満谷国四郎《自画像》の彷徨い―五姓田派の所在を 問うことの意味―
著者 角田 拓朗
雑誌名 美術研究
号 397
ページ 18‑78
発行年 2009‑03‑27
URL http://id.nii.ac.jp/1440/00006175/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
美 術 研 究 三 九 七 号
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満谷国四郎《自画像》の彷徨い
角 田 拓 朗
問題提起一、《自画像》の誕生 (一)明治二十年頃 岡山 (二)明治二十五年頃 東京二、五姓田義松自画像群の再考 (一)満谷と義松の距離 (二)概要と制作年代 (三)歴史的位置付け三、「義松様式」の成立 (一)明治初頭 横浜 (二)明治十五年頃 東京 結語
問題提起
平成二十年に 開催された 「五姓田のすべて ― 近代絵画への架け橋 ― 」 展
(於神奈川県立歴史博物館・岡山県立美術館)
に お い て、 《 人 物 》
(図1
、挿図1
)と便宜上題して公開した作品は長年紹介される機会がなかったこともあり、
そ の 登 場 は 大 き な 注 目 を 浴 び た。 そ の 作 者 と 目 さ れ る の は、 満 谷 国 四 郎
(一 八七四〜一九三六)で あ る。 本 作 品 を 含 む 満 谷 の 作 品 群 が、 彼 の 歿 後 昭 和 十
三年に当時の帝国美術院附属美術研究所へ寄贈されたことは当時の収蔵台帳
から判明する
)1(
。だが、その台帳には当該作品の名称が記されておらず、また
制作年と思しき頃の満谷の確かな肖像写真が現存しないことから、展覧会で
は《人物》と仮称を選択したわけである
)2(
。しかし、その後の調査で、その作
品が「自画像」であるとする隈元謙次郎による調査票が発見された
)((
。また、
同作品群の収蔵に際して隈元が事前調査を行っていた事実も判明した
)4(
。その
隈元の示唆もうけて、本稿では以下論証するように 《人物》とした作品を満
谷国四郎の自画像と考えるに至り、冒頭より《自画像》という名称に 改め論
じていく。
本稿はこの満谷研究の中でも位置付けが謎とされてきた、いやその存在が
等閑視されてきた満谷国四郎《自画像》の存在を定位させることを目的とす
る。まずは作品を詳しく見ていこう。縦三十八・二センチメートル、横二十
五・〇センチメートルの洋紙に、鉛筆で男性の顔が描かれている。酸化した
ためであろうか支持体は黄化しているものの画面に擦れや傷はなく、いたっ
て状態はよい。四辺には不自然に切り取られたような跡もなく、制作当初の ― ― ― 五姓田派の所在を問うことの意味 ― ― ― 一八
満谷国四郎《自画像》の彷徨い
179
無垢の姿であると考えられる。従って、制作にあたりこのほぼ画用紙八つ切
りの大きさを選択したと推定されるが、紙に鉛筆のみで描かれた人物画とし
ては比較的大作の部類に属するだろう。画面左下には印章「十五之印」と、
「 2( . 2. 21 夜」という書込がある。その印章は満谷と断定し得る他の写生帖 などにも確認され、満谷が通常用いたものと考えてまちがいない
)((
。そしてそ
の書込は、満谷の年譜と照らし合わせるとすれ ば 、明治二十五年二月二十一
日の夜の制作と読むのが素直だろう。
続いて作風・技術だが、その描かれた人物の表情が印象的だ。画面向かっ
て 右 の 眉 を 上 げ、 口 元 は 真 横 に 軽 く 引 き 結 び、 表 情 に 変 化 を つ け て い る。
シニカルともうけとれる表情をつくることに、作者は意識的だったのだろう
か。その表情を表現する技法、銅版画に特徴的に認められるクロス=ハッチ
ン グ と い う 技 法 ―― あ る 平 行 線 群 と 他 の 平 行 線 群 と を 交 差 さ せ、 対 象 の 陰 影 や 立 体、 量 感 を 表 現 す る 技 法
――
に も 注 意 が ひ か れ る
)6
(
。 時 に 荒 々 し く、
素早く動く描線が背景と衣服に用いられ、一方で顔面には丁寧に立体感を構
築しようという密にして理知的な描線群の連鎖が認められる。サイズや内容
を考えあわせると、練習を目的としたというよりもむしろ一個の作品として 制作したと考えられるが、油彩ではなく鉛筆で肖像を描き上げる点は特異と 思われる。このように紙に鉛筆のみで迫力ある内容を作り上げる点は、明治 洋画史において特筆されると思うのだが、管見の限り本作品やこれらの特徴 が言及されたことはない
)7(
。
さて、以上のように 画面内に 作者と制作年代を示す情報が提示されている
にもかかわらず、この作品が謎とされてきたのは、従来考えられてきた満谷
の 作 風 と 重 な り あ わ な い た め で あ る。 満 谷 国 四 郎 と い え ば 、 前 期 活 動
――
不 同 舎 で の 修 業 と そ の 成 果 で あ る 明 治 美 術 会 等 で の 活 躍 な ど
――
と、 後 期 活 動
――
二 度 の 欧 州 留 学 で 一 変 さ せ た 作 風 に よ る 帝 国 美 術 院 美 術 展 覧 会 等 で の 活 躍 な ど
――
の、 大 き く 分 け て 二 つ の 画 業 を も っ て 知 ら れ る 画 家 で あ
る
)8(
。その彼の画業を振り返り、現在まで形成されてきた満谷の技術を地図化
し た 時、 《 自 画 像 》 は そ の ど こ に も 位 置 付 け る こ と が で き な い。 そ の た め に
満谷ではない別の作家による作例である可能性も疑われ、現在まで顧みられ
なかったのだろう。
また《自画像》が制作されたと考えられる明治二十五年までの満谷の経歴
を確認してみると、さらに謎が深まる。明治七年、満谷は現在の岡山県総社
市に生まれた。同十三年に浅尾小学校入学、同校を同二十一年卒業
)9(
。同年岡
山県尋常中学校入学、松原三五郎から本格的に絵画を習う。そして同二十四
年、同校を三年次で中退し十月に上京。先に上京していた同郷の徳永仁臣の
も と に 一 ヶ 月 ほ ど 滞 在 し た 後、 初 代 五 姓 田 芳 柳
(一八二七〜一八九二)に 弟
子入り、翌二十五年秋に不同舎に移ったというのが現在知られる満谷の一般
的 な 年 譜 で あ る
)(((
。 そ の 年 譜 を 信 じ れ ば 、《 自 画 像 》 が 制 作 さ れ た と 目 さ れ る
