香 川 大 学 経 済 論 叢 第74巻 第 4号 2002年3月 201-281
商業信用論の形成と商業資本論
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いして,二つほどの大きな変更が加えられる。第一の変更は,それまでの現金 貨幣の通流する世界に,新たに現金貨幣ならざる「貨幣」が登場することであ る。銀行信用論まで来れば,銀行券を中心とする信用貨幣は, の地位をすら脅かすほどの勢いでその通流圏を拡張し,商品世界の主役に躍り しかし,商品世界によって認知された最初の非現金貨幣は,あく まで商業信用を媒介する商業手形なのである。この変更は,貨幣概念の広義化 それまで一貫して守られてきた理論上の設定にた もはや現金貨幣 商業信用論の導入部では, { 出してくる。 これにたいし,第二の変更は,それまでの商品 売買という関係の織りなす世界に,新たに貨幣貸借なる関係が生成するという ここでも先と同様,銀行信用論まで来れば,貨幣の貸借関係は銀 行資本を中心とする社会的な関係へと転化し,商品市場をすら凌ぐほどの大が かりな市場機構として整序化されてくる。 と呼ぶことができるであろう。 ことである。 しかし,最初に行われる貨幣の貸借 関係は,あくまで商業手形によって媒介された商業信用なのである。 は,商品売買から貨幣貸借への転換と時ぶことができるであろう。 この変更 こうした見過ごしがたい設定上の変更が,商業信用論の早くも導 入部において加えられるからには,商業信用をめぐる理論研究払商業信用の ところで, 根拠や意義,限界などの考察へと速やかに入ってゆくわけには行かないのが道 理であろう。事実,商業信用研究者の闘で真っ先に争われたのは, 商業信用を貸借関係とみなした上で, さしあたり そこで貸借されているのは一体何である という問題であった。こうした,詰まるところ商業信用それ自体をどのよ か,OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
-202ー 香川大学経済論叢 914 うに定義づけるべきかという問題をめぐって,商業信用研究のいわば第一期は 明け暮れたのである。結果としては,商業信用においては商品が貸し付けられ ているものとする,マルクス以来のいわゆる商品貸借説が棄却され,商品では なく貨幣が貸し付けられているものとする,いわゆる貨幣貸借説が通説として (1) の位置を獲得したといってよい。その後,この貨幣貸借説はいっそうの精撤化 (1) 商品貸借説の代表例としては,飯田[1956],飯田[1958],飯田[1987],下平尾[1974] を参照せよ。商業信用における貿い手は商品の「所有権ではなく占有権J(113頁)を入手 するとしている飯田[1982]にせよ,自身の!日説で主張しているところと大要では違うま い。これにたいし,貨幣貸借説の代表例としては,鈴木編 [1960・62]下,鈴木 [1970・ 71],五味 [1974]216頁を参照せよ。ローゼンベJレ グ も 掛 売 り で は 二個の取引き がおこなわれる。すなわち, (1)商品資本W'の販売, (2)売られる W'の貨幣等価の貸付けで あるJ (Po3eH6epr [1931](5) 127頁)とする,後の貨幣貸借説にきわめて似通った見解 をすでに打ち出している。なお,この見解と鈴木の貨幣貸借説との親近性については,日 高 [1966]の指摘がある (60頁)。他に,ブードゲも,掛売りでは「販売者が売渡し契約 の締結にさいして代価を受けとり,そしてこれを直ちに再び購買者に貸付として譲渡し たものとつねに解することができるJ(Budge [1933] S, 7,訳文は麓[1956]132頁によっ た)という認識に立ち,掛売りをつうじた信用関係に「支払猶予信用(der Stundungs -kr巴dit)Jという名称を与えている。 もっとも,商品貸借説と貨幣貸借説の対立が,本来は『資本論』の当該箇所の記述をい かに解釈すべきかという点に起因していることからも明らかなように,何れの説につい ても,その元祖はマルクスに他ならない。すなわちマルクスは,銀行業者に媒介された貨 幣貸借である銀行信用とは全く異なり,商業信用は「産業家や商人が彼らどうしのあいだ で商品の形で再生産過程の循環のなかで与え合う前貸J(K, III, S, 496, (7) 288頁)に すぎないと述べる一方で商業信用の基礎の上では,一方の人が他方の人に,彼が再生 産過程で必要とする貨幣を貸すのであるJ(K, III, S..522, (7) 333頁)とも述べ,以後 の商業信用研究に尽きせぬ論争の火種を残すことになったのである。ただし,こうしたマ ルクスの矛盾をあえて正すことなく引き継ぎ,商品貸借であると同時に貨幣貸借でもあ るという点に商業信用の特質を求める立場も,いわゆる正統派経済学を中心として広範 に見受けられる。信用で売られた商品はすでに価値を笑現しているから,商業信用におい ては決して商品が貸し付けられているのではなし商品で(inWare),つまり商品という 価値形態で,実は価値が貸し付けられているのだ,という論法である。川合[1954]36-38 頁, 52頁,三宅口956]168-171頁,三宅[1970]98頁,岡橋[1956]55-56頁,麓[1956] 131-38頁,深町[1971]160-63頁を参照せよ。「もし実際に販売がなされたあと,ある期 間をへて初めて支払いがなされるならば,この期間のあいだ貨幣が信用貸しされること になるJ(Hilferding [1955](訳)125頁)としながらも,その直後に「資本家のたがい に信用貸しするものは,かれらにとって商品資本たる商品だが,この商品は,販売のとき すでに社会的に通用する形態で実現されたものとされる一定の価値額のたんなる担い手 としての商品であり, わ引なされた販売によってすでに貨幣に転化されている商品であ るJ(Hilferding [1955](訳)125-26頁)と併記しているヒルファディングも,やはりマ ルクスにそのまま寄り添った立場といえるであろう。
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915 商業信用論の形成と商業資本論 203ー を図られ,資金融通説というべき所説を確立することになる。商業信用とは, 産業資本が自らの蓄積過程で形成した遊休資金を相互に融通しあう関係であ (2) り,とりもなおさず,実質的な貨幣貸借の関係である,とする見解である。 概ねこの見解を引き継ぐかたちで,今日までの商業信用研究のいわば第二期 は,第一期におけるよりも商業信用の中身に踏み込んだ議論を展開してきてい る。商業信用の根拠(現金で直ちに売れない商品に限って信用販売の余地が生 じるものと考えられるか)や,商業信用の意義(流通資本ないし予備資本の節 約に限定できるか,それ以外の遊休資金一般や流通費用の節約,動員にまで拡 張できるか),商業信用の限界(手形期限の存在自体が限界か,信用期聞が予想 流通期間ないし平均流通期聞を超えて延長されえないことが限界か,はたまた, 労賃支払に適用されえないことが限界か)等々の論点が,ようやく検討に付さ れることとなったわけである。しかしながら,これらの論点をめぐって応酬さ れた議論を委細に検討してみるならば,実はそこでも,商業信用それ自体をど のように定義づけるべきかという古めかしい問題が,形こそ違うものの依然と して係争中であることに気付くはずである。後述するように,商業信用を資金 融通の関係としながらも,これを貨幣貸借と同一視することについては否定的 な見解が,かなり広範に見受けられる。そうした見解においては,資金の融通 関係は,むしろ商品売買の関係に同一視される。したがってまた,商業信用の ( 2) このタイプの見解は,宇野弘蔵をもって略矢とする。宇野 [1950・52Jを参照せよ。こ の資金融通説をもって,信用制度において貸借されているのが流通手段か貸本かという 向いをめぐる,通貨学派と銀行学派以来の論争に終止符が打たれると同時に,その信用制 度のなかでも特に商業信用において貸借されているのは商品か貨幣かという問いをめぐ る,第一期の商業信用研究の論争にも終止符が打たれたものと考えるのが,おそらくは通 説であろう。しかしながら,第二期の商業信用研究においても,貨幣貸借説だけは形を変 えながら強かにその命脈を保っていることを考えるならば,そもそも資金融通説に,見方 によってはそのまま貨幣貸借説の完全版としても読み替えられるような一面が潜んでい たことは,否定しがたい事実のように思われる。現に,宇野[1959Jは,資金を貨幣の一 定期間の使用権として,したがってまた「売買」されるべきものとして正当に定義しつつ も,貸付資本は「資金としての貨幣を一定期間の使用の売買として貸付けるものJ(193頁) であるという具合に,なおも貨幣貸借説との紐帯を残し,折角の「資金論」の効用を半減 させてしまっているのである。 (3 ) 商品売買説の代表例としては,日高 [1966J,日高[1983J,大内 [1969J,大内[1981・ 82J下(特に624-27頁)を参照せよ。OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
