南アジア研究 第28号 014書評・丹羽 京子「森本達雄(編訳)『原典でよむタゴール』」
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(2) 南アジア研究第28号( 2016年). 談、第Ⅳ部が書簡という構成である。一見して文学上の作品が少ない が、それについて著者は「短編一、二編を選ぶことでかえってサンプ ル的なものになることを懼れたため」であるとしている。ともあれ、ま ずはこの構成に沿って内容を概観していく。 第Ⅰ部の詩編だが、著者はまず高名な『ギタンジョリ』をこのアン ソロジーの冒頭に据えている。それについて著者は、貴重な機会ゆえ 基本的に未邦訳の作品を収録しようと思ったものの、この代表作のみ ははずせなかったと述べているが、順当な判断であろう。周知のとおり、 ノーベル文学賞の対象となった英語版『ギータンジャリ』はオリジナ 2. ルのベンガル語版『ギタンジョリ』の全訳ではない 。本書には、オリ ジナルの『ギタンジョリ』より 8 篇、そして英語版『ギータンジャリ』 より17 編が収められている。まずオリジナルの『ギタンジョリ』だが、 渡辺氏の翻訳から50 年以上を経て格段とこなれた現代語訳となってい ることが挙げられよう。渡辺氏は、原文の韻律を生かすことにこだわ り文語訳を採用したが、渡辺氏ご本人もいずれ読みやすい口語訳で、な おかつリズム感を失わない訳が出ることを希望されていた。それだけに もう少しこの部分を膨らませてもよかったのではないかと惜しまれる。 英語版の『ギータンジャリ』に関しては、ノーベル賞受賞直後から幾 度となく訳されてきているが、著者本人も『タゴール著作集第一巻』 (第三文明社、1981)に全訳を収めたほか、1994 年にもレグルス文庫よ りあらためて全訳を出版している。本書は基本的にその際の訳に従っ ているものの、若干の修正も加えてあり、それは著者が飽くことなく 繰り返しこの作品に取り組んできたことの証であろう。大きな変更は この書の翻訳で繰り返し用いられてきた「おんみ」が完全に姿を消し たことである。これまでいわば慣用的に「おんみ」と訳されることが 多かった二人称だが、このたった一つの語彙を入れ替えるだけでどれ だけ詩の印象が変わるかにはあらためて驚かされる。 その他の詩編はすべて基本的に未邦訳のものが収められているが、 特筆すべきは『ギトビタン』からの翻訳であろう。『ギトビタン』はタ ゴールソングの歌詞集であり、ベンガル人にはとりわけ親しまれてい る。本来が歌であることからその歌詞のみを訳して提示することに異 論もあるかもしれないが、タゴールの創造的側面を理解するためには重 要な著作であることは間違いない。こうしたものを知らしめること自. 150.
(3) 書評 森本達雄 (編訳) 『原典でよむタゴール』. 体、その意義が評価できるのではないか。それ以外の詩編は比較的初 期のものから晩年のものまでがバランスよく配置されており、「生命」 や「今から百年後に」など、しばしば人口に膾炙する作品が収められ ているのも読者には大いに助けになると思われる。 第Ⅱ部のエッセイ・講演には、「西洋におけるナショナリズム」(抄)、 「文明と進歩」、「日本紀行」(抄)、「彼の絵について」の 4 篇が収めら れている。なお、第 II 部以降は特に未邦訳を優先しているわけではな. く、すでに翻訳されているものが大多数を占めており、「日本紀行」も 著者による全訳がすでに『タゴール著作集第十巻』 (第三文明社、1987) に収められている。ただし、著者はこの場合も若干ではあるが修正を 加えている。限りあるページ数ゆえ仕方ないことなのだろうが、やはり 抄訳となっている2 編は、前後の文脈が欠けることによって、場合によ っては真意がつかみにくいのではないかと危惧される。