鳥取 県山村 にお ける挙家離村 と人 口流 出 につ いて
国
歳
真
臣
(昭和53年5月31日受理) は じめ に1.二
部 落 の概況 お よび産 業構造2,過
疎化 と村 落構造 2・1.諸
鹿 部落 と人 口流 出 2・2.角
谷部 落 と挙家離村 結 語 はじ
め
に 鳥取県東南部 を占め る八頭郡のなかで
,そ
の東部,八
東川上流域 に位置す るのが若桜町で ある。 この若桜町は,古
くは宿場町,交
通の要所,地
方物資の集散地 として発展 して きた。 また,こ
の町 は総面積200.15k におよぶ実 に広大 な面積 を有 しているが,そ
の約90パーセ ン ト以上 は山林 によっ て占め られてお り,耕
地 はわず かに6パ
ーセ ン トにす ぎず,
しかもその耕地す らも標高200∼500m
の高地 に存在 しているので ある。 ところで今 日,こ
の若桜町 において も山村の共通の現象である,い
わゆる「過疎化」 の波 が押 し 寄せて きてお り,特
に昭和30年代以降の高度経済成長 と都市化の影響 を受 けて,人
口の流 出,挙
家 離村 による世帯数の減少,
さらには部落の解体,消
滅 等の現象が拡大 して きている。た とえば,昭
和22年の世帯数1782戸,人
口9497人か ら昭和35年の世帯数1907戸,人
口9616人 へ と増加の傾向 をみ せていたにもかかわらず,昭
和45年か ら50年の5年
間には,逆
に世帯数 は1857戸か ら1785戸 と約5 パーセ ン トの減少,人
口数 においては8455人か ら7443人と約12パーセ ン トとい う激 しい減少率 を示 している。 なかで も交通の不便 な山村の人口減少 は急激 なものがある。 こ うした山村 は,い
ずれも 急峻 な山岳地帯 と厳 しい気候条件の もとに置 かれた辺境の地で,従
来生産 力の低 い自給的農業 を主 体 に林業や諸種の副業 を営 んで きた代表的過疎地域である。 さて過疎化 がこの山村地域の生産,生
活諸機能,居
住意識へ与 える影響 は実 に大 なるものがある。 つ まり村落 を基本的 に規定 して きた村落共同体の機能 が,急
激 な人 口および戸数の減少 によって低 下 し,生
産 と生活 を維持す るための基礎的 な条件 が崩壊 しつつ あるので ある。た しかに共同体的基盤 にたって新 しい村落再編成 に成功 した村落 も存在す る。 しか し若桜町の山村の場合 には「解体化」 が必至であるとも思 える。そこで この小論 において
,山
村の構造的変化 を明 らかにす るために近年 挙家離村の続出 した角谷部落 と,挙
家離村率 こそ低 いが人 口減少の顕著 な諸鹿部落 を比較検討す る ことによ り,過
疎化 と村落構造の相互連関,
とくに過疎化 を含む変動 が村落構造 におよば した影響 について考察 してみたい。(1)1.二
部落の概況 および産業構造 (第卜1図八頭郡若桜町略図〉毯軒嵩原
%
郡ノ
T陳外山
い
柳
丘 庫 氷 ノ山 県 養 父 那 1 / r チイ
﹂ 。.
, ∫ ′ ︲ I ︰ ︲ 1 、 . 戸 倉 峠 頭 町 ヽ ¬ IH■ 若桜 神社 r'・ フ o町役場 日 中学校 日小学校先づ角谷部落 は
,来
見野川の支流で ある角谷川の上流域 に位置 し,若
桜 より約3 kmの地点 に存在 す る。角谷部落 は古来行政単位 としては「赤松」に属 し,「赤松」は,角 谷,馬場,内 町,赤松 の四小 字 部落 により構成 されていた。上記略図 より明白なよ うに,赤
松,内
町は来見即川沿 いに,馬
場,角
谷 は角谷川流域 に位置 している。 ところで角谷部落は,さ
らに「角谷」,「寺所」 とい う二小部落 か ら構成 されてお り,角
谷川の上 流下流 にそれぞれ存在 して きた。 しか し,近
年大量 に挙家離村現象が「角谷」 に生 じ,現
在は「寺 所」 に8戸
のみ残存 しているにす ぎない状態 にな り,そ
の結果角谷 とい う部落名は消滅 し,若
桜町 大字赤松小字寺所 となっている。 ちなみにこれ ら大字「赤松」 を構成す る四部落の戸数変化 をみて み ると,角
谷部落以外 には戸数の減少はみ られず,む
しろ増加 してお り,事
実角谷部落 か らの挙家 表1・1「 赤松」部落 の戸数変化 小 字 年 度 角 容 赤 松 内 町 馬 場 昭和 35年 40 45 50 24 23 19 8 15声 17 17 17 一戸 15 15 15 18 13 13 13 16 若桜 町役場 資料 離村者の一部 が移住 して さえい るので ある さて この角谷部落の主たる生業は,戦
前 においては稲作,養
会,炭
焼 きを基盤 とし,農
閑期 に林 業労務 に従事 していた。 ところが戦後,薪
炭,生
糸の需要の減少 によ り薪炭業,養
会業 に代 わるも の として梨栽培 が登場 して きた。すなわち,戦
前 においては「米 プラス養蚕」 が主流 を形成 し,つ
いで「米 プラス薪炭」 が主流 を占めるようになり,昭
和30年代 に入 って「米 プラス梨」 とい う形態 をとるよ うになったのである。 ところで角谷部落の生産基盤である耕地面積 は,水田1319a,畑101a
樹園地372aであ り
,一
戸当 り平均耕地面積 は水田69.4a,畑
5a,樹
園地26,6a,と なってい る。(劾また就業状況 は
,元
来専業農家 しか存在 しなかったよ うで あるが,昭
和45年のセ ンサスによると,第
I種
兼業農家12戸,第
Ⅱ種兼業農家7戸
から構成 されている。 他方諸鹿部落 は,若
桜 よ り来見野川 を約6kmさ かのぼった標高約400mの
地点 に存在す る典型的山 村部落で ある。 この部落へ は,若
桜 か ら約25分の道の りを一 日四往復 のバス運行 しか交通の便 はな く,地
理的 にも孤 立 した部落で あるといえよう。 諸鹿部落 は現在55戸,人
口209人 (昭和52年7月 現在)の
小 部 落 で あ り,そ
の うち1975年の農業 セ ンサスにおいて農家 と見 なされている世帯は23戸で あ り,
しかもその一戸当 りの経営耕地面積 は26a,平
均山林経営面積189aと 極 めて零細規模であることを示 している。 この零細性の結果,大部分の農家は第 Ⅱ種兼業農家で あ り
,そ
の兼業の内容 は営林署 の林業労務 に従事す るものが大半 を占 めてお り,他
に恒常的 な賃労働 に従事 してぃるものが弱貫存在 している程度である。この営林署 の 林業労務 が開始 されたのは昭和28年頃 か らであり,そ
れ以前の諸鹿部落の主 たる生業 としては薪炭 業が存在 していた とぃわれる。 しかるにそれが戦後エ ネルギー革命 によ り衰退 していったことを考 え合 わせ ると,営
林署 の林業労務 による収入 こそ,戦
後の諸鹿部落存続のための貴重 な経済的基礎 を構成 して きた とみてよい。 以上,両
部落 につ いて概括 してみたが,次