のは初代芳柳に学んでいた時期にあたるが、彼がそこに学んでいた詳細は多
くの人に早くから忘れ去られていたのである
)(((
。しかしながら以下のように、
挿図 1 満谷国四郎《自画像》
東京国立博物館蔵
一九
美 術 研 究 三 九 七 号
180
満谷は五姓田工房で学んでいたことを明記している。従来紹介される機会の
乏しい言説だったので、関係する箇所だけをここで引用しておきた い
)(((
。
自分は幼児から画家を志望していた訳ではない。ただ生来の 嗜
すき好 で中学
時代には下手な数学の不足を絵画の満点で補っていたというくらいに 止
ま る。 何 も そ の 時 分 か ら の 志 望 で は な い。 中 学 を 卒 業 し て か ら は 愈 ヽ
一生の目的を定めね ば ならなかったので、どうせやるくらいなら自分の
好きなものをとはじめて志を定めて東京に飛び出して来たのである。そ
れが明治二十四年のことである。最初はまず五姓田氏の塾に入った。と
ころが五姓田氏の塾は生徒もあまり多くなかったので、やはり仲間が沢
山いる所の方が面白いというような訳で、その時分全盛であった小山氏
の不同舎へ入った。善いとか悪いとかいうことが解って行ったのではな
く、ただ大勢いる所に行きたいと思ってのことであるが、しかし今にし
て考えてみるとこの方が矢張り幸福であったことはいうまでもない。
(適宜、句読点を改めた。また旧字を新字に改め、明らかな誤字については訂正
した)
こ の 回 想 か ら 理 解 さ れ る よ う に 満 谷 が 五 姓 田 工 房 に 学 ん で い た の は 事 実
で、その頃に本作品を描いた可能性が考えられる。だが、その当時の五姓田
工房ではこのような技法を教授していたのか。また、満谷はわずか一年に も
満たないそこでの修業期間で、これほどの成熟した作品を仕上げるほどの技
術的な修練を行えたのか。この二つの疑問もまた、満谷の確実な印章をもつ
作品でありながら彼の作と決定するのを躊躇させた原因だったのだろう。そ
こで改めて問題点を二点に整理し直し、本稿の考察の展開を提示しよう。一 つ め の 問 題 点 は、 《 自 画 像 》 を 本 当 に 満 谷 自 身 の 作 品 と 考 え て 良 い の か と い
う点である。先に述べたように、満谷の従来知られた様式から推定する方法
は、あまりに隔たりがあるために ほぼ不可能である。そこで、本稿では本作
に認められる特徴的な技法すなわちクロス=ハッチングに注目し、その技法
を学習する機会が満谷にあった事実を指摘することで証明したい。冒頭で説
明したその伝来からすれ ば 、本作品を満谷作と考えるのが妥当であり、この
点を前提とした上で考察をすすめ る
)(((
。具体的には、作中に記された明治二十
五年という年紀に注目し、その時点に至るまでの満谷の足跡を、郷里岡山で
の学習と上京してからの学習の二期に分けて検証する。繰り返しになるが、
検証するとはいえ、この時代の確実な満谷作品は存在しない。よって、明治
二十年頃の岡山での学習時代は師である松原三五郎を、また明治二十五年頃
の東京時代は同郷の兄弟子だった貝原京平を類例としてその学習環境を具体
化し、満谷がその環境で育った可能性を探る考察を第一章で行う。
そしてもう一つの問題はこの作品が見落とされることに なった理由、つま
りクロス=ハッチング技法が五姓田派の特徴と指摘されてこなかった点であ
る。その技法と五姓田派を結びつけ、さらには満谷にまで継続されることを
論証したいが、それに あたって五姓田派内で技術発信の役割を担ったと考え
ら れ る 五 姓 田 義 松
(一八五五〜一九一五)に 注 目 し よ う。 従 来 注 目 さ れ る 機
会もなかったその技法が、義松由来の同工房の顕著な特徴であった点を検証
する。特に満谷《自画像》と照応させることを目的として、義松の自画像群
に 焦点をあて、その概要と歴史的位置付けを第二章で論じる。
その自画像論を踏まえて第三章では、明治初頭の横浜での活動に 焦点をあ
て、義松がその技法を獲得した時期と経路を考察し、さらに義松渡仏後の工
房の実態に迫り、その技術が伝承される様を検証する。後者の検証に あたっ
二〇満谷国四郎《自画像》の彷徨い
181
て は、 神 奈 川 県 立 歴 史 博 物 館 蔵 五 姓 田 義 松 旧 蔵 作 品 群
(以下、義松旧蔵作品群と略)
と 岡 山 県 立 美 術 館 蔵 渡 辺 文 三 郎 旧 蔵 作 品 群
(以下、文三郎旧蔵作品群と略)
と 同 美 術 館 蔵 松 原 三 五 郎 旧 蔵 作 品 群
(以下、三五郎旧蔵作品群と略)の
相互関係を論じて、義松から文三郎へ、文三郎から三五郎そして満谷へとい
う道程を示 す
)(((
。
以上、彷徨える《自画像》が満谷国四郎に よる明治二十五年の制作である
ことを証明するために、本稿は一貫して五姓田工房の活動を具体化する作業
を軸として展開するが、 あらかじめ以下の点を断っておきたい。それは、 「五
姓田工房」ならびに「五姓田派」という言葉の使用についてである。初代芳
柳や義松、渡辺文三郎らが在世し、弟子たちとともに活動した場、主に 明治
二十五年頃までのその場を、便宜上、五姓田工房と総称する。また、工房の
技術を継承する絵師・画家たちの広義の集合体を指示する言葉として、便宜
上、五姓田派を使用する。その言葉の内容と使用の是非については従来論じ
られる機会もなかった。そこで本稿を通じてその存在の具体像を問い、結語
にて考察を深めたいと思う。
一、 《自画像》の誕生
(一)明治二十年頃 岡山
明治二十五年に 満谷が《自画像》を描いたとして、その前年に 入門した五
姓田工房の学習成果だとして、そう仮定した時、先に指摘したように、工房
で学んだわずかな期間だけでその完成度の高い作例を描くことができたと素
直には理解し難い。そこで先に紹介した年譜にある上京以前の満谷の活動を
具体的に検証したい。ただし残念ながら、現在まで不同舎時代以前の満谷の
作例は報告されてはいない。そこで注目したいのは、満谷の師であった松原 三 五 郎
(一八六四〜一九四六)の 存 在 で あ る。 満 谷 が 画 家 と な る 決 心 に 至 っ た
のは、中学時代に図画の授業に熱中したためと先の回想にもあ る
)(((
。よって、
松原の存在は満谷にとって極めて大きかったと考えられよう。
松原の略歴を確認しよう。彼は岡山藩御典医の子として元治元年、現在の
岡山県に生まれ た
)(((
