中
国
南
北
朝
時
代
に
お
け
る
律
僧
の
活
躍
佐
藤
達
玄
申 国 人 の 日 常 生 活 は、 す べ て 古 典 の 世 界 に 依 存 し、 そ こ で 説 か れ た 伝 統 的 な 権 威 に 随 順 す る こ と に よ つ て 支 え ら れ て い た と い わ れ て い る。 そ の 中 心 は 礼 の 教 え で あ り、 礼 こ そ 人 間 行 為 の 儀 法 で あ る と い う 倫 理 観 が 基 本 を な し て い る。 か か る 社 会 へ 伝 道 す る 仏 教 も、 必 然 的 に 高 遠 な 哲 理 を 説 く こ と よ り も、 出 家 者 自 身 が 戒 律 を 守 り、 礼 教 の 世 俗 倫 理 と 調 和 を 計 つ て、 出 家 道 を 口 説 身 説 す る こ と が 何 よ り も 重 要 な 課 題 で あ つ た と い え よ う。 し か し 出 家 者 が 自 己 の 立 場 を 強 調 す れ ば、 そ の こ と が か え つ て 中 国 的 家 族 倫 理 を 否 定 し、 為 政 者 の 政 治 理 念 ま で 無 視 す る こ と に も な り、 国 家 権 力 と 仏 教 教 団 と の 摩 擦 は 当 然 起 り う る こ と は 明 ら か で あ る。 そ れ に も か か わ ら ず 為 政 者 は、 出 家 の 持 戒 持 律 の 生 活 を 賞 讃 し、 王 侯 貴 族 や 有 力 な 士 大 夫 た ち は、 積 極 的 に 援 助 の 手 を さ し の べ て い る の が 実 状 で あ る。 南 北 朝 時 代 の 仏 教 界 の 第 一 人 者 で あ る 僧 祐 は ﹁ 入 レ 道 即 以 二 戒 律 一為 レ 本。 居 レ 俗 則 以 二 礼 儀 一為 レ 先 ﹂ と い つ て、 戒 律 と 世 俗 倫 理 と は 矛 盾 し な い こ と を 説 い て い る。 戒 律 の 具 体 的 な 展 開 は、 広 律 や 大 乗 菩 薩 戒 を 説 い た 経 典 類 が 伝 訳 さ れ た 五 世 紀 初 頭 以 後 で あ る が、 南 北 朝 時 代 は す で に 在 俗 生 活 に お い て も、 仏 教 信 者 で あ れ ば 戒 律 の 受 持 は 常 識 と し て 理 解 さ れ て い た。 印 度 と 同 じ よ う に 中 国 で も 三 飯 五 戒 の 受 持 が 要 求 さ れ、 仏 説 優 婆 塞 五 戒 経 や 三 飯 及 優 婆 塞 二 十 二 戒 が 中 国 で 成 立 し て い る し、 出 三 蔵 記 集 巻 四 の 失 訳 部 を み て も 五 戒 関 係 の 経 典 名 が み ら れ る。 ま た 東 晋 か ら 南 北 朝 に か け て、 菩 薩 戒 経 典 と し て 流 布 し た 梵 網 経 ・ 理 路 経 も 訳 出 さ れ た も の で は な く、 申 国 で 成 立 し た も の で あ る し、 偽 経 が 正 経 と 同 等 の 価 値 を も つ も の と し て 重 視 さ れ た こ と は、 こ の 時 代 の 社 会 通 念 で も あ つ た。 だ が 仏 教 の 戒 律 は 印 度 の 習 俗 を 基 盤 と し て 制 定 さ れ た も の で あ り、 そ れ を そ の ま ま の 姿 で、 時 代 や 風 俗 の 異 な る 中 国 社 会 に 適 用 す る に は、 い さ さ か 抵 抗 を 感 ぜ ず に は い ら れ な か つ た。 