にそれぞれの生産 力構成 を表卜21こ お いてみることに より比較検討 してみたい。 表1・2
諸鹿部落 。角谷部落の生産 力構成 (昭和45・ 50年) I.晨 家 数 Ⅱ・耕地条件 Ⅲ.機 械所 有台 数2 当 ︱ 一 戸 り Ⅳ.労働力 V 農産物販売額*3 総農家戸数 専業農 家 率 * 1 り 積 当 面 一 戸 地 1 耕 水田率 一家当り農葉従事者敷 50万以上 及 万 満 シ 5 未 ナ び 円 総 数 農業主 体者数 昭 和 45 年 全 国 5341844戸 15,6% 95,6a 0.62台 2,9人 1,9人 33.3% 25.0% 山 陰 145180 11.2 74,3 0.611 鳥取県 56663 67.1 38.5 若桜町 5ω 郵.6 0.開 36.8 諸 鹿 34 69,9 角 谷 0 64.3 0 H召 和 50 年 鳥取県 53582 34,7 66.9 若桜町 803 1.2 諸 鹿 24 39.5 84.3 88.0 角 谷 1∝.1 llXl.0 0 昭和45年 世界農林業センサスにより集計 昭和511年 1975年 農業セツサスにより集計*1
昭和「oll年には一種兼業農家を合めた。 *2.昭和511年には,耕運機以外のセンサス記載の全機械数。 *3.昭和「oll年は,70万 円以上と7万 円未満とに分類した。 先づ,農
村の生産 力構成の中心 をなす耕地条件であるが,諸
鹿部落の場合先述 した ごとく経営耕 地面積 は,昭
和45年一戸当 り26.la,昭
和50年一戸当 り39.5aと 比較 的恵 まれていない山陰若桜町 にあっても類 をみない零細性 を示 している。同時 に,こ
の事実 が第 Ⅱ種兼業農家 しか存在 させ えな い必然性 を明示 しているといえる。そしてこの零細 な耕地条件 が耕運過程の再編=機
械化 を規制 し てお り,上
表 に見 られ るが ごとき機械所有台数の低 さをもた らしてい るので ある。 この点からみて も諸鹿部落の場合 には,農
業生産 力構造の再編 は不可能 とみていいで あろ う。 このことを顕著 に示す もの として労働 力条件 がある。す なわち
,一
戸当 り農業従事者数 および農業主体者数は,鳥
駅県 平均,若
桜町平均 に比較 して もはるかに低 く,農
業村落 として存在す ることは極 めて困難 になって きている。その ことは,昭
和45年 に34戸存在 した農家世帯 が,昭
和50年には24戸と減少 しているこ とか らも明白であ り,こ
の傾 向はよ リー層加速度 を増 してい くことは確 実である。 しかも,第
Ⅲ種 兼業農家 として最低基準 とも思 える「農産物販売額5万
円以上」 を示す農家 自体 が,わ
ず かに12パ ーセ ン トしか存在 しないことか らも,諸
鹿部落がすで に「生産者村落」 か ら「消 費者村落」 に転化 していることは明白である。 この点 につ いては,過
疎化 との関連 において後述す る。 一方,角
谷部落は諸鹿部落 に比較 してはるかに生産 力構成は高いといえよ う。す なわち,一
戸当 り経営耕地面積89.4aは,耕
地条 件 に恵 まれていない山陰′ミ取 においては極 めて高いものであ り , 当然の結果 として耕縁機 の普及=機
械化 も全国的 にも極 めて進 んでお り,生
産 力構成の再編 もそれ な りに行 われた とみて よい。た しかに専業農家 こそ存在 しなくなったが,第
I種
兼業農家 が多数 を 占めてぃること,ま
た農産物販売額 において も,ほ
とんどの農家 が百万円以上の農家の位置づ けを もってい ること等 か らみて も,上
記の過程 を進行 させた とみていいだろ う。この点 をさらに次表1・3 によ り具体的 にみてみよ う。 表1・8
角谷部落の農林達 物販売金額別・経営耕地別農家数 H召 不日 45 年 販 売 な し 7万円 未 満 7 .30フテ 30 70潔了 70 1007テ 100 150万 150 200フテ 200 300フテ 計 農 産 物 販 売 金 額 別 農 家 経 営 耕 地 面 積3反
未 満 1 1 3 - 5 1 1 5 ∼ 7 2 3 7 ∼ 102x*
6 10反以 上 3※ * 4叢華
8 計 0 0 4 2 4 5 2 林 産 物 販 売 金 額 別 農 家 所 有 山 林 面 積5反
未 満 5反∼1町 21
∼3
3 - 5 35∼
10 l 1 5 1 2 2 5 15 ∼ 20 1 1 2 20口丁,火 Jヒ 1 ユ 計 8 1 3 1 1 3 1970 農林業センサス*
梨栽培農家 この表 よ り特 に顕著 なことは,先
づ農産物販売金額百万円以上の農家が11戸 (57.9パーセ ン存在す ることおよびこの百万円以上の農家 がいず れも
7反
以上の耕地面積 を有 し,
しかも梨栽培 を 行 なってい るとい うことで ある。 これにたい して,70万
円未満 の販売金額農家6戸
の うち5戸
は米 作一本で あ り梨栽培 を行 なってお らず,か
つ耕地面積7反
未満であるとい う点で ある。すなわち, 角谷部落の場合,た
しかに生産 力構成 を全体 として把握す ると相対的 に高い とい えるが,現
実 には, 経営耕地規模の零細 な米作・兼業農家 と経営耕地規模 の大 なる梨栽培 ,米 作農家 との間 には相当な 拡差 が存在 していることは明白である。 また林産物販売別農家 についてみて も,そ
の販 売額70万円 以下の農家 が14戸にものば り,
しかも経営耕地面積 と山林所有面積規模 が正 の相関 をな しているこ とを考慮す ると,角
谷部落の生産 力構成の再編成過程 は農民層の両極分化 を必然化 しての結果で あ ることが分 る。 この ことが挙家離村 といかに関連 しているかとい う点 について検討 しなければな ら ないが,次
項 において,角
谷部落の挙家離村世帯 を在村世帯 と比較す ることによ り明 らかに したい。2.過
疎 化 と村 落構 造 2・1.諸
鹿 部 落 と人 口流 出 図2・卜1
諸鹿 部 落 の人 口・世帯数 の推 移 一 人 口 …… … ‐…世帯数 上図は,諸
鹿部落の人口・世帯数の推移 を国勢調査 資料 によ り図式化 したもので ある。昭和30年 か ら昭和50年の20年間に187人減少 し,そ
の減少率 は実 に47.5パ ーセ ン トとい う高い数字 を示 して いる。一方戸数の変化 をみてみると,同
じく20年間に10戸の減少であ り,そ
の減少率 は15.2パ ーセン トであ り
,戸
数減少率 は山村 としてはさほど高 くない といって よい。 この点に関 して,江
戸未期 か ら戦前 までの諸鹿部落の戸数推移を現存す る若干の史料 により見てみ ると,寛
政6年
には70戸, 文久3年
には55戸,明
治15年 53戸,大
正11年 45戸,大
正15年 50戸,昭
和27年 60戸となってお り,ほ
ぼ50戸前後 を保持 して きたことが推察 出来 る。 この歴史的過程の うち,寛