-204ー 香川大学経済論叢 916 意義も,現金販売以上に流通期聞を短縮することに求められ,商業信用の根拠 も,貸すためにわざわざ動員される遊休資金一般ではなく, もともと売るため に必要であった流通資本ないし予備資本のみに限定されることになる。第二期 の商業信用研究は,遠の昔に商品貸借説を抜け出したはずであるにもかかわら ず,貨幣貸借説とそれにたいする批判,いわば商品売買説の対立を苧みつつ進 められているのである。 このことから逆推するならば,商品と貨幣の何れが貸 し付けられているのかという問いの立て方は, そもそも商業信用を何らかの貸 借関係とみなすことが妥当でトあるかという根本的な問題にたいして,十分深く まで切り込みうるものではなかったと考えねばなるまい。後述するように,-資 金融通」 という概念のもつ両義性, というか暖昧性に即して考えても, これは 同様に主張しうるところである。 伺れにせよ,商業信用を貸借関係として押さえるべきか,それとも売買関係 として押さえるべきかという今更めいた問題が,実は必ずしも完全な解決を見 ていないとするならば, この問題にあえて立ち戻ることは,商業信用研究の土 台をより確実なものにするためにもかえって不可避であろう。 しカ》しまた,そ うした問題意識の下に過去の議論を振り返るならば,商業信用研究において未 決のままに残されているのは,決して以上の問題のみに尽きないことが分かる。 すなわち,商業信用の根拠を論じるにせよ,その意義や限界を論じるにせよ, そもそも商業信用とは貸借関係か否か,また売買関係か否かという問題へと一 再ならず立ち戻らざるをえないのだとすれば, ごくありふれた売買関係の場と して商業信用に先立つて描き出された商品市場,分けても,そこに常駐する商 業資本と商業信用の関係が,商業信用研究においてもそれなりの頻度で議題に 上ってよさそうなものである。貨幣貸借説を峻拒して,商業信用の本質を商品 の売買関係のなかに求めるのであれば,商業資本との関係が不聞に付されるの は,なおさらに不自然なことともいえる。 しかしながら,商業資本と商業信用 の関係に焦点を当てた議論は,貨幣貸借説のごく一部に認められるのみで,商 品売買説にいたっては皆無に等しいという現状がある。商業信用は,ごく僅か の例外を除くと,生産加工系列を同じくする産業資本の聞に結ぼれた関係とし
~205 商業信用論の形成と商業資本論 917 て論じられる。しかもその僅かの例外においですら,商業資本の商業信用にた ごく限定的なものとして説かれるに止まっているのである。同 様の問題は,商業資本論の方へ目を移しでも見いだされる。やはり僅かの例外 を除いて,商業資本は,現に産業資本によって投じられている流通上の諸費用 いする関与は, つまりは現金貨幣によって現物商品を売買すること に特化した存在として論じられる。商業資本の商業信用にたいする関与は,商 業資本論のなかでも特に重視されることはないのである。 とするならば,詳しくは本論に譲るにせよ,少なくとも以下の四点について ここで確言できるところであろう。すなわち第一に,商業信用それ自体を どのように定義づけるべきかという問題は, 今日においてもなお,商業信用研 それのみ 究における要石としての意義を失ってはいない。 を他の諸問題から切り離して商業信用研究の入り口に据えるという方法, しかしこの問題は, とり
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の自立化したものとして, は, もはやさらなる進 もなおさず商業信用研究の第一期におけるような方法では, 一見したところ商業信用の定義とは無関係に そこで第ごに, 展を望みえない。 思われ,またその他の商業信用の本質とも関わりが薄いようにも思われる問題, つまり商業信用にたいする商業資本の関与がいかなるものであるかという問題 までが,併せて考察されねばならないことになる。 もっとも,商業信用がすで (4 ) 何らの機能も果たさない貨幣資本家と,何らの資金も持ち合わせない機能資本家の間 における貨幣の貸借関係こそが信用関係であるという,いわゆる「利子生み資本(zin -stragendes Kapital)jの規定によって信用論の幕を開いたマルクスも,信用制度にかんす る立ち入った考察へと移行するに際しては,商業信用を「再生産に携わっている資本家た ちが互いに与え合うj (K, IlI, S.. 496, (7) 289頁)ものとして措定し直すことになる。 ただし,そこではまだ「再生産に携わっている資本家たち」として,産業資本家である紡 績業者や綿花栽培業者以外にも,綿花仲買人や輸入業者などが含められていた。これにた いし,商業信用が取り交わされるのを特に産業資本家たちの聞に限定した最初の論者と しては,やはり宇野 [1950・52J の名を挙げるべきであろう。この限定によって,貸付資 本として外形化されるものが産業資本の循環中に形成される遊休資金に他ならないこ と,またこの遊休資金が,追加的な剰余価値生産を行うために融通されることが明確にさ れ,信用関係の意義や限界を,再生産構造との実体的な関連において把握することが可能 になったことは,改めて指摘するまでもない。しかしその反面,マルクスによって所々で 言及されたところの,信用関係を専ら投機目的で利用する「信用山師j (K, IlI, S 440, (7) 200頁)や卸売商人,割引ブローカーなど,総じて産業資本家以外の存在を商業信用 論において取り上げることは,困難の度合いを増したともいえよう。OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
918 香川大学経済論叢 -206--に産業資本の間で広範に行われるようになった場合,商業資本といえども産業 資本と同等の資格をもって,商業信用を利用した売買活動へと乗り出すであろ うこと自体は,別段想像に難くはない。商業資本の関与がこの程度の,いわば そこに商業信用の定義 商業信用の成立を受けた事後的なものに止まるならば, そこで第三に,本 をめぐる問題の解決の糸口を求めることは筋違いであろう。 あくまで商業信用の成立にたいする商業資本の関 稿において問われるべきは,
