• 検索結果がありません。

本日の日程 13:00 開場 13:00~13:30 受付 13:30 開会 13:30~13:35 あいさつ ( 鹿児島県立埋蔵文化財センター所長寺田仁志 ) 13:35~13:40 プロローグ 鹿児島の遺跡はおもしろい! ( 鹿児島県立埋蔵文化財センター文化財主事 國師 洋之 ) ( 鹿児島県立

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "本日の日程 13:00 開場 13:00~13:30 受付 13:30 開会 13:30~13:35 あいさつ ( 鹿児島県立埋蔵文化財センター所長寺田仁志 ) 13:35~13:40 プロローグ 鹿児島の遺跡はおもしろい! ( 鹿児島県立埋蔵文化財センター文化財主事 國師 洋之 ) ( 鹿児島県立"

Copied!
91
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

設立 20 周年記念フォーラム資料集

主催  鹿児島県立埋蔵文化財センター

「遺跡から見える

鹿児島の歴史と文化」

「遺跡から見える

鹿児島の歴史と文化」

(2)

13:00 開場 13:00~13:30 受付 13:30 開会 13:30~13:35 あいさつ(鹿児島県立埋蔵文化財センター所長 寺田仁志) 13:35~13:40 プロローグ 「鹿児島の遺跡はおもしろい!」 (鹿児島県立埋蔵文化財センター 文化財主事 國師 洋之) (鹿児島県立埋蔵文化財センター 文化財主事 益山 郁恵) 13:40~14:50 遺跡が語る鹿児島の歴史 -1- 薩摩焼と輸入された陶磁器 (鹿児島県立埋蔵文化財センター 文化財主事 関 明恵) 境界に位置した南九州 (鹿児島県立埋蔵文化財センター 第一調査係長 東 和幸) 火山地帯に暮らした弥生・古墳時代の人々 (鹿児島県立埋蔵文化財センター 文化財主事 川口 雅之) 14:50~15:00 休憩 15:00~15:50 遺跡が語る鹿児島の歴史 -2- 環境と共に生きた南の縄文人 (鹿児島県立埋蔵文化財センター 文化財主事 黒川 忠広) 火山灰台地に生きた狩猟採集民族 (鹿児島県立埋蔵文化財センター 文化財主事 馬籠 亮道) 15:50~16:30 対談 ~どう活かす 鹿児島の遺跡~ 児玉 ゆりえさん(遺跡サポーター) 寺田 仁志(鹿児島県立埋蔵文化財センター 所長) 堂込 秀人(鹿児島県立埋蔵文化財センター 調査第一課長) 16:30 閉会

(3)

本日は,鹿児島県立埋蔵文化財センター設立

20 周年記念フォー

ラムに,ようこそおいで下さいました。

20 年前の平成4年4月,鹿児島県教育庁文化課から,遺跡の発

掘調査や整理作業,遺物の収蔵や活用を目的として独立した埋蔵文

化財センターが,旧姶良町重富に設立されました。それから

10 年

後の平成

14 年に,霧島市国分の上野原縄文の森に移転しましたが,

その契機となったのは当センターの発掘調査により,上野原遺跡が

9,500 年前の縄文時代早期前半の日本で最古級かつ最大級の集落跡

であることが判明し,遺跡の保存及び周辺の施設設備がなされたこ

とによります。

また,この他にも,様々な遺跡の発掘調査によって,県内各地域

の歴史や文化が明らかになってきました。もちろん,これらの成果

は市町村や大学が実施した発掘調査,さらに個人の研究者の方々が,

人文科学・自然科学を問わず,たゆまぬ探究を続けてこられた成果

でもあります。

本日は,遺跡の発掘調査と同様に,地表面の新しい時代から徐々

に古い時代へ掘り下げることによって,鹿児島の歴史や文化の成り

立ちがどの様なものであったのかを紹介するとともに,今後の課題

についてもお示ししたいと思います。また,対談では会場の皆さま

方から,発掘された遺跡の活用方策や今後の埋蔵文化財センターの

あり方等について御提言をいただきながら,一緒に考えてみたいと

思います。

本日の記念フォーラムが,私たちの足下に眠る歴史をとおして,

地域の未来を創る契機になればと願っておりますので,どうぞよろ

しくお願いいたします。

平成

24 年 11 月 17 日

鹿児島県立埋蔵文化財センター

(4)

年表

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1

第Ⅰ章

遺跡が語る鹿児島の歴史

薩摩焼と輸入された陶磁器(関 明恵)・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5 境界に位置した南九州(東 和幸)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11 火山地帯に暮らした弥生・古墳時代の人々(川口雅之)・・・・・・・・・・・19 環境と共に生きた南の縄文人(黒川忠広)・・・・・・・・・・・・・・・・・27 火山灰台地に生きた狩猟採集民族(馬籠亮道)・・・・・・・・・・・・・・・33

第Ⅱ章

遺跡速報

調査遺跡地図(中村幸一郎)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・39 高吉B遺跡(富山孝一)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・40 下原遺跡(長﨑慎太郎)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・42 前原和田遺跡(有馬孝一)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・43 中津野遺跡(西園勝彦)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・44 芝原遺跡(関 明恵)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・45 天神段遺跡(黒川忠広)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・47 立小野堀遺跡(藤島伸一郎)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・49 荒園遺跡(中村耕治)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・51 田原迫ノ上遺跡(上床 真)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・53 永吉天神段遺跡(川口雅之)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・55 堀之内遺跡(抜水茂樹)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・57 山口遺跡(廣 栄次)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・58 河口コレクション(吉岡康弘)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・59

第Ⅲ章

センターのあゆみ

沿革(中村幸一郎)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・61 南九州西回り自動車道建設関係遺跡(西園勝彦)・・・・・・・・・・・・・・63 東九州自走車道建設関係遺跡(長野眞一)・・・・・・・・・・・・・・・・・65 九州新幹線建設関係遺跡(平木場秀雄)・・・・・・・・・・・・・・・・・・67 農業開発総合センター関係遺跡(中村耕治)・・・・・・・・・・・・・・・・69 一般国道220 号古江バイパス建設関係遺跡(國師洋之)・・・・・・・・・・・71 中小河川改修事業関係遺跡(万之瀬川)(富山孝一)・ ・・・・・・・・・・・73 地域高規格道路建設関係遺跡(上床 真)・・・・・・・・・・・・・・・・・75 川内川激甚災害対策特別緊急事業関係遺跡(有馬孝一)・・・・・・・・・・・77 開所記念・講演会(大久保浩二)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・79 壷形土器の発見(八木澤一郎)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・80 上野原遺跡現地公開(彌栄久志)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・81 上野原への移転(鶴田靜彦)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・82 上野原縄文の森と企画展(永濵功治)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・83 震災復興支援(大久保浩二・平美典)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・84 歴史のふるさと県民セミナー(黒川忠広)・・・・・・・・・・・・・・・・・86 お出かけ体験隊・出前授業(抜水茂樹)・・・・・・・・・・・・・・・・・・87

(5)