政6年
より文久3年
の15 戸減少 とい う事実 は多分天保飢饉 をは じめ とす る飢饉 によるものであろ うし,明
治15年よ り大正11 年 にかけての減少 は戦争 による減少 および戦後恐慌 による離村 と考 えられる。 ともか く人口の減少 率 に比較すれば,戸
数の減少率 はそれほど顕著 なものではな く,こ
の点 よ り諸鹿部落は人口流 出型 の過疎化段 階 といえる。 図2・卜2
諸鹿部落の年令階層別人 口構成 ― 昭和52年 ‐ ・ 昭和45年 ところで,諸
鹿部落の人口減少 をよ り内容的 に検討す るために,国
勢調査報告 による昭和45年 の 年令階層別人 口 と今回の聴取 り調査 によるもの とを比較図式化 したものが上図である。 この図によ り明白なことは,昭
和45年においては未 だ過疎山村 に特有の「ひ ょうたん型」の人 口曲線 を維持 し てお り,20才
よ り30才とい う若年層および後継者層の流 出が顕著であったのに対 し,昭
和52年においてはその歪みが一層進行 し
,幼
年層特 に10才以下の人 口の激減 と65才以上の高令者層の激増が顕 著 になった ことで ある。 その結果,「ひ ょうたん型」 とい うよ りむ しろ「 さかづ き型」 とい う絶望 的な人 口構成が現 出す るに至 っている。 このよ うな諸鹿部落の急激 に進行 している人 口構成の歪みは,一
方では極度の出産率の低下 によ るものであ り,他
方では特 に若年労働人 口の部落外への転 出の激増 を示す もので あるといえよう。 この人 口流 出現象 は,わ
が国の高度経済成長の時期 と一致 して顕在化 しは じめたことも事実である。 しか し同時 に考 えねばならないのは,「外部=平
地 資本 の が わ か らなされるプル要因 とともに,山
村のがわにおける内部的 なプツシュ要因の存在で あろ う。す なわち,平
地のがわか ら働 きかける吸 引作用のほかに,山
村 が共同体結束によつて隠ぺい して きた不安定要囚か らも惹起 されるとい う側 面」(働である。 そこで諸鹿部落の共 同体結合 につ いて,土地所有状況,労働状態,通
婚関係等々によ って検討 してみたい。 表2・卜1
諸鹿 村 の 田畑 所 有 と荒 地 状 況 諸 鹿 所 有 諸鹿荒地所有 恩合鼻 3町3反4歌 9歩 5反7畝7歩 田合計 蟄歩 4反 1畝 2歩 畠合計 2町3反3畝15歩 1反6畝5歩 田 畠 田 畠 実 数 下 4反取 路歩 7反7畝16歩 跡〔8畝27歩 1反1畝3歩 中 4反3畝11歩 1町1畝5歩 l反 29歩 4畝5歩 上 9畝20歩 5反4畝24歩 1畝6歩 27歩 百 分 率 下 47.4% 33.2% 70.4% 68.6% 中 上 23.5 宝永2年 (1705年)諸鹿村田畑手引帳 元禄8年 (1695年)諸鹿村田畑御改帳 表2・卜1は,宝
永2年の「諸鹿村田畑手引帳」 と元禄8年
の「八東郡諸鹿村田畑御改帳」 により諸 鹿部落の江戸時代 における田畑所有面積 およびその荒地状況 を図表化 したもので ある。この表 よ り 明白なことは,先
づ第一 に,諸
鹿部落の田の面積 が畑面積の2分
の 1し か存在 しなかったことで あ り,ま
た中田 (畑),下
田 (畠)が
大部分であ り,上
田は全体 のわずか9.6パーセ ン トしかなく,上
畠を加 えて も19パーセ ン トにす ぎなかったとい うことで ある。す なわち,こ
の事実 か ら過重労働 ・ 低生産性 を特徴 とす る山村像 が浮 びあがって くる。 さらにこの点 につ いては,田
畑 の荒廃 の数字 か らも推測 出来 る。つ ま り3町 3反
4畝 9歩
の うち5反7畝 7歩
の田畑 は荒廃 してお り,そ
の荒廃率 は17.1パーセ ン トで あるが,そ
の うえ上記の畠の2分
の 1し かない田の うち34パ ーセ ン トが荒廃 し てお り,そ
の零細性 はます ます極 わまったものであった と推察 出来 る。 さらに宝永2年
の「諸鹿村田畑手引帳」 によると
,一
戸当 りの平均所有面積 は1反1畝
28歩であ り,農
家戸数28戸の うち 1反 未満 の所有者が15戸 (54パーセ ン ト)も
存在 していた。そ して明治20年の「諸鹿村地租下調帳」 に よると,一
戸当 りの平均所有面積 は7畝 3歩
と減少 し,か
つ1反未満 の所有者は51農家の うち41戸 と全体 の82パーセ ン トに増大 している。つ まり約180年の間に田畑総 面積 は さほ ど変化 しなかった にもかかわらず「血縁分解」 による農家戸数増大が起 きたとい うことであろ う。 そしてこの土地の 細分化 こそが,生
産性 の低 い土地 を村落成員全員で共有す るとい う意味 をもち,共
同体の結合への 強化 の役割 をはた した と推察 出来 る。事実後述す るように,諸
鹿部落全戸 が親類関係 になるとい う 婚姻関係 にみ られる無階層意識 にもこの点 が考慮出来 るであろう。 なお,諸
鹿部落は零細経営の農林業 を補 うために薪炭業によって生計 をたてていたといゎれる。 しか し戦後のエネルギー革命 により薪炭業は衰退 し,そ
れに代 わって,昭
和28年よ り現在の兼業の 主体で ある営林署 への林業労務 が始 ま り,現
在 に至 っている。下 さて
,こ
うした「連続 と変化」 の上 に立 った諸鹿部落の人口流出を生産関係のなかで分折 してみ る。 図2・Ⅲ3
諸鹿部落 における各戸の所有耕地および保有山林面積 ('1330
132 所 有 耕 地 面 積 ︵1 0 a ︶員
縄
品
&乳
58119 ・ 102 。18 口106 2 保有山林面積 (ha) qュ B打叫
017,120 回4 口107 回13 口116 121 回108 20 .非農 家 SI]程写
唐褒
3 4 5 128先づ諸鹿部落の現在の耕地 および山林面積の所有状況 につ いてみてみたい。上図は保 有山林面積 と所有耕地面積の相関関係 を図式化 したものである。は)この図 によると
,諸
鹿 部 落 にお いては所有 耕地面積5反
以上の農家は7戸
しか存在せず,そ
の うち1戸
は現在非農家世帯であるゆえ, 5反
以 上の農家 は6戸
(11パーセ ン ト)し
か存在 しないことになる。また山林所有面積 において も5町
以 上所有す る家 は5戸
しか存在せず, 3町
未満 の所有層 が78.3パ ーセ ン ト, 3町
か ら5町
未満 の所有 層が15.2パーセ ン トなってお り,そ
の零細性 は実 に顕著 なものがある。 しかも山林所有面積5町
以 上で所有耕地面積5反
以上の家 はわず かに2戸
しか存在 していない。 この零細農林業の実態 を顕著 に明示す るもの として次の表2・卜2をみてみ る。 表2・卜2