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-このように一新されたアプ ということになる。なお, 与でなければならない, ローチによって臨む以上,本稿における議論の枠組みも,固有の理論領域とし ての商業信用論を超えて,隣接する商業資本論にまで拡張されることは必至と しかしまた,旧来の商業資本研究の組み立てをそのまま墨守する限りで こうした枠組みのもつ意義も十全には活かされないであろう。商業信用の 成立にたいして商業信用が何らかの関与を果たすものとすれば,その舞台は, 商業信用の発生を目前に控えて, なる。 は, そこにたどり着くまでにあと一歩を残すのみ つまりは商業資本論の後半部における商品市場をおいて他に ところが,旧来の商業資本論は,商業資本の自立化の根拠は何である つまりは商業資本論の前半部における問題に大きく比重を傾け るかたちで組み立てられている。前半で説かれた商業資本の自立化を受けて, という商品市場, はない。 かという問題, (5 ) いうまでもなく,商業資本論を信用論の直後にもってくるような理論構成の場合,この ことはいっそう明瞭となる。宇野[1964]は,商業資本は「貸付資本を前提とし,これを 極力利用するものとなるJ(209頁)と述べている。もっとも,例の「流通費用の資本化」 にかんして宇野の説くところを踏まえると,ここで商業資本が「前提」ないし「利用」す るものと考えられているのは,信用制度のもつ市場機構としての機能というよりも,いわ ゆる「遊休資金の貸付資本化」のもたらす資本家的な物神観念である,と解釈しておくの が順当なところであろう。宇野[1950・52]502-506頁,宇野[1953]49頁,宇野編[1955] 395頁,宇野 [1959] 277-82頁,宇野 [1962] 277“78頁,宇野 [1968] 245-50頁,宇野 [1969a] 447-450頁も参照せよ。これにたいし日高 [1983]は,より明確に「銀行資本 が金貸資本とちがって資本を貸出しに投下しないのと同様に,商業資本もまた商人資本 とちがって資本を仕入れに投下するのではないJ(235頁)と述べ,流通上の諸費用から流 通資本を除いた,純粋に商品販売にともなう流通費用のみが商業資本として自立化する ものとしている。日高 [1972]72-95貰も参照せよ。大内 [1973]にも,これとほぽ同様 の理解が見られる(92頁)。なお宇野は,こうした日高の見解にたいし,あらゆる商品を 信用で仕入れて自己資本は流通費用部分だけというのでは「商業資本のG-W-G'を無 視することになるJ(宇野編 [1967・68] IV, 332頁)という批判を加えている。OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
919 商業信用論の形成と商業資本論 -207-その後の商品市場のあり方がどのように変化を遂げるかという問題は,せいぜ、 い補足的なものとして扱われるに止まるのである。したがって第四に,商業信 用論の再構築を試みる本稿にとって,こうした商業資本論の組み立てを抜本的 に見直すことが,結局のところ肝要となるわけである。 あらかじめ本稿の構成を見ておこう。第一章では,これまでの商業信用研究 において支配的な多数を占めるこつの所説,すなわち「資金融通=貨幣貸借」 説と「資金融通=資金売買」説(貨幣貸借説と商品売買説)が,それぞれどの ような理論上の限界を有しているかという問題が,商業信用論以外の理論領域 をも視野に入れつつ検討される。ここでは,商業信用の定義をめぐって反目し あう両説が,二者間の信用関係においてすでに始められている現金貨幣からの 議離を見過ごすとともに,商品売買から商業信用への移行にも一抹の断絶感を 残すという,共通の難点を抱えていることが明らかになるであろう。つづく第 二章では,商業信用において「資金」という商品の売買,いわゆる「貨幣の商 品化」が実現するためには,どのような条件が満たされねばならないかという 問題が,やはり商業信用論以外の理論領域をも視野に入れつつ検討される。こ こでは,商業信用への移行に伴って,貨幣の預託と手形の貨幣化という固有の リスクが生じること,しかしながらそれらは,商業信用以前における「もの」 の預託と非現物商品の商品化という,より一般的なリスクと関わりをもつこと が明らかになるであろう。以上の議論を下敷きにして,最後の第三章では,商 業資本と商業信用の間にどのような関連が付けられるべきかという問題が,商 業信用論以外の理論領域のなかでも,特に商業資本論に的を絞って検討される。 ここでは,産業資本との売買関係を構築することに始まり,
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也の商業資本との 売買関係を構築するにいたるまで,商業資本が一貫して,上記の一般的なリス クを解除する役割を担っていること,そしてこのような商業資本の活動をつう じて進められる商品市場の「組織化」こそが,商品売買から商業信用への移行 を可能たらしめる十分条件で、あることが明らかになるであろう。OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
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従来の商業信用論の問題点
1ド1 「資金融通=貨幣貸借」説の問題点 過去の商業信用研究において最も支配的であるのは,商業信用を実質的な貨 幣貸借の関係として捉える見解,いわゆる貨幣貸借説である。なお,本章以降 で貨幣貸借説という場合,基本的には資金融通説から派生した第二、期のそれを 指す。これは,商品貸借説と対立するかたちで唱えられた第一期の貨幣貸借説 とは区別されるべきものである。むろん,第二期の貨幣貸借説のなかにも諸説 がありうるものの, その骨子をやや乱暴に抜き書きすれば,大略以下のように なる。すなわち,商業信用においては,信用売りの段階で商品価格は実現され, 売り手は一度貨幣を入手するが,彼はそれを入手すると同時に買い手にたいし て貸し付け,現金の代わりに債権を保有することになる。商品売買ではないか らこそ,売り手と買い手の聞には債権=債務関係が残り,商品貸借ではないか らこそ, この債権=債務関係の解消は,商品の返却ではなく貨幣の支払をもっ て果たされねばならないのだ,と。この場合,貸し付けられているのがいかな る貨幣であるか,今回信用売りされた商品の売掛金か,現金販売を行えば過剰 化するはずの遊休資金かという点については,特に見解が分かれよう。 しかし 何れにしても,信用販売の段階で商品の価値はすでに実現され, その意味では 商品の売買関係もすでに解消されているが,商品の売却と反対方向ながらも時 を同じくする貨幣の貸付によって,貨幣の貸借関係が残存することになる ーーというのが,貨幣貸借説のともかくも異口同音に主張するところである。 ただし, ここで述べられている貨幣貸借とは,商品売買をつうじた商業信用に 固有の資金融通,いわゆる実質的な貨幣貸借のことであり,商品売買を介する ことのない直接的な貸借関係とは厳に区別されるのが普通である。 こうした貨幣貸借説にたいする第一の疑問は,いうなれば貨幣論的なそれで ある。すなわち,現金貨幣に代わって売り手の下に保有される商業手形が,た んなる私的な借用証書の類ではなく, それ自体として購買力をもちうる「貨幣」 の一種であるということが,貨幣貸借説では分明とはならないのではないか,921 商業信用論の形成と商業資本論 -209ー という疑問である。冒頭でも述べたように,現金貨幣ならざる「貨幣」がさま ざまに登場しては,やがて中央銀行券を頂点とする階層的な体系を形づくって ゆくという動き,すなわち貨幣概念の広義化は,銀行信用論も含めた信用論全 体の一貫した筋道をなしていた。こうした筋道をすでに商業信用論のなかで特 筆大書しておくことは,信用機構の基礎として商業信用を位置づけるためにも, また信用貨幣の基礎として商業手形を位置づけるためにも,まずは必須の作業 となるのである。さらにいえば,貨幣概念が広義化する一方ではなく,現金貨 幣による規制一一最終的には資本蓄積の動向による規命トーーを受けて狭義化す ることもあるという,いわば「貨幣」のもつ流動的な収縮性も,商業手形が最 初の非現金貨幣であることを踏まえてこそ,はじめて明確になるのだとも考え られよう。しかしながら,商業手形が「貨幣」であることを認めるとすれば, 貨幣貸借説は容易に説明しがたい謎を抱え込まずにはいない。蓋し,ごく単純 に考えるならば r貨幣」は何らかの姿をとって,買い手へ貸し付けられている にもかかわらず,同時に商業手形という姿をとって,売り手ニ貸し手によって 保有されてもいる,ということになるからである。