〔講師の紹介〕 レ・リィ・ヘイスリップ先生,本日は香川大学法学部にお越しくださり,本当にあり がとうございます。心より歓迎申し上げます。 先生は,ベトナムご出身でアメリカ在住の作家でいらっしゃいます。先生は,ベトナ ム中央部の小さな町に生まれ, 歳の時にベトナム戦争に巻き込まれました。そのと き,筆舌に尽くし難い経験をされながらも,敵味方双方が受けた深い心の傷を癒そうと, 現在,教育や医療等の社会活動にも携わっておられます。 先生は,戦争が社会的弱者の人権を侵害するものであり,異なった国の人々が真に心 を通い合わせるには思いやりの心で支えあうことが必要だと説いてこられました。そし て,若い人たちには,世界を旅して見聞を広げ,たくさん友達を作って欲しい,そうす れば戦争をしようとは思わないはずだと繰り返し訴えておられます。
先生には,When Heaven and Earth Changed Places : A Vietnamese Woman’s Journey from War to Peaceと Child of War, Woman of Peace の つの著書があり,前著はオリ ヴァー・ストーン監督によって映画化されました。本日のご講演が平和と人権に対する わたしたちの理解を深め,自らの生活を振り返る機会になることを信じます。最後にな りましたが,通訳をつとめてくださいます香川大学大学院教育学研究科の中村博子様に 深く感謝申し上げます。 それでは,先生,よろしくお願いいたします。(以上は,日本語による開会の辞)
ベトナム戦争の戦禍からの復興の創造
レ・リィ・ヘイスリップ
中 村 博 子 (訳)
〔挨拶〕 おはようございます。今日はみなさんと一緒に楽しい時間を過ごしたいと思っていま す。今日一日,みなさんのお母さんになることもできれば,お祖母さんになることもで きます。とにかく楽しい時間にしましょう。よろしくお願いいたします。 まず初めに[山本]法学部長,そして教授陣のみなさまにこの場にお招きいただき, 素晴らしい学生のみなさんにお会いする機会をいただきましたことを感謝申し上げま す。今日は私の知恵をみなさんに聴いていただけることを大変光栄に存じます。また, 急なお願いにもかかわらず通訳を引き受けてくださりありがたく思っています。そして 誰よりも,友人であり,[広島大学大学院法務]研究科長を務めていらっしゃる秋野教 授と奥様には,この 週間お世話になり,また仕事ができる場を与えてくださり感謝申 し上げます。 この 週間,みなさんについて沢山のことを聞いてきました。香川大学の学生は非常 に賢く,聡明で,学ぶことに非常に熱心であると伺ったので,今日ここに参りました。 実際に来てみて納得しています。今日はみなさんのIQ,みなさんが実際にどんなに賢 いのかを確認してみたいと思います。
〔子どもの頃〕 私はベトナムで育ちましたが,このような環境からは程遠いものでした。私は 年に,小さな村に生まれました。この周辺の村に似たような小さな村です。そして,私 が受けた教育は小学校 年生の水準です。それも,村での水準です。ですから,学部長 や教授に出会う機会はなく,みなさんのようにこのような美しく素晴らしい設備には恵 まれませんでした。 みなさんの中で私の本を読んだことのある方,または映画『天と地』をご覧になった ことがある方はどれくらいいらっしゃるでしょうか。挙手をお願いします。(参加者の ほとんどが挙手) 素晴らしい。ありがとうございます。私の幼少時代について長く話さなくてもよさそ うなので,簡単にお話ししたいと思います。 私は戦争地帯で育ちました。みなさんのお祖父さんやお祖母さんもそうでしょう。生 活はとても苦しかったです。私は小さな村の貧しい家庭に生まれました。そして,戦火 の土地で,最初はベトナムのためにフランスと戦い,次はベトコンの下でアメリカと戦 いました。私の家族は革命をいとわぬ一家でしたので,侵略者が来ると立ち上がって戦 いました。フランスとの戦争は 年に終わりました。当時,私は 歳でした。米国 との戦争は翌年 年に始まりました。ですから,ベトナムでは長年戦争が続いてい たことがお分かりになると思います。 年にわたって中国を相手に戦い, 年間フ ランスと戦い, 年間米国と戦いました。 私は 人兄弟の末っ子です。 人の姉も両親も読み書きをすることができませんでし た。学校に通うことができるのは男の子だけでした。村で育つ幼い女の子の仕事といえ ば家畜の世話をすることでした。私は 頭の水牛, 羽のアヒルや鶏,豚,そして牛 を飼っていました。池で泳ぎ,ココナッツの実を食べ,お米の収穫をしました。高松の 周辺にあるような山や川,湖がありました。 〔ベトナムでの戦争体験〕 しかし,そんな平和な生活にも戦争が訪れました。みなさんのような若者は立ち上が り戦いました。どちらか一方の陣営に付くのではなく,南北両方の陣営で戦いました。 北ベトナムは共産主義の独裁者に統率され,南ベトナムは資本主義者と米国に率いられ ました。ベトナム中部のダナンの近くの村人である私たちは,どちらの陣営に従うか選 択を迫られました。村人の 割はベトナム側,すなわち北側を支持しました。私たちも 祖国のために戦い,田んぼ,湖,山,川,そして先祖代々のお墓を守るために戦いまし た。
