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テロルにおける倫理の表象可能性 : 三島由紀夫の 「ドグマティーク」

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(1)

テロルにおける倫理の表象可能性 : 三島由紀夫の

「ドグマティーク」

著者 柳瀬 善治

雑誌名 三重大学日本語学文学

巻 12

ページ 75‑101

発行年 2001‑06‑24

URL http://hdl.handle.net/10076/6564

(2)

テロルにおける倫理の表象可能性

‑三島由紀夫の「ドグマティーク」‑

【はじめに】

昨今の、理論の政治性、暴力性を問題化するポストコロニア

ル批評やカルチュアルスタディーズにおいて、十全に展開され ていない論点が存在する。それはテロリズムと倫理の問題であ

るー。この観点から三島由紀夫の晩年の言論活動を見たとき、

我々は現在へとつながるいくつもの興味深い洞察を得ることが

できる。三島が晩年、「権力」とそれに抗する感義」の表象可 能性の問題に拘泥していたことは、宗房雄顔芸人間と文学』 において癌力の内部構造をいかに描くか」という問いが提出

され、また二・二六事件に取材したいくつもの作品が存在する ことから容易に理解しうる。彼はその「逆夢の理念を評論で、 盛挙の実践を劇という形式を用いて表象しようと試みた。

本稿では、近年の政治学と「ドグマ人類学」(ルジャンドル)の

知見によりながら、三島におけるテロリズムと政治、倫理性の

媒介の問題(そして何故劇が選ばれたのか)を検討し、三島の 晩年の言論活動の一端、.その可能性と限界を明らかにす亀さ

らに、そこから敷節して現代の理論状況における倫理性の浮上 柳瀬善治

と対象の細分化、表象不可能性という課題について考える。

1.テロリズムの精神史とその「神学的」背景

まず橋川文三の日本のテロリズムについての分析を見る ことからはじめる。「テロリズム信仰の精神きは、三島が『道

義的革命の論理』において引用したものだが、そこから橋川が 「日本におけるテロリズムの可能性の極限形轡を二二天事

件におき、そこに「日本国体思想という曖昧な神学」の『異端』

の例を見いだしていることがわかる。さらに橋川は、この『神

学』の「正当性を究極的に決定する主体の所在が不在」である

点に、「日本のニヒリズム」、「無として象徴することのできる否 定的な無限ぎの存在を見る。そして、そこではテロリストが 或道者」として、しかも「自然人としての天真=玉塔の擁

護を理由とするテロリズムの積極的容認と、理念としての「国 昏擁護の現実的多義性との間にある急ご「慈意約な国体にも

とづく一切の行動(テロリズム)の容認として理念化されると

いう矛盾」を抱えた東適者」として現象するしかないとされ

る柑。

75

(3)

ここで見られるような、日本的「神学」における「無として

象徴することのできる否定的な無讐である「神の蒸発過程」

とそこでの「異端」の浮上の問題を問う試みとして、我々は藤

田省三の『異端論断章』での考察を想起することができる。藤

田は、和辻哲郎が戦前に発表した『尊皇思想とその伝統』を批

判的に読解しながら、次のように述べる。

「彼は、この日本の天皇制的意識構造の中にはついに「究

極者」はありえず、「神々」を追及すればするほどその背

後にまたもや不定の神が立ち現われ、その過程の背後には

茫漠たる何者かに対する「占ト」の営みすなわち呪的祭祀

があるだけであって、そこでは何が祭られているのかまっ

たくわからないような、いわばただの祭祀だけが極めて具

体的な特定の形態を以って存在している、という関係を見

事にとらえている。」u

例えば、「背後にある無限に深い者の媒介者としてのみ、

神々は神々となる」から、三島の「文化防衛論」のオリジナル

とコピーの議論を連想することは十分可能である。赤坂憲雄は

『象徴天皇という物菟巴でこのような自己言及的な矛盾をはら

んだ「神々は祀られると共に常に自ら祀る神」に『英霊の士∈

への影響を読み取り、和辻の『尊皇思想とその伝統』と『国民

思想の統合』との間の「隔たり」と、『文化防衛論』と『英霊の

土星の間のねじれとを類比的に見る興味深い観点を見出してい

サ曾。このように、和辻の天皇論が三島に影響を与えたことは研 究史的に既に明らかにされているのだが、この二人の差は、実 のところ、『倫理的要請』の有無、そしてその要請がテロリズム とアナーキズムを容認しうるかどうかという点に存在するので ある

三島と福田怪有との対談「文武両道と死の哲学」におい

て、次のような対話がなされていることは極めて示唆的である。

三島

そこで、天皇は何ぞや、ということになるんです。

僕は、工業化はよろしい、都市化、近代化はよろしい、そ

の点はあくまで現実主義です。しかし、これで日本人は満

足しているかというと、どこかでフラストレイ卜している

ものがある、その根本が天皇に到達するといース考えなん

です1天皇はその線の一番手前の端ではなくて一番向こう

の端のところにいなければいけないんです。天皇はあらゆ

る近代化、あらゆる工業化によるフラストレイションの最

後の救世主として、そこにいなけりやならない、それを今

から準備していなければならない。

福田

しかし、天皇が天上教会なしの地上教会の最高権

威とすると、ボロを出すわけにいかない。天上教会のごと

く振舞わなければならない。(略)もう一つは、つらい思

いをしてやったにしても、日本の民族の国家的エゴイズム

の抑止力としてはあったとしても、他の国家にとつては何

ものでもない、ということだね。(略)

福田

その代わり、エリザベス女王は、やっぱりカンタ

ベリー大僧正によって戴冠式を行な・笑ちやんと二つに分

(4)