経営耕地面積別 ・農作物販 売金額 別農家数 ナ ン 7万円未満 7∼30万 30∼70万 70∼ llXl万 llXl∼150万 150∼ 200万 200∼300万 300∼ 500万 計 年 0∼ 1反 1∼3 3∼5 5∼7 7∼ 1町 1町 以上 9′ 5 一戸 2 一戸 l 一戸 9 13 8 1 3 0 年 0∼ 1反 1∼3 3∼5 5∼7 7∼ 1町 1町以上 3 12 5 1 1 3 12 5 1 1 2 農林業セ ンサス この表は,諸
鹿部落 における農家世帯の農業生産物 による収入 をみたもので ある。 それによると, 農産物の「販売 な し」の農家が,昭
和45年 には24戸 (70,1パーセ ン ト)も
存在 し,「7万
円未満」の農家をも合めると
31戸 (91,2パーセント)の 高率となる。そして逆に
100万円以上の農家はわず
かに1戸
(①)しか存在しない。さらに昭和
50年においても上記
1戸に
,開
拓地「広留野」において
長年の苦労が実った農家
,③⑪の2戸 が加わるにすぎない。こうした事実は
,諸鹿部落においては自
家農 林 業 の み に依 存 して生活 で きる農 家 は ほ とん ど存 在 せず,結
局 兼業主外 に生 活 せ ざ るを得 ない こ とを しめ して い る。 そこで この よ うな零 細 な生産条件 下 の諸鹿部落の農 家 の兼 業就 業状況 につ い て述 べ てみ たい。表2・
1-3
専兼別農家数 と兼業の種類 (諸鹿部落) 年 計 第 Ⅱ 種 兼 業 農 家 兼 業 従 事 者 兼 業 の 内 容 世 帯 主 あ とつ ぎ 帯 世 主 と ぎ あ つ の の 帯 そ 他 世 員 恒 常 的 勤 務 出 稼 一 雇 夫 日 人 経 営 耕 地 面 積 3反 未 満 9 7 l 8 3 ∼ 5 1 1 5 ∼ 7 7 1 3 1 6 7 - 10 1 1 1 10反 以 上 2 2 2 計 3 5 0 3 2 所 有 山 林 面 積 5反 未 満 5 1 1 5反∼1町 1 ∼ 3 1 2 2 1 3 -- 5 3 1 4 5 - 7 1 1 1 7 - 10 1 1 1 10町 以 上 計 5 0 3 1970 農 林 業 セ ンサ ス この表は第 Ⅱ種兼業農家 (諸鹿部落の場合,昭
和45年 のI種
兼業農家 は1戸
しか存在 しない)の
兼業従事者 と兼業内容 とを表 わ したものである。昭和45年段 階では,兼
事従事の主体 は世帯主で あり
,兼
業の内容は,圧倒的に日雇 。人夫という極めて不安定な形態ρ雇用労働が多く
,90,9%と
い
う高率 を示 してい る。 それ に反 して恒 常的 な勤務形態 の雇 用労働 に従 事 して い るものは,わ
ず か 3 戸 にす ぎない。 そ して,こ
の 日雇 。人夫 とい うの は,ほ
とん どが営林署 の山林労務 で あ り,こ
の薪 炭業 か ら営林署 の山林労務へ の職業移動 こそが,諸
鹿 部落 におけ る過疎 を「人 口流 出」 の段 階 に と どめて きた主要 な原因で はないだ ろ うか。 ところで,諸
鹿 部 落 において は,昭
和 50年 の農 業 セ ンサ ス によ ると農 家数 は24戸 に減 少 し,第
I 種 兼 業農 家 は3戸
に増加 して い る。 そ して兼業の内容 において 日雇 ・人夫 が減少 し10戸 になって い る。 この理 由 と しては,一
つ には兼業 の種類 が質的 に変化 した こ と,も
う一 つ には 日雇 。人夫兼業 農 家 がその零細農 業経営 を放 棄 した ことの二点 が考 え られ る。 この点 につ いては,次
表2・卜4によ つて推察 す ることが出来 る。表2・
1-4
諸鹿 部 落 にお ける非農 家 の就 業状況 昭和45年 昭和50年 世帯主 要 世帯主 妻 営林署(日雇林業) 常雇(店員・工員) 常雇(事務) 自 家 林 業 年
金 臨
雇(工員) 死・無
職 転 出・不 明 7人 4 1 4 1 5 3人 1 12 2 4 14人 5 1 4 4 1 4 6人 2 13 9 2 この表 によって明白なよ うに
,昭
和45年 に比較 して増加 した ものは,営
林署 勤務7戸
と年金生活 者3戸
である。 それゆえに,こ
の表の数字 が示す ものは,零
細経営農業 を放棄す る代 りに,労
働可 能年令の間は山林労務 に従事す ることにより諸鹿部落への在村 を継 続せん とす る事実 一一換言すれ ば港在的挙家離村志向者 が増加 した とい うことであろ う。す なわち,野
尻重雄 が指摘す る(働農業 を (家業)と
して継承 すべ きもの とす る考 え方―「家の論理」(こ れ こそが零 細 経営農家 を結合 させ てきたもの ともい えるが)か
らの脱却 といってもいい。 そこで諸鹿部落 において,この「家の論理」 を支 えて きたもの として本家分家関係 と姻戚 関係 について概観 してみたい。 元来山村 は,「その劣弱 な生産条件や厳 しい自然条件 に対 して,人
の和,家
と家 との結合で もっ て対処 して きた」(6)と言 われる。 そ してわが国の村落 において この家 と家 との結合は,現
実 には上 下身分関係 に基づ く本家分家関係 を中心 とした同族関係 と個人 中心的で対等関係 を原則 とす る親類 組織 とが相互規定的 な連関 をもちなが ら機能 して きたといえる。 この点 につ いて諸鹿部落の場合 に は,本
家分家関係 が現 実に何 らかの形で機能 して きた と考 えられ るものは16組存在す る。その うち, 系譜関係の相互認知 が確認 されたものは14組であつた。(η しか し,現
在 の 日常生 活 における同族志 向をみてみ ると,「本家 をたてるべ きで ある」 とす る考 え方は24.3パ ーセ ン トと極 めて少 なく,む
しろ「普通の家同士のつ きあいで よい」とす る考 え方が70,3パーセ ン トと大半 を占めている。(働この ことか ら諸鹿部落の同族 関係 はさほど重要 な役害Jを もって展開 されて きてはいないよ うに思 える。 その原因 としては,先
述 した諸鹿部落の零細 な生産条件 が挙 げ られよ う。す なわち,本
家分家間に 階層的上下関係 および生活優劣関係 をもた らす物質的基盤 が存在 しなかったとい うことであろ う。 この ことは,諸
廃部落 においては同族 内での共有地・共有林 がほ とん ど存在 しないことからも明白 である。 それゆえに,諸
鹿部落 においては従来か らの比較的フラッ トな関係 を基盤 に して婚姻関係 が成立 し,そ
の結果図2,1-4に 示 されるよ うな全戸 が親類 関係 によって結 合 される とい う極めて強 力な相互扶助関係 が現実 に機能 して きた とい えよ う。 しかもこの図 か ら明白なよ うに,全
戸 が親類図2・卜
4
諸鹿 部落 の姻戚 関係3ゴ
♀
頭
︵現 在 他 出 ︶ 誉む〒♀ ♀=6==〓〓=♀〒6 ⑮125117■3 10
⑫17⑦16d
奢⑥122cl皓1
桜_ど
工
___声
♀
=♀ ♀ ♀ ♀ ,需 ,島 取 取上
♀ 6==♀ 6=♀ 6 132③ 133⑩套
