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『応氏六帖』 の資料性

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(1)

『応氏六帖』 の資料性

、H,Fσ出mwの日内開門。ロロ巳。肉。~wEh芯Nhk。

斗白]SW。問。ロ仏α

近 藤 尚 子

要 旨

伊藤東涯著

吋応 氏ムハ帖

』は中国の文献からの

語を

集めた一部開抗採集である。東涯にはもうひとつ吋名物六帖

』と

いう

部の

語数集 があり

『応氏 六帖

』は『名物六

粕』の一

時の姿であるとの位置づけが従来なされてきた。しか

『応

氏 六帖

』と『名物六帖

』と

では構成の点から異な

てお

、項

目 の

出入りや同一の

出し

語に付 された傍訓

の異同も多数ある。

この

傍郊の異向に注回し、

司応 氏 六帖

』の独 自 性をとらえようと こ ころみた。具体的には「スギダ

チ(斤斗

)」、「インジン(槌箆

)」

、 「

ヒルトピ

・ヒ

ルガンドウ

(白

撞ごの一一一演を選び「名物六

』や

『紀開小

股』の訓と比較し、さらにいろいろな文献の用例からそれぞれ

の訓

の性

格を考え

た。

の結果

吋応 氏 六帖

』の

傍訓は規範伎を考慮に入れる必要 が な

かっ

ため

、特殊

なも のを継

承している反面きわめて

口頭

語的

、お

そらく当時の人々にとって耳近い語を含んでいる可能性があること

が明らかになった。

今 後もこのような分析を重ね

、『応氏

六帖

』の独自性を明らかにしていきたい。

iま

め じ

吋応氏六帖』は

江戸時代の漢学者伊藤東

漉 (

六七O|一 一

の手になる 、 七一 三ハ) 中園文献に出典をもとめた語会集である。

現在十本余 りの伝本が知られており

、 収

録されている語 数は本によって二千i 六千と隠がある。

後述するように語は六帖十八

議の意義分類にもと づいて収 められている。

東 涯

に はほかにも同様 の語集集『名物六帖 円 ~ がある。 こちらは 東 涯の生前から増補の努力が 続け られ 、 死後は門 人の奥回

さ ら

に東 涯の子の東 所に引き継がれ

、 一

部が刊 行されている。 古義裳を あげての完成への努力が 続けられた わけで 、司名物六帖』の

名は、

刊行

以前からす でに名高かったようである。 辞書として 『名物六帖』 をみると

き 、

意義

分類を貫いて いるという点で 他垂直とは 挟を分つ。 『名物六帖』は六帖という数は 同じでは あるが

、 十

三 築

であ

り 、

そ の点で吋応氏六帖』とは異なる。 そして 、 たとえば天文筆は さらに 天度 運行

・日

月星辰 ・雨露霜雪・ 風雷雲霞

は乾坤) 、 時候など 、 時代に 刊 行された『合類節用集』 、 分類されているのである。 江戸 ・陰 陽祥獲の五つに下位

『和漢

音釈書 一空間字考』でも 天地

*本学講師(今野尚子)

国 語学・日本語教育

(2)

まず大 きく意義分類を施している。 しかし 、 それぞれの内 部は傍 訓 のイロ ハ順に排列されてい るのである。 これらの 辞書から求める語 を見出すためにはその語が 何門 に属するかということと

、 そ

の語の 訓とを用意しなければなら

ない。『名

物六帖』の影響を受けたこと

(2)

