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大正大学研究紀要 97号(201203) 009星川啓慈「脳科学と宗教哲学を架橋する一つの見通し-心脳相互作用論と体験重視の宗教哲学との場合-」

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脳科学と宗教哲学を架橋する一つの見通し

はじめに

現 在、 脳 科 学 な い し 神 経 科 学( 以 下、 前 者 で 統 一 ) は 目 覚 ま し く 進 歩 し つ つ あ る。 fMRI (機能的磁気共鳴画像法) や PET (ポジトロン断層法) など、 高度な機器の出現で、 ある特定の心の状態や認知作業を遂行中の脳の活動パターンが観察できるようになっ た。たとえば、 ある人が 「道徳的推論」 「道徳的ディレンマ」 に関わっているときや、 「他 者への共感」を体験しているときなどの脳の活動を、リアルタイムで画像化すること も可能になってきたのであ る (( ( 。 この一方で、洋の東西を問わず、宗教体験を重視する宗教哲 学 (( ( も存在する。近年の 脳科学の進歩は、こうした宗教哲学にとって「脳科学は心や宗教体験の領域を侵食す るのではないか」という不安を引き起こすことも考えられる。その理由を一つあげる とすれば、脳科学の進展により、これまで、崇高な体験/修行によって得られる体験 /日常性と隔絶する体験などと見なされてきた宗教体験が、平板化され、いわばその 「有難味」とでもいうべきものが失われる可能性があるからだ。 ところで、脳科学と宗教哲学の関わりの捉え方は、おおよそ次の三つに分類できる であろう。①両者を対立的に理解するもの、②両者を次元の違う異質なものとして共 存させようとするもの、③両者を架橋しようとするもの。 本論文では③の視点から考察を展開する。その理由は次のようなものである。筆者 は、 こ れ ま で「 宗 教 言 語 ゲ ー ム 論 」「 言 語 的 宗 教 構 成 主 義 」 の 観 点 か ら、 ② に 近 い 立 場にたってきた。しかし、最近の脳科学の研究から刺激を受け、あくまでも試みとし てだが、③の立場を模索してみようと思うに至った。今後の宗教哲学の研究動向とし て、 ③がクローズアップされてくることは、 ほぼ間違いのないところであろう。また、 今回の筆者の試みの根柢には「言語という視点から何か新たなものを構想する」とい う従来の立場の継承もある。 本 論 文 で は 、種 々 あ る 脳 科 学 の 立 場 の 中 で も 、カ ー ル ・ ポ パ ー と ジ ョ ン ・ エ ク ル ズ の 「 心 脳 相 互 作 用 論 」 を と り あ げ 、 こ れ と 宗 教 哲 学 を 架 橋 す る た め の 一 つ の 見 通 し を 、「 言 語 」 を 鍵 と し て 提 示 し た い 。 そ の 理 由 は 、 私 見 で は 「 こ の 立 場 を と り あ げ る 以 外 に 、 現 在 の と こ ろ 、 脳 科 学 と 宗 教 哲 学 と を 架 橋 で き る 可 能 性 は 低 い 」 と 推 測 で き る か ら で あ る 。 そして最後に、 「神経宗教哲学」について短いながらも言及したい。

 

宗教体験と脳科学の対立

「 純 粋 経 験 」 と い う 言 葉 が 登 場 す る 西 田 幾 多 郎 の『 善 の 研 究 』 の 第 一 章 冒 頭 を 引 用 しよう(ここでは経験と体験を厳密に区別はしない) 。 経験するといふのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実 に従うて知るのである。純粋といふのは、普通に経験といって居る者も其実は何 等かの思想を交へて居るから、毫も思慮分別を加へない、真に経験其儘の状態を い ふ の で あ る。 例 え ば 色 を 見、 音 を 聞 く 刹 那、 未 だ 之 が 外 物 の 作 用 で あ る と か、 我が之を感じて居るとかいふやうな考のないのみならず、此色、此音は何である といふ判断すら加はらない前をいふのである。それで純粋経験は直接経験と同一 である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識と其 対象とが全く合一して居る。これが経験の最醇なる者であ る (( ( 。 氣多雅子によれば、 「〈未だ主もなく客もない〉のであるから、この知は知る主体に

脳科学と宗教哲学を架橋する一つの見通し

――

心脳相互作用論と体験重視の宗教哲学との場合

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(0 大正大學研究紀要   第九十七輯 属するわけではなく、人称によって規定されない」 (「人称」の問題は後ほど論じる) 。 また、純粋経験は「厳密な統一をもつ経験を指すと同時に、不統一までも含めた全経 験 を 指 す 」。 こ う し た 見 解 に も 反 映 さ れ て い る よ う に 、「 純 粋 経 験 」 は た ん な る 事 実 の 経 験 で は な い 。 し か し な が ら 、 純 粋 経 験 は 「 い わ ば 経 験 の 原 型 で あ り な が ら 、 現 実 に 経 験 さ れ 得 る 」 と か 「 す べ て の 人 間 に お い て 事 実 的 に 経 験 可 能 な も の で あ る 」 と さ れ る (( ( 。 右の引用で、西田は「純粋経験は直接経験と同一である」と明言しているが、これ らの経験においては知情意の区別がなくなる。また、彼は「事実そのままに知る」と いう表現を用いるが、これは「事実と認識の間にまったく隙間がない」ことを意図し た表現であ る (( ( 。 さらに、氣多は『善の研究』の解釈視点として、 「経験の直接性が尺度となる真理」 を 問 題 に す る が、 そ の 真 理 は「 〈 純 粋 経 験 の 事 実 〉 と い わ れ る と き の 事 実 の 事 実 性 に ほかならない」とする。そして、右に引用した西田の「自己の細工を棄てる」ことに 言及しながら、以下のように論じる。 「 自 己 の 細 工 を 棄 て る 」 と い う こ と は 見 る 者 と し て の 人 間 の 方 か ら 考 え る こ と の 放棄を意味している。その放棄を徹底することで、人間は究極的な所与としての あるがままの事実へと自らを開いてゆく。経験の直接性は「事実の真理」の基準 なのであ る (( ( 。 筆 者 が こ こ で 問 題 と し た い の は、 「 事 実 と 認 識 の 間 に ま っ た く 隙 間 が な い 」 と ど う して言えるのか、 「直接の経験」なるものを人間はできるのか、 「究極的な所与として のあるがままの事実」をわれわれは掴めるのか、などということである。 脳 科 学 者 か ら は、 「 対 象 を そ の ま ま 認 識 し た り 経 験 し た り す る こ と は あ り え な い 」 と言われるであろう。われわれが外界を認識/経験するとき、それをそのまま認識/ 経験するのではなく、感覚器官をとおして得られた情報を脳内過程で処理したものを 認識/経験する。このことを、V ・ マウントキャッスルの言葉を用いながら述べると、 次のようになる。 誰もが周囲の世界の中にじかに生き、物や事象をありのままに感じ、実在する現 在に生きていると信じている。私の主張はこれらが知覚の幻影であるということ である。なぜなら、われわれの一人一人が、二〇〇万~三〇〇万本の感覚神経線 維で「外界のそこ」にあるものと連絡している脳に由来した世界と対面している からである。これらの線維はわれわれにとって唯一の情報経路であり、実在への 生命線である。この感覚神経線維は高い忠実度をもつ記録器ではなく、ある刺激 の特徴を強調して、他のものを無視するものである。中枢のニューロンは求心性 の 神 経 線 維 に 関 し て は 噓 つ き で あ っ て、 「 外 界 」 と「 内 界 」 と の 緊 張 し た、 し か し同一形態の空間的関係の中で、質と量の歪みを許容するから、けっして全幅の 信頼はおけない。感覚は実在の世界からの抽象の産物であって、複製ではないの であ る (( ( 。 西田は『善の研究』を上梓する以前、 長年にわたり打坐に専心した。打坐を「瞑想」 といえるか否かには議論があるかもしれないが、両者には共通点も多いであろう。そ して、その最中には、周りとの一体感に包まれることもあろう。だが、この空間認識 を脳内における血流の変化と関連づければ、次のようになる。 二 写真1.瞑想時における左上頭頂領域における血液量の変化