もちろん貨幣貸借説には, 商業信用で行われているのがあくまで実質的な貨幣貸借であって,現金貨幣の 直接的な貸借ではないという,周知の但し書きが付いて回る。しかしこの但し 書きは,現金貨幣と「貨幣」を区別した上でもなお突き当たる,上のような謎 を解き明かしうるわけではない。 以上の疑問は,商業信用において実質的な貨幣機能,殊に,購買手段機能と それに基づく価値尺度機能を果たしているのはいかなる「貨幣」であるか,と いう問題にも関連する。通常の現金売りと同様,信用売りの段階で商品の価値 がすでに実現しており,そこで入手した貨幣を売り手が貸し付けているのだと (6 ) このような,信用論におけるいわば貨幣論的な志向は,周知のように,商業手形を「本 来の商業貨幣」であり本来の信用貨幣すなわち銀行券などの基礎」をなすものとみな すマルクスのなかにも,すでに妊胎していた(K,III, S. 413, (7) 150-51頁)。この志向 を信用論のなかに一貫させることによって資本論』にあってはともすれば損なわれが ちであった商業信用論と銀行信用論の関連を強く確保することにこそ,マルクス以降の 信用論研究における主限の一つがあったのである。貨幣貸借説も,新旧の何れを筒わず, 本来はこうした志向を共有するべきはずのものであった。
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-210ー 香川大学経済論叢 922 すれば,商品の価値を実現せしめているのは, この通常の意味での「貨幣j,
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まり現金貨幣であるということになろう。この理解自体は, マルクス以来の古 典的な貨幣論的認識とも通底する。すなわち, マルクスは周知のように,商品 価値に同名の大きさを与えるというだけならば観念的な価値尺度で事足りると しても,この価値表現に続く「商品の命がけの飛躍j(K, 1, S..120, (1)191頁), 商品の価値実現では「堅い貨幣が待ち伏せしているj (K, 1, S.. 118, (1)187貰) と述べている。 これらの文言を貨幣貸借説に当て巌めるならば,商業信用にお ける購買手段機能とそれに基づく価値尺度機能は, 「堅い貨幣」としての現金貨 幣に握られている, ということになるわけである。 しかしこのように,現金取 引と信用取引の区別なく現金貨幣のみに貨幣機能を認めるというのでは,商品 が「命がけの飛躍」を果たす段階で,待ち受けるべき肝心の「堅い貨幣」を買 い手がもっておらず,またそれゆえにこそ,商品が信用で買われねばならなかっ たという商業信用の特殊事情が,貨幣論的な問題としては何ら汲み取られてい ないことになる。貨幣準備はないが原料在庫はあるから信用で売るという場合, 「堅い貨幣」は,買い手と売り手の何れの側にも待ち受けてはいないのである。 力日えて, こうした「貨幣=現金貨幣」という概念を温存する限り r貨幣」なら ざる商業手形がそもそも商業信用のなかでどれほどの意義をもっているのかす ら,不明に帰しかねないであろう。 もとより商業手形は, これを商業信用を構成する他のいかなる要素と関係づ けるかによって, さまざまに異なる性格を顕わにするはずである。たとえば, 支払われるべき将来の現金貨幣と関係づけるだけであれば,商業手形は,現時 点では何らの役割も果たさない支払約束としての性格を顕わにするばかりであ る。 しかし, 売買されている現在の商品一一おそらく後述する「資金」も含め てーーと関係づけるならば,商業手形は, その授受と引き替えにしか商品も売 買されえない「貨幣」としての性格を顕わにすることになる。一見したところ, 商業手形が一定期間にわたって現金貨幣の代理を務めること自体は,何れにせ よ過不足なく明らかにされうるようにも見える。しかし,将来の貨幣と現在の 商品の何れとの関係を重視するかによって,同じ「代理」でも,名目的に現金923 商業信用論の形成と商業資本論 -211-貨幣の穴埋めをするという意味にすぎないのか,それとも現金貨幣から一部の 機能を積極的に引き受けるという意味なのかといった,内容面での微妙な相違 が生じるわけである。ここで,現在の商品との関係をより重視すべき事由を述 べるならば,おそらく,以下のようになるであろう。すなわち,将来の現金貨 幣との関係は,どれほど固い支払約束の下に振り出された商業手形であっても, いわば未然形の関係というべきに止まる。将来の現金貨幣の形成には,与信者 ばかりか当の受信者にとっても,流通過程ならではの不確定性が付き纏うから である。これにたいし,現在の商品との関係は,必ずや売られた商品にたいし て振り出されるものが商業手形なのであるから,不確かな将来の支払いを待た ずとも,すでにしていわば現在完了形の関係というべき確実性を具えているの である。その確実性にかんする限り,商品との縁を切つでもなお蓄蔵手段であ り続ける現金貨幣よりも,最初から実証済みの購買手段として振り出される商 (7) 業手形の方が,かえって優れているとすら評しうる。しかも,この現在の商品 との関係は,たんにその商品を手形で売った与信者とのいわば対自的な関係で あるに止まらず,それを手形で買った受信者とのいわば対外的な関係にまで, 些かもその確実性を減ずることなく延長されうるという性質をもっている。す なわち,受信者(さしあたり産業資本)としては,生産過程の中断ないし縮小 を免れうるだけの貨幣資本の余裕がない場合か,あるいは一定の貨幣資本の余 裕があるとしても,それで賄いうる以上に生産過程を拡大しようとする場合に 商業信用を利用するわけであるから,信用で売られた商品は,その直後から受 信者によって生産的消費を開始され,技術的に確定された一定の生産期間を経 た後には,別の新商品へと姿態変換を遂げているはず、であろう。むろん,この 新商品が売れるかどうか,売れるとしてもどれだけの流通期間を経てからかと いうことには,流通過程ならではの不確定性が付き纏うから,その販売代金を もってはじめて可能となる将来の返済も,つまりは商業手形と将来の現金貨幣 との関係も,すでに述べたように不確定でしかない。それでも,与信者によっ て受領された現在の商業手形と,受信者によって特定期日までに必ずや生産さ れているはずの将来の新商品との聞には,一定の時差が苧まれているにもかか
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212ー 香川大学経済論叢 924 わらず,およそ一切の不確定性を排した因果関係が成立しうる。すなわち,現 在売られた商品の価値が,受信者の側において姿態変換を重ねて,最終的に将 来の現金貨幣を形成しうるかどうかは不確定であるとしても,その一歩手前ま (7) これにたいし,中村[1978Jは,たんなる私的な支払い約束にすぎない商業手形が,に もかかわらず貨幣性をもっということを主張するのであれば,支払いの完全性をあらか じめ前提しでかかるか,さもなくば支払いの完了時点から振り返って規定を与える必要 があり支払いが行われるか否かが不明な局面のみを想定して,つまり商業信用の全過 程から商品譲渡の時点だけを機械的に抽出して,そこで手形の貨幣性を論じるのは無意 味であるJ(50頁)と述べている。しかしながら,むしろ注目されるべきであったのは, 不確実な現金貨幣による支払いを待たずとも,つまり「商業信用の全過程」の結了を待た ずとも,譲渡されている商品と商業手形の関係のみを「抽出」することが可能なのだ,と いう事実なのである。「機械的」であろうとなかろうと,そうした「抽出」が可能である とすれば,商業手形自体に,たとえ将来の現金貨幣との関係を断ち切られても,現在の商 品との関係を無傷に保存しうるという性質が具わっていると考えなければならない。こ の「抽出」されうる性質と比較するならば商業信用の全過程」の結了を待っていわば 事後的な反省規定として与えられた商業手形の貨幣性の方こそ,いかなる理論的な意義 を主張しうるものか余程疑わしいというべきであろう。 