印度學佛敎學硏究第66巻第1号 平成29年12月 (195) ― 298 ―
空・不空如来蔵の伝承
―中国南北朝時代における『勝鬘経』諸注釈書を中心にして―
楊 玉 飛
1.問題の所在
仏教における空とは,時代や学派によってその意味内容が, 一定していないが,普通,固定的実体もしくは「我」のないことや実体性を欠い ていることを意味する.この概念は初期仏教以来用いられてきたものであるが, 大乗仏教になると,特に『般若経』や中観派によって強調され,さらに『勝鬘 経』の如来蔵思想と結びつき,空・不空如来蔵という概念を創り出した.『勝鬘 経』におけるその説明は簡単であるが,その諸注釈書では,種々に解釈が加えら れている.中国南北朝時代の仏教者たちが空・不空如来蔵をどのような視点や立 場から理解しているのか,ということを明らかにすることによって,その時代の 空理解が空思想の中国的伝承に占める位置を究明したいと思う. 2.空・不空如来蔵
『勝鬘経』の「空義隠覆真実章第九」で空・不空如来蔵に 関して, 世尊,空なる如來蔵は,若しくは離,若しくは脱,若しくは異の一切の煩惱蔵なり.世 尊,不空なる如來蔵は,恒沙を過ぐる,不離・不脱・不異の不思議の佛法なり.(『大正』 vol. 12, 221c16–18) と言う.つまり,『勝鬘経』自体はただ「空」を「煩悩を欠いていること」とし, 「不空」を「不思議なる仏法を欠いていないこと」としている.換言すれば,空 如来蔵は消極的,否定的な側面から如来蔵の内包を表すものであり,即ち如来蔵 は何々ではないということを指しており,不空如来蔵は積極的,肯定的な側面か ら如来蔵の内包を表すものであり,即ち如来蔵は何々であるということを指して いる. 3.各疏の理解
『勝鬘経』注釈書の多くは散逸している.幸いに近年敦煌文書 の中から南北朝時代の幾つかの写本が発見されたが,それらに対する研究はまだ 少ない.本稿で取り上げたのは,空・不空如来蔵の解釈部分が現存する四本の注(196) ― 297 ― 空・不空如来蔵の伝承(楊) 釈書1)である.それでは,中国南北朝時代の仏教者たちの理解を見てみよう. A. 慧掌蘊『義記』: 衆生仏性と如来仏性 衆生佛性・如來佛性の體は同じくして異なること無し.所以に衆生は當有,如來は已有, 故に種有るなり. 如來蔵智 とは如來佛性なり.… 如來蔵 とは衆生佛性,是れ一種な り. 空智 とは如來佛性,是れ二種なり. 空如來蔵 とは,若離・脱なる一切の煩惱蔵 なり.此は空智を解するなり. 不空如來[蔵] とは, 不思議佛性法 に訖るまで,此 は衆生佛性を明かすなり.(『大正』vol. 85, 259b11–20)([ ]内は筆者の補い.以下同様) とある.即ち,「衆生仏性」は本来無量なる如来の智慧功徳を具しているが煩悩 蔵を離れていないので,「当有」である.「如来仏性」は一切の煩悩蔵を離れてい るので,「已有」である.また空如来蔵は煩悩を離れており,不空如来蔵は不思 議仏性法を具しているとする.これは経の原意と同義である.更に,「衆生仏性 と如来仏性とは体同無異なり」と述べて,仏性のあり方に衆生仏性と如来仏性の 相違があるものの,本質的には両者は同じであるとする.つまり,「衆生当有」 とは,因位の立場から衆生は煩悩に染せられているが,成仏する可能性がある. 「如来已有」とは,果位の立場から衆生は如来になって,すでに「如来仏性」と なっていることを意味している.以上の分析から,慧掌蘊は二種仏性説をもって 空・不空如来蔵に当てはめており,そして彼の空・不空如来蔵に対する理解は経 の原意とほぼ一致していることが分かった. B. 無名氏『疏』: 真・僞二種相 初めより 不思議佛法 に至るは,直に真・僞の二種の相を明かす.二に 世尊,此二空 智 より以下は,人の優劣に就いて真實の義を顯わすなり. 空如來 とは,不實の名な り. 若離 とは,有生の相なり. 若脫 とは,有住の相なり. 若異 とは,有壞の相 なり.下の 不空如來蔵 は上を翻ぜば即ち是れなり2). まず,真・偽二種の相をもって空・不空如来蔵を理解している.さらに,「若 離」は「有生相」,「若脫」は「有住相」,「若異」は「有壞相」であるとする.つ まり,成・住・壊・空の四劫から空如来蔵を理解し,「生・住・壞」の過程は 「有為相」そのものであり,「不実之名」である. また,不空如来蔵と空如来蔵とは正反対の概念で,空如来蔵は「不実之名」で