。幼少より絵を好み、画家となるべく明治十三年に上京、
五姓田工房において学ぶ。後述するように、 主に渡辺文三郎に学び、 鉛筆画、
水彩画、油彩画、そして絹絵の技術をも習得したことが、三五郎旧蔵作品群
の考察などから先行研究で明らかにされ た
)(((
。その修業を終えて同十七年に岡
山に戻り、岡山県師範学校ならびに岡山県尋常中学校で図画教員となる。ま
た同十八年には私画塾天彩学舎を開き、多くの門弟を指導し た
)(((
。同二十三年
一月に は大阪に職を移し、大正末頃まで長きに わたり大阪洋画壇の底辺を支
える役割を果たし た
)(((
。以上の略歴からは、松原にとって上京し学んだ五姓田
工房の技術こそが、岡山で実践すべきものだったと考えられる。
松原が行った具体的な指導内容を示すのが、彼が制作した教科書『小学錬
画帖』である。赤木里香子氏が指摘するように、明治十九年から翌年にかけ
て発行された同書には小学という題名が付されているものの、その内容を通
覧 す る と 当 時 の 学 齢 で い う 小 学 校
(六〜十四歳)だ け を 対 象 と は し て い な い
ことが理解され る
)(((
。十二巻で構成される同書は、基礎と応用の二部に分ける
こ と が で き る。 巻 之 一 か ら 巻 之 四 ま で が 基 礎 に あ た り、 単 純 な 運 筆
(サクラクレパス西村四郎蔵。以下、『小学錬画帖』の挿図は全て同氏蔵のため略。挿図
2
―
1
)か ら 始 ま り、 単 純 な 図 形 と そ こ か ら 複 雑 な か た ち へ と 発 展 さ せ、 透 視
図法の基礎を学んでいく
(挿図2―
2
)。県内の教育を担うことが期待された
尋常師範学校の図画教員で、かつ先進的な技術や指導法を東京で学んできた
松原が制作した ば かりの教科書であるから、当時県下の小学校に通っていた
二一
美 術 研 究 三 九 七 号
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(2-1)巻之四第二図
(2-2)巻之四第二図
(2-()巻之十一第二十図
(2-4)巻之十一第七図
(2-()巻之十一第十九図
(2-6)巻之十二第十七図
(2-7)巻之十二第七図
挿図 2 松原三五郎『小学錬画帖』 サクラクレパス西村四郎蔵
二二
満谷国四郎《自画像》の彷徨い
183
満谷も、基礎学習としてこの前半の巻を利用していた可能性は十分に考えら
れる。そして巻之五以後は、器物、動物、風景、人物というモチーフごとに
各巻が編集され、順次応用的な課題へと発展していく。本書は臨本としての
役割は確かにあったが、加えて写生を薦めている点も見逃せず、それが後半
の要点となっていると考えられる。
特に その応用部分の内容は当時の小学校以上の学齢に 対しても教科書とし
て 使 用 さ れ た 可 能 性 が 十 分 に 考 え ら れ る。 そ こ に 収 録 さ れ た 図 の 内 容 を 高
度化すれ ば 、全体のカリキュラムを大幅に変更することなく、尋常中学校や
師範学校の生徒にも利用可能なほどに体系だってまとめられた教科書といえ
る。ここに示される教育方針が、修学年次の違いこそあれ、松原の基本だっ
たにちがいない。当時の教科書は副教材だったわけではなく、教師の全ての
力量を注ぎ込んだ指導の主眼を示すものだからである。よって、明治二十一
年 に 尋 常 中 学 校 に 入 学 し 松 原 に 学 び 始 め た 満 谷 が、 『 小 学 錬 画 帖 』 を 手 に し
た機会があったと想定するのは容易なのである。
同書の中で特に 五姓田工房の技術を色濃く残すのが、巻之十一、巻之十二
である。まずは巻之十一について概観し、松原が工房の技術を教科書に取り
入れた事実を、二点の事例を挙げて確認しよう。この巻では透視図法を解説
することから始まるが、それは同時期の風景画を解説する教科書一般と同じ
意図と構成といえる。同巻のねらいを記したその緒言では透視図法の必要性
が中心的に述べられ、その達成が風景画を描く条件としながら、最後に 「固
より一小冊の端書き九牛の一毛を示すのみ他は各自発明の力に任す」と締め
括っている。つまり、実景写生の必要を強調していると考えられる。この示
唆 を 具 体 的 に す る よ う に、 第 二 十 図
(挿図2―
(
)に は 岡 山 後 楽 園 を 描 い た
風景画を収録している。以上のような理論よりも実践を重視する意識は、五 姓田工房の姿勢とも通じ合う。また、工房で継承されてきた技術や構図、構 成 を 収 録 す る こ と も 忘 れ て は い な い。 具 体 的 に は 第 七 図
(挿図2―
4
)と 第
十 九 図
(挿図2―
(
)で 指 摘 で き る。 前 者 は 原 図 と な る 水 彩 画
(「五姓田のす べて―
近代絵画への架け橋」展図録No. 144-9
。以下、図録No. X
と略)が三五
郎旧蔵作品群に存在する。同作品群については第三章第二節で詳述するが、
松原が工房で修業中の明治十五年に横浜本牧を描いた風景画であることがそ
の書込から明らかで、同様の横浜の海岸沿いを描く図様が義松旧蔵作品群に
も 含 ま れ て い る
(挿図(
)。 そ し て 後 者 は、 海 外 向 け の 土 産 品 を 生 産 し て い
た工房の、富士を描く際の基本構図であったと考えられる。明治十四年の第
二 回 内 国 勧 業 博 覧 会 に 出 品 さ れ た 義 松《 清 水 の 富 士 》
(東京都現代美術館蔵)が有名だが、義松旧蔵作品群には同様の意図をもつ小品の素描が散見され、
そ の 他 に 折 井 太 一 郎『 中 学 画 帖 』 第 五 編 第 三 図
(東書文庫蔵。図録No. 20 (
)などが類例として挙げられる。
こ の 教 科 書 を 用 い 指 導 し た 松 原 だ が、 教 え 子 で あ っ た 貝 原 京 平
(一八七〇〜一九三九)
の 存 在 か ら そ の 教 え が 定 着 し て い た と 理 解 さ れ る
)(((
。 貝 原《 画 学
習 練 帖 》 の 内 扉
(明治十九年、倉敷市立美術館蔵、縦十五・二センチメートル、横二十三・七センチメートル。挿図
4―
1
)に は、 貝 原 が 明 治 十 九 年 当 時 天 彩
学舎の生徒であったと明示されており、彼が五姓田工房に至るまでの経緯は
満谷の動向をうらなう上でも非常に興味深く、次節でその点については詳述