偽 経 や 中 国 の 習 俗 を 取 入 れ た 僧 制 が 出 現 し た の は こ の た め で も あ る。 僧 制 は す で に 道 安 に 始 ま り、 申 国 の 南 北 の 地 に お い て、 時 の 指 導 者 に よ つ て 多 数 制 定 中 国 南 北 朝 時 代 に お け る 律 僧 の 活 躍 ( 佐 藤 ) 七 三中 国 南 北 朝 時 代 に お け る 律 僧 の 活 躍 ( 佐 藤 ) 七 四 さ れ て い る。 こ の ほ か 東 晋 末 期 の 長 安 や 建 康 へ 多 く の 外 来 僧 が き た こ と と 相 倹 つ て、 中 国 に お け る 授 戒 儀 式 は、 戒 壇 の 設 置 に よ つ て 一 層 盛 行 し た。 宋 の 求 那 蹟 摩 が 建 業 の 南 林 寺 戒 壇 前 で 茶 毘 さ れ た こ と や、 南 斉 武 帝 の 永 明 年 間 ( 四 八 三-四 九 三 ) に 三 呉 の 地 ( 呉 興. 呉 郡 ・ 会 稽 ) に 始 め て 戒 壇 が 造 ら れ た と 伝 え て い る。 ま た 道 宣 律 師 感 通 録 に よ る と、 竺 法 護 ほ か 九 名 が そ れ ぞ れ 戒 壇 を 造 り、 四 川 省 楡 州 以 下 江 潅 の 南 に 及 ぶ 地 に 通 計 三 百 余 所 の 戒 壇 が あ つ た と い い、 ﹁ 山 東 ・ 河 北 ・ 関 内 ・ 剣 南、 戒 壇 事 不 レ 絶。 使 三 江 表 仏 法 今 四 五 百 年 曾 不 二 廃 退、 由 二戒 壇 一也。 ﹂ と い つ て い る。 ま た 比 丘 尼 伝 に よ る と、 四 世 紀 の 半 ば ご ろ よ り 建 業 を 中 心 に、 尼 僧 教 団 は 急 速 に 発 展 し、 印 度 的 戒 律 生 活 を す る 尼 僧 も 多 く み ら れ る。 曇 摩 耶 舎 の 弟 子 法 度 は、 広 州 地 方 で 尼 僧 た ち に ﹁ 専 学 二 小 乗 一禁 レ 読 二 方 等 の 唯 礼 二 釈 迦、 無 二 十 方 仏 鱒 食 用 二 銅 鉢 一無 レ 別 二 応 器 ご と い つ て、 小 乗 的 な 生 活 を 勧 め て い る。 さ ら に 僧 祐 の 法 苑 雑 縁 原 始 集 目 録 に よ る と、 宋 斉 時 代 ( 四 二 〇-五 〇 二 ) に す で に 菩 薩 戒 の 流 行 が 盛 ん で あ つ た し、 梁 の 武 帝 や 陳 の 文 帝 ・ 宣 帝 な ど は 自 ら ﹁ 菩 薩 戒 弟 子 皇 帝 ﹂ と 称 し て、 戒 律 受 持 の 道 心 を 示 し て い る。 高 僧 伝 に 記 さ れ て い る 訳 経 ・ 義 解 ・ 習 禅 の 高 僧 た ち も、 禅 と 律 を 伝 え た り、 経 典 の 研 究 講 読 と と も に 戒 律 の 普 及 に 努 め て い る。 中 国 に 伝 訳 さ れ た 戒 律 の テ キ ス ト と し て は、 戒 本 ・ 鵜 磨・ 広 律 の 三 種 が あ る。 戒 本 は 戒 の 条 文 を 記 し た も の、 鵜 磨 は 受 戒 ・ 臓 悔 な ど 教 団 の 儀 式 作 法 を の べ た も の、 広 律 は 戒 の 条 文 や 鵜 磨 の ほ か に、 戒 が 制 定 さ れ た 因 縁 や 戒 に 対 す る 罪 の 種 類、 制 裁 な ど を 詳 説 し た も の で あ る。 し た が つ て 単 に 戒 本 や 鵜 磨 だ け が 伝 わ つ て も、 広 律 の 伝 来 が な け れ ば 戒 律 に 対 す る 正 し い 認 識 は 得 ら れ な い。 