けてある。ところが、天皇は自分で自分に戴冠しなければ

ならない。

三島.それは、日本の天皇の一番つらいところだよ。同

時に神権政治と王権政治が一つのものになっているとい

う形態を守るには、現代社会で一番人よりつらいことをし

なければならない。それを覚悟していただければならない

というのが僕の天皇論だよ。研

ここで三島が「近代化の極での反転」という論理で天皇制を

説明していること、そしてその背後に(臣下)である三島の「現

代社会で一番人よりつらいことをしなければならない。それを

覚悟していただければならない」という強烈な倫理性の要求が

存在していることは重要な問題をはらんでいる。ここにあるの は一種の(超歴史的で倫理的な形尋としてのみ、天皇を見る

見方であり、そして、天皇の命令は、実は、(臣下)による「倫

理的であれ」という要求が論理的に先に存在することによって

成立しているのである。そしてこの論理の問題点は、福田の冷

静な反論、「天皇は自分で自分に戴冠しなければならない」=

「神々は祀られると共に常に自ら祀る神」という論理的矛盾を、 「そうでなければならない」という慮理的要請としてしか」

解決できないこと、そして対外的には、「日本の民族の国家的エ ゴイズムの抑止力としてはあったとしても他の国家にとつて

は何ものでもない、ということ」という疑問に、正確に答え得

ないことである。 では、藤田の言う「神の存在の蒸発過程」と「呪術的祭儀の

具体的存在性」の関係は三島作品においてどのように表象され

ているのか。

2.蒸発する神と「権力者の内面J

「経隆

お上の心は今も私の心に巌の下を行くように通

っている。「何もするな。何もせずにおれ」……それはつ

まり、『ただ滅びよ』と仰せられたのではないだろうか。」

「経隆

お前の目には地獄だろちだが私の心はますま

すお上のそばにいて、お上のあの、決して臣下に御語りに

ならぬ巨きな御悲しみに夜も昼も触れている。……しか

し、いずれ敗れた果てに、お上はどうあらせられるかと思

ぅと……。」(『朱雀家の滅亡』

23

p肌、讐

経隆の「お上の、ただ滅びよ」という命令にひたすら従属す る琴そして空襲によって息子を失った母であり間接的な殺人

の告発者であるおれいが死して後も 「このお社だけが無傷で

残った」「弁天廷を守りつづける姿は、そのまま、和辻が描き

出し、藤田が、正統と異端のモデルで再構成した「何が祭られ

ているのかまったくわからないような、いわばただの祭祀だけ

が極めて具体的な特定の形態を以って存在している、という関

係」に適合している。その「権力の内面の荒廃というか荒れは

てたもの」と三島が呼ぶ、荒廃し切ったとしか他人に写らない

経隆の内面世界は三島が想定した「権力者」と「お上=国体」

77

(5)

が結びついた表濠である。このように、臣民である経隆は、空

虚なお上の命令、「ただ滅びよ」という命令をひたすら遵守させ、

そもそも本当に存在していたかも聞こえているかどうかもわか らない命令への扉り」 へと向かうのであり、ここには「荒廃

した内面」と「権力の空虚」との結託がある。

三島は中村光夫との対談『人間と文学』において「権力の内

面の荒廃」について次のように語っている。

「三島

(略)Ⅰしかし、権力というもののパラドックス

というか、ああいうものにはとても興味がある。スターリ

ンの娘スベトラーナの手記が出ましたね。スターリンは百 万人くらい殺しているにもかかわらず自分の手で殺した ことは一度もない。虫も殺さないようなやさ男で、ただサ

インするだけ。ああいう人間の内面というのは文学的にと

ても面白いですね。林(房雄)さんは権力構造を措こうと

するところでうまくゆかなかった。」

「三島

権力の内面の荒廃というか荒れはてたもの、それ

を本当に迫真に措いたものはない。僕は今度美濃部さんに

小説を描いてもらおうと思って楽しみにしている。

三島 (略)

でもさすがにドストエフスキーは知っているよ。

「カラマゾフ」の有名なエピソード。

中村

大審間官。

三島

あれは権力の内部構造というものをほんとうに描 いているのではないかな。」由 =高は林房雄の『壮監における権力の表象の失敗1奴抑圧

者の眼からしか、つまり拷問などを媒介してしか権力構造を描

かないため、結果として類型的になってしまっている点を上げ、 それへの反措定としてドストエフスキーの「大審間宮を例に 上げている。で喧二島は同席房雄整でどのように「権力」を

想定しているのか。 「かういふものの殺教なしには、現実の権力は一日も存続

しないこと、世界包括的な詩と、世界包括的な権力とはお

互いに相容れないこと、さういふことを大臣が洞察したと ミまさにそれと同時に、彼はあらゆる権力のモータルな

性質に日ざめるのである。政治的熱情の純潔な詩が不死で あるなら、太餐的にモータルな政治的権力は、不死なもの

の存在などをゆるしてはおけない。すぐさまそれら不死の 存在考機関銃でなぎ倒さなくてはならぬ。不死なものの 死考民衆に印象づけなくてはならないのだ。」(買戻雄

論』測

p讐

三島は「政治的権力」の「本質」に「モータルなもの」を、

そして「政治的熱情」に「不死的なもの」を見ている。参照さ

れているのは林房雄の『四つの文字』である。 感はいつ打ころからか、天をおそれぬ魔王の使徒に化し

終わつてゐた虚無の使徒であり最も危険な政治家のタイ

プであった。彼は天意に従って簸れたのではない。倣然と

(6)

しておのれ自らの手で光れたのだ」→

この大臣は『朱雀家の滅亡』の経隆、息子を玉砕することが

はじめからわかつている島へと送り込んだ元侍従長を連想させ る。この大臣、威争が負けることをはじめから知っている」 「虚無の使徒」は、「ただ、滅びよ」との廊せ」に従いつづけ

た経隆に反響しているといってよい。

ただ、たった一つの差は、林の「大臣」が「彼は天意に従っ

て集れたのではない。倣然としておのれ自らの手で集れた」の

に比べ、経隆は「私の心はますますお上のそばにいて、お上の

あの、決して臣下に御語りにならぬ巨きな御悲しみに夜も昼も

触れている」点である。「大臣」は自己の権力に自分で責任を取

ることができるのに比べ、経隆は後退する起源への呪術の連鎖 という別の権力構造の中にいるのであ曳ここに三島の権力観

と林のそれとの差が現われているといえるのである。

さらに、政治における「不死性」について考察する必要がある。

田中純は政治における「不死性」について次のように述べてい

る。

クロード・ルフォールは、アリエスの言葉を裏付ける現

象として、近代の政治家や作琴思想家たちの言説の中に、

唯一無比な存在として歴史の中に不死性を獲得するとい

ぅ観念がしばしば現われることを確認している。そして、

その不死性の感覚喝ほかの誰によっても「占有されない 場野の獲得と密接な関係がある。その不可侵な場所こそ が死者の単独性を保障する。(軽コプチエクが的確に指 摘しているように「占有されない場所」こそが不死なので あり、そこをたまたま占めた個体が不死なのではない。社 会的なもの偲ここで、個人と個人の関係としてではなく、 この場所への関係を通じて構成されている。社全体の持続 性はこの後者の関係性に依拠している。」00 まず『林房雄論』で述べられている「不死なもの」として の「世界包括的な辞」或治的熱情の純潔な詩」とは、むしろ「政 治に関わる(そして社会構造から独立した)倫理」と言い換え た方がわかりやすい。その「倫理」によって実践した「主体」 を、刻々と変容し「死すべきもの」である「権力のダイナミズ ム」は「死」においやり、なおがつ「祭匪「具体的な儀式」に ょって祀ることで、主体の死を田中の言う占有されない場野 に属するものに変えるのであり、そのことで政治権力は自らを 吉有されない場醇の代理人とすることができるのである。 票教を召喚した権夷カトリックの教会権力、そして靖国神社 の権力性はそこにこそあるといえるだろ・笑

3.r道義的革命」という「倫理のダイナミズム」 ただ、ここでの責任を解消する「お上」‑「呪術的祭夢によ

ってのみ確認される「否定的無限者」は、それだけでは「テロ リズムの絶対的容夢へとつながりえない。そして、林の権力

者が自死を選ぶのに比べ、三島の経隆は、はじめから「とうの

79

(7)