今日ここに集まってくださっている若いみなさんも,自分の国が進むべき方向を選択 する時が来た折には,必ず正しい決断をすることと思います。先祖のため,土地のため, みなさんの美しい国土のため,そして国民のために。私が自分の国のためにしたのと同 じように。 年から 年にかけて,人生の最初の 年の間に つの戦争を経験しました。 初めはフランスと,その後はアメリカと。私は,収容所で拷問に遭ったほか,レイプや 飢えも経験しました。私には言論の自由も思想の自由もなく,村に銃を持ってやってく る人に従うほかありませんでした。 歳の時に村を出て,南ベトナムの首都サイゴン に行きました。そこで家政婦の仕事をしたり,子守りをしたり,富裕層の召使いを務め たりしました。村では教育を受けていなかったので,そのような仕事にしか就くことが できませんでした。 ここまでお話ししたのは,私の人生の最初の 年間を想像していただくとともに, みなさんが 歳になるまで過ごして来られた年月と比較して,どんなに恵まれている かを理解していただきたいからです。 今一堂に会している仲間や教授,この設備 ――。 沢山の恩恵を享受し,豊かな知識を身につけて大人になり,将来は自分のなりたいもの になることができるみなさんはとても恵まれているのです。 〔アメリカでの苦難〕 歳の時にアメリカ人の夫と結婚し, 年, 歳の時にアメリカに渡りました。 二人の息子がおり,英語もできず,手に職もなく,教育も受けていない私は, 年前 のカリフォルニアの地でどうやって生き延びることができたでしょうか。カリフォルニ アに移った ヶ月後,夫は 歳と 歳の息子二人を残して亡くなってしまいました。教 育を受けておらず,何の技術も身につけていない私に何ができるでしょうか。 しかし,このことが原動力となって,私は外に出て行き,家政婦や子守りをして 時 間に ドル セントを稼ぎ,子どもたちのために食料を買いました。また,英語が話 せるようになり,自動車の運転ができるようになり,どうしたらアメリカ社会の一員に なれるかを学びました。しかし,それらの苦難を予期していたわけではありません。私 が後にしたベトナムは地獄,戦争地帯,「ハンバーガー・ヒル」(訳者注:映画『ハンバ ーガー・ヒル』より),戦場だったので,カリフォルニアに渡れば,そこは天国,自由 の国,地上の楽園 ――,何でも手に入るはずだと思えたのです。 私がなぜこのような話をするかと言いますと,教育の重要さをみなさんに伝えたいか らです。外国語を話せることがどんなに重要かを知ってほしいからです。もう少しだけ 努力して英語を話せるようになれば,どこに行っても生き延びることができます。私は
厳しい暮らしの中でそれらをすべて学ばなければなりませんでした。それは容易なこと ではなく,ただただ苦しかった。 私の経験をみなさんと共有することで,人生は何が起こるかわからないということを 理解していただけると思います。もしもみなさんが私と同じような状況に直面すること があったとしても,私の身の上に起こったことを知ったみなさんは,英語を話すことが でき,読み書きができ,コミュニケーション能力があれば色々な人と連絡を取ることが できることがわかるでしょう。そして,そのことは大きな力になります。 私は再婚しましたが,二人目の夫もその 年後に亡くなりました。今度は息子が三人 いたほか,里子を 人迎え入れていました。全員男の子です。ベトナムからの難民で, 両親を失った子どもたちでした。すなわち, 人の息子たちと夫と暮らしていたので す。しかし,夫が他界してからは, 人の男の子の面倒を一人で見なければならず, アメリカ社会の一員となるためにレストランと不動産業を経営しました。 〔国境の壁〕 自由を獲得し,一人で生計を立てられるようになり,息子たちも大きく成長したその 時の私の夢は,お金持ちのアメリカ人になることでした。成功して他のみんなと同じよ うになりたいと思いました。大きな一軒家に住み,大きな車に乗るのが夢でした。私は レストランのオーナーになり,一生懸命働きました。 でも,それらすべてを手に入れたときに心が空っぽであることに気づきました。お金 も富も幸せにはしてくれなかったのです。人生を満たしてくれることはなかったのです。 私の願いは,ベトナムに戻って母に会うこと,そして祖国を見ることでした。私は故 郷が恋しくなって,人生を変えたいと思ったのです。しかし,当時はアメリカとベトナ ムの間は行き来ができませんでした。 年 月 日にベトナムは共産主義国になっ てから世界から切り離され,アメリカ国民である私は,たとえ母国であってもベトナム に入国することができませんでした。 そのため,私はアメリカ国民としてベトナムに行く方法を模索しました。当時高校生 だった息子に,ロナルド・レーガン大統領宛に手紙を書いてもらうことにしました。私 が,変な英語で下書きをし,息子がそれを直してくれました。でも,息子に諭されまし た。 母さん,アメリカの大統領に,ベトナムに行けるように力になってほしいなんて頼 むことはできないよ。大統領は忙しすぎる。彼は,一国の世話をしなければならな いのに,あなたのような一人の女性の力になることはできないよ。
