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純粋贈与関係の考察
一贈与者・受贈者の意識の有無に着目してー
人間教育専攻
現代教育課題総合コース 成 松 千 穂
はじめに
矢野智司は、贈与者が見返りを求めずに、受 贈者に贈与するという純粋贈与の概念を論じた。
本研究の目的は、この純粋贈与における贈与者 と受贈者の意識の有無に着目し、純粋贈与をさ らに精微化することである。
第 1章 純 粋 贈 与 の 性 格
贈与論の原点ともいうべきマルセル・モース の贈与論では、贈与にはお返しの義務があるこ とから、与えるーお返しするという行為は贈与 交換であると論じられている。
しかし、矢野は、夏目激石、宮沢賢治の文学 作品を手がかりに、見返りを求めない純粋贈与 があると主張した。それは、「先生Jが「私Jに 生きた教訓として贈った自死や、友人を助ける ために死んだカムパノレネラの死に代表される。
しかし、ひばりの子を助けた子兎のホモイが失 明するように、純粋贈与には、共同体の道徳の 教えを超えることで、その秩序を揺るがすとい
う過剰な性格もある。
第
2
章 純 粋 贈 与 が 生 起 す る 場実際に純粋贈与が生起する場では、「発達の論 理j と「生成の論理」がせめぎ合っている。
例えば、学校教育の中でも行われるボランテ
指 導 教 員 小 西 正 雄
イアは「発達」の側面が強調され、「生成Jが置 き去りにされた結果、本来は自己が世界と溶解 し、世界との連続性を味わう「体験」であるに もかかわらず、ある有用な能力を身につけるこ とを目的とした「経験」として回収されてしま うのである。
またデリダは、贈与者、受贈者ともに贈与と いうことを認識してしまうことで、お返しの義 務が発生することから、贈与には忘却の義務が 必要であると論じた。しかしながら、贈与が忘 却されるということは、贈与が贈与でなくなる 可能性がでてきてしまうのである。
第
3
章 意識的純粋贈与と無意識的純粋贈与 たとえば、おばあさんが子どもたちに与えた みかんが、子どもたちにとってはみかんとして・て以上のある種のメッセージ性を帯びることが ある。このように「贈与の非対称性j という性 質から、純粋贈与には贈与者が贈与に対して意 識的である意識的純粋贈与と無意識的である無 意識的純粋贈与があると想定できる。そこで、
贈与者だけでなく、受贈者の意識の有無にも着 目し、純粋贈与を①贈与者:意識的/受贈者:
意識的②贈与者:無意識的/受贈者:意識的③ 贈与者:意識的/受贈者:無意識的④贈与者:
無意識的/受贈者:無意識的という
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つの型に- 52 -
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分類し、考察を行った。それにより、贈与者は、
贈与者として生起した時点で、意識的か無意識 的かが決まるという、贈与者の意識の不可変性 に対し、受贈者は、贈与が習慣ゃあたりまえに なることで、意識的にも無意識的にもなるとい う、受贈者の意識の可変性が明らかになった。
また、みかんを与えたおばあさんが、意識的 純粋贈与者でもあり、同時に無意識的純粋贈与 者でもあるということから、贈与物の可変性と いう性質が明らかになる。これは、贈与物の非 対称性の存在からも明らかなように、贈与者が 贈与物に込めた意味や思いと、受贈者がそれを 受け取ったときに感じる意味や思いが必ずしも 一致するのではなく、また、贈与物が「発酵J するための時聞が与えられることで、贈与物の 意味が変化していくのである。
贈与物の非対称性は、教師の叱りがそうであ るように、子どもには嫌なものとして、受け取 りを拒否される可能性があるという事態を時に 招く。つまり、贈与者は自己を無防備に差し出
したパノレネラブルな状態であるといえる。
ここで、前章で示したデリダの純粋贈与の不 可能性について再考する。デリダが指摘するよ うに、純粋贈与であっても、贈与者・受贈者の 意識がある場合、それは純粋贈与とはならない かもしれない。しかし、意識的純粋贈与と無意 識的純粋贈与が同時に成立することや、受贈者 の意識の可変性によって、意識的ではあっては ならない贈与を贈与として生起させることがで きるのではないだろうか。
また、純粋贈与には、双方向の純粋贈与が存 在する。それは、「聴く」といった行為が、例え ば悩み聴く場合は、受贈者ではなく、安心感を 与える贈与者になったり、飼い主が犬に餌を与 えるという行為が、飼い主に安らぎを与えてい
るというような存在という贈与である。つまり、
目に見える贈与の裏で、目に見えない贈与がな され、一方向に見える贈与が、実は双方向の贈 与であるのだ。ここで注目すべきは、贈与者と 受贈者の立場の転換だけではなく、存在という、
私たち自身が贈与物に成り得る可能性があると いうことである。しかしながら、ここで注意す べきは、双方向の純粋贈与は与えられたことに よるお返し、つまり贈与交換ではなく、それぞ れが独立した純粋贈与であり、他の純粋贈与に は影響を与えていないということである。
また、私たちは誰もが純粋贈与者になる可能 性を持っている。それは純粋贈与が母親の愛の ような通時的な純粋贈与であり、また、存在と いう贈与のように共時的にも広がりを持った贈 与だからである。
おわりに
現在の学校教育には、様々な課題が山積して いる。これらの課題を純粋贈与で捉えなおすと き、高橋勝の「自己形成空間
J
を手がかりに論 じることができる。「自己形成空間jは、無意識 のうちに「古い自己」を解体し、「新しい自己」を再生していく場であることから、溶解体験を 引き起こす「生成の論理」にほぼ重ね合わせる ことができる。つまり、子どもの生を支える「自 己形成空間」の獲得には、ある程度の純粋贈与 の機会が必要となるのだ。
今日において、この「自己形成空間Jが減少 しているものの、誰もが純粋贈与者になれる可 能性を持っているように、私たちはすでに純粋 贈与のリレーに組み込まれているといえる。純 粋贈与は私たちの生を支え、生きることの根源 へと導いてくれるのである。