山家安楽紛争の中心問題に就て
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支
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道
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顛
末
山家安柴の粉争と言ふも一天台宗内に起った一事件であり、とり立て L 論やる程のととでは無いが前後七十飴 年に亙る論争は、惑に時の将軍徳川家治の名を以て安永二年五月、その粉争を弾慶されて漸く絡息し売と云ふと と で あ る 。 かくの如を紛争を起すに至りし原因は何であるかと言ふに、宗祖停教大師が比叡山上に天台国宗そ開創せらる L にあたり、畢生の努力を梯はれた園頓戒に就てのととで、所謂租文の解躍の相違から起つ売問題である、それ は宗祖が時の朝廷へ奉った上奏文の中に四保式と構するものがある、その中の言葉に、凡悌寺有二ニ一者一向大 乗寺初修業菩薩借所住寺、二者一向小乗寺一向小乗律師所住寺、三者大小粂行寺久修業菩薩借所住寺、今天台法 華宗年分畢生並回心同大初修業者一十二年令 v住 = 深 山 四 種 三 味 院 − 得 業 以 後 利 他 之 故 般 ニ 受 小 律 儀 − 許 三 懐 位 三 策 行 寺てと明記し給ふより、安築院を根撮とする妙立、霊室、玄門等の諸師はその椴受小戒と︷一万組の述べ給ふととろ、 宗祖の根本精神であって、支那天台に言ふ慮の絶待戒である、高祖も宗祖も内詮は同一であるが故に、紀後小戒 I 山家安祭紛争の中心問題に就て 一 七 九日 本 傍 致 事 協 舎 年 報 ︵ 第 十 三 年 ︶ A 0 2 左受くるを以て本領とたすと主張され、自ら小乗の二百五十戒を粂持され党、然るにとれに封して反射論者が起 った相佳房等如、費積院妙静、乗賓院大動、開定院同県流の諸師がそれである、間文の懐受小戒とは利他の故に俵 受小律儀であって、必やしも小戒を受くるに及ば示、大師の御弟子等にも儲受無きは租意に非ざるが故であると 主張された、斯の如き論争を指して山家安業の扮争と稽するので
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る 。 妙立霊室のご師が何が故に斯の如き設を主張されしかな考へるに、妙立師は禅家より出でて泉山に関誼慨するに 際し、天台の教観の完備せるに鴎依し還に天台に蹄し、自ら誓って具足戒を受け比丘とたれりと一宮ふ、その自誓 受に営って大悲興正以来行はれし璃伽の組問摩左用ひ守、理滞経の掲摩に依られたと一式ふ、その理由は即ち三一飛共 門の瑞伽戒に依うて受戒したのでは、国戒とは一言ひ得ない固戒とは一一燕不共門の戒で友ければ怒らぬ、そとで天 台所依の党網戒に依って受くべきであるが、儀則の不備たるより現時に依られたと云ふ、元来党網も理璃も華巌 部の経であって内容は同一怒りとの見解に依るものである。即ち理球帽の掲摩に依って党網の三葉戒を遁受すれ ば、二百五十戒はその三衰の一分であるとの信念であった。 霊宰師は若くして組山に登り二十七歳の時妙立和尚の門に入り三十四歳の時和尚に従って沙捕となり解行益 k 進み、迭に元椋十一年三月白誓して比丘とたられしと云ふ、営時に在つては宗祖の授菩薩戒儀も見られ・なかった 暗黒時代であったと云へば、理路の掲摩に依られたととも止むを得たいととである。 