を指摘されている『雑字類編』においてもイロ

ハ別にしたうえで 、

内 部

を天門 ・地理・ 時令など十八

門 に

分ける。 これら の豊富において

、 すくなくとも排列の点において見出し語の表

記と傍 訓との結び つきを絶対的 なものととらえているとみるこ とができる。 排列に傍 訓のイロ

ハ順をもちこんでいる

点は

、 唐話辞書類中

、 間

嶋冠山の

ヱアンザ弓ンケンキン

『唐 中一一押 便覧』も同じである。

たとえば「

イ字部

」は「越更社健欽

挺竺一竺

を最初に掲げるが

、 これは

この句に添えられた訳

「イ

/ヘオ タツ シヤニテ。

ウラヤマ

シク候」の

文頭の「イ

」によってこ

文化女子大学研究紀要

こに収

められているのである。

漢詩を収 集・ 排列しようとする場合には

、 も

うひとつ 、 見出し語

の表記に排列の基準を求める方法がある。

『徒紅字裳』 、『睡引小説 字設立 、主主郡小説字裳』 、『俗語語義』 などは見出し語の頭字の画数 頗に語を排列する。『俗語解』は見出し語の頭字の音

をイロ ハ頗に

する。

たとえば「 白話 」は

ハ之

、「翻金斗

」も

ハ之

、 と

いうよ うに。 先述の間嶋冠山の

他の著作『

唐話築用』 、『唐話使用』 、『盛岡翠 雅俗語類』などは「 二 {主一一 一一一 字話」の ように 、 見出し語の文字数 による分類を行なっている。

素朴ではあ るが 、 やは り見出し語を中 心とした排列である。 このように見てくると 、 意義分類を貫いた 『名物六帖』の排列方 法は

空前であり 、

以後の書にもほとんど受け

継がれていない。 その 中で 、 釈大 典の吋学語編』は 凡例に 『名物六帖』の名をあげ

、 排

列 も同様

の意義分類を貫く。

しかし 、 小本二冊仕立ての簡 略なもので 『名物六帖』には

質 ・

量ともに 及ぶべくもない。

また

『名物六帖』に収 録

された語を節用集などと比較してみると き

、 感じるの

、 東渡

の収 集意図が

総ばな的に語を集めることには

なく 、 選択の意志が 強くは

たらいているということである。

東濃

の目的の第一

、 中層側の文献を博捜し

、 いろいろな意味で 特色のある語を収 集することにあった。 それは

東 涯

のノiト 類をみ ても明らかである。

収 集

した諮問 ( つまりこれは 中間側の語)

、 日

本側で伺にあたるのかを示すために

付したのが傍 訓である。

刊行さ れた『名物六帖』ではほぼす

べての語に 訓が付されているが

、 た

えば『応氏六帖』では訓のな

い語も多数存在する。 その意味で

、東 涯の語収 集における付 訓という作

業は 二 義的である。 極言すれば 、 ある漢字表記が日本語で 何にあたるかがわか りさえすればよい。 そ のために『名物六帖』は訓

のイロ

ハ順という排列慕準を採用しなか った。 漢字表記と傍 訓との結びつきを

絶対のものとは考えなかった

からである。

(369 ) 2

その姿勢 ゆえに「 単に漢語 辞書としてだけでなく

(4) 、東 涯のころの

京都の呂常語を知る資

料である 」とも評価されてはいるが

、 従

来必

(5)

ず し

もよく利用されているとはいいがたい

のである。 翻って吋応氏 六帖』に尽を移 せば 、 そこに『名物六帖』の原点を 見出しうることはもちろんであるが

、 そ

こに収 録された語に自を配 るとき

、司名物六帖』とは異なる国語史上の側値を認めることも可 能である。『名物六帖』が刊

行を目指して古義堂をあ

げて 増補され

ていったのに対して

、吋応氏六帖』は

刊行とは無

関係に伝えられた。

写害者、が予を加えることも比較的自由であ

った。

このような異なり

(3)

『応、氏六粘』の資料性

は 当

然内 部にも反映されるであろう。

『名物六帖』と『応氏六帖』との関係については

すでに中村幸彦 氏によって「

臨氏 六帖は名 物六帖の一時の 姿を

伝えるも

の」という 指摘がなされている。 しかし『名物六帖』についてさえ

、 収

録され ている語の性格 、 あるいは 傍 訓の位置づけなどが充分に検討されて いるとはいいがたい。 まして吋応氏六帖』につ いては「名物六帖の 一時の 姿」とい う位置づけのままに放寵されていたといっ ても過言 ではない。 たしかにヨ泌 氏六粘』と『名 物六帖』とはどちらも伊藤

