(1) 超越論的観念論 とモ ナ ド論
Transzendentalerldealismusund Monadologle
矢 島 忠 夫米
(1982.12.15受理)
TadaoYajima
方法 としての 「還元」ない し 「エポケー」が, フッサールの現象学において占め るきわめて重大な位置に ついては誰 しもが語 ることであ るが,思 うに, フッサ ールの現象学の成否は, 「現象学的還元」ない し 「超 越論的還元」の徹底的遂行の正当性 の如何にかか っていると言 って過言でないだろ う。 あるいは逆に, 「超 越論的現象学的エポケー」の正当性は・同時に 「モナ ド論」で もあ るところの 「超越論的現象学的観念論」
の達成如何にかか っていると言 って もよい。
* * *
『イデーン』第一巻 (1913年)に よれば・超越論的現象学的エポケーとは, 「自然的態度の本質に属す る(2) 一般定立」を 「遮 断」(ausschalten)す ることである。 これは一つ の価値転換 (Umwertung)である。 その 独 自性は,それが最初の定立の放棄を要求す るような,つ まり最初の定立 と同列な もう一つの定立などでは な く,あ らゆ る定立 と同時に調和 しうる点にあ る。 この遮断に よ って我 々は全 自然界をいわば括弧 の中に入●●●●I れ,以後はそれをただ意識 された 「世界」 としてのみ受け とることになるのである。
問題は, この遮断が絶対に 自由であ るのはなぜか・そ もそ もこのよ うなエポケーは何のために必要なのか,●●●
また,お よそ存在す るすべての ものであ るはずの世界を遮断 したのちに,一体何が,なお も存在す るものと して定立 しうるのか, とい うことである。 これ らの問いに対 して, フッサールは, 自然的世界全休が意識の
(
8)領分か ら,つ ま り体験の領界か ら 「原理的に引き離 しうること(Ab16sbarkeit)」を示す ことに よって答え よ うとしている。 つ まり, 超越的知覚 と内在的知覚の区別か ら導かれ るところの, 自然的世界の定立の偶然 性 と純粋意識の定立 の必然性 との対照に よって・一般定立 の遮断の可能性ばか りでな く,その必然性が保証●●●●●
され るとい うのであ る。それは可能であるO なぜ な ら.全 自然的世界が純粋意識の韻分 と 「本質的に異なっ●●●●●●
ている」か らである。それは必然的である。 なぜ な ら,その非存在を考えることが背理 となるよ うな存在領 界の定立が可能 となるか らである。
しか しなが ら, もし, この区別が絶対的でなか った とすれば,あ るいは,純粋意識の定立が 自然的世界の 定立に何 らかの仕方で 「依拠す る」 ような ことがあったなら,超越論的現象学的エポケーの徹底的遂行は, 原理的に不可能にならざるをえないわけであ る。
この ような危供に対 して, フッサールは,純粋意識 とい うものが, この意識に とって超越的 な世界を 「構 成す る」 とい う意味で, 「超越論的な」意識であ ることを示す ことに よって答え ようとす るのであ る。つ ま り, 「構成 され る」世界が 「構成す る」意識に全面的に 「依拠」 し,それ を 「前提」 しているのであ って, 決 してその道ではない, とい うわけであ る。一方において,意識は, 「形相的還元」ない し 「想像変更」の 方法を通 じて事物世界が 「か りに無 と化 され る」 とい う想定において も,その固有の現実存在に関 しては何 ら影響を蒙 らない ことが,それゆえ意識の疑 い もな く絶対的 な存在が確認 され る。他方,事物世界がその意 味上単なる 「志向的存在」にす ぎない ことが,それゆえ 「意識に と っての存在」 とい う第二次的な相対的意 味 しか持 たない こと,つ ま り,それを構成 しそれに意味を与える意識を前提 しこの意識に 自らの 「存在」を 依拠 していることが確認 され るO このよ うに して,超越論的現象学的エポケーが,単に 自然 的 態 度 の 「遮●●●●●
断」 とい う消極的な操作 として可能であ るばか りでな く,絶対的 な超越論的純粋意識への 「還元」 とい う積●●●●●●■
極的な操作 として必然的で もあ ることが確認 され るのであ る。
●●●
ところで,既に見た ように,以上のよ うに言えるのは,エポケーののちに定立 され る超越論的意識が,エ +弘前大学教育学部社会科学科教室
20 矢 島 忠 夫
ボケ‑に よって遮断 され るはずの実在的世界には決 して属 さない絶対者であるか ぎ りであ ったQ したが って, 超越論的 な純粋意識 とい うものは,世界に属す る意識 とは,すなわち身体に結びつけ られ た心理学的意識状 態 とは 「本質的に異なっている」のでなければな らない。それは,あ らゆ る超越者を,それゆえ世界に属す る意識 としての自己 自身を も,みずか らの内で構成す る絶対者であ るはずであ る。超越論的現象 学 的 エ ポ ケーが この心理学的意識の遮断に まで及び うると言 うことと,超越論的意識に よる構 成が この心理学的意識 の構成に まで及び うると言 うこととは,一つの同 じことを意味 しているのであ る。
★