との妙立霊宰二師に依って主張された粂皐律は、一一回に於て一宗の支配樺を持てる管領官邸ち大明院公排親王 の外護に依れるととを忘れてはたらない、公排親王は霊室師を崇信するとと頗る篤く、元椋六年には大戒奮跡再 興 の 令 旨 を 下 し 給 ふ た 、 夫 住 − 一 持 悌 法 − 莫 v先 ニ 乎 見 尼 − 止 一 音 大 師 之 閤 ニ 本 山 − 勘 三 ニ 寺 文 − 建 二 乗 戒 − 十 重 六 八 以 矯 エ 大借 4固 頓 十 善 矯 ユ 息 慈 一 由 v是 悌 日 輝 ユ 扶 桑 一 教 風 扇 ニ 朝 野 − 然 諸 祖 師 往 人 根 再 構 帰 国 儀 大 農 民 風 幾 息 首 二 子 是 時 − 有 志 者 必 避 ニ 大 衆 − 濁 居 エ 別 院 − 専 研 エ 昆 尼 − 飯 室 安 柴 院 此 其 一 也 降 至 エ 近 世 日 別 院 叉 失 コ 主 ︵ 則 一 有 識 之 士 誰 不 二 悲 歎 − 故 今 品 川 エ 奮 縦 日 以 エ 安 柴 院 − 矯 コ 弘 場 二 百 一 ー と 衣 川 の 地 百 石 を 御 朱 印 と し て 賜 ふ 、 と 一 式 ふ と の 令 旨 よ り 見 れ ば 大 戒 弘 通 道 場 の 復 興 で あり、叉十重六八を以て大借と詩し固頓十善左息慈と矯すとあれば、との時は未だ四分余事のととは無く漠然大 戒弘通の霊場としての基礎を確立せしのみ、然るに元禄十一年三月の自誓受戒より宰師の態度は一費して、宗祖 一十二年暫く隔つ相待戒であって紀満の時は式文の久修業の高則に依 の一同大乗は初修業一紀中の所行にして、 って小戒宣も行護するものと友せり、粂皐と云ふも賓は法華の汝等所行是菩薩道の開舎に蹄ずるもので大師の本 意に契へる究寛の大戒たりと主張せり、還に外護者売る大明院宮は賓永四年十一月延暦寺俸制を下して云く但持二 党網二紀住山渇二初修業菩麗傍二紀之後大小粂行矯コ久修業菩薩借 4 一 隅 業 之 闘 争 倶 鹿 其 名 不 v 聞久実近歳守二紀佳 山 之 制 − 修 二 遮 那 止 観 之 業 一 者 数 輩 順 − 一 久 修 業 之 犠 − 粂 ニ 畢 五 篇 開 遮 − 者 又 衆 倶 是 員 大 丈 夫 皐 人 模 範 一 式 一 ー と 余 事 の 保 制 左下し給ふた、されど紀浦以後必や粂拳するの意には非ざりしも、公謹親王が管領官として御就仕せらる L や 、 元文四年には衆主に堪へぢる入は紀後住山の願無用に候とて、所謂宗式の能一言能行の者は圏賓として佐山すると とを得るも其他の者は悉く紀後住山を禁ぜられ、必守安楽に於て粂小せ・なければならたかった、若との儀に不服 の者は退山を齢儀なくせしめられた、との震に山を逐はれて不遇の一生を終られし入も少く汝かつ売と一式ふ、悲 に至って粂小への反抗も絶へた形とたり、潜に反封の意志を有せし人も災厄を怖れて沈殿して時の来るを待つも の L 如 く で あ っ た 。 3 然るに公謹親王は病の故を以て賓暦二年八月管領の職を公啓親王に譲り給ふた、 との時に営り蝉定院異流師は 山家安祭紛争の中心問題 K 就 て F
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日 本 係 数 皐 協 舎 年 報 ︵ 第 十 三 年 ︶ F
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4 奮然乗事反封の気勢を皐げ今時住山徒所 v勤規則非コ大師意同左越べてその所信を述べ給ふ売於悲公韓親王は山家 安柴の双方に問答往復せしめし結果、遂に賓暦八年四分粂畢の制を慶して一向大戒の制に改めらる、天台二一万被 v改 ニ 制 一 向 大 乗 戒L