世紀 西暦 出来事 ~2012 九州新幹線全線開通 東日本大震災 ロンドンオリンピック ~2010 アメリカ同時多発テロ 九州新幹線鹿児島ルート開通 ~2000 湾岸戦争 ソ連解体 鹿児島大水害 阪神・淡路大震災     ~1990 鹿児島県歴史資料センター黎明館開館 「バブル経済」発生 東西ドイツ統一 ~1980 沖縄が日本に復帰する 列島改造ブーム 日中平和友好条約 ~1970 オリンピック東京大会が,開催される ベトナム戦争 大学紛争多発 ~1960 日米安全保障条約  奄美群島が日本に復帰する  テレビ本放送が始まる ~1950 太平洋戦争はじまる ポツダム宣言を受諾し,無条件降伏 日本国憲法公布 ~1940 満州事変おこる 日本,国際連盟を脱退する 日中戦争はじまる ~1930 関東大震災が起こる ラジオ放送が始まる 世界恐慌起こる ~1920 桜島大爆発で大隅半島と陸続きとなる  第1次世界大戦が起こる ~1910 鹿児島-国分間,鉄道開通 日露戦争が起こる 韓国併合,行われる ~1900 日清戦争が起こる 第1回国際オリンピック開催 ~1890 鹿鳴館ができる グリニッジ,標準時設定 第1回帝国議会が開催される ~1880 琉球が分離して琉球藩となる 西南戦争始まる エジソン,電球発明 ~1870 生麦事件 薩英戦争 戊辰戦争起こる 明治維新 ~1860 篤姫,鹿児島城に入る ペリー来航 磯御庭窯開窯 日木山皿山開窯 ~1850 稲荷窯開窯 岩永三五郎,西田橋完成 南京皿山窯開窯 お由羅騒動(嘉永朋党事件) ~1840 アメリカ商船モリソン号山川沖に来航   大塩平八郎の乱 中国でアヘン戦争起こる ~1830 イギリス人,宝島に上陸 調所広郷に財政改革主任を命ず ~1820 スチーブンソンの汽車,試運転 ~1810 ナポレオン,皇帝となる 伊能忠敬,薩摩藩領を測量 ~1800 島津重豪,『成形図説』の編輯を命ず     モーツアルト,没 ~1790 平佐天辰に皿山窯,弥勒に皿山窯開窯 フランス革命,起こる ~1780 アメリカ独立宣言 桜島安永の爆発  明時館(天文館)設立 ~1770 長田窯開窯 苗代川の藩窯御物窯を御定式窯と改める イギリス産業革命始まる ~1760 木曽川治水工事着手 大英博物館創立 ~1750 公事方御定書制定 ~1740 幕府,甘藷を試植 ~1730 将軍綱吉の養女竹姫,島津継豊に入輿 スウィフト「ガリバー旅行記」出る ~1720 大岡忠相を江戸町奉行に任命 ~1710 この頃,笠野原窯開窯 前田利右衛門が甘藷をもたらす イタリア人宣教師シドッチ,屋久島に上陸  ~1700 この頃,松尾芭蕉『奥の細道』 宮崎安貞『農業全書』刊 ~1690 「生類憐れみの令」   碗右衛門が龍門司窯を開く イギリス名誉革命 ~1680 碗右衛門が湯之谷窯を開く グリニッジ天文台設立 鹿児島大火 ~1670 小野元立が元立院窯を開く 五本松窯開窯 ~1660 徳川光圀,『大日本史』の編纂開始 ~1650 田畑永代売買禁止令 郷帳・国絵図・城絵図の提出を指令 「慶安御触書」 ~1640 那覇に琉球在番奉行をおく 島原の乱おこる 鎖国の完成 山ヶ野金山発見 永野金山開掘 ~1630 犬追物を再興し,島津家のお家芸となる 琉球で黒砂糖の精糖に成功 ~1620 大島奉行・徳之島奉行をおく 一国一城令 陶工を琉球に派遣する ~1610 鹿児島城築城開始 奄美・琉球の平定 ~1600 文禄・慶長の役 朝鮮陶工が串木野島原・市来神之川・鹿児島前之浜などに上陸 関ヶ原の戦い ~1590 南甫文之を招く(薩南学派の全盛期) 島津義弘,豊臣秀吉に降伏 ~1580 織田信長が安土城を築き,うつる スペイン人がフィリピンを征服する ~1570 ミケランジェロ没 ~1560 倭寇盛ん 桶狭間の戦いで,織田信長が今川義元を倒す ~1550 種子島に鉄砲が伝わる ザビエルが鹿児島に上陸し,キリスト教を伝える ~1540 ピサロ,ペルーのインカ文明征服 ~1530 マゼラン,世界周航 インドにムガール帝国ができる コペルニクス,地動説を唱える ~1520 ルターの宗教改革 レオナルド=ダビンチ没 ~1510 三浦の乱(庚午倭変)おこる ~1500 コロンブス,アメリカ大陸発見 ヴァスコ=ダ=ガマ,インドのカリカット到着 ~1490 足利義政,東山に銀閣を建てる ボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」 ~1480 この頃,桜島の大噴火(文明ボラ・P3) スペイン王国成立 ~1470 応仁の乱   雪舟・桂庵玄樹ら明に渡る ~1460 ビザンツ帝国滅亡 大田道灌,江戸城に拠る ~1450 グーテンベルク,活字印刷術発明 ハングル「訓民正音」として頒布 ~1440 ハプスブルク家が神聖ローマ皇帝位を世襲 ~1430 ジャンヌ=ダルク,オルレアン市を解放 ~1420 ローマ教会,コンスタンツの宗教会議 ~1410 明との勘合貿易開始 ~1400 足利義満,南北朝を統一する 足利義満,北山に金閣を建てる ~1390 ~1380 ローマ教会の大分裂(シスマ) ~1370 高麗,倭寇の禁圧を要求 ティムール帝国がおこる ~1360 このころルネッサンスはじまる ~1350 後醍醐天皇王子懐良親王,谷山城に入る ~1340 『徒然草』,建武の新政,後醍醐天皇が吉野にうつり,南北朝の動乱がはじまる ~1330 メキシコにアステカ王国がおこる ~1320 ダンテ『神曲』 ~1310 ローマ教会,教皇のバビロン捕囚 ~1300 徳政令を出すが,御家人の生活は苦しさを増す オスマン・トルコがおこる ~1290 弘安の役(第2回蒙古襲来-元寇) ~1280 マルコ=ポーロ,東洋漫遊 文永の役(第1回蒙古襲来-元寇) 一遍,時宗を開く ~1270 北条時宗が執権となる ~1260 日蓮,法華宗を開く モンゴル,フビライ=ハン即位 ~1250 神聖ローマ帝国,ハンザ同盟はじまる ~1240 御成敗式目ができる ~1230 承久の乱が起こり,後鳥羽上皇が流される 親鸞,浄土真宗を開く 道元,曹洞宗を開く ~1220 鴨長明『方丈記』 鎌 倉 時 代 江 戸 時 代 安 土 桃 山 戦 国 時 代 室 町 時 代 南 北 朝 期 執 権 政 治 東 福 寺 城 跡 平 成 昭 和 大正 明 治 紡 績 所 十 九 世 紀 十 八 世 紀 十 七 世 紀 十 六 世 紀 鹿 児 島 城 跡 内 城 清 水 城 跡 堂 平 窯 跡 恒 吉 城 跡 来 迎 寺 石 塔 平 泉 城 跡 時代 十 五 世 紀 十 四 世 紀 十 三 世 紀 二 十 一 二 十 世 紀 高 山 城 跡 御 里 窯 跡 知 覧 城 跡 向 栫 城 跡 建 昌 城 跡 莫     禰     城     跡 虎     居     城     跡 稲 葉 崎 供 養 塔 群 清 水 磨 崖 仏 下 鶴 指 宿 城 跡 芝 原 ・ 上 水 流 ・ 渡 畑 楠 川 城 跡 赤 木 名 城 跡 今 泉 島 津 家 墓 地 雪 山 栫 城 跡 骨 川 辺 地 頭 仮 屋 跡 出 水 地 頭 仮 屋 跡

(6)

~1200 源頼朝が鎌倉幕府を開く 「薩摩国・大隅国建久図田帳」 ~1190 壇ノ浦の戦い 平氏,滅亡   源頼朝が諸国に守護・地頭をおく ~1180 法然,浄土宗を開く 俊寛ら,鬼界島(硫黄島)に流罪 ~1170 平清盛,太政大臣となる ~1160 保元の乱,平治の乱 ~1150 大隅国分寺の石塔(1142年銘)  「薩摩国司庁宣写」 ~1140 阿多郡司平忠景,私領を観音寺に寄進  「八幡正宮牒」 ~1130 ~1120 奥州藤原氏,中尊寺に金色堂を建てる ~1110 曽於市大隅町月野下岡の経筒(1105年銘) この頃,『今昔物語』 ~1100 ~1090 後三年の役,起こる 白河上皇,院政を開始 ~1080 ~1070 ~1060 前九年の役,起こる 平等院鳳凰堂が完成する ~1050 「大隅国司庁宣案」 ~1040 ~1030 この頃,平季基が島津荘を関白藤原頼通に寄進 ~1020 藤原道長,摂政に就任 ~1010 この頃,清少納言『枕草子』,紫式部『源氏物語』ができる ~1000 藤原道長,左大臣となる。藤原氏の全盛期 ~990 ~980 ~970 左大臣源高明,大宰権帥に左遷(安和の変) ~960 乾元大宝(皇朝十二銭の最後)の鋳造 ~950 性空上人が霧島山に入る ~940 紀貫之『土佐日記』ができる 平将門,乱を起こす ~930 延喜式の編集 ~920 ~910 菅原道真,大宰権帥に左遷 『古今和歌集』ができ ~900 遣唐使の派遣を停止 ~890 開聞岳の爆発(紫ゴラ) (『日本三代実録』) ~880 開聞岳の爆発(紫ゴラ) (『日本三代実録』) ~870 ~860 大隅国の吉多・野神の二牧を廃す ~850 承和の変  薩摩川内市京田遺跡出土の木簡の年代 ~840 山城国人右大衣阿多隼人逆足に阿多忌寸の姓を賜う ~830 多禰嶋司をやめて大隅国に隷属させる(824年)   ~820 大隅・薩摩二国蝗害により未納税を免除する ~810 隼人の朝貢を停止する 朝貢してきた隼人の風俗の歌舞を停止す 最澄,天台宗 空海,真言宗  ~800 隼人に調貢納の徹底を命ずる 平安京に遷都 坂上田村麻呂,征夷大将軍 ~790 曽乃峯の上に火炎立ちのぼり,沙石を降らす 長岡京に遷都 ~780 隼人の帯劔を停止 大隅・薩摩の隼人俗伎を奏す ~770 鑑真,没 大伴家持が薩摩守に 和気清麻呂を大隅に配流す 道鏡事件 ~760 東大寺大仏開眼 遣唐使が鑑真らを伴って帰国 唐招提寺が建立される ~750 国分寺建立の詔 開墾地の永代の私有を許す(墾田永年私財法) ~740 736年作製の『薩摩国正税帳』の断簡現存す ~730 三世一身法 蝦夷反乱 多賀城をおく 大隅・薩摩両国はいまだ班田を行わず ~720 『古事記』 大隅国設置 豊前国の民の移住 隼人の朝貢を6年相替 大隅国守を殺害 『日本書紀』 ~710 大宝律令完成 薩摩国を設置 和銅開珎を鋳造 平城京に遷都 ~700 大隅・阿多に仏教を伝える 藤原宮遷都 多禰・夜久・菴美・度感等の人朝貢 稲積城修築 ~690 大隅・阿多の隼人が宮廷で相撲をとる この頃,開聞岳爆発「青ゴラ」 ~680 飛鳥浄御原宮に遷都 壬申の乱 多禰(たね)島人等を飛鳥寺の西で饗す 薬師寺が建立される ~670 白村江 筑紫に防人 近江大津宮に遷都 金田城 はじめて戸籍(庚午年籍) 法隆寺火災 ~660 吐火羅国の男女と舎衛の女が,日向に漂着 阿倍比羅夫が秋田付近の蝦夷を討つ ~650 飛鳥板蓋宮に移る 中大兄皇子ら蘇我氏を滅ぼす(大化の改新) ~640 将軍上毛野形名が蝦夷を討つ ~630 中国の開元通宝初鋳 厩戸皇子が斑鳩宮で没 蘇我馬子没 第1回遣唐使を派遣 ~620 この頃,前方後円墳築造停止 推古天皇「馬ならば日向の駒」 掖玖(やく)人来朝の記事 ~610 冠位十二階を制定 十七条憲法をつくる 小野妹子を遣隋使  法隆寺が建立される 後 ヶ 迫 井 手 ノ 上 市 ノ 原 山 野 原 亀 ノ 甲 六 月 坂 古 墳 宮 脇 大 隅 国 府 跡 小 中 原 岡 野 窯 柳 ヶ 迫 岡 野 大 坪 遺 跡 下 鶴 気 色 の 杜 山 下 小 湊 フ ヮ ガ ネ ク 広 田 遺 跡 上 層 横 間 古 墳 蕨 手 刀 榎 崎 B 宮 の 脇 平 安 時 代 薩 摩 国 府 跡 敷 領 芝 原 八 世 紀 院 政 奈 良 時 代 摂 関 政 治 律 令 政 治 白 鳳 文 化 天 平 文 化 十 世 紀 飛 鳥 時 代 上 加 世 田 犬 ヶ 原 鍛 冶 屋 馬 場 鎌倉時代 橋 牟 礼 川 七 世 紀 鳥 文 化 宮 之 前 田 尻 の 金 銅 仏 十 二 世 紀 大 島 大 島 成 岡 / 西 ノ 平 上 野 城 十 一 世 紀 武 H 不 動 寺 武 E 九 世 紀 原 田 久 保 新 田 チ サ ノ 木 城 久 ( グ ス ク ) 遺 跡 群 中 岳 古 窯 群 カ ム ィ ヤ キ 古 窯 跡 群 大 坪 外 園 榎 崎 A 新 平 田 桑 幡 家