なお,武井[1972Jは,貸付という行為においては「等価はなにも取り返されてはいな いJ (K, III, S.357, (7)56頁)とするマルクスを批判して,貸付と引き替えに入手され る債務証書なり支払名義なりといった債権は,それ自体が貨幣とは異なる「資本価値の実 存形態」であること,したがってまた,貨幣貸付から始まる利子付資本の運動も,通説の ように G G'と表わされるべきではなしこの債権の存在を@というように明示化し た上で, G-@ @-G'と表わされるべきことを主張している(20-25頁)。こうした主 張の背後にあるのは,利子付資本の運動の前半をなすG-@という過程は,支払手段とも 区別されるべき「貸付手段」という貨幣機能に基づくのだという,独自の「貸付手段論」 である。しかしながら,利子付資本といえども価値の姿態変換運動を行っているという武 井の論旨を仮に活かすとすれば,貨幣の貸付とはとりもなおさず債権の購買とみなされ るべきであり,したがって利子付資本の運動も,@...@といった中断を差し挟むことな く,G-W-G'と表わされるべきだったのではないだろうか。仮にこの@…@という表 示が,債権を入手した時期と手放す時期が食い違わざるをえないことを意味しているの だとすれば,多少なりとも時間を要する通常の商品転売活動ですら,G-W. 机T-G'と 表示しなければならない道理になる。また,この債権が,括弧付きとはいえ有も⑤と表示 されるからには,それが貨幣機能を果たすべき対象,すなわち信用買いされる商品との関 係が,運動式のなかに含まれねばならないで、あろうが,武井によって問題とされている利 子付資本とは,商品売買なき貨幣貸借を行うものにすぎないのであるから,そこでは債権 は@と表示されるだけの面白を発揮しえないのである。ところで,G-W-G'という運動 式が与えられるべきだとすれば,利子付資本とは,さしあたり二者聞におけるたったこ回 の売買に限定された格好ではあるが,将来のより高値での買い戻しが約定された債権を, 現在より安く買うという商人資本的性格を有することになるはずである。しかしながら, その場合には,当然ながら「貸付手段」なる貨幣機能も,購買手段機能の別名にすぎなかっ たということになろう。
925 商業信用論の形成と商業資本論 213 で、,将来の現金貨幣へと姿態変換するべき新商品を形成しうることまでは,揺 るぎない一義的な関係が一一手形が振り出された時点に始まり,その直後から 開始された,この意味でいわば与信者の販売過程と直結された受信者の生産過 程が,予定通りに終了する時点にいたるまで一一寸陸続することになるのである。 見方を変えるならば,現在売られた商品との関係に具わっていた当初の確実性 は,商業手形によって堅持されたまま,その商品を原資として生産される将来 の新商品との関係へと振り替えられるのだ,というように見ることができる。 そして,この振り替えられた確実性にかんする限り,商業手形と将来の現金貨 幣との関係を捨象して考えた方が,かえって明確になるともいえるわけである。 もっとも,商業手形が転車展流通するにしたがって徐々に貨幣性を帯びてゆく という事態そのものは,貨幣貸借説においても否定されるわけではない。むし ろ貨幣貸借説の一部には,二者間の信用取引というのがそもそも不自然な想定 であって,自ずから三者以上の債権=債務関係へと展開されるのが商業信用の 常であること,そして商業手形なるものも,この三者以上の債権=債務関係に おいてはじめて必須となること,等を強調する向きが見受けられる。為替手形 をもって商業手形の一般的な形式とみなす立場もこれと同断であって,要する に,転職流通してこその商業手形だ,というわけである。これらの主張に耳を 傾けるならば,商業手形が流通手段としての「貨幣」たりうること,より強く いえば i貨幣」たりえてこその商業手形であることは,貨幣貸借説の見地から も何ら無理なく説かれうることのように思われないではない。しかし,ここで 真に問われるべきは,商業手形の貨幣性が説かれているかどうかという表面的 な事実ではなしその説き方であろう。貨幣貸借説の説き方による限り,商業 手形は振り出された段階では何らの貨幣性をも持ち合わせていないが,この自 らが本来持ち合わせない貨幣性を,その後の転職流通によっていわば追加的, 擬制的に付与されたのだ,ということにもなりかねない。事実,商業手形が振 り出されるこ者間の信用関係において,とりもなおさず「資金融通=貨幣貸借」 という見方が確立される商業信用論の導入部において,貨幣貸借説は先に述べ たように i貨幣=現金貨幣」という狭義の貨幣概念に引き戻されてしまってい
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-214- 香川大学経済論叢 926 (8 ) 鈴木編 [1960・62J下, 356-57頁を参照せよ。伊藤 [1989Jも,あらかじめ三者間の関 係を含み込んで振り出される為替手形こそが資本主義的信用貨幣の基本的形式J(168 頁)であるとしている。一方,山口 [2000Jは,貨幣貸借説という大筋では両者と一致し ながらも,商業信用の基本的性質を端的に示すのはこ者間の信用関係であって,三者以上 の信用関係ではないと考えている(44-47貰)。山口[1984J53-54頁,田中[1997J197-210 頁も参照せよ。しかしこの場合には,そもそも商業手形の貨幣性という問題自体が,商業 信用論における主題の座を追われていることに注意すべきであろう。代わって主題化さ れているのは,たとえば受信資本の信用力の相違による商業信用の限界や,信用価格と現 金価格の関係といった問題などである。哀を返せば,商業手形の貨幣性という問題を正面 から取り上げようとすれば,二者間ではなく三者以上の信用関係が取り上げられねばな らないことは,山口においても消極的にではあれ容認されていることになるわけである。 山口 [1985J 221頁も参照せよ。 ただ,この問題にかんする限り,貨幣貸借説と商品売買説の聞には,必ず、しも決定的な 組曲苦が生じていたというわけではない。貨幣貸借説を批判して己まない大内 [1969Jも, そもそも手形の転車展流通を捨象したところから商業信用を説き起こすという方法は不自 然であり,商業信用論の「舞台装置J(6頁)としては,最初から三者以上の信用関係が 設定されるべきであるとしている。特に,貨幣貸借説によるならば「手形についても,ひ いては銀行券についても,その貨幣としての側面が見失われ,もしくは軽視され,債務証 書という法的形式面のみが一面的に強調されることになるJ(大内[1981・82J下, 626-27 頁)との批判を展開しているにもかかわらず,他方では「ただ工個の資本のあいだの信用 取引ならば,帳簿信用の形でもおこなわれうるし,十分な信頼関係があれば口約束でもす むことであるJ(大内 [1981・82J下, 623頁)とも述べており,商業手形のもつ「貨幣と しての側面」は,三者以上の信用関係においてはじめて問題となりうるという姿勢をあく まで崩していない。すなわち,二者間の信用関係に限っていえば,大内にあっても貨幣貸 借説と同様に,商業手形はたんなる「債務証書」としての側面から捉えられているわけで ある。大内と並んで商品売買説を代表する日高[1983Jにも r商業手形の通流J(224頁) という言い方が暗に示すように,商業手形を銀行券に近い信用貨幣のイメージで捉えて いる節が窺える。この日高の見解にたいする反論としては,宇野編[1967・68JV, 362頁 を参照せよ。他に,貨幣貸借説と商品売買説の何れとも異なり,商業信用を「価値額の一 時的譲渡J(17頁)を伴った利子生み資本の運動として捉える山田 [1999Jも,商業信用 から相互的債権=債務関係としての相互性のみを正しく捨象すれば,一方的な債権=債 務関係としての「掛売信用」が摘出され,これを考察するにはこ者間の信用関係を取り上 げるだけで十分であるとしている (19-22頁)。 しかし,果たして「転車展流通すればこその商業手形」という考え方は,商品売買説はと もかくとして,貨幣貸借説とうまく馴染みうるものであったろうか。転車展流通を約束され た上で振り出された商業手形とは,畢覚,いわば生まれながらにして流通手段機能を具え るものに他ならない。さらに,この生得的な機能を前提として手形流通の円環化が生じ, 現金貨幣の出番がないままで債権=債務関係が解消されでもすれば,遡って,商業手形は 支払手段機能をも具えていたことになる。ここには,二者間の信用関係における商業手形 の金債務性を強調することをもって旨とする貨幣貸借説との閑に,明らかな飽餅が生ぜ ざるをえないのである。こうなると,貨幣以外では返済しえないがゆえの貨幣貸借なのだ という言い分弘容易には罷り通らないことになると思われる。