昔に滅んでいる」存在なのである。このどちらからもテロリ

ズムの論理は発生しない。この「天皇大権=国体という客観的

理念と「斬ることが国体」という強烈な主観性との矛盾」を、

三島はどのように詔櫨義的革命の論理』の磯部解釈の中で解決

しているのかを以下に見ていくことにしたい。

三島は、「国体思想」に「変革を誘発する契機」、「制度」が

「はじめて純粋性を得る」「否定形のダイナミズム」、「永久革

命的性格」を読み込んでいる。そして、橋川が「矛盾」とよん

だものを、「道義的革命の限定」によって繰り返される「敗北」

と言い換えている。こわ「限定性」は、「待つ」という態度とし

てとらえられ、それが、磯部らの「権力把握」の「スタティッ

ク」さ=「権力の変容の政治学的ダイナミズム」の忘却と連動 しているとされる。ここで、「待つことのロス」=「道義的革命

の套と三島が呼ぶもの、それがすなわち先に問題とした「倫

理的要請」なのである。この点について、長崎浩は『超国家主

義の政治倫理』のなかでアナーキズムと倫理性の問題と絡めて

次のように論じている。

「しかし他方、「決断する天皇」における天皇その人の

身柄の問題は、このアナーキズムに対する理不尽かつ絶対

的な蜘であり、非論理的な限定性である。それは決して、

大衆反乱に対する政治という合理的形式の椒なのではな

い。」¢

「それゆえ、三島のいう政治のダイナミズムとは、靡起 主体と天皇その人の双方における「政治と道徳の闘争」で あり、かつ同時に、両者の関係としてのダイナミズムなの

である。なによりも垂であるありのままの天

皇は、蕨起を前にしてその本質を覚醒され、、「政治的権威」 との養藤状態に入る。(略)政治と道徳との矛盾が、この

ように天皇と主体の相互に外化しあうダイナミックスこ

そ、三島のいう政治のダイナミックスであり、『道義的革 命』における『待つ』ということであったろえ」‑。 「(略)結局、三島のいう政治のダイナミズムと時政

治的というよりまったくのところ倫理的なダイナミズム

である。「力と道理の闘争は後者の敗北に決まっています

が、歴史が長い歴史をかけてその勝負を逆転させるのだ、 と信ずる」と彼みずからいうとおりである。(略)そして、

天皇に『死』を賜う事によって、ダイナミズムは終局する。

ありのままの天皇にすればこれほど有難迷惑なことはな

いだろ・笑」〓

この読解は『道義的革命の論理』に対するものの中で最も透

徹したものであり、それが『政治の撃という左翼のアナ

ーキー論の作者によって可能となっているというのは興味深い

事実だが、この分析を通してみると、先に述べたような「現代

社会で一番人よりつらいことをしなければならない。それを覚

悟していただければならない」とい・ュ従属する主体の側から の強烈な倫理性とそれに伴ユ苦痛の要求が、三島のr道義ごに

(8)

おいて最重要となっていることが理解できる。「あらゆる近代

化、あらゆる工業化によるフラストレイションの最後の救世主

として、そこにいなけりやならない」、「力と道理の闘争は後者

の敗北に決まっていますが、歴史が長い歴史をかけてその勝負

を逆転させるのだ、と信ずる」という三島の発言は、近代化の 極において、異端=敗北の論理であった感義的天皇」が、そ

れまでの歴史的プロセスをすべて逆転させると「信じる」事に

ょって成立するのである。つまりここでいう「天皇」とは(超

歴史的でかつ終末に充填される倫理的な形式)なのである。こ

こに、神学的な響きを、そして同時代の極左の論理と共鳴する

発想を見出すことは容易である。ただ、このシャープな読解は、

三島の道義論のもう一つの側面を読み落としている。それは、 「癒しがたい楽天主垂「精神の自由の診と三島が呼び、橋川 文三が「ほとんど『ヨプ藍を思わせるような凄まじい呪い」

と呼ぶものである。

「磯部一等主計の遺稿においては、この「待つこと」と 「癒しがたい楽天主垂とが、事件の力学と個人との情念

とを一.つなぎにして、不気味なまでに相接着している。

そして人も知るように、楽天主義とは、実践家の持つべ

きもつとも大切な素質の一つなのだ。」

「想像力はそのやうにして故意に高められた理性を基

盤にして栄え、精神の自由の核ともいうべきものを形づ

くる。そのとき、自由人はファナチイズムと容易に結び っくのである。」(「道義的革命」

32

P544)

「つまり、ほとんど宗教的情熱に基づく求道として追求

されたまさにそのもの天皇の名によって、彼らの行

動自体の絶対的拒否が表明されたとき、そこにいかなる

ドラマが生じうるかということである。そこにはほとん

ど神学的な問題が含まれる。」‑柏 「そこでは怒りはほとんど、啓示の意味をさえ帯び奄 (軽憎しみといい、加害の欲望といい、その意味はむ

しろ神のものというより人間そのものの本性に関連す

るが、ひとしくもっとも極端な人間個体の存在意識に関

わっている。」‑ひ

′ナ

癌端な人間個体の存在意識」に関わる「怒り」が、「絶対 者の」感対的拒否」の前に、ほとんど「神学的問題」を表て この盛り」「呪い」は、決して「無責任の体系」「神の無限後 遅からは出てこないものであり、社会システムの結節点に人

間を還元する視点からも処理不可能な問題である。そのために

我々は「テロリストの主体」の「神学的問題」を分析するため

に、彼らが「絶対者」、「父」をどのようにモンタージュしてお

り、さらにいかにそれが解体へと追い込まれたかを再構成しな

ければならない。

「神々は何をしてゐるのだ。このとき、磯部の心に、神々

の留守の空虚が切実に感じられ、留守の家に一人閉じ込め

られた子供のやうに、「自分が神様になつて」初心をつらぬ

‑81‑

(9)

かうとする覚悟が感じられる。神々の空虚を満たすために

自ら神となること、そこには留守居の子供の深い屈辱に充

ちた自己神化があり、神は人々の尊崇によつて自然にその

座につくものではなくなつてゐた。それは、無理矢理に搾 り出された神、強ひられた神の叫びになつた。追ひつめら

れた状況で自ら神となるとは、自分の信條の、自己に超越

的な性質を認めることである。」(『道義的革命の論理』

32

p捕)

