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アダム・スミスの財政論 ︵一︶  

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(1)

凡D仙e Herrsc訂ftdes Eigentums musste sicF︻石tWendig NuerSt gegen deコ Staat wendenund diesen auf−訝eヨ  

Oderweni喝Sten¢︸daesihn n−Cどentbe冒enkann小auSF夢︻en.AdamSmitFbeganndieseAu∽冨Eungg訂icF詣itigmit  

de︻indu乳r邑−enReくOhtiOn∵ndem er−∃のseine£Unters宍Fung罫er daひWesen und dieU−SaCF2n des2ati昌・  

a−re首htums︶−Ferausgab unddadurcbdie句inanzwissenscFaftscFuf.A−−ebis訂rige FinanNWissenscFaft wa︻e舛kT  

宏iくnatiOna−gewesen∵die Staatsw旨¢Cha諾war als b−OSS付r Z篭㍍︼g des g岩NtPロS什aaげsw川SenS angeSehen﹀ dem  

Staat a−s筈−cF︑en u已ergeOanet WO乙eロ⁝Adam SmitF machte den只OSmOpO−itism仁S den natiOna訂n Zwec河eP  

untertan und erFOb die Staatswiユschaft Num Wesen und Nweck deひ Staats.Er蒜du軋erte die 勺0tik.die 

Paユeieコ︐die Re−igiOn.巴︼es auf¢kOnOmisc訂只ategOrien已nd erkannte dad已CF das Ei驚nt仁m a−s das WeseP  

dieくerr針her亡nga訂de牒Zwec打desStaats an.V ︵守監守討昏g蚤貞鴫卜蔓昏g訂邑㌣−∞定︶  

∵   

アダム・ス︑︑\スの財政論にかんしては︑小文末尾にあげておいたように︑おびただしい研究があるから︑もはや  

すでに研究ずみのことがらに属するとおもわれるかもしれない︒しかし︑わたしは︑次の四点についての主要な仕   

第三十二巻罪二号  

アダム・スミスの財政論 ︵一︶  

1初期スミスの財政論 −  

山   崎  

︵仙五〇︶ 二〇  

OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

(2)

事が依然のこっているのではな.いかとおもう︒すなわち第一にスミス社会科学体系の発展における財政範疇のもん  

だい︑第二にス︑︑\ス把握における財政論的視角の意義のもんだい︑第三にスミス財政論の社会史的.・財政史的なら  

びに財政思想=学史的意義のもんだい︑第四に第二︑第三ともかんれんするが︑スミス財政論のマルクス財政論に  

たいする意義めもんだい︑がそれである︒これら/のものはそれぞれ密接にかんけいがあるが︑ここ.で以下︑各論点  

についてかんたんにのぺたい︒  

第一のもんだいについては︑はとんどつまびらかにされたことはなく︑財政論的研究のおおくほ﹃諸国民の富﹄  

第五篇を中心に記述される︒ときに﹃グラースゴク講義﹄に関説することがあっても︑それほかんたんな言及であ  

って︑諸他の社会思想史的・経済学史的研究に比較すれば格段の見劣りがみられる︒第二についていえば︑従来︑  

経済学的アプローチと財政学的アプローチが分断されるのが常であった︒ヨーロッパにおいて正統派の二つの科学  

がイギリス︵正統派経済学︶とドイ 

できてしまった︒経済学史家は価値論・剰余価値論・蓄積論にみがきをかけ︑財政学者は租税原則論や公債論を技  

術的に論じながら︑ス︑︑︑ス財政論の翳さを難じた︒かくて両者は統一されることがなく︑別箇の道をあゆむことに  

なったのだが︑これではこれら二つの科学を生かすことにはならない︒なぜなら︑経済学は価値論から︑国家論に上  

向して︑社会観としての社会科学に包括されなければ︑その実践性を獲得しえず︑後者はそのうちに価値論への下  

向を前提しなければたんなる技術学か政策学に堕するからである︒この上向・下向の旅ほ不断に研究者によって試  

みられなければならず︑その旅の途中の国家に近き旅程に財政範疇がかならず存在するから︑財政学ほ社会科学体  

系における必然のカテゴリなのである︒しばしば経済学はポリティカル・イコノミーでなければならないと提唱さ  

れるが︑そのばあい︑経済学は無雑作に国家的・政治的なものとむすびつけられて︑その環であるはずの財政範暗  

アダム・ス︑︑\スの財政論︵一︶  ︵一五二︶ 二山   

OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

(3)

義三十三巻第二号  ︵妄二︶ 三 

が意識的kとりあげられないのである︒わたしほ国家の集中的表現は財政であり︑経済の集中的表現もまた財政で  

あるとおもう︒そしで経済学←財政学←政治学の上向過程を歴史的に研究することが経済学史←財政学史←政治学  

史であるとかん.がえるから︑アダム・スミス社会科学体系における財政範疇の研究ほポリティカル・イコノミス寸  

\    であったス︑︑\ス把握において不可欠のものであろうとおもう︒いわゆる社会思想史ほこれら三者の統山による社会  観史であるが︑しばしば論理化されることなく無媒介に統一されてしまうことがおおいのではないであろうか︒少  くとも財政範疇が意識されることがないのほ︑経済学史にとっても政治思想史にとっても︑その精密化と深化の点  で重要な論点を逃がすことになろう︒ついでにかけば︑戦後のある時期に合言葉になった経済学学のアイロニーほ  この経済学と財政学の分裂に起因することがおおく︑この両者の統山は経済学学の悩みを止揚する唯仙の道ではな  いにしても畳要な道であるとおもう︒重度的にいえぼ︑アダム・ス︑︑ニスにあっては経済学と財政学はわかちがたく  むすびついていたが︑それがなぜに分裂するに至ったか︒この間いにこたえなけれほ右の統一を轟にもたらすこと  はできないであろう︒わたしたちは右の統一を︑歴史的発展を無視しっつ︑道具主義的に結びつけることによって  ︵1︶ 実践性を保持し確保することがそきると即断するのは危険であるとかんがえる︒  

第三については一般的な分析はあたえられてはいるものの︑スミス周辺の論者︑たとえばロック︑モンテスキュ  

ーやハチスン︑ヒェーム︑︑︑︑ラ1︑ペイン︑ヘンリー・ホーム︑バークたちや︑モロー・ドゥ・ポーモンそれにジェ  

ームズ√ステ宣アトトを中核とする重商主義者たち︑およびスミス当時の財政史・政治史とのかんけいが厳密に検  

証されることなく意義づけられているようにおもわれることである︒さらにもっといけないのは財政思想‖‖‖学史の  

方法論そのものが根本から反省されていず︑劇︑二の例外をのぞいてはすぺてなしくずしの叙述がみられることであ  

って︑経済思想=学史の側での研究と比較して相当のおくれをみせているといわなければならない︒これは財政学   

OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

(4)