( 後 掲 A. Newberg et al., “The Measurement of Regional Cerebral Blood Flow during the Complex Cognitive Task of Meditation : A Preliminary SPECT Study” ((9 頁より転載)

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脳科学と宗教哲学を架橋する一つの見通し 瞑想時の脳内における血流変化を研究したA・ニューバーグたちによると、瞑想時 に は、 空 間 認 識 に 関 与 す る と み ら れ る 左 上 頭 頂 領 域 の 血 流 量 は 減 少 す る と い う (( ( 。「 写 真1」を使用しながら説明すると、おおよそ次のようになる。瞑想時、前頭葉の血流 は左右とも (両側性に) 増えている (右上の図がベースライン時、 右下の図が瞑想時) 。 しかし、左上頭頂領域の血流はむしろ減少している(左上の図がベースライン時、左 下 の 図 が 瞑 想 時 )。 こ れ は、 次 の こ と を 意 味 す る。 左 上 頭 頂 領 域 は、 空 間 の 位 置 関 係 を統合する機能を持っているために、ここの領域の機能が落ちる(一方で前頭葉の血 流は増える)ことによって、空間に対する自らの位置感覚が変化する(自分の身体の 正しい位置が明確ではなくなる)ということである。一言で述べると、瞑想すること により左上頭頂領域の血流が減少し、空間に占める自らの位置感覚が不明確となる。 マウントキャッスルやニューバーグたち脳科学者の主張に対して、宗教体験と密接 な関係をもつタイプの宗教哲学は、脳科学に何らかのスタンスをとる必要がありはし ないか。もちろん、 脳科学の知見は一切無視するというのも、 一つのスタンスである。 しかしながら、昨今の欧米の研究動向を踏まえれば、脳科学の成果を無視することに もそれなりの理由が必要だと思われる。マウントキャッスル流に「物や事象をありの ままに感じ、実在する現在に生きているというのは、知覚の幻影であるから、西田の 純粋経験/直接経験も幻想である」とか、ニューバーグ流に「坐禅中の体験は、左上 頭頂領域の血流が減少し、左上頭頂領域が関与する空間認識の機能が落ちた状態であ る」などと言われると、右のタイプの宗教哲学者はどのように反論するだろうか。 西田の場合には、主観と客観の二元論を超克することに主眼がおかれているのだか ら、主観客観の二元論のうえに成立する脳科学からの批判は、西田に対する批判には ならない、という意見もあろう。また、自然科学が説明するものと、われわれが実際 に感じるものとの間には、質的に異なるもの/次元を異にするものがある、という意 見もあろう。たとえば、物理学には、われわれが経験する色も音も冷暖もない。そこ では、色は光子の振動数に、音は粗密波の諸性質に、冷暖は分子の運動になってしま う。われわれの体験記述と物理学の記述とは断絶しているのである。

 

ポパー=エクルズの『自我と脳』

一 九 七 七 年 、 ポ パ ー と エ ク ル ズ は 『 自 我 と 脳 』 を 著 わ し 、 話 題 と な っ た 。 哲 学 で は 、 デ カ ル ト 以 降「 心 身 問 題 」が そ れ ま で 以 上 に 論 じ ら れ る よ う に な り 、脳 科 学 で は「 脳 心 問 題 」 が 問 題 と な っ て い る 。 本 書 は こ れ ら 二 つ の 流 れ を 結 び つ け た も の と い っ て よ い (9 ( 。 『 自 我 と 脳 』 の 主 張 を 一 言 で い え ば、 「 自 我 と 脳 と は 独 立 し た も の で あ り な が ら も、 相互に作用を及ぼしあう」ということになろう。しかしながら、自我や心――文脈に よって、自我/魂/心/意識といわれるが、 「図2」 (後掲)にあるように、心や意識 の核心にあるものが自我/魂だと考えられる――といったものが掴みどころのないせ いもあり、 あくまでも二人の理論は仮説である。ちなみに、 ポパーは条件つきながら、 大脳構造ならびにその過程と、心の性向ならびに心的事象との関係をめぐる問題につ い て、 「 本 当 に 理 解 す る と い う 意 味 で、 こ の 問 題 が そ も そ も 解 決 さ れ る こ と な ど あ り えな い ((( ( 」と述べている。 また、エクルズは、物質的な脳一元論の考え方が主流であるなかで、物質的な脳と は 別 に「 自 我 」「 心 」「 意 識 」「 精 神 」 な ど の 非 物 質 的 な も の の 存 在 を 認 め る、 数 少 な い脳科学者である。それゆえ、 「現代脳科学者のデカルト」 とさえ言われることもある。 だ が、 エ ク ル ズ の 声 に 耳 を 傾 け れ ば、 「 脳 の 研 究 が 進 め ば 進 む ほ ど、 脳 の 神 経 活 動 と 精神現象のいずれもがその驚異をいっそう増しながら、両者は別の存在であることが 一層明らかになってきてい る ((( ( 」のである。 1   ポパーの三つの「世界」 心 脳 相 互 作 用 論( Mind-brain interact ionism ) の 射 程 は き わ め て 広 く、 宇 宙 の 成 立 から始まる。ポパーは「宇宙の進化」には次の六段階があるという――①重元素の生 成と液体と結晶の発現、②生命の発現、③感覚意識(動物意識)の発現、④自我意識 と死の意識の発現、⑤人間言語の発現と自我と死についての理論の発現、⑥神話・科 学理論・芸術作品などの人間の心の所産の発現。先取りしていうと、このうち、①② が「世界Ⅰ」 (物理的対象の世界)に、③④が「世界Ⅱ」 (主観的経験の世界)に、⑤ ⑥が 「世界Ⅲ」 (人間の心の所産) に属する。そして、 宇宙あるいはその進化は 「創造的」 で あ り、 意 識 経 験 を も つ 感 覚 的 動 物 の 進 化 は 何 か「 新 し い も の 」( 最 終 的 に は 人 間 の 自我意識や創造性)をもたらした。進化の過程で「想像できない、真に予測不可能な 三