周知のように、二・二六事件においては「道義」はあつけな

く裏切られ、磯部浅一の怒りは爆発する。その怒りを橋川文三 は日本に稀有な「ヨプ記」的な怒りと呼び、三島はそれを、扁々

の空虚を満たすために自ら神となること」、「強いられた神の叫

び」と呼ぶ。「神は人々の尊崇によって自然にその座につくもの

ではなくなっていた」という一行はここでの磯部的「神」が、

和辻が理論化し、われわれが『朱雀家の滅亡』に見たような、

儀礼によって背後に無限に補われる神ではなくなっていること

を示している。そこにはもはや創出技法としての「呪術」は存

在しない。しかし「道義」を生み出すための「天皇」との倫理 的緊張関係もまた「天皇」がいないために存在せずそこには

ダイナミズムが発生しない。ただ彼自身が神に変わらねばなら

ないという倒錯があるばかりなのだ。癌神の自由な核」は「自

らを神とする」事に加えて、なおかつ「何かを待っている」とい う「矛盾」によってかろうじて成立しているのであ亀そして 磯部は、もう一つの「至高の準拠」、「道義的天皇」も喪失して いる。三島がパラフレーズする裁判での真崎将軍との「尽きぬ 劇的興趣に溢れ」た「対決」は、まさに、「主体の側では、天皇 の「矛盾」のうちに、自らの宿したダイナミズムの外化を生み、 自らの苦痛を天皇の苦痛として読む」というダイナミズム」 が将軍の内的独白の再構成というかたちを取って見事に鹿白) されていく有様が描かれている。

「しかし、嘗て幸福な日々に、彼の空虚な心が青年たち

によつて慰められ、彼の冷たい胸が青年将校たちの熱烈な

魂によつて温められ、それによつて、陶酔が自意識の水を

つかのまでも溶かし、彼もまたその熱誠の一員であるかの

やうに錯覚させてくれたこともたしかなのだ。欺瞞が凡て

であつた筈はない。だが、このやうな熱誠と怯惰の一つな がり、打算と純情との混噂野心と「正大の気」とのアマ ルガムを、どうやって、旦別の暗い怒りと呪いに満ちた青 年に納得させることができるだろうか?」(意義的革命

の論理」

32

p攣

二・二六裁判といういわば暗黒裁判において死刑執行が確定

し、裁判という自己信条の義務と場所を失った磯部は、いわば 自らの劇場)を喪失している。そこで磯部は「法と理性を演

出する政治的なものの至高の準拠」に自らを「媒介する司法的 審級」‑最適じて結びつけることが出来ず、「禁止の組み立てと

の関係で自分の演じる演技を発見する」ことが出来ないのであ

(10)

る。しかし「自らを神とする」しかも廊の怒り」を「人診と

して表象するためには、新たな法をモンタージュする(観念の

劇華を必要とする。いわば「司法的審級」を経由しない神の

怒りに準拠する空間であり、そこでは、理性と劇的なものが最 も根源的に結びつくのである二二島がいう「窒息に高められた

理性」と「ファナチイズム」との結合は、理性と劇的なものと の結今P.ルジャンドルが「ドグマティーク」と呼ぶものを

連想させる。「ドグマティーク」とは、いわば明示的に表象され ない根源的な法を劇的に明るみに出し、(上草するものであり、 フランスの法制史家P.ルジャンドル一道『ロルティ伍長の犯 罪買おいてカナダケベックのテロリスト、ロルティに注目し、 この「ドグマ人類ぎという独自の視点から分析を行なってい

る。

「言い換えれば、犯罪は侵犯として上演ないし表象可能

(の官記p諸籍邑訂).でなければならない。犯罪とは禁

止そのものを現前させるための唯一可能な方途であり、侵

犯が引き起こす災厄という目に見える証拠によって、禁止

を舞台に載せるものなのだ。ソフォクレスの悲劇は結局の

ところ、禁止の基礎に関する概説なのである。」‑¢ 重体は、禁止の組み立てとの関係で自分の演じる演技を

発見する。従って罪悪感それ自体はスクリーンに過ぎず、

その背後に主観的な諸要素が組織され働いており、主体に

理性があるかどうかを問う裁判官はその諸要素に向き合 うのである。」‑q

「ドグマというギリシャ語は、見えるもの、現われたもの、

そう見えるもの、そう見させるもの、ひいては見せかけを

意味する。ついでこの語は、その昔味の持つ二つの傾きに

われわれを引き込むが、ディスクールを社会的に組織する

諸システムはその二つの側面を同時に動員する。一つは基

本となる公理であり、原理ないし決定であり、も首二方は

名誉、美化、装飾である。」‑㊦

ここで問題にすべきは橋川文三の亭フ「神の怒り」の葛

P・ルジャンドルがカトリックに見出した「神の政治的欲望」‑章

あり、それを三島が日本で「発明」しようとしたこと、そして「神

の怒り」をいかにして代理=表象することができるかを考え尽

くしたことにある。

4‑「恋闊jと「倫理」の蛋

では、このようなテロリズム容認の原理的なロジックを、三

島は作品の中で具体的に展開することができているのかどうか、

そこには短絡やズレは存在しないのかを『英霊の去∈と『道義

蓋を例にと・つて考察することとする。先にふれた「権力

構造」へのもう一つの「別の回路」について、三島は『人間と

文学』で次のように語っている。

「センチメンタルな通路として母親しかないから権力構

造に入れないのですね。しかし、センチメンタルの通路を

ー83‑

(11)

くぎって権力構造に入れるという別のメトーデがあると

おもって、それが僕を右翼といったりする理由なんです。

忠義とか、恋閑とか。」皆 「忠義、恋閑」を三島は「センチメンタルの通路をくぎって権

力構造に入れるという別のメトーデ」であると理解している。 「権力構造」は、象徴的なものでもなくまたダイナミズムを

内包したシステマテイックなものでもなく、精神分析で言う「イ

マジネールなもの」として捉えられている。「われらが国体とは

心と血のつながり、片恋のありえぬ恋閑の激烈な喜びなのだ」 という『英霊の土星での「国体」の定義は、まさにそれに適合

するものである。野坂昭如との対談では国家権力と「エロティ

シズム」について次のように語っている。

「それでね、国家権力とは何か。エロチシズムと国家権

力はどうして衝突するか。僕には長年の疑問がある。もし、

国家権力に非連続性の中心理念があるとすれば‑それは

つまりデモクラシーだが‑国家権力とエロチシズムは相

渉しない。それを極端な形で実現したのが、アメリカの占

領だと思‑笑 (略)というのは、もし国家権力が連続性を、

死を、祭祀を代表しているならばひょっとすると国家権力

とエロチシズムは同じ側に属していることになるかもし

れないのだ。」巴

「三島

ひとたびエロチシズムを扱ったら、政治の問題が

必ず入ってくる。例えばあなたの(「エロ事師たち」の) 乱交パーティーね、あれは性的アナーキズムの極で、その 後には何がくるかね。」

「野坂

今の状態における最終的なものが乱交パーティ ーだけど、また少し先に行けばノアナーキズムの先にある、

政治との係わり合いは、また違ってくると魯毛僕自身で

は、その先にあるものは今日的なテロですね。」

「三島

そうだろうね。僕はそれを聞きたかった。そこへ

ゆくはずだもの。」悼

「三島

僕はエロティシズムの所有の最終形態は教育だ と魯えそれが国家権力と結びつけば国家全体の教育にな

る.それがエロスの中でどう動くかということを文学的に

書いたものは日本で乏しい。まあ「若紫jでしょうね。日本

の国家主義的教育というのはやっぱりエロティックな教

育とほとんど同じです。それによってエロティシズムを禁

止するのは、つまり国家がエロスを占有するということな

んです1戦時中の日本がそうでした。」建

三島は政治の問題と「エロティシズム」の問題をパラレルに

扱っている。いわば、ここでテロリズムは国家が「占有」する

「エロティシズム」を奪還するとい一義合いで捉えられてい

る。つまり、三島がいう「性の全体性を回復する試み」であり、

三島が影響されたバタイユが語り尽くした問題である。「性的

アナーキー」が「今日的なテロ」に対応するという野坂のコメ ントはいわば、零テロや薬物テロに、国家が占有できない、

(12)