(7)

~600 聖徳太子,摂政となる 四天王寺建立 第1回遣隋使を派遣 ~590 敏達天皇の殯宮(もがりのみや)を隼人が警護する 飛鳥寺建立 ~580 ~570 加羅(任那),新羅に滅ぼさる  この頃,マホメットが誕生する ~560       北アジア,突厥建国 ~550 ~540 百済から仏教伝来 蝦夷・隼人ともに衆を率いて,「帰附」(まうきしたがう) ~530 紫君磐井の乱 トリボニアヌス,『ローマ法大全』編纂開始 ~520 都を山背の筒城に移す 倭国が伽耶の伴跛国に敗れる 都を弟国に移す ~510 継体が越からむかえられ即位 この頃,日本列島に横穴式石室が普及する ~500 時期不明であるが,雄略天皇(武)の葬送に際して,隼人が昼夜陵の側で哀号し,食事もせずに七日後には死ぬ ~490 この頃の雄略天皇「ワカタケル」銘文入り鉄剣が九州と関東で出土 ~480 辛亥年銘鉄剣(埼玉県稲荷山古墳) 倭王武(雄略)が中国の南朝に使いを送る         ~470 宋が興を倭国王に任命 ~460 5世紀中頃,畿内で横穴式石室の築造はじまる ~450 倭,大伽耶攻撃 百済に敗退 済が宋に朝貢し,倭国王に任命さる ~440 宋が珍を倭国王に任命 ~430 倭讃が宋に朝貢 424~倭の五王(讃・珍・済・興・武)の時代 ~420 倭国が東晋に貢物を献ずる 高句麗好太王の碑 ~410 5世紀前半,日本で須恵器が作られはじめる 5世紀前葉~中葉,古市古墳群,百舌鳥古墳群の形成 ~400 倭が百済と新羅を破るという 倭が高句麗に敗退する ~390 ~380 4世紀後半,九州で横穴式石室の築造はじまる ~370 泰(和)四年銘の七支刀(石上神社) ~360 ~350 この頃,大和朝廷が日本を統一 ~340 ~330 ローマ帝国,ニケーアの公会議 インド,アジャンター石窟院 ~320 高句麗,楽浪郡を滅ぼす ~310 (景行天皇,日本武尊,神功皇后などが熊襲を征討したとの記・紀の伝承あり) ~300 元康元年銘神獣鏡 ~290 ~280 ~270 ~260 3世紀中頃,前方後円墳築造はじまる ~250 この頃,卑弥呼死に,径100余歩の墓造る(『魏志倭人伝』) ~240 邪馬台国の卑弥呼が,魏に使いを送る ~230 ササン朝ペルシャ成立 ~220 ローマ帝国,カラカラ浴場完成  魏の建国 ~210 赤壁の戦い(孫権・劉備,曹操を大破) ~200 ~190 ~180 ~170 147~189頃 倭国大乱 ~160 この頃,静岡県登呂遺跡の集落ができる ~150 この頃,中央アジア,クシャーナ朝カニシカ王即位 ガンダーラ美術盛ん ~140 ~130 ~120 ローマ帝国の領土が最大になる ~110 中国の蔡倫が紙を発明する 倭国王帥升ら後漢に生口160人を献上 ~100 ローマ帝国,五賢帝時代のはじまり ~90 この頃,班固の『漢書』成る ~80 イタリア,ヴェスヴィオス火山の噴火,ポンペイ埋没 ~70 ネロのキリスト教迫害 ~60 倭の奴国の王が後漢に使いを送る 「漢委奴国王」金印 ~50 ~40 ~30 光武帝,後漢を建国し,都を洛陽におく ~20 ~10 王莽,漢を滅ぼし新を建国 ~0 前4頃 キリスト誕生 ~前50 前97 司馬遷『史記』の記述,この年まで ~前100 前108 楽浪郡ほか4郡の設置 ~前150 前196頃 エジプト,ロゼッタ・ストーン建立 ~前200 前221 秦の始皇帝,中国を統一 ~前250 前272 ローマ,イタリア半島を統一 ~前300 前330 ヘレニズム時代はじまる ~前350 ~前400 ~前450 ~前500 前500 ペルシャ戦争 ~前550 前566頃,ゴウタマ=シッダールタ(釈迦)生まれる 前551 孔子生まれる ~前600 前612 アッシリア帝国滅亡 ~前650 ギリシャ・イソップ寓話 ~前700 ~前750 前776 第1回オリンピア競技 ~前800 前814頃 フェニキア人,植民都市カルタゴ建設 ~前850 北部九州で本格的な水稲農耕の開始 ~前900 ~前950 この頃,アーリア人ガンジス川流域に進出 笹 貫 鎮 守 ヶ 迫 上 熊 野 ・ 広 田 外 川 江 ・ 楠 元 横 瀬 唐 仁 大 塚 小 牧 古 墳 中 尾 立 小 野 堀 岡 崎 一 の 宮 下 柊 迫 不 動 寺 魚 見 ヶ 原 横 岡 古 墳 麦 之 浦 尾 ヶ 原 辻 堂 原 答 石 中 津 野 中 期 前 期 早 期 口 輪 野 軍 原 中 町 馬 場 北 麓 高 橋 貝 塚 寺 山 東 昌 寺 前 期 前 十 縄 文 時 代 弥 生 時 代 前 四 前 五 前 六 前 七 一 世 紀 晩 期 三 世 紀 後 期 白 寿 ・ 市 ノ 原 前 一 前 二 前 三 五 世 紀 前 八 前 九 榎 木 原 轟 木 ヶ 迫 上 中 段 稲 荷 迫 六 世 紀 後 期 中 期 二 世 紀 古 墳 時 代 四 世 紀 荒 園 南 摺 ヶ 浜 ・ 橋 牟 礼 川 横 瀬 干 河 原 新 番 所 後 奥 山 古 墳 松 之 尾 片 野 下     鶴 成 川 白 金 崎 古 墳 溝 下 古 墳 平 松 原 萩 原 瀬 ノ 上 / 平 田 前 畑 原 田 塚 崎 古 墳 群 鳥 越 古 墳 東     原 黒 川 下 原 神 嶺 榎 崎 山 ノ 口 吉 ヶ 崎 鹿 児 島 大 学 構 内 南 丹 波 新 番 所 後 芝 原 ・ 松 木 薗 高 付 上 新 田 高 吉 B 永     山 妻 山 元 飯 盛 山 大 島 沢 目 永 吉 天 神 段 東 田 農 業 開 発 総 合 セ ン タ ー 遺 跡 群 辻 堂 原 尾 ケ 原 入 来 京 田 鳥 之 峯 下 剥 峯 阿 岳 西 原 海 岸 ・ ス セ ン 當 貝 塚 宇 宿 湊 長 浜 金 久 サ ウ チ

(8)

~2500年前 前500ペルシャ戦争 前551孔子生まれる 前566頃,ゴウタマ=シッダールタ(釈迦)生まれる 大島 ~2600年前 前612 アッシリア帝国滅亡    ギリシャ・イソップ寓話 ~2700年前 前776 第1回オリンピア競技 ~2800年前 前814頃 フェニキア人,植民都市カルタゴ建設 ~2900年前 干河原タイプ北部九州で本格的な水稲農耕の開始 ~3000年前 この頃,アーリア人ガンジス川流域に進出 ~3100年前 前1115 アッシリア帝国の形成 ~3200年前 入佐式 この頃 甲骨文字 日本の集落は小規模になり,呪術や芸術は発達が停滞社会 ~3300年前 フェニキア人,フェニキア文字(アルファベットに発展)発明 ~3400年前 開聞岳・灰ゴラ噴出 ~3500年前 ヒッタイト人,鉄器の使用  この頃 中国,殷王朝成立 ~3600年前 ギリシャ,ミケーネ文明 ~3700年前 メソポタミア,ハンムラビ法典 ~3800年前 ~3900年前 ~4000年前 ~4100年前 ~4200年前 トロヤ第2市壊滅(シュリーマンの発掘) 中国,竜山文化 黒陶の使用 ~4300年前 インド,モヘンジョダロ ハラッパー ~4400年前 指宿式 開聞岳・黄ゴラ噴出(炭素年代4,000年前) 祭祀具が発達し,アク抜きや漁具が改良 橋牟 ~4500年前 岩﨑式 インダス文明おこる  エジプト,クフ王のピラミッド 岩 﨑 ~4600年前 阿高式 霧島火山・御池ボラ噴出(炭素年代4,200年前) ~4700年前 並木式 ~4800年前 ギリシャ,クレタ文明の前宮殿時代はじまる ~4900年前 ~5000年前 エジプト文明,メソポタミア文明おこる エジプト,神聖文字(ヒエログリフ)使用 ~5200年前 ~5400年前 集落規模,人口も増大し,土器も発達する ~5600年前 桜島・P5火山灰噴出(炭素年代4,900年前) ~5800年前 ~6000年前 ~6200年前 ~6400年前 池田湖・池田降下軽石噴出(炭素年代5,600年前) ~6600年前 ~6800年前 ~7000年前 中国,仰韶文化の開始 彩陶の使用 半坡遺跡 【黄河文明】 ~7200年前 鬼界カルデラ・アカホヤ(炭素年代6,400年前) 霧島火山・牛のすね(炭素年代6,500年前) ~7400年前 小山タイプ早期末から前期初頭に温暖化,南九州以外では,大規模集落を形成し,定住確立 ~7600年前 苦浜式 中国,浙江省河姆渡文化(水田稲作 家畜) ~7800年前 塞ノ神式 ~8000年前 平栫式 米丸マール・米丸スコリア噴出(炭素年代7,300年前) ~8500年前 手向山式桜島・P11火山灰噴出(炭素年代7,500年前) ~9000年前 下剥峯式 中国,湖南省彭頭山遺跡(稲の出現) 小山 下 剥 ~9500年前 石坂式 ~10000年前 倉園B式貝塚が形成され,集団墓地をもつ集落が成立する ~10500年前 吉田式 桜島・P13火山灰噴出(炭素年代9,400年前) ~11000年前 前平式 ~11500年前 岩本式 ホ ケ 園 田 ~12000年前 桜島・薩摩火山灰(P14)噴出(炭素年代11,400年前) ~13000年前 氷河期が終わり,気候温暖化,新しい環境適応へ 土器・石鏃を使用 定住のはじまり ~14000年前 ~15000年前 細石刃が日本列島全体に盛行する フランス,ラスコー洞窟 ~16000年前 霧島火山・小林軽石噴出(炭素年代14,000年前) ~17000年前 ~18000年前 ~19000年前 ~20000年前 ナイフ形石器とともに尖頭器が使われる ~21000年前 ~22000年前 沖縄・港川人の出現(炭素年代18,000年前) ~23000年前 ~24000年前 桜島・P15~P17火山灰噴出(炭素年代21,000年前) ~25000年前 最終氷期の最寒冷期 ~26000年前 石刃技法・瀬戸内技法とナイフ形石器が盛行する ~27000年前 ~28000年前 ~29000年前 姶良カルデラ・入戸火砕流・シラス噴出(炭素年代24,500年前) ~30000年前 ~31000年前 鬼界カルデラ?・種Ⅳ火山灰噴出 落とし穴群による狩猟中種子町大津保畑遺跡 ~32000年前 局部磨製石斧,台形様石器が盛行する 桐 木 耳 取 西 丸 尾 天 城 喜 志 川 床 並 B 露 重 小 牧 3 A 上 場 前 山 切 計 志 加 里 上 水 流 帖 地 南 田 代 奥 木 場 小 牧 永 野 水 天 向 麦 之 浦 貝 塚 上 野 原 前 田 重 田 神 野 牧 前 畑 益 畑 城 ヶ 尾 星 塚 波 留 貝 塚 市 ノ 原 下 殿 瀬 ノ 上 成 岡 桐 木 荘 貝 塚 黒 川 大 坪 中 里 伊 敷 榎 崎 瀬 ノ 上 前 谷 下 鶴 妻 山 元 中 原 軍 原 中 岳 入 佐 一 陣 長 崎 鼻 片 野 上 平 面 縄 貝 塚 大 花 里 日 勝 山 中 甫 高 又 隆帯文土器 江 内 貝 塚 三 角 山 常 牧 一 湊 松 山 大 渡 草 野 貝 塚 山 ノ 中 永 迫 平 水 迫 仁 田 尾 掃 除 山 栫 ノ 原 仁 田 尾 成 川 前 期 中 期 深浦式 曽畑式 轟式 春日式 旧 石 器 時 代 後 期 草 創 期 弥 生 時 代 縄 文 時 代 後 期 晩 期 早 期 前 期 早 期 高橋式 刻目突帯文 黒川式 市来式 上加世田式 中岳Ⅱ式 市 ノ 原 下 柊 迫 下 鶴 市 来 貝 塚 出 水 貝 塚 日 守 定 塚 倉 園 B 別 府 上 中 段 宇 宿 貝 塚 塞 ノ 神 鎌 石 橋 藤 平 小 田 轟 木 ヶ 迫 干 迫 住 吉 貝 塚 鐘 付 横 峯 宮 之 迫 東 昌 寺 若 宮 石 坂 上 春 日 町 高 橋 下 原 上 加 世 田 大 龍 仁 田 尾 前 原 南 摺 ケ 浜 田 中 堀 芝 原 向 栫 城 跡 宮 ノ 上 天 神 段 上     場 建 昌 城 東 黒 土 田 西 之 薗