(197) ― 296 ― 空・不空如来蔵の伝承(楊) あるので,不空如来蔵は「[実之名]」になる.また,「不実之名」は「有生相」・ 「有住相」・「有壞相」であるので,「不実」に対する解釈から「[実]」の意味を推 察すれば,「不離」は「[無生相]」,「不脱」は「[無住相]」,「不異」は「[無壞相]」 になる.つまり,無名氏は空・不空如来蔵を理解する時,経の原意を考慮せず, ただ正反対の概念(真実・虚偽)をもって解釈している. C. 照法師『疏』: 可空之法 空如來蔵 とは,煩惱は是れ空ずべき法の故に, 空如來蔵 と名づくるべし.煩惱は鄙 惡,捨を指すべきが故に 若離 と名く.易脱を得るべきが故に 若脱 と言う.變異を 得るべき[が故に] 若異 と言う.此の如きの法は未だ其の體を指せざるが故に,次に一 切の煩惱蔵を言うなり. 世尊 より以下は佛性を釋す.前に空と言うは,但だ其の相累 無きを い,而して體は妙有を極めるが故に.此より以下は説いて 不空如來蔵 と作す. 過於恒沙 とは,劫數を逕て體は斷離すべからざるが故に 不離 と云う.常住湛然にし て易脱すべからざるが故に 不脱 と言う. 不異 とは變易すべからず. 不異 等を言 うと雖も,其の状を指すが故に.次に 不思議佛法 を言うは是れなり.(『大正』vol. 85, 275a13–22) 即ち,煩悩を断尽する力を有するので,空如来蔵と称することができる.そし て,後の「若離」「若脱」「若異」に対する解釈が意味するのは,煩悩を徹底的に 断尽することはできると思われるが,衆生の状態は,未だ煩悩を断尽していない に過ぎないということである.この考え方は空如来蔵が本来一切の煩悩蔵を離れ ているという経の考え方とは少し異なっている.空如来蔵の定義とするよりは, 寧ろ「可空如来蔵」(空ずべき如来蔵)の定義としたほうがより相応しいであろう. 不空如来蔵に関しては,経の考え方とは変わりはないようである.即ち,「不思 議仏法」は「不可断」「不可脱」「不可変」の存在で,本来より恒河沙数を過ぎる 仏法を具備しているので,不空如来蔵と称している. D. 敦煌『本義』: 空・不空如来蔵の組合せ 第二に,空如來蔵を出だす. 世尊空如來 より已下は是れなり.即ち法身なり.空にし て煩惱無く,衆德を包薀するを,謂く空如來蔵なり.此は境を挙げて以て智を顯すなり. 第三に,不空如來蔵を出だす. 世尊不空 より已下は是れなり.未だ煩惱を離れざるが 故に不空と言う.此亦た境を挙げて以て智を顯すなり3).
(198) ― 295 ― 空・不空如来蔵の伝承(楊) と述べている.直接的に空如来蔵を法身としている.煩悩がなく,種々の仏功徳 を持っているのがその特性である.これは経に言う空如来蔵と不空如来蔵との特 性を合わせたものであろう.また,煩悩を離れないことを不空如来蔵とするの は,明らかに経に言う無量の仏功徳を具備するという特性とは正反対である. 4
.まとめ
経の原意では,空如来蔵とは煩悩を欠いていること,不空如来蔵と は恒沙の数を過ぎる佛法を欠いていないことである.それにも関わらず,中国仏 教者たちは自分の立場からそれぞれの解釈を提示している.無名氏『疏』は,経 の原意を無視して,ただ反対の概念(真実・虚偽)をもって解釈している.残りの 三疏の解釈は必ずしも一致していないが,共通する点は皆煩悩との関係で「空」 を解釈していることである.仏教では,空の体性を性空と称し,空の相状を相空 と称している.つまり,南北朝時代の仏教者たちは主に空を「相空」と理解して いる.これは明らかに隋唐時代の浄影寺慧遠や澄観などの「性空」から空を理解 するのと違う.この意味では,中国仏教における空の理解は「相空」(南北朝)か ら「性空」(隋唐)へと転換している流れが見える. 1)A.北魏正始元年(504)写 慧掌蘊『勝鬘義記』一巻(S.2660),B.六世紀中葉写 無 名氏『勝鬘経疏』(S.6388, BD02346),C.高昌延昌四年(564)写 照法師『勝鬘経疏』 (S.524),D.敦煌本『勝鬘義疏本義』(BD04224〔玉24,北113〕,BD05793〔奈93,北114〕). 2)青木他編2013, 418. 3)古泉1970, 109–110. 〈参考文献〉Johnston, E. H., ed. 1950. Ratnagotravibhāga Mahāyānottaratantraśāstra. Patna: The Bihar Research Society.
青木隆他編 2013 『蔵外地論宗文献集成続集』ソウル: 金剛大学校仏教文化研究所.
古泉圓順 1970 「敦煌本『勝鬘義疏本義』」『聖徳太子研究』5: 59–142.
〈キーワード〉『勝鬘経』,空,空如来蔵,不空如来蔵