いわば代表=表象不可能な生への暴力であり、またそれに対す

る責任も不在となった理論状況を表していると考えられる。三

島のテロはそうした「今日的なテロ」と天皇という「倫理的権

威」において対立しているのである。

では「道義的革命」では、「エロティシズム」はどう扱われて

いるのか。磯部の遺書の「エロティックな比喩」を例にとって

次のような分析がな磨れている。

事態はエロティックな比喩で語られたので、この事件に

関するパトスの所在は、遺稿のどの部分よりも明快になつ

てゐる。美々しく装った権力は女性形で語られてゐる。磯

部は女性を姦した一時に、たしかに或る手応えをかんじた

のだ。なぜなら女も亦、永らく心に夢見てゐた観念的な赤

誠壷忠が、その瞬間みごとに肉体化され、その官能的な頂

点を男とともに味わつたことを否定することは出来ない

からである。道義的革命のエロティシズムの最高の陶酔を、

一瞬、頒ち合つたことを否定できないとは、すなはち、女

もまた、ゾルレン的国家像が実現されたという夢想に酔っ

た一瞬を持ったことを意味する。」「も少し突つ込んで云

ってやらふか。此処に絶世の美女がある。この美人に認め

られたらしめたものだと思ふ殺人犯の男が平素狙ってゐ

た。美人はその男の行動を認めた。女は男の種をやどして

ゐた。」(『道義的蓋丁命の論理』

∽柏

P崇†宗柏 後者は 三島による磯部浅lの手記の引用。) ここで「国体」はレイプされる「美きの比喩の下に語られ ている。通常男性的な比噂もしくは母性の比喩の下に語られ ることの多い『権力=国体』はここではレイプされ、それを許 す女なのだ。もちろんこのよ・つな男根中心主義的な想像夷三 島によって増幅された磯部の論理を糾弾することはたやすい。 これはまさにロビン・モーガンが批判してやまない男性中心主 義とテロリズムが性的要素によって結びついた格好の例である。 「奪い取る喜び。‑轟姦にも所有することにもこれがあ るー。これは醒めた状態から逃亡するための切符ともなれ ば、自我抹消の手段ともなる。強奪と歓喜のテーマは、男 性優位の世界の絵画、文学、文化一般にみちみちていま す。」 「テロ行為に男たちを魅きつけてやまないのはこ

の性的要素であり、テロ行為にすでに身を投じている男た ちに他の男たちを魅きつけるのもまさにこの性的要素で

す。」望 ただ、ここで重要なの唱この三島の論理は、先に長崎の説 を借りながら確認したようみこ渚義的革命の限定性」、そこでの

ぎりぎりの倫理性を、男から勝手に夢見られたレイプを和姦に

変える論理、いわば一方的で想像的な関係に回収することで却

って弱めてしまっている点である。この論理の元では、「道義

的革命」の「決定的限定性」‑いわばそれは法による強制力の

限定性と、個人としての天皇の肉体的限界性が持つ二重の拘束

力といえるーtこの二つの限定性は、ともに喪失してしまうから

85

(13)

であり、政治理論としても完全な退行と言わざるを得ない。つ

まりは「エロティックな比喩」で天皇の名による(直接民主主

義幻想〉をつむいで見せているだけである。先の、真崎と磯部

の、「人間的対話」による癌蓋ごの「脱臼」と、ここでの「エ

ロティックな比喩」=想像的解決によって「権力」が「同じ夢

を見たと悟ずる」「癒しがたい楽天主義」は、共に、三島が望む

「道義的天皇」という「観念を前提しないかぎり、「政治と倫理の

ダイナミズム」が決して成立しない事を如実に示しているので

ある。 『英霊の土星の用例が、「どのような一方的な恋もその至

純、その熱情に偽りがなければ、必ず陛下は御嘉納あらせられ

る」という「片恋のありえぬ恋闘の激烈なよろこび」を説きな

がら「筈だつた」「願った」「受け入れたもうにちがいない」「神

であらせられるべきだつた。」というもはや実現不可能な過去に

対する「倫理的な要求」を背後に含んでいることは重要である。 三島は或治のダイナミズム」や裁判という「司法的欝級の

琴によっては果たしえず、そして決して歴史上現実のもの

にならなかった「超歴史的」な「道義的天皇」をフィクション として創出しなければならない。しかもそこには「神」と「法」

がなければならない。この「法」と「神の責任」を問う倫理的

緊東関係の表象が、霊という「記憶」の再現、帰神の儀式と

いう身体技法を通じて再現可能となっていること、しかもそれ

が能の形式を借りるとい・壷劇的な表象=上演によって作品と

して提出されていることの意味を考えてみる必要がある乾

5・エロティシズムと権力におけるrカトリシズムJ

ただ、劇的構成と法の関係に入る前に此処で付け加えておか

ねばならないことがある。先に確認した『朱雀家の滅亡』の「荒 廃した権力」からは、三島の言っ「エロティシズム」は発生し ない。そしてなぜ東夷」し「後塗する「神」が「呪術」や「従 昼を「強制」しぅるのかの説明もできない。そこに「規範」と

「罪」の論理が組み込まれていないからである。 「このような固有の神学思想は、一定の条件のもとでは、

容易にいわゆる人権の抹殺を引き起こし、そこに責任や罪

を感じることのない心性を作り出す.右翼テロリストにお

いて二殺多生」という仏典的発想が結びつくのも、その

ような固有の死生観念を媒介とすると考えてよいと私は

魯ち

「汝殺すなかれ」という人格神の絶対的戒律が与え

られていない場管そこには、いかなる残虐も本来的な生

命への責任感を呼び起こすことはないからである。」鵠

彼の「エロティシズム」と権力関係との理解には、バタイユ

が影響を与えていることは多くの人が指摘していることだが、 もう一つ重要なファクターが存在する二二島が権力論において

重視しているのは、実はバタイユを経由して理解された「カト

リシズム」なのである。

(14)