私は,半分冗談,半分本気でした。私は息子に言いました。 アメリカは,人を月に送ることができるのだから,私のような女性を一人,自分の 田んぼに還すことぐらいできるでしょう。 そこで私は考えるようになりました。政治のこと,戦争のこと,そして市民権のこと ――。日本では,ベトナム戦争がアメリカによって起こされたことは周知のことです。 日本では,この戦争を「ベトナム戦争」と呼び,アメリカでも同じです。でもベトナム では,同じ戦争のことを「American War(アメリカ戦争)」という名前で呼んでいます。 私はアメリカ在住のベトナム人で,アメリカのパスポートを持っているためにベトナム には入国を許されませんでした。 いつかみなさんも自問する時が来るかもしれません。誰がこの壁を築いたのでしょう か? 誰が分断を望んだのでしょうか。誰が「共産主義」や「資本主義」という名前を つけたのでしょうか? ある国には行けて,ある国には行けない。誰がこのようなルー ルを決めたのでしょうか。法律を学ぶみなさんは,このような疑問に対して答えを考え るだけの教育を受けています。この法律は私のため,あるいは私の子どもたちのために 何をしてくれるでしょうか。日本人も,アメリカ人も,ベトナム人も,国籍に関係なく, このようなことを考えなければならない時があります。こうして,私はこの壁を築いた 政治家は誰だろう,この仕組みを作ったのは誰だろうと考えるようになりました。 もちろん,手紙はホワイトハウスに届きました。そして,政府の各機関にも届きまし た。サクラメントからサンディエゴ,そして私の住む自治体にも回されましたが,手紙 への返事を受け取ることはありませんでした。 〔心の溝〕 さて,次にどうしたら良いでしょうか。みなさんがこのような目に遭ったとしたらど うしますか? ここで諦めますか? それとも他の道を模索しますか? 私にはもう一つ手段が残されていました。国連に訴えることです。ホワイトハウスが 関心を持てない,一人の国民に手を貸す暇がないほど忙しいなら,国連に頼もうと思い ました。そして 年,おそらくアメリカ国民としては初めて,ベトナムに渡航する ためのビザを取得することに成功しました。それまでの経緯の詳細については,今日は お話ししません。本を読んでいただければ,どのような紆余曲折があったのか,そして, それは決して短期間で成し遂げられなかったことがわかります。映画では語られ方が少 し変わっていますので,本を読む機会がありましたらぜひ本を手に取っていただきたい
と思います。そうすれば私がどうやって難関を突破し,本当にしたいことを成し遂げた のかを知ることができると思います。 私は国連に訴えたのですが,結果的に国連内のベトナム政府を通じてベトナムの入国 ビザを取得しました。しかし,ベトナムにあるベトナム政府は,私がCIA の下で働い ており,CIA によって諜報活動のためにベトナムに送り込まれたと考えていました。 私は, 週間のベトナム滞在の間に,訪問の目的を果たすことができました。母に再 会し,共産党員の兄にも会い,生まれ育った村を訪れました。ベトナムで過ごした最後 の日に,母がお別れ会を開いてくれました。共産党員の兄も招いての夕食会です。その 席で私は兄にお土産のチョコレートを勧めましたが,兄は「ノー」と言って食べてくれ ませんでした。 あなたのチョコレートを受け取ることができない。アメリカ人が毒を盛って,私た ちを殺害するためにこのチョコレートをあなたに持たせたのかもしれないから。 私はショックでした。私がアメリカ国民になったからといって,自分の家族を殺す目 的で家族の元に戻るなんてことを,自分の兄に疑われるとは想像もしていなかったから です。繰り返しますが,政治家と市民はまったく立場が異なります。でも,現実にこの 二つを混同してしまうようなマインドになってしまうことがあるのです。 〔決断の時〕 アメリカに帰国してから,今度はアメリカの諜報機関が私の自宅を訪れました。アメ リカ政府のスパイにならないかということでした。ベトナムを行き来できるようになっ た私は,アメリカ政府のために情報を持ち帰ることを期待され,対価を支払うからアメ リカ政府のスパイとして働かないかと誘われたのです。 人生においてはこのような選択を迫られる時があります。自分が一番落ち着く場所は どこでしょうか。なりたい自分とは違う自分になるように,周囲の人に要求されること があります。私たちは,お金が必要,あるいは仕事が必要などといった弱みにつけこま れますが,そういう時に賢い選択をしなければなりません。その選択は国のためになる のか,人類のためになるのか,それとも自分のためになるのか。その違いを理解し,賢 い選択をしなければならないのです。 みなさんが人生の中でどのような役割を担うかは,自分や家族,国にとって大切なだ けでなく,国際的に重要な意味を持ちます。このことは,法律を学ぶみなさんに特に考 えてほしいと思います。賢明な判断をする力を養ってほしい。このような局面に立った