固有の複雑さによるとはいえ︑財政学にたずさわるもの▲の反省が要求される︒つまり︑これは財政学の分野では未  

だ歴史的研究の意味が正当な姿勢によって問われていないからであろう︒ところで欝四のもんだいほこれとかんれ  

んする︒側体︑経済学と財政学の統一主いうが︑それはかんたんなもんだいではない︒宇佐美誠次郎教授と島恭彦  

教授は主としてドイツ風の財政学が正しい政治論と経済理論を欠いているとして︑経済学の必然的展開としての財  

政学をマルクスに求め︑そのマルクス財政学の先駆としてのスミス財政論のふくむ正しさを学ばなければならぬと  

された︒これにたいして武田隆夫教授はスミスなどのポリ一アイカル・イコノミーはむしろその経済学の未熟さをこ  

そ示す庵のであれ︑決して経済学と財政学の統一などというものではない︒かれらイギリス古典経済学が経済理論  

イコール経済政策論でありえたのは︑その主張する経済政策がなんらの数値をもたないゼノロの政策︵それは当時の  

具体的な歴史状況に依存する︶であったからであるとされて︑マルクス財政学と古典経済学にふくまれるそれとを  

区別される︒そしていわゆるマルクスの﹃序文﹄や﹃序説﹄や﹃手紙﹄の纏済学批判体系ブラシは﹃序文﹄をのぞ  

いて︑いずれも公刊の意図をもったものでないとして︑プランをはとんど無視しながら︑財政範疇の財政政策論と  

しての段階論的性質を強調された︒すなわち︑ポリティカル・イコノミーはイギリス︑ドイツや自由主義の段階と  

帝国主義の段階というように︑時代と場所と射異なるに応じて︑直接の﹁理論﹂をもってその政策論を基礎づける  

のであるから︑スミス︑リカァードオの財政論も︑シュタイン︑ワグナー︑シェフレーなどの財政論も︑今日の﹁あ  

たらしい﹂財政論も︑本質的な相違はないといってさしつかえない︒だから︑むしろ社会科学としての財政学はかか  

るさまざまのポリティカル・イコノ︑︑︑−の鄭としてあらわれる財政論ないし財政学を批判するものとして︑いい  

かえれは︑それらを一面では肯定的に理解するとともに︑他面では否定的に理解するものとして︑確立されなけれ  

ばならない︒そしてそれこそがマルクスがなし︑またはなそうとしていたところのものではなかろうか︒しかも︑そ  

︵一重エ︶ 二三   アダム●スミスの財政論︵一︶  

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(5)

第三十二巻 第二号  ︵九四︶ 二四  

れはス︑︑︑︑スやリカ7−ドオの取扱い方とはまったく異ったものだというぺきではなかろうかと武田教授ほいわれ  

︵2︶  

た︒この武田教授の基本的方法は周知の宇野理論にもとずくものとおもわれるが︑いまそれほおいて︑武田教授の  

議論に島教授やその他の諸氏が反批判七疑問をだされているのをみると︑斉藤博氏はマルクス経済学批判体系が歴  

史的・理論的方法によって資本主義を抽象的なものから︑より具体的なより複雑ながテゴリへと上向し︑資本制社  

会の経済構造を﹁山個の豊富な総体性﹂ ﹁多様の統ことして把握しょうとしたものであり︑本源的蓄積にかんす  

へき︶  る叙述の例ほ︑その理論的・歴史的方法の見本であること︑そして・﹁国家の形態でのプルジュワ社会の総括﹂のた  

︵4︶  めに︑媒介的契機としての財政範疇を揚言される︒能勢哲也氏はH経済学が﹁資本制経済の内的本質的構造を追求  

する面が強化されればされ.る程﹂かえって超段階的な科学的経済学の確立というのほ無意味である︒ロボリテイカ  

ル・イコノ︑︑︑−批判としての財政学の例としてマルクス主義財政学による諸他の財政学批判の意義のみを強調する  

へ∂︶ むとはかえって財政学を孤立・分離させる七いわれる︒当の島教授ほ武田教授が経済学と財政学の発展の方向を理  

論と歴史と政策との切断のなかにみいだそうとするものであり︑マルクスにあっての抽象的法則が歴史的現実のな  

かで作用し︑その歴史的現実をあたらしい社会の方向へと動かす法則1イたとえば﹃資本論﹄第一巻のエ場立法を  

めぐる闘争・本源的蓄積論における具休的階級分析−1であることを忘れさるものである︒そしてさらに ﹃資本  

論﹄が政策﹁ゼロ﹂の段階を対象としているから︑そのなかに国家認識がふくまれないといった見解がナンセンス  

である︒すなわち﹁政麗ゼロの段階﹂ とか ﹁政策の中立性﹂などはそもそもブルジュワ・イデオ宣ギーであっ  

︵6こ て︑当時においても︑国家権力は租税・国債・産業国有によって資本集中促進のテコとなったことを主張された︒  

しかし︑むしろ武田教授こそプル汐ユワ・イデオロギーであるス︑︑︑ス財政論が︑他をあざむくことによって︑自己  

をもあざむくものであることを強調したのであって︑もんだいは武田教授が過去の財政学が実ほ財政思想であるこ   

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(6)

得のいく論理で説明しなければならない︒  

アダム・スミスの財政論︵こ   とを論じていることに︑そして正しい経済学が樹立されたからといって︑それによって正しい財政のあり方ほ示さ  れない︒正しい財政学のあり方は正tい経済学はよって財政のあり方の必然的根拠をあきらかにしつつ︑財政のあ  り方が資本主義の世界史的発展に七もなって変化してきた必然的根拠をあきらかにすることだとされるこ.とにあろ  へーし  う︒ここでは第一に思想と理論が切断されて︑理論は財政思想と財政の必然的根拠をあきらかにするものであり︑  第二にしたがって理論ほ自己主張を放棄しで正しい経済や財政を高揚するものではありえないとされるのである︒  学問のあり方が正しいということと︑正しい学問ということとほ別のものであるとされる︒かくて理論の実践性は  その認識論性格にあるのであって︑主張ではなくなる︒   

この場所で右によまれた論争をこまかく論ずることはできないが︑わたし濾大内兵衛氏のように︑これがどうで  

へ8︶  

もよいもんたいだとはおもわない︑いやむしろかかるレ寸リソクでこのもんだいをよけるべきではない︒わたしほ  

緒論をさきまわりしていえほ︑宇佐美・島両教授と︑武田教授の見解が板木的に対立してい・るとぬかんがえない︒  

両者を止揚しうる立場があ乃うるはずであるとかんがえる︒なぜなら︑マルクスの方法ほ思想であれながら同時に  

理論であり︑過去の継承でありながら同時に断絶であるから︑宇佐美・島両教授のばあいの統脚面の強調も武田教  

授の断絶面の指摘もどちらもひとしく重要な側面なのである︒前者が窮極のもんだいを論じ︑後者は手続きのもん  

だいを論究しているのではないか︒したがっやわたしのかんがえでは宇佐美・島両教授︑とくに反批判をおこな  

/  

︵10︶  

︵9︶  

った島教授のばあい︑Hプラ/ンもんだいの実証的研究ロブランもんだいの論理的究明蓼たんなる引用でほなく  

︵11︶   − 臼マルクスの独自性の探究が必要であり︑武田教授のばあいHマルクスにおける歴史的継承性ロマルクスにあ  

っての思想・実践の性格が照射されなければならない︒とくにいわゆる原理論・段階論・現状分析のかんけいを納  

二五五︶ 二五   

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(7)