「考エロティシズム、死といふ園式はつまり絶対者の秩

序の中にしかエロティシズムは見出されない、といふ思想 なんでモヨーロッパなら、カトリシズムの世界にしかエ ロティシズムは存在しないんでてあそこには厳格な戒律

があつて、そのオキテを破れば罪になる。罪を犯したもの

は、いやでも神に直面せざるを得ない。エロティシズムと

いふのは、さういふ過程を通って裏側から神に到達するこ

となんです。 (「三島由紀夫最後の吉夢補1 p∽) さらに「自由と権力の状匪では、言論の自由とエロティシズ

ムについて語る際に、カトリシズムが参照されている。

「仮に、言論の自由、表現の自由をエロティシズムの領域 に限つてみても私はかねがねエロティシズムの問題と宗

教の問題をもつとも賢明に解決したのは、カトリックであ

ると思つてゐる。カトリックの考へる人間性の観念は、あ

たかも薄い盆の上に水を湛へて人に持って歩かせるやう

なものである。ちよつと手が揺れれば、水は盆から零れて

しまふ。そして、そのごく薄い盆の上に湛えられた水こそ

は、正常な夫婦間における、生殖を目的とする、正常位に

ょる性行為なのである。人間がどうしてこれに局限されよ

ぅか。しかもカトリックが、盆から零れた水を傲悔によつ

て掬ひあげ、水を零してかへりみぬ人を異端として礼間し

たことは、共産主義の「自己批判」と「粛清」に正確に照 応してゐる。」(「自由と権力の状況」33 p卿)

「中村

キリスト教がどうして日本でうまくいかないか、

逆に云うとキリスト教がどうして西ヨーロッパでだけ栄

えたかというと、あれはやっばり西ヨーロッパ人がキリス

ト教というタガをはめるに足る強い肉体を持っていると

いうことだね。

三島

ぼくもそう思いま彗日本人ではあんなことをする

必要はない。

中村

おまえは罪人だといわれて本当に罪があると思う

のはエロティシズムだよ。日本人だと、何いってるんだと

思う。そこは本当に根本的な問題だけど。」当 三島が権力構造の例にとつで薄るドストエフスキーの「大審

間宮」がまさしくカトリックに対する批判、笠井潔の言い方を 使えば「「大審間宮はドストエフスキイによる津身のカトリシ

ズム批判であり、観念としての神に、沈黙あるいは不在として

の、つまり予感としての神を等置しようと努める極限的な企て」

皆であったことを考えれば、このカトリック的な権力の参照も ぅなずけるだろえ「自由と権力の状況」の分析は『人間と文学』

の戦前の日本の「教育装置としての国家権力がエロチシズムを

占有する」というコメントと結びついているのであり、三島は

戦前の日本に一種の「教会権力」を読み込もうとしているので

ある。

「当時は1末梢的な心理主義を病んでゐる青年の手をさえ

87

(15)

捉えて、らくらくとこのやうに(「天皇陛下万歳」という

遺書…引用者注)書かせるところの、別の大きな辛が働い

てゐたのではないか。それは国家の強権でもなければ、軍

国主義でもない、何か心の中へしみ通つてきて、心の中で

すでに一つのフォルムを形成させるところの、もう一つの、

次元のちがふ心が、私の中にさへ住んでゐたのではないだ らうか。カトリックにおける教会とは、そのやうなもので

はないか。われわれを代理し、代行し、代表するもう一つ

の心があるのだ。」(「私の遺書」32 pm)

そして、決定的に重要なのはこの「私の遺書」の一節である。

「天皇陛下万歳」の遺書を書かせた力を三島はなんと「カトリ

ックにおける教会」のアナロジーで説明し、「国家の強権でもな ければ、軍国主義でもない」と⊥て、それを権力構造か皇息図

的に分離し、さらにヲオルムとしての教会」を「何か心の中

へしみ通ってきて、心の中ですでに一つのフォルムを形成させ

るところの、もう一つの、次元のちがふ心」「それをわれわれを

代理し、代行し、代表するもう一つの心」であると述べている

のである。 ここで、カトリシズムの教会概念と代表=代行=再現前概念

との接合の例としてカール・シュミットをインデックスとして

召喚してみよーち和仁陽の『教会・公法学・国家』によれば、

カール・シュミットは第二帝政期のドイツのカトリック文化の

中で思想形成を行っており、そのなかから近代プロテスタンテ イズムにつながる合理主萄経済的思考に対立する「カトリシ ズム的理念」として、「超越的存在をその超越性を損なう事なく 歴史の中に具体化する」「再現前のフォルム」建としての「教会」 理念を提出し、それに適合する国家像を模索したと述べている。 また、シ子「ツトの教会概念については、古賀敬太の『カール・ シュミットとカトリシズム』がある。古賀は、シュミットの教 会概念は「腐匪する「具体的琴芦に対して蕪夢で残り 続ける「可視的黎芦であり、それは、「キリスト教を不可視性 や内面性に解消するプロテスタンティズムに対するボレミー ク」省となっているものだとしている。 この無傷で残る「超越的存在をその超越性を損なう事なく歴

史の中に具体化する」「再現前のフォルム」としての教会の「可 視性」は、三島由紀夫の天皇嘩超歴史的に反復される慮理

的形式」であり、「みやびのまねび」としての「天皇」に不気味 なほど通底している。先に見た「私の連声の一節「何か心の中

へしみ通ってきて、心の中ですでに一つのフォルムを形成させ

るところの、もう一つの、次元のちがふ心」「それをわれわれを

代理し、代行し、代表するもう一つの心」は、まさしく、「超越

的存在をその超越性を損なう事なく歴史の中に具体化する」 「再現前のフォルム」なのであり、慮理的形式」としての感

義的天皇」そのものなのである。三烏の「天きとは実は(カ トリック銭されたものであり、「予感としての神=フォルムと

しての黎芦を「現世的秩序」と癒肴した「教会権力」に対置

(16)

したものなのである。三島の試みは、ドイツの文脈でカトリシ

ズムの教会概念を「再現前」として捉えなおし、国家理論とし て構築したカール・シュミットに対応しているといえ壱‑。 いわば、彼が日本の重臣に見たのは「現世的秩序」である盛 会型権きであり、青現前」する「予感としての神」=「理念