時に何を受け入れるのか,あるいは何を拒否するのかを判断する準備をしてほしいと思 います。 私の人生はこの瞬間から変わりました。隅っこに追い込まれ,首を絞められ,情報を 提供するよう拷問されるような思いでした。ワシントンから私の自宅まで来て,私の居 間で私が入れたお茶を飲み,私の焼いたクッキーを食べ,私にスパイになるよう要請す る二人のほうを振り返って言いました。 あなたたちはアメリカ人。私はベトナム人。あなたたちは男性。私は女性。あなた たちは戦争を望み,私は平和を望んでいる。あなたたちは憎悪を望み,私は慈悲を 求めている。 その時ハッとしたのです。そして,心の中で,誰もできないこと,誰もやったことが ないことをしようと決心しました。私はレストランを売却し,家も 軒売りました。FBI 捜査官の二人に伝えました。 見ていてください。私が平和のために働くのを。アメリカ人とベトナム人の間に, 戦争ではなく平和のための協力関係を築くのを,見ていてほしい。 それから,ベトナムに渡り,新たな冒険,新たな人生,新たな使命を開始しました。 みなさんは,大学を終えたらどこにいるでしょうか。何をしているでしょうか。どん な将来を描くのか,一度立ち止まって考えてほしいと思います。私が今日みなさんと共 有する話が,みなさんが将来選択を迫られた時,何か犠牲を払うように要求された時に, どのような道を選ぶのか考え始めるきっかけになればと思います。どのような判断をす るかは自分次第です。 〔平和の架け橋に〕 けれども,アメリカに住むアジア系シングルマザーで,英語もできず,教育も受けて いないとなれば,下層階級です。一流でもなく,二流でもなく,三流です。そして,私 には三人の子どもがいました。そんな広い砂浜の一粒の砂のような私に,アメリカとベ トナムの間に友好関係をもたらすような大きな構想を練ることが果たしてできるので しょうか。 しかし,方法はあります。一人ではできません。ベトナムで戦った兵役経験者に私の 運動への協力を呼びかけました。彼らは,戦争はもう懲り懲りと思っていて,アメリカ
政府に対して反感を持っていました。ベトナムとアメリカが再び友好関係を築けるよ う,そして二国間の対話,大使館の設立,制裁の解除に向けて手を組むようになりまし た。詳細は私の 冊の著書を読んでいただければわかります。より良い将来のため自ら 立ち上がって変化を起こさなければならないような時が来ます。みなさんにはその力が あります。 年にベトナムから戻りましたが,私は戦争の後,とても貧しいベトナムを目に しました。アメリカの制裁を受けてベトナムの人々は飢えていました。ですから,私は ソ連に助けを求めました。でも,ソ連も同じように貧しいことがわかりました。次に キューバ政府にベトナムを助けてくれるようお願いしました。でも,キューバもとても 貧しかったのです。三ヶ国とも共産主義で,貧困に苦しんでいました。そこで私はベト ナムの戦後復興の力になれるのはアメリカや日本,シンガポールのような経済力のある 国だけだと確信しました。そのために私は本の中で,自分の人生だけでなく,家族のこ と,村人のことを書き綴り,私たちが何を経験してきたのか,どのように生き延びたのか を伝えることで協力を呼びかけました。そして,人々の協力を得ることができました。 年まで私は自分のことをただの主婦,シングルマザー,家政婦,召使い,使用 人以上に考えたことがありませんでした。アメリカ人は,ベトナム人を見ると,難民, 共産主義者,戦地の人々,ボートピープル,捕虜,行方不明兵士を連想しました。ベト ナム人のイメージは最悪。良いことは一つもありませんでした。問題は,どうしてそう なったのかです。なぜ,そしてどこからそのようなイメージが定着したのかです。ベト ナム人は人間として,村人として生まれ, , 年もの間中国と戦い, 年にわたっ てフランス,日本,そしてアメリカと戦い,それでもなお苦労し続けているのでした。 定着してしまったベトナムのイメージを考えると,どうしてベトナムがこうなってし まったのか,誰がこのような事態を招いたのかが気になるようになりました。そして 徐々に,人々の仕業ではなく,政治家の仕業なのではないかと考えるようになりました。 政治家のためではなく,一般の人々に向けて書いた私の本が出版されると,心と心が通 うようになりました。人と人がつながりを持つようになりました。愛,慈悲,そして赦 しをもたらしました。日常生活の中で共感できるものが生まれると,色々なことが起こ り始めました。 年にダブルデイ社が私の本の出版を承諾したのを受けて,私は「イースト・ミ ーツ・ウェスト」という非営利団体を設立しました。その後,「グローバル・ビレッジ・ ファンデーション」という基金を立ち上げました。この つの基金はこれまで 年間 ベトナムの再建に大きな力を発揮してきました。そして,多くの日本人の支援も受けて 来ました。今日では,ベトナムに自由に渡航することができ,ベトナムでも天然水を飲