(9)

薩 摩焼と輸入された陶磁器

鎌倉時代から 江戸時代

関 明 恵 はじ め に 鹿 児 島 に は , 江 戸 時 代 のは じ め に 生 ま れ , 今 日ま で そ の 火 を 絶 や す こ とな く 続 く「 薩 摩 焼」 と 呼 ば れ る 伝 統 的 な 焼き も の が あ る 。 粘 土 で形 を 作 り 釉 薬 を か け て 焼く 技 術 は, 海 を 渡り 朝 鮮 半 島 か ら 伝 え ら れた 。 そ し て 幕 末 , 薩 摩焼 の 技 術 は , 日 本 の 近 代化 を 目 指し 進 め られ た 集 成 館 事 業 の 一 部 を支 え る こ と と な る 。 しか し , そ れ 以 前 の 薩 摩 焼の 技 術 がな か っ た時 代 に は , 先 進 地 の 中 国な ど か ら 陶 磁 器 を 輸 入し て い た 。 本 稿 で は , 埋蔵 文 化 財セ ン タ ーが 2 0 年 間 に 行 っ た 発 掘調 査 ・ 報 告 の 中 か ら ,薩 摩 焼 と 輸 入 さ れ た 陶 磁器 に つ いて 関 連 す る 遺 跡 の 成 果 , ま た 新 た に わ か っ て き た 発 見 を 紹 介 し た い 。 1 日 本の 近 代化 は 薩摩 か らは じ まっ た (1)島 津斉 彬 の集 成 館事 業 「 日 本 の 近 代 化 は 薩 摩 か ら は じ ま っ た 」 と い っ て も 過 言 で は な く , 江 戸 時 代 , 薩 摩 藩 は 琉 球 ( 沖 縄 ) を 通 じ , 中 国 を は じ め と す る 海 外 と つ な が り , そ の た め 幕 末 の 欧 米 列 強 の 動 き を い ち 早 く 知 る こ と が で き た 。 そ う し た 中 , 11代 藩 主 ・ 島 津 斉 彬 は 欧 米 列 強 に 対 抗 す る た め に は , 軍 備 を 整 え 国 力 を 強 く し 産 業 を 興 し 豊 か な 国 に す る ( 富 国 強 兵 ・ 殖 産 興 業 ) 必 要 が あ る と 考 え , 海 外 の 進 ん だ 技 術 を 取 り 入 れ , 日 本 の 近 代 化 の 一 環 と な る 集 成 館 事 業 を 始 め た 。 そ れ は , 単 に 海 外 の 技 術 を そ の ま ま 取 り 入 れ る の で は な く , 薩 摩 に あ る 様 々 な 優 れ た 伝 統 的 技 術 も 活 用 し て 進 め ら れ た 。 例 え ば , 反 射 炉 に は 耐 火 煉 瓦 や 石 組 み が 使 用 さ れ て お り , こ れ は 薩 摩 焼 や 西 田 橋 を は じ め と す る 薩 摩 の も の づ く りの 技 術が 生 かさ れ てい た 。 (2)近 代化 産 業遺 産 群の 調 査成 果 鹿 児 島 に お け る 近 代 化 産 業 遺 産 群 の 調 査 は , 世 界 遺 産 登 録 推 進 事 業 と し て 平 成 2 4 年 度 に , 鹿 児 島 紡 績 所 跡 ( 鹿 児 島 市 吉 野 町 ),ぼうせきし よあと 祇園 之 洲砲 台 跡( 鹿 児島 市 清水 町),天保 山砲 台 跡( 鹿 児 島市 天 保山 )ぎ お ん の す ほ う だ い あ と てんぽ ざんほう だいあと の発 掘 調査 が 行わ れ た。 鹿 児 島 紡 績 所 は 島 津 斉 彬 斉 の 遺 志 を 受 け 継 い だ 島 津 忠 義 に よ っ て 建 設 さ れ , 1867年 ( 慶 応 3 ) に 操 業 を 開 始 し た 日 本 初 の 洋 式 紡 績 工 場 で あ る 。 遙 か 海 を 越 え た イ ギ リ ス か ら 技 師 を 招 き , そ の 技 術 を 習 得 し た 。 発 掘 調 査 で は , 鹿 児 島 紡 績 所 と 思 わ れ る 建 物 の 基 礎 部 が 発 見 さ れ た 。 こ れ に よ り 紡 績 所 の 実 際 の 位 置 を ほ ぼ 特 定 す る こ と が で きた 。( 写真 1) ま た , イ ギ リ ス 人 技 師 ら の 宿 舎 で あ っ た 異 人 館 も , 鹿 児 島 市 教 育 委 員 会 に よ り 発 掘 調 査 が 行 わ れ た 。 こ の 建 物 は , 日 本 の 技 術 に よ っ て つ く ら れ た 当 時 と し て は 珍 し い 洋 風 建 築 で あ る 。 2 度 に わ た る 調 査 で , 異 人 館 の 最 初 に 建 て ら れ た 場 所 を 特 定 す る 上 で 重 要 な 手 が か りと な る建 物 の基 礎 が発 見 され ,建 築当 時 の異 人 館は , 現 在 地 よ り も 南 東 方 向 に 位 置 し て い た こ と が 明 ら か に なっ た 。 祇 園 之 洲 砲 台 跡 は , 島 津 斉 興 が 稲 荷 川 河 口 を 埋 め 立 て て 藩 兵 の 訓 練 所 と し た 場 所 に , 斉 彬 が 1853年 ( 嘉 永 6 ) に 築 造 し た 。 薩 英 戦 争 時 で は 激 戦 地 と な り , イ ギ 写真 2 祇 園之 洲砲 台跡 改 修が 分か る石 垣 写真3 祇園之洲砲台跡 砲座の沈下防止のた めの敷石 写 真 1 鹿児 島紡 績 所跡 検出 遺構

(10)