としての教会」が「倫理的形式」としての「天皇」なのである。 「天皇」との慮理的ダイナミズム」に「エロティシズム」を

見出すためにカトリックの教会概念の召喚は三島にとつて不可

欠だったのである絶

無論、研究史においては例外的な見解として富岡幸一郎の

『仮面の神学』のように、三島がカール・バルトやブルームハ

ルトの「神学」に接近していたとする見解も存在している。

「私は先ほど三島由紀夫の天皇の神学といったが、ある意 味では三島はここで無意識のうちに文字どおり「神ぎ的

な思考に近づいているともいえるのである。ここでいう 「神ぎ的思考とは、近代的なキリスト教ではなく、たとえ

ばイエスキリストの再臨を『待ちつつ急ぎつつ』といーユプ

ラクティカルな、実践家の姿勢で受けとめようとしたブル ームハルトのような神学のことである。(略)三島由紀夫

が二・二六事件と磯部浅一から抽出する「待つこと」の思想 は、このよう彗神ぎ的思想とクロスするといっても決し

て過言ではないご溜

ただし、三島のキリスト教理解は、バルト的なものより、カ トリックへの嫉妬の方が大きかったように思われる。そしてや はり長崎浩や笠井潔のように.「道義的革命」の「倫理的ダイナ ミズム」の側面に注目すべきであろ一笑では、「神の怒り」によ る「原理主義」の「テロル」の「記憶」をどのように三島は表 象しようとしたのか。

6.「劇的なファンタジー」としての「ドグマティーク」

そこから、もうひとつの彼の参照枠が派生する。それは「ヒ

ューマニズム」を超えるものとして三島が捉えていたギリシャ

悲劇である。ここで我々はもう一度、演劇というフォルムの問

題に戻らねばなちない。三島は『朱雀家の滅亡』について次の

ようにコメントしている。

・.▲ア

虚実に細部を模した翻案ではないけれども、ごく大まかに、

この芝居はエウリビデスの「ヘラクレス」を典拠にしている。」

「『朱雀家の滅亡』の第一幕が借主征伐にあたり、第二幕は子殺

し、第三幕は妻殺し、第四幕は一種の運命愛に該当する。」「こ

の芝居の主題は「承詔必畑野の精神の実存的分析ともいえるで

あろ・笑すなわち、完全な受身の忠誠が、しらずしらず一種の

同一化としての忠義に移ってゆくところに、ドラマの軸がある。

ヘラクレスを襲う狂気に該当するものは、すなわち狂気として

の弧忠であり、また、滅びとしての忠節なのである。」(「『朱雀

家の滅亡』について」

33

P準用)

「三島

そうで彗僕笹フシーヌからだんだんコルネイユが

‑89‑

(17)

好きになり、エウリビデスからだんだんソポクレスやアイスキ ュロスが好きになりといふ段階でしょうね。惚れたのはれたの

といふ筋の他にもう一つ何かが欲しい、そうするとどうしても

コルネイユ、ソポクレスが好きになる、そこにはもう一つの何

か、一種の「大義」があるから。

中村

それは芝居のオーソドックスでしょ・ちしかし、エウ

リビデスの、事に「狂えるヘラクレス」などは。

三島

あれは普通のエウリビデスとちょっと違いますね。

中村

人間の自由意志をまったく認めないでしょ・笑

三島

完全に否定している。」

「中村

そうかしちだけど、あの公爵経嘩あれだって自

由土星心の持ち主でしょら㌔

三島

でもおしまいに云うでしょち「私たちは意思を持

っていたから滅びちやった。あなたは意思がないから生き延び た。その秘訣は何?」って瑠璃子が亭㌔」

「中村

それは何ですか。狂気ですかご

「三島

「ヘラクレス」の場Aロには狂気ですね。非常にイン ヒューマンでて忠義とヒューマニズムがくっついているとい

・ヱ考えがまず間違いの元で、オールドリベラリストたちが、天

皇って立派な方だ、とても言い方だ、だから、われわれは天皇

を敬愛する、という一種の特権意識に乗っかった、新興ブルジ ョアジー的忠義をこしらえた、ということと結びついていると

思・笑」ざ 「人間と文学での発言は、単に作品に対する文学的インデッ クスを示唆するだけでなく劇と「黄昏、そして「ドグマティ ーク」との間にある関係性を示唆している三三島が「朱雀家の滅 亡」を描く際に、ギリシャ悲劇、殊にエウリビデスの「狂えるヘ ラクレス」をプレテクストとして用いたのはこの三島の発言を 見るまでもなく周知のとおりだが、ギリシャ悲劇の援用は、ヒ ューマニズムの側からは「狂夢「自由意思の喪きと見える様 態‑つまり感蓋ご・・・を、法廷堕墓相でも政治的言語でもなく、 そして何がしかの「浮の創出を示唆するようなかたちで劇的に 表象するための装置なのである。(『奔藍においても、飯沼勲 と法との戦い、裁判の場面は「演劇のト書き」の形式を用いて 語られている。)三島は「革命哲学としての陽明ぎにおいて陽 明学を「それが革命に必要な行動性の極敦をある狂熱的認識を 通して把握しょうとした二34 熱的認識」は⊇里心が動いてきたときにはすでに善悪の区別が 生じてくる」(p撃と述べられているとおり、いわば「法の創 出」と不可分なのである。

G.スタイナーは『アンチゴネーの変貌』において、ヨーロッ

パ思想史におけるアンチゴネーの回帰を概観しながら政治と倫

理をめぐるジレンマを次のように指摘する。

「究極の不可避の問題とは、都市ないし国家が彼ら(アンテ

ィゴネー、クレヨン)のどちらをも容れることができるか、容

れるべきか、ということなのであ奄しかしもしその答えが否

(18)

であるとしたら、人間はいかにして自らの条件の限界を受け入

れることができるのか? そして人間はどのようにして神々を

迎え入れたらよいのか?」餅 「人間はいかにして自らの条件の限界を受け入れることが

できるのか?」という問いは『朱雀家の滅亡』『英霊の士∈に適

合するものであるだろう。先ほど触れたドグマティーク論で、

ルジャンドルは「犯罪とは禁止そのものを現前させるための唯

一可能な方途であり、侵犯が引き起こす災厄という目に見える

証拠によって、禁止を舞台に載せるものなのだ。ソフォクレス

の悲劇は結局のところ、禁止の基礎に関する概説なのである。」

としてソフォクレスに言及しているが、禁止と侵犯の創出の劇、

いわゆる「開設の言説」はギリシャ悲劇に由来するのである。

この「ドグマ」という概念について酒井直樹とルジャンドル

の翻訳者の西谷修が興味深い見解を提出している。

「酒井

ルジャンドルは「ドグマ人類学」を提唱していま

すが、そこで先日も西谷さんが触れられた『ドグマ』とい ー2考え方も、実は、社会的正義に関する理性の使用は、実

は、劇的なファンタジーに基礎付けられているという点を 指摘するために採用されているように思えまて法的なも

のや倫理的なものと劇的なものを分けて考えるわけには

行かない。むしろ、社会正義に関する理性は多くを劇的な

ファンタジーに負っている。つまり、広い意味での劇的な

ものは社会的理性を基礎付けるのではないでしょうかご

「酒井

「ドグマ」という概念は、社会的正義に関する理

性には基礎がない、あるいは、少し言い方を変えると、社

会的正義に関する理性に基礎は理性的なものではなくむ しろ感性‑美学的なものだ、ということになるのではない

でしょうか。」

「西谷

「ドグマ」というのは、最も広い意味での「夢で

あり、それも制定者を知らない、主体を通して、社会にお いて、反復されることで機能する、純粋機能としての「夢 のようなものだと思いまてそしてそれは演劇的に上演さ

れることによって、目に見え、生きられるものになる。」畿 この二人の読解は「美学なきドグマティークは存在しない」 彗とし、「ドグマというギリシ轟は、見えるもの、現われたも