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(( 大正大學研究紀要   第九十七輯 性質をもった新しい対象や事象」が生じたのであ る ((( ( 。 打ち込む修行者の内的体験や思考活動がある。世界Ⅲには、文化として受け継がれて きている禅の伝統(これは建築物や書物などにも反映されている)がある。 先に、 「これら 〔三つ〕 の世界は世界Ⅱを中心にして互いに密接に繋がり合っている」 とか「世界Ⅰと世界Ⅲとは、 世界Ⅱを媒介として間接的に結びついている」と述べた。 「繋がり合っている」 「結びついている」 という表現は、 正確にいうと 「影響しあう」 「作 用を及ぼしあう」ということである。三つの世界は、進化論的にいえば、世界Ⅰ→世 界Ⅱ→世界Ⅲと進化するわけだが、ポパー=エクルズは 後者から前者に 4 4 4 4 4 4 4 影響を与える /作用すると考える。この視点はひじょうに重要である。私見では、これこそが心脳 相互作用論の核心である。これについては、ポパーの「因果作用」の捉え方を参照し たい。 「 表 1」 は「 生 物 学 シ ス テ ム と そ の 部 分 」 を 示 し て い る が、 表 1 が 示 す も の は「 上 向 き の 因 果 作 用 」 の 原 理 と し て 特 徴 づ け る こ と が で き る。 還 元 主 義 の 立 場 に た て ば、 表1での因果の系列は「下から上に向かうだけであり、その逆は無い」ということに なる。だが、物理学では、マクロな構造である全体が、全体として、部分をなす光子 / 素 粒 子 / 原 子 に 作 用 で き る こ と が 発 見 さ れ た。 つ ま り 、「 下 向 き の 因 果 作 用 」 ― ― 高 次 レ ベ ル か ら 低 次 レ ベ ル へ と 向 か う 因 果 作 用 ― ― の 重 要 な 例 が 発 見 さ れ た の で あ る ((( ( 。 ポ パ ー に よ れ ば、 下 向 き の 因 果 作 用 は 物 理 学 の み な ら ず、 生 物 学 に も 適 用 で き る。 その例は、 生物とその生態学的システム、 そして、 生物の社会に見出される。たとえば、 四 ポパーの3つの世界 世界Ⅰ 物質の諸相 世界Ⅱ 各個人の心を成す意識 世界Ⅲ 文化の諸相 1 無機相 宇宙を構成する 物質とエネルギー 2 生物相 あらゆる生物体の 構造と働き (人間の脳を含む) 3 人工物 道具、機械、建造物、 あるいは思想、文学、 芸術などが表現され ている物体など 主観的な知識 知覚、思考、感情、 性向に起因する意図、 記憶、夢、創造的な 想像などの意識 (社会に還元されて 客観的に存在する知識) 哲学、神学、科学、 歴史、文学、芸術、 各種技術などを含む 文化の伝統 科学上の諸問題やその 他の学問的な課題に関 する理論体系など 生物学システムとその部分 ((() ((() ((0) (9) (8) (7) (6) (5) (4) (3) (2) (1) (0) 生態系のレベル 後生動物と植物の個体群のレベル 後生動物と多細胞植物のレベル 組織と器官の(また海綿生物の?)レベル 単細胞生物の個体群のレベル 細胞と単細胞生物のレベル 細胞器官(と、たぶんウイルス)のレベル 液体と固体(結晶) 分 子 原 子 素粒子 準素粒子(sub-elementary particles) 未知:準=準素粒子(sub-sub-elementary particles)? 進化の過程で⑤が発現したあ た り か ら、 「 三 つ の 世 界 」 と い う 区 分 が で き る よ う に な っ た。 「 図 1」 は ポ パ ー の 三 つ の 世 界 を図式化したものである。 図中、 脳は 「世界Ⅰ」 の2の 「生物相」 にある。彼によれば、実在は三 つの世界に分かれる。 すなわち、 物質とエネルギーから成る物理 的存在である世界Ⅰ、心あるい は意識を形作る世界Ⅱ、文化の 諸相(社会に還元されて客観的 に存在する知識)を形作る世界 Ⅲである。これらの世界は、図 中に双方向の矢印で示されてい るように、世界Ⅱを中心にして 互 い に 密 接 に 繋 が り 合 っ て い る。そして、われわれの心を成す世界Ⅱは、物質的な世界Ⅰと非物質的な世界Ⅲの両 方とかかわり合いながら、各個人の人格を表現しているのである。言いかえれば、世 界Ⅰと世界Ⅲとは、世界Ⅱを媒介として間接的に結びついているのである。 世界Ⅲについて補足しておこう。世界Ⅲは客観的に存在する知識の世界であり、そ こには、科学・文学・芸術など、人間のもつ文化のすべてが、言語その他に還元され た形で存在する。それが文書なら、紙やインクは世界Ⅰの存在物だが、記されている 知識は世界Ⅲに属する。絵画や音楽作品や彫刻についても同じことで、表現の手段が 違っているだけである。一言でいうと、世界Ⅲは、過去から現在にいたる人類文化の 所産から成る。そこには、意思伝達のための言語や、各人の行動を支配する価値体系 や、これらについての議論が、きわめて重要な意味をもつ要素として含まれ る ((( ( 。 宗 教 は 三 つ の 世 界 の す べ て と 関 わ り を も つ。 禅 / 禅 宗 を 例 に と れ ば、 世 界 Ⅰ に は、 寺院や禅堂などの建築物や物体としての禅書などがある。世界Ⅱには、作務や坐禅に 図1. (後掲エックルス=ロビンソン『心は脳を超える』(9 頁より転載) 表1. (後掲ポパー=エクルズ『自我と脳』(( 頁より転載) 電力供給のような基幹産業(高 次 レ ベ ル ) で の ス ト ラ イ キ は、 多くの個人(低次レベル)に多 大な苦痛を引き起こす。動物の 死(高次レベル)は、時が経つ につれ、細胞をもふくめたその 構成部分の死(低次レベル)を もたらす。さらにいうと、諸レ ベルは直接/間接に相互に作用 しあう。ここから、当然、物質 的世界Ⅰと心的世界Ⅱは相互に 作 用 を 及 ぼ し あ う こ と に な る。