と こ ろ で 広 律 の う ち、 最 も 早 く 訳 出 さ れ た も の は 有 部 の 十 調 律 で、 つ い で 四 分 律 ・ 僧 祇 律 ・ 五 分 律 の 順 で あ る。 最 初 に 伝 訳 さ れ た も の に 研 究 者 の 関 心 が 集 ま る こ と は 自 然 の 理 で あ る し、 僧 伝 な ど か ら み て 南 北 朝 時 代 の 律 学 は 十 諦 律 で 代 表 さ れ て い る 観 が あ る。 ま し て 十 諦 律 は 印 度 西 域 の 各 地 で 栄 え た 説 一 切 有 部 の 律 で、 外 来 僧 の 多 く が 有 部 系 の も の で あ つ た こ と は、 出 三 蔵 記 集 巻 十 二 の 薩 婆 多 部 記 目 録 に よ つ て 知 る こ と が で き る。 四 大 律 の う ち 十 諦 ・ 四 分 ・ 僧 祇 の 三 広 律 に つ い て は 研 究 者 も 出 て い る が、 五 分 律 は た だ 訳 出 さ れ た の み で、 南 北 朝 時 代 に は 研 究 者 も 出 ず、 流 布 さ れ た 形 迹 も み ら れ な い こ と は 注 目 す べ き で あ る。 こ れ に つ い て 先 人 は、 ﹁ 十 調 ・ 四 分 二 律 の 講 場 は 度 々 開 か れ、 そ の 註 疏 亦 多 く、 受 戒 随 行 は 専 ら 両 律 に よ つ て 行 は れ た る も、 僧 祇 ・ 五 分 両 律 は 唯 僅 か に 此 等 註 疏 中 に 例 用 せ ら れ て 行 事 上 の 補 ひ を な せ る に 過 ぎ な か つ た ﹂ か ら で あ る と い つ て い る。 い ま 北 方 長 安 で 訳 出 さ れ た 十 諦 ・ 四 分、 江 南 建 業 で 訳 出 さ れ た 僧 祇 ・ 五 分 の 四 大 広 律 の 普 及 状 態 を 地 域 別 に 分 類 し て 考 察 す る と、 お お よ
-569-そ つ き の よ う な 結 果 が え ら れ る。 ︹ 北 東 部 地 域 ︺ こ の 地 域 の 戒 律 の 弘 宣 活 動 は、 全 般 的 に み て 十 諦 律 四 分 律 が 訳 出 さ れ た 長 安 よ り、 は る か 東 方 の 洛 陽 ・ 郷 ・ 大 同 を 結 ぶ 諸 都 市 と そ の 周 辺 に 及 ん で い る。 そ の わ け は 北 方 随 一 の 文 化 都 市 長 安 が た え ず 五 胡 の 侵 入 と 戦 火 の 巷 と な つ た た め、 晋 の 王 室 や 華 北 の 貴 族 ・ 仏 教 徒 の 多 く が 前 記 の 諸 都 市、 或 は 江 南 の 地 に 難 を の が れ て、 新 た な 都 市 に 活 動 の 場 を 求 め た こ と に よ る も の と 思 わ れ る。 と く に 郵 は 東 魏 よ り 続 い て 北 斉 の 都 と な つ た た め、 北 地 仏 教 発 農 の 中 心 的 存 在 に な つ た。 広 律 で は 十 諦 律 よ り も 四 分 律 が、 律 の 権 威 者 慧 光 僧 統 や そ の 門 弟 の 活 躍 に よ つ て 弘 通 し た よ う で あ る。 続 高 僧 伝 巻 二 十 二 に よ る と、 四 分 律 を 始 め て 講 じ た の は、 四 分 律 訳 出 後 六 十 余 年 を へ た 北 魏 の 孝 文 帝 ( 四 七 一 -四 九 九 ) の こ ろ で、 五 台 山 の 北 寺 に 住 し た 法 聡 ( 四 六 四-五 五 九 ) で あ る と い わ れ て い る。 