リ ス の 最 新 式 大 砲 威 力 で , 壊 滅 的 な 打 撃 を 受 け た 場 所 で あ る 。 発 掘 調 査 で は , 戦 闘 の 激 し さ を 物 語 る 石 垣 や 砲 座 が 置 か れ て い た 場 所 の 硬 化 面 , 薩 英 戦 争 前 と 後 の 石垣 や 土塁 等 が見 つ かっ た。(写 真2 ・ 3) 天 保 山 砲 台 跡 は , 斉 興 が 甲 突 川 河 口 に 川 底 の 土 砂 で 埋 立 地 を つ く り 築 造 し た 砲 台 で , 薩 英 戦 争 は こ の 砲 台 か ら の 砲 撃 で 火 ぶ た が 切 ら れ た と 言 わ れ て い る 。 発 掘 調 査 で は , 砲 座 部 分 の 石 組 や 半 円 形 に 敷 か れ た 轍 の 残わ だ ち る 敷 石 の 軌 条 が 発 見 さ れ た 。 ま た , 甲 突 川 に 向 か っ てき じ よ う 下る 石 畳( 荷 揚場 ) も見 つ かっ た。(写 真4 ・ 5) 幕 末 に お け る 近 代 化 産 業 遺 産 群 は , 現 在 , 世 界 遺 産 登 録 に 向 け て 鹿 児 島 を は じ め 九 州 ・ 山 口 共 同 で 推 進 事 業を 行 って い る。 2 薩 摩焼 (1) 薩 摩焼 の ルー ツ 薩 摩 焼 の 始 ま り は , 韓 国 と 日 本 の 間 に 起 こ っ た 不 幸 な歴 史 から は じま る。1592~1598年( 文 禄元 ~ 慶長 3), 豊 臣 秀 吉 は ,「 焼 き も の 戦 争 」 と も 呼 ば れ た 文 禄 ・ 慶 長 の 役 を 起 こ し 朝 鮮 半 島 に 出 兵 す る 。 千 利 休 に よ り 大 成さ れ た 茶 道 が , こ の 時 期政 治 的 に 重 要 な 役 割 を果 た す よ う に な り 茶 道 具も 珍 重 され た 。 瀬戸 ・ 美 濃 地 方 で は , 平 安時 代 末 か ら ガ ラ ス 質 の釉 の か か っ た 焼 き も の が生 産 さ れて い た が, 九 州 地 方 に は そ の 技 術が な く , 多 く の 武 将 らが 朝 鮮 半 島 に 侵 攻 し た 際, 朝 鮮 陶工 を 連 れ 帰 り , 領 地 で 茶 碗 な ど 焼 き も の を 焼 か せ た 。 唐 津 焼 ( 佐 賀 県 ), 上 野 焼 ・ 高 取 焼 ( 福 岡 県 ), 萩 焼 ( 山 口 県 ) な ど が そ れ に あ た る 。 薩 摩 で も 島 津 義 弘 に 連 行 さ れ た 朝 鮮 陶 工 に よ り薩 摩 焼が 始 まる 。 (2) 堂平窯跡の調査成果 薩 摩 焼 の ル ー ツ が 朝 鮮 半島 に あ る こ と は , 古 くか ら の 文 献 や 伝 承 か ら わか っ て いた が , この こ とを 考 古学 的 に証 明 した 遺 跡が 「 堂平 窯 跡」 で ある 。どび ら がま あ と 薩 摩 に 連 行 さ れ た 朝 鮮 陶工 ら に よ っ て 最 も 早 く築 か れ た 窯 は , 串 木 野 窯( い ち き串 木 野 市下 名 ) と い わ れ て い る 。昭 和 16年 に 発 掘 調 査 が 行 わ れ, ゆ る や か な 斜 面 に築 か れた 単 室 の登 窯 が 1 基 と , 失 敗 し た製 品 を 捨 て た 場 所 で ある 「 物 原 」 が 見 つ か り ,壷 ・ 甕 等の 陶 器も の は ら か め が出 土 し た 。 そ の 後 , 陶 工集 団 は 日 置 市 東 市 来 町美 山 に 移 り , 美 山 小 学 校の 付 近 に「 元 屋 敷窯 」 を 開 い た と 伝 え ら れて い る が , こ の 窯 の 正確 な 位 置 や 窯 体 は 分 か って い な い。 次 に 開か れ た窯 が,「堂 平窯 」 と言 わ れて い る。 こ の 窯 跡 の 発 掘 調 査 は ,平 成 10年 度 に 南 九 州 西 回 り 自動 車 道 建 設 に 伴 い 行わ れ た。 そ の 結果 , 伝 承 地 か ら 窯 跡 が 1基 発 見 さ れ た 。 見 つ かっ た 窯 跡 は ゆ る や か な 山の 斜 面 を利 用 し た 単 室 の 登 窯 で , 斜 角 約 17度 , 検 出 全 長 31.2m , 窯 幅 1.2~ 1.4m を 測 り , 天 井 部 分 は 崩 落 し て い た が , 残 っ て い た 側 壁 の 状 況 か ら , 高 さ は 1 m 弱 程 度 で あ っ た と 考 え ら れ る 。 細 長 い 蛇 の 形 状 に 似 て い る た め 「 蛇 窯 」 と も 呼 ば れ る 。 こ の よ う な 窯 構 造 は , 串 木 野 窯 や 16世 紀 代 の 韓 国 の 登 り 窯 に も み ら れ , 朝 鮮 系 の 築 窯 技 術 がち く よ う 導 入 さ れ て い る こ と が 判 明 し た 。( 第 1 図 , 写真 1 2) 窯 の 周 辺 や 少 し 離 れ た 斜 面 か ら は 物 原 が 確 認 さ れ , 徳 利 ・ 片 口 ・ 擂 鉢 ・ 甕 ・ 壷と つ く り か た ぐ ち す り ば ち 等 の い わ ゆ る 「 黒 も の 」 と 呼 ば れ る 日 用 写真5 天保山砲台跡 海へ続く石畳 写真4 天保山砲台跡 砲座 第1図 堂平窯跡実測図

(11)

雑 器 が 大 量 に 見 つ か っ た 。 特 に 窯 跡 近 く か ら は , 堂 平 窯 跡 の な か で も 古 い 時 期 ( 17世 紀 前 半 )と 考 え ら れ る 陶 片 が 発 見 さ れ た 。( 写 真 1 3 ) そ れ ら は 作 り が 薄 く , 形 が シ ャ ー プ で あ る と い う 特 徴 を も ち , 粘 土 紐 を 巻 き 上 げ た 後 タ タ キ 成 形 で 仕 上 げ ら れ , 内 面 に は 同 心 円 状 のあ て 具痕 が 残る も ので あ った 。( 写 真 14 ) 同 様 の 特 徴 は , 串 木 野 窯 跡 の 陶 片 や 16世 紀 代 の 韓 国 の 陶 器 に も み ら れ , 製 陶 技 術 に お い て も 朝 鮮 系 の 技 術 が 導 入 さ れ て い る こ と が わ か っ た 。 さ ら に , ロ ク ロ 引 き で 碗 や 皿 を 作 る 技 術 ( 紗 器 匠 ) と , 粘 土 紐 を 巻 き 上 げ て タ タ キ 成 形 で 甕 壷 を つ く る 技 術 ( 甕 器 匠 ) の あ る 朝 鮮 陶 工 集 団 の 中 で , 薩 摩 焼 の ル ー ツ と な る 陶 工集 団 は甕 匠 であ る こと も 解明 さ れた 。 一 方 , 窯 か ら 少 し 離 れ た 物 原 か ら は , 新 し い 時 期 ( 17世 紀 後 半 ) と 考 え ら れ る 陶 片 が 見 つ か っ た 。 こ れ ら は 厚 く シ ャ ー プ さ に 欠 け る つ く り で , タ タ キ 成 形 に よ る 痕 跡 も ナ デ 消 す な ど , 古 い 時 期 ( 17世 紀 前 半 ) の 陶 片 に は み ら れ な い 技 術 が 見 ら れ , こ れ ら の 特 徴 は 近 代 の 苗 代 川 焼 と 共 通 す る 要 素 が あ る こ と が わ か った 。ま た 白薩 摩 や贈 答 用の 高 級な 焼 きも の , 鶴 丸 城 の 瓦 な ど , 地 域 の 需 要 に 答 え る た め に 作っ た 特別 な 製品 も 出土 し てい る 。 こ の よ う に 堂 平 窯 で は ,は じ め 朝 鮮 半 島 の 技 術で 陶 器 が つ く ら れ る が ,そ の 後 ,薩 摩 藩 内外 の 他 窯 と の 技 術 交 流 や需 要 に 応 じ て 変 化 し ,ま た 世 代 交 代 等 も 進 み ,次 第 に 朝鮮 的 な 特徴 を 消失 し て薩 摩 焼に 変 化し て いく 過 程が み られ る ので あ る。( 写真 6 ) 堂 平 窯 跡 出 土 の 遺 物 は ,先 進 的 な 製 陶 技 術 が 海を 渡 り 日 本 に 導 入 さ れ ,そ れ が 日本 の 需 要や 経 年 変 化 な ど , 様 々 な要 因 か ら 次 第 に 変 容 し, 南 九 州 に 根 ざ し た 窯 業に 成 長 する 過 程 を 知 る こ と の で き る 貴 重 な 資 料 で あ る こ と か ら , 平 成 23年 に 県 文 化 財 に 指 定 さ れ た 。( 第 2図 ) 現在 , 窯跡 は 美山 の 陶遊 館 に隣 接 する 公 園に 移 設保 存 され て いる 。 (3) 火山 の 恵み 南九州は火山資源に恵まれた地域であり,その恩恵は自然景観や温泉など,現在もそこに生活 する人々や観光資源として生かされている。また,火山活動から生み出されたカオリンと呼ばれ る白粘土等は,薩摩焼の原料として用いられており,薩摩焼の里である苗代川(日置市東市来町) には,朝鮮陶工である朴平意が指宿や山川,加世田,鹿児島で白粘土やカオリンを発見する伝承 が残っている。上質な焼きものの原料として白粘土が発見され供給できたため薩摩焼は根付き発 展したのであり,これも火山の恩恵なのである。 一方,大隅半島の鹿屋市笠之原には,18世紀の初めに藩の命令により苗代川から陶工等が移住 させられ笠野原窯が開かれるが,その後は発展せず途絶えている。これは大隅地方には現在も温 第 2 図 「 南 日 本 新 聞 」 よ り 1 7 世 紀 前 半 1 7 世 紀 中 頃 1 7 世 紀 後 半

(12)