する。本節では《画学習練帖》に焦点をあてるが、そこに含まれる二十六図
は全てが風景で、そのうち二十図は東京を描いたものである。松原が学んで
い た 頃 の 五 姓 田 工 房 の 所 在 地、 浅 草 公 園 の 風 景 な ど も 含 ま れ て い る
)((((挿図
4
―
2
)。 貝 原 の 詳 細 な 履 歴 が 判 明 し て い な い た め、 彼 が 明 治 十 九 年 当 時 あ る
いはそれ以前に、実際に東京で写生したかは明らかではない。だが、その奥
二三
美 術 研 究 三 九 七 号
184
行きの浅い空間把握、随所に見られる景物の省略などから、手本や写真など
を も と と し た 臨 模、 部 分 的 に は 想 像 な ど で 補 い 描 い た と 推 測 さ れ る。 画 面
を横長に用い水平線を画面三分の一ほどに設定する構図、家屋や樹木を中心
と す る 構 成 な ど を、 『 小 学 錬 画 帖 』 巻 之 十 一 か ら 学 ん だ の だ ろ う。 そ の 題 名
も師の教科書を捩ったものであろうし、制作当時天彩学舎門人であった貝原
が、 『小学錬画帖』の存在を認識していたことはまちがいあるまい。
さて、同書の中で満谷《自画像》との関連で注目したいのは、特に 五姓田
工 房 の 技 術 が 色 濃 い そ の 巻 之 十 二 に 収 録 さ れ て い る 第 十 七 図
(挿図2―
6
)である。第十七図は初学という目的で単純化されているために描き込みの量
が 少 な く、 《 自 画 像 》 の そ の 技 法 が 充 塡 さ れ る 意 志 と は や や 異 な る よ う に 思
わ れ る か も し れ な い。 そ の た め 本 図 は、 《 自 画 像 》 の 過 剰 な ま で の 描 き 込 み
を促す直接的な契機とはなりえなかったと推測される。この他に松原が鉛筆
で密にその技法で描いた作例が存在した可能性も否定できないが、第三章で
詳述するようにそのような作例は少なくとも現存せず、また彼の作風は現存
作 例 か ら 推 定 す る 限 り よ り 柔 ら か い 表 現 だ っ た と 推 測 さ れ、 満 谷 が《 自 画
像》を制作するには別の契機が必要だったと考えられる。その契機に ついて
は次章で検討することとして、本節では本図がその制作の基礎となった可能
性を、造形的な共通点と制作にあたって共通する意図から指摘したい。
まず、その共通点として三点挙げよう。第一は、眉間に 皺を寄せた癖のあ
る 表 情 で あ る。 も と も と 初 代 芳 柳 以 来 肖 像 画 の 制 作 に 重 点 を 置 い て い た 五
姓田工房であるが、特に皺の表現は顔貌全体の現実再現性を高める効果が期
待されていたと、初代芳柳の絹地肖像画一般に積極的に描かれている点から
理解される。この点に おいて、その表情はまた工房の表現技法の延長とも理
解される。続いて第二に、瞳に光をたたえ、鑑賞者を射るかのような強いま
挿図 ( 五姓田義松旧蔵作品群《横浜ヨリ神奈川台ヲ望》
神奈川県立歴史博物館蔵
挿図 4 貝原京平《画学習練帖》 倉敷市立美術館蔵 (4-1)内扉
(4-2)第七図
二四
満谷国四郎《自画像》の彷徨い
185
なざし。これもまた肖像画制作を主とした工房では、眼が像主の心情などを
表現するための要所であることは共通の理解となっており、その表現技法も
綿々と受け継がれたと考えられる。以上の二点については、義松の自画像に
ある表情の研究に由来するとも推定され、次章において詳述する。
そして第三に 、顔貌の立体感ならびに 明暗をとらえるクロス=ハッチング
技法が挙げられ、本節ではこの点に議論を集中したい。その技法については
『小学錬画帖』巻之十二の緒言などにも具体的な言及がなく、どのような意
図をもって松原が採用したのかは明らかとならない。だが、足を練習する図
(挿図
2―
7
)で あ っ て も、 他 の 教 科 書 で は 擦 筆 で 表 さ れ る こ と の 多 い 陰 影
の部位もその技法で表現されており、巻之十二を通じて顕著な特徴と考えて
まちがいない。
その技法の利用で共通する具体的な部位を指摘すると、例え ば 画面向かっ
て右側の頰の陰となる部分の把握の仕方が挙げられる。光の回り込む輪郭部
よりも内側に濃い平行線群を、より深い陰影を表すために、また顔の凹凸を
際立たせるために両者ともに加えている。画面向かって左の頰から顎にかけ
て、松原の第十七図では陰となる描き込みだが、満谷《自画像》ではより柔
らかく表現されているものの、口を引いた際にできる膨らみを表現するため
にはやや濃く感じられ、その意味で第十七図の理解を下敷きに した表現と理
解される。その他に鼻の頭の処理の仕方、画面垂直方向の線でとらえる瞼の
描き方など、顔貌の要所に共通点が多々認められる。
以 上 の 共 通 点 か ら、 《 自 画 像 》 と『 小 学 錬 画 帖 』 巻 之 十 二 第 十 七 図 を 直 接
的に結びつけるのはやや尚早の感はあろう。満谷が明治二十五年の制作直前
に他の経路でその技法を身に付けた可能性も、完全には否定できないからで
ある。だが、西洋から直接輸入された画集などなら ば 数多くの可能性が考え られるが、明治二十五年以前に日本人が制作した美術教育を目的とした教科 書では、クロス=ハッチング技法はどれほど紹介されていたのか。そこで、 その頃までに満谷が実見した可能性のある美術教科書を概観し、松原に由来 する説の蓋然性を高めたい。ただし、本稿ではその全てを詳述するに は紙幅
に余裕はなく、以下の三系統に 絞りたい。第一に明治十年代後半に広く知ら
れていたと考えられる教科書、第二に松原あるいは岡山という地域に 近しい
と考えられる著者による教科書、そして第三に満谷が五姓田工房以後修業の
場として選んだ不同舎とその周辺の画家が著した教科書である。
各々検証していこ う
)(((
。第一系統として、明治十年代に全国で最も一般的に
使用されていたと考えられる宮本三平編『小学普通画学本』甲之部・同乙之
部
(文部省、明治十一〜十二年)を挙げよ う
)(((
。そこには明らかなクロス=ハッ
チング技法は確認されず、 その後継となる宮本三平編『改正小学画学本』
(稲田禎三、明治十六〜十七年)
でも同様である。
一 方 で、 『 小 学 普 通 画 学 本 』 と 同 じ く 明 治 十 年 代 に 利 用 頻 度 が 高 か っ た と