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一 国 耳 和 尚 − 被 v補 ニ 安 柴 院 住 持 博 士 院 別 賞 一 一 百 一 耳 と 遂 に 安 業 院 粂 小 の 人 K は御朱印及器財等を かくて異流師は会啓親王の信任を得一向大戒は一宗を風躍するに至ったとは云 引渡して安業を退去せりと云ふ、 へ、妙立霊宰二師が多年稽導せし四分粂皐は一般住侶の脳裏に潜在するもの−あり、制度上大戒復興とたりし迄に て互に根強き強訴治罰追放等を繰かへして居売と云ふととである。 然るに局面は念に一一饗したそれは明和九年七月会啓親王の嘉去し給ひしととである、悲に至って一向大乗荷携 の者は種 k 策略をめぐらして後櫨者を定めんとせしもたらや、途に随自意院官公謹親王の御再任となった、その 魚念轄直下粂皐律は復本せられ、先に一向大乗反封の御径を蒙りし人 K は許され、同県流師には業方儀先年一己の 異見を以て山門龍山紀後之儀等技日記最上乗院宮へ願上候に付安柴院一波の律儀御改制仰出され其以来安柴院は勿 論諸園五十飴箇慮の律院の法儀衰徴候段止重点不屈に思召依之其方三山蛙一宗之寺院俳佃御差留候上職分御取上 退院仰付候此段敬承之あるべき者也一J
と先門主の御改制ありしも国耳の僻解に暴けるもので、悌意に契ひ組意 に合致するものに非やと迭に安永二年五月には将軍の定式、老中の僚目を以て爾今粂闇申律に劃して異議を構ふべ からやと、問答往復の事もたく弾塵せられてさしもの紛争も終息し売のである。紛宇の中心問題
式文の椴受小戒が論争の中心を矯すととは巴に一言せし所たるが、 その椴受小戒に就て霊荏師は宗祖が、 そ σコ
昔上奏され売阜大不共門の戒犠を行護する一一来菩薩借も諸園停道の場合は、篇衰の小戒匙椴受し般に粂行寺に位 するととが許されてゐる、されば我宗の僧侶は初修業の白行のみに止らやよろしく久修業保受を賓行するととが、 化他に射する一一束菩薩借の賓際問題であり宗祖の本意に叶へるものである、故に一十二年不出山門と述て修壊を 勤められた制度はとれ一往自行に約せし迄にて再往は偲受小戒して粂行寺に位するととが、大師の本領とたすが 故に大師は叡山に一位相待の阜大不共を主張されもんるが、還に開舎の抱封に蹄すべきもの即ち汝等所行是菩薩遣 と云ふのが大師の極則であると主張された、との設に同する人々に妙立玄門守篤泰巌可透等の諸師があるが霊昼 師を以て代表してゐる o との設に封して反封してゐる人 k k 粗景等如妙一燕大動真流の諸師があるが、教義上の争 論に就ては真流師を以て代表するととが出来る、以下雨抵の主張を少しく窺って見ょう、悲に営然起って来る問 題は即ち椴受小戒の異義、相封絶封に就ての解緯の相達、久修業初修業の相達、暫隔の異義、得業の解轄の相違 等が骨子を得してゐる。 ︵ イ ︶ 偲 受 小 戒 の 異 義 保受小戒とは霊室師の決疑篇に云く、調菩薩戒ノ方ヨリ一式事ナリと、者編に云く大師紀後ノ受戒ヲ立テ、椴受 ト名ケ玉フ所以ハ先師之ヲ断メ濁菩薩戒ノ方ヨリ一式フ事ナリ、此大師ノ建立ヲ一口=云ヒ謹シタル所ナレドモ得 意ノ人少シト見ヘタリ、頃ロ或人新タェ一義ヲ作リ得業以後ノ文ヲ上位=無理−一ヲシマグ椴受ハ内秘外現ノ相ナ リト一式ヘリ、凡ソ文字ヲ讃程ノ者ハ一向信受セマジキ事ナレパ之ヲ論ズルニモ及メザレドモ少シク之ヲ申サン、 論ニ一十二年令 v修 ニ 山 林 − 随 ユ 其 得 業 日 峰 山 v定 二 進 退 − 若 有 v遺 v制 脆 ニ 袈 裟 衣 − 詩 コ 在 家 士 − ト ノ 玉 ヘ リ 此 既 一 一 袈 裟 ヲ モ 股 シ テ 在 家 ノ 士 ト ス ル モ ノ 一 一 封 テ 得 業 而 進 ム モ ノ ヲ ノ 玉 フ ナ レ パ 、 式 ノ 得 業 ノ 語 亦 何 ゾ 上 位 − 一 被 ル 事 ヲ 得 ン ヤ 一 首 一 宮 、 5 山家安楽紛争の中心問題に就て 一 八 三
日本偽教事協曾年報︵第十三年︶ 一 八 四 6 直流師は弾妾録に一宮く山家保受ノ事ヲノ玉フ−一顕戒論ノ中雨設アリ上位−一ハ旦ク他師ノ先輩保受セル相ヲ奉テ俣 受ヲ不許他師ヲ破斥了、コレ他師破一往ノ説ナヮ、向上倒一一ハ椴受ノ義ヲ明メ法華ノ内秘外現ノ聾聞ヲ引テ詮 セワ是レ正ク開山ノ立玉フ椴受ナリ何者序ノ中ニモ賜二白牛−朝不 v用 二 三 車 − 得 三 家 業 − タ 何 須 一 一 除 糞 ノ 玉 フ ガ 如 ク 、 自行ハ頓大直行ナレバ一向大乗ナレドモ一類ノ小機ノ矯ニ外エ聾開ヲ現シ彼ノ戒ヲ般受シ漸ク引テ大乗−一入ラシ ムルナリ是則得業巳後ノ化他ナリ南山トハ其意大一一異レ