むことができ,Wi-Fi などの最新技術を利用することができます。しかし,道のりはま だ長い。 〔日常を問い返す力〕 一人の力でできることに限界があるかどうか,そんなことはやってみなければわかり ません。一度,私の立場に立ってみるとわかるでしょう。みなさんは身体も大きく,力 も強い。心身ともに健康で,教養があって,賢いです。これは今日,私がみなさんに伝 えたいとても重要なことです。みなさんは 世紀を率いるのに最高の人材です。みな さんは教室に足を運び,学部長や教授陣,私のような講演者,多くの人から教育を受け る機会に恵まれています。みなさんには学んだことをすべて吸収して,その知識を活か してほしい。これから地球で過ごすであろう 年間についてよく考えてほしい。貴重 な機会を無駄にしないでほしいと思います。 私は何度も日本を訪れたことがありますが,来る度に日本は前回の訪問より一段と向 上しています。 年間そう思い続けてきました。私が最初に日本を訪れたのは日本の 報道機関との仕事でした。その後,ピースボートや人道支援活動,講演活動のために日 本に来ています。その都度,前よりさらに前進していることに驚かされます。日本は完 璧です。何もかもが っていて,便利です。今朝も学部長や教授と,日本がどんなに完 璧であるかについて話す機会がありました。 でも,私は考えるのです。もしもみなさんがこの美しい都市,美しい県を離れて,ベ トナムやラオス,カンボジア,アフリカ,インドなどを訪れたとしたなら,適応できる でしょうか? 大きなショックを受けるのではないでしょうか。 しかし,そのようなカルチャーショック,差異こそが私の原動力となっています。独 学で,試行錯誤して,戦争と平和,富と貧困,持てる者と持たざる者の間を行き来して きたことが,今日の私を形成し,こうして私はみなさんの前に立っているのです。一方, みなさんには何もかもが完璧な状態で用意されています。トイレ,レストラン,ホテル, 大学 ――。多くのお金,エネルギー,知識,アイデアが投入されているからこそ,み なさんにこの完璧な環境が整っています。 みなさんはこの環境を当たり前だと思っていませんか? どうしてこのような環境が 整備されたのか,どこから来たものなのか,誰がその費用を負担しているのか,考えた ことはありますか? 私の世代は先に亡くなります。若いみなさんはこれから大人に なって,医者や弁護士,ビジネスマン,親になります。何になるかはみなさん次第です。 その時にリーダーシップを発揮する準備を今から少しずつ始めてほしいと思います。こ れらはどこから来たのでしょうか? ヶ月にトイレットペーパーを何ロール消費して
いるのでしょうか? 日に水を何ガロン飲んでいるのでしょうか? 息を吸うごとに どれだけのエネルギーを消費しているのでしょうか? これらはすべてタダで得られる ものではありません。何もかも誰かが一生懸命働き,お金を払っているからそこにある のです。ご両親が税金を納め,レストラン経営者も身を粉にして働き得られるわずかな 収入から税金を払います。知事は状況を改善するための施策を考えなければなりませ ん。これらのことは誰か一人の力ではできません。私たちはみんなが一緒になって知恵 を出し合い,今あるものを守らなければならないのです。 世界中の人々が日本人に敬意を抱いています。勤勉で,礼儀正しく,非常に賢明で, 特に技術面で最先端を歩んでいることを高く評価しています。日本で起きた大きな出来 事が報道され,その時の日本人の対応を耳にすると私はとても誇りに思うのです。なぜ なら,日本はアジアの一部だからです。一方,日本も苦しい戦争の歴史を乗り越えてき ました。第二次世界大戦に ると,日本もアメリカに苦しめられました。でも,みなさ んの先人が日本の成長に尽力し,苦悩の歴史から脱出させたからこそ,今ではほとんど の分野で世界一を誇っていることを忘れてはなりません。シンガポールも同様に, 年代に植民地支配から抜け出して今では日本に次ぐ勢力となっています。 みなさんが先祖や指導者,教授など多くの人々から学んだおかげで今ここにあること を忘れてはいけません。教育するということは簡単なことではありません。 世紀の 舵を取ることは大きな挑戦です。 世紀まで 年もあります。みなさんにはその能力 が備わっています。そして,両親あるいは先祖よりも大きな成功を収めることもあるで しょう。 〔世界市民の気概を〕 年から 年間,私はピースボートの活動に関わってきました。ゆっくりと東京 のピースボートと関係を築き,世界一周の旅にも 回乗船しています。色々な形でボラ ンティアをし,共に活動してきました。日本人から学んだことは沢山あります。力を合 わせて何かを成し遂げることや調和や合意を大事にすること ――。そして特に,バッ クパッカーという旅の形は日本人から学びました。 バックパッカーという発想を生んだ,その背景にある教育が素晴らしいと思いまし た。バックパッカーのみなさんは先のことを心配せず,自由気ままです。行ったことの ない国,例えばベトナムに行こうと思ったなら,地図で確認するとバックパックを背 負って出発するのです。私はそのエネルギーに感銘を受けました。 これが今日みなさんに伝えたいもう一つのメッセージです。外に出て世界を見てほし いと思います。世界を見なければ,世界に何があるのか知ることはできません。ですか