考 え ら れ る 山 岡 成 章 臨 画『 図 法 階 梯 』
(第一〜八号、明治五年、文部省。第九〜十二号、東京開成学校、明治八年)
に は そ の 技 法 が 確 認 さ れ る。 そ の 第 六 号
と第七号では、その技法の陰影表現を学ぶ教程がある。第六号は果実、第七
号は花卉がモチーフではあるが、輪郭線のみの図と陰影が付された図の二種
を交互に挿入し、その技法の具体的な理解を求めている。さらに第十一号第
三図に瞼を描く曲面にその利用が認められる。だが、同号ではそれ以外に利
用された挿図は確認されない。第十二号第三図は鼻を中心として両目と眉間
までの顔面の中心だけを描く図で、顔面の曲面や陰影をその技法で把握する
確かな事例として注目される。だが同号第四図の頭部全体を描く図様で確認
されるその技法は、同号第三図のそれと比較すれ ば 有効的に陰影や凹凸を表
二五
美 術 研 究 三 九 七 号
186
現できてはいない。また同号第六図から十二図までの手を描く挿図全てに同
技 法 が 採 用 さ れ て い る が、 同 じ く 有 効 的 に 曲 面 を と ら え て い る と は い え な
い。以上のように、山岡はその技法について意識的に学習を促しているが、
彼自身はさほどその利用に習熟していなかった可能性がある。
山岡に よるその採用が確認される一方で、先に 今回の一連の調査に よる結
論を述べれ ば 、それが全国的に普及した印象はない。その中で、吉田嘉三郎
画『 大 成 習 画 帖 』
(吉岡宝文軒、明治二十一〜二十二年)第 四 巻 第 十 一 図 か ら
第十五図の、完全にその技法を利用した肖像画は希有な事例である。松原よ
りも描き込みが激しい点でも特筆されるが、同書の巻末に付された全国発売
所の一覧には岡山は含まれておらず、その発行年から考えて満谷が眼にした
としても『小学錬画帖』に先駆けることはあるまい。
第 二 の 系 統 だ が、 前 田 吉 彦 著 画『 画 学 臨 帖 』
(阪神書房、明治十九〜二十一年)
を 挙 げ た い。 前 田 は 平 木 政 次 と も 親 交 が あ り、 五 姓 田 派 で は な い も の の
比較的近しい位置にいた画家であり、兵庫県御影師範学校に勤務していたと
いう地理的な近さも注目されるからであ る
)(((
。その巻之九は人物を課題とする
が、婦人像をモチーフとする第二十七図にクロス=ハッチング技法が認めら
れる。ただし、同図の存在は同書の中で異質で、かつ先に満谷と松原の頰の
描写で指摘したような特徴は認められない。
最後に 第三の系統だが、工部美術学校系統、不同舎系統の画家たちが制作
し た 教 科 書 に 注 目 し た い。 ま ず 浅 井 忠 と 柳 源 吉 の 共 著 に よ る『 習 画 帖 』
(天絵学舎、明治十五年)
を 挙 げ よ う。 そ れ は 内 容 が 優 れ て い た と い う こ と で 明
治十八年に文部省から『小学習画帖』として改版発行され、その第八編が人
物画と風景画にあてられている。同編第四図は浅井が描いたことがサインか
らわかるが、足を描くそれにはその技法が認められる。松原以上に線の濃淡 や肥痩にも注意を示し、その技法の理解度の高さがうかがえる。だが、同じ く浅井が描く第五図の頭部の挿図では、少年の頰をとらえる陰影は単一方向 の平行線群のみであり、有機的な交差はない。同書の人物画の最終図となる 第六図は柳が描いているが、うつむく老婆を描く同図の陰影には線群を認め ることはできず、擦筆のような効果である。 加 え て、 満 谷 が 生 涯 師 と 仰 い だ 小 山 正 太 郎 に 注 目 し た い が、 彼 が 関 与 し
た と 思 わ れ る『 図 画 臨 帖 』
(医学予備校、明治十七年)を 挙 げ た い。 同 書 第 十
編の冒頭に同校が新たな図学の模範的な教科書を編もうと「東京師範学校画
学教官小山氏及大学予備門画学教官狩野近沢二氏」に依頼したと記されてい
る。 狩野とあるのは狩野友信、 近沢とあるのは近藤勝美の誤記かと思われる。
その内容だが、クロス=ハッチング技法はほとんど確認されない。同書十四
編第二図、同六図の手足の挿図に一部の曲面の把握に利用されているにすぎ
ない。第十五編第二図に横向きの男性肖像の挿図があるが、それもまた擦筆
表現による陰影の把握である。これらの描写を小山が担当あるいは主導した
かは定かではないが、推測の材料として提示しておきたい。また小山が校閲
し た 教 科 書『 小 学 新 習 画 帖 』
(角井厚吉著、成美堂、明治二十五年)に そ の 技
法が見出せない点も付記しておこう。
そ の 他、 西 敬 編 並 画『 図 画 臨 本 』
(吉岡宝文書房、明治二十年)第 九 巻 に 収
められた人物画には、わずかに その技法の痕跡が認められるが、しかしその
緒言に記される通り影を濃く表現することを厭い、満谷《自画像》との距離
は 遠 い。 岡 村 政 子 著『 新 撰 画 学 入 門 』
(信陽堂、明治二十一年)で は、 第 八 巻
第六葉、第七葉に肖像画の図がある。その顔貌に付された陰影は平行線群が
用いられているものの、その線群は交差しない。特に第七葉の少女図では向
かって右側の頰の表現に平行線群が利用されているが、面的な陰影表現に 近
二六満谷国四郎《自画像》の彷徨い
187
づき擦筆表現とも見えてしまう。この平行線群が面的な擦筆の効果に 近づく
事象は、石版で制作された教科書に一般的に見られる傾向である。
明治十年代後半の教科書群を考察すると、いずれも満谷《自画像》に 見ら
れる技術に繫がるとは考えられないといえる。また、第三系統としてまとめ
た教科書群にその技法が顕著に認められない点からは、その作品がその教育
課 程 の 中 に は 位 置 し な い こ と も 示 唆 さ れ る。 こ の 考 察 の 結 果、 《 自 画 像 》 制
作の基礎に『小学錬画帖』巻之十二第十七図が存在した可能性が極めて高い
ことが証明されよう。松原が作成したカリキュラムからすれ ば 巻之十二は最
終巻であり、そして第十七図はその最終図にあたる。つまり、教科書の構成
からすれ ば 最終課題を意味する。例え ば 工部美術学校において風景画を最終
課題としたのとは対照的に、肖像画が最終課題となるのは五姓田派の絵師に
共通した意識と考えられ る
)(((
。
初代芳柳以来、五姓田派の絵師たちが生きていくために 選択した画題は肖
像 画 で あ り、 松 原 も ま た 洋 画 家 と し て 生 計 を 立 て る た め に 肖 像 画 の 重 要 性
を理解していたと推測され る
)(((
。その彼が制作した教科書の最終図には、その
ような工房で培われた意志と技術が集成されており、五姓田派の絵師として
の矜恃すら受け止められる。以上の課程を満谷が真摯に学んでいた可能性は
縷々述べたとおりであり、満谷《自画像》の完成度や習熟度は単に五姓田工
房に入門して以後だけの学習期間を意味するのではなく、このように 明治二
十一年からの継続的な修業の成果と考えられるのである。後年、高村眞夫は
人物画に秀でた満谷像が既に不同舎時代に確立していたと回想しているが、
それはこの頃に身についた技術や意識の産物とも考えられよ う
)(((
。不同舎時代
から後年の裸婦像に至るまで、一貫して人物表現を模索するその情熱の淵源
をこの松原の指導に求めても良いのかもしれない。 (二)明治二十五年頃 東京
昭和二年に 満谷が自己の画業を振り返り、明治二十四年秋すなわち上京の
時を「画壇第一歩」と記してい る
)(((
。明治二十一年から一年間ほどの期間松原
に学び、その松原が同二十三年一月に大阪へ赴任した後は、一年半ほど独学
していたのだろう。そしてその独学に 耐えかね、本格的に 師匠に ついて学ぶ
ことを期待し、岡山県尋常中学校を中退して上京したに ちがいな い
)(((
。その上
京から半年も経たずして制作されたと考えられるのが、本稿の考察対象とし
ている《自画像》である。本節では、明治二十五年制作の蓋然性を高めるた
めに、その制作年前後の五姓田工房の環境に ついて明らかに していく。
まずは、この頃の五姓田工房に ついて概説しよう。時はやや遡るが、明治
二 十 二 年、 一 門 の 期 待 の 星 で あ っ た 義 松 が 足 掛 け 十 年 の 留 学 か ら 帰 国 し た
時点から確認していきたい。帰国後の義松には工房での旺盛な制作活動が期
待されたにちがいないが、しかし転居を繰り返して父や工房の近くに は居着
かなかったよう だ
)(((
。そして翌二十三年には父初代芳柳とともに渡米するもの
の、義松は初代芳柳を早々に帰国させ、別行動を取った後に帰国。渡米の理
由は不詳だが、慶応三年の父子旅と同様に出稼ぎ目的だったと想像される。
互いに協力して売立てを成功させるどころか両者は仲違いしてしまい、帰国
後はほとんど近寄り合わなかったのではなかろうか。同二十四年二月八日に
は、 チ ャ ー ル ズ・ ワ ー グ マ ン Charles W irgman(一八三二〜一八九一)が 横 浜
で五十五年の生涯を閉じる。そして翌二十五年二月一日、一門の総帥、初代
芳柳が生涯を閉じる。つまり、明治二十年代の工房は斜陽の時代であり、明
治二十五年とはその終焉を意味する年だったといえる。
その頃の五姓田工房の様子を具体化するために 、貝原京平に 注目する。明
治三年、現在の岡山県倉敷市に生まれた彼は、同十九年頃松原が私的に経営
二七
美 術 研 究 三 九 七 号
188 する画塾天彩学舎で学んでいた
)(((
。その後、同二十三年頃上京、渡辺文三郎に
学ぶ
)(((
。五姓田工房での修業は、おおよそ同二十六年頃までと推測される。の
ちに同三十九年には岡山県玟瑰女学校、同四十二年から大正二年頃まで長崎
高等女学校の図画教員となった。晩年期は郷里倉敷に戻ったという。幸いな
ことに上京してから数年間の作品が残っており、それらを詳細に 考察するこ
とで貝原の学習内容すなわち当時の工房の様子が明らかとなる。
その具体的な考察材料となるのが、左記の四冊の写生帖である。
A 《写生帖》 明治二十四年 洋紙・鉛筆、一三六頁
縦二十・六、横二十九・一
B 《写生帖》 明治二十四年 洋紙・鉛筆、十頁
縦十九・四、横二十八・七
C 《写生帖》 明治二十五年 洋紙・鉛筆・水彩、一〇二頁
縦二十五・三、横十九・八
D 《写生帖》 明治二十五年 洋紙・鉛筆、五十五頁
縦二十四・六、横十八・二
*法量はセンチメートル。全て、倉敷市立美術館蔵。写生帖という題が繰り返
され、記述が煩雑となることを避けるため、作品名称の先頭に付したアルフ
ァベットを用い、以下写生帖
X
のように記すこととする。また、写生帖C
とD
には切り取られた頁が存在するが、それらは頁数としては計上せず、以下頁番号は現在その全体が確認される頁のみを対象として番号を振っている。
この写生帖
A から D のそれぞれの制作年代を推定し、そこから考えられる
明治二十五年頃の五姓田工房での修業内容などを五点にまとめて論じたい。 第一にクロス=ハッチング技法について。第二に人物画に集中する点とモチ ーフの種類について。第三に風景画について。第四に推定される工房の様子 について。第五に自画像について、である。 まず、各写生帖の制作年代に ついて。写生帖
A N o. 1( 6 の表紙(図録)に は
「 T his S ke tc h B oo k O ug ht to K yo he i K aih ara b y t ok yo h on go ku m alu ya m a
watanabe 」 と い う 不 完 全 な 英 文 が 記 さ れ て い る が、 当 時 東 京 府 本 郷 区 丸 山 町
に住んでいた渡辺文三郎から貝原京平にこのスケッチブックが与えられたと
いう文意と理解される。またその表紙の現在折れている下の部分に半 ば 隠れ
るように鉛筆の薄い字で「 1890 」と記されているが、それが西暦を意味する
のであれ ば 、明治二十三年に与えられたことを意味するのだろう。裏表紙に
は「 O kayamaken a farmar e K yohei Kaihara 」 と あ り、 貝 原 自 身 の 写 生 帖 で あ る
と理解される。表紙に加えて、各頁に描かれた図とともに記された数字も制
作年代を検討する材料となる。 その一頁
(挿図(―
24. 1. 22 1
)には 「 」とあり、
四 頁「 24. 1. 28 」、 十 二 頁「 24. 2. ( 」 と 断 続 的 に 記 載 が あ り、 九 九 頁「 24. ( . 12 」が最後となる。これらは明治二十四年の一月から三月までの年紀を示す
と読むのが素直だろう。ここから、写生帖
A には連続した修業段階を、明治
二十四年一月から三月頃までのそれを見ることが可能といえよう。なお、こ
の記述方法は冒頭で示した満谷《自画像》のそれと共通する点を指摘してお