都 6「 ♀ 悪:♀ ニ │↓ 6=♀ ♀=6 115 む=♀ I 6=♀ Ib 6=♀ 134篠 岡 ♀=6 ② 6 併 30 ♀ ︵ 鳥 取 ︶ む ︵ 東 京 ︶ 騨 ︲も 当 取 言 1 む ・8 一 紘 の材 筋 現在の各家の世帯主 ⑬ 妻の実家 ァルファベ ット=同一の人物 =結婚関係2
§邑 毘3蚕 1尋 篭M“ 7
憂B5Ю
59V⑭
お21 父 母 の 手♀ ♀=6む■♀む=♀関係 を結 びなが らも血族結婚 は比較的少 ない。 これは
,血
統 よ りも全戸 が家 によって結合 している ことによ り生 じる日常生活 における共同体結合・共属感情 およびその結果 としての精ネ申的安定が求 め られた とい うことであろ う。 もちろん,孤
立 し封鎖 された山村 とい う地域的特性 がこ うした結合 を強化 したことも否定出来 ない。事実,昭
和30年代 まで圧倒 的 に部落内婚 が優位 を占めていたこと は,通
婚圏 を検討 してみると明白である。 表2・卜5
年代別通婚圏 (婚入) 年 代 地 域 昭和 1∼9 昭和 10-19 昭和 20-29 昭和 30-39 昭和 40-52 計 実 数 諸 鹿 14人 人 動 人 22(3) 15(5) 86141 若桜 町 八頭郡 1 2 鳥取市 鳥取県 他府県 2 計 2012) 23(3) 21(9) 1141331 百 分 率 諸 鹿 100% 85% 100% 70% 21% 75。4% 者桜町 2.6 八頭郡 鳥取市 4 鳥取県 9 他府県 ( )う ち諸鹿 に住 んでいない者 表2・ 1…5は ,昭和 に入 ってか らの通婚圏 を年代別 に図表化 したものである。先づ第一 に顕著なこと は,村
落内婚 が75。4パーセ ン トとい う高率 を示 していることであり,特
に昭和30年以前 においては 94.6パーセ ン トとい う通婚圏の封鎖性 を示す ような高い数字 を提示 している。第二 に,部
落外婚 の 場合 には八頭郡 内が86.8パーセ ン トを占めているにもかかわらず若桜町 との婚姻 が少い点である。 第二 に,部
落外婚 が顕著 になるのは昭和40年 以降であるが,こ
れは他地域へ流 出 した者 がその地で 婚姻関係 を結 んだ結果であ り,実
質的 に通婚圏の拡大 に結びつ かない点である。特 に,こ
の第二の 点は廃 村問題 を考 える場合重要 な意味 をもって くる。す なわち,本
来一時的労働流 出がその流 出地 で婚姻関係 を成立 させ ることによ り,そ
の一時性 をそ う失 し,結
果 として後継者層の不帰村 をもた らして しま うか らで ある。つ ま り,わ
が国の村落の婚姻 においては,「同程 度 の家格」 とい う要因 が常 に意識的 にも潜在的 にも作用 して きた といえる。そのことは,既
述 したように,零
細 な土地所 有による無階層性,経
済的平等性 が諸鹿部落 において村落内婚 を可能 にし,か
つ強度のオす落内結合 を維持 させて きた事実 となっているといえよ う。 しか しなが ら,同
程度の兼業 に依存 した農業 を継 承す ることを前提 とした「家の論理」 自体 が,後
継者の転 出→転 出先での結婚→不帰村 とい う図式の成立 によって
,そ
の規制力を必然的 に弱化 させ ることになった と考 えられよ う。 この点 を後継者 の転 出状況 を分析 す ることによ り検討 してみる。 表2・卜6
転 出先別 ・年度別・性別転 出考数 年 代照
皓年以前46年
47 4F 48 年 49 4F 50 4151年
合 計 男 女 男 女 男 女 男 女 男 女 男 女 男 女 男 女 二 〇 才 未 満 若桜 町 八頭郡 鳥取 市 鳥取 県 関 西 関 東 死 亡 ハ ー ー 人 2 人 1 2 1 1 4 2 2 人 1 2 1 1 2 人 1 1 1 5 12 3 1 計 5 2 3 2 3 5 5 2 2 4 1 二 〇 i 三 〇 才 若桜 町 八頭郡 鳥取 市 鳥取 県 関 西 関 東 死 亡 計 1 1 1 1 4 1 5 1 1 1 2 2 3 2 1 1 2 1 1 1 1 2 2 2 l 2 1 5 1 3 若桜町役場資料による 上表は,昭
和45年か ら昭和51年までの転 出者 (20才未満 ・20∼30才 の二世代)を
,転
出先別 に図 表化 した ものである。 これによると,諸
鹿部落の若年労働 力が主 に関西方面 と,烏取市 に流 出 してい ることが明白で ある。 また,若
い世代 ほど関西方面 に流 出 し,20代
の労働 力は,特
に女子 を中心 に 鳥取市内,人
頭郡 内に流出 していることがわかる。 もちろん女子の場合,結
婚 による転 出も考 えら れるが,そ
の場合で も,ま
ず就業流出→結婚転 出 といったパ ター ンをとっているよ うで ある。 こう した流 出の中で も,一
番問題 になるのが後継者の流 出で あろ う。 表2・1-7諸
鹿部落後継者の 就業状況 ・帰村予定 左表は,後
継者の就業状態 を他 出,通
勤,自
家 農業,未
就業の四分類す ることによ り,そ
の将来 の予定 を問 うてみたもので ある。先づ第一 に言 え ることは,他
出者 が65パ ーセ ン トをしめてお り, その うち帰村予定者 が23パ ーセ ン トしかいない こ とで あろ う。第二 に自家農業従事 者が皆無で ある ことで ある。未就業で ある学生層 に対 して も,親
自身 が希望す るものは全て動め人で あ り,こ
こに も農林業兼業 を主体 とす る山村共同体結合が,意
識面 において も,実
態 においても解体 しているこ とを示 しているといえよう。第二 に,現
在在村の 自宅通勤後継者のなかに,「家 業」 と して の農業潔
若就 業 場 所 帰 不∫予 定 桜 町 八 頭 郡 鳥 取 市 他 府 県 帰 村 離 村 未 定 /Jヽ 計 他 出 3 2 6 通 勤 4 3 7 3 自家農 業 0 未 就 業 7 計 5 6 聴 取 調査 に よ るを継 ぐもの が皆 無 とい う事実で あ る。 さ らに
,家
業 と しての農林 業 を継 がない に して も在 村意志 だ けで も示 して い る もの が,わ
ず か に43パーセ ン トしか存在 して い ない こ とで あ る。 こ うした点 を考 慮 す ると,た
しか に諸鹿部 落 の場 合,現
在 は人 口過疎 の段 階 にあ る とい えども,や
がて は挙家離村 → 廃 村 とい う過程 をた どることは必然的 といえよ う。 2・2,角
谷部 落 と挙家離 村 表2・2-1
角谷部落 の 戸数 ・人 口推 移 戸 数 人 口 昭 和30 35 40 45 50 一戸 150ノ( 144 137 101 42 関/開年 △680% △72.0% 角谷部落は先述 したごとく,昭
和30年代の後半 か ら挙家離村 が始 まり,40年
代 の後半 には一種の なだれ的離オ寸現象 を起 こし,昭