︵一五六︶ 二六 第三十二巻 讐一亨  

わたしの課題は右にのべた藷論点をわたしなりに追求することにあるが︑これらを全面的にあきらかにするに  

は︑いまは能力も余裕もない︒以下においては第一bの論点を中心に第二論点をも表象にうかべつつ︑ス︑︑︑妄のみを  

探究し︑のちの作巣の準備としたいのである︒これによりて古典財政論の意義と限界が少しでも明確になれば︑こ  

こでの.わたしの仕事ほ︑仙応︑.達成されたとみてよい︒   

︵1′︶一般的にいってケインズ主義的財政政策の実践性はかかる危険をふくむ︒   

︵2︶武乱隆夫﹁マルクス主義経済学と財政学1財政学の学問的性格に関する宇佐美・島両教授の所説にたいする若干の疑問   

!﹂ ︵有沢広巳・宇野弘蔵・向坂逸郎編冒ルクス経済学の研整−1大内兵衛先生還暦記念論文集︵上︶1とくに  

二五〇−七一ぺーダ︶また武田氏の﹁財政学における﹁根﹂と﹁穂先﹂﹂ ︵経済学全集発雷・ヱも参考になる︒   

︵3︶書信粛・斉藤博﹁マルクス﹃経済学批判体系﹄研究序説﹂ ︵﹃経済論叢﹄七二埜ハ号︶五七−八ぺー汐︒   

︵4︶斎藤博﹁財政学と国家認識−ス︑︑︑スとマルクスーー﹂ ︵還済論叢﹄七九重一事︶四六−八ぺー汐︒   

︵5︶能勢哲也﹁アダム・ス︑︑︑スの財政論と経済学⊥﹁財政政策と経済法則の関連を中心として1﹂ ︵還大論集﹄︶二二ぺ  

ージ︒   

︵6︶島恭彦扇政学原理﹄とくに七−一二ぺージ.島民ほさいきんの論文において︑直接に宇野理論を素材としながら︑同じ  

論旨をくりかえし︑とくにそれが図式的=形式的段階論であることを︑今日の社会主義︑資本主義共存の降代の認識不能  

を説き︑経済学はそれがもっとも必要とされるところで認識を断念しなければならないといわれる︒参照︑同﹁素価な政  

府汰澗の再構成﹂ ︵﹃彦根論叢﹄望ハ・四七合併号︶とくに四五−五五ぺー汐︒   

︵7︶武田隆夫・遠藤湘菖・大内力還代財政の理論−その批判的解明−−﹂とくに六六−七ぺージ︒武田隆夫﹁財政思想  

史﹂ ︵﹃経済セ︑︑\ナー﹄三号︶ 山田−五ぺージ︒   

︵8︶大内兵衛・武田隆夫﹃財政学−四六ページ︒   

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(8)

ラースゴク講義﹄が主たる対象となる︒  

アダム・ス︑︑\スの財政論︵一︶   ︵9︶たとえば佐藤金三郎↓﹃経済学批判﹄体系と﹃資本論﹄1−r﹃経済学批判網凄﹄を中心として −﹂ ︵﹃経済学雑誌﹄三  

一巻五・六号︶はすぐれた分析によって変更説︵二極分解説による︶を論究している︒この論文は直接には財政範疇を論  

じていないが︑をれは竜資本論﹄とは﹁独立﹂し︑たたんなる﹁特殊理論﹂をなすとしているようにおもわれる︵とくに五  

八1九ぺージ︶︒   

︵10︶斉藤艮にしろ︑島教授紅しろマルクスのプランとレーニンの短いことば︵斉藤氏︶を引用して自説を展開するのみであっ  

て︑武田教授や宇野教授の土俵にあがっておらず︑これでは批判にならない︒武田教授らは自分の説がマルクスの字義と  

異なることを︑わざわざおしえていただかなくともよいというであろう︒   

︵11︶教授は肯定と否定において財政および財政思想の歴史的・必然的根拠をあきらかにするといわれるが︑たとえばワグナー  

とスミスを同じく肯定するといっでも︑また否定するといってもへその内容はどはど異なるはずである︒もし同一視にす  

べてがおわり︑ただ一人マルクス ー しかも教授の解釈による︑マルクス1のみが正しいなら︑それこそマルクスの絶対  

化であり︑教授のおそれるこ′と︑つまり他のものを絶対的にあやまやだとしでしり′ぞけるだけで︑その意義を評価するこ  

もできなけれはみずからの限界をも自覚することもできない︵還済セミナト﹄前出一五ぺ一望しと紅なろう︒わたし  

たちほス︑︑\スからマルクスへの通を継承と断絶の二側面から追求しなければならない︒ 

二  

わたしが初期ス︑︑︑スというのは一七六四年の渡仏までをさしているが︑その期間のスミスの著作は﹃道徳感惜の  

理論﹄亡七五九年︶のみであり︑そこでほかれにおける倫理学の内容が示さ凱たのである︒必要なかぎりこの作  

品にもふれたいがヽ財政論としては一七四八−五二年の﹃モアインパラ講義﹄と一七六三−四年に筆記された﹃グ  

︵一五七︶ 二七   

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(9)

︵一五八︶ 二八   第三十二巻 第二号  

﹃エディンバラ講義﹄  ﹃エディンバラ講義﹄ の内容の詳細ははとんど不明であるが︑スコッートの発見した経済  

学的論文は分業論および陸運と水運にかんするものであり︑第一節の分業論において︑分業が生産力をたかめると  

同時に市場をひろめ︑それがまた分業による生産力をたかめるという分析を示す︒とくに分業が国内市場をひろく  ホーム‖マーキッ⁚ト  せしめ︑そこでは﹁外国とのあいだの商業︵any fOreigF cOmmerCe︶がはとんどなくとも︑国内市場が相当にひろい  

︵1︶  

ので︑わた.したちほ分業﹂をみることができる︒﹁完全な分業は農業の発明ののちにおこなわれ﹂ ﹁農業によって  

同じ大いさの土地が︑ただに穀物を産出するようになるほかりでなく︑以前よりも非常におおくの家畜を飼育する  ホーム‖マーキノー  ことができるようになる︒だから非常にお倒くの人々が同じ場所で容易に生活しうる︒その結果︑国内市場ほ非常  

へ2︶  

にひろくなってくる︒﹂これらのス︑︑︑スの論旨ほ分業と国内市場の謳歌であって︑スミス経済学の原基がここに示  

ヽヽヽヽ  ヽヽヽヽ  ヽヽヽヽ  される︒ことに分業論において国内市場のことばがみられ︑外国南米がはとんど存在しなくても︑国内市場の発生  

云々の文章は注月すべきであろう︒のちの ﹃グラースゴク講義﹄や﹃諸国民の富﹄ の分業論においてほ商業の範囲  

・市場のひろさが論じられても︑国内市場のことほほない︒ないしほ国内市場追求の蛾烈な意識ほない︒それほは  

とんど分業による生産力的側面の所論である︒わたしはここに常州に初期ス︑︑\スの反重商主義的なラディカルな見  

地と第二にその未完成的性質 − ﹃諸国民の富﹄にあってほ国内市場ほ以後の具体的経済分析に内実化され︑集中  

されてのぺられているとおもわれる箋をみる︒いずれにせよ︑この分業論をその意味で重視したいのであるが︑  

さしあたりの財政論的見地はここにほみられない︒しかし︑課税のもんだいがかかる分業と市場の阻害の条件とし  

て議論されるス︑︑︑スにおいて︑この原基の展開ほ財政論の前提としてあくまで味読されねはならない︒   

ところでこの﹃土デインパラ講義﹄の他の大部分は消失︵もしくほス︑\\ス自身の指示による焼失︶してしまって︑  

あきらかでほないのだが︑いわゆる﹁不変の主題﹂はこの﹃エディンバラ講義﹄ 二年目である一七四九年に思想化   

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(10)