四 分 律 の 草 創 期 は 仏 陀 禅 師 が 嵩 山 少 林 寺 主 に 任 ぜ ら れ た こ ろ で、 慧 光 が 僧 統 に な つ た こ ろ は、 出 家 者 の 戒 律 に 基 づ い た 生 活 が、 社 会 一 般 か ら 強 く 要 望 さ れ て い た 時 で も あ る。 慧 光 の 弟 子 僧 達 ( 四 七 五-五 五 六 ) は、 四 分 律 を 北 魏 の 首 都 大 同 か ら 徐 州 ・ 洛 陽 の 地 で 弘 宣 し、 梁 の 武 帝 を 教 化 し て 菩 薩 戒 を 授 け る な ど、 そ の 活 躍 は 南 北 の 地 で 顕 著 で あ る。 郵 で 活 躍 し た 律 僧 と し て 慧 光 以 下 曇 隠 ・ 洪 理 ・ 道 楽 ・ 道 雲 ・ 道 暉 な ど を あ げ る こ と が で き る が、 曇 隠 は 道 覆 ・ 慧 光 の 伝 統 を う け た 律 学 の 権 威 者 で、 ﹁ 超 二 歩 京 郵、 北 悟 二 燕 趙 こ ら す ほ ど の 力 量 を も ち、 定 州 の 高 官 た ち は か れ を 神 仙 の よ う に 敬 つ た と い い、 洪 理 は 四 分 律 砂 二 巻 を 著 わ し、 そ れ が 道 宣 の こ ろ ま で 随 処 で 読 ま れ た と い つ て い る。 こ の ほ か 義 解 僧 の 僧 範 ( 四 七 五-五 五 五 ) は、 顕 義 寺 に お い て 夏 冬 厳 格 な 安 居 を 修 し、 儒 者 た ち に 菩 薩 戒 を 授 け、 五 衆 の 販 す る こ と 市 の 如 く で あ つ た と い う。 ︹中 南 部 地 域 ︺ 揚 子 江 流 域 の 江 蘇 ・ 安 徽 ・ 湖 北 の 各 省 一 帯 に お け る 戒 律 の 普 及 を み る と、 建 業 を 主 軸 と し て 江 南 の 仏 教 は 栄 え て お り、 こ こ で は 僧 祇 律 ・ 五 分 律 が 訳 出 さ れ、 そ の 普 及 は 一 つ は 東 シ ナ 海 に 面 し た 漸 江 ・ 福 建 ・ 広 東 の 各 地 域 に 及 ん で お り、 他 は 西 北 の 河 南 省 鐘 山 ま で 及 ん で い る。 江 蘇 省 一 帯 に お け る 普 及 状 態 は、 都 の 建 業 だ け で も 戒 律 弘 宣 に 功 の あ つ た も の と し て、 訳 経 五 ・ 義 解 十 ・ 習 禅 一 ・ 明 律 三 ・ 諦 経 三 ・ 亡 身 一 の 計 二 十 三 名 を 数 え る こ と が で き る。 こ の う ち 十 諦 律 を 専 ら 弘 宣 し た も の が 四、 僧 舐 四 分 各 一、 そ の 他 の 多 く は 単 に 持 戒 持 律 の も の と し て、 魚 肉 輩 辛 を 歯 に 近 づ け な か つ た も の と か、 道 俗 に 戒 法 を 授 け て 生 活 の 浄 化 に つ く し た も の た ち で あ る。 な か で も 義 解 僧 の 光 宅 寺 法 雲 は、 ﹁ 創 二 立 僧 制、 雅 為 二 後 則 一﹂ し た も の と し て 知 ら れ る が、 普 通 六 年 ( 五 二 五 ) か れ が 千 僧 斎 を 催 し た と き、 授 戒 作 法 の 厳 格 な こ と は 未 曾 有 で あ つ た。 そ の 他 の 都 市 と し て は 丹 徒 ・ 虎 丘 山 ・ 広 陵 ・ 彰 城 ・ 青 州 が あ げ ら れ る が、 こ れ ら の 地 域 で は 明 律 僧 六 名 の 活 躍 が 中 国 南 北 朝 時 代 に お け る 律 僧 の 活 躍 ( 佐 藤 ) 七 五
