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小児医学における子ども像

一 弘 団 長 を 中 心 に 一

学校教育専攻 人間形成コース 大 黒 貴 文

はじめに

本研究の目的は,小児医学の端緒である小児 科学に着目し,その創始者である弘田長 (1858

‑1928)の子ども観を明らかにすることによっ て,小児医学の視点からの子ども像についての 一考察を試みることである。

一般的に子ども観は様々な側面を含んでおり,

これまで教育学的見地からの子ども観について の研究は多く見られるが,医学的見地からの子 ども観についての研究はあまり見られない。

さらに,これまで弘田についての体系的な研 究はなされておらず,小児科の歴史について書 かれた文献の中でふれられることはあるが,そ の叙述は全てきわめて簡略的であり,現在まで 弘田については充分な考察が行われてきている とは言い難い。また弘田は,東京大学医学部の 初代小児科教授で、あって,明治政府による医療 の近代化が,東大を頂点とする中央集権的な構 造の中で進められたことからも,弘田の業績を 検討することは,当時の小児科学の全体像を見 る上において充分な検討に値する。

研究の概要

第一章では,近代医学の発展を概観するとと もに,弘田の生きた時代背景を瞥見した。

第一節では, 19世紀後半における日本の医 学を概観した。 19世紀後半における日本の医 学は,西洋医学の受容から始まる。そして,東 京大学医学部の成立,教育機関に見られる外国

指導教官 木 内 陽 一

人教師数の推移,学会の設立に見られる様に,

日本の近代医学が,医学教育,研究機関の整備 によって自立に至るまでの過程であった。

第二節では,西洋を中心に小児科学の成立ま でを概観した。ヨーロッパ各地に小児病院がで きたのは, 1800年代に入ってである。その大 部分が捨て子の施設から始まったものである。

小児科学は,これらの小児病院を場として発展 し,体系づけられる。そして,その背景には

「子どもは神の子Jというキリスト教思想が存 在した。

続けて,西洋の新知識の受容から始まった日 本の小児科学が自立に至るまでを概観した。東 京大学医学部において 小児科は最初から独立 した一科であったわけではなかった。独立まで は,内科の中で揮然となって教えられていた。

そして,明治 22年,弘田が小児科教授となり,

小児科の独立が見られる。

第二章では,弘田の生涯と思想、を概観した。

第三章では,弘田の業績の中でも以下の二つ を取り上げ,小児科学が普及発展し,制度化に 至るまでの過程を概観した。

第一節では

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日本小児科学会Jの設立まで の過程及びその活動を概観した。明治期を通し て,小児科学は学会が設立し,学会紙の発行が 整い,地方会が発足し全国的に普及するととも に,その研究業績は飛躍的に発展することとな った。

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第二節では

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婦人共立育児会jの設立まで の過程と活動,さらにその背景について論じた。

明治 24年,弘田は京浜地区の婦人に呼びかけ て,不用品などを売却した金を集めて,貧困児 救済を目的とした「婦人共立育児会Jを設立し た。東京市立養育院での小児の取り扱いが大人 と何の区別もなく行われていた状況を目の当た りにしたことが,そのきっかけであった。そし て,その背景には,国家の人的資源の確保とい う側面が存在した。また,総裁には皇族があた り,医療が天皇より慈恵的に与えられるものと され,当時の他の施療病院と同様に天皇制を補 強する手段として使われた。さらに,学用患者 を医大に提供して,その研究資料に充てるとい う側面をもっており,他の施療病院と同様に,

国家から与えられた慈恵医療に対し,臨床実験 や臨床実習の対象となってその恩義に報いるこ

とを患者に強いる封建的思想性が見られた。

第四章では,弘田の論文及び著書より,弘田 の子ども観について論じた。

おわりに

以上,本研究における考察の結論は,以下の 様にまとめられる。

小児科学が未だ、普及していなかった当時にお いては,子どもは大人を小さくした存在として 捉えられていた。しかし,弘田は小児科医とし て,子どもと大人の違いを認識していた。それ は,病理学的,生理学的見地に基づくものであ った。

そして,子どもの養育には特別な配慮が必要 であるということを主張し さらに,それを受 けることは子どもの権利であると主張した。儒 教的家族主義思想の根強く存在した当時におい ては,まだ子どもの権利を主張する人物はまれ であった。その中で,小児科医の立場より子ど

もの権利を主張した最初の人物が弘田であった。

この様な弘田の主張は,医学的立場からの子ど もの生存や発達を保障するその端緒となるもの であった。

そして,このような認識を広めるためにも小 児科学を普及させる必要があった。学会の設立 や婦人共立育児会の設立はそのための手段であ った。

しかし,その背景には,明治政府の殖産興業,

富国強兵という方針が存在した。婦人共立育児 会の設立の背景にも見られたように,小児科学 の普及は国家の人的資源の確保という一面が存 在した。つまり 国家の将来にとって健全で有 能な良質の国民が育つことが必要であり,その ためにこそ子どもの権利が尊重されるべきであ ると考えられた。そして,その前提として,小 児科学の普及と同時に,子どもという存在の正

しい認識の普及が必要であった。

これらのことを通してみれば,弘田が主張し た子どもの社会的単位の確立及び権利も,明治 天皇制国家から慈恵的に与えられた権利と言う 範時を出ることはなかった。子どもの健康に生 きる権利が,当時はまだ国家より慈恵的に与え られるものであった。

さらに,明治期を通して,日本小児科学会の 地方会が全国各地で開催されるようになったが,

この様な研究の恩恵を受けることができたのは 中等以上の階級の人々であった。つまり,小児 科学の全国的な普及は見られたが,まだ多くの 庶民は小児科学の知識にふれることはなかった のである。そのために 弘田が小児科学の普及 と同時に子ども観の普及を意図していたとして も,まだ庶民との聞には求離が見られ,庶民に どの程度理解されるに至ったのかについては今 後の検討が必要である。

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参照

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