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脳科学と宗教哲学を架橋する一つの見通し そして、世界Ⅱを形作る心や自我が「実在する」といえるのは、それらが世界Ⅰを形 作る物質的世界に何らかの影響を及ぼすからであ る ((( ( 。すなわち、心や自我がまず脳に 作用し、脳から身体に指令がもたらされ、それにしたがって、身体は世界Ⅰに変化を 及ぼすことになる。 2   エクルズの「連絡脳」 脳 科 学 者 の 澤 口 俊 之 に よ れ ば、 脳 科 学 の 立 場 は「 心 は 脳 の( 特 殊 な ) 活 動 で あ る 」 というものである。さらに詳しくいうと、心は、あるニューロン集団がつくる特殊な 神 経 シ ス テ ム の 動 作・ 活 動 に よ っ て つ く ら れ る も の で あ り、 「 心 と は、 脳 内 の 特 殊 な 神経システムの活動・プロセス」なのであ る ((( ( 。彼が「脳の活動・プロセス」という限 り、心/自我はデカルトのような実体として存在するものではないことになる。 一般に脳科学者は一元論(脳一元論ないしその変形版)の立場に立つので、エクル ズの立場は、脳科学者としては例外的なものである。彼は、くり返しになるが、脳と 独立に存在する心/自我を想定し、それが脳と相互作用するとみなす。デカルトの心 身二元論もあるので、発想的にはエクルズに独自性を求めることは難しいかもしれな い。だが、 澤口によると、 エクルズがほかの二元論者と異なっているのは、 「心(自我) と脳が作用する具体的な脳領域を神経科学のデータをもとにして特定したこと、そし て、その作用様式を科学的な言葉・概念で語ったこ と ((( ( 」である。私見では、澤口のい う「心(自我)と脳が作用する具体的な脳領域」が「連絡脳」だと推測できる。そし て、これが心脳相互作用論の核心にある。つまり、心と脳の接点が連絡脳なの だ ((( ( 。 心脳相互作用論にしたがうと、脳と心は互いに独立しながらも相互に影響を及ぼす のであるが、この二つのものはどこでどのようにして結びつくのだろうか。デカルト の難問は、非延長的な自我がどのようにして延長的な身体に作用をおよぼすことがで き る の か、 で あ っ た。 ポ パ ー の 言 葉 で は、 「 あ ら ゆ る 物 理 的 原 因 が 本 質 的・ 必 然 的 に 機械的な押しに基づいた時計仕掛けのメカニズムをもつ物理的世界に対して、非物質 的な霊魂がどのように働きかけることができる か ((( ( 」であった。これを脳科学に置き換 えると、 心/自我がどうして物体である脳に作用を及ぼすことができるのか、 となる。 それができるのは、 「連絡脳」なるものが存在するからである。 お そ ら く、 多 く の 脳 科 学 者 に は「 連 絡 脳 」 な る 概 念 は 受 け 入 れ ら れ な い で あ ろ う。 なぜなら、 脳一元論(ないしその変形版)を採用する限り、 心は存在しないのだから、 そ れ ら 二 つ を 連 絡 す る も の( 連 絡 脳 ) な ど 不 要 で あ る し、 存 在 し え な い か ら で あ る。 しかし、エクルズはこれに固執する。 「 図 2」 は 人 間 の 心 と 脳 の 相 互 作 用 を 表 わ し た も の で あ り、 矢 印 は 情 報 の 流 れ を 示 している。世界Ⅱは、われわれ各個人の意識の世界、つまり自我意識をもつ心の世界 を 指 す。 「 五 感 の 意 識 」「 内 面 的 な 意 識 」、 そ し て、 こ れ ら を 一 つ の 人 格 の 中 に 一 体 化 す る「 自 我 」、 つ ま り 個 人 の 精 神 を 主 体 的 に 統 一 す る 根 源 的 な 実 在 と し て の「 魂 」 と い う 三 つ の 要 素 が あ る。 下 の 世 界 Ⅰ と は 物 質 的 世 界 の こ と で あ り、 目 下 の 脈 絡 で は、 脳も物質から成り立っているがゆえに、心と直接連絡する連絡脳を指す。その連絡脳 は、モジュール――大脳皮質の広い部分を占め、数千の神経細胞の機能的な単位集団 ――をおそらく百万以 上 ((( ( 有しており、われわれの心は、この連絡脳に向かって「開い た」モジュールを介して、物質界との相互作用を営むのであ る ((( ( 。 エクルズによれば、 脳はいわば一種のコンピュータである。脳は、 そのプログラマー であるわれわれの心たる世界Ⅱと、われわれの身体およびその外界とからなる世界Ⅰ とのあいだで、両方向の連絡役を務める。これは次のようになされる。まず、何百万 図2. (後掲エックルス=ロビンソン『心は脳を超える』(( 頁より転載) 本もの神経線維を通じて脳に送り込ま れてくる感覚情報が、脳の複雑な神経 機構の働きによって、心に読みとられ る形にパターン化される。 それを、 時々 刻々と読みとりながら、われわれの心 は知覚・思考・記憶など、あらゆる内 的体験を実現していくのである。しか も、心は神経機構からただ受動的に情 報を受け取るのではない。心は、その 時々の興味や関心に従って、情報を自 由に選択するのである。さらに、心は 脳 の 神 経 活 動 を 支 配 す る こ と が で き る。すなわち、われわれが何らかの随 意運動をおこなったり、脳の記憶貯蔵 庫から何らかの情報を引き出したりす るときには、心が連絡脳を介して脳の 五

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(( 大正大學研究紀要   第九十七輯 しかるべき神経機構に働きかけることによって、目的を達成しているのであ る ((( ( 。 さらに、 重要なことを付け加えると、 脳でおこる事象はあくまでも幾百万のモジュー ルで生じる神経活動の寄せ集めであり、意識の世界で起こる一体化された事象とは根 本から異なる。すなわち、内的体験の一体化は心が行なうのであって、大脳皮質の神 経機構が行なうのではない、ということであ る ((( ( 。先ほどエクルズの言葉を紹介したよ う に、 「 脳 の 研 究 が 進 め ば 進 む ほ ど、 脳 の 神 経 活 動 と 精 神 現 象 と は 別 の 存 在 で あ る こ とが一層明らかになってきている」のである。

 

脳科学と「人称」という問題

前節に出てきた「興味や関心」 「情報を自由に選択する」 「神経活動を支配する」な どという表現は、いうまでもなく、われわれの主体性/自由意志と深い関係にあるだ ろう。近年、脳科学者の間でも「自由意志」をめぐる議論がさかんになってきている ように見受けられる。 『 自 我 と 脳 』 の な か で も、 B・ リ ベ ッ ト に は か な り の 言 及 が あ る が、 彼 ら の グ ル ー プ が 行 な い 大 き な 反 響 を よ ん だ、 次 の よ う な 実 験 が あ る ((( ( 。 リ ベ ッ ト た ち は、 「 手 を 動 かそう」という自由意志と、 手の動きに先立つ準備電位の時間的な関係を問題にした。 そ の 結 果、 「 手 を 動 か そ う 」 と い う 意 志 は、 運 動 準 備 電 位 が 現 わ れ 始 め て か ら 数 百 ミ リ秒たって、あるレベル以上に運動準備電位が大きくなった 後に 4 4 現われることが判明 した。少なくとも随意運動を起こす場合、 脳の活動が起きてから自由意志が現われる 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 のである。言いかえれば、自由意志は、運動のための原因ではなく、脳活動(運動準 備電位の蓄積)の結果として現われるのであ る ((( ( 。以上の事柄を一言でいうと、脳活動 が自由意志に先行する/自由意志は脳活動を後追いして生じる、 ということになる (た だし、リベット自身は自由意志を肯定している) 。 最近、G・ロートは、①こうしたリベットたちの実験、②われわれが選択意志にも とづく行動を行なう際に脳の中で進行している神経プロセスについての最新の脳科学 の知見、③「私が意志したのだ」という「意志の自由」の感情そのものが本人の主観 的な思い込みでありうる可能性などを根拠に、 「意志の自由」を否定し た ((( ( 。 中山剛史は、こうしたロートの主張を次のように要約している。 ロートは「人間の 主体性と志向性 4 4 4 4 4 4 4 かつまた社会性は、人間の生物学的自然を 超越 4 4 している 4 4 4 4 」あるいは「人間は自然や脳の機能 より以上のものである 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 」という多く の精神科学者や社会科学者たちの見解を根本から疑問視し、人間は脳によって完 全 に 決 定 さ れ て お り、 「 意 志 の 自 由 は 幻 想 で あ る 」 と 主 張 し て い る。 …… ロ ー ト は西洋の伝統的な自由観の前提となっている「意志の自由」の見方を「意志の自 由の強い概念」と呼んでいるが、そこには①「意識的に思考し行為する私は、 私 4 の意志の担い手 4 4 4 4 4 4 4 であり、 私の行為をひき起こした張本人 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 である」という〈行為の 自己起因性〉の面と、②「他の条件が同じ場合に、私がそうしようと意志しさえ すれば、 別のように行動しうる 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 」という〈行為の選択可能性〉の面との二つの要 素が含まれていることを指摘する。こうした二重の意味での「意志の自由」が前 提されることによって、はじめて行為の責任と帰責可能性とが問題になりうると い え よ う。 し か し な が ら、 ロ ー ト は こ う し た 意 味 で の「 意 志 の 自 由 」 を 否 定 し、 行動をひき起こしたのは「私」ではなく「脳」であり、私の行動は脳のプロセス によってすべて決定されているという脳決定論を主張す る ((( ( 。 ロートに対する哲学的な批判の論点の一つは、中山の表現をかりれば、 「〈私ではな く、脳が決断する〉という命題はカテゴリーミステークを犯している」というもので あ る。 つ ま り、 「 感 じ る 」「 意 志 す る 」「 決 断 す る 」 さ ら に「 宗 教 体 験 を す る 」 と い う 述語はあくまで一人称の内観的(=主観的)な観点からの記述にのみ妥当するもので あ っ て、 そ れ を 自 然 科 学 的 で 客 観 的 な 三 人 称 の 観 点 に お け る 記 述 に 適 用 し、 「 脳 が 感 じ る 」「 脳 が 意 志 す る 」「 脳 が 決 断 す る 」「 脳 が 宗 教 体 験 を す る 」 と 語 る こ と は 言 語 論 的に誤りである。一人称の「内観的=主観な観点」からの記述と、三人称の「客観的 な観点」からの記述とは、断絶しているのであ る ((( ( 。 「 脳 が す べ て を 決 め る 」 と い う ロ ー ト た ち の 主 張 は、 一 人 の 人 間 に お い て、 自 由 意 志があるかないかに関わるものである。しかし、いうまでもなく、これは第三者的/ 三人称的な主張である。 ここで、H・マトゥラーナの「パイロットの隠喩」を紹介したい。 パイロットは外界に出ることは許されず、計器に示された数値をコントロールす るという機能しか行わない。パイロットの仕事は、 計器のさまざまな数値を読み、 あらかじめ決められた航路、ないし計器から導かれる航路にしたがって進路を確 定していくことである。パイロットが機外に降り立つと、夜間の見事な飛行や着 六

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脳科学と宗教哲学を架橋する一つの見通し 陸を友人からほめられて当惑する。 というのもパイロットが行ったことといえば、 計 器 の 読 み を 一 定 限 度 内 に 維 持 す る こ と で あ り、 そ こ で の 仕 事 は 友 人( 観 察 者 ) が記述し表そうとしている行為とはまるで異なっているからであ る ((( ( 。 この隠喩を引きながら、野家伸也は「生命システム〔パイロット〕が見事に外的世 界に適応したという記述は〈外部の観察者〉の視点からなされた記述にすぎず、生命 システムは、それとはまったく別の行為を遂行しているのである」という。パイロッ トは外的世界と自己との関係を測りながら計器類を操作しているのではない。 むしろ、 野 家 の い う よ う に、 「 一 貫 し て 自 己 自 身 に 関 与 す る よ う な 作 動 し か 行 な わ な い 」 の で ある。パイロットの操縦室は完結した空間である。そこでは、 「〈外部の観察者〉が記 述する〈行為〉とはまったく異なる作動の連鎖が生じており、その連鎖がかたちづく る領域は〈外部の観察者〉が確認する〈客観的〉空間の中に位置づけられるものでは な い ((( ( 」。 ウ ィ ト ゲ ン シ ュ タ イ ン 流 に い う と、 パ イ ロ ッ ト が 計 器 類 を 操 作 す る と き の 言 語ゲームと、外部の観察者が飛行機の動きを記述する言語ゲームは、相互に独立した 異質な言語ゲームであり、これらを混同してはならないのである。 この考え方を先の「パイロットの隠喩」に適用すれば、一人称の観点で自分が行な う計器類の操作を記述するパイロットの言語ゲームと、三人称の観点で他人が行なう 飛行や着陸を記述する観察者の言語ゲームとの間には、 架橋しえない断絶があるのだ。 第一節では、脳科学の観点からは、マウントキャッスル流に「物や事象をありのま まに感じ、実在する現在に生きているというのは知覚の幻影であるから、西田の純粋 経験/直接経験も幻想である」とか、ニューバーグ流に「坐禅中の体験は、左上頭頂 領 域 の 血 流 が 減 少 し、 左 上 頭 頂 領 域 が 関 与 す る 空 間 認 識 の 機 能 が 落 ち た 状 態 で あ る 」 などと言える可能性を示唆した。このことを想起してほしい。 一人称的記述と三人称的記述をめぐる議論を、脳科学と宗教体験の関わり方に適用 すると、次のように言える。脳科学の宗教体験についての説明や記述は三人称の観点 に立つのに対して、宗教体験をしている者の自己了解や体験記述は一人称の観点に立 つ。そして、 両者の間には架橋できない断絶がある。これについては、 リベットも「物 理的な現象のカテゴリーと主観的な現象のカテゴリーとの間の説明のつかないギャッ プがある。物理的に観察可能な世界の決定論的特性に基づいて主観的な意識の機能や 出来事を説明することができるという想定は、思弁的な信念であって、科学的に証明 された命題ではな い ((( ( 」と論じているとおりである。そうだとすれば、 仮に 4 4 自然科学的 七 な 脳 科 学 が 進 歩 し、 宗 教 体 験 を 自 然 科 学 的 に 説 明 し 尽 く し た と し て も、 こ の 説 明 は、 一人称的体験記述と三人称的記述という二つの言語ゲームを混同するという、ウィト ゲ ン シ ュ タ イ ン が 厳 し く 禁 じ た 哲 学 的 誤 謬 で し か な い。 「 人 称 」 と い う 視 点 か ら は 、 こ の よ う に 、 脳 科 学 か ら 宗 教 体 験 な い し こ れ を 重 視 す る 宗 教 哲 学 を 擁 護 し う る の で あ る 。