中 国 南 北 朝 時 代 に お け る 律 僧 の 活 躍 ( 佐 藤 ) 七 六 顕 著 で あ る。 そ の う ち 十 諦 律 に 通 じ た 僧 祐 ( 四 三 五-五 一 八 ) と 僧 球 が 有 名 で、 後 者 は 宋 の 孝 武 帝 の 販 依 を え、 建 業 に 出 て 僧 正 悦 衆 に 任 ぜ ら れ た 高 僧 で、 王 公 庶 士 に 五 戒 を 授 け、 或 は 僧 尼 要 事 二 巻 ・ 十 調 錫 磨 一 巻 を 著 わ し た 律 学 の 権 威 で、 僧 尼 要 事 は 慧 絞 当 時 も 行 な わ れ て い た と い う し、 律 行 に 疵 の な か つ た か れ に ﹁ 道 俗 販 依、 車 軌 相 接 ﹂ す る ほ ど で あ つ た と い う。 ま た 十 諦 ・ 僧 舐 に 通 じ て い た 慧 詞 は 律 の ﹁ 製 二 条 章 輔 義 貫 二 終 古 こ く 深 い 学 識 を 有 し、 宋 の 永 初 中 ( 四 二 〇-四 二 二 ) 広 陵 に お い て 大 い に 律 を 講 じ、 元 嘉 中 ( 四 二 四-四 五 三 ) 建 業 の 道 場 寺 で 律 の 弘 宣 に 努 め た。 道 綴 は 昇 明 元 年 ( 四 七 七 ) に 決 正 四 部 毘 尼 論 を 著 わ し て、 四 部 の 律 を 融 合 す る 立 場 に あ つ た こ と を 示 し て い る。 ま た 建 業 に あ つ て 斉 の 文 宣 王 の 阪 依 を え、 或 は 諸 経 を 講 じ て 義 解 僧 宝 亮 の 名 を 京 邑 に 走 せ た か れ が、 優 婆 塞 戒 を 講 じ て 道 俗 の 門 弟 三 千 余 人 を 擁 し て い た こ と は 注 目 に 値 す る。 漸 江 省 一 帯 に お い て は、 揚 州 に 訳 経 一、 刻 の 石 城 山 と 葛 蜆 山 に 義 解 各 一、 会 稽 山 陰 に 諦 経 二 ・ 上 虞 に 義 解 三 ・明 律 二、 薦 鰯 に 禅 一 の 計 十 一 名 の 活 躍 が 顕 著 で あ る。 こ の う ち 会 稽 の 嘉 祥 寺 で 弘 法 著 述 に 活 躍 し た 義 解 僧 の 慧 絞 は、 浬 墾 経 義 疏 十 巻 ・ 梵 網 経 疏 を 著 わ し、 そ れ が 世 に 行 な わ れ た と い い、 訳 経 僧 の 仏 陀 什 は 揚 州 で 五 分 律 を 訳 出 し、 そ の 大 部 よ り 戒 心 と 鵜 磨 文 を 抄 出 し、 並 び に 世 に 行 な わ れ た と い わ れ る。 こ の ほ か 明 律 僧 の 慧 祐 ・ 道 営 ( 三 九 六 -四 七 八 ) は と も に 僧 舐 律 に 通 じ た 学 者 で、 前 者 は 斉 初 東 山 (漸 江 上 虞 県 ) で 僧 舐 を 講 じ、 斉 の 寛 陵 王 子 良 の 招 き に よ つ て 建 業 で 律 の 弘 宣 に 努 め、 後 者 は 羅 什 の 弟 子 慧 観 ・ 慧 詞 よ り 律 を 学 び、 呉 郡 上 虞 よ り 京 師 に お い て 講 席 を 開 い て 学 徒 を 導 い た と い わ れ る。 