東 践

という一

人の人

物の類緊の意志を契機として成立しており

、 共

通点は多い。 しかし両者の関係は 、『応氏六帖』に 項院を増補して いけば吋申告物六帖』になるという単純な図 式では とらえられない。 すでに中村 氏も指摘しているように基本的な構成においてもこの両 者は異なっており 、 ある段階で根本的な改変の手が加えられたと考 えられる。 両者の帖と筆との構成を示しておく。 応氏六帖 名物六帖 ( *は写 本のみ) 天文筆 天文筆 地理議 時運筆 地理護 人口問筆

第 帖 第二帖

人 品

譲 釈属議 神鬼護 人事護 身体議 病荷議 器財築 飲撰筆 中小股意議 第一ニ帖 第四帖 飛禽筆 走獣筆 虫魚議 樹木議 草花護 金石筆 器用筆 食服体調 顔色筆 本稿は 、「斤斗・ 地堕・ の一一一 語を とりあげ 、吋応氏六帖』と 『名物六帖』との比較を通 して 、『応 氏六帖』の国語資料上の価伎の 一端を明らかにしようとするものである。 とりあげた一一一 語は

、 両

議 問で同一の見出し語に異なる傍 訓の 付されている約一一一 百語の中から 本稿の白的に添って選んだものである。 『応氏六帖』諸本のうち 、 筆者がこれまでに調査しえたものはつ

ぎ の

十本である。 諸 本の議誌的関聯の詳細については別稿を参照さ (8) れたい。 人事築

第五帖 *身体築

第六帖 *動物築 *植物議

イ ( 清水 本) 国立国会 図書館本 ロ

静嘉堂文庫本 神宮 文庫本 早稲泊

大学 図書

鯨蔵 本

ノ、

山岡忠雄

氏蔵本

J、\ 無窮会本

刈谷市立 図書館本 長津規矩也 氏蔵

本 (

唐話 辞書類集底本)

(4)

東京

大 学

本 多和 文庫 本 ( 黒川本 )

収 録

語 数は静嘉堂本が約 二 OOで最も少ない。 静嘉 堂本は 他の

九 本

とは収

録されている語の傾向が異なっており

、 早い 時期

に 他

本 とは 別れた別の系統と考えられる。 増補 本系の 長津 本 黒川本が約六 00 0で最大

、 残

る七 本は

二五

OO前後の項目を

有し

、 内容の点か

らみても近い関係にある。

その 中で清水本は宝永三年の識語をも ち 内容的に も他の諸 、 書 写 年次の明らか な伝本の中では最も卒い 時期のものであり 、

本よりも原態に近いと判断できるところがあるこ とが調査の結果明らかになっ

た。

今回の考察は

、『応氏六帖』につ いては閤会 本を中心 とし 、 必要に応 じて他の諸 本に言 及する。

ヌ I

スギダチ (斤斗)

『応氏六帖』 は諸 本すべて スキタチ (9) 斤斗〈祖庭事苑 〉

とあって

異同がない。

竿大

本のみは排列に改変を加えているた め ころが『名物六帖』 では 、 、 掲載順は異な るが 、 項目そのも のは 他の諸 本と同じである。 と

見出し語も出典もまったく同じこの項目

カL

帖』では とあって 、「 トン ホカヘリ」という傍 訓が付されてい る。『名物六 事苑 〉 斗 〈視庭 /

同じような意味をもっ語が前後に加えられて

おり 、 震前の ワヌケトyhカへリ 項目は

政相叫

〈典籍 / 便覧 〉」

、 直後の項目は「 躍菌効斗 」で

、 こ

ちらには『照朝祭事』

からの引用がある。「紡

」は『字 業』に「今 俗多作斤字」とあるから 、「紡斗 」は「 斤斗」と同じであ る。 孫悟 空の乗る繋が「

紡斗 雲」

である。『名物六帖

』の「斤斗

・筋斗

・紡

斗」は いず れも音読す

ると「キ

ント」となる語で

、 こ

れらに「ト ン ボカエリいとい

う 訓

が付されているのである。 したがって

、司

応氏 六帖』 と司名物六帖』とでは

、 同

一 の見出し語に対して 「スギダチ」 と「

トン

ボ ガ

エ リ」とい う異なる傍 訓が付されているということに

4

なる。 まず

「ス

ギダ チ」について考える。 『中華若木詩抄』巻下に 、 国安問叔の「 上竿奴」という詩

とその抄

とが収 められている。 詩の第一 、 二句はつぎ のようである。

百尺竿頭裳

々タル身

応 ァ 鰍 コ 膨 サ 舵 マ 膨

リ ス 傍

この「 足騰銀倒」に ついての抄の中に「杉立 チ」の語がみえるの 人 ヲ

(367 )