泉が少ないように,火山活動によって生み出される焼きものに適した粘土が豊富になかったこと も原因のひとつとして考えられる。薩摩焼をはじめ唐津焼,上野・高取焼,萩焼などは,その地 域に火山の恵みである良質な陶石や粘土が存在したことから,伝統的な焼きものの産地として現 在もその名を残しているといえる。 良質な陶石と粘土により発展した薩摩焼は,18世紀後半以降,薩摩藩内で大量に流通するよう になる。特に鹿児島城下の遺跡である「鹿児島城跡(鶴丸城)本丸・二の丸」,その近隣の「垂水 ・宮之城島津家屋敷跡」,「浜町遺跡」,「寿国寺跡」からは,「黒薩摩」や「黒もの」と呼ばれる甕は ま ま ち じ ゆこ くじあ と や壺,徳利,擂鉢,土瓶等の日用品が大量に発見されている。これらは藩主や上級武士たちが直 接使用するものではないが,調理用具や貯蔵用具として屋敷内で使用されていた。また藩主や上 級武士,また社会的階層の高い人々が直接使用した「白薩摩」や「白もの」と呼ばれる茶碗や皿 も数多く発見された。これらの焼きものは社会的身分が高いほど上質の製品を数多く使用してお り,遺跡から発見される白薩摩の種類や数量により,その遺跡で生活していた人がどれくらいの 社会的階層の人であったかなどを推測する手がかりとなる。 3 輸 入さ れ た陶 磁 器 (1) 海外 交 易の 拠 点 薩 摩 焼 が 大 量 に 流 通 し て い た 時 代 に お い て も , 海 外 の 珍 し い 陶 磁 器 は 輸 入 さ れ て お り , 垂 水 ・ 宮 之 城 島 津 家 屋 敷 跡 か ら は , イ ギ リ ス の ド ー ソ ン 窯 製 の 硬 質 陶 器 皿 が 出 土 し て い る 。( 写 真 7 ) 19世 紀 頃 の も の で ,「 ザ ・ サ プ ラ イ ズ 」 と 呼ば れ る図 柄 パタ ー ンは コ バル ト を用 い たプ リ ント で ある 。 高 台 内 に は イ ン プ レ ス ド ・ マ ー ク と プ リ ン テ ィ ッ ド ・ マ ー ク が 施 さ れ て い る 。 こ の よ う な ヨ ー ロ ッ パ 製 陶 器 の 発 見 例 は 県 内 で も 3 例 し か な く 非 常 に 珍 し い が , 薩 摩 焼 を つ く る 技 術 が 伝 わ る 以 前 は , ど の よ う な 焼 き も の が 普 及 し て い た ので あ ろ う か 。 鎌 倉 時 代 から 室 町 時 代 に は , 古 墳時 代 に 朝 鮮 半 島 か ら 伝 わっ た 須 恵器 の 流 れ を 継 ぐ 「 中 世 六 古 窯 」( 愛 知 県 の 瀬 戸 焼 ・ 常 滑 焼 , 福 井 県 の 越 前 焼 , 滋 賀 県 の 信 楽 焼 ,ち ゆ う せ い ろ く こ よ う せ と や き と こ な め や き え ち ぜ ん や き し が ら き や き 兵庫 県 の 丹 波 焼 , 岡 山 県 の備 前 焼 ) の 製 品 が , すで に 生 産 さ れ て い た 。 常滑 焼 の 大甕 や 備た ん ば や き び ぜ ん やき 前焼 の 擂 鉢 な ど は 広 域 に 流通 し て お り , 薩 摩 で も室 町 時 代 以 降 の 遺 跡 か ら多 く 見 つか っ て いる 。 し か し , 焼 き も の の先 進 地 で る 中 国 に は ,青 磁 や 白 磁 , 青 白 磁 , 青花 等 の 釉薬 の かせ い か ゆ う や く か っ た 美 し い 陶 磁 器 が あ り , 当 時 の 権 力 者 は そ れ ら を 輸入 し て大 き な利 益 を得 て いた 。 九 州 は 大 陸 と 近 い 位 置 に あ る こ と か ら , 古 く か ら 中 国 や 朝 鮮 半 島 と の 交 流 が 盛 ん で , 奈 良 時 代 の 8 世 紀 の 文 献 『 続 日 本 記 』 に は ,「 博 多 」 と い う 地 名 も 登 場 し て い る 。 博 多 は 平 安 時 代 末 に は , 平 清 盛 が 日 宋 貿 易 の 玄 関 口 と し て 活 用 し , そ の 後 も 明 と の 勘 合 貿 易 で 繁 栄 する 。 南 薩 摩 は ,「 博 多 」( 福 岡 県 ),「 安 濃 津 」( 三 重 県 )あ の つ と 並 ん で 日 本 三 津 の 一 つ と さ れ る 「 坊 津 」 が あ り , 古 く か ら 交 通 の 要 所 と し て の 役 割 を 果 た し て い る 。 坊 津 は 日 宋 貿 易 や 日 明 貿 易 の 交 易 ル ー ト 上 に 位 置 し , 寄 港 地 ・ 中 継 地 と し て 薩 摩 の 海 外 交 易 の 拠 点 と な っ て い る。 (2) 万之 瀬 川下 流 域の 遺 跡群 の 調査 成 果 万 之 瀬 川 ( 写 真 8 ) は 薩 摩 半 島 の 南 西 部 を 流 れ る 川 で , 平 成 11~ 16年 に か け て 中 小 河 川 改 修 事 業 に 伴 い , そ の 下 流 域 に 所 在 し た 「 持 躰 松 遺 跡 」,「 渡 畑 遺 跡 」,も つ た い ま つ わ た り ば た 「 芝 原 遺 跡 」,「 上 水 流 遺 跡 」 の 4 遺 跡 の 発 掘 調 査 が 行し ば は ら か み づ る われ た 。 写真8 万之瀬川中流 芝原遺跡 写真7 イギリスのドーソン窯 製の硬質陶器皿

(13)

「 持 躰 松 遺 跡 」 は 最 初 に 調 査 が 行 わ れ た 遺 跡 で , 平 安 時 代 末 か ら 鎌 倉 時 代 の 中 国 産 陶 磁 器 を は じ め と す る 多 く の 輸 入 陶 磁 器 や 国 産 の 陶 磁 器 が 発 見 さ れ ( 写 真 1 5 ), マ ス コ ミ で も 大 き く 報 道 さ れ た 。 当 時 は 遺 跡 の 性 格 を 坊 津 と 同 様 の 「 中 国 貿 易 の 拠 点 」 と し て 捉 え , 考 古 学 の 分 野 だ け で な く 文 献 史 の 分 野 か ら も 注 目 を 集 め た 。 こ の よ う な 見 解 は , そ の 後 , 渡 畑 遺 跡 や 芝 原 遺 跡 か ら も 大 量 の 輸 入 陶 磁 器 が 見 つ か り , さ ら に 確 証を 得 るこ と にな る 。 「 渡 畑 遺 跡 」 で は , 溝 状 遺 構 か ら 青 磁 椀み ぞ じ よ う い こ う 2 枚 , 青 白 磁 椀 3 枚 , 青 磁 皿 1 枚 が 伏 せ ら れ た 状 態 で 発 見 さ れ ( 写 真 9 ), 縄 紐 等 で 6 枚 重 ね で 結 ん で 荷 造 り し て あ っ た と 考 え ら れ て い る 。 ま た , ポ ル ト ガ ル 王 家 の 紋 章 が 上 下 逆 さ ま に 描 か れ た 中 国 産 青 花 の 碗 も 見 つ か っ て お り ( 写 真 1 1 ), こ れ ら は 当 時の 交 易 を 考 え る 上 で 興 味深 い 資 料 で あ る 。 こ の他 に も , 芝 原 遺 跡 と 隣 接す る 地 域で は , 3間 × 3 間 の 総 柱 建 物 跡 の周 辺 か ら , 中 国 産 の 瓦が 多 く 見 つ か っ た 。 平 安末 か ら 鎌倉 時 代 初め 頃 の 中 国 産 の 瓦 は , 今の と こ ろ , 福 岡 県 の 博多 と 箱 崎 , そ し て 渡 畑 ・芝 原 遺 跡で し か 発見 さ れて お らず , 日宋 貿 易と の 関連 を 示す 重 要な 発 見で あ る。 「 芝 原 遺 跡 」( 写 真 8 ) か ら は , 膨 大 な 数 の 建 物 の 柱 跡 が 確 認 さ れ , 少 な く と も 3 3 基 の掘 立 柱 建 物 跡 が 見 つ か って い る 。 こ の 建 物 群 と柱 穴 の 数 は , 万 之 瀬 川 下流 域 の 4遺 跡 のほ つ た て ば し ら た て も の あ と 中で は 群 を 抜 い て お り , 芝原 遺 跡 が 万 之 瀬 川 下 流域 の な か で 中 心 的 な 役 割を 果 た した 遺 跡 であ る こ と を 物 語 っ て い る。 ま た , 海 外 貿 易 の 拠点 で あ る 博 多 や そ の 消 費地 で あ る太 宰 府 と 同 じ 種 類 の 中 国 産 輸 入 陶 磁 器 が 見 つ か っ て お り ( 写 真 1 6 ), そ の 特 徴 は 規 模 こ そ 違 え ども 「 ミ ニ 博 多 」 と も い える 様 相 で あ る 。 さ ら に, 国 内 産 の 焼 き も の で も流 通 量 の少 な い 畿内 産 瓦 器 椀 や 瀬 戸 産 瓶 子, 広 域 に 流 通 す る 以 前の 古 い 時 期 の 常 滑 産 大 甕や 備 前 産擂 鉢 なが き わ ん へ い し ども 出 土し て おり ,東 海や 近 畿地 方 から も 珍し い 焼き も のが こ の地 域 に運 び 込ま れ てい た。 「 上 水 流 遺 跡 」 は , 4 遺跡 の な か で 一 番 上 流 にあ た る 遺 跡 で , 主 に 室 町時 代 か ら江 戸 時 代初 頭 に か け て の 陶 磁 器 が大 量 に 見 つ か っ た 。 芝原 遺 跡 に お い て は , こ の時 期 の 遺物 が 少 なく な って く るた め ,遺 跡 の中 心 地が 上 流側 へ 移っ て いっ た こと が 窺え る 。 万 之 瀬 川 下 流 域 付 近 に 残 る 「 当 房 ( 唐 坊 )」・「 唐 仁 原 」 と い っ た 中 国 人 商 人 の 存 在 を 窺とうぼう と う じ ん ば ら う か が わせ る 地 名 の 問 題 や , 阿 多忠 景 な ど 12世 紀 後 半 ( 平 安 時代 末 期 ) に こ の 地 域を 治 めた 有 力 な在 地 領 主 の 関 わ り な ど ,考 古 学 だ け で は 解 決 でき な い 様 々 な 問 題 点 は 残る も の の, 万 之 瀬川 下 流 域 に は 大 規 模 な 海外 交 易 の 拠 点 が 存 在 した こ と は , 発 掘 調 査 で 発見 さ れ た遺 構 や 輸入 陶 磁 器 が 示 し て い る 。今 後 は こ れ ら の 新 し い調 査 成 果 を 元 に 研 究 を 深化 さ せ ,南 九 州 の中 世 史を 再 検討 し てい く 必要 が あろ う 。 おわ り に 以 上 , 埋 蔵 文 化 財 セ ン タ ー が 2 0 年 間 に 行 っ た 発 掘 調 査 ・ 報 告 の 中 か ら ,「 薩 摩 焼 と 輸 入さ れ た 陶 磁 器 」 に つ い て述 べ た 。 先 進 的 な 焼 きも の の 技 術 が 海 を 渡 り 朝鮮 半 島 から も た らさ れ , 火 山 の 恵 み で あ る粘 土 を 用 い て 、 現 在 まで 連 綿 と 受 け 伝 え ら れ てい た 薩 摩焼 が 誕 生し た 。 薩 摩 藩 の 産 業 に も深 く 寄 与 し , 薩 摩 焼 の技 術 は 近 代 国 家 建 設 に も関 わ っ てい る 。 また , 薩 摩 焼 の 技 術 が な かっ た 時 代 に は , 中 国 など か ら 海 を 渡 り 優 れ た 陶磁 器 を 輸入 し て い る 。 海 外 に 開 け た 鹿 児 島 の 地 形 を 活 用 し て ,い つ の 時 代 に お い て も , 海 を 越 え て 様 々 な 人の 交 易が あ り, 技 術や も の( 文 化)・ 情報 が 交錯 し て時 代 が築 か れて い る。 同 左 写真 9 輸 入陶 磁器 (渡 畑遺 跡) 写真10 博多と同類の中国瓦 (渡畑遺跡) 写真11 ポルトガル 王家の紋章が えがかれた破片