さて, 『イデー ン』第‑巻の 「あ とが き」(1930年)に よれば,「超越論的現象学的観念論」 として規定 さ れ た現象学 の課題 は,実在的世界の現実存在を否定す る ことにではな く, この 「世界の意味」を解明す るこ とにあ るとされているC実在的世界は, 「超越論的主観性」の志向的意味形成体 としてのみ存在す る, とい う意味を持 っている。 しか し,この実在的 世界 の うちに,「客観的に各人すべ てに とって存在す る世界」 とい う意味が内含 され ている以上, この世界を構成す る超越論的主観性 もまた,単に超越論的な私 自身 としての 自我を意味す るだけでな く,すでに 「私の超越論的な生活の うちで超越論的な もの として証示 され る共同諸
(4) 主観」(dieinmeinem transzendentalenLet光nSi°halstranszendentalausweisenden Mitsubjekte)とい う 意味を持 っているはずであ る。
ところが, 『イデー./』第一巻においては,一方では, 「一つの経験的に直観 され うる自然界の統一を成 (5)
立 させ るところの,意識 と物 体的身体 との結合を経験す ること」に よってのみ,或 る世界に帰属す る心を持 って活動す る生 きものたち同士 の相互了解 (Wechselverstandnis ZWischen den zu einer Welt geh6rigen animalischen Wesen)とい った ものが可能になるのであ り. また各認識主観が 自己お よび他の諸主観を も含 む全 き世界 を兄い出す ことがで き. 同時にその世界を 自己お よび他の諸主観全部に共通に帰属す る同一の環 境世界 として認識す ることがで きると言われ ていた。そ して他方では. 「超越論的」主観性の開示は,身体
と結合 した 「心理学的」主観性 の遮断に よって始めて可能になるのだ とも言われていた。
だ とすれば, 「超越論的な」共同諸主観 とか, 「超越論的な」相互主観性 などとい うものは一つの背理, 形容矛盾であ って,有意味に語 りうるのはただ 「実在的な」人間的諸主観の共存についてで しかあ りえない のではないか, とい う疑念が生 じるの も当然であ る。
フ ッサール 自身 も. 『イデーソ』第一巻の叙述には 「超越論的現象学的観念論」の基礎づけ とい う点で欠 けているものがあることを. 「あ とが き」において認めている。すなわち. 『イデーソ』第一巻では. 「超 越論的独我論」の問題に対 して. ない しは 「超越論的相互主観性」に対 して.つ ま り 「私に とって妥当す る 客観的世界が,私に とって妥当す る他 人たちに本質的に関係づけ られている」 とい う事態に対 して,明白な
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態度決定がな され ていなか った と言 うのであ るO この点に関す る補足は,第一巻 と同時に企て られ.第一巻 に引き続 いて公刊で きると見込 まれていた第二巻に よって与え られ るはずであ ったが.結局その約束は果 さ れ なか った。 また,「あ とが き」が書かれた当時の フ ッサ ールの構想に よれば ,『デ カル ト的省察』 の 「第五 省察」 こそが. 「感情移入」に関す る,ない しは 「世界的な相互共在におけ る人間的現存在の,超越論的相 互主観性‑の還元」に関す る超越論的理論 の詳細な記述を与え るはずであ った。 しか し, ドイ ツ語版 『デ カ ル ト的省察』が遂に公刊 されなか った以上. この約束 も厳密な意味では果 され なか った と言わ ざるをえない。
とはいえ我 々は. フ ッサール全集第一巻に収め られ ている 「デ カル ト的省察」の ドイツ語原文 と.全集第十 三巻か ら第十五巻に収録 され ている 「相互主観性」に関す る遺稿 とを持 っているQそれに よって我 々は. フ●●●●●●●●●
ッサールがその当時, この問題に対 して どの よ うに答え ようとしていたかを知 ることはで きるはずであ る。
* * *
まず始めに,超越論的現象学的観念論は,超越論的現象学的エポケーの遂行を前提 し.それ と不可分であ
●■●●●
るか ぎ り.実在論的な 「独我論」や 「無世界論」 とは何 ら関わ るところがない. とい うことをあ らためて確 認 してお きたい と思 う。
た しかに.超越論的現象学的観念論に よれば,超越論的主観性 こそがお よそ可能な意味を包括す る世界で あ り, したが って超越論的主観性の外部な どとい うことは,そ もそ も無意味であ るOすなわち.純粋 自我に 対 して存在す るすべての ものは純粋 自我 自身の うちで 「構成 された もの」であ り,あ らゆ る種類 の 存 在 が
(何 らかの意味で 「超越的」 とい う性格を もつすべての存在を含め)それぞれ特有 な仕方において 「構成 さ れた もの」なのであ る。我 々が 自然的な態度の中でただ何 とな く生 きているかぎ り,決 して我 々の眼に とま ることのない 「世界 と私 との超越論的相関関係」(構成す るもの としての 「私」 と構成 された もの としての