である。 又足騰眼倒 ト

ハ o

竿 ノ

上ニテ o足ヲア ケテ oサカサマニ立ツソ

。 日

本 ニ

ハ o

サカサマ ップリ

。 立ツルトモ

云イ o杉立チヲスル トモ

一広 フ 也。

アブ

イ ト

云テ

o傍 人カ驚ク也

「足

ヲアケテサカサマ ニ立ツ」ことを日 本では

「サカサマ

ッ プ

リ 立ツル」 とも 「杉立 チヲスル」 ともい うとしている。 つまりこの

「杉

立チ」は倒立の ことと考えられる。 (日) また 司私可多哨 』には

つぎのようにある。

きん

たCうとう あるし ハ少もさ ハかすしてよく吟味あれ ハ 旧冬のす与はきにた はく すEだち Lミをつミ かさねて其上にて僕共の杉立したる足 のうら天しゃ うへと Lきどろのつきたるのにてありしなりめつらしき事もあ まりに物をふしきに思ひ気にかくるは損なり ある広聞の天井の板に人の足跡の形の慌がたくさんついているの

(5)

を元日一 に見 つけたこの 家の主人が 、 むやみに驚き怪しん で騒ぐ人 々 に種明かしをしているところで ある。 畳を積み重ねた上で「杉立 をしたら足 の一一袋が天 井へとどいて泥がついたというのであるから、

『応氏六帖』の資料性

この「杉立

」もやはり「 倒立」の ことと考えられる。 は「杉立 」の項

に「俸

立の事也 」と解説を 加えたうえで

〔シ カタ

ナ 考えればここは 逆さになった「棒 シ 〕のこの例を引いている。「 棒立 」ではあ っても、 この例から

立」

ととるべきであろう。 『犬子集』にはつ

ぎ の

句がみえる。 二一 輪にて 一二 輪山で杉立するや春霞 親重 こちらは三 輪山↓杉の連想を用いた句である。 春震が逆立ちして いるかどうかはわからないが、 春霞が 一一一 輪山のあたりにじっととど まっている情景を表現しているのであろう。 考3クハノゲイ 『名物六 帖』 の中にも「スギダ チ」はみえ る。

人事

築中「 猿騎

戯い

についで「臥鯖

・ 閤

簸騎 」があり「 倒頗騎 」に「 スギダ チ ノリ」と いう 訓が付されて

いる。「倒綴

」は「顛倒 」と同じで逆にすること であるから、 これも「 倒立 」のこ と。「倒類騎 」は 馬の上に「スギ ダチ」つ まり「 倒立」し て乗ることである。

「ス

ギダチ」は「

杉立

」と いう表記にも表われているように杉の ようにすつくりと動かず に立っている状態を表わす。ウ中華若木詩 抄』 や 『私可多咽』 、『名物六帖』 の例は 「スギダ チ」 の語自体に

「倒 立」

の意味が含まれているととれる。 頭を下にし、

足を

上に伸 ばし た人間の 姿が杉 の一一一角形の樹形を 連想させたのであろうか。 さて、『応氏六帖』

、『

名物六帖』共通の出典である『祖庭事苑』 には「斤 研木百六也。 頭重而柄軽、 照之則斗転。 掲此校者似之。」と ある。『祖羅事苑』のこの 部分 は『広 本節用集』にも引用されてい る。 ただし 『広木節府集』の見出 しは「筋斗」である。 キン ト キル

斗 〈事苑第七 斤,研レ木ヲ具 也頭重而 ュ

/柄

軽 o用レ之則斗縛 スチハカルギ 為一一此枝→ 者似/ レ之也 〉 「筋斗」

、「

斤斗」が斤

の「斗転

」するところに由来する名である という『祖庭事苑』の説によれば、 じっと立っている「 スギダチ」 との結びつきには疑問が 生じてくる。 現代語の感覚でみても「

トン

ボ ガ

エリ 」の ほうがふさわしいようである。 (凶)