手前勝手な構 想かもしれないが、例えば、ここは文明論に特化して、「西洋における ナショナリズム」全文と「文明と進歩」、そして「日本紀行」のなかで も文明論の一種が展開されている最終章の全訳というような組み合わ せもあり得たのではないだろうか。あるいはまた、「日本」紀行という ことで、はずせない部分があったのであれば、「日本紀行」と「日本に おけるナショナリズム」の組み合わせもあり得たかもしれない。. 第 III 部には、ロマン・ロランとの対談およびアインシュタインとの. 対談が収められている。ロマン・ロランとタゴールの親交については、 3. すでにまとまった著書、および書簡の翻訳もあり 、またアインシュタ インとの対談も、著者自身が過去にすでに翻訳したもの(『タゴール著 作集第七巻』、第三文明社、1986)を含んでいる。少ないページ数ゆえ、 こうした重複は詩編同様避けるという考え方もあろうが、一方で、タ ゴールのこうした側面をこの時期にあらためて提示する必要性を著者 が認めていたとも考えられる。なお、アインシュタインとの対談は、著 者が過去に訳したものと比べると大きく修正されており、著者自身、過 去の翻訳に不満があったか、新たな知見を得て改めて訳し直したいと 考えたのかもしれない。 最後の第Ⅳ部は書簡集であり、ここではガーンディーやネルーをはじ めとして、イエイツやパウンド、またヴィクトリア・オカンポやルーズ ヴェルトに至るまで、当時の世界の知名人たちに宛てた手紙が紹介さ. 151.
(4) 南アジア研究第28号( 2016年). れている。タゴールは膨大な数の書簡を残しており、それらが第一級 の資料的価値を持つことは間違いない。ただしその大多数を占めるベ ンガル語による手紙がここには収められておらず、その選択にやや疑問 が残る。タゴールの書簡、特にその大部分を占めるベンガル語による ものは、その資料的価値だけでなく、文学的価値が評価されているも のも少なくないところから、そうしたものも含めて欲しかったところで ある。 さて、こうして全体を概観してみると、本書はタゴールの作品と呼 べるものが占めている割合が非常に少ないという一見すると不釣り合 いな構成を持っていることがわかる。本書全 280 頁のうち、タゴールの 文学的作品である詩編は76 頁を占めているに過ぎず、残りはエッセイ や対談、書簡になっているのである。確かにタゴールは膨大で多岐に わたる著作を残しており、文学者という枠を超えて当代の世界的な知 識人としてもその名を知らしめた人物である。このタゴールの全貌をと らえ、簡潔に紹介するという仕事は一筋縄でいくものでなく、著者も おそらく悩みぬいたことであろうと思われる。ただそれでも、やはり詩 人、あるいは広くとって文学者としてのコアがあってこその知的所産で あることを考えると、やはりアンバランスに感じざるを得ない。また、 かなりの部分が英語による対談や手紙などに占められていることによ って、ベンガルという文脈から切り離されてしまっているように感じら れることも否めない。 こうした本書の構成に対する疑問は、最後に付け加えられている著 者による「タゴールと日本、そして私」によってある程度氷解する。著 者は初めてタゴールの作品を読んだ時の衝撃を「読みながら、稲妻に も似たふしぎな感動の戦慄が、一瞬わたしの体内をつらぬき、身ぶる いしたことを、わたしは今も鮮明に記憶している。脆く、はかなく、と るにたりないと思っていた人間の生命が、そのまま永遠なるものに繋が っていると、この詩人はうたうのである」と語っている。このとき、著 者がもともとは英語の勉強のためにと思って読んだのがノーベル賞受 賞作品の『ギータンジャリ』で、それを勧めてくれたのはアメリカ人 宣教師であったという。森本氏は、はじめに述べた日本におけるタゴ ール紹介の断絶期に育ち、それまでその名をまったく聞いたことがなか ったのである。つまり著者は、 「世界詩人」としてのタゴールに最初に. 152.
(5) 書評 森本達雄 (編訳) 『原典でよむタゴール』. 出会ったのであり、そのときの衝撃が生涯の仕事を牽引してきたと言っ てよいだろう。 著者は、その後タゴールの設立したビッショ・バロティ大学で、64 年から3 年間を過ごす。そして帰国後、精力的にタゴール紹介を行うの である。著者の訳によるクリパラーニの伝記『タゴールの生涯(上・ 下)』(第三文明社、1978、79)は、タゴールを知りたい読者にとって 必読の書と言ってよいだろうし、第三文明社発行の全 12 巻の『タゴー ル著作集』(1981‐93)においても、著者は多くの寄稿をするのみなら ず、編者のひとりとして全体の統括にも関わった。その長年にわたる 取り組みは、すでに行った翻訳を幾度となく修正することからも見て 取れるように真摯なものであり、本書もそうしたこれまでのタゴール紹 介の集大成としてのアンソロジーと読み解ことができるだろう。 ある意味、本書の著者は、100 年以上におよぶタゴール紹介の前半部 分と後半部分の架け橋のような存在でもある。その当初のタゴールへ のアプローチは、大正時代に多くの人が受けた衝撃とアプローチに似 ていると言える一方で、戦後を代表する氏はそれにはとどまらず、現 地に赴いてタゴールを育てたベンガルを実感し、できうる限り「本当 の」タゴールに近づこうとしてきたと言えるのではないだろうか。 およそタゴールは、その全体像をあらわすのが難しい人物である。詩 作品に限ったとしても、なにかひとつをその代表作として読み解いて詩 人のコアに触れたとは言い難い面がある。その上、それ以外のスタイ ルの文学作品が付け足しではないことは誰の目にも明らかで、さらには いわゆる「文学」の枠を超えてのけっして無視できない多大な影響力 もある。であるから、単なる著作や業績の羅列ではないタゴール紹介 をしようとすれば、書き手自身が自らのタゴール像を提示しなければな らない。 全体として本書は詩人、文学者としてのタゴールよりも、思想家、世 界的知識人としての側面が色濃く表れたものとなっているが、著者自 身の生涯をかけたタゴールへのアプローチを考えると納得がいく。著者 は巻末の「タゴールと日本、そして私」で「今日私たち日本人が直面 しつつある新ナショナリズム」について言及しているが、その思いがこ こには反映されているのではないだろうか。 著者の日本語はこなれていて読みやすく、わかりやすい。それゆえ. 153.
(6) 南アジア研究第28号( 2016年). に氏はこれまで多くの著作をなし、より多くの読者を獲得することに 成功してきた。一度忘れ去られてしまった偉人をもう一度掘り起こし、 新たなタゴール像を提示するという役割を著者は確実に果たしてきた のである。 最後に疑問をひとつ加えておきたい。出版社の意向かもしれないが、 本書のタイトルを「原典で読む」とわざわざ銘打っている意図はどこ にあるのだろうか。読者によっては、原文が付されていることを期待 してしまう向きもあるかもしれない。また、いわゆる文学作品と言える ものが少ないことから、ことさらに「原典で読む」ことを強調するの には違和感を覚えなくもない。研究書もしくは入門書と混同されるこ とを避けるためであるならアンソロジーであることがわかるようなタ イトルにすることもできたのではないだろうか。読者がタイトルによっ て持つイメージと本書の内容がずれてしまうと残念な気がする。 追記・ちょうどこの書評に取り掛かろうとするころに、奇しくも森本氏の訃報が届いた。本書 は病をおして著者が最後にまとめられたもので、これをもってひとつの時代が終わったことを 感じざるを得ない。その生涯の仕事に敬意を払いつつ、ご冥福をお祈りいたします。. 註. 1 増野三浪 (訳) 、 1913、 「インド古詩―ベンガルのラビンドラ・ナス・タゴア―」 『 、朱欒』 、 3-2、 45‐. 52頁。 2 英語版『ギータンジャリ』 とオリジナルのベンガル語版『ギタンジョリ』 の異同に関しては、. 渡辺照宏訳の『タゴール詩集』 (岩波文庫、 1977) に詳しく述べられている。 3 『ロマン・ロラン全集42 書簡X(みすず書房、 1982) にはタゴールとの対談および書簡が収. められているほか、 その訳者である蛯原徳夫による『ロマン・ロランとタゴール』 (レグルス 文庫、 1980) という著書もある。 にわ きょうこ ●東京外国語大学. 154.
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