 労 働 問 題 を 担 当 さ れ て い た 方 で あ る 。 泉 氏 の 記 憶 の 中 の 四 方 太 は 非 常 に 潔 癖 な、 そ の 上 頑 固 で 偏 屈 な 男 と い・ 竃 「 親 父 が 亡 く な っ た の は 僕 が 十 二 歳 の 時 で す か ら、 は っ き り 覚 え て い な い の で す が 」 と 前 置 き さ れ た が、 そ の 語 り 口 は ま こ と に 鮮 や か で 、 ま る で 昨 今 の こ と の よ う で あ っ た 。