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一 耳 − Z 。 室師の意は法華開舎に愚れるが故に宗祖の建立は先に大戒を受け後に利他の故に小戒を保受する事式文分明な るのみに非歩、その明撮まで開示されてゐる但開山の式文通り乞再興せられ売る迄であヘ即弘経の始心には執 小の者を隔てしめ給ふととろ相封であって小の隔つべき無しと開舎せらる L 鹿絶封なれば、支那天台との相遣は 支那にあっては小印大、日本に在つては先大後小と一式ふのみで、その蹄ナる慮一段りと主張し以て紀漏巳後の俄 受を以て絶封に蹄するのであると述べてゐる。 真流師の意は傾受小戒とは得業巴後の利他怒り一紀僅に満て傾受小戒せよと一式ふには非示、始行の菩薩は安柴 行の規則に依り但以大一乗法答の化他である、初心の聞は小機に示同じ彼をして大に引入すると云ふ事は不可能で ある、額戒論の中鑑真和尚の保受を引詮せるは他師が傾受を否定するにより共許の例を引た迄で内秘外現の境地 に 到 ら ・ な け れ ば 償 受 は 出 来 た い と 述 べ て ゐ る 。 是 を 要 す る に 顕 戒 論 に 茸 口 薩 律 犠 都 無 ニ 自 利 一 以 二 一 利 他 − 即 得 三 自 利 − 故 営 v知不 v求 二 小 泉 一 故 名 矯 コ 傾 受 − 也 約 二 小 乗 鞍 一 雄 v似 v遺 v教約二菩薩受一都不二相連日云去と印ち小果を求めざる慮を傾受と矯すとの指南より察せば宰師は椴受の 意 を 粂 持 の 意 と 混 ぜ し に 因 由 す る も の 怒 り 、 芳 夫 れ 菩 薩 等 遺 作 − 一 聾 開 − 以 ニ 方 便 力 み 局 化 コ 衆 生 て と 述 べ 給 へ る よ り 窺ふ時は高位に在って小鈍智に染まざる者にして始めて俄受の可能怒る事を建玉へるもの庶将来有智用 v 心思揮也 云云とあれば初心の化他は但以大乗の化他にして粂持の意には非ざるもの L 如 く で あ る 。 ︵ ロ ︶ 相 待 絶 待 の 解 尺 の 相 違 大戒決疑篇に一式く、可透問一試ク大師特ユ一向大乗戒ヲ建立シ玉フ華寛ノ深旨如何、霊室答先師曾テ被申シハ開 山 不 v依コ開舎戒−相封ノ戒ヲ立テ玉フ事堂昧ニ開舎妙戒−耶閥舎ノ戒ハ南都一一モ行ハル、故初修業一向大乗ノ機ヲ 嬬メン濡−一相封戒ヲ立テ玉フナルベシト云ヘリ元ナル事ナリ其詮撮モアル事ナリ額戒論ノ末ノ文云云 可透問云ク開舎ノ戒ハ南都−一モ行ハル、故相封戒ヲ立テ玉フナルベシトノ御事大師営山ヲ開キ玉フハ圏三畢ヲ 且停シ給ハシ矯ナリ止天台ノ大部一一ハ開舎ノ戒ヲ明セル故ソレ−一達シテ相封戒ヲ弘メ玉ヘハ自教相違ノ過モ自語 相違ノ失モ招クベキナリ、宰師答大師ノ建立自教相違トノ事開ヘヌ不審ナリムロ家ノ意ハ相封絶封並存スル事ナリ 大師相待ノ方ヲ建立シ玉フヲ回数相違トハ無理千高ナリ玄義ノ戒墓行ヲ緯スル下エ若作エ別園菩薩解一者可 v然 ト 韓 議 三 宮 別 園 南 教 事 国 一 於 党 網 一 ト 相 封 ノ 園 戒 − 一 非 ズ ャ 、 真 流 師 と れ を 弾 日 ク 鳴 呼 何 一 言 乎 南 都 戒 ガ 開 曾 ノ 戒 ナ ラ パ 開 山何ゾ斥 v之縦斥ヒ玉フトモ一往ノ設ヲ以テ極則ヲ破レ玉フ寸ハ不 v成 v破開山宣如 v斯 乎 額 戒 論 序 − 一 賜 コ 白 牛 − 朝 不 v用 − 二 ニ 車 − 得 ニ 家 業 一 タ 何 須 ニ 除 糞 日 ト ノ 玉 フ ガ 如 キ 三 乗 闘 一 乗 エ 非 ズ ン パ 何 ゾ 諸 子 = 白 牛 賜 ハ ン 此 非 ニ 開 舎 一 乎 然 ル エ一﹄﹂開巴レパ復三車ノ求ムベキ無ク一ヒ長者子ト成ル寸ハ則鳶復稽ヱ客作賎人目若或人ノ如クナラパ父子ノ天性 ヲ定メ畢テ後モヤハリ除糞ノ器ヲ持シ大白牛車ヲ得テ後モナヲ三車ヲ睦乗トスルナリ方不審ナリ止法華席ニハ槽 ノ敬行人理皆麿セリ所謂賜白牛朝不用三車ナワ故ユ大師一向大乗ヲ立テ、頓悟行トス然レドモ外一不二同小機一時ハ 所謂偲受小戒ナ
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止所蹄ノ妙理ヲ云寸ハ無 v 非 = 法 界 − 修 門 − 一 就 寸 ハ 非 ニ 離 不 離 − 而 論 v 離 耳 コ ノ 故 − 一 開 山 大 師 初 心 ノ 7 山家安祭紛争の中心問題に裁て 一 八 五日本偽数挙協舎年報︵第十三年︶ 一 八 六 8 行人ノ矯=大小隔修セシムルナリ然ドモ業樫理ヲ云寸ハ賓エ絶待法界ナ
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何トテ開山ノ建立ヲ但相待ノ様一一シナ サル、ャ、又一式ク開山ノ建立ハ一向大乗ユシテ令 v被ニ純菩薩借一戒ナルガ故ナク待絶二妙ハ漸悟ノ機ノ篤ュ開構 額賓シ玉フ法華ヲ天台待絶二妙ヲ以テ韓シ玉ヒテ相待−一一判ヲ論ジ絶待−一開ヲ論ジ玉ヘリ純菩薩=被ラシムル法華 ハ既エ開スベキ三構ナシ何ヲ以テカ待封シ何ヲ以一アカ待ヲ絶セシ妙立云ク若菩薩撃開共矯 v 借 者 則 有 エ 開 三 額 一 日 若純菩薩矯 v借 者 何 須 コ 開 額 − 耶 或 人 此 等 ノ 設 − 一 昧 カ ル ベ ケ ン ヤ 云 一 五 と 弾 妄 録 に 述 べ て ゐ る 。 由来霊室師一一棋は天台数皐を研究するに越宋天台を基礎として、唐朝天台左眺めたる眼を以て日本天台を批判 されしが故に、戒律に於ても宗祖大師の所立を一躍相待戒と判じ再臆は絶待開に蹄ずるものとの立前より、法華 玄義の所謂五戒十戒二百五十戒皆摩詞桁の設に立脚してゐる震に傾受小戒とは再躍の絶待聞に蹄ずるものとせ り 此に反して虞流師は支那天台に於ては小儀を以て大儀を助成すると宇満双弘め玉ふと雄、日本天台に於ては西 域記の大小別修の設に依って建立し給ふととろであって一向大乗を以てするのである、支那天台の二妙判は漸悟 の機を舎せんが震であり宗祖の建立は頓大直行の震である、要するに法華曾上に於て開額し終れば純一無雑であ って絶待の絶待たる所が純菩薩の園土である、妙玄の所謂純菩薩乞借と矯さば何ぞ開額を須んやと一式へるに合致 するもので、高闘の設に遣するものでも無く園機淳熟の園土である以上小乗戒を混へる必要注しとの主張であ る。
︵ ハ ︶ 久 修 業 勝 修 業 の 相 違 君編に一式く夫大師所立ノ戒ヲ以テ待絶二妙に分張シ十二年間党網戒ヲ持スルヲ相待戒ト矯シ初修業菩薩所持ノ戒トナス十二年ノ後四分戒ヲ持スルヲ以テ絶待戒トナシ久修業菩薩所持ノ戒トスル其設大師ノ章疏ノ中=在リ室 師亦之−一依テ此一言ヲ震ス法華ノ妙旨ユ依テ大小二戒ヲ相待絶待トスルノ義ハ天台ノ親宜章安ノ結集荊渓ノ輔翼ナ リ一家ノ大事ナル一心三観スラ遼師ノ一言−一テ時明玉ヘル大師ナレバ台家ノ章疏−一白日ノ如ク示シ玉ヘル所−一於 テ何ゾソノ義ヲ御存知ナカルベケンヤ開組ノ先大後小ノ式ヲ一家ノ組判=任セル事亦何ノ過アラン云云 弾妄録に一再く或人ハ行法ノ限数ト輩未来際所受ノ大戒トヲ混メ年敷ヲ以テ初修久修ヲ分タルルユヘ相違セル事 多シ龍山一紀ハ行法ノ限敷ナリ縦ヒ他宗ノ入品テモ蘇悉地ノ設−一依テ密教ノ修法止観三味−一テモ此年期ヲ以テ修 シタガル人アレバ教へテ修セシムルナリ年期ノ敷ハ一向大乗ノ戒法ニ闘ル事ユハアラズ云一五 式文に聞く十二年左経て式に依って修墜せし者には大法師位を慰賜し玉へ若其業具せやと雄固く山室を出でや 