927 商業信用論の形成と商業資本論 215-たのである。しかも,転報流通すればこその商業手形だということになれば, 二者聞に交わされたばかりの信用関係における商業手形が,その存在感をいよ いよ希薄化させることは必至であって,商業手形が「貨幣」であるか否かとい う問いを発すること自体も困難となる。その分,狭義の貨幣概念への引き戻し は,いっそう防ぎがたいものとなろう。要するに,商業信用が三者以上の連鎖 的な関係へと延長されるに及んでようやく商業手形が貨幣化するのだという, 貨幣貸借説における一種の結果論的な説き方では,商業信用論における第一の 重要な変更をなすところの,貨幣概念の広義化は必ずしも確実に説かれたこと にはならないのである。 ところで,すでに述べたように貨幣貸借説では,商業信用におげる実質的貨 幣貸借は,商品売買をつうじた資金融通の関係として説かれ,これを直接的な 貨幣貸借と同一視することは厳に戒められる。商品売買という体裁が取られて いるかどうかという点が,商業信用をたんなる現金貸借から隔てる決定的な差 異とされるわけである。そのことの当然の帰結といえようが,貨幣貸借説にお いては,商品売買を商業信用の「形式」とし,その背後に貨幣貸借という「実 (9) 体」が隠されているものとする発想が,次第に強められてゆくことになる。そ の意味で,貨幣貸借説は一種の実体論であると評しえよう。貨幣貸借説にとっ て商業信用研究の課題とは,まさに商業信用のなかから「実体」としての貨幣 貸借を摘出することに他ならないのである。 こうした貨幣貸借説にたいする第二の疑問は,いうなれば方法論的なそれで ある。すなわち,果たして商業信用のなかで行われる商品売買を,たんなる「形 (9 ) もっとも,貨幣貸借説の一例をなす伊藤[1973Jは,本稿の言い分とは逆に,商業信用 を「貨幣の貸借の形式J (163頁)をつうじた資金融通・動員の機構とみなしている。とは いえ,貨幣貸借が「形式」と捉えられているのは,商品売買との対比においてではなし あくまで資金融通という,商業信用の実質的な機能との対比においてであることに留意 しなければならない。現に,伊藤においては,この貨幣貸借と資金融通というセットこそ は 銀 行 信 用 に も つ う ず る 形 式 と 機 能J(同頁)として強記されているのである。少なく とも形式」以上に重視されるべきものこそ「実体」であるという通常の定義からすれ ば,商業信用の「実体」と目されているのは,やはり貨幣貸借であって商品売買ではない と解して差し支えないであろう。
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928 香川大学経済論叢 -216ー という疑問である。上記のよう な実体論には,形式は実体を覆い隠すためのヴェールにすぎないという論調, いわば隠蔽論というべきが,多少なりとも紛れ込むのが常である。事実,利子 の取得関係が,商業信用の段階ではそれとして顕在化されることなし現金価 格より高い信用価格で商品を買うという関係のなかに埋没しているという周知 (l曲 の説明にも,幾らか隠蔽論的な含意を読み取ることができょう。商業信用論の として割り切ってしまってよいだろうか, 式」 t i j i i i l l a -i i b 要所という要所でこうした隠蔽論が反復されてゆくならば,商業信用のなかで 商品売買という関係が占める比重は,きわめて小さなものとならざるをえない。 少なくとも,商業信用論の導入部で,貨幣の貸借関係こそが商業信用の「実体」 であることが高らかに告げられる際には,商品の売買関係は脇へ追いやられて ここで明 とするならば,貨幣貸借説のもつ今一つの限界も, しまうのである。 たとえ商 らかとなろう。実体論や隠蔽論を方法とする限りで,貨幣貸借説は, 業信用の構造分析としては正当であるとしても,いかにしてこの構造一一つま り,-形式」と「実体」の二重構造一ーが築かれるにいたったかという問題につ これを等閑に付してしまう。つまり,貨幣貸借という関係を取り込む いては, までに,商品売買の世界がいかなる経過をたどらねばならなかったかという問 したがって当然ながら,商業信用 これを不聞に付してしまう。 題については, 論における第二の変更をなすところの,商品売買から貨幣貸借への転換につい 立ち入った考察は及ぼされるべくもない。貨幣貸借説の関心が注がれる あくまで転換以後に成立した貨幣貸借の世界であって,転換以前に成立 していた商品売買の世界とそれを繋ぐ論理ではない。いいかえれば,転換の結 ても, のは, 果であって,転換の過程そのものではない。いまや二つの世界は,商業信用の という段階の相違によって隔てられることになるので ここにも再度,貨幣貸借説のもつ結果論的な性格が確認されよう。 おそらく貨幣貸借説の最大の狙いは,銀行信用論まで来てはじめて明確化す とその「実体」 「形式」 ある。 る貨幣貸借の関係を,あらかじめ商業信用論のなかに読み出しておくことで, 一例として,伊藤 [1989] 170頁を参照せよ。 (10)
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929 商業信用論の形成と商業資本論 -217-信用論の首尾一貫性を確保するという点にあったものと思われる。このことは また,貨幣貸借説の多くが,商業信用との関連がやや間接的なものとなる預金 業務ではなく,発券業務の方を銀行資本の一次的な役割とみなしている(いわ ゆる発券先行説を採用している)ことの事由ともなりえよう。なるほど貨幣貸 借説によるならば,商業信用論と銀行信用論の聞には,分離しがたいほどの緊 密な関連が付けられるかもしれない。商品売買との紳を未だに断ち切りえてい ない分,商業信用における貨幣貸借は不純であれその果たされざる純化を試 みるところに,より高度な信用機構としての銀行信用にたいする要請も生じる, というわけである。しかしその反面,商業信用論とそれに先行する理論領域, とりわけ,篇(分配論なり競争論なり)を同じくして隣り合う位置にある商業 資本論との関連は,益々脆弱なものになってしまう。商品売買とはもとより別 次元にある貨幣貸借が,いわば段階を追って純化ないし高度化してゆく過程と して,商業信用論から銀行信用論にかけての展開が統一的に構成されることで, 信用論は原理論体系のなかでの独立色を強めてゆくのである。こうした信用論 の閉所化にたいして最大の責めを負うべきは,貨幣貸借説の内容上の難点より も,むしろその方法上の難点,隠蔽論における形態論的な視角の欠落であろう。 何れにせよ,上述したこつの疑問一一貨幣論的なそれと方法論的なそれ 一一ーをつうじて確認されたように,商業信用論におけるこつの重大な変更は, その何れもが,貨幣貸借説によってはついに十全な説明を与えられることがな いのであった。しかし,これらが片方のみならず,両方とも揃って説き損じら れることの背景には,もちろん相応の理由がある。商業信用論と銀行信用論の 双方に「貸借」という同一の論理を貫徹させるならば,信用論の構成がいっそ う引き締められる反面,信用機構と「貸借」なき商品売買の世界との結びつき が損なわれてしまうことは,すでに述べたように自然な成り行きであった。こ の結びつきが損なわれてしまうからには,商業信用論における第一の変更をな すところの商品売買から貨幣貸借への転換が,転換後の結果のみを問うかたち (11) 発券先行説を採用している貨幣貸借説としては,鈴木編 [1960・62J下,岩田 [1967J, 山口 [1985J,伊藤 [1989Jが挙げられる。