トン

ボ ガ

父大 納言 エ リ」の語は すでに『古 今著間集』にみえる。

( 中

略 )はじめ御簾をあげて格子のもとをよせかけら れたりけるに、 成通卿いまだ若かりけるに、 庭にて鞠をあげら れけるが、 鞠、 格子と簾との中に入けるに、 つずきて飛いられ けるが、 父の前、 無骨也ければ、 鞠を足にのせて、 その板敷を

ふまずして、

山がらのもどりうつやうに飛かへられたりける、 凡夫のしはざにあらざりけり

。「我一

期に、 此とんばうがへり 一度なり 」と ぞ白稀せられける。

( 巻

十一 侍従大 納言 成通の鞠は 凡夫の業に非ざる事 ) 「山がらのもどりうつやう に飛かへ」ったことを

「とん ばうがへ り」とい っているのであるから、 体を 空中でどのようにか田転させ ていると考えられる。 (げ) 『申楽談儀』にも「騎 除返り」は みられる。 田楽の風体、 はたらきははたらき、 音曲は音曲とするな り。 並 つつみ び居て、 かくかくと謡ふなり。 入り替はりでは、 鼓をも、

ゃ 、

ていていと打ちて、 婿鈴返りなどにて、 ちゃ くちゃくとして、 さと入るなり。

(6)

引用した新 潮日 本 古典集成の「婿鈴返り」には という頭注がある。 先に引用した主同 今著間集』 でも、 引用部分の あとに成通が「はやわざ」を好むとい う表現が二度使 われている。 このように早くから例のみられる「 トン ボ

ウガ

エリ」であるが、 の一 つ。」

「筋斗 ・ 斤斗」との結びつきはそれほ ど古いことではないようであ る。 (刊日) 『元亀二

年 本

運歩色葉集』には 筋斗 がみられる。 これは「もどりうつ」が「もん どりうつ」に変化し

モ ン

ド リ

」であるから、 円祖庭事苑』の にあう。 た ところで「筋斗 ( 斤斗ではなくとと「

トン

ボカエリ」との結び の類に多く見出すことができる。 関島冠山の『唐 には

つぎ

のようにある。

キンテ。?トウヒヤアずア、ライタァ

UJ

4ンリヤeウンンキAイ

翻納斗堕下

馬来打

傷 了身躯 〈

トン/

ボ ウ/皮メ。

馬 ヨ

リ落テ。 身/ ヲ 打ソン ザシタ 〉

「翻紡

斗」の表記ではあるが、 これに「

トンボ ウ反

」という訳が あてられている。 司俗語解』には 「金斗 ・ 筋斗」の両形を掲げる。 翻金斗〈 トン ホ

ウ カ

ヘリス ル ゴ一 言鯖云 ii-- 伎人以頭委地市翻

一 跳

辻 / 立回商施轄如盤

謂金斗相

停越簡子殺中山王命厨人 ii|/以繋之字義 所起出此〉 翻筋斗 〈金筋音通ス 〉 司俗語講義』にも 翻筋斗〈

トン

ボフガヱリス ル 7也 。 筋斗同カク教 坊記/ 日il| 絶倫 縁関沢竿例一一立〉 とある。『教坊 記』の引用の最後は「倒立」を転写の際に誤った のであろうが、 ここでも「

トン

ボフガヱリス ル 」と注されている。 (幻) (M) 『画引小説字紫』にも「

( 翻

) 筋斗」が掲げられ 、「

トン

ボ ウガ

ヘ リ」とある。

6

また 、『水飴伝 』に「翻筋 斗」という表 現が使われ ていたために、 水滋伝中の語を集めた ものには 数多く立項を見出すことができる。 (お) たとえば 『忠義水激伝 〔語解〕 』は、 長浮規矩也 氏によって東 涯門 下の穂積以賞、が編ん だとされている が、 その中にも 融筋斗〈

トン

ボガヘリ 〉 とみえる。

(Mm)

すでに 『名物六帖』 との関連が指摘されている 司学語編』で

( 筋

) 斗」の見出しに対して右に に「 キント 」を付

す。

註の末尾に「筋 ノ字或

ハ金

巾ニ作 ル 」とある。 『雑字類編』は

ボウカへリ

「 斤 斗

とんぼ泊へ(お)