一十二年在経ば法師位を慰賜し玉へ云云又一式く能一言能行の者は山中に住せしめ衆主とし園の賓とす、能言或は能 行の者は園師園用として官符の旨により惇法或は園講師に任や云一ーとある卸ち解行双備の人は大法師位として山 中に止り得一の者卸業業不具の者も唯十二年を満したる者はその成績の如何を問はや法師位を慰賜し給へと云ふ にあるきればその下位にある法師位の人が利他の震保受すると云ふととは大師の相似以還不出慌の御言葉にも遣 するとと L たる、復賓際に俄受せし人無しと一宮へば全く他和の方便のみと考へられる、然るに霊室師は一十二年 不出山門の期間を党網戒堅持の初修業とし、十二年を漏せし後は必や四分戒を持すべしとれ久修業菩薩所持の戒 怒りと初修久修を法華の相絶ご妙判を以て轄通せられてゐる。 異流師は一紀の浦不満と四分戒の受と不受とに依って初修久修を分別せや業の成と不成とに依って初修久修を 分 う も の ・ な り と 言 。 て ゐ る 。 9 山家安楽紛争の中心問題に就て 一 八 七
日 本 偽 教 皐 協 合 年 朝 刊 ︵ 第 十 三 年 ︶ 一 八 八 10 ケ 一 ︶ 暫 隔 の 異 義 者 編 に 一 式 く 大 小 相 隔 ノ 相 隔 令 v修トノ玉フハ本皆ソノ人ヲ隔ツル事ナリ由テ論ノ中倉−一ハ今依ニ法華制−暫隔 v求二小因−トノ玉へ習求メ手ヲ隔ルナレパ人ノ方ナル事分明ナリ同様ノ義ヲ意得置カズシテ隔小トサへ云ヘパ皆 小戒ヲ隔ツル事ト思ハル、故不時ナル料簡ガ出テクル事ナリ云云 弾妄録に一式︿論文ノ縮瞳ヲ見テ暫ノ字ノ封シドコロヲ知ルベシ額戒論一部三巻百四十亙需ノ中−一テタック一ツ ノ暫字ヲ取
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出シテ詮トセラル、ヤ云云 暫く相隔っとは一十二年跡を山林に遜て遠く世塵を隔つの謂である、その大行の如き悌地に至る迄であって得 巣以前は専ら大行に位するのであって果後機を鑑み償受引導するに望むればとれ暫く怒りと言ってゐる。 ︵ ホ ︶ 得 業 の 解 尺 の 相 違 式文に得業以後利他之故保受ユ小律儀−許三慣住ニ粂行寺−と、その得業に就て式文を見るに固く一十二年を経て 式に依って修畢せば大法師位を慰賜し玉へ若その業具せ・?と睦聞く山室を出でやして一十二年を経ば法師位を慰 賜し玉へとあれば、十二年を経れば得業と稿するととを得たりとも解轄する事を得べし、此義に依って一紀佐山 者を初修業とし紀後利他の儀怒るものを久修業’とするは宰師なり、然れども得業とは不壊信を得たる高位に就て 一言ふととにして紀満に約するととでは無いと主張するのが異流師である、然らば久修業菩薩借とは宗祖の理想で あって利他椴受は昼論に蹄せざるやと云ふに、始行の菩薩は安柴行品の規則により但以大法答の化他に依るペし、 初心の聞は小機に示同して化他益物ずる事は不可能怒りとの見解である、固定位一すは要するに宰師は支那天台に於け る固戒即ち法華玄義なE
三大部に明し玉へる五戒十戒具足戒皆是樺詞初、と云ふととるに基礎を置て宗祖の固戒を眺るが故に、宗祖の国戒は一往相待判であっても再往は絶待聞で汝等所行是菩薩道と開合された鹿が法華の最も 勝るる慮たるが故に、宗祖の初修業主冨へるは一往にして久修業保受と建玉へるが再住友れば四分粂事が絶待戒 で究意の異賓義怒りと云ふにある。 員流師はとれ等の設に劃して四分粂壌を絶待戒とし員賓義とする事は背組の妄談であると徹頭徹尾日本天台は 純大乗戒を以て宗祖の園頓戒とするものであって相絶の差別は全く無い、大師曾て僧統の難を通じて汝等所行是 菩薩道官とはとれ漸悟行なり、大師の建立の如をは直に固を設て以て固棋を撮むるが故に開舎破躍を須むや頓悟行 であると誠一べられ、偲受小戒と云ふ制度は全く他和方便の震のみと一言ってゐる。 