ら,大学を卒業して恋に落ちるのはやめてください。結婚して家族を作るのを待ってく ださい。自分探しをしてください。 世界市民として,あなたは何になりますか? どのような役割を担いたいですか? どれくらい稼ぎたいですか? 社会に何を還元できますか? 毎日トイレを流すときに 使用するトイレットペーパーや水を環境に返しましょう。毎日,毎時間口にしている食 料,木や植物が作りみなさんが呼吸している空気,シャワーや洗い物に使う水 ――。 すべてどこかから来ているものです。それらを地球に返しましょう。ボランティアでも 寄付でも,コミュニティや家族,社会,そして世界のためにどんな貢献ができるのか考 えてほしいと思います。 今世界では,地球温暖化,南シナ海における紛争,飢餓,難民問題など様々な問題が 起こっています。テレビをつけてニュースを見ればわかります。県外,国外に出ればそ れが現実です。でも実際に外に出て自分の目で確かめてほしいと思います。 若いみなさんは,将来政治家になって権力を手にしたときにどうしますか? どう立 ち回りますか? 弁護士になったらどうしますか? きっと正義を実現しようとするで しょう。そのためには,すべての人が平等に扱われなければなりません。食料や衣類, 医薬品を世界中の人々に平等に届けるためにはどうしたらよいでしょうか。自分自身, あるいは家族,地域社会のためでなく,世界全体のために何ができるでしょうか。ビジ ネスマンになったとしましょう。世界の問題解決に貢献できるような事業を営むでしょ うか。医者になるとしたら,どのような医者になりたいですか? 命を救うために医者 になるのですか? それとも,お金を稼ぐためですか? 優秀な医者として顕彰され, 後世に名を残すか,あるいは悪評高い医者となるか,それはみなさんの選択次第です。 若いうちのほうが,選択肢を吟味して人生の計画を立てるのが簡単です。指図する妻 も夫もいなければ,行動の制約となる子どももいないからです。大学在学中は勉強に励 む時期であることはわかりますが,多くの人によって支えられたその学びを,視野を広 げるために使ってください。箱から飛び出して,世界を見てください。考えをもう少し 深めてみてください。テレビでニュースを見るときに考えてみるのです。もしも自分が リーダーだったらどうするでしょう。仏様だったらどうするでしょう。神様だったら, あるいは大金持ちだったらどうするでしょう。みなさんにできることは沢山あります。 世界の市民ですから。 ご静聴ありがとうございました。 ――――――――――
〔質疑応答〕 恥ずかしからずに質問をしてください。質問が一つもなければ泣いてしまいます。 Q .ふだん私たちが暮らしている環境は多くの人の努力の結果あるもので,それを当 たり前のように享受している私たちは,当たり前だと思わずに,もっと考えを深め るべきだということが今日のメッセージなのでしょうか。 A .そうです。与えられた環境を当たり前だと思うべきではありません。なぜなら, 地球はみなさんよりずっと前からそこに存在していたからです。みなさんは,この 世界に何かを追加し,将来のためにさらによくするために生まれてきました。当た り前だと思ってはいけません。あなたが当たり前だと考えれば,隣の彼女も,その 隣の彼も当たり前と考えるようになります。大きな家にシロアリが住み着いてしま い,徐々に食べ尽くされて崩壊するのと同じような現象が起きてしまいます。そう なる前に,少しずつシロアリを退治し,強い基礎を構築してみんなが楽しく暮らせ る社会を創ってください。良い質問をありがとうございます。どんなものでも当た り前だと思うべきではありません。 Q .「バックパッカー」の意味が理解できませんでした。 A .「バックパッカー」は,丈夫な背骨に大きなリュックを背負って出かける旅のス タイルです。そうすれば,両手は自由が利くので iPhone や iPad,カメラを操作する ことができます。家財道具全部を持ち歩く必要はないので,歯ブラシや虫除けなど 身の回りの必需品だけをバックパックに詰めればよいのです。バックパッカーはお 金がなくても旅ができる手段で,飛行機で移動するお金がない時にはヒッチハイク をします。みなさん意外と乗せてくれるものです。世界に出てみなければ,世界は 狭いところだということはわかりません。冒険をすればするほどわかるものです。 みなさんも iPhone や iPad をそばに置いて就寝すると思います。ベッドで横になっ た時に行ってみたいと思いついた場所があるならば,すぐに iPad で目的地までの 距離,費用,何日間必要か,到着後に何をするかを調べて書き留めましょう。そし て,翌日目覚めたら荷物をバックパックに詰めてすぐに出発するのです。みなさん にもそのようにして旅に出てほしいと思います。 ――――――――――
質問がなければ,少し話を続けます。世界時計を知っていると思います。日本はベト ナムより 時間進んでいます。カリフォルニア州からは 時間半進んでいます。世界時 計を見ると各国,各大陸で同時に異なる活動をしていることがわかります。みなさんが まだ眠っている時に,誰かが目覚め,他の場所では誰かが昼食を取り,また別の場所で は夕食を食べています。 時間,常にどこかで誰かが起き,誰かが食事をしています。 営みの連続です。世界中の人々が同じ時間帯に生活していたとしましょう。世界はお金 を使ったり活動したりすることをやめてしまうでしょう。それだけ一人ひとりの営みが 大切なのです。 みなさんは,自分一人の力では何もできない,自分は無能だ,無力だと感じているか もしれません。その考えを改めなければなりません。みなさん一人ひとりがとても大切 な存在です。一人ひとりに力があります。やりたいことは何でもできます。この世界に 限界などありません。自動車に乗って走り出したとしましょう,出発地点に戻るまで何 年かかるでしょうか。思考や夢は無限です。どんなに考え,夢を見てもお金はかかりま せん。夢は必ず持つようにしましょう。目標と呼んでも構いません。大きければ大きい ほど,実現が難しければ難しいほど良いものです。私が困難を乗り越えて自分の夢を実 現できたように,みなさんも不可能と思わず挑戦すればどんな夢でも実現可能です。 不可能なことはありません。少し面白いエピソードをお話ししましょう。昨年公開さ
れたトム・クルーズ主演の映画『ミッ シ ョ ン・イ ン ポ ッ シ ブ ル』(原 題:“Mission : Impossible”)をご覧になった方はいますか? この映画のエンドロールに私の息子,ト ーマス・ヘイスリップの名前が単独で大きく出ています。飛行機に乗り込む場面で,ト ム・クルーズは,「見掛けだけの演技でなく,本物の演技にしたい。」と言いました。も ちろん冗談です。でも,これを現実にしたのは私の息子です。スタントマンなしで,離 陸時に飛行機の脇に摑まって乗り込む場面を本人が演じました。「インポッシブル」と いう映画の題名に反して,トム・クルーズは不可能を実現しました。これは大変誇りに 思っています。どのようなことでも,意志さえあれば無限の可能性があります。 今日の講義のテーマは「創造」です。前向きな態度で創造すれば,結果はプラスにな ります。物事にはプラスとマイナス,陰と陽があります。表裏一体です。両面なければ 進歩はありえません。変化は起こせません。昨日はどんよりと寒い一日でしたが,今日 は晴れて暖かくなりました。今日は元気でも明日は調子が悪いかもしれません。それは 自然なことです。今日学んだことは 年後に初めて役に立つかもしれません。それで もよいのです。少なくともその知識は身についているのですから。また, 年前に赤 ん坊の時に学んだことを今日初めて使っているというようなことがあるかもしれませ ん。それでよいのです。 歳の学生のみなさんは,これまで両親や先生をはじめとす る多くの人に支えられて育まれてきました。賢くてハンサムで,強くて健康なみなさん はもっと勉強してください。 新たなものを創造することができなければ,すなわち思考し,製作し,視覚化するこ とができなければ,そしてそれらを肯定的に捉えることができなければ,期待どおり早 くは実現しません。何事も前向きに考えることができれば,早く実現し,長く持続しま す。隣の人が今より強い好意を抱いてくれるようになります。隣の人があなたと恋に落 ちます。どれも素晴らしいことでしょう。誰とでも友達になって,私のように積極的に 話しましょう。恥ずかしさを克服して大きな声で話しましょう。私たちに内在するエネ ルギーは,私たちの意志のままに動きます。私はじっと座って話すことができません。 話すときには,自然に手足が動き,目が動きます。みなさんも自分の本能に従うほかな い時があると思います。女性はハンサムで強く健康的な若い男性に出会いたいと思い, 多くの男性は美人で健康的な女性に出会いたいと思うでしょう。社会生活の中では歩み 寄ることもあるでしょう。そうして家族を創造し,「完璧な」社会を創造し,「完璧な」 世界を創造するのです。 ――――――――――