。 o 筋 翻 lii Lとしている。

読本

などの類 では『南 総袈見八 犬伝

』に

「 筋

斗る

」という動詞 トン ボガヘリ

」 、

(365 )

の形で使 われている。

それがしおとりか込つひとりえりがみかしっかひきもとねぢたJ

某矢庭に跳蒐て

、 一

が 衿上掻隅み、 引戻して拝胡せば

、 残

ふたりおとろさLかりうたこぶしひらめすそとんぼがへ

る両 賊 骸

怒て 、 打んと拳を閃かす。 下を払ふ て筋

斗らせ、

おきはじめひとりかいつかみ

う ち

起んとしたる初

の一蹴を、

又掻脳て埋面へ 投込み

( 下

略)

し 腕 j 議

て を h コ

・ τλー ま 丁f十

遥土と 八

!三傘i田

阪と さ士つ、J

ル 、 Q

の て

口 め

…~ 、

央主撞f

へ と

宮方法 斗史 る て 煉t り 修与

一--, '*-ゃ

あ ま仁わ な (士ら 終Z Vス し

えんがは

ず と

縁頬の賓戸 打倒 痛し/\。」

と (

下略)( 第四十回)

とんぼ

『八犬伝

』で興味深いのは、 ここに掲げた第五十八 回の例が「筋 斗る」の初出なのである が、 それ以前に「 筋斗」がニ例あり

、 い

(7)

れも「筋斗を うつ」と読まれていることである。 そのとき っぱひと はた 当下寂実一局柳は

( 中

略) 矢庭に刀を奪取

り、

身をひらかして磯 と欣る。 掌の冴に 二郎は、 筋斗を撲で倒れけり。

と 輔む盆

、 四し 竺 均i郎守二 太た がひ;

がム 閃24J 腕百 すぞ巴 を仙拳手 挟告と レ 揚存 共 て に

すく もとり うた っけ、き かλ まうろく 足を巣ふて筋斗を打し

、 続

て蒐る孟六

( 下

略)

( 第

一二 十五回) これをどのように位費、、つけるかは、 〉円ノ。 また改めて考 える必要があろ

『応氏六帖』の資料性

(鈎)

とん ぼがえる 『妙竹林 話七偏人』にも「筋 斗」の例がみえる。 源兵衛、

此 時

これを見て、

「キヤアツ

」と 一言ひさ

ま、

両手を伸

べ、

一 生懸命茶問主口が胸のところを突きのめ せば、 不意を打た ほう あおむ とんぼがえり れて茶闘士口は、 茶台も茶わんも 投り出

し、

仰向けざまに筋

斗、

障子のところへ転 がるゆゑ

( 下

略)( 五編上) 唐話 の流行が 契機となって、「筋斗」と「 ト

ンボ ガ びつきが定着したのではないだろうか エ ワ」との結

。 こ

の中で、

『名物六帖』を どのように位置づけるべきか。吋名物六帖』

の「筋

斗 ・ 斤斗」を収 める人 事議は安永六年

( 一

七 七七)

に 刊行

されている。

東涯

の没後 四十一 年の年である。 ところで、 天理 図書館古義堂文 庫には司紀開小臆』二十九冊が蔵 (ぬ) されている。 すでに中村幸彦氏が「東 渡青年 時よりの 読書抄記」と

し、

『応氏六帖』成立までの「準傍期を知る資料」と指摘している ものである。 この『 紀開小牒』の第五冊に注目すべき事実がみられ る。「斤斗」が 『広本節 用集』とほぼ同じ 形で、 『祖庭事苑』の説を 引いて掲載されているのだ が、 右の「スギ

ダチ」の

訓が抹消され、 左に「ト ンホカヘリ」の 訓が付されているのである。 もっと

も、

厳 密には「 ホンホカヘリ るのだ、

か、

いず れにしても「スギダチ」を ト ンホカヘリ」に日訂し たことは間違い ない。 司紀開小腰』第五冊には「 筋斗」も採録され ている。 こちらには傍 訓はないが 『教 坊記』 からの説を載せる。『俗 語諜義』よりもかなり詳しