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Vol.66 , No.2(2018)077岩﨑 陽一「詩的意味の美的知覚――新ニヤーヤ学派ジャガディーシャの暗示理論批判――」

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全文

(1)

詩的意味の美的知覚

―新ニヤーヤ学派ジャガディーシャの暗示理論批判―

岩   陽 一

1.

 はじめに―暗示理論と詩的コミュニケーション

インドの文芸理論,とくにドヴァニ・スクールと呼ばれる伝統において,言葉 には3種の意味作用(vyāpāra1)が認められている.それぞれ直接表示abhidhā

間接表示(lakṣaṇā),暗示(vyañjanā)と呼ばれる.よく用いられる例文 gaṅgāyāṃ

ghoṣaḥ(ガンジス河に牛飼村がある)という文で説明すると,語 gaṅgā は直接的に は《ガンジス河》を意味するが,ガンジス河の水の中に村があるということは通 常は考えられないので,直接的意味と結びついた比喩的な意味,すなわち《ガン ジス河の岸辺》を間接的に意味するとされる.さらに,この文を聞く者は,説明 的に「ガンジス河の岸辺に牛飼村がある」と言われる場合と異なり,ガンジス河 の岸辺の《清涼感》を鮮明に体験する.この《清涼感》も言葉から得られるが, それを聞き手に伝えるちからは,直接表示にも間接表示にもない.《清涼感》を 伝えるのは,この文の gaṅgā という語がもつ,暗示という第3の作用である2) 暗示されることがらは言葉の「意味(artha)」の一種であり,暗示理論はひとつ の詩的意味論であるといえる3).この意味論は,著者と読者の間に対称的な詩的 コミュニケーションを成立させる.優れた詩の言葉が言外の意味を伝えるのは, 詩人が「霊感(pratibhā)」と呼ばれる天才的能力により詩作を行うからである. 一方の読者は,誰もがその言外の意味を感取できるわけではない.同じく「霊 感」を具えた優良読者だけがそれを感取することができる.ここに,詩人が詩に 思いを込め,その思いを感受性豊かな読者が受け取る,というコミュニケーショ ンの構図をみることができる4) 本稿では,この暗示理論に対するひとつの批判として示される,新ニヤーヤ学派の ジャガディーシャ(Jagadīśa, 17C)の詩論を検討する.彼の詩論はŚabdaśaktiprakāśikā (ŚŚP) 第24偈の自 にて展開される.そこで彼は,暗示作用を間接表示に還元し, 或いは暗示的意味の理解を知覚の一種に還元して,詩的意味論に対立する.これ

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まで,反暗示理論としてはMahimabhaṭṭaやMukulabhaṭṭaの詩論書が詳しく研究さ れてきたが,ジャガディーシャの立場を仔細に検討するのは本稿が初めてであろ う5) 2.

 ジャガディーシャの詩論

新ニヤーヤ学派は一貫して暗示という意味作用を認めない.しかし,暗示作用 によらずに言外の意味の理解を説明する仕方には,個々のニヤーヤ学者により違 いがある.ジャガディーシャは,詩論家たちに知られるふたつのタイプの暗示作 用(「間 接 表 示 に も と づ く 暗 示(lakṣaṇā-mūla-vyañjanā)」 と「直 接 表 示 に も と づ く 暗 示 (abhidhā-mūla-vyañjanā)」)をそれぞれ批判することにより,暗示作用を想定する必 要性を否定する. 2.1. 「間接表示にもとづく暗示」の間接表示への還元 まず, mukhaṃ vikasitasmitam (顔に微笑が咲いている)という表現が検討される6) vikasita は《花弁の分離》つまり《咲くこと》を直接表示するが,「微笑が咲く」 という表現は意味を成さないので,《拡がること(vistāra)》に対する間接表示が理 解され,全体で《顔に微笑が拡がっている》という意味が得られる7).対論者に よれば,詩節の読者はこの間接的表現を理解した後,その顔がもつ《花との類似 性》をも認識するという.しかし,vikasita という語は《花との類似性》を直接 的にも間接的にも意味しえない.それゆえ,これを理解させるはたらきとして, 暗示作用が認められなければならない.このような,間接表示を用いる目的を理 解させる暗示作用は「間接表示にもとづく暗示」と呼ばれる.本稿冒頭に例示し た「ガンジス河に牛飼村がある」における《清涼感》の感取もこの暗示作用によ る. なぜ,《花との類似性》は間接表示によって理解できないのだろうか.対論者 は,ここでは間接表示を成立させる条件である「連関の不可能性の認識」が得ら れないと言う.どういうことかというと,広く認められている決まりに,間接表 示がはたらくのは,字義通りの理解では意味が通らない場合に限る,というもの がある.「微笑みが咲く」という表現が意味を成さないからこそ,「咲く」という 言葉から《拡がること》への比喩表現を読み取るのである.しかしいま,「微笑 みが拡がる」という意味はまったく問題なく成り立つので,そこからさらに間接 的意味を読み取る必要がない.したがって,間接表示のはたらきで《花との類似 性》の理解を説明することはできない.これが対論者の見解である8)