されたものであったことほのちにスミスが固執して記しているものである︒それほ﹁人間ほ政治家ならびに企画家  

によって概して政治的技術の素材とかんがえられて小る︒企画家ほ人事における自然の作用過程を妨げる︒ところ  

が︑自然をしてそれ自らの企図を成就せしめるためにほ︑これを放任し︑その目的追求にあって自然にたいしフェ  

ア・プレーをあたえる以外に必要ほない︒﹂ ﹁国家を最低度の野箪より最高度の富裕に導くためには︑平和と低い  

租税とある程度の正義以外になんら必要なものはない︒他の一切のものほ事物のナチュラル・コースによってもた  

らされる︒このナチヱフル・コースを妨げ︑これを強いて他の遍路に行かしめ︑またはある特定の点において社会  

の進歩を阻止しょうとするすべての政府ほアンナチヱフルであり︑自分自身を推持しようとしてかならず抑圧的●  

へS︶  

弾圧的にならざるをえない﹂というにあった訂すなわち︑﹁富裕﹂のために必要なものはH﹁平和﹂︵peace︶0﹁低  

い租税﹂︵easy 

外のことを国家ほしてはならぬというのである︵=思想︶が︑この命題の論証には富ほ国家によっても︑戦争によ  

っても︑財政政策によっても生じないという論理があきらかにならなくてはならない︒この論理が実ほ右の分業論  

からはじめられるかれの経済学︵=理論︶・であるやそれ故︑すでに芸デインパラ講義﹄において︑ス︑︑︑\スの社会  

科学体系の思想的・理論的原基がかたち作られていたとかんがえてせい︒  

︵4︶  ところでこの﹁低い租税﹂ ︵easyta莞∽︶ とほ何であろうか︒これを﹁軽い租税﹂と訳してもよいだろうが︑し  

かし︑これが単純にノ↓少ない租税﹂とかんがえられてもよいであろうか︒それを断定する資料がわたしたちには欠  

けているのたが︑わたしほかならずしも少なければ少ないはどよい︑できるだけ安あがりの方がよいという意味に  

ほ解しない︒それほのちにみる﹃グラースゴク講義﹄との統一的視角からすると﹁できるだけ分発と蓄積を阻害し  

ない︑むしろ人民の反抗と抵抗をまねかないように︑知らず知らずに徴収しうるものを指しているのであって︑決   

アダム・ス︑︑︑スの財政論︵こ  こ五九︶ 二九   

OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

(11)

︵一六〇︶ 三〇  第三十二巻 琴一号  

してたんに絶対的な経済貴を︑しかも人馬とのかんけいをほずして論じているようには︑うけとりえないからであ  

る︒それほ原文めように容易な︑徴収し易い租税ということだ︒﹁安価な政府﹂ほ決してス︑︑長のいいだしたこと  

ばでもなければ︑スミス財政論の正確きわまりないスローガンであるとも︑わたしほお.もわない︒   

芸デインバラ評論﹄への寄稿文冒ダインバラ評論㌣ほ二七五五年︑冒デインパラ講義﹄の聴講者である  

クェダパーンにより創刊されたスコットテンドのイングランドへの対抗意識をふくむ︑わかわかしい評論誌である  

が︑宗教家の非難もあって︑二号雑誌におぁったっスミスは創刊号±七五五年七月︶と二号︵〟七五六年一月︶  

に︑それぞれサミふ手ル・ジョンスンの﹃イギリス.藷辞典﹄ ︵融七五五年四月︶批評と︑大陸とくにフランス思想  

界についてのなまなましい編集者宛め手紙を寄稿したが︑ここでほ前者についてのみふれる︒ス︑︑︑スほ㌢ヨンスン  

の仕事の意義をみとめながらも︑しかも外見上ほ同慈義にみえることばの区別に充分な注意がほらわれていないと  

して︑Butおよび衰亡mOurの項目について﹁その例を射たる︒   

そのうち︑ごこで興味あるのⅥス︑︑去がB已について︑それはTイギリス語のun−essやe誓eptとはとんど  

同じ意味に用いられ︑ラテン語のnisiフランス語のsin呂に相当する︒人民ほかれらに課税の一部を減免しな  

ければ満足しなかった︒   

TThepeOp︼earenOttObesati乳ied︶butbyremittingtFemsOmeOftbeir ta舛eS・   

ThepeOp−earenOttObesatisfi2du un−200S by remitting themetc・   

T訂pe旦earenOttObesatisfiedu e誓eptbyremittingthem etcJ  

﹁さいしょの文章の表現は人民を宥めるには提案された方法以外の他のいかなる方法も不充分なことをとくにあら  

わしている︒第ごの文章の表現はこの方法が実行されねばならない︑さもなければ人民ほ暴動をおこすだろう︑のい   

OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

(12)

▲\ゝ ゝ ′  

ずれかのことがらについてとくにあらわしている︒し尭がってさいしょのものより二者択一的だといえる︒第三の  

文章の表現は提案されうるすべてのもののうちいもっとも効果的なものをえらびだしている人々の意見をあらわ  

す︒un−essを用いるときにほ︑提案された以外の他のなんらかの方法を考慮していることをあらわしてはいな  

い︒ところがbutやe誓eptを用い各ときにほ︑他のなんらかの方法を考慮していることをあらわそうとしてい  

る︒butほ提案された以外の他のいかなる方法をも消極的に拒否す′ることをあらわし︑e警ept ほ提案された方  

法の積極的選択をあらわし︑unlessほこの方法も他の方法をもあらわさなくて︑ただこのことが実行されねばな  

︵5︶ らない︒さもなければ他のこと・がらがおむるだろう︑という二者択㌻をあらわしているのみである︒   

いうまでもなく︑言語学的分析であるこの文章ほ財政と直接のかんけいほない︒しかし︑スミスの右の例示が当  

時の財政をめぐる国家と人民のかんけいの一つの雰囲気を示していると同時にそ︑\ス財政思想の思想的基盤を暗示  

してはいないだろうか︒わたしほス︑︑︑スの著作において右の例文に近きものを探してみて︑徒労であったが︑これ  

らの文章がスミス社会科学の分析にかんけいのないものとほおもゎない︒水田洋氏はこの言語学的分析についてス  

ミスの古典主義に言及しっつ︑同時に︑・ジョンスンの﹃辞典﹄での︑バンク汐nkやキャピタルCapita−の項にも  

/   

︵6︶  

ふれながら︑この﹃辞典﹄の検討が﹁そのころの経済思想の性格をしるための︑ひとつの手がかりがえられる﹂だ  

ろうといわれる︒イさらに租税や国家収入にかんする藷項目の検討でも︑同様の意義があるであろう︒  

︵1︶W・戸ScOt誉詮§賢覧致哲邑邑§札守亀句⁝1︸−盟ヨp・∽00一大道安次郎訳﹁国富論の草稿その他﹄二〇五ぺージ︒   

︵2︶旨翠︑p■ひ00N同二〇六ぺージ︒ 

︵3︶ゴ訂2ま邑監二き亘らミ⊥ざ瞥忠よぎ富貴∵ぎー﹁メ p.霊.   

︵4︶大道氏は﹁低い租税﹂ ︵同訳﹃国富論の草稿﹄一八九ぺ仁万こと訳し︑水田氏ほ﹁軽い税﹂ ︵同﹃アダム・ス︑︑︑ス研究入  

アダム・ス︑︑︑スの財政論︵こ  ︵一六一︶ 三一.  