 

三つの分類

物理主義的脳科学者、人称的アプローチを採用する(仮想の)宗教哲学者、心脳相 互作用論者の三者と、世界Ⅰ・世界Ⅱ・世界Ⅲとの関わりかたを整理すると、次のよ うになるだろう。①脳科学者は世界Ⅰの存在のみを認め、そのうえで世界Ⅱは物理的 なものに還元できるとみなし、世界Ⅲは存在しない(もしくは世界Ⅰに存在する)と 考える。②人称的アプローチを採る宗教哲学者は、三つの世界を認めながらも、世界 Ⅱと世界Ⅲとの間に断絶があるとする。③心脳相互作用論者は、いうまでもなく、三 つの世界の存在もそれらの間の結びつき/相互作用も認める。 ① の 場 合 は 、 宗 教 を ど の よ う に 解 釈 す る か と い う こ と と 不 可 分 の 関 係 に あ る が 、 宗 教 を 唯 物 論 的 な 視 点 か ら 捉 え な い 限 り 、 脳 科 学 者 は 、 脳 科 学 と 宗 教 哲 学 の 相 互 関 係 に 肯 定 的 な 態 度 を 示 さ な い で あ ろ う 。 し か し 、 も し も 宗 教 を 唯 物 論 的 に 解 釈 し う る ― ― た だ し そ の 解 釈 の 仕 方 は 定 か で は な い ― ― と す れ ば 、 脳 科 学 者 の 視 点 か ら 、 両 者 の 建 設 的 な 可 能 性 を 認 め る か も し れ な い 。 だ が 、 ほ と ん ど の 宗 教 関 係 者 は 唯 物 論 的 な 宗 教 解 釈 に 賛 成 し な い だ ろ う か ら 、 ① の 場 合 に は 、 脳 科 学 と 宗 教 哲 学 の 建 設 的 な 関 係 は 望 め な い 。 ② の 場 合 は、 「 人 称 」 と い う 視 点 を 持 ち 込 む こ と に よ り、 宗 教 体 験 を 脳 科 学 に よ る 一種の侵食から護ることができる。それと同時に、この視点に立つ限り、脳科学と体 験に重きをおく宗教哲学との間に断絶が生まれる(断絶があるからこそ、宗教体験を 脳 科 学 か ら 護 る こ と が で き る の で あ る )。 こ の 場 合 に も、 脳 科 学 と 宗 教 哲 学 の 建 設 的 な関係は望めない。 ③の場合、宗教哲学は「哲学」として世界Ⅲのなかに含まれている。また、宗教体 験は「体験」として世界Ⅱを構成する。つまり、宗教哲学も宗教体験も心脳相互作用 論の中に位置を与えられている。ゆえに、③の場合には、改めて、宗教哲学と脳科学 を架橋する必要はないことになる。

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(( 大正大學研究紀要   第九十七輯 このように見てくると、心脳相互作用論と宗教哲学とを架橋する可能性はきわめて 低いということになる。しかしながら、次節で紹介するエクルズの言語と脳の関わり についての見解に従うと、世界Ⅱと世界Ⅲとの間に断絶があるとみなす必要はなくな る。ここに、心脳相互作用論と宗教哲学とを架橋する可能性が生まれてくるように思 われる。

 

宗教哲学と脳科学を媒介する言語と脳の関係

②の場合のように、世界Ⅱの出来事である自己の宗教体験の一人称的記述と、世界 Ⅲ の 出 来 事 で あ る 脳 科 学 の 研 究 結 果 で あ る 三 人 称 的 記 述 と が 断 絶 し て い る と す れ ば、 「 心 脳 相 互 作 用 論 で ポ パ ー が 主 張 し て い る 三 つ の 世 界 の 相 互 の 結 び つ き が な く な る の ではないか」という疑念も出てこよう。しかし、人称という視点から、三人称的な脳 科学の記述と、一人称的な体験記述との繋がりを断絶させることには何らの問題もな いのだろうか。このような断絶で話を終わりにするのは簡単である。しかし、ポパー =エクルズの議論には見られなかった、 第三節での人称に関わる議論を踏まえた上で、 再度ポパー=エクルズの心脳相互作用論に立ち返りたい。 一 人 称 的 記 述 と 三 人 称 的 記 述 の 間 に 断 絶 を も と め る と し て も、 そ れ ら に は「 記 述 」 や「論証」という共通の要素がある。ポパーは、K ・ ビューラーの影響を受けながら、 言語には、①表出機能、②信号機能、③記述機能、④論証機能という四つの機能があ るとするが、なかでも③④は重要であり、人間言語にしか備わっていないとする。③ は、 ①②を前提として、 真または偽でありうる言明を作るということであり、 ここに、 真/偽の基準が導入される (この段階で、 噓/虚偽を内包する文 化 ((( ( が生まれる) 。④は、 ①②③に、妥当性/非妥当性という値をもつ論証を加えたものであり、最も高度な言 語機能である。③④の段階になると、初歩的な推論が見られるようになると共に、時 間や未来といった重要な抽象概念も生まれ、遂には、自らの精神活動の主体たる自我 を意識するようになり、死を認識するようになったのであ る ((( ( 。 エクルズは、こうしたポパーの議論を踏まえながら、脳と、言語によって表現され る以前の思考活動との関係について、次のように論じている。 私たちが心の中の何かの考えを言葉で表現しようとするとき、まだその言葉が口 に出されない段階でも、脳の然るべき部分のパターン化された神経活動が、然る べき言語表現の機能をになって心に連絡しているに違いない。この密接にして適 切な心‐脳相互作用に支えられて、 私たちは、 つまり世界Ⅱの主体たる私たちは、 世界Ⅰの事象である脳の神経活動と、それが形を与える世界Ⅲの事象である言語 表現のいずれをも観察しつつ、内なる思考の外在化を実現していくのであ る ((( ( 。 言 語 に よ っ て 思 考 が 客 観 化 さ れ る 以 前 に は、 「 脳 の 然 る べ き 部 分 の パ タ ー ン 化 さ れ た 神 経 活 動 が、 然 る べ き 言 語 表 現 の 機 能 を に な っ て 心 に 連 絡 し て い る 」。 す な わ ち、 言語と神経活動が、ウィトゲンシュタインの「論理形式/写像の形式」のようなもの ――これはその存在を実証することも否定することも不可能である――を媒介として 対応している、というのである。そして、エクルズに従えば、この「パターン化され た神経活動」によって、われわれの脳や心は言語以前的思考活動をおこなっているの である。 その言語以前的思考活動を具体化する言語は、三つの世界のうちどの世界にあるか といえば、第二節第1項の三世界論の説明や右の「世界Ⅲの事象である言語表現」と い う 部 分 か ら も 分 か る よ う に、 そ れ は 社 会 に 客 観 化 さ れ た も の と し て 世 界 Ⅲ に あ る。 そ し て、 エ ク ル ズ に よ れ ば、 「 言 語 は 文 化 の 諸 相 か ら 成 る 世 界 Ⅲ の 最 も 重 要 な 構 成 要 素であり、人格の成長をもたらす世界Ⅱと世界Ⅲの相互作用に中心的な役割を果たし てい る ((( ( 」とされる。 エクルズの言葉を引用したように、言語は世界Ⅱと世界Ⅲの相互作用に中心的な役 割を果たしているとするならば、このことは、一人称的記述と三人称的記述の間に断 絶をもたらした「人称」の問題を乗り越える可能性を秘めている。すなわち、世界Ⅱ と 世 界 Ⅲ が 言 語( 記 述 や 論 証 で 使 用 さ れ る 言 語 ) に よ っ て 結 び つ け ら れ る と し た ら、 人称は問題にならなくなると言えないだろうか。そして、人称が問題にならなくなる ということは、 本論文の議論の展開においては、 宗教哲学(体験を重視する宗教哲学) と脳科学(心脳相互作用論)を連結する可能性が生まれるということである。 た し か に、 「 一 人 称 の 内 観 的 = 主 観 的 な 観 点 か ら の 記 述 と、 三 人 称 の 客 観 的 な 観 点 か ら の 記 述 と の 間 に あ る 断 絶 は、 言 語 の 記 述 機 能 や 論 証 機 能 の 話 と は 次 元 が 異 な る 」 という考え方もあるだろう。だが、こうした考え方とはまったく異なる「言語」に定 位した観点から、 両者を架橋する可能性は皆無ではないと思う。 ただし、 そのためには、 エクルズのいう「私たちが心の中の何かの考えを言葉で表現しようとするとき、まだ 八