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ジャガディーシャはこれに対し,《花との類似性》の理解は間接表示によるも のとみなして問題ないとする.その論拠は大胆であり,間接表示がはたらくため に「連関の不可能性の認識」が必要であるという前提それ自体を拒む.字義通り に理解しても意味は取れるが,状況や文脈を踏まえて,比喩表現が使われている 可能性を考える,という認知手続きが起こりうると言われている9).したがって, 《花との類似性》や《清涼感》の理解のためには間接表示作用があれば充分であ り,暗示作用を認める必要はない. 2.2. 「直接表示にもとづく暗示」による意味理解の知覚への還元 次に検討される例文は,多義語の意味の取り方に応じて,複数の意味に理解す ることができる.

vayasthā nāgarāsaṅgād aṅgānāṃ hanti vedanām.

1. ハリータキーの実(vayasthā)は生姜(nāgara)と混ぜ[て使用する]と身体の痛みを 消す. 2. 若い娘(vayasthā)は都会の男(nāgara)との情交によって身体の痛みを忘れる. 釈によれば,第1の意味が先に,直接表示のはたらきにより理解される.そ して対論者は,第2の意味の理解は,直接表示・間接表示のいずれによっても説 明できないとする.この見解は,次のように理解できるだろう.まず,直接表示 による意味理解が成立するには,文脈等をふまえて指向(tātparya, 話し手の意図) 等を正しく理解しなければならないという決まりがある.しかし,文脈等を踏ま えると,若い娘の話がされるはずがない.よって,たとえ第2の意味が理解され たとしても,それは直接表示のちからにもとづくのではない.しかし,だからと いって,それが間接表示のちからにもとづくのでもない.語 vayasthā にとって 《若い娘》は間違いなく直接表示対象であり,比喩的な意味ではない.したがっ て,この第2の意味を理解させるはたらきとして,暗示―それは「直接表示にも とづく暗示」と呼ばれる―を認めなければならない.対論者は,おおむねこのよ うなことを言おうとしている10) これに対し,ジャガディーシャはまず,対論者の論述の誤りを指摘する.彼に よれば,「意味理解のために指向の理解が必要」という前提自体が誤っているか ら,第2の意味も直接表示のちからによって理解できるとして問題はない11).し かしこの見解よりも,いま注目したいのは,この後でジャガディーシャが述べる 「実のところは(vastutas tu)」ではじまるくだりである12).そこでジャガディー

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シャは,第2の意味の理解は,もはや言語理解ですらなく,マナスのみによる 知,すなわち一種の知覚であるという考えを示す.