和50 年 には遂 に,左
表 にみ られるよ うに在村世帯8戸
,人
口40人に減少 して しまった。そこで在来世帯 (一世代以上 その村 に居住す る世帯) の挙家離村実態 を在村世帯 と比較検討す ることによ り,角
谷部落 に おける村落構造の変容 をみてみたい。 先づ挙家離村が大量 に発生す る以前の村落構造の検討 が必要であ ろう。 そこで生産構造 につ いて1970年農業セ ンサスを中心 にみてみよ う。次表は,角
谷部落の就業 構造 を,山
村の生産構造 を特 に規定す る経営耕地面積 および山林所有面積別 に集計 したもので ある。 表2・2-2
経営耕地面積別・山林所有面積別就業構成 (角谷部落) 年 兼 業 従 事 者 茉 業の
種 類 雇 用 兼 業 農 家 自営 茉 業農 家 計 帯 あ つ 世 主 と ゴ 世 帯 主 あ と つ ぎ の の 帯 そ 他 世 計
際
的
賜
出 稼 人 夫 日 雇 計 林 業 他 第 I 種 兼 業 農 家 経 営 耕 地 面 積3反
未 満 一戸 戸一 % % % 9/9 % % 3 ∼ 5 5 ∼ 7 1 1 1 100.0 7 - 10 3 1 2 1 100,0 l 100,0 10反 以 上 2 2 3 6 100,0 計 4 6 2 5 7 100,0 山 林 所 有 面 積 5反 未 満 5反∼1町 1 - 3 3 -- 5 l l ユ 100.0 5 ∼ 10 2 l 3 1 100,0 10 ∼ 20 2 2 l 100,0 100.0 20田丁,火 Jし 2 2 計 4 6 2 5 100.0第 Ⅱ 種 兼 業 農 家 経 営 耕 地 面 積 3反 未 満 1 l 1 100.0 3 - 5 1 1 1 100,0 5 ∼ 7 2 100.0 l 100.0 7 - 10 2 1 1 100.0 l 100.0 10反 以 上 計 7 2 5 2 山 林 所 有 面 積 5反 未 満 5反 -1「I丁 l 100.0 1 ∼ 3 3 ^レ 5 1 1 2 60,0 5 ∼ 10 2 50,0 1 100.0 10 -・ 20 l l 1 100.0 20町 以 上 計 7 2 5 60.0 40.0 50,0 50.0 昭和45年 世界農林業セ ンサス この表 によると
,農
家19戸の うち第I種
兼業農家 が12戸 (63.2パーセ ン ト)で
あ り,
しかも11戸 まで が7反
以上の経営耕地面積 および5町
以上の山林面積 を所有 してお り,若
桜町 においては有数 の農家層 に属 しているといえよ う。 また,こ
の第I種
兼業農家の兼業内容 をみてみ ると,雇
用兼業 農家 が5戸 ,自
営兼業農家 が7戸
で しかもすべて林業 に従事 している。 こうした点か らみて も,こ
の第I種
兼業農家が角谷部落の上層農 を構成 していることは明白で ある。次 に第 Ⅱ種兼業農家は7 戸 (36.8パーセ ン ト)しか存在せず,前項 の諸鹿部落における第 Ⅱ種兼業農家率90パーセ ン ト以上 と は好対照 をなしてい る。 しかも諸鹿部落 とは異 な り,そ
の兼業内容は恒常的勤務 がほ とん どで あ り, 諸鹿部落の人夫 。日雇 とい う不安定 な就労形態 が中心である兼業 とは正反対 で あるといえよ う。た だ,こ
の雇用兼業 に従事す る主体 が世帯主 ・後継者で あることは,こ
の角谷部落 において も,農
業 の基幹的労働 力が他産業 に流 出 していたことを示 している。 しか し,昭
和45年 頃 までの角谷部落 は, 農業 中心の就業構造であったことは明白で ある。 さらに表1・3の農 産 物・林産 物 の販売状況 によっ て考察 されたごとく,角
谷部落 は,経
営耕地面積7反
以上 を所有 し,米
作 プラス梨栽培の第1種
兼 業農家層 と,経
営耕地面積5反
以下で米作単営の第 Ⅱ種兼業農家 とに両極分解 していた とい えよ う。 さて,こ
うした状況下の角谷部落 における挙家離村の実態 とその及 ぼ した影響 につ いてみてみた い 。図2・
2-1
角谷部落 の住 宅地 図 ■ 離村世帯 □ 在村世帯 図 公 民 館 番号「角谷」地区 その他は「寺所」地区 角谷部落 は住宅地図 によって明白なよ うに
,角
谷川 にそって「寺所」「角谷」 の二小 集 落 からな ってお り,昭
和30年頃 には24戸存在 していた とい う。その後,角
谷地区に位置 していた8戸
全て と 寺所地区より7戸
,計
15戸が挙家離村 し,現
在 は寺所地区に8戸
だけ在村 してい る状況 で ある。挙家離村地帯についての聴取 り調査の結果を要約 してみると表
2・2-3のようになる。これを検討
してみると
,先
づ挙家離村のパターンに関していえば
,①
の中距離転居・転業型以外は全て近距離
転居型であり
,具
体的には若桜町およびその周辺地区への転居といえる。しかも近距離転居・就農
通 い耕 作 型 と近 距転居 ・通 い耕作 。賃労働 兼業型 がほ とん どで あ ることは,挙
家離 村 によ る就 業構 造 の変 容 の点 か らみ れ ば,た
しか に脱農 型 が増加 しつつ あるが,完
全 に脱農 す る意図 は早急 には な い こ とを示 して い る。 その ことは,「離 村決定理 由」 と して,「農 業 に便 利」,「耕地管理 に便 利」 が 挙 げ られてい ることか らも明白で あ る。 次 に挙家離村動機 を探 ってみ ると,「 生活 が不便」 とい う理 由 が圧 倒 的 に多 い。 しか し,諸
鹿部 落 に比較 す れ ば,交
通 や生活環 境 な どは,は
るか に恵 まれてい る。 また多雪 をあげて い るもの もい 104 102表2・2-3 離村世帯 における生業形態 。人口の動 き ,離 村状況 世 移 番 丹 世 棒 主 の 年 令 世 帯 主 が過 去 二年 主と して従 事 した仕 事 挙 家 睦 村 撃 室 離 村 動 機 離 村 先 決 定 理 由 離 村 資金 調 達 法 挙 窯 離 村 型 緋 地 山 林 経 営 面 積 蕪 屋 処 分状 況 後 継 若 転 出 時 現 在 転 出 時 現 在 年 月 転 出 先 市 町 村 在 村 時 離 村 後 他 場 所1予 定 通 鋤 場 所1職 業1予 定 未 就 葉 B C 田 畑 樹 園 地 日 畑 樹 園 地 在 村 時 構 村 後 の 望 規 希 才 4 ヤ 中 園 鉄 園 鉄 44・S年月4 鳥取 市 津 ノ井 勤 め な が らの 農 業 は無 理 と判 断 仕 事 の関係 一 通 勤 に便 利 土 地 の 死 却 ⑤ ◎ ③ 8 戻 2 O 反 0 反 反 4 売 却 未 定 自 窯 農 業 自 察 農 業 着 桜 町濃 人 町 町 が速 くて生 活 不 使冬 が長 くて言 が 多 い 適 当 な 家 ,土地 が あ っ た 保 安 山林 の 立 ホ処 分 ① ③ ① 6 2 11.3 2 8 残 存 鳥取 市 帰 農 103 自 室 農 葉 自 蒙 農 