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B a g -P 司t T I l i -t l t 930 -218-でのいわば「転換=切断」 (12) きであろう。しかし,問題は以上に止まらない。「貸借」という論理は元来,現 金 貨 幣 と 馴 染 み こ そ す れ , 非 現 金 貨 幣 に 馴 染 み う る も の で は な い 。 将 来 の 貸 借 と し て し か 説 か れ え な い こ と も , 蓋 し 当 然 と い う べ 香川大学経済論叢 や は り 現 時 点 で 約定を別とすれば,現時点で「貸借」の対象となりうるのは, 実 在 す る 何 も の か で し か あ り え な い の で あ る 。 す る と , 直 接 的 な 貨 幣 貸 借 と の 差異が幾ら強調されようとも, そ れ は 畢 寛 , 与 信 者 の 手 許 に 遊 休 し て い る 現 金 貨 幣 以 外 には考えられないという理屈になる。かくして貨幣貸借説は, ともかく商業信用において貸借されている「貨 幣」があるとすれば, これから貨幣概 念の広義化を跡付けるべき信用論へと足を踏み入れたにもかかわらず, の一歩自にも満たない商業信用論の導入部で,わざわざ「貨幣=現金貨幣」 (13) い う 狭 義 の 貨 幣 概 念 を 呼 び 戻 し て し ま う 。 信 用 論 の 首 尾 一 貫 性 を い っ そ う 際 立 まだそ と た せ よ う と い う 本 意 と は お そ ら く 裏 腹 に , 信 用 論 の 展 開 を 巻 き 戻 し か ね な い 貨 幣 論 の 逆 進 が 生 じ て し ま い , 商 業 信 用 論 に お け る 第 二 の 変 更 も ま た , 然 る べ き 箇所で然るべきかたちでは説かれえない一一ーすなわち,商業信用論の導入部で 分 化 ニ 発 生 論 的 な か た ち で は 説 か れ え な い 一 一 結 果 と な る の で あ る 。 以 上 の よ うに,主として二点にわたる貨幣貸借説の理論的な不備には,商品売買という (12) 商業信用における利子の源泉は,諸家の指摘を待つまでもなく,資金融通を受けた資本 において追加的に生産された剰余価値にこそある。しかし,そうした利子の源泉,いわば 商業信用の実体上の根拠とはまた別に,利子を授受するという行為自体の妥当性,いわば 商業信用の形態上の根拠をどこに求めるべきかという問題が,殊に第二期の商業信用研 究において活発に議論されてきた。大内[1969J,大内[1970J,大内[1981・82J下, 632-640 頁,武井 [1972J 144-49頁,伊藤 [1973J159-173頁,伊藤 [1989J170頁,守山 [1974J を参照せよ。思えばこの問題も売質」と「貸借」という二つの論理の聞に避けがたく 生じる隙聞を,何らかの方法によって埋めようとする意図の下に提起されていたとも考 えられる。ただし伊藤[1973Jのように,商品経済一般に広く認められるところの貨幣貸 借への利子支払の慣習をもって,商業信用における利子取得の「形態的前提J(158頁)と みなす場合,この際問はかえって広げられる憐れがあろう。貨幣の支払手段機能を説く際 に引き合いに出されたところの,したがってまた商品経済一般に広く認められるところ の掛け売買をもって,近代的な信用制度の「自然発生的な基礎J(K, III, Sリ413,(7) 150-51 頁)と認定するマルクスについても,同様の懸念が生じる。もっとも伊藤[1973Jの場合, 商業資本についても商業信用と同様に,商品経済一般に広く認められる商人資本的形式 をもって「生成の前提J(158頁)とするもの,という考え方が示されており,その限りで の方法論的な一貫性は保たれている。
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219-商業信用論の形成と商業資本論 931 論理を断ち切って貨幣貸借という論理で押し通すならば,商業手形もまたあく その貨幣性の側面は自ずから消極化を余 一種の因果律的な連闘が潜んでいたわけである。 まで金債務性の側面のみを強調され, 儀なくされるという具合に, そうであるならば,商業信用の世界一一貨幣貸借の世界ではないとしても明ら かに特殊な世界一一ーにたどり着くまでに,商品売買の世界がいかなる変遷を経 なければならないかという問題を看過してしまったことこそ,貨幣貸借説に それと同時に,商業信用 i i i 、 P 1 l l i t F i b t i t i l -i l i -t i l l という結論になるであろう。 とって致命的でトあった, 論とその他の理論領域の関連のなかでも,いわば商業信用前夜の商品市場の姿 を最も克明に捉えうるはずの理論領域,すなわち商業資本論との関連を断って という結論にもなる しまったことこそ,貨幣貸借説にとって致命的であった, であろう。 もっとも貨幣貸借説にしても,商業資本論から商業信用論にかけての展開に 不連続の感を覚えず、にはいられないような,明らかな理論構成上の不備が認め られるわけではない。後述するように,資金融通説に与する商業信用研究のな かでも,商業資本と信用機構の結びつきについて関心を示していたのは,意外 (13) 鈴木はもともと,商品の信用売買の関係をそれ自体としてみれば,そこでは現実の 貨幣が登場するわけではないが」と断った直後に貨幣は購買手段ないし価格の実現者 として機能し,同時に売手と買手とのあいだに貨幣の貸借関係が成立する」と続けている (鈴木編 [1960・62J下, 353頁)。この文脈からして,商業信用において「購買手段ない し価格の実現者」として機能しているのは,あくまで従来週りの「現実の貨幣」であって, すでに広義化されつつある貨幣としての商業手形ではないと考えざるをえないであろ う。すなわち,以上の二つの文章を繋いでいる r~が」という逆接の接続詞は,これまで 現金貨幣によって占められていたはずの貨幣機能がそれとは別種の貨幣に譲り渡されて いるという事実に係っているのではなしなおも貨幣機能を占めるはずの現金貨幣が「登 場するわけではない」という事実に係っていると考えざるをえないであろう。現金貨幣が 「登場するわけではなしりという事実と相反するかに見える何かがあるとすれば,それ は,現金貨幣が依然として「貨幣」であり続けているという事実以外にはないのである。 なお,この段階で早々に狭義化された鈴木の貨幣概念こそは,おそらく,銀行券一般を 中央銀行券の「たんなる地方的な特殊的代理物J (鈴木編 [1960・62J下, 375-76頁)と みなす,評判の芳しくない発想へと繋がってゆくものであろう。とするならば,さらに下 位銀行が「中央銀行による手形割引の下請機関にすぎないJ (鈴木編 [1960・62J下, 377 頁)と過小評価されてしまうことについても,その根因は,貨幣概念の狭義化の元凶とも いえる,商業信用論の冒頭で樹立された「貸借」概念にこそ,遡って求められるべきなの である。