詩文の意味を知覚する,という考えは容易には理解しがたい.それにも関わら ず,その知覚が具体的にどのようなプロセスによって得られるのか,ジャガディー シャは詳しく説明しない.ただ,想起された諸々の語意を,或いは語と語意を 「何らかの仕方で結びつけることによって(yathā kathañ cid upanayavaśena)」知覚でき ると言うだけである.「結びつけること(upanaya)」が具体的にどのような手続き を意味するのかは明らかでない. 釈者はこれを,特殊な知覚で用いられる「認 識としての接合(jñānātmakasannikarṣa=jñānalakṣaṇā pratyāsattiḥ)」のことと説明するが, その解釈の根拠は示されない.明らかなのは,ジャガディーシャは,文の言外の 意味を言語能力に依存せずに知覚経験できると考えているということだけである. なお,暗示的意味の知覚という発想はジャガディーシャ独自のものではない. 同様の発想が,暗示理論の最先鋒を行ったアビナヴァグプタ (Abhinavagupta, 11C)の Abhinavabhāratīにも見られる.彼は同書で,戯曲からラサ(美的情感)を感取する 認知プロセスを次のように説明する―「諸々の文から文意の理解が生じた後,マ ナスによる,直接知を本質とし,個々の文に由来する時間等の区分が削ぎ落とさ れた認識がまず生成される13).」まず文意を言語機能により理解し,次いで第2 認識を知覚により得る,という構造はまさしく両者に共有されている.ただし, ふたつの理論には決定的な差違がある.それは,ジャガディーシャは多義表現の 意味理解を問題としているのに対し,アビナヴァグプタは上掲の箇所でラサの感 取を問題としているという違いである.ラサの感取が言語理解ではなく一種の美 的知覚である,ということは理解しやすいが,これを多義表現の意味理解の分析 にそのまま適用するのは無理があるように思われる. 3.

 ジャガディーシャの詩論の帰結と問題点

以上がジャガディーシャの暗示理論批判の概要である.整理すると,彼はド ヴァニ・スクールが認める言葉の暗示作用のうち,「間接表示にもとづく暗示」 すなわち比喩表現による詩的情緒の表示についてはその作用を間接表示に還元 し,「直接表示にもとづく暗示」すなわち多義表現による副次的な意味の表示に ついては,その理解を非言語的な知覚に還元している. ジャガディーシャのこの理論は何を意味するのか.筆者は,この理論におい て,詩人と読者の対称的な詩的コミュニケーションが成立し得ないことに注目す

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る.まず「間接表示にもとづく暗示」について述べよう.暗示理論においては, 詩人が霊感によって込めた情緒を,読者が霊感で感取することが求められてい た.この枠組みは「センス(霊感)のない読者には詩は分からない」という前提 のもと,詩の言葉を別格にする.しかしいま,ジャガディーシャの理論におい て,情緒の感取は間接表示にしたがった,日常的・理性的判断にもとづくものと された.その理性的判断は,詩人の意図を唯一の正解として,それを導くための ものではない.ジャガディーシャは,間接表示にしたがう意味理解に課されてい た,「字義通りの理解では意味が通らない場合に限り間接表示を想定する」とい う縛りを解除し,読者が自由に間接的意味を理解することを許容する.それは, 日常的な文意理解においても話し手の意図は文の意味を決定せず,聞き手が自由 に文を解釈できる,という,ガンゲーシャが主張し,ジャガディーシャが忠実に 従う認識論にも合致する. ジャガディーシャが読者に与える解釈の自由は,「直接表示にもとづく暗示」 についても言える.このタイプの表現においては,第2の認識対象はもはや言葉 の「意味」ですらない.それは言語理解の認知機構によって理解されるものでは なく,知覚される対象である.この点はアビナヴァグプタにおいても同じなのだ が,アビナヴァグプタの場合,その知覚対象は言葉の暗示対象でもあり,それゆ えやはり詩人が言葉に託した「意味」でもあった.(アビナヴァグプタの論述を文字 通り受け取ると,言葉の意味を,言語能力によらず,知覚によって理解する,という奇妙な 構造が得られるように思われる.)しかしジャガディーシャの場合は,知覚により説 明できるならば暗示作用を想定する必要はないという論理で,知覚対象と言葉を つなぐ関係は否定される.どのような対象を知覚しようと,それは読者の自由で ある. しかし,ジャガディーシャのプロジェクトが成功するか否かは,彼が文芸作品 の鑑賞を合理的かつ網羅的に説明できているかという点にかかっている.そして 実際のところ,前述のように美的知覚の具体的プロセスは明らかでなく,また ジャガディーシャの論述はすべての美的体験を説明し尽くしてはいない.ドゥ ヴァニ・スクールのĀnandavardhanaが暗示の例として真っ先に上げた,「ここは 危険だから散歩するとよい」という言葉で「散歩してはならない」という意味を 暗示する表現や14),ラサを暗示する表現等は,ŚŚPでは扱われない.では,暗示 理論は論 されておらず,詩の自由な解釈・鑑賞はやはり許容されないのか.こ の問題は,他の新ニヤーヤ学者の詩論も精査してさらに検討したい.