業 47 10 若 桜 町 馬 場 町 が速 くて 生 活 不 便 農 業 に便 利 かつ 通 勤 に便 利 保 安 山林 の 立 木 の 処 分及 び貯 金 ① ③ ① iO.5 3 発 却 公 務 員 104 48 日 雇 林 業 営 林 署 47・ 7 町 甥 桜 馬 若 醤 が出 るの に残 っていて も仕方 が ない 同 上 農 協 か らの借 金 ② ⑤ ② 0 O 1.5 残 存 /rd府県 未 定 54 自 室 農 業 自 蒙 農 乗 46・ 12 町 鶏 桜 馬 者 町 が速 くて 生 活 不 便 冬 が長 くて守 が 多 い 日 畑 に近 い 適 当 な家 土 地 が あ った こ と 山 林 の立 ホ処 分 貯 金 及 び緒 金 ① ⑥ ① 7 残 存 国 府 町 公 務 員 継 統 38 自 家 農 業 曽 林 署 49・ 8 町 町 桜 内 若 子供 の教 育 の た め 田 が あ り,若桜 の 中 心 に近 保 安 山林 の 立 木処 分 及 び借 金 ② ③ ② 2 3.6 1_2 所 持 し て 出 る 農 業 107 建 設 業 建 設 業 49・ 12 町 町 桜 内 者 動 きた く な か つた が,一軒 に な つ た ら子供 が可 愛 相,冬の 多管 も との 村1と近 い し,適当 な 土地 が あ っ た こ と 立 木処 分 及 び貯金 と借 金 ② ③ ④ 0 3.3 残 存 公 務 員 108 52 55 自 家 農 業 自 家 農 葉 48 3 町 町 桜 内 若 出 る気 は なか っ た が… 適 当 な 土 地 が あ っ た こ と 山林の立木処分及 び手持 ちの金 ① ③ ① 3 3 20 売 却 鳥 取 市 金機 融関 継 統 自 家 農 業 オ ロ シ発 業 47・ 12 町 町 桜 西 着 集 団 離 村 み た い な気 持 同 上 山 林 の立 木処 分 及 び土 地・ 売 却 ③ ② ③ 15 5_2 1.5 6 1_5 売 却 サ ラリ 安 泰 ニ ッ トー 製造 業 勤 務 町 町 桜 下 若 農 業 のメ手来 性 に失 望 した 町 が速 くて生 活 不 便 同 上 山 林 の立 木処 分 及 び土地 の 発 却 ⑥ ② ◎ 3 0 残 存 48 日 産 林 業 サ ー ビス葉 49・ 12 着 桜 町 濃 人 町 本 当 は 出 た く な か つ た が,皆 が 出 る し一 粁 残 って も仕 方 が ない 緋 地 管 理 に便 利 な国 遣 筋 に 適 当 な掌・ 土 地 が あ つ た 保 安 山林 の 立 木 処 分 と貯 金 借 金 ② ③ ① 1 1 8 残 存 鳥4t市 ≡う い 帰 な 112 45 48 ア ロ ー カ ー 自 由 業 49 8 若 桜 町 下 町 周 囲 の 人 が 出 て い く し,残され る と生 活 に困 る 同 上 保 安 山 林 の 立 木 処 分 及 び貯 金 ② ⑥ ② 5 46S 亮 却 若 桜 町 農 協 継 統 Ъ 日 雇 林 業 曽 林 署 着 桜 町濃 人 町 町 が速 くで 生 活 に不 便 同 上 手持 ちの金 と農 協 か らのft金 ② ③ ④ O 3_5 O 06 0.6 持 出 所 で サ ラ リ *l A:①近距雄転唐 就農通い耕作型 ②近距離転磨通い耕作 賃労球業型 ③近距醸転暦 転業型④中距醸転居・就農近い耕作型 ⑤中距藤転居・通い緋作・質労球業型③中距離転居転業型 B:①世帯主先行型 ②世代交代型 ③同時型①後逸い型 C:C農素継統型②不安定脱農型 C庶定脱農型④農外不安定型 C農外安定型 C熊業型
る。 さらに「皆 が出 るし一軒残 されて も生活で きない」 とい う理 由により離村 しているものもいる。 結局
,こ
の挙家離村動機 は就業変化 とか らんでお り,ま
た共同体結合 とも関連 しているといえる。 すなわち,昭
和46年 か ら49年までの挙家離村 をみてみ ると,比
較的大 きな経営耕地面積 を持 ち農業 志向の タイプと経営耕地面積 がさほ どない兼業志向の タイプと前二者の流出によりしかたなく転 出 す るとい う三種類の形態 に分類 出来 る。特 に第二の タイプは,挙
家離村 が共同体結合 を弱化せ しめ るとい う側面 と,同
時 に共同体結合の弱化 が挙家離村 を増進 させ るとい う側 面 との相互関連性 を示 す もの として注 目すべ きものである。 さて,以
上のよ うに何故挙家離村 したのかとい う離村者の主体的理由については要約出来 るので あるが,や
は り重要 なのは客観的理由であろう。 そこで挙家離村世帯 と在村世帯の経済的基盤 を比 較検討 してみよ う。 図2,2-2
角谷部落 における各戸の所有耕地 および保有山林面積昂
4
2 3 保有山林面積 (ha) 20 6踏好せ暮
上図は,保
有山林面積 と所有耕地面積 の相関関係 を示す もので ある。 この図か ら明白なよ うに, 在村世帯の方が全般 に耕地面積・山林面積 ともに恵 まれている。す なわち,在
村世帯 は全て経営耕 地面積7反以上 かつ所有山林面積が5町
以上であるのに比較 して,離
村世帯 は一般 に生産構造の規 模の小 さい層 が多い点である。それゆえに,離
村世帯の うち耕地面積 の少 ない家 は第 Ⅱ種兼業 ない しは脱農家であるといえる。 さらに,挙
家離村世帯 と在村世帯の経済的基盤 の相違 をもた らしているものに林業経営 がある。た しかに林業経営 はあ くまで も角谷部落 においては兼業ではあるが
,や
は り就業状況 には見おとせ ない点で ある。 表2・2-4
階層別林 業経営状況 項 目 区 分 人 工 林 率 人エルト樹令別比率 平均 植林 面積 (ha) 下刈 り率 林産物販売額 世帯主 の主業 ∼10 年生 -30 年生 30F, 生 ∼ 100ラ了 円以上 及 万 満”
”際
林 業 人 夫 日雇 そ の 他 在村者平均 路 2 % 1 % 7 % 2 0.45 % 0 % 5 陀 8 % 0 所 有 山 林 面 積lha未
満1
∼9
10 - 14 15 - 20 離村者平均 9 所 有 山 林 面 積lha未
満 0 01
∼9
0.23 10 - 14 0.05 15 ^- 20 1970年 世界農林業セ ンサス 表2・2-4に よ り林業経営の階層 別状況 を検討 してみ る。先づ植林 を した面積 は在村者の方 がはる かに多い。 また人工林率 につ いて も在村者平均の方 が10%も高 く,
しかも人工林の樹令構成 をみれ ば30年生以上率 については,離
村者の14%に
対 し,在
村者は22%と 高い。当然,か
かる格差 が蓄積 材積量の差異,ひ
いては林業収入への依存度 にも反映 されることになり,在
村者は農産物収益以外 に林業収入 も可能 になる。従 って逆 に離村世帯 においては「人夫 。日雇」 とい う兼業農家の形 をと るかまたは,山
林 を所有 しなが らも拡大造林出来ず農林業以外の産業への雇用労働 を求 める者 が多 いことになる。す なわち,離