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-220 香川大学経済論叢 932 にも本来そうあるべき商品売買説の方ではなく,そうあるべくもない貨幣貸借 説の方であった。たとえば,貨幣貸借説の一部では,産業資本の聞に広範な信 用関係が取り結ぼれるためには,流通過程を集中代位する商業資本の役割は抜 きがたいものと目される。すなわち,いかなる部門の産業資本とも取引を結び うる商業資本なればこそ,部門の壁を超えて商業信用を拡張させたり,手形流 通を円環化させるなど,産業資本には適わない独自の寄与を商業信用にたいし (l~ てなしうるはずだ,といった主張である。同様の理屈は,さらに商業資本と銀 行信用の関係についても適用される。すなわち,仕入れや卸売りに商業信用を 利用する結果として,さまざまな産業部門の債権や情報を集積させている商業 資本(特に大規模なそれ)であれば,産業資本よりも一般に信用力の大きい資 本として,自らの手形で自余の手形を割り引く銀行資本へと転化しうるはずだ, といった主張である。これらの主張に耳を傾けるならば,貨幣貸借説によって 商業資本論と商業信用論(あるいは信用論全般)の靖離が惹起されるという本 稿の言い分こそ,むしろ疑わしいものに思われてこよう。 しかしながら,以上の主張によって捉えられているのは,何れもすでに成立 を見た信用機構における商業資本の役割,そしてその意味では,所詮ずるに補 助的な役割にすぎない。事実,商業資本と商業信用の関連についての記述は, 商業信用論の導入部には置かれずに,商業信用論の後半部分や銀行信用論の前 (14) 鈴木は,商業資本の信用力の大きさは「産業資本の流通過程を社会的に集中代位するも のとして,それ自身多かれ少なかれ産業資本にたいし社会的資本たる性格をもっている」 (鈴木編 [1960・62J下, 359-60頁)という事実に基づくものとしている。こうした鈴木 説への反論としては,大内[1973J126-27頁を,さらに大内への反論としては小野口978J 119-120頁を,それぞれ参照されたい。五味[1975Jは,鈴木説を大筋において引き継ぎ, 商業資本こそが商業信用の中心的な担い手であるという事実は,j商業信用』ということ ば自体にも,じつは表現されているJ(23頁)と述べている。武井[1972Jにも「元々商業 信用を商業抜きにして論ずることが無意味なのである」という指摘が見られる (148頁, 傍点は筆者)。さらに小倉 [1979Jは,商業信用における商業資本の立場をこのように特 権的たらしめているのが,現金売買の段階から商業資本に具わるどのような形態上の特 性であるのかについて,いっそう立ち入った考察を展開している。そして,多部門にわ たって産業資本と取引を行いうるという特性こそが重要であり,この特性を具えた商業 資本であるからこそ,産業資本間土では折り合いのつかない受与信条件の量的な阻艇を 克服したり,生産加工系列を越えた手形の授受を可能にしたり,さらにそこから手形流通 を円環化させることが可能になるのだ,と論定している。
ゑ 933 商業信用論の形成と商業資本論 ~221 半部分にまで持ち越されるのが常套的である。しかしそこまで来る以前に r資 金融通=貨幣貸借」という論理は, とっくに信用論の全体をつうじて覆される ことのない既決事項とされてしまっているのである。それゆえに,通常の売買 関係がまさにこれから特異な信用関係に切り替わろうとする理論箇所におい て,とりもなおさず商業信用という市場機構の分化=発生過程において,商業 資本がいかなる役割を演じるのかについては,貨幣貸借説の主張に耳を傾けて も一向に分明とはならない。そしてまた当然にも,商業資本と商業信用の関連 がそれなりに深いものであるとすれば未検討では済まされない問題,すなわち, その関連が商業資本論のなかでどのように予示されるべきかという問題は,貨 幣貸借説においてついに提起されることすらないのである。 以上のことを踏まえるならば,さしあたり,次のような結論を得ることがで きょう。すなわち,商業資本と商業信用の関連を問うためには,まず,議論の 組み立てを変える必要がある。現金貨幣による商品売買を仕切るものとして商 業機構があり,現金貨幣の実質的貸借を仕切るものとして信用機構があると いった二分法をそのままに放置したのでは,信用論の閉所化は如何ともしがた い。これを放置したがためにこそ,商品売買から貨幣貸借への唐突な飛躍が生 ずる理由もまた,貨幣貸借説における一つの謎として残されてしまったのであ (15) 鈴木は,商業資本の社会性を「支柱」とする商業手形の社会性が,銀行信用によって「ー 般化」されるものとしている(鈴木 [1960・62J下, 359頁)。岩田 [1967Jは,多数の取 引先の事業状態に通じて「一般的な信用力」を獲得するにいたった大商業資本が,商業活 動を停止して「自己の支払準備金を引当に」割引業務を開始し,その後さらに手形決済の ために当座預金を,準備強化のために利子付預金を,それぞれ受け入れるものとしている (188-91頁)。五味[1975Jは,流通過程を社会的に集中代位している商業資本であるが ゆえに r商業資本が関与している手形の方が,産業資本だけの関与している手形よりも, 流通力が高く,両者の流通力には質的差異がある」という認識に立って,大商業資本の行 う手形の裏書が,やがて手数料をとっての信用保証へと発展してゆくものとしている (22-7頁)。山口 [1985Jも,商業信用の利用をつうじて「債権の集積」と「情報の集積」 を果たした商業資本が,それらを根拠にしてより大きな「受信力」を与えられ,そうした 商業資本の振り出す商業手形が,やがて銀行手形へ転化するものとしている(224-26頁)。 (16) それゆえにまた,たとえば鈴木の場合,貨幣貸借としての信用関係の成立が説かれた後 に,実は「手形の流通それ自体も産業資本の流通過程へ商業資本が介入することにより, はじめて可能であったJ(鈴木編 [1960・62J下, 360貰)として,改めて商業資本の枢要 性が強調されるという具合に,議論はやや不細工に前後することになるのである。
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-222ー 香川大学経済論叢 934 る。すでに商業資本論の段階から商品売買と貨幣貸借の間に埋められるべくも ないほどの距離を設定している以上,商業信用論の段階まで来てそれらを何と か接合しようとしたところで,かえって「転換=切断」という説明に傾くのは 致し方ないところであろう。しかしまた,以上の二分法を撤回しようとすれば, 議論はもはや商業信用論の内部には収まり切らず,隣接する商業資本論にまで 及ばざるをえない。これまで半ば自明視されてきた「商品売買」なるものの態 様を,今更ながらに再考する必要が出てこよう。それと同時に,商業資本が信 用機構の発生に果たす役割についても,商業信用論の後半部や銀行信用論の前 半部ではなく,遅くとも商業資本論の後半部において,論及する必要が出てく るわけである。 12 r資金融通=資金売買」説の問題点 前節で明らかになったように,貨幣貸借説の最大の難点は,商品売買と貨幣 貸借の二つが,内容的には媒介されないままに「転換ニ切断」されていること であった。もっとも,商品売買という関係が織りなす世界に,なぜ唐突に貨幣 貸借という関係が生成するのかという疑問は,商業信用を貨幣ではなく商品の 貸借関係とみなしたところで些かも晴れるわけではない。その意味からすれば, (17) 藤川 [1976Jは,商業信用では形式上販売代金にあたる貨幣額が貸借されていると みなされうるJ(159頁)とする伊藤 [1973Jの所説に言及し商品の売買という形式と 貨幣の貸借と『みなされる』形式との関係」について,さらに「一般商品について貸借が 売買に潜在する関係から,資金という独特の商品において貸借が売買として顕在するに いたる論理がどのようにして可能になるか」について,より立ち入った検討の必要を訴え ている(249-54頁)。本稿の立場から読み込むならば,ここで藤川によって注文されてい るのは,たんに商業信用と銀行信用を「実体」の次元、で繋ぐところの論理ではあるまい。 いいかえれば,資金融通をつうじた競争媒介的な作用が,商業信用から銀行信用にかけて どのように段階的に昂進されてゆくのか,という論理ではあるまい。そうした論理であれ ば,伊藤を始めとする貨幣貸借説によっても,すでに一通り論じられてきたのである。そ れでもなお,商業信用論において貨幣貸借説が不問に付したままの何かがあるとすれば, それは,商品売買・貨幣貸借・資金売買という三種類の「形式」を繋ぐところの,つまり は商業信用と銀行信用を「形態」の次元で繋ぐところの論理であると解すべきであろう。 なお,宇野 [1959Jは,労働力・土地・資金という三種類の商品を類比させつつ,貸付 資本を「形態的には,いわば労働力の売買と土地の貸付とを総合して,資金の一定期間の 売買を貸付として実現するものといってもよいJ(193頁,傍点は引用者)と述べている。