(14)

写真12 堂平窯跡

写真13 堂平窯跡 出土遺物

写真14 内面に残るあて具痕

写真16 輸入陶磁器と国産陶器(芝原遺跡) 写真15 輸入陶器器(持体松遺跡)

(15)

境界に位置した南 九州

飛鳥時代から 平安時代

東 和 幸 はじ め に 鎌 倉 時 代 か ら 江 戸 時 代 まで は 武 士 を 中 心 と し た世 の 中 で あ っ た が , 飛 鳥時 代 か ら平 安 時 代は 天 皇お よ び貴 族 が政 権 を担 っ た時 代 であ る。平清 盛 を棟 梁 とす る 平家 の 栄華 と 滅亡 が, ちょ う ど そ の 転 換 期 と な った 。 中 世 以 降 は 文 献 史料 に よ っ て 各 地 域 の 歴 史を 振 り 返る こ と がで き た が , 古 代 ま で さ かの ぼ る と 文 献 史 料 が 限ら れ て お り , 考 古 資 料 との 相 互 活用 を は かり な がら 歴 史を 復 元し な けれ ば なら な い。 こ こ 20 年 で, 本県 におけ る古 代の遺 物によ る編 年研究 が進展 し, 1世紀ごとの遺 跡の 様相 が 明 ら か に な る こ と によ っ て , 南 島 を 含 め 文献 史 料 と の 比 較 研 究 も 活発 化 し た。 両 者 の成 果 をと り 入れ な がら , 本県 に おけ る 古代 の 様相 を 概観 し てみ た い。 1 平 安時 代 後期 ( 11世 紀 ・12世 紀) (1 ) 村落 周 辺の 風 景 海 に 開け た 鹿児 島 には ,11 世紀から 12 世紀にかけての陶磁器類も中国から多く運ばれ, 各地 域 の 遺 跡 で 出 土 し て いる 。 貿 易 が で き る ほ どの 有 力 な 人 物 が , 各 地 域に 存 在 して い た こと が 理解 で きる 。こ れ らの 有 力者 は,伊 佐市 新 平田 遺 跡や 鹿 屋市 輝 北町 の 新田 遺 跡な ど,し ん ひ ら た い せ き し んで んい せ き 鎌 倉 時 代 以 降 に 継 続 す る 例 が 多 く , 遺 構 が 重 複 し て い る た め 11,12 世 紀の 様相 を分離 し て み る こ と は 難 し い 。 そ の 中 に あ っ て , 平 成 11・ 12 年度 に九 州新幹 線建設 に伴 って発 掘 調査 し た出 水 市大 坪 遺跡 で はお お つぼ い せき 11 世紀後半の一集落の様相を知ることができる。 大 坪 遺跡 で は9 棟 の掘 立 柱建 物 跡が ,ほ とん ど 位置 を 変え ず に重 複 しな が ら検 出 され た。 最も 大 き な の が 4 面 に 庇 をも つ 2 間 × 3 間 の 建 物で あ り , そ の 周 り に 3 棟の 建 物 が配 さ れひ さ し て い る 。 母 屋 の 柱 穴 の 直 径 が 25 ㎝ とそ れほど 大き くなく ,溝や 柵で 囲まれた宅地で はな いの で , 中 堅 ク ラ ス の 有 力者 で あ る と 考 え ら れ る。 興 味 深 い の は 建 物 の 方向 が ち ょう ど 東 西南 北 に 合 い , こ れ を 基 準と し た こ と が わ か る 。ま た , 平 野 部 に は 溝 状 とな っ た 道跡 が 続 き , こ れ も 東 西 南 北 軸 と な り 条 里 型 地 割 が 存 在 し た こ と が わ か る 。 少 な く と も ,じ よう りが た じわ り 11 世 紀 代に は 荘 園 と し て 開 発 さ れた 可 能 性 を も つ 地 域 であ る 。 武 士 の お こ り は ,荘 園 を まも る た めと さ れ て い る の で , 南 九州 で も こ の 時 期 の 防 御的 な 集 落 が み つ か る 可 能性 が あ る。 道 跡 と考 え ら れ る 溝 状 遺 構 内 に残 る 連 続 し た 窪 み は 波板 状 凹 凸 面 と 呼 ば れ る もの で , 枕木 説 や 道路 工 事 基 礎 説 な ど い ろ いろ な 説 が あ る 。 筆 者 は現 在 の 牧 場 で も 同 様 な 連続 し た 窪み が み られ る こ と か ら , 背 中 に 荷物 を 載 せ た 牛 や 馬 が ぬか る み を 歩 い た 時 に つ けた 痕 跡 と考 え て いる 。 文 献 史 料 で は , こ の 時 期に 万 之 瀬 川 下 流 域 の 阿多 忠 景 , 万 之 瀬 川 上 流 の河 邊 氏 など , 有 力な 人 物 が 現 れ る こ と か ら, 遺 構 や 遺 物 な ど か らも 追 究 し て い く と 地 域 の見 直 し にも つ な がる と 考え る 。大 宰 大監 で あっ た 平季 基 が, 島 津荘 を 開く の も11 世紀である。 (2 ) 寺社 と の関 わ り 土 地 の 開 発 に は 有 力 者 と寺 院 と の 関 わ り が 強 いこ と が 言 わ れ て い る 。 文献 史 料 にみ ら れ る 式 内 社 に は , 鹿 児 島 神 社 ( 霧 島 市 隼 人 町 )・ 大 穴 持 神 社 ( 霧 島 市 国 分 )・ 宮 浦 神 社 ( 霧お お な も ち 島市 福 山町 )・ 韓国 宇豆 峯 神社( 霧島 市 国分 )・ 益救 神 社( 屋 久島 町)・枚 聞神 社( 指 宿 市)か ら く に う ず み ね や く ひ ら き き ・加 紫 久利 神 社( 出 水市 )・ 多布 施神 社 (南 さ つま 市 金峰 町)・志 奈 尾神 社 (薩 摩 川内 市 )か し く り た ぶ せ し な お ・ 白 羽 火 雷 神 社 ( 薩 摩 川 内 市 )・ 智 賀 尾 神 社 ( 鹿 児 島 市 郡 山 町 )・ 伊 爾 色 神 社 ( 鹿 児 島 市し ら は ほ の い か ず ち ち か お い し き 伊敷 町 ) が あ る 。 ま た , 霧島 市 鹿 児 島 神 宮 正 八 幡宮 や 薩 摩 川 内 市 新 田 八 幡神 社 な ど, 八 幡 系の 神 社 が 勢 力 を 伸 ば す のも こ の 時 期 で あ る 。 さら に , 霧 島 市 国 分 の 台 明寺 や 南 さつ ま 市 金峰 町 の 観 音 寺 な ど も , 古代 ま で 遡 る 寺 院 と し て知 ら れ て い る 。 大 隅 国 分寺 跡 の 石塔 や 霧 島 市 隼 人 町 の 正 国 寺 跡 出 土 の 石 仏 2 体 に は , 康 治 元 (1142)年銘が刻 まれている。神 社や 寺院 は 現 在 地 に 移 転 し て いる 場 合 も 多 く , 以 前 あっ た 場 所 を 調 査 す る こ とに よ っ て当 時 の 規模 や 構 造 を 明 ら か に す ると と も に , 地 域 の 核 とな っ た と 考 え ら れ る こ とか ら 周 辺遺 跡 と

(16)

の関 わ りを 追 究す る 必要 が ある 。 平 安 時 代 の 終 わ り に は , 神 仏 混 合 が 広 が り 1052 年 か らの 末 法到 来が 近づ く末 法思想 も 浸 透 す る 。57 億 年 後 の た め の タ イ ム カ プ セ ル と し て 埋 納 し た 曽 於 市 大 隅 町 月 野 の 銅 製 経 筒 に は , 長 治 2 (1105) 年 の 銘 が 入 っ て お り ,「 京 塚 」 や 「 京 ノ 峯 」 な ど の 地 名 に も 注 意 し た い 。 山 岳 修 験 信 仰 と し て は ,950 年 ごろ性 空上 人が霧 島山に 入っ た記録があるほ か, 金峰 山 や 冠 岳 な ど 多 く あ り, 神 道 や 仏 教 ば か り でな く 南 九 州 の 修 験 道 を 追究 す る 必要 が あ る。 (3 ) 南島 の よう す 一 方 , 南 島 に 目 を 向 け る と ,11 世 紀 に な る と 徳 之 島 に カ ム ィ ヤ キ 古 窯 群 が 開 か れ , 北こ よ う は出 水 市 , 南 は 沖 縄 県 波 照間 島 ま で 幅 広 く 流 通 して い る 。 ま た , 長 崎 県 西彼 杵 半 島産 の 滑 石製 石 鍋 が 南 島 で も 使 わ れて お り , 海 を 介 し た 交易 の 活 発 化 が 窺 え る 。 喜界 島 の 城久 遺 跡ぐ す く 群 で は ,15 世 紀 か ら 8 世 紀 後 半 に 遡 る 陶 磁 器 や 大 宰 府 系 の 遺 物 な ど が 出 土 し て い る こ と から , 南島 経 営の 拠 点と な って い たと 言 われ て いる 。 その 中 で,12 世紀から 11 世紀後半 が最 盛 期 と な る が , 文 献 上は 化 外 の 時 期 で あ っ たと さ れ , 自 力 で の 生 活 力が 高 ま った こ と と合 わ せ , 摂 関 政 治 の 衰 退と も 絡 み , 興 味 を 覚 える 。 2 平 安時 代 前期 ( 9世 紀 ・10世 紀) (1 ) 文字 と 遺跡 11 世 紀 の遺 跡 は普 遍的 に 認め られ る が, 10 世 紀 後半 の遺 跡 は減 少し てお り, 要因を 追 究 す る こ と が 課 題 で あ る 。10 世 紀 半 ば か ら 9 世 紀 前 半 に か け て は , 安 定 し た 数 の 遺 跡 が みら れ , 暮 ら し や す い 環 境に あ っ た よ う で あ る 。た だ し , 火 山 活 動 は 活 発だ っ た よう で , 霧 島 の 北 側 で は 宮 杉 火 山 灰 と 高 原 ス コ リ ア の 下 に ,10 世 紀 前 半 に 位 置 付 け ら れ る 土 師 器 が出 土 して い る。885 年と 874 年には開聞岳が紫ゴラを噴出し,遺跡の状況と『日本三大 実録 』 にあ る 記述 が 一致 し てい る 。余 談 では あ るが , 開聞 岳 が 200 年ぶりに大噴火した貞 観16(874)年より5年前には,東北地方で大地震が起こり津波の被害も大きかったので, 現 在 も 各 火 山 の 噴 火 活 動 に は 充 分 備 え を し て お き , 被 害 を 最 小 限 に 食 い 止 め た い もの で ある 。 文 献 史料 の 少な い 時期 で ある が,現在 , 鹿 児 島 県 内 で 出 土 し て い る 墨 書 土 器 や 刻 書土 器 は,2,000 点を超えて出土している。 平 成 12 ~ 14 年 度 に 九 州新 幹 線 建 設 に伴 っ て 発 掘 調 査 し た 薩 摩 川 内 市 京 田 遺 跡 のき ようで んいせ き 嘉 祥 3 (850) 年 銘 が 入 っ た 木 簡 は 条 里 制 が し か れ て い た こ と を は っ き り さ せ , 墨 書 土 器 で は 珍 し い 仮 名 文 字 が 書 か れ た 霧 島 市 気 色 の 杜 遺 跡 出 土 例 な ど 貴 重 な 発 見け し き の も り も あ る 。 地 名 を 示 す 「 阿 多 」 は 南 さ つ ま 市 金 峰 町 小 中 原 遺 跡 ,「 下 田 」 は 鹿 児 島 市 川 上 町 の 川 上 城 跡 か ら ,「 日 置 厨 」 は い ち き 串 木 野 市 安 茶 ヶ 原 遺 跡 か ら 出 土 し , 当あ んち やが は ら 時 の 地 域 を 知 る こ と が で き る 。 な お , 曽 於 市 財 部 城 ヶ 尾 遺 跡 で 出 土 し た 「 桑 原 」 に つ い て は , 土 師 器 が 動 い た 可 能 性 も 指 摘 さ れ て い る 。 墨 書 土 器 は 動 く の で そ の 遺 跡 で 書 か れ た と は 限 ら な い が , 硯 が 出 土 す れ ば , そ の 遺 跡 で 文 字 が 書 か れ て い た こ と が わ か る 。 そ の 様 な 遺 跡 は 国 府 周 辺 や 郡 衙 周 辺 に 限 ら れ て お り , 役 所 や 寺ぐ ん が 院が あ った と 考え ら れる 。 県内唯一の木簡(薩摩川内市 京田遺跡)

(17)

10 世 紀 前 半 に 編 纂 さ れ た 『 和 名 類 聚 抄 』 な ど の 文 献 史 料 に よ る と , 薩 摩 国 は 出 水 郡 , 高城 郡 , 薩 摩 郡 , 甑 島 郡 ,日 置 郡 , 伊 作 郡 , 阿 多郡 , 河 辺 郡 , 頴 娃 郡 , 揖宿 郡 , 谿山 郡 , 鹿児 島 郡 か ら な り , 大 隅 国は 桑 原 郡 , 菱 刈 郡 , 曽於 郡 , 姶 羅 郡 , 大 隅 郡 ,肝 属 郡 ,多 禰 嶋 は熊 毛 郡 , 馭 謨 郡 か ら な って い た 。 こ の 時 点 で は, ト カ ラ 列 島 以 南 の 奄 美諸 島 は 律令 体 制 下に な いこ と がわ か る。なお ,現 在 の曽 於 市お よ び志 布 志市 周 辺の 一 部は 日 向国 で あっ た。 推定される古代の官道

(18)

(2 ) 官道 を 探る 10 ~ 9 世 紀 に か け て も 中 国 大 陸 と の 関 係 は 認 め ら れ , 県 内 の 遺 跡 か ら 越 州 窯 青 磁 が 出 土 し て お り , 越 州 窯 青 磁 を 模 し て 国 内 で つ く ら れ た 緑 釉 陶 器 も 出 土り よ く ゆ う と う き し て い る 。 こ れ ら の 希 少 な 遺 物 と と も に , ① 硯 , ② 役 人 が ベ ル ト に 付 け る 石 帯 や 帯 金 具 , ③ 瓦 葺 き の 建 物 が あ っか わ ら ぶ き た 証 拠 と な る 布 目 瓦 , ④ 海 岸 で つ く っ た 塩 を 運 ぶ 焼 塩 土 器 な ど の 官 衙 的 な 遺 物 の 分 布 を み る と , 当 時 の 道 が 浮 か び上 が って く る。 古 代 の 道 跡 が 検 出 さ れて い る 例 は 大 小 多 々 あ るが , 官 道 と 認 め ら れ るの は 姶 良 市 船 津 に 所 在 する 城 ヶ 崎遺 跡 のじよ うがさ きい せき みで あ る 。 中 央 集 権 を 確 立す る た め に は , 地 方 との 連 絡 網 を 整 備 す る 必 要が あ り ,各 国 を 最短 で 結ぶ 道 が官 道 であ る。官 道 には 約16 ㎞ごとに駅家がおかれ,薩摩国には市来,英祢,い ち く あ く ね 網津 , 田 後 , 檪 野 , 高 来 があ り , 大 隅 国 に は 蒲 生と 大 水 が 記 さ れ て い る 。先 学 に よる 駅 家お う づ た じ り い ち ひ の た か く お お む つ の比 定 地 は 多 々 あ る も の の, 考 古 学 的 な 検 証 に よっ て 確 定 さ れ た も の は 姶良 市 の 蒲生 駅 の みで あ る 。 こ れ ま で , 発 掘さ れ た 官 衙 的 な 遺 物 の分 布 図 を 見 る と , 日 向 国- 大 隅 国- 薩 摩 国- 肥 後 国 を 結 ぶ ル ー ト は勿 論 の こ と , 大 隅 国 -肥 後 国 お よ び 薩 摩 国 - 日向 国 を 直接 結 ぶ ルー ト も 想 定 さ れ る 。 大 水駅 に つ い て は , 大 隅 国- 肥 後 国 ル ー ト と 薩 摩 国- 日 向 国ル ー ト が 交 わ る 地 点 と 仮 定 し て , 今 後 追 究 し て い く こ と も 課 題 で あ る 。「 水 俣 」 が 三 本 の 道 が 交 わる と こ ろ な ら ば , そ れ より も 多 い 四 本 の 道 が 交わ る 場 所 が 「 大 水 」 で あっ た と も考 え ら れる 。 道 は 国 と 国 や 郡 と 郡を 結 ぶ 官 道 か ら , 集 落同 士 や 家 同 士 , あ る い は田 畑 や 山, 海 や 川な ど に 向 か う 踏 み 分 け 道な ど , 人 が 動 く 所 に 必ず あ る わ け な の で , 意 識し て 発 掘調 査 し てい き たい 。 (3 ) 住ま い と墓 10 世紀から9世紀になると掘立柱建物が主流となり,配置構造も明らかになっており, 領主 ク ラ ス の 市 ノ 原 遺 跡 第1 地 点 で は , 1 時 期 に7 棟 か ら な る 状 況 が 窺 える 。 掘 立柱 建 物い ち の は ら の柱 の 大 き さ は , 直 径 50 ㎝で深さ 50 ㎝規模の大きなものもあるが,一般的には直径 30 ㎝ で 深 さ 40 ㎝規 模の もので ある 。都城 盆地の 同時 期の柱 穴と比 べて も,かなり小さ い。 これ は 民 俗 事 例 に も あ る よう に , 台 風 に た び た び襲 わ れ る 南 九 州 で は , 家を 頑 丈 に建 て る より も,もし 飛 ばさ れ ても 最 小の 被 害で 済 むよ う な構 造 にし た ので は ない か と考 え られ る。 雪の 重 み に 耐 え な け れ ば なら な い 北 の 地 域 と , 建物 に 対 す る 考 え 方 の 違 いが あ っ て当 然 で あろ う 。 人 は 必ず 死 を 迎 え る が , そ の数 だ け 墓 が み つ か る か とい う と , そ う で は ない 。 古代 に お いて は , 華 美 に な り す ぎ た古 墳 時 代 の 墓 づ く り の反 省 と 仏 教 の 浸 透 な ど から , 薄 葬令 が 出 され 火 葬墓 が つく ら れ始 め た。蔵 骨 器,周 溝 墓,石積 み 石室 墓,土坑 墓 など が 見ら れ るが , その 検 出 例 は 限 ら れ て い る。 一 般 の 人 々 は , 現 在の 発 掘 調 査 の 対 象 地 で はな い よ うな 場 所 に葬 ら れ た の で は な い か と考 え ら れ , 九 州 山 地 の民 俗 事 例 や 東 南 ア ジ ア のラ オ ス でみ ら れ るよ う に , 山 の 中 に 人 知 れず 葬 る こ と も 視 野 に 入れ て お く 必 要 が あ る 。 なお , こ の時 期 に は,南 さ つま 市 金峰 町 芝原 遺 跡や 姶 良市 小 倉畑 遺 跡な ど で仏 教 関連 の 遺物 が 出土 し てい る。お く ら ば た ベルトに付けた 飾り( 曽於市 高篠遺跡)

(19)

表 官衙的遺 物が出土した 遺跡

参照

関連したドキュメント

17 中島 獅心 ナカジマ リオン 11 BUNZOU RACING with WISE DragoCORSE. 35 中島 獅王 ナカジマ シオン 13 BUNZOU RACING with

レインフォレスト 場所: 熱帯雨林ゾーン 最大収容人数: 20名. 催行時間: 13:30

本県は、島しょ県であるがゆえに、その歴史と文化、そして日々の県民生活が、

Caso houver anunciamento de alertas meteorológicos Temporal, Enchente, Vendaval ás 8:30 da manhã, em um dos municípios Mitake ou Kani, a admissão experimental de 1 dia será adiada

83 鹿児島市 鹿児島市 母子保健課 ○ ○

中里遺跡出土縄文土器 有形文化財 考古資料 平成13年4月10日 熊野神社の白酒祭(オビシャ行事) 無形民俗文化財 風俗慣習 平成14年4月9日

7ORDER LIVE FACTORY 「脱色と着色」~FINAL~ 追加公演情報 11月3日(木・祝)【1回目】開場 13:00/開演 14:00 【2回目】開場 17:30/開演

平成 30 年度は児童センターの設立 30 周年という節目であった。 4 月の児―センまつり