結局支那天台を基礎とすれば空師の設が絡始一貫して高植の意に叶へるものと一式べ︿、復日本天台を元とすれ ば真流師の設が組意に合致する貼の多いととが認められる、而し何れにしても徹底を献くきらゐが無いでも友 ぃ、との事に就て三井の敬光律師は相絶と云ふ事は法華の上に就て一宮ふととで既に四ケ血肱の相承が別である、 法華の相待絶待を以て固戒を批判するととは不首であると言ってゐる、但し天台法華宗と一宮ふ宗骨に約する場合 は別であると述ペてゐる、普通正依法華傍依費網と云ふも、今謂所は党網と言はや菩薩戒経と稿するととであ る、宗祖の将来録にも金字の菩薩戒経一巻とあり、天台の戒疏には別部の外の故に菩薩戒経と稽すと、副党網六 十一品中の一品と云ふべからざるが如し、華巌の法戴は党網疏に於て惇語に就て漣て一宮く、印度持ユ菩薩戒−者無 v不 エ 皆 諦 − 子 時 沙 門 書 融 道 群 等 八 百 飴 人 請 ニ 羅 什 一 受 ニ ザ 耳 口 薩 戒 日 止 此 発 網 経 最 後 什 白 調 出 而 共 諜 v之止録ニ下巻之中偶 預己後所設戒相−矯二巻−云云、天台戒疏一民く態敷ござ一三複と一式び誓願弘宣旨趣深玄等と云へば普通の翻語と異 る事を察するととが出来る、仁語録に依れば菩薩戒本一巻あ一り什師語闘本目中左あり云一耳ととれ
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しく天台所覚 11 山家安祭紛争の中心問題に就て 一 八 九日 本 偽 教 挙 協 合 年 報 ︵ 第 十 三 年 ︶ 一 九 O 12 の戒経放りと一式ふ、然らば党網と一巻の戒経との関係如何と一式ふに、賓導上人仁宰師は永徳記に於て左の如く述 ぺ て ゐ る 。 什師諦此
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下 二 名 ぃ 山 怠 町 十 一 位 菩 陸 行 払 乱 下 念 レ l 重 四 十 八 抵 菩 薩 戒 枠 内 明 也 比 一 ハ 十 一 品 中 一 口 町 川 崎 砕 正 武 一 品 也 何 序無流通無経テ有也乱抵別部外稽ニ菩躍戒紘一止龍一切義理所 v閥不 v可 v 有 序 正 流 通 コ 民 島 可 エ 周 備 一 止 今 戒 蜘 向 上 下 爾 巻 市 明 下 念 私 自 山 時 華 巌 能 紘 飼 料 そ 一 氏 常 方 低 説 記 一 v 属 品 恥 札 別 被 v 橋 ニ 菩 薩 戒 師 向 弘 幸 巌 部 所 瓶 一 々 等 般 五 所 問 問 一 払 v被 v 一 五 恥 故 純 国 一 賓 法 華 意 向 還 法 華 開 額 至 極 専 付 エ 此 経 一 一 吋 ニ 習 極 一 一 古 一 ー と 卸 雨 傘 経 の 下 巻 と 一 式 ふ 時 は 華 厳 の 結 経 と た り 一 巻 経 と 一 式 ふ 時 は 法 華 の 純 固 に 踊 入 す る と 述 べ て ゐ る 、 蕊に注硯すべきととは雨巻経の下巻と云ふ時は別敬一一飛の相待と な り 一 巻 経 と 一 再 ふ 時 は 絶 待 と 怒 る と と で あ る 、 と の 義 に 就 て 仁 丞 師 は 更 に 述 て 一 宮 く 、 一 各 経 一 式 離 ニ 上 下 爾 巻 目 別 非 v有 v之
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序 一 菩 薩 階 位 一 工 貯 ニ 菩 薩 戒 法 二 氏 階 位 者 定 義 功 徳 也 戒 仇 ず 三 皐 随 一 ノ 戒 為W