村世帯 と在村世帯 とは生産基盤 が違 うとい えよ う。同時 に,こ
の こと は,山
林所有規模 が離村先での職業選択の範囲 を規定す るといって よい。 そ して,あ
る意味では, 小資本の もとに山林 を資産的 に保 有 し続 けるために,賃
金高騰下では自家労働 力によって山林管理 を行 ない投下資本の節減 を計 らざるをえない。その結果離村先 について も遠隔地 を選択す ることが 出来 な くなった と見ていいであろ う。 そのことは,又
表2・2-31こみ られ るごとく,山
林経営面積 に おいて離村後山林経営規模 を縮少化 した家が多いにもかかわらず,山
林所有面積 を縮少化 した家は 少いことにもあ らわれている。同時 に,離村世帯の場合経営耕地 も縮少 してい る。 このよ うに,挙家 離村の経済的背景 には,農業の衰退,林
業の縮少化 といった要因が大 きく横 たわっている。特 に主 と して恒常的賃労働や林業以外の 自営業 に従事 した世帯,主
として農林業 に従事す る世帯の中で も林 業経営への取 り組みが弱 かった世帯 が挙家離村 した とみていい。 しかも,挙
家離村世帯 は,離
村後 も山林 を資産的 に保 有 し粗放化 した状態で経営 を持続 しているのが現状で あ り,こ
の ことが同時 に 表2・2-3にみ られるごとく,「不安定脱農型」「農タト不安定型」離 村 に結 果 と して規定 させて しまってい る とい えよ う。 表2・
2-5
転 出先別 。耕地経営規模別世帯数(戸) 唾 在殻 嶺 0∼0.1 0.1-0,3 0.3^ψO.5 0.5-0.7 0,7-1.0 1.0-1.5 1.5-2.0 2.0以上 離 村 一 則 在村世帯 4 3 1 離 村 世 帯 内町 1 2 馬場 1 2 若 桜 2 3 3 鳥取 1 l 計 1 l 2 8 1 0 離 村 後 在村世帯 2 3 離 村 世 帯 内町 1 1 馬場 l 1 者 桜 1 1 2 1 1 鳥取 1 計 2 3 4 3 0 聴 取 調 査 に よ る 一方,こ の挙家離村 が在村世帯 に及ぼ した影響 をみてみ ると,先づ生産構造 においては,表
2・2-5
にみ られるごとく,経
営耕地面積 をやや拡大 してお り,こ
れは離村世帯の縮少化 と正 の相関 をなし ている。 しかも1.5町歩以上の経営農家 が3戸も存在 してお り, 8戸
の うち5戸
が1町
歩以上の農業 経営 を行 なっているといえよ う。ただ在村世帯の中に,第
Ⅱ種兼業農家 ― しかも恒 常的動務 とい う形態 の雇用兼業 一 が出現 して きていることは注 目に値す る。また離村世帯 はもともと労働生産性 の低 い不便 な耕地 を所有 しているものが多 く,そ れを序 々に植林することによって耕地 の林地化 をは かってお り,む
しろ在村世帯 の経営規模拡大 にはかならず しもつ なが らず,在
村世帯の生産 。生活 活動 に多大の負担 を与 えている面 もある。 この在村世帯への負担の増大および彼等の中に生 じつつ ある疎外感,さ
らに兼業化の進展 などが住民の離村意識へ顕象化 しているよ うに思 える。す なわち, 離村 を積極的 に否定 しているのは1戸にす ぎず,他
は消極的ではあって も肯定 してい るのが5戸
, さらに積極的 に肯定 しているものは2戸
も存在 してい る。特 に聴取 り調査 において,三
世代家族 の 場合,後
継者の居住志向 として「他所へ引越 したい」 とい う意見 が多かった ことを考慮す ると,廃
村化への危険性 は皆無 とはいえないで あろ う。 〔結語〕 以上,過
疎町村指定地域である若桜町の中で,過
疎化のパターンの異 なる二部落 をその村落情造 との関連 において検討 してみた。要約すれば,次
のようになるであろう。 すなわち,村
落構造 を規定 してきた共同体結合の強弱が過疎化のパターンを,挙
家離村 による過疎 と人口流 出による過疎 とに顕在化 させて きたとい える。 よ り具体的 に言 うならば
,零
細 な生産基 盤 により互助意識 を中心 として共同体結合 を強めざるをえなかった諸鹿部落 においては,そ
の内部 における自壊作用の ごとき内部的なプツシュ要因の出現 に平地資本のがわか らなされるプル要因が 相乗効果 を示 し人口流 出の激増 をもた らし,一
方生産基盤の相違 による農民層分解 による共同体結 合の弱化 していた角谷部落 においては,潜
在的 な内部的 なプツシュ要因 を顕在化せ しめた結果 が挙 家離村で あった といえよ う。 その点では,角
谷部落の挙家離村 はお きるべ くしておきた もの とい え る。また諸鹿部落の場合
,「新卒直後の他出の増加 → 後継者の流出の顕在化」という変動過程は
, (家の論理
)の
弱体化を示すものであり
,同
時に野尻重雄が指摘するごとく,(ア トツギ〉労働力
の流出は,(ア トツギ〉なる特定身分の解消であり
,農
業を
(家業
)と して継承すべきとする考え
方に基礎 をおく帰村志向を消減させるものである。
(9)その点において
,諸
鹿部落における廃村化ヘ
の傾向は不可避的であるとみてよい。
最後 に,過
疎 につ いて問題 になされる場合,共
同体 ぬ きの農民 が問題 とされ,村
落共同体 その も のが受動的存在 として しか把握 されないことが多いが,や
は り「過疎化 に対す る村落共同体 の機能」 を分析す ることが,同
時 に新 しい村落再編 を考 えることにつ ながるので はないかと思 う。 〔付記〕 この小論は,昭和52年7月 におこなった調査 にもとづいている。その際調査 に協 力 して下 さつた角谷・諸鹿両部落 の方々,若桜町町会議員榊田誠也氏,そ して′島取大学教育学部生石原奈津子】山根由美子,岡山美子,盛本洋子の四 君に感謝 したい。特に,石原・山根両君には調査の集計,図表作製まで手伝 って項いたことに謝意を表 します。 なお, 両君は夫々,その卒業論文「過疎地区山村 における構造的変化の比較考察」,「山村の封鎖性 と開放性 についての史的 考察」 に本調査 をまとめている。 〔註 〕(1)こ
の小論 は,昭
和52年7月 におこなった現奈良女子大助教授戸祭 由美夫氏 との共同調査 に基 づ くものである。(2)1970年
世界農林業セ ンサスによる。(3)坂
口慶 治「京都市近郊 山地 における廃村化の機構 と要因」人文地理27-6,1975,pp 2∼
314)番
号 は調査世帯番号 を示 している。なお非農林世帯 につ いては聴取 り調査 による。(5)野
尻重雄編著「農村の人 口」 中央公論社,pp 66∼78(6)米
村昭二「過疎化 と村落構造」岡山大学教育学部研究集録,第
30号,1970,p l19
(7)諸
鹿部落の系譜関係の相互認知 を図表化す ると次のよ うになる。 系 譜関係 の相 互認 知 分家・本家他出 分家,本家なし 相 互認 知 あ り 相 互 認 知 な し89