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脳科学と宗教哲学を架橋する一つの見通し その言葉が口に出されない段階でも、脳の然るべき部分のパターン化された神経活動 が、然るべき言語表現の機能をになって心に連絡しているに違いない」こと、すなわ ち「言語によって思考が客観化される以前には、脳の然るべき部分のパターン化され た神経活動が、然るべき言語表現の機能をになって心に連絡している」ことが実証さ れなければならない。 残念ながら、筆者はそうした研究成果を知らない。また、そうしたことを実証する のは困難であろう。だが、もしもそうしたことが確認されれば、体験を重視する宗教 哲学と心脳相互作用論の架橋から、新たな宗教哲学の展望が開ける可能性が出てくる に違いない。ただし、それがどのような展望になるかは、いかなる形で右の事柄が確 認されるかにかかっている。 以上で、本論文の目的(心脳相互作用論と体験重視の宗教哲学とを架橋する一つの 見通しを示すこと)はひとまず達成されたことになる。

おわりに

最後に、 「神経宗教哲学」について言及しておきたい。 現 在、 脳 科 学 の 発 達 が も た ら し た 知 見 に よ り、 脳 内 過 程・ 脳 の 機 能 と、 心・ 意 識・ 精神・体験・自我などとをまったく分離して考えることは、もはや不可能である。心 の働きは脳の働きと密接に関わっていることは否定できない。脳がなくてはいかなる 宗教体験もありえない。 本 論 文 で 取 り あ げ た エ ク ル ズ の 立 場 は、 「 心 脳 相 互 作 用 論 」 と 呼 ば れ る よ う に、 た し か に 心 と 脳 を「 二 元 的 」 に 捉 え て い る。 ま た、 彼 は「 脳 の 研 究 が 進 め ば 進 む ほ ど、 脳の神経活動と精神現象のいずれもがその驚異をいっそう増しながら、両者は別の存 在であることが一層明らかになってきている」と断言している。だが、本論文でも見 たように、エクルズが当時の最先端の知見を駆使しながら「連絡脳」なるものの存在 を認めていることは、 彼が「心も、 脳があって初めて、 その機能を十全に果たしうる」 と考えていることの証だと思われる。 宗教体験を重視する哲学者たちが脳科学に対していかなるスタンスを採るかは、人 によって異なるであろう。しかしながら、脳なしに宗教体験がもたらされないとすれ ば、 脳を視野に入れた宗教哲学、 つまり「神経宗教哲学」をそろそろ構想する時期に、 わが国の宗教哲学界はさしかかっているのではないか。言語という視点から、体験を 重視する宗教哲学と心脳相互作用論とが架橋できるとすれば、そこから、一つの―― というのは、種々のものが構想できるから――「神経宗教哲学」が生まれる可能性も あるだろう。広い視野から脳科学と宗教哲学とを包括するような新たなタイプの宗教 哲学の出現に期待しつつ、擱筆する。 (()M・ ジ ー ブ ズ = W・ ブ ラ ウ ン( 杉 岡 良 彦 訳 )『 脳 科 学 と ス ピ リ チ ュ ア リ テ ィ』 医 学書院、二〇一一年、三―四頁、参照。 (()宗教哲学には種々のものがある。たとえば、言語分析や論理学を駆使する宗教哲 学において、体験はそれほど重要ではないことも多い。 (()氣多雅子『西田幾多郎「善の研究」 』晃洋書房、二〇一一年、四九―五〇頁。 西 田 幾 多 郎 の「 純 粋 経 験 」 に つ い て は、 次 の 論 文 を 参 照 さ れ た い。 小 坂 国 継 「 純 粋 経 験 と は 何 か 」( 西 田 哲 学 研 究 会 編『 場 所 ―― 十 周 年 記 念 号 』 第 一 〇 号、 二 〇 一 一 年、 所 収 )。 以 下 に お け る 純 粋 経 験 の 解 説 は、 脳 科 学 と の 関 係 を 論 じ る ためのものであり、純粋経験そのものについての包括的説明ではない。 (()同書、第三章、第一節・第三節、参照。 (()同書、第二章、第四節・第七節、参照。 (()同書、一二六―一二七頁。 (()K・ポパー=J・エクルズ(大村裕・西脇与作ほか訳) 『自我と脳』 (新装版)新 思 索 社、 二 〇 〇 五 年、 三 八 四 ― 三 八 五 頁 に 引 用。 原 書 は 次 の 通 り。 K. R. Popper and J

. C. Eccles, The Self and Its Brain, Berlin, Springer

-V erlag, (9 (( . マ ウ ン ト キ ャ ッ ス ル の 文 献 は 重 要 な の で、 参 考 ま で に 挙 げ て お く。 V. B. Mountcastle, "The V iew from Within: Pathways to the Study of Percept ion,"

Johns Hopkins Medical Journal, v

ol. ((( , ( 9(( , pp. (09-((( . (()ニ ュ ー バ ー グ た ち の 論 文 の 提 供 と そ の 解 説 は、 旭 川 医 科 大 学 の 杉 岡 良 彦 医 師 に よる。記して感謝申し上げる。 A. New berg et al., "The Measurement of Reg ional Cerebral Bloo d Flow during the Complex Cognit iv e Task of Meditat ion: A Preliminary SPECT Study" in Psychiatry Research: Neuroimaging Section, vol. (0 (, 九