Q .素晴らしいスピーチをありがとうございました。私は法学部で政治思想という科 目を担当しておりますが,今や受講者は皆冷戦後の生まれで,資本主義と共産主義 の対立を教えること自体難しくなっています。ちょうど先週ベトナム戦争の話をし ました。第二次大戦中,日本はハノイなど北部仏印(フランス領インドシナ)に進 駐しその後,南部仏印にも進駐し,アジア・太平洋戦争が終わって,日本軍がベト ナムから引き揚げると,その後,フランスがベトナムを再植民地化しようとし,イ ンドシナ戦争が起き, 年のディエン・ビエン・フーの戦いにおけるベトミン の決定的な勝利の後,ジュネーブ協定においてベトナム全土で総選挙が行われるこ とになっていましたが,アメリカは選挙で合法的に共産主義政権が誕生することを 嫌がり,民主主義を掲げる国でありながら選挙を断ったわけです。それで,南側の ゴ・ディン・ジエム政権を支援しました。今から見るとベトナム戦争は間違ってい たのですが,例えば 年の段階でアメリカやフランスは一体何をすべきだった のか,私自身わかりません。民主的に共産主義化することがよかったのか。そうす ると,財産を持っている人たち,特に中華系の人たちはベトナム戦争後に起きたよ うに,ボートピープルになって国を追われたでしょう。当時,そこで暮らしていら してどう感じたかを教えていただきたいです。 A .政治学がご専門の教授がいらしてとても嬉しいです。 私の育った家庭では,両親はフランスやモロッコ,日本,アメリカのことを厳し く非難していました。しかし,ベトミンやベトコンのことを悪く言うことはありま せんでした。 年にわたってベトナムはフランスに苦しめられ,私たちの家族も 村も,国も侵入者を排除したいと考えていました。ですからアメリカ軍が来た時, 私たちは「ホーおじさん」のプロパガンダで洗脳されていたので,その大義の下, 立ち上がって戦いました。 万から 万人のベトナム人が命を落としました。 私がアメリカに渡ったのは 年,ベトナムはまだ戦争の渦中でした。当時,ア メリカ人が私を見るまなざしは,ベトナムで起こっているすべてがあたかも私の責 任であると言っているようでした。アメリカ人がベトナム人によって殺され,アメ リカ人がベトナム人によって負傷させられ,アメリカではこの戦争のために多額の お金が注ぎ込まれたからです。そんな時,私は問いかけました。「あなたはベトナ ムについて何か知っていましたか? ベトナムの人々,国,そして文化についてど のような知識を持っていましたか? 私が教えてあげましょう。」 こうやって私の 冊の本が形になったのです。 年にドイモイ政策が打ち出 されると,私はベトナムに入国できるようになりました。それから 年間,アメ
リカに住みながらベトナムに行き来する中で初めて知ったことが沢山あります。 ホーチミンの思想は正しかったと思います。ホーチミンには先見性がありまし た。平和を追求し,南北を再統合するビジョンを持っていました。一方,南ベトナ ムも平和なベトナムを築くという構想を持っていました。北側は共産主義,南側は 共和制でアメリカと手を組みましたが,どちらも平和を希求する点では同じでし た。 ご存知の通り,ホーチミンは訪米し,アメリカにフランスを追い出すのに力を貸 してほしいと要請しました。そして,アメリカは同意しましたが,結果的に約束に 反しフランスの味方をし,戦争を長引かせました。今日では,アメリカは私の本を 始め様々な書籍を使って授業をするようになりました。ベトナム戦争に関する再教 育を進めるためです。どうやって戦争が始まったのか,みなさんはご存知だと思い ます。従来,トンキン湾でアメリカ船が銃撃に遭ったために開戦したと言われてき ましたが,そんな事実はなかったことがわかっています。アメリカが戦争を起こし, 武器や物資を売り込み,教育を受けていない低所得層の移民を送り込むための噓の 口実だったのです。これは政治家が編み出した構想だったことが再認識されるよう になりました。今やっとアメリカはベトナムの真実を子どもたちに教えようとして います。 年,ベトナムでは,ホーチミンとゴ・ディン・ジエムの間で総選挙が行わ れる予定でした。その選挙で選出された候補が大統領になる予定でしたが,アメリ カが介入し選挙を阻止しました。そのため,ホーチミンは勝利を収めることができ ませんでした。アメリカは,選挙をすればホーチミンが国民の圧倒的な支持を得る ことがわかっていたのです。でもこのような真実が今では多くの人に知られるよう になっています。 これがアメリカ側の話です。アメリカは軍や武器を売り込もうと考えていまし た。イラクなど他の地域で今行われているのと同じことです。そのような悪意を私 は支持できません。 ベトナム側の話をしますと, 年 月 日,ベトナム戦争の終結時,共産主 義政権には国の再建のための構想や知識,資金などいかなる資源もありませんでし た。 年経った今も,ベトナムは遅れています。それは,教育の環境が整ってい ないからです。彼らは党,共産主義,そして誰が権力を握るかにしか関心がなく, 貧困や教育,子どもたちの将来については無関心なのです。これはとても悲しいこ とです。この 年間で学んだことがあります。共産主義と資本主義の違いは何で しょうか。
ここで,あなたの質問に戻りますが,アメリカとベトナムの両方に住み,私はあ の戦争は大きな間違いだったと思います。ベトナムにとってもアメリカにとって も,不運で悲劇的な戦争だったと思います。しかし,あの戦争があったから, 年の今日,このようにそれを授業で取り上げ,討論をし,そこから学ぶことができ, そして,歴史の教科書に新しい章として,私たちに考えるきっかけが与えられてい るのです。 (レ・リィ・ヘイスリップ 作家・慈善事業家) 【編集注】 本稿は,平成 年 月 日に行われた香川大学法学会講演会の記録である。