階 払 戒 札 前 払 ス コ 一 撃 相 批 テ 乱 外 定 ユ ナ リ ト モ ノ ト ハ ノ f J ユ テ 慧別置意也華巌結経云山家傍依鷲網被 v見分粛也一品一審云時上巻階位下巻戒法蹄合那一戒光明外定慧功徳別可 ガ ノ v論物無一切悌法合那三草木洋戒韓也被 v一 宮 意 部 外 菩 薩 戒 経 略 一 宮 一 ー と 読 聾 し て ゐ る 、 上 巻 に は 菩 薩 の 階 位 を 明 す と 一 宮 ふは階位とは定撃の功徳を一宮ふのであって、下倉に菩薩の戒法を明すと一式ふは即ち戒たりとの戒定慧の三事友修 して弐第に轄迷開悟するに就て弐位階級と一宮ふ事を論やるのである。きれば戒と一式ふも定慧が家の戒にして心地 を明さんと欲する位の戒たるが故に雨傘と云ふ時は階位が本となるのであるが、一品一傘と一宮ふ時は一切悌法が 合那の一戒光明に蹄するととで法華疏には若正立二国戒−須 v指 ユ 賛 網 目 無 v非ニ具足っと設けるも、法華の外に別に正 依の義を成やるには非守して、法華正依の義を明むれば賛網正依の義に蹄するととである、何とたれば法華に一 一束戒至乃勤裂に四種戒を設かれし鹿合那の一戒光明であり正依法華と岨押せられたる外に正依党網と云ふ必要は無いのである、かく考へる時は法ケ禁綱の傍
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分つ必要もたく、相絶を論やるとともたく純一無雑の国頓戒と稀 するととが出来るのである。 宗祖の御理想は正しくとうし売御信念の許に、純菩躍の園土と述べ国機純熟と叫び給ひしものと考へられる、 支那天台が止観一部は大師の巳心中所行の法円であって法華の名字を夏へて設けるものたりと一再はど、日本天台 は正しく法華の名字をかへるに固頓戒を以てせられたものと去ふととを得ょう。 斯くの如く考る時は支那天台の範曙を以て日本天台を律するととは安営で無い、少くとも員流師の主張の方が 租 意 に 叶 ふ も の た り と 一 式 ふ と と が 出 来 る 。結
妙立霊丞二師が何故に四分余壊を唱道され支那天台に依漏出されしかを考察してみるに、その営時の教界は大明 院の宮より下されし令旨にもある如く、雨業の畢も慶れ紀誓の住山者も皆無であったと一宮ふ、徳川幕府の悌教保 護は借侶を安逸に流れしめたととヘ営時の叡山は一流相停とか玄旨蹄命とか云ふょうた邪設に走ったと一宮ふと とである、宥編にも左の如く述べてゐる。 道微エ〆教観の邪説大−一蟻ナルノミ=非ズ悌戒ヲ護ル事ヲ知ルモノ山内ニ一人モナクナリヌ云一耳、か L る吠勢 の中に在って遠く嘉頑の芳蹄に刺戟されてゐもん妙立霊窓二師は、営然巌正友る持律生活を以て匡救するに非ぎれ 13 ぱ蛍時の借風を匡正するととは不可能であるとの見透しより、四明天台に依る教界復古を企てらる L 共 に ム ロ 荊 の 租意に立脚せられしものと考へられる。 山家安祭紛争の中心問題に就て 大A日 本 働 教 皐 協 舎 年 報 ︵ 第 十 一 一 一 年 ︶ カー 14 かく推察する友らば四分粂畢の意も自ゃから首肯するととがでをる、妙富二師の私淑された大悲興正の二菩薩 は戒相とそ南山の四分律宗に依られてゐるが、大乗の教理を以て開舎し売ら議伽の大乗戒に立脚してゐるととヘ 戒坦も三重の土坦で三緊浮戒を表示し樺迦多費二伸を坦上に安置してゐるので所謂大小倶成の戒坦であると云ふ ととである、そとで叡山の戒坦は小乗を破斥しもん濁菩薩の戒坦であると一宮ふともとを舎遇する震には、官然天台の 相待判絶待開に蹄結せたければ怒らぬ鹿から、南都には開舎の戒は行はれてゐるが宗祖は一往濁菩薩戒を叡山に 弘め給ふも再住は絶待に蹄ずるもの友りとの信念に住せられしものと考へられる。 曾て墓武天皇が悌教友隼信せられたととは、南都六︷一部の教義そのものでは無くて、大悌殿前で行はれた授戒で あっ売と云ふと、.乙である、鎮護園家の要は戒律であるとの信仰であらせられたとゆふ、宗祖が純国頓戒を以て南 都悌教に代らんとせられたとと L 、空師が背組のそしりは菟れんにしても四分粂晶子を唱へて堕落せる教界を匡正 し、越宋天台を以て宗皐を盛らしめたととは似通ょった鮪があると L もにその功績は忘れて友らたい。