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(( 大正大學研究紀要   第九十七輯 (00 (, pp. ((( -((( . (9)当然のことながら、エクルズとポパーともに唯物論/物質主義に対しては否定的 である。ポパー流の言い方をすれば、現代においては「唯物論は自らによって超 越してしまった」のである。二人の唯物論/物質主義に対する執拗な批判につい ては本論文では割愛せざるをえないが、現代では唯物論/物質主義は成立しない の で あ る( ポ パ ー = エ ク ル ズ、 前 掲 書、 P 1 章・ P 3 章( 「 P 」 は ポ パ ー の 執 筆 であることを示す) 、参照) 。 宗教との関連では、エクルズは「神と超自然的なものを信じる」けれども、ポ パーは神については不可知論者である(同書、二頁、参照) 。 ((0)同書、一頁。 ((()J・ エ ッ ク ル ス = D・ ロ ビ ン ソ ン( 大 村 裕・ 山 河 宏 ほ か 訳 )『 心 は 脳 を 超 え る ― ―人間存在の不思議』紀伊國屋書店、一九九七年、六九頁。なお、 「エックルス」 と「エクルズ」は同一人物、 Eccles である。 ((()ポパー=エクルズ、前掲書、P1章、第七節、参照。 ((()エックルス=ロビンソン、前掲書、五八―六〇頁、参照。 ((()ポパー=エクルズ、前掲書、P1章、第七節、参照。 ((()同書、P1章、第七節・第九節、参照。 ((()澤 口 俊 之「 脳 と 心 の 関 係 に つ い て ―― A・ 神 経 科 学 の 立 場 か ら 」( 松 下 正 明 総 編 集『脳と行動』臨床精神医学講座第 ((巻、 中山書店、 二〇〇三年) 、二一七頁、 参照。 ((()同論文、二一五頁。 ((()ただし、ここには難問もある。デカルトは、心と身体の接点として、松果腺なる ものを考えた。しかし、松果腺が物体である限り、心がどうして物体に作用を及 ぼすことができるのか、という疑問は残る。これと同様のことが、連絡脳にも言 えるかもしれない。 ((9)ポパー=エクルズ、前掲書、二六八頁。 ((0)エクルズによれば、モジュールの数は大脳皮質全体で二〇〇―三〇〇万個になる と推定される(エックルス=ロビンソン、前掲書、七三頁、参照) 。 ((()同書、五三―五五頁、参照。 ((()同書、七二―七三頁、参照。 ((()同書、七六―七七頁、参照。 ((()リ ベ ッ ト の 研 究 に つ い て は、 例 え ば、 次 の も の を 参 照 さ れ た い。 ① B・ リ ベ ッ ト( 下 條 信 輔 訳 )『 マ イ ン ド・ タ イ ム ―― 脳 と 意 識 の 時 間 』 岩 波 書 店、 二 〇 〇 五 年。② B. Libet, E. W . W right and C. A. Gleason, "Readiness-potent ials Preceding

Unrestricted 'Spontaneous' vs. Pre-planned V

oluntary Acts," in Electroencephalogr

Clin Neurophysiol, vol. (( , ( 9(( .  ③ B. Libet, C. A. Gleason et al., "Time of Conscious Intent ion to Act in Relat ion to Onset of Cerebral Act ivity ( Readiness-potent ial ) : The Unconscious Init iat ion of a Freely Voluntary Act," in Brain, vol. (0 (, (9 (( . ((()澤口、前掲論文、二一九―二二〇頁、参照。 ((()中 山 剛 史「 現 代 の〈 脳 神 話 〉 へ の 哲 学 的 批 判 ――「 意 志 の 自 由 」 は 幻 想 か 」( 中 山剛史・坂上雅道編著『脳科学と哲学の出会い――脳・生命・心』玉川大学出版 部、 二 〇 〇 八 年 )、 一 四 三 ― 一 四 四 頁、 参 照。 中 山 は、 次 の よ う な 文 献 に 基 づ い て、 ドイツにおける自由意志をめぐる論争をめぐって議論を展開している。① G. Roth, Fühlen, Denken, Handeln: Wie das Gehirn unser Verhalten Steuern, Frankfurt am Main, (00 (.  ② G. Roth und K-J . Grün hg. Das Gehirn und seine Freiheit: Be itr äg e z ur n eu ro w iss en sc ha ftli ch en G ru nd leg un g d er Ph ilo so ph ie, G ött in ge n, (00 (. ((()同論文、一四二―一四三頁。 ((()同論文、一四六頁、参照。 ((9)野家伸也 「ヴァレラの反表象主義的認知観」 (前掲 『脳科学と哲学の出会い』 所収) 、 一二三頁。 ((0)同論文、一二三―一二四頁、参照。 ((()J・ ヒ ッ ク( 間 瀬 啓 允・ 稲 田 実 訳 )『 人 は い か に し て 神 と 出 会 う か ―― 宗 教 多 元 主義から脳科学への応答』法藏館、二〇一一年、三九頁。 ((()A・ホワイトゥンとR・バーンは、ヒヒの間に見られる「欺きのランデブー」に ついて報告している。これは 「嘘/虚偽を内包する文化」 と言えないこともない。 しかしながら、ジーブズとブラウンによれば、次のような問題がある。 若い雄と雌は自分たちがいかに賢明であるかを理解しているのだろうか。問 題の行為を隠す「計画に従って」行動しているのであろうか。雌自身は第一 位の雄 〔ボス猿〕 から見えるようにしていることを考えると、 第一位の雄が 「岩 一〇

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脳科学と宗教哲学を架橋する一つの見通し かげにいるのは雌だけだ」と勘違いすることを、多少なりとも計算している のであろうか。 (前掲『脳科学とスピリチュアリティ』七四頁、参照。 ) す べ て に お い て「 イ エ ス 」 で あ る こ と を 確 証 で き れ ば、 「 欺 き の ラ ン デ ブ ー」 は 「嘘/虚偽を内包する文化」と言えるだろう。しかしながら、 「イエス」であるこ とを確証する決定的な証拠はなかなか見つからないだろう。なぜなら、現在のと こ ろ、 ヒ ヒ の 意 識( つ ま り 右 の「 理 解 」「 計 画 」「 計 算 」) に 近 づ く 手 段 が あ り そ うにないからである。 最 近 の 類 人 猿 に 関 す る 研 究 に つ い て は、 ジ ー ブ ズ = ブ ラ ウ ン に よ る 前 掲 書 の 六九―七二頁を参照されたい。類人猿の言語運用能力がこれまで以上に知られる ようになっても、依然として、人間の言語運用能力とは大きな隔たりがあること に変わりはない。 ((()ポパー=エクルズ、前掲書、P3章、第一七節、参照。 ((()エックルス=ロビンソン、前掲書、一八〇頁。また、ポパー=エクルズの前掲書 の四五三頁にある、H - L・トイバーの重要な引用も参照のこと。 ((()同書、一五七頁。 付記―― (()引用にさいしては、ごく一部、用字などを変更した部分がある。 (()本論文は、土井道子記念京都哲学基金主催のシンポジウム「宗教哲 学の課題」 (二〇一一年九月一三日―一五日) における発表原稿 「今 後の宗教哲学と心脳相互作用説――エクルズとポパーの 『自我と脳』 をめぐって」に加筆したものである。 一一

参照

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