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1) Kāvyaprakāśa (KP)第II章での表現である.

2) この例はKP第II章9偈の自 にもとづく.

3) artha という語は必ずしも言葉の「意味」を意味するとは限らないが,KPで暗示語 (vyañjaka)と暗示的意味(vyaṅgya)が導入されるときは「śabdaとartha」のペアを成す

ものとして導入されており,śabda と対比されるところの artha は言葉の「意味」を意 味するものとみなしうるだろう. 4) この構図は,たとえばアビナヴァグプタの次の箇所等に示唆されている. Dhvanyāloka-locana pp. 62–63: tatśaktitrayopajanitārthāvagamamūlajātatatpratibhāsapavitritaprati-pattṛpratibhāsahāyārthadyotanaśaktiḥ dhvananavyāpāraḥ. 5) 関連する先行研究としてはK. N. Chatterjee(1980)の英訳やP. C. Chakrabarti(1930: 334)の要約がある. 6) KP II v. 13自 に,この句で始まる詩節が引用されている. 7) これはKPに対する 釈に従った. 8) ŚŚP pp. 144–146. 9) ŚŚP pp. 146–147. 10) ŚŚP pp. 148–151. 11) ŚŚP p. 151. 12) ŚŚP pp. 152–154.

13) Abhinavabhāratī on Rasasūtra. 訳出箇所はDavid 2014: 128の校訂テキストにもとづく.

14) Dhvanyāloka p. 52. 〈一次資料〉

Abhinavabhāratī  Abhinavabhāratī of Abhinavagupta. In David 2014.   Dhvanyāloka   Dhvanyāloka of Śrī Ānandavardhanācārya with the Lochana & Bālapriyā Commentaries by Śrī Abhi-navagupta & Panditrāja Sahṛdayatilaka Śrī Rāmaśāraka. Ed. Pattābhirāma Sāstri. Kashi Sanskrit

Se-ries 135. Benares: Chawkhambhā Sanskrit SeSe-ries Office, 1940.   Dhvanyāloka-locana   Dhvanyālokalocana of Abhinavagupta. In Dhvanyāloka.   KP  Kāvyaprakāśa of Āchārya Mammata. Ed. Hariśaṅkara Śaramā. Kashi Sanskrit Series 49. 10th edition. Varanasi: Chaukhambha

Sanskrit Sansthan, 2003.   ŚŚP  Śabdaśaktiprakāśikā by Śrī Jagadīśa Tarkālankāra. Ed.

Dhundhirāj Śāstrī. Kashi Sanskrit Series 109. 3rd edition. Varanasi: Chaukhambha Sanskrit Sansthan, 1991.

〈二次資料〉

Chakrabarti, Prabhat Chandra. 1930. The Philosophy of Sanskrit Grammar. Calcutta: The University of Calcutta.

Chatterjee, K. N. 1980. Word and Its Meaning: A New Perspective in the Light of Jagadīśa s Śabda-śakti-prakāśikā. Varanasi/Delhi: Chaukhambha Orientalia, 1980.

David, Hugo. 2014. Time, Action and Narration. On Some Exegetical Sources of Abhinavagupta s Aesthetic Theory. Journal of Indian Philosophy 44: 125–154.

(平成27–29年度科学研究費補助金15J04441による研究成果の一部)

〈キーワード〉 alaṅkāra,vyañjanā,修辞学,意味論,暗示

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