きたい。 次 に、 写 生 帖
B 。 表 紙 に あ た る 一 頁(挿図
(―
2
)の 絵 の 上 か ら 穴 を あ け
紐綴じをしていること、また一頁の年紀が「二十四年六月八日」とあるのに
対 し て 四 頁
(挿図(―
(
)に は「 廿 四 年 五 月 三 十 一 日 」 と あ り 錯 簡 が 確 認 さ
れることから、描きためたものを後にまとめたと考えられる。そして、全十
図のうち年紀がわかる全六図に明治二十四年を意味する記述があり、錯簡が
二八満谷国四郎《自画像》の彷徨い
189
あるにせよその共通する作風などから考えて、全て明治二十四年に 描かれた
と推定される。そして、写生帖
C と D はともに明治二十五年に描かれたこと
がそこに記された年紀から理解されるが、写生帖
A と B とは異なり、同時に
描 き す す め ら れ て い る。 写 生 帖
C 2( . 1. 8 は「 」 か ら 始 ま り、 断 続 的 に 記 載 され、 「 2( . ( . 7 」まで続く。写生帖
D 2( . 2. 1 ( はやや遅れて「 」から始まり、
同じく断続的に記され、 「 2( . ( . 10 」まで続く。すなわち、 満谷《自画像》に 記された 「 2( . 2. 21 」 のその日を含む時期に描かれている点に留意されたい。
貝原の履歴については先述した通り文三郎に学んでいたとあり、後述するよ
うに写生帖
A の中には初代芳柳、義松、文三郎の姿も認められ、よってこれ
ら一連の写生帖は明治二十四年から翌二十五年頃の五姓田工房の内容を直接
的に伝える作例といえる。
では、第一の特徴から挙げていこう。満谷《自画像》で瞠目したクロス=
ハッチング技法だが、その発生源として松原の可能性を前節で指摘した。そ
の際にあわせて、松原『小学錬画帖』巻之十二第十七図は満谷と比較して柔
和な描き込みである点を指摘した。その距離に少なからず疑問を呈したわけ
だが、貝原のこの一連の写生帖に認められるその技法は、満谷の作風により
近いことがわかる。 写生帖
A から D までで最も制作年の早い写生帖
A 一頁(挿
図
(―
1
)に は、 ク ロ ス = ハ ッ チ ン グ 技 法 で 描 か れ た 手 や 少 女 像 が 見 て と れ
る。松原の教科書にも登場したような手を描く練習が
A を通じて行われ、例
え ば 十 七 頁
(挿図(―
4
)の よ う に 次 第 に そ の 描 き 込 み が 激 し く 濃 く な る 傾
向が確認される。人物を集中的に練習する写生帖
C と D でも基本的にその技
法で描かれており、明治二十四年頃から翌年にかけてはその技法の習得が求
められていたと推定される。なお、 写生帖
A の最初の方では、 例え ば 五頁(挿
図
(―
(
)に あ る よ う に 、 な る べ く 動 き の 少 な い 人 物 な ど を 丹 念 に 見 て、 そ れ ば 三週間ほどしたあたりから、動きの活発な人物を学ぶ課程へと移ったよ の技法を体得することに重点を置いている。そして、その冒頭の日付からす
う だ。 そ の た め、 例 え ば 八 十 七 頁
(挿図(―
6
)に あ る よ う に、 輪 郭 で 素 早
く対象を把握するクロッキーのようになり、平行線群が立体感を有機的に把
握する機能は低下し陰影表現に終始してしまう。以上のことから、クロス=
ハッチング技法を駆使し素早く対象を把握することが課題とされていたと写
生帖
A から理解され、その成果が写生帖
C と D に認められるのである。
次に 第二の人物画に 集中する点とモチーフの種類に ついて。写生帖
B を除
く三冊の写生帖が人物の練習にあてられ、模写と思われる図も圧倒的に少な
く、十例に満たない。よって、人物画が工房の主要科目であったことは、ほ
ぼまちがいないところであろう。そのモチーフだが、 絵を描く人物、 モデル、
その他の身近にいる周囲の人物、自画像の四種に大別されよう。自画像につ
いては後述することとして、各写生帖に登場する作例を挙げて説明しよう。
絵 を 描 く 人 物 と し て、 例 え ば 写 生 帖
A 24. 2. 1 九 頁「 」(挿図
(―
7
)、 C 七 頁
「 2( . 1. 9 」
(挿図(―
8
)、 D 二十二頁「明治廿五年二月二十日午後二時」
(挿図
(―
9
)な ど が 挙 げ ら れ る。 い ず れ も 屋 内 で 制 作 す る 姿 を 描 い た と 考 え ら
れ、工房の仲間と推定される。この特徴的なモチーフについては、第三章で
義松の指導方法と関連させて言及する。次にモデルと分類した図様だが、写
生 帖
A 四 十 三 頁(挿図
(―
10
)の よ う に 風 俗 画 の 添 景 人 物 と も な り え る モ チ
ー フ が あ る。 ま た 写 生 帖
C 二 十 五 頁(挿図
(―
11
)は 画 面 上 部 に 像 主 と 思 わ
れる名前が記されている点から、時には工房に所属する以外の人物に依頼し
て い た と 考 え ら れ る。 さ ら に 写 生 帖
D 五 十 六 頁(挿図
(―
12
)に 描 か れ た 男 性を文三郎が描いており、モデルの利用はこの事例からも推定され る
)(((
。さら
に は 番 傘 を 持 ち ポ ー ズ を と る 写 生 帖
D 十 頁(挿図
(―
1(
)だ が、 義 松 旧 蔵 作
二九
美 術 研 究 三 九 七 号
190
挿図 ( 貝原京平《写生帖》 倉敷市立美術館蔵((-1)A-1 頁
((-2)B-1 頁
((-()B-4 頁
((-4)A-17 頁
((-()A-( 頁
((-6)A-87 頁
(-7)A-9 頁
三〇
満谷国四郎《自画像》の彷徨い
((-8)C-7 頁
((-9)D-22 頁
((-10)A-4( 頁
((-11)C-2( 頁
((-12)D-(6 頁
((-1()D-10 頁
三一
美 術 研 究 三 九 七 号
((-14)A-2( 頁
((-1()D-17 頁
((-16)C-1 頁
((-17)C-19 頁
((-18)B-8 頁
((-19)B-9 頁 三二
満谷国四郎《自画像》の彷徨い
((-20)C-91 頁(天地逆)
((-21)C-(1 頁
((-22)A-19 頁
((-2()D-(1 頁
((-24)C-( 頁
((-2()C-17 頁
三三
美 術 研 究 三 九 七 号
((-26)C-8( 頁
((-27)C-97 頁