の、そう見えるもの、そう見させるもの、ひいては見せかけを

意味す亀」省とするルジャンドルの記述を裏づけ強化するもの

である。すなわち、「社会正義に関する理性」を基礎付け、表象 するのは「劇的なファンタジユであるところの「ドグマ」であ

るということである。それによって、、禁止と侵犯が上演‑Ⅰ表象

可能となるわけだ。三島が演劇というフォルムを用いて、日本

における「インヒューマンな道義」というドグマを表象したこ

とは、この.「ドグマティーク」の理論を念頭においたとき、始

めて理解できるのである。「ドグマティーク」の劇的構成は、表 象不可能であった感」の問題を憤激とともに浮上させ、ある

「絶対的な準拠」 へと連動させることを可能にするものなので

91

(19)

ある。

この「ドグマティーク」という視点の導入によって、われわ

れは陽明学とカトリックに依拠し、ギリシャ悲劇の枠組みを使

ってテロルの倫理的憤激=「狂熱的認識」を劇化しようとした

三島の戦略を始めて理解することができるのである。いわば、

絶対的な道義によってのみ行動しうる「テロリスト」の倫理を、

文学において浮上させるために、「劇的なファンタジー」を構成

する(ギリシャ)悲劇の枠組みが必要とされたのである。

7.「神J への「善臣とr異文化理解の倫理」の不在

「ドグマティーク」の劇的構成は、表象不可能であった、原

初の「法」の問題を憤激とともに浮上させ、世俗化された「司 法的審級」や教会確刀を通すことなく、ある癌対的な準拠」

へと連動させることを可能にする。劇的構成はダイアローグに

よって、発話者の立場を明確にさせる。そしてそれは、不可視

で絶対的な準拠と発話を結びつけることによって、「法」の論理

と「責任」の論理を生成させる。これは自分の発言に責任を持

つというものとは若干論理を異にしている。 三島は劇と「黄昏について次のようにコメントしている。

「三島

しかしダイヤローグが告白を可能にするというこ

とは、どつちも責任がないから可能になる。自分が最終責任を

持たなければならないところに告白というものは成立しない。

カトリックはこのことをちやんと知っているご 「中村だけどまた逆にいえば、告白というものは責任を持

たなければ成り立たないでしょう」

「三島

でもそれは非常に近代的な考えで、告白が近代的だ

といえばまた別だけど、自分の言いたいことを簡単に言うと、

自分のいいたいことをいうということの信憑性をどこに求める

かといえば、それは相対的な世界しか求められない。つまり神

の儲でわれわれがお互い相対的であるという観点でしか求めら

れないし、われわれはお互い最終責任がないというところでし

か本当のことは言えない。」智

神という「至高の準拠」、大澤真幸の云う「第三者の審級」

に接続することではじめて、われわれがお互い相対的である」 ということがわかり、自己の「黄昏と他者との断絶を前提と

した「告白」が可能となるのである会

しかしながら、ギリシャ悲劇に触れながら三島が語る「最終

㍍㌍鋳鋼弱

からもさらにトータルな理論的立場という仮定によって結果 =政治責任の限定を回避する社会科学の革命幻想(丸山英男の

共産党批響からもはずれた、ねじれた構造をもっている。つ まり、そこでは責嘩罪といー1痘対神の戒律(そしてこれらは

原初においてインプットされたもので人間には到達できない)

を前提としたカトリシズム的概念と、神の怒りが与えた狂気に よって、ある種の殺人を止是し、人間の自由意志にもとづく責

(20)

任をまったく認めないインヒューマンな(あくまでも三島によ

って限定された)ギリシャ悲劇的概念が両立しているのである。

この異なる二つを結び付けているのは、人間の認識が神の意志

に到達できないという宗教の表象不可能性の原理が存在し、人 間の認識に強烈な慮理的限定」を与えている点においてであ る。三島の「黄昏が「倫理的形式」である天皇を全体とした 臣下の「倫理的憤激の最終的な黄昏「変革者自身の道義的責

任」に限定されていることは重要である。

かくて二種の極限形態は、このやうな倫理的憤激の最終

的な責任を、自己に負ふか、他者に負わせるか、という反

対の方向へ裂かれるだろ・フ究極的に自己に責任を負うと

すれば自刃があり究極的に他者に負わせるとすれば制度

自体の破壊にゆきつく。」なぜなら変革者の考える制度悪

は制度自体に対して無限の近似値になり、この悪に関する

変革者自身の道義的責任は無限に免除され、ゾルレンの制

度の純粋性を自分たちが分かつ可能性は無限に希薄化す

るであろ・笑」(「道義的革命の論理」

32

P轡響 ここに存在しているのは、倫理を共有しない世俗の他者への 体外的な政治寅年戦争責任や「人道上の夢にかんする責任 ではない。それは最終的に自刃か両を待ちながら自らを神に する」という倒錯にしか行き着かない百分で自分に戴冠しな

ければならない」循環した倫理の空転なのである。三島は「無 責任の体重(丸也を可能にする日太的な欺瞞を信じなかった。 しかし、それは他の倫理によって裁かれる、あるいは他の倫理 の体系に媒介され変形されるという「異文化理解の倫理」(稲賀 繁善を意味しないのである。そのため先に述べたように、遥 義的軍曹の論理は、福田の「日本の民族の国家的エゴイズム の抑止力としてはあったとしても、他の国家にとっては何もの でもない、ということ」=中上健次のいう「(横野原の話は)海 を越えると現実味がない」という疑問に、結局のところ答える ことが出来ないのであサ曾‑。

三島の「道義的革命」は、一切の社会的媒介、「現実の制度

悪」を否定すること、つまり倫理的憤激を社会構造の変革に接

続するのではなく、(それは必然的に如何に倫理=資本として の情動(ネグリ)を代表し、諷腎配分するかという議会制や

資本構造の変革を意味する艮、憤激をダイレクトに「劇的ファ ンタジユによって神の怒りに結びつけることによって、媒介

の積れをこうむることなく、「ゾルレンの制度の純粋性」を保て

ると仮定することで、かろうじて観念的に成立している。しか し、それは、「劇的ファンタジー」もまた、それ自体「表象であ り、また「モンタージュ」であるがゆえに、「媒分から逃れう

るものではないということ、(神に到達できないということは

すでに世俗的な言語に媒介されているということに他ならな

い)、また政治的にも天皇という倫理的形式によって「靡起を『容

藍し震」されないと、つまり穿されないと不可

能であるという点で挫折を余儀なくされるのである。

‑93‑

参照

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