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(13)

了   

﹃グラースゴウ欝義﹄ アダム・欠︑︑︑スの道徳哲学 − 今日のいわゆる社会哲学・社会科学−−ほ目白然神学H  

倫理学臼法学蜘経済学の四つの世界をふくみ︑グラースゴク大学教授時代のスミスがこれらを包括的に講義したこ  

とは︑すでに例の︑︑︑ラーがつたえもいる︒また︑ス︑︑;自身も﹃道徳感情の理論﹄末尾において法人学︶にかんす  

る準備をかたった瞭︑道徳哲学にあっての二つの有用なる部門ほ倫理学︵EtEcs︶ と法学︵Jurisp2de訂2︶ であ  

るといい︑さらに後者を正義︵もしくは司法︶∴治政・国家収入・軍備などにわけている︒いわゆる﹃グラースゴ  

ウ講義﹄ほこの広義の法学であって︑のちの﹃諸国民の富﹄に結晶・拡充するものをも︑ふくむものであった︒ス  

︑︑︑スは﹃グラースゴク講義﹄において 正義・治政・国家収入・軍備せ法の四大目的とよび︑それぞれについて論  

述するのであるが︑わたしほさきに関説した﹁不変の主題﹂がこれらの区分の実質的内容を明示するものとかんが  

える︒すなわち︑﹁平和﹂は﹃講義﹄全体の正儀の論理の極点である第四部軍備および第五部の国際法において︑  

﹁軽い租税﹂ほ第四部国家収入において︑﹁ある程度の正義﹂は第一部正義においてである︒第二部の治政ほのぞ  

ましい治政ほ治政なき治政であるという論証︵−−経済学︶の部分で︑これほ他の部門がなぜに︑またどのように  

必要であるかの証明の部分である︒スミス法学ほかくて﹁不変の主題﹂の科学化・論理化である︒またかくて﹃諸  

国民の富﹄=経済学の重要性︑法にかんする著作にさきんずる﹃諸国民の富﹄出版先行の意味もあきらかであろ  

ちノ◇   

〜  

第三十二巻 第二号  

門﹄四四ページ︶と訳される︒以下の意味でほ後者の方がより適訳であろう︒  

︵5︶大通安次郎訳﹃国富論の草稿﹄二七四−五ページ︒ただし︑訳語を若干︑変更した︒  

︵6︶水田洋﹃アダム・スミス研究入門﹄八〇ぺー汐︒  

三   ︵二ハ二︶ 三二  

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(14)

ところで法学の第三部門である財政論ほ序説において次のように説かれる︒国家の官吏を養なうためにほ封用が  

必要であり︑それほ﹁租税や関税﹂のかたちで徴収されねばならないが︑﹁山般に国家収入ほまったく知らず知らず  

︵1し  

のあいだに ︵inseロSib−y︶人民から調達されうるようなものがえらばるぺきである﹂と︒わたしほ ﹁不変の主題﹂  

のe牒ほこのins︒nSib首であろうとおもう︒そしてホップズやぺティ︑さらにヒューームなどの消費税支持論の  

根拠の・∵つにこの﹁知らず知らずのあいだに﹂徴収しうるイクサイズという基準があったことも周知のことである  

が︑スミスもまたその系列に属しながら︑リアルなかたちで国家と人民の調和をほかったとみをべきであって︑ス  

︑︑\スをたんなるチープ・ガヴァメソト論に解消してほならない︒スミスはしたがって︑かならずしも自己をあざむ  

くことによって他をあざむいていることにほならない︒ス︑︑︑スほ明確に財政の必要を論ずる︒かれはまた右の文章  

につづいて﹁政府が外国の侵略と攻撃から自己をまもることができなければ︑最善の治政であっでも公安をあたえ  

ない﹂として法の第四目的である軍備をのぺるが︑この点も重要である︒なぜなら︑よくいわれる国家不生産説 ︵  

ならびにそれ.を構成する官吏・軍人などが不生産的労働者である︶ がのちに﹁有用的﹂労働者に等置されるス︑︑\  

スの矛盾ほもともと︑スミスの論理であることが︑ここに明白だからである︒﹁国防は富裕より重安である﹂とい  

うノ﹃諸国民の富﹄での叙述が奇妙な例外であるとるなされてはいけない︒このことほのちにくわしくのべたいが︑  

スミスの二面性ほとくに注意さるべきである︒   

H 国家財政の否定と肯定  ス︑︑\スによれば︑過去において財政は富裕の進歩を闊害した条件である︒山根税  

ほ自然価格の作用と競争夜圧迫し②公債ほその利子支払としての租税の徴収を強制し︑資本の不生産的消費を惹起  

するとして︑いずれも︑きびしい批判の的となる︒軋もかかわらず︑スミスほ国家を正義の体現者として揚言しな  

︵2︶  

ければならない︒所有権の擁護者として﹁富者を貧者から保護する﹂政府が認定されねぼならない︒すなわち︸む  

︵劇六三︶ 三三   アダム・スミスの財政論︵こ  

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(15)

第三十二巻 第二号  ︵ハ四︶ 三四  

︵3︶  

しろ﹁政府が少し進歩すると︑武器庫﹂や﹁宮殿その他の公共の建物を建築し維持しなければならぬ︒したがって  

へ4︶  

バブり/ック・レゲエニュウが徴収されねばならぬ﹂のであって︑別のことばで語をつよめていえば﹁文明国の政府  

ほ野蛮な国におけるよりほるかに費用がかかるといえる︒そして小つの国が他方の国のそれよりも費用がかかると  

われわれがいうほあい︑それほ一方の国が他方よりも進歩しているということと同山である︒政府に費用がかか  

り︑民衆が抑圧されていないというのほ民衆が富んでいるということである︒文明国にあっては︑野蛮国では用も  

ないおおくの出費が必要である︒軍備■艦隊・要塞および公共の建物や裁判官・収入官吏が維持されなけれぼなら  

へβ︶  ない︒もし︑それらを無視すれば︑すぐさま混乱がおこるであろう︒﹂   

これほス︑︑︑スのパラドックスでぁるが︑決して不可解なパラドックスでほない︒かれほ財政の高価ほ民衆の富裕  

に依存するとして︑まづ民衆の豊富を追求し︑その富裕に依拠する政府の富裕を論ずる︒文明国の政府ほ﹁統治﹂  

︵6︶  

︵=政府︶の﹁復姓﹂さの止めにおおくの費用を必要とするが︑その費用の調達ほ直接の収奪によるところの前期  

的支配=れいぞくかんけいでほ生産力の低皮により︑所期の目的を全うすることほできな 

化した生産による幾用の徴収が要語される︒下部構造の生産力の増進が国家経費を支え︑その国家が生産力増進を  

外側から保障する︒これを別のパラドキンカルな論理の例で説明すれほ︑スミスほ野蛮な社会と虹較しての文明社  

会の階級性を強調しながら︑その文明社会の最下層の人間ですら︑前者の専制的王侯よりも富裕であるというとこ  

ろに分業による生産力の発展を揚言したが︑同じように文明社会の人民に比較して 

会の専制的な統治者の財力︵人民に比較しての高さ︶よりも︑はるかに大なのである︒つまり︑歴史のヨコ割りで  

いえば財政のレラデバグな経さであるが︑タデ割でほ︑ほるかに増大し︑高価になることを断定する︒ス︑︑︑スにお  

いて︑安価なとか高価なとかいうことほ人民とのかんけいにおいてであって︑決して︑それ自身の規模を抽象的に小   

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(16)

ノ  

さいとか大きいとかいう風にもんだいとしているのでほない︒人民を抑圧しっつ︑収奪した財政ほその規模が絶対  

的にほ小であれ︑高価であり︑人民の富に依拠する財政はその娩傾が大であれ︑安あがりなのだ︒この後者こ  

そ︑経済と財政の正しいあり方なのだとス︑︑︑スほいう︒ここに︑スミスの歴史認識の確かさと︑歴史批判の正統性  

︵−︶  がある︒しかし︑一それと同時に︑もし文明社会の極北である資本主義社会がその高価な財政によって人民を抑圧す  

るという論点がまったく視野にいらぬかぎり︑山九世紀的視点からすれば自他をあざむくものとなる︒とはいえ︑  

ヽヽヽヽヽヽ  ヽヽヽヽヽヽヽヽ  わたしの強調したいことほ︑文明社会の規模における高価ほ野蛮な社会の規模おける安価︵人民にたいするかんけ  

いでほ高価︶ よりも︑′抑圧的でほないというス︑︑︑スの一八世紀的発言・歴史的地位を内に理解しっつ︑ス︑︑︑スと山  

九世紀ドイツの論者とを同一視する︵すくなくともその面だけをみる︶わけにほいかないということである︒つま  

久︑財政の高価さほ国家の不生産性の認識により維持できるのであって︑国家の生産性を規定しょうとすれば︑ス  

︑︑︑ス的にいえば︑それほどこかで破綻と崩壊とをきたし︑遂には高価さほ暴力的に安価になり︑ゼロになる︒このよ  

うな自己矛盾を指摘しうるところに︑ス︑︑\スの今日的意味があろう︒ス︑︑︑スからマルクスへの道がここにあるし︑  

社会主義財政の高価さも︑社会主義国家︵官吏・裁判官・軍人・教師・芸術家︶ の有用性と不生産怯もスミスの論  

理の継承であるとわたしほおもう︒   

臼 ドメーネン財政の否定  スミスにあってほ︑それ故︑生産力阻害の条件ともなり︑また生産力阻害のうえ  

に成立するドメーネン財政はかんぜんに否定される︒すなわち︑﹁すべての ︹野蛮な︺国では土地が主権者の諸目  

︵9︶  ︵8︶ 的のために専有され︑したがって租税や関税の必要がはとんどない﹂が︑これは﹁富裕の進歩﹂を妨げ︑費用のか  

︵川︶  かる文明国の経費をみたすには﹁この世でもっとも不適当なものであろう︒﹂その論拠ほプリユノンでは政府の年費  

用ほ三〇〇万ポンド︑地代総額二︑四〇〇万ポンドであるから︑王領地地代としてほ1すの土地が政府によって  

アダム・スミスの財政論︵こ  ︵二ハ五︶ 三富   

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(17)

︵二ハ六︶ 三六  第三十二巻 軍事  

専有されねばならぬことになるが︑このとき王領地の耕作ほ労働意欲不如意のため︑わるくみつもれぼ政府ほ1甘  

の土地を専有しなくてほならなくなるかも知れず︑このため︑ストックほ減少し︑それに維持されるはずの人数が  

それだけ減少する︒したがって﹁政府におおくの費用がかかるようになったのちほ︑それを<王領地>地代によっ  

︵11︶  て支えようとするのほ最悪のやり方である﹂と︒そしてわがブリテンにおいてほ王領地ほすべて払下げられて︑国  

王ほまったく租税に依存しなければならなくなっている︒これによって議会協賛の制度が確立し︑国民の自由が安  

全となる︒第山にジグィル・‖ノストの設置︑︑第二に地租・麦芽税︑欝三に公債償却のために抵当に入れた諸税︵塩  

税︑ピール税︑永久麦芽税︶︑以上︑三つの部門がプリ三ノンの国家収入の全部であり︑それほ税関吏・税務署員に  

よって徴収されるのであって国王ほこれらに手をふれることができないのである︒かくてスミスによれば﹁自由の  

︵ほ︶  合理的体系がもたらされた﹂のであったぺまた金銭法案ほ下院でのみ提出・審議されるから︑﹁ここに適当に制限  

︵13︶  された種々の政治形態の幸福な混和があり︑自由と財産にたいするかんぜんな保障がある﹂とスミスほいう︒かく  

︵14︶  て︑﹁イギリス人ほヨーロッパ最高の財政家﹂として︑その基本条件をかくとくする︒   

ところで︑スミスほ﹃諸国民の富﹄第五篇において︑いわゆる﹁自然的自由の制度﹂のもとでの政府の任務を伽他  

の独立の社会の暴力や攻撃にたいして防察する任務︵国防︶㈲社会内部の成員のあいだに生ずる不正もしくは圧迫よ  

り人民を保護する任務︵司法︶櫛個々人の費用によ?てほ練設またほ維持しえない公共事業と公共施設を維持する  

任務︵公共事業および公共施設︶㈲元首の威厳を維持する任務の四に限定し︑それぞれについて詳述したが︑この  

任務の規定ほ事実上︑﹃グヲ﹁スゴク講義﹄にみられるものと︑わたしはかんがえる︒すなわち︑右にみたように  

﹁武器庫﹂ ﹁軍備・艦隊・要塞﹂の字句︑﹃講義﹄第四部軍備論が闇︑﹁裁判官﹂その他の字句︑﹃講義﹄笹即二部  

正義論が㈲︑﹁公共の建物﹂その他の字句が.㈲︑﹁宮殿﹂その他の字句が㈲の各任務を示すものであり︑﹃諸国民   

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(18)

の富﹄第五篇第二軍がその断片でほあるが︑先駆的にあらわれたものであろう︒いうまでもなく︑この在務は﹁不  

変の主題﹂の発展と継続を示すものである︒それと同時にドメーネン収入の否定は﹃諸国民 

一節の王領地収入批判の叙述に照応するものであろう︒   

臼 租税論  ドメーネンによる国家収入を否認するスミスほそれを租税にもとめざるをえないが︑ここにおい  

て租税国家の成立が歴史上︑全体的なレステムとしてほ︑さいしょの要求となってあらわれた︒かれはそのさまざ  

まの租税にかんして︑長短をのべつつ︑あるべき租税の形態を論ずる︒かれの分類によれば租税にほ財産税と消費  

税の二種があり︑前者は土地︑ストック︑貨幣にたいする三種の税である︒このうち︑ストックや貨幣財産にかけ  

る税ほ商人の帳簿を閲覧しなくてほならず︑それほ商業自由の破壊をもたらす専制主義の外観を呈するからよくな  

い︒したがって土地にかける税がよいのだが︑その理由ほ皿土地艮盟の測定が容易㈲徴税費僅少㈲商品価格を高めな  

い−−地租ほ地代に比例して支払われ穀物や家畜に比例しない − の三である︒消費税は商品に課せられるものだ  

が︑それほ地阻と比較して皿その税負担者の所有能力に比例せず︑そのものおしみしない ︵リペラリディ︶こと  

に比例する闇徴税費甚大㈲価格騰貴による競争阻害の三の難点がある︒それにもかかわらず︑それほ揖日ふ甘たぬよ  

うに支払われて感ずかれない︑したがって税負担着である消費者ほその怨恨を政府ではなくて商人にあぴせるぐら  

いだから︑商人によって支払われる消費税ほ自由にとって︑もっとも好都合であり︑イギリス政府によって常に愛  

好されるであろうし︑また㈲地租とことなり︑税負担者の生活を破滅させない︒すなわち著移品にたいする支出の  

おおいときは︑その消費をただちに適じうる︑の二つのすぐれた点がある︒つまり︑・以上を二言でいえば用地租と  

︵15︶  ㈲消費税が奨揚され︑後者のうちでほ杏移品課税がもっともよろしいということになる︒   

この議論ならびに﹃講義﹄の諸他の叙述から︑租税︵転嫁︶論と事実上の租税原則論を抽出すれば以下のごとく  

アダム・スミスの財政論︵こ  六七︶ 三七   

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(19)

この表でもんだいとなるのほ第仙に租税の区分であって︑のちにのぺるように ﹃諸国民の富﹄ では収益ならびに  

︵16︶  所得︑財産︑流通︑消費の租税四区分をとり︑それぞれをくわしく分析するのだが︑ここでは財産と消費の山一区分  

であることだ︒すなわち︑﹃諸国民の富﹄でほ財産に課せられる税ほ終局的にはその財産から生ずる収入の一部を  

ねらっているとして︑ストック税および貨幣税は利潤税となり︑相続なぃし財産移転税のみが分出することになっ  

ている︒くわえて賃銀税はここでは皆無であることだ︒この利潤税と賃銀税の欠除は根本的にほ﹃講義﹄にあって    第三十こ巻 第二号  

なろう︒まず︑租税︵およびその転嫁︶論を表示しょう︒  

脚替俸品にたいするもの   仙窟裕な消   費者  ㈲地  主  ㈲生活な破滅させない  

商人の自由を阻害する  仰所有能力に比例しない    から不平等 ㈲徴税費莫大 隠価格勝頼貝   ㈲負担の不感のため自由    を阻害しない  

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(20)