((-28)D-47 頁
((-29)C-81 頁
((-(0)C-8( 頁
((-(1)C-87 頁
三四
満谷国四郎《自画像》の彷徨い
195
品 群 に あ る《 傘 を 持 つ 女 》
(挿図6
)と 共 通 す る モ チ ー フ で あ り、 写 生 帖 に
描かれたうちの幾つかは工房での常套的な課題とも推測される。そして、そ
の他と分類したものは、特別な姿勢などを意識してつくらない身近に いた人
物を描く図様である。屋内で仕事をする女性らの姿が数多く、中でも写生帖
A 24. 2. 1 ( 二十五頁「 」(挿図
(―
14
)、 C 2( . 1. 19 四十三頁「 」、
D 2( . 十七頁「
2. 18. night 」(挿図
(―
1(
)な ど 針 仕 事 を す る 姿 が 眼 を 引 く。 こ れ な ど は 日 本
の風俗を描き販売するという工房の性格とも合致しよう。
第 三 の 風 景 に つ い て。 現 存 す る 貝 原 の 風 景 画 帖 は こ の 写 生 帖
B の み で あ
り、 その点で他の写生帖とは性格を異にする。描かれた土地は小石川、 上野、
駒込など文三郎宅からそう遠くない土地に集中しており、おそらくは実景写
生したものだろう。先に指摘したように写生帖
B は明治二十四年頃に制作さ
れたと考えられるが、この年以外にも実景写生を行っていたこともまたうた
がいない。例え ば 写生帖
C には、 一頁(挿図
(―
16 2( . 1. 1 (
)や十九頁「 」
(挿図
(―
17
)な ど 人 物 画 の 合 間 に 風 景 画 が 存 在 し、 ま た 切 り 取 ら れ た 頁 に も 風
景画と見える断片があり、その考えを裏付ける。技術的な特徴だが、写生帖
B 八頁(挿図
(―
18
)や九頁
(挿図(―
19
)など家屋を中心に据えるだけの構
成が多く、一つひとつの景物や樹相を丁寧に描写することに意識が向けられ
て い る。 奥 行 き の 表 現 に は 未 熟 な 部 分 も 認 め ら れ る が、 《 画 学 習 練 帖 》 か ら
は格段の進歩が認められよう。
第 四 の 推 定 さ れ る 工 房 の 様 子 だ が、 改 め て 貝 原 が 文 三 郎 の も と で 学 ん で
い た 事 実 を こ の 写 生 帖 群 か ら 例 証 し よ う。 写 生 帖
D Profescer 二 十 頁 に は「
W atanabe 」 と い う 書 込 が あ り 文 三 郎 の 姿 が 次 ペ ー ジ に 描 か れ て い た と 推 定
さ れ る が、 残 念 な が ら、 そ の 描 か れ た 姿 は 切 り 取 ら れ て い て 見 る こ と は 叶
わ な い。 写 生 帖
C 九 十 一 頁(挿図
(―
20 hand of Y W atanabe 2 (. (. 4.
)に は「
night 」 と い う 書 込 と と も に 手 が 描 か れ て お り、 渡 辺 幽 香(一八五六〜一九四
二)
の 存 在 も 確 認 さ れ る。 ま た 写 生 帖
C 五 十 一 頁(挿図
(―
21
)に は 文 三 郎
と 思 し き 容 貌 の 人 物、 初 代 芳 柳 や 義 松 ら の 姿 が 描 か れ た 写 生 帖
A 十 九 頁(挿
図
(―
22
)か ら も、 貝 原 と 五 姓 田 家 と の 距 離 の 近 さ を う か が い 知 る こ と が で
きる。以上の作例から、貝原は文三郎宅に住まい、内弟子として学んでいた
可能性も考えられる。また、 写生帖群の中には年紀に付加する形で「 night 」
と記された作例が数多く、師の近くで夜も修業していたと考えられることか
らも、その可能性は増す。なお、明治二十四年頃の初代芳柳は眼病を患い、
絹地の肖像画などの生産を行っていたとは考えられず、工房としては機能し
ていなかっただろう。よって、貝原ら弟子たちが特に商品制作に従事したと
は考えられず、昼間は戸外へ風景写生や屋外で活動する人物の練習に赴き、
夜は工房で人物画一般の練習に励むという一日の活動が推測される。
さて、明治二十四、二十五年頃の工房の様子がおおまかに 見えてきたが、
満谷《自画像》に記された日付のその日も貝原は制作を行っている点に注目
し よ う。 写 生 帖
D 三 十 一 頁(挿図
(―
2( 2( . 2. 21. night
)に は「 」 と 記 さ れ て
挿図 6 五姓田義松旧蔵作品群《傘を持つ女》
神奈川県立歴史博物館蔵
三五
美 術 研 究 三 九 七 号
196
おり、夜という点もまた一致する。真横を向き正坐した女性がクロス=ハッ
チング技法で描かれ、首筋から顎、頰にかけての陰影と曲線をその技法でと
らえていく意識は満谷の実践と合致する。以上のことから、この環境に 満谷
が存在する可能性は非常に高いものであるといえよう。だが一方で、満谷が
文三郎工房にこの日居たかどうかは定かではなく、あるいは文三郎に 学んで
いない可能性がある点をここで検討しておきたい。
そう考える理由は二つある。一つは先に 指摘したように 、弟子たちが互い
に描き合う環境が工房に存在したことはうたがいないものの、貝原の写生帖
の中には満谷と思しき人物が描かれていない点である。 また後述する満谷 《写
生帖》には、その十八頁のメモの中に「貝原」という人物は登場するが、貝
原の姿は描かれていない。そしてもう一つは、満谷が文三郎に言及しない点
である。冒頭で引用したように、本人は「五姓田氏の塾に入った」と記す ば
かりであり、具体的に誰に習ったかを語り残しておらず、実は不明なのであ
る。松原が満谷の父に画家になることをすすめ上京を促したという話は伝わ
り、だとすれ ば 松原の直接の師であった初代芳柳や文三郎に学んだ可能性が
高 い
)(((
。また、石井柏亭の回想には上京後に徳永仁臣の紹介で入門したともあ
る
)(((
。その徳永は二世芳柳に入門したと伝わるが、それが事実だとすれ ば 、満
谷もまた二世芳柳工房で学習した可能性が考えられ る
)(((
。大阪に赴任した後に
も松原と満谷との間でやりとりがあったかは定かではなく、徳永の動向に も
確証はない。不同舎門人であった安西直藏は満谷が不同舎へ移ったのとほぼ
同じ明治二十五年十月頃の入門と考えられるが、その安西が回想する「渡辺
文三郎及ビ五姓田芳柳両先生ノ塾ヨリ転学セル」者の名前の列に 、満谷の名
が記されてい る
)(((