「世界」 との相関関係), この隠 された事態を真の事態 として私たちの直観に もた らすために,それ 自体に●●●
おいて存在す る,つ ま りこの相関関係の外部にあ らか じめ存在す るとい う意味で背理 な世界の定立を遮断す ることに こそ,超越論的現象学的エポケーの課題があ り,意味 もあ るのであ る。か くて,い っさいの存在が, 超越論的 自我に とっての 「現象」,超越論的 自我に よ って 「構成 された もの」に還元 され るのであ る。●●●●
だか らとい って,超越論的現象学的観念論 に とって実在論的 「独我論」が意味を持 ち うるようになるわけ ではない。 この独我論は,実在的世界の中に 自然的人間が私の他には誰ひ と り存在せず,実在す るのはただ ひ とり私だけであ ること,そ して,他の人問は私 とい うこのただひ とり存在す る人間の心理状態に還元 され るとい うことを要求す るであろ う。 しか しなが ら,超越論的現象学的観念論に とっては,他の人間ばか りで
● ●●
な く私 とい う人間の実在性の定立 さえ も, したが って私 の実在的な心理学的意識状態の実在性の 定 立 さ え も,すでに遮断 されているはずであ る。超越論的 自我 とそれに よって構成された ものに対 して, 「実在性」
(Realitat)を期待す ることは背理であ るO
すでに見た ように,純粋 自我の 「純粋性」は,全 自然 の無化●● (Vernichtung)とい う虚構,そ れ ゆ え 「私 とい う人間 さえ も存在 しない」 とい う最 も過激 な想定を潜 り抜け ることに よって始めて確探 された ものであ る。す なわち, 「身体を脱却 した よ うな意識, さらに また,た とえいかに理窟に合わない よ うに聞え ようが, 心を脱却 した よ うな意識,つ ま り人間的身体性を心的に生気づけていない よ うな意識, といった ものまで も,
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十分に,た しかに考え られ うるのであ る。」 とさえ言われていたのであ る。 た しかに, このよ うな虚構は無 世界論を必然的に帰結す るよ うに思われ るO しか しなが ら,私 とい う人間, したが って私の身体 も, この身
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体に結びついた私の心理状態 さえ も存在 しない とい う, この過激 な想定の もとで もなお定立 され る意識 とい うものが逆説的なひび きを持つのは,ただ,我 々が この意識を世界内を 「浮遊す る霊魂」の よ うに実在化 し て考え る場合だけであ る。 「存在す る」 と言いまた 「存在 しない」 と言 うに して も,あ くまで も 「私に とっ て」の ことにす ぎない。つ ま り,私の身体や心が 「存在 しない」 とい うことも,それ らが 「私の うちで構成 され ていない」 とい う相対的な意味を持つにす ぎず,絶対的な意味での非存在が想定 されているわけではな●●●●●●■●
いのである。 したが って,あの想定を身体や心 の絶対的な意味での非存在 の想定だ と解 し,そ こか ら意識そ の ものの必然的非存在を推論 し,その点に逆説を兄いだそ うとす ることは,現象学的に見れば,事柄の転倒●●●●●
に他な らない。そ もそ もあの想定は,身体や心等 々‑‑ についてのではない意識を想定 しているのであ る。
あ らゆ る妥当性の崩壊 とい う想定 の もとで もなお考え られ うる意識 とい うものが, きわめて異常 な意識で●●●●●
あ ることは疑いえない。 しか しなが ら, 「世界の無」ない し 「滞沌」についての志向的意識 とい うものを考 え ることは,依然 として可能であ る。だか らとい って,世界の非存在の想定の もとで もなお定立可能な純粋●●● ●●●●●●●●
意識はつねに世界の無についての意識で しかあ りえない, な どとい うことがそ こか ら帰結す るわけで もない。
む しろ,意識に とっての世界の無化 とい う虚構は,世界の非存在が まさに可能性の限界であ って,正常 の場 合には事実上ほ とん ど起 りえない とい うことを含意 しているのだ, と言 って も過言ではない。つ ま り,人間 としての私の純粋意識に とって も, 自分 自身を,身体を持つ心 として構成 し統覚 している状態が正常 なので あ る。それに もかかわ らずあえて このよ うな虚構がなされ るとすれば,それは,超越論的主観性それ 自身に とっては,実在的な世界の存在 も非存在 も,それゆえ私や他人の身体や心の構成 も非構成 も偶然事であ るこ と, したが ってまた,超越論的現象学的観念論に とっては,実在論的な 「独我論」 も 「無世界論」 も何 ら関 わ るところがない とい うことが, この虚構に よって始 めて,疑い得ぬ仕方で明 らかに され ると考え られたか
らであ るに違 いない。
+ * I
だ とすれば,超越論的現象学的観念論に とって唯一真 剣な険討の対象 とな りうるのは, 「超越 論 的 独 我 論」のみだ と言 うことになろ う。た しかに,「超越論的独我論」を定義す ることは容易ではない。しか しなが ら, 「世界を構成す る超越論的 自我はただひ と り私のみであ る」 とい う主張を抜 きに して,超越論的独我論 とい うものが意味を持 ち うるとも考え られない。 ところで, ここで 「私ひ と り」 と言 っている 「私」 とは誰
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の ことであろ うか。実在的な人間であ るか ぎ りでの私でない ことは,すでに見た ことか らして言 う ま で も
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ないであろ う。 したが ってそれは.現象学的還元を遂行す ることに よって 自分 自身が超越論的 自我であ るこ
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とを 自覚 している,そのつ どの超越論的 自我以外ではあ りえない。そ して この 自我は,先 の主張に よって, 自己 自身に対 してきわめて過酷な制約を課 しているのであ る。すなわち, 「超越論的 自我 としての私は,私
..●..。。。〔8) に とって存在す るあ らゆ るものをみずか らの構成す る生の うちで構成す る‑ ただ し他我は除 く」 と言 って い るわけであ る。 これは,超越論的 自我 としての私には,他我を経験す ることが‑ それゆえ他我 とともに あ るもの として自我を経験す ることも,他我に とって も存在す るもの として世界を経験す ることも‑ ,「永 遠に不可能であ る」 ことを意味す るであろ う。
超越論的現象学的観念論, と くに 『デ カル ト的省察』 におけ るそれは,出発点 として, まさに この意味で の 「超越論的独我論」を想定 しているかに思われ る。 しか しなが ら,そ こでの独我論的想定が,超越論的観 念論 の汚点になっているよ うには思われ ない。む しろ,●●● 超越論的観念論が確証 され るか ぎ りで ,この よ うな虚●●●●
構が許 され,超越論的観念論を確証す るために, この よ うな虚構が求め られているのだ と言 うことがで きる。●●●●●
すなわち. この虚構は可能であ る。 なぜ な ら,超越論的 自我その ものに とっては他我の構成それ 自身は偶然●●●●●
的であ るか らであ る. また, この虚構は必要であ る。 なぜな ら, この虚構に よってのみ, 自我に とって存在●●●●
す るあ らゆ る対象が 「自我 自身の構成能作」に よって構成 され ることが明 らかに され うるか らであ る。つ ま り, 「超越論的 自我に とっては超越論的他我を経験す ることは永遠に不可能であ る」 とい う意味での 「超越 論的独我論」の背理を示すために,あえて独我論的虚構がなされているのだ と考え ることができる。
* * *
さて, 『デカル ト的省熱)と,それに関連す る遺稿について検討を試み るわけであ るが,以上の考察に よ って次の ことが確認 されている。すなわ ち,超越論的主観性それ 自身に とって,志向性を持つ こと,何 もの かを構成す ること,すなわち何 ものかについての意識であ ることは,その本質か らして必然的であ るが,あ れ これの ものを構 成す ること,す なわち特定の或 る ものについての意識 であ ることは‑ 自己 自身を特定の これ これの もの として,た とえば精神物理的 自我,還元 された人間 として構成す ることでさえ‑ ,偶然的 であ ると言わ ざるをえない。 しか しなが ら,あ る種の意味構成が別のある種の意味構成をその必然的前提 と して要求 し,その意味で特定の構成が必然的になることは可能であ る。その とき, 前者に よって構成 され る 意味 の うちに,後者に よってあ らか じめ構成 された意味がすでに内合 され ているのであ る。すなわち前者は,
「基づけ る」階層 としての後者 の うちに 「基づけ られた」 よ り高次の階層なのであ る。
ところで,すでに見た よ うに,私たちが経験す る実在的世界は,その意味 の うちに, 「各人すべてに とっ■●●
て現実的に存在す る」 とい う意味を内含 していた。私に とって世界が この よ うな意味をすでに持 っているこ●●●
と,私が この よ うな意味を持つ世界についての経験をすでに持 っていること,私が 世界を この よ うな意味を●●● ●●● 持つ もの としてすでに構成 していること, これ らの 「すでに」が,すべての前提であ る。 この前提 のもとで●●●
始めて, この世界構 成を基づけてい る必然的意味基底 (すでに)に対す る問い,す なわち, このよ うな世界 構 成はいかに して可能か, とい う問い もまた可能になるのであ る。 さて,世界の意味には,私 自身ばか りで な く他我 もまた,超越論的主観性 として,私 自身 とともに この世界意味構成に参与 しているとい うこと,す なわも, この世界は超越論的相互主観性の中で構成 された ものであ るとい うことが内含 され ていた。 したが●●●
って,世界についての経験を持つためにはすでに他我についての経験を持 っているのでなければ な らない。
この意味で,世界経験は他我経験に基づけ られ ているのであ る。
では, この他我経験 自身はいかに して可能なのであろ うか。す なわち,それはいかなる経験に基づけ られ ているのであろ うか。 まず, この他我経験に よって構成 され る 「他我」には,いかなる意味が内含 されてい●●●
るのだろ うか。問題 となっている他我構成は,世界の意味 の うちにすでに内含 され,意味上それに先行 し, その構成を基づけてい る 「他我」の構成であ る。それゆえ, この他我が,客観的世界の うちに存在す る 「客●●●
観的な」他我 とい う意味をすでに持 っているとい うことはあ りえない ことであ る。 したが って,他我の構成●●●
はいかに して可能か, と問 うことは, 「他の 自我」 とい うことが私に とっていまだいかな る意味 も持たない
●●●●●●●●●●
ような世界の中に, 「他の 自我」 とい う意味が,いわば始めて誕生す るのはいかに してであ るかを問 うこと●●●
であ る。す なわち,他我経験を基づけているのは, まさに この 「他の 自我 とい うことが私に とってい まだい
かなる意味 も持たないよ うな世界」についての経験, と りわけ,その世界の中の 「私 自身」についての経験 だ とい うことになろ う。 「他の主観性に直接的にないしは間接的に関係す る志 向性の一切の構成能作を捨象
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す る」特別の種類のエポケーが可能かつ必要 となるのは このゆえであ る。 このエポケーによって,他我経験 を基づけ る 「固有領界 (Eigenheitssphare)についての経験」が確定 され るので あ るO
我 々は ここで一つの逆説に出会 うことになろ う。すなわち, 「還元に よって固有領 界 な い し 第 一 次 界 (Primordialitat)か らいったんは排除 されたはず の他我経験が,固有領界ない し第一次界の うちに再び兄い だ され る」 とい う逆説がそれであ る。 しか しなが ら, この逆説は,固有領界 (第一次界)の 「二義性」に注 目す ることに よって理解可能 となるO他我経験は 「固有でない もの●●●●●●●(dasFremde)についての 経 験」で あ るか ら,固有領界 とい うものを 「固有な もの (das Mir‑Eigene)についての経験 の領界」 とい う狭い意味で 解す るか ぎ り,固有領界か ら排除 され ざるをえない。他方,広 い意味での 「固有な ものの領界」か らそれを 排除す ることは不可能なのであ る。
現象学的に見れば, 自己に とって固有な もの も固有でない もの も,それ らを構成す る能作の志 向的相関者 にはかな らない。 したが って,それ らを確保す るにせ よ排除す るにせ よ, まずはそれ らを構成す る能作の確 保ない し排除 とい う方法を持 って始 まらざるをえないわけであ る。 この ことを考え るな らば,uO)「固 有 領 界
(第一次界)の二義性」が,現象学者に とって方法上必然的であ ることも理解 され るであろ う。
この ような還元的方法を とることに よって始めて,他我経験が基づけ られた経験であ ること,そ して,他 我経験 を基づけている経験がいかな る経験であ るかが,明 らかに され うるのであ る。つ ま り, 「固有でない●●●●●●●
ものについての経験」が狭義の固有領界,す なわち 「固有 な ものについての経験」に基づけ られつつ,広義
'. .... ul)
の固有箭界の中で,広義の固有領界をも越えで る意味を構成す るのであ るO
ところで,他我経験 (感情移 入)を も自己に とって固有な もの として,つ まり自己の具体的存在を形成す
●●●
る具 休的成分 としてすでに含んでいるところの具体的な広義の第一次的 自我は, もはや, 「固有な ものにつ いての経験」 しか 「自己に とって固有な もの」 として含 まないよ うな 自我,つ ま り他我経験のエポケーとい●●●●●●■ ●●●●●●●●■●●●●
う還元的態度を とっている現象学者の 自我,抽象的な狭義の第一次的 自我ではな く,すでに 「原様態的 モナ ド」(urm∝laleMonade)ない し原モナ ド(Ur‑Monade)として 自己を構成 している自我であ る。
(也
それに して も‑ た しかに ここでは時間的発生ではな く 「虚構的発生」(fiktiveGenesis)が問題にな りう るにす ぎないにせ よ‑ ,次の ように問 うことは可能であ る。すなわ ち,超越論的 自我が,固有領界に還元 された人間=自我 (精神物理的 自我) として 自己を構成す るだけに とどまらず,他我を 自己の 「志向的変様」
として構成す るところの 「原モナ ド」 として 自己を構成す るに まで至 るのは, いかなる動機に よるのか, と・問 うことであ る。 「自己の身体に類似 した物体」,す なわち, 「私の身体 との対関係を結ぶに違 いないよ うな外観を持つ物体」がた また ま出現す るとい う,超越論的 自我 自身に とっては偶然的な事実に よるほかは ない, とい うのがその答えであ る。つ ま り,「対関係 (Paarung)は,他我が私の知覚領野の中に出現す ると
は ...
きには じめて形成 され る」のであ る。他方, この物体の出現がひ とたび事実 となれば,すでに 自己 自身を精●●●●●●●■●●●●●●■●●●■●●
神物理的 自我 として構成 している超越論的 自我に とっては, 「その物体が,私の身体の意味 の移 し入れ,ず れ込み叫 (Sinnestitxrschiebung)に よって.ただちに身体 とい う意味を受け とる」 ことが必然的になるのであ る.
受動的綜合 として今や必然的に登場 して くるこの対化に よって,他の 自我が私の志 向的変様 (intentionale
は
M∝lifikation)として,「私でない私」 とい う意味を受け とるのであ るが,それ と同時に, まさに私の 自我が, 原様態 (Ur‑M∝lus)としての 自我, 「私に とっての私」 とい う意味ばか りでな く, さらには 「他我に と っ
鳩
ての他我」 とい う意味 をも受け とるのであ る。つ ま り,他我が 「私の 自己疎外●●●●●●● 」(志向的変様) として構成 され ると同時に,そ してその時は じめて, 「他我がそれ の 自己疎外 (志 向的変様)であ る」 ところの原様態 としての私 と, 「他我の 自己疎外●■●●● 」(志向的変様) としての私が構成 され るのである。そ して, このよ うな
「自我」のみが本来の意味で 「自我」 と言えるのであ る。そ もそ も,それに とって 「他の 自我」 とい うもの●●●
がいまだいかなる意味 も持たない もの, したが って 「他我の他我」にな りえないものを 「自我」 と呼ぶ こと
仲
は,厳密に言えば誤 りで
あ る 。
具体的な広義 の第一次的 自我,すなわち原様態的 モナ ドのみが,本来の 「自 我」 と呼ばれ るにふさわし い も の
であ るO24 矢 島 忠 夫
それでは,一切 の他我経 験をェボ ケーしている自我,す なわち抽象的 な狭義 の第一次的 自我は ど うであろ
●●●
うか。 た しかに, このエポ ケーのゆえに, この 自我に とって他我 とい うものが もはや いかな る意味 も持たな
●●●
い ことは言 うまで もない。 しか しなが ら, この 自我は,それに とってすでに他我が意味 を持 ち,それゆえ 自
●●●
己をすでに他我 の他我 として構成 してい るところの本来 の意味での 自我 をあ らか じめ前提 してい ると言わ ざ るをえない。 なぜ な らば, まさに他我経験 の捨象に よって始 めて方法的に抽 出 され た ものであ るか ぎ り,そ
'.. ua
れ はすでに, 「他我 でない私」 とい う意味を持 ってい るはず だか らであ る。 それゆ え, この 自我につ いては,
●●●
「それ に とってほ他我がい まだいかな る意味 も持 たない」 と,端的に言い切 ることはで きないのであ る。
●■●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● ●●● だ とすれば, もはや他我 の方法的排除 の結果 としてではな く端的に,それに とって他我がい まだいかな る 意味 も持 たず.それゆえそれ 自身本来の意味で 自我 と呼ばれ るにふ さわ し くない ものの うちで,あの抽象 と しての 自我す らも, さ らには原様態 としての 自我 とその志 向的変様 としての他我 を も含めあ らゆ るものが構 成 され るのであ る。 そ してそれ こそが, 「究極の超越論的な もの」(dasletzteTranszendentale)と呼ばれ
るにふ さわ しい ものなのであ る。
しか しなが ら, 「最後の還元」(die letzte Reduktion)に よって私がそれへ と導 かれ るところの この 「原 始的 な流れ の 自我」(daslchdesurttimlichenStr6mens)が, 「自らの うちに 自我 を固有の 自我 としては ら 衣,そ して他の 自我たちを固有の 自我の志 向的変様 としては らむ絶対的 自我」であ ること,そ の意味で,そ
●●●●●●■●●●
れ 自身に とっては他我がい まだいかな る意味 も持 たない 自我であ ることは, 「後にな ってか ら始めて」洞察
●■● ●
可能 にな ることであ る.現象学者 としての私は. さしあた りまずは.それをほかな らぬ 「私」 (Ich)として
. ug)
発見せ ざるをえず. したが って またそれを 「私」 と呼ば ざるをえないのであ るO
辛 辛 辛
以上 の考察は,次の ことを明 らかに しよ うと努めて来た。
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第‑に, フ ッサ ールの現象学 に とって,それが超越論的現象学的観念論 として構成 され ることと,超越論
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的現象学的還元に よって達成 され ることが不 可分であ ることであ る。
第二に,超越論的現象学的観念論 に よってモナ ド論が確証 され,根拠 づけ られ ることであ る。
「モナ ド論」に よれば, モナ ドほ 「実的には絶対的に閉 じられた統一体」であ って,相互 に分離 され,そ れゆえ 「窓 を持たない」 と言われ る。それに もかかわ らず , これ らのモナ ドがそれぞれの視点か ら遂行す る 世界構 成は相互 に対応 し一致す る。そ して,その ことに よって,すべ てのモナ ドに とって客観的に存在す る ところの同一 の世 界が構 成 され るわけであ る。 問題は, この 「客観的世界のモナ ド論的構 成の理論」を, モ
CX[ .●.
ナ ド間の調和を 「形而上学的基礎」(metaphysische Substruktion)として前提す ることな しに確証す ること である。 「窓 を持 たない」はず のモナ ドが,それに もかかわ らず,他 のモナ ドを構 成 し うるとい う意 味 で(ZD ...
「窓 を持つ」 ことは,超越論的現象学的観念論の徹底に よって,す なわちその還元を, モナ ドその ものがす
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でにそれ の 自己疎外, モナ ド化 (Monadisierung)であ るところのあの 「究 極的に超越論的 な もの」に ま で 押 し進 め ることに よって始 めて理解可能 とな るのであ る。すなわ ち,絶対的 自我に とっては, 自己をモナ ド として構成す ることは, 同時に,他の諸モナ ドの中の原様態的 モナ ドとい う意味 を 自己に与 える ことにはか な らないのであ る。 た しかに,その中では じめて固有の 自我 とその志向的変様 としての他 の 自我 とが構成 さ れ るところの 「絶対的 自我」が,すでに見た よ うに,それに とっては他我がい まだいかな る意味 も持 たない●●
がゆえに.本来 「自我」 と呼ばれ るにふ さわ し くない ものであ るにせ よ.だか らと言 って.現象学が,あ ら
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ゆ る構成 の 自我 としての 「超越論的 自我」の 自己解釈 た る超越論的現象学的観念論をのがれ,方法論的に別
(劫
の態度を と りうるわけではないのであ る。
文献略記
IdeenI:IdeenzueinerreinenPhanomenologleund ph畠nomenologischen Philosophie,ErstesBuch,Husまr1‑ ianaBmdⅢ,Haag,MartinusNijhoff,1950・真数 は1913年版に よる.訳は 『イデーソ』 I‑ I(渡辺二郎 訳,みすず書房)の頁数を示す。
Nachwort:Nachwortzuden "IdeenI",Husserliana V,Ha且g,1952.・訳は 『イデ‑ ソ』Ⅰ‑ Iに所 収。
CM :CartesianischeMeditationenund Pariser Vortrage,HusserlianaI,1963・訳は 『デ カル ト的省察』 (船
橋弘訳,中央公論社,世界の名著51)の貞数を示 す。
IntersubjektivitatⅡ:ZurPhanomenologie derIntersubjektivitat,Texteausdem Nachlass,ZweiterTeil:
1921‑1928,HusserlianaXIV,1973・
ⅠntersubjektivitatⅢ:ZurPhanomenologieder lntersubjektivitat,Dritter Teil:1929‑1935,Husserliana XV,1973.
Krisis:DieKrisisdereuropaischenWissenschaftenunddietranszendentale Phanomenologle,Husserliana
Ⅵ,1962・訳 は 『ヨー ロッパ諸学 の危機 と超越論的現象学』 (細谷恒夫 ・木 田元訳 ,中央公論社)の頁数を 示す。
注
(1)本稿は,昭和57年5月1日開催 され た弘前大学哲学会第17回研究発表大会において, 「フ ノサ ‑ルの 現象学 におけ る超越論的観念論 とモナ ドpギ ーの位置につ いて」 と題 された公開講演 として発表 された 厚稿を整理 し,課 題 として残 され た ところの フ ッサ ールの遺稿につ いての考察を加えて昭和57年8月20 日東北大学で開催 された 日本現象学会第4回研究会において発表 され た。
(2) IdeenI,S.56,訳140頁.
(3) IdeenI,S.87,訳202頁・
(4) Nachwort,S.153,訳34頁.
(5) IdeenI,S.103,訳233頁.
(6) Nachwort,S.150,訳28頁.
(7) IdeenI,S.105,訳237頁.
(8)この 「た だ し他我 は除 く」は, 「私に とって他我 は存在す る‑ ただ しそれは私が私の うちでそれ を 構成す るか らではない」 とい う意味ではない。 超越論的現象学的観念論に とってほ,私が私の うちでい かな る意味 で も 「構成 しない」 ものは私に とっていかな る意味 で も 「存在 しない」 ものであ る。
(9) CM,S.124,訳278貢. ■●●●●●●●●● ●●●
(1〔き IntersubjektivitatⅢ,S.635.「したが って,第一次界 とい う言葉 の本質に根拠を持つ二義性が生 じる(
根源的 な方法的意味か らすれば,それは,私が,還元的態度 のエ ゴが,あ らゆ る 「感情移入」を抽象的 に排除す ることに よって,現象学者 として遂行す る抽象を意味 してい る。
後で私が 「第一次的 エ ゴ」 と言 うとき,それは原様態的 モナ ドとい う意味を持つ。す なわ ち, 自己疎 外において,それゆえ他のモナ ドたちの中でそ うであ るよ うに,その中に原様態的感情移入を ともに受 けいれ てい る厚様態的 モナ ドであ るO」
(ll) す なわ ち, 「他の私」についての経験 を持つ ことがで きるためには,私 の固有領界 の中で構成 された
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私 自身につ いての経験 を,あ らか じめ持 つ ことがで きなければ な らない とい うことであ る。
(12) Intersubjektivitat刀,S.477.
(lg CM,S.143,訳302貢. ●●●●●
掴 超越論的 自我が 「精神物理的統一体」 とい う意味 をあ らか じめ 自己 自身 に与 えていなか ったな らば, この よ うな 「意味 侵害」(SinnestitXrgeifen)とか 「意味伝染」(Sinnestit光rtragung)と呼ばれ る事態が必 然的にな ることもなか ったであろ う。 ●●●●●
個 IntersubjektivitatⅢ,S・544・「我 々が一般的な名称 を 使 って志 向的変様 として言い表わ してい るのは, 原様態が新 たな様態‑‑ さきに使われ た 言葉 の意味 で反 省的 (reflexiv)〔反射的 ・再帰的〕な様 態‑
‑ 変化す ることであ る。その時,変様 され た意識 の中には,別の意識‑ の "関係"が ,その 〔変様 され た意識の〕中に "内含 され てい る"ところの原様態‑ の "関係"が含 まれ ることにな る。」
8e? Ⅰntersubjektivitat,Ⅲ,S.635.
(17) IntersubjektivitatⅢ,S.586.●●●●●●● ●●●●●●
姻●●●CM,S・●●●●126・訳280百二「それ 〔私に固有 な もの〕(dasMirEigene)は .‑・‑さしあた り‑‑・他我に属す る のではない もの (Nicht‑Fremdes)であ る.」
89 IntersubjektivitatⅢ,S1586・「還元がそれへ と導 いてゆ く自我 (Ich)の表現 として,現象学 におい て, さしあた り,ニ 与 ・コギ トと言われ るにせ よ, これ は複義的 な表現(aequivocum)であ り,絶対に必然
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的な複義性 を ともな う端初であ る。 とい うの も,原始 的な流れ の 自我が, 自 らの うちに 自我 を固有 の 自 我 としては らみ,そ して他の 自我たちを固有 の 自我 の志 向的変様 としては らむ‑ 過去の 自我が現在の 固有一自我 の志 向的変様 であ るの と類似の仕方 で‑ 絶 対的な 自我 であ ることは,後にな ってか ら 始 め て(erstspater)洞察可能になることだか らであ る。決 して破れ ることのない恒常性 を もって一切 の 存 在者に先立 って存在 し,そ して一切の存在者 を 自らの うちに,一切の具体性に先立つ 自らの 「具体性」
の うちには らんでい るところの絶対的 な 自我, 〔す なわ ち〕考 え うるか ぎ りの一切 の存在者 を こ とごと●● ●●
く自らの うちには らんでい る自我が,還元 の最初 の 「エ ゴ」であ る‑ エ ゴと言 ったが,それに とって
26 矢 島 忠 夫
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は他のエ ゴがいかなる意味 も持 たないのだか ら,誤 ってそ う呼ばれ ているのであ る。」
匪iCM,S.138.訳295貢 餌 IntersubjektivitatTI,S・258.
鰯 Krisis,S.188,訳264頁.「私が判断中止において到達す る自我,すなわちデ カル ト的概念を批判的に解 釈 し直 し,改良す ることに よって 「エ ゴ」 といわれているものは,本来ただ複義 的 に (durchAquiv
o ‑
kation)「私」 と呼ばれているにす ぎない. もっとも そ れ は,本 質 的 な 復 義 性 (einewesensmaL3ige Aquivokation)なのであ って,それ とい うの も,私が反省 しつつそ う名づけ るばあいには,次のよ うな 言い方をす るほかはないか らであ る。 く世界,すなわちその存在 とその しか じかであ るあ り方において 今私に妥当 している世界,私が完全に確信 している人間のすべてを含んでいる世界を現象 として問題に
しているのは,私であ り,判断中止を遂行 しているわた しであ る) と。」