\  

の三階級区分の欠除にもとづくものであろう︒つまり︑土地所有←地代・資本所有←利潤・労働所有←賃銀という  

カテゴリとしての本源的所得認識がなく︑したがって第二に︑ここに地主とか商人とか消費者とかいわれるものの  

実体がもんだいとなる︒﹃講義﹄の経済学の部分である拾政論において︑スミスは商品価格を規射するものとして  

ほ労働の価格のみを措定し︑事実上︑それに利潤らしきもの︵実は賃銀と無区別なもの︶をも包含せしめたのである  

ヽヽヽ から︑ここに商人というものほ︑その意味での広義の労働者であり︑ストックを所有し︑生産を担う人々 ︵いわゆ  ヽヽヽヽヽ  る勤勉なる人々︶ であろうとわたしにはおもわれる︒そうであるとすれば︑租税はかれらが負担することはでき  

ず︑転嫁すべきものとなろう︒どこに転嫁するか︒地主以外にはない︒しかし︑不思議なことに治政論には地主は  

︵17︶ 原理的には登場しないのであるから︑それをカテゴリとtて論ずるあけにほいかないのだが︑財政論では表にも示  

したどとく︑重要な役割をもつ︒ 

ら︑それが税の窮極的な負担者であるかぎり︑以上によって論理的に︑は事実上︑地主と推定されねぼならな聖地  

主はかくて租税負担のオールマイティである︒ただ︑ルーズなス︑︑︑スのほあい︑地主ほ消蟄者のすぺてでほなく︑  

富裕な労働者もしくほ富裕な商人も消費者の一部であるとかんがえた方が穏当であろう沌 このことは﹃諸国民の  

富﹄とのかんれんで一層あきらかなところでもある︒第三にこの真の帰結はス︑︑︑スが地租と消費税の両刀使いによ  

ってまさに資本蓄積の擁護者として資財ならびに貨幣︵−−資本︶ 所有者を免税とする所論をとっていることであ  

る︒同じく土地所有者の租税負担説を唱えたケネーのほあいほそのことによって形式上は地主の擁護︑実質上は農  

巣者︵生産萬階級︶=農業資本の擁護磨ったものが︑スミスでは農業資本の簸ならず︑資本州般の擁護であり︑そ  

れとともに地主の不生産性の明確化であった︒とほいうものの︑それほリカードオにおけるような資本と地主の対  

抗ではなく︑ルーズな面をもち︑ケネー的性格をひきずっていた︒資本蓄積と生産力増進を志向する点で同∵繰上を  

アダム・スミスの財政論︵一︶  ︵一六九︶ 三九   

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(21)

第三十二巻 第二号  

︵仙七〇︶ 四〇  

ぁゆんだとみられるこれら三人の転嫁論の相違と同叫は歴史の段階とイギリスおよびプラ/ンスの資本主義化の型の  

ちがいをあらわしているとおもわれる︒これによってス︑︑\スは渡仏前に重農主義的論理をうちにふくみつつ︑すで  

にこれをのりこえて﹃諸国民の富﹄︑に近き様相を呈していることほ注目すべきであろう︒なお︑表について補足説  

明すれば小作人というのほテナントであるが︑資本制借地農業者の意味か︑独立農業者のそれか不明であり︑おそ  

らく前者に分解するまえの階級未分の農業者であろうとおもわれること︑ストック税および貨幣税における納税者  

ならびに究極の負担者ほ明確な記述がないが︑それを他の議論からおして︑商人と消費者とおもわれること︵貨幣  

へ19︶ 税について想像される利子付資本家はいまだその姿をあらわさないこと︶︑さらに地代税のうち︑地代に比例する  

︵20︶ ものが価格を騰漬せしめないとほいえ︑それが﹁土地所有者の意気を大いに池喪せしめ﹂て︑土地改良の意欲を減  

退せしめるといっているから︑この地主もまた︑土地生産力の発展にすくなからぬ意を用いる独立生産者的性格を  

担っているものとおもわれること︑以上をつけくわえておきたい︒  

ス︑︑︑スの租税原則論株﹃諸国民の富﹄第五篇第二章第二節租税論の冒頭にのぺられる四つのマキシムである︒す  

なわち皿平等②確実㈲便宜㈲最小徴税費がそれであるが︑﹃講義﹄にほこの完成されたかたちの叙述ほまったく存  

在しない︒けれども︑スミスの議論から︑事実上の原則をひきだせば皿平等の原則は地代税および消費税をのべる  

ばあいの能力論︵ただし収入能力でほなく所有能力︶㈲確実の原則ほストック税・貨幣税否定の根拠論︑および地代  

税1消費税の推奨の根拠㈲便宜の原則ほ消蛍税とくに奇骨器推奨卜立払期の便宜論−㈲最小徴税費の原則は  

地代税推奨諭その他の所論によって︑すでに租税原則の指摘がみられるとわたしはかんがえる︒スミス︑の租税原則   論はハチスンやヒューム︑言−・ドゥ・ポー  モンの′﹃覚えがき﹄︑それにスコットランドの代表的文化人であり  

たヘンリー・ホーム︵グームズ卿︶の見解に負うているといわれるが︑これらの論考とのかんけいで﹃講義﹄で   

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(22)

の事実上の記述ほ大きい意味をもっているとおもわれる︒また︑逆に﹃講義﹄と ﹃諸国民の富﹄との叙述上の懸隔  

ほこの点での意味づけで︑必須の資料であろう︒ポーモンの ﹃覚えがき﹄ ︵スミスはこれをケネトからもらって珍  

重したといわれる︒﹃諸国民の富﹄においてはとくに歴史的叙述にかんし︑たびたびⅠ大内兵衛訳の索引では山  

六回−−引用される︶ は山七六入1九年︑ホームの﹃人間史のスケッチ﹄は山七七四年の出版で︑いずれも﹃講義  

﹄とくらべて数年︑もしくは劇○年後人後老ほ﹃諸国民の富﹄の二年まえ︶ のものであって︑注意を要する︒もっ  

とも︑ホームとほ年来︵﹃エディンバラ講義﹄ノ以釆︶︑あつい親交があった︒︵﹃諸国民の富﹄にあっては︑ス︑\\  

ス自身がこのホーム ﹃人間史のスケッチ﹄の︑いわば六原別の叙述箇所をわざわざ注記しているから︑郷土の先輩  愉  であり﹃エディンバラ講義﹄ の主導者であったホームの影響はあきらかであるが︑この注記︑は謝辞の意味であるか  

もしれない︒︶   

囲 公債論  ス︑︑︑スが公債否定論者であることほ﹃諸国民の富﹄においてあきらかなところである︒この思想  

ほ﹃講義﹄にあってもかわらない︒ス︑︑︑スによれば︑人々は国内における出費は富にとって有害ではないとして公  

債の弁護をなす︒つまり︑﹁かれらによれば︑われわれには現在︑一億ポンド以上の ︹債務︺があるが︑われわれ  

ほそれをわれわれ自身から借りているのであり︑少なくともそのうちで外国人から借りているのはきわめて少額で  

ある︒それ 

はありえないと︒しかし︑この一億ポンドにたいする利子は勤勉な人々によって支払われ︑それをあつめるのを仕  

事とする怠惰な人々を維持するためにあたえられる 

ったら︑憤慮と節約によって︑この国民は現在よりもほるかに富裕であっただろう︒かれらの勤労はそれに依食す  

る怠惰な人々の圧迫によって害されなかったであろう︒﹂たとえば︑ある商人に公債償却のための利子が﹁重税﹂  

アダム・スミスの財政論︵一︶  ︵刷七こ 四則   

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(23)

第三十二巻 第二号  ︵仙七二︶ 四二  

としで課せられたとき︑その商人は商品をうるまえに税をほらわねばならないから︑資本がそれだけ減少し︑かれ  

へ21︶  の商売は税のないばあいのように発展することができなくなるのである︒また公債の性質についてほ﹁革命後まも  

なく︑政府の窮乏のために︑ふつうの利子よりも概して高率で︑数年内に返済さるぺき貨幣を︑人民から備考なけ  

ればならなかった︒この利子の支払に充当された基金︵Funds︶ は仙定の商品に課せられた税であった︒これらの  

税ほさいしょほその金銭を借りた期間に応じて一定年数のあい転課せられた︒しかし政府のさまざまの政策によっ  

てこれらの負債が永久的なものとなると︑この税もむろん永久的となり︑かくてその基金は抵当化された︒もほや  

これらの基金を抵当に金銭を借りられないばあいにはそれらは永久化されたのだが︑しかもなお︑それを抵当に借   ヽ  

りた金を完済することによって︑これほやほり償還されうるものであった︒これらの税が課せられたとき︑それが  

永久的なものとなるという意見はど人々に衝動をあたえたものはなかっただろうが︑しかしその進行がきわめて徐  

々であったので︑それは決して不平をならされはしなかった︒さいしょには衝動をあたえるものも︑まもなく習慣  

によってあたりまえになる︒習慣はすべてを神聖にするのである︒こうして︹これらの︺税ほまず課せられ︑それ  

︵覧  から今日の状態に到達したのである︒﹂これらの税がすでに記したfunded debt︑である塩︑ビールおよび麦芽税  

であった︒この叙述の含意からすれば︑スミスほ公債償還の至難であることを指摘し︑減債基金制度にも好意的で  

はなかったであろう︒にもかかわらず︑ス︑︑\スほ公債償還のための﹁抵当の剰余ほ公債支弁のためのいわゆる減債  

基金にはいる︒そしてこの公債が魂王家の統治を保持するのだ︒なぜなら︑もし尊命がおきれば利害かんけいのあ  

る国家の債権者ほ元利ともにうしなうからだ﹂といって︑かれの二面性を如実に示すのである︒ 

民の富﹄で公債の累積が国家の破産をまねくとしているが︑ここでは公債が国家の安全を保持するという︒これが  

つまり﹁適当に制限された種々の政治形態の幸福な混和﹂であり︑﹁自由と財産﹂の﹁かんぜんな保障﹂の内容で  

OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

(24)

あった︒すなわち︑国王と議会の﹁幸福な混和﹂でもあった︒   

ス︑\︑スによれば﹁年々の地代税を支払う地主ほまた消費税の大部分を支払う﹂が﹁この理由によ︑って地主階級は  

戦争負担が自分たちの肩にかかるとかんがえて︑まっさきに戦争を嫌悪するけれども︑これに反し︑他方︑金権階  

級は利得者であり︑したがって地主宜反対する︒これがおそらくトーリー派といわれるものを継続せしめるのであ  

●  

︵28︶  ろう﹂と︒この戦争負担ほ公債利子負担牒租税負担=地主=トーリーの論理をもつとおもわれるが︑クィッグとト  

ーソーにたいするスミスの表面的態度はかなりあいまいである︒それほスミスのルーズさのあらゎれであろうが︑同   

時に当時の産業資本のルーズさでもあった︒自立しきつていない産業資本ほ都合のよい論理をたくみに利用しなが  

ら︑自己の基盤を珍透させよう上したのであろう︒スミスの﹁制限された種々の政治形態﹂は政治的にほこの両者  

を肯定するとみえて︑経済的にほこの両者の底辺の窮極の租税負担者たる直接的生産者1独立生産者・産業資本  

家1の立場を貫こうとしたのである︒﹃講義﹄において︑ス︑︑\スが統治の原理として原契約を否定しっつ︑﹁権  

威の原理﹂ ︵トーリ⊥ならびに﹁功利の原理﹂ ︵ウィッグ︶ 

︵24︶  さにその昔走によって︑それを否定したのである︒ス︑︑\スの現実妥協もディアレクテイクも︑ここにあるのでほな  

かろうか︒ス︑︑去の公債論・地租論・消卦税論のあいまいさほ当時の財政史のなかで︑歴史的に把握されねばなら  

ない︒そしてこの財政史的研究によちてこそ︑スミスの全意義が照明されるものとわたしほかんがえている︒内田  

義彦﹃経済学の生整前編附論ほ々の意味での一つの試みか解してもよいであろうが︑財政思想史家のかかる試み  

がもっとなされてしかるべきであろう︒セリグマンの﹃租税転嫁論﹄第山部などは図式紺・類型学的であって︑財  

政論を歴史の座標にすえていない︒   

ところで右の公債否定論ほその利子支払のための租儲負担批判であって︑公債全体としての資本の﹁収入化﹂の  

︵仙七三︶ 四三   アダム・スミスの則政論︵一︶  

OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

(25)

●  

︵㌻宰四︶ 四囲  第三十二巻 第二号  

論理でほない︒そしてさらにいえほ︑ここでは引用しないが︑公債論の他の部分は公債価格の騰落の︑あるいほそ  

の市場取引の現象的分析であって︑この部分は﹃諸国民の富﹄にほない︒このような公債批判の︑﹃諸国民の富﹄  

に比較しての理論的弱さほ注目すべきでをり︑その期間の財政史ともにらみあわせて考究する必要がある︒   

㈲ 財政論の方法1歴史的・′論理的 ﹃講義﹄におけるスミス財政論ほ法学の第三部門としての地位をしめ︑ 叫  

それほ欲望から国際法までの上向における国家の項を示すものとおもわれるが︑このばあい︑ス︑︑︑スほまずポリ  

ース論において原始的︑古代的︑封建的︑前期的経済︵学︶ の否定と市民的経済︵学︶ の肯定の論理を結晶させつ  

つ︑その論理を基礎として財政の否定と骨定を析出する︒かかる抽象から具体への論理的方法ほいうまでもなく具  

体的なものを占有するための思惟における再生産にすぎないから︑それほそのまま具体的なものの成立過程でほな  

い︒そういう意味での歴史叙述ではない︒ス︑︑\スほ滞成敗会の原基を欲望にもとめ︑そこから出発することによっ  

て︑国際法までの上向を完了するが︑こⅥような論理的編制こそが︑かれ克とってこの市民社会の正しい把握をう  

なかすものなのだとおもわれたに相違ない︒だから︑もろもろの論理的カテゴリの上向ほそれぞれ歴史的叙述によ  

って.ルック・アップされながらも︑具体的歴史の順序とほしばしば逆になる︒財政論を例にとると︑正義論で租税   

国家思想の記述があり︑経済学 − ポ㌢−ス論 − で租税と公債の否定が顔をだし︑固有の財政論である第四部で  

社会の初期から出発しながら粗税や公債・軍事費を論じ︑第四部軍備論でまた軍事について論ずるといったぐあい  

である︒ス︑︑︑スほはとんどのほあい︑論理的範疇はその未発展な具体物から説きおこされ︑それが否定されてある  

べきカテゴリ︵発展した具体物︶ に達するという叙述を展開する︒この論理的方法ほ﹃諸国民の富﹄にいたってま  

すます明確になる︒﹃講義﹄第一部の正義論のうち司法かんけいのものの一報Tl−とくに国家論 ⁝ が司法費とし  

て︑また﹁自由の合理的体系﹂がその発展の極である﹁自然的自由の秩序﹂として︑第四部軍備論が軍事費・国防費と   

OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

参照

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