江 西 省 の 盧 山 は 慧 遠 が 入 山 し て よ り 有 名 に な り、 仏 陀 蹟 陀 羅 や 仏 陀 耶 舎 な ど の 訳 経 家 を 招 い て 講 席 を 開 き、 仏 教 研 究 と と も に 法 社 の 結 成 と 各 種 節 度 の 制 定 に よ り、 盧 山 の 教 団 は 当 時 の 仏 教 界 に 大 き な 影 響 を 与 え た。 義 解 僧 の 慧 度 ・ 慧 安 ・ 法 安、 諦 経 僧 の 慧 慶 な ど は い ず れ も 戒 行 を 守 り、 鷹 山 に て 道 俗 の 教 化 に 努 め た 高 僧 で あ る。 河 南 省 の 鐘 山 地 方 で は 永 明 年 間 ( 四 八 三 -四 九 三 ) に、 明 律 僧 の 道 禅 は 十 講 律 の 権 威 者 と し て 知 ら れ、 ﹁ 経 二 略 道 化、 僧 尼 信 奉。 ⋮ ⋮ 都 邑 受 二 其 戒 範 一者 数 越 二 千 人 こ え た と い う。 ま た 義 解 僧 の 安 康 ・ 法 会、 諦 経 僧 の 道 嵩 ・ 慧 弥、 亡 身 僧 の 法 仙、 習 禅 僧 の 慧 覧 な ど 六 名 の 高 僧 が こ の 地 で 戒 律 の 弘 宣 に 活 躍 し て い る。 な か で も 安 凛 は 六 宗 教 の 教 判 を 唱 え た 人 と し て 有 名 で あ る が、 か れ は 四 分 律 を 講 ず る こ と 二 十 遍 に 及 ん だ と い わ れ る。 ま た 虎 牢 の 地 で は、 律 僧 の 志 道 ( 四 一 二-四 八 四 ) が、 洛 ・ 秦 ・ 雍 ・ 豫 の 五 州 の 道 士 を 集 め て 引 水 寺 で 律 を 講 じ、 戒 律 受 持 の 重 要 性 を 説 い た の で、 ﹁ 僧 禁 獲 レ 全 ﹂ る こ と が で き た と い つ て、 志 道 の 道 心 を 高 く 評 価 し て い る。 こ の よ う に 揚 子 江 流 域 一 帯 に 栄 え た 戒 律 仏 教 は、 そ の 教 線 を 南 方 の 福 建 ・ 広 東 両 省 ま で 展 開 さ せ て い る。 大 律 都 と
-571-い わ れ た 僧 官 の 智 文 ( 五 〇 九-五 九 九 ) は、 梁 末 の 禍 難 に 際 し 福 建 省 の 閾 下 に の が れ、 嶺 南 一 帯 の 道 俗 の 販 依 を え、 真 諦 三 蔵 ( 四 九 九-五 六 九 ) と と も に 晋 安 ( 福 州 ) ま で 律 の 弘 宣 に 努 め て い る。 か れ は 十 諦 律 を 講 ず る こ と 八 十 五 回、 大 小 乗 の 戒 心 ・ 潟 磨 等 を 二 十 余 回、 律 義 疏 十 二 巻、 漏 磨 疏 四 巻、 菩 薩 戒 疏 二 巻 を 著 わ す ほ ど の 律 学 の 大 家 で、 か れ よ り 受 戒 し た 僧 尼 は 三 千 余 人 い た と い わ れ る。 福 建 省 よ り さ ら に 南 下 し た 教 線 は 広 東 省 に も 開 花 し た。 こ の 地 の 仏 教 は 永 明 六 年 ( 四 八 八 ) に、 斉 の 竹 林 寺 の 僧 伽 蹟 陀 羅 が 広 州 で 善 見 律 毘 婆 沙 を 訳 し た こ ろ か ら 漸 く 盛 ん に な り、 梁 か ら 陳 に か け て 真 諦 三 蔵 が こ の 地 で 摂 大 乗 論 を 訳 出 し て 以 来、 仏 教 界 は 活 況 を 呈 す る よ う に な つ た。 元 嘉 十 二 年 ( 四 三 五 ) 中 天 竺 よ り 広 州 に 渡 来 し た 訳 経 僧 の 求 那 蹟 陀 羅 は、 宋 の 太 祖 を は じ め 貴 族 た ち の 販 依 を え、 菩 薩 戒 の 弘 通 に 努 め た こ と で 知 ら れ、 番 禺 ( 広 州 ) の 義 解 僧 慧 澄 は、 死 ぬ ま で 魚 肉 萱 辛 を み な か つ た と い わ れ る ほ ど、 持 律 生 活 に 徹 し て い た。 ︹西 部 地 域 ﹀ 四 川 省 の 成 都 を 中 心 と し た 西 部 地 域 一 帯 は、 成 都 か ら 眠 江 ぞ い に 上 流 に 進 み、 北 方 の 蘭 州 に 達 す る 交 通 上 の 要 衝 で、 西 域 文 化 を い ち 早 く 摂 取 し た 地 で あ り、 ま た 成 都 を 経 由 し て 揚 子 江 流 域 ぞ い に、 東 方 の 建 業 に 通 ず る 四 川 省 文 化 圏 の 中 心 地 で も あ る。 こ の 西 部 地 域 は 南 北 朝 時 代 を 通 じ て 高 僧 が 輩 出 し、 四 川 仏 教 は 意 外 に 盛 ん で あ つ た。 摂 山 三 論 の 流 れ を く む 嘉 祥 大 師 吉 蔵 も こ の 地 の 出 身 で あ る。 訳 経 僧 の 豊 良 耶 舎 ・智 猛、 義 解 僧 の 普 明 ・ 道 闊、 習 禅 僧 の 法 緒 ・ 法 成 ・ 賢 護 の 七 名 は、 四 川 盆 地 一 帯 の 各 地 で 律 を 講 じ、 或 は 戒 師 と な つ て 王 族 か ら 庶 民 に 至 る ま で 教 化 の 手 を の べ て い る。 明 律 僧 の 法 琳 (-四 五 九 ) は 十 諦 律 に 通 じ、 蜀 郡 で 戒 律 の 普 及 に 努 め た の で、 益 州 の 僧 尼 で 戒 律 を 守 ら な い も の は な か つ た と い わ れ る。 ま た 同 じ く 律 僧 の 道 房 も、 広 漢 (成 都 県 ) の 長 楽 寺 で 道 俗 に 止 悪 作 善 を 説 き、 戒 律 奉 持 の 生 活 道 を 謳 え る こ と に 専 念 し た。 ︹西 北 地 域 ︺ シ ル ク ロ ー ド の 要 衝 と し て 西 域 文 化 摂 取 の 最 先 端 に 位 置 す る 緻 煙 と、 そ の 東 方 の 涼 州 の 地 は、 西 域 文 化 が 中 国 に 流 伝 す る 際 の 第 一 の 足 だ ま り と な つ た 地 域 で あ り、 ま た こ の 地 方 を 支 配 し て い た 北 涼 王 の 奉 仏 も 加 わ つ て、 仏 教 の 全 盛 時 代 を 現 出 し て い た。 そ の 隆 盛 を も た ら し た 中 心 的 存 在 は 曇 無 識 ( 三 八 五-四 三 三 ) で あ る。 か れ に よ つ て 菩 薩 戒 が 普 及 し た こ と は 慧 咬 も 認 め て い る。 ま た 徽 煙 出 身 の 明 律 僧 法 頴 は、 同 学 の 法 力 と と も に 涼 州 に お け る 律 学 の 権 威 で、 元 嘉 の 末 (-四 五 三 ) に 都 に 下 り 都 邑 の 僧 正、 或 は 僧 主 に 任 ぜ ら れ、 十 諦 戒 本 や 鶉 磨 の 著 が あ る。 ま た 義 解 僧 の 法 乗 は 長 安 よ り 徽 煙 に き て 道 俗 の 教 化 に つ く し、 道 宣 も ﹁ 大 化 西 行 乗 之 力 ﹂ で あ る と 讃 辞 を 惜 し ま な い。 ( 昭 和 四 十 五 年 度 文 部 省 科 学 研 究 費 に よ る 研 究 成 果 の 一 部 ) ( 註 省 略 ) 中 国 南 北 朝 時 代 に お け る 律 僧 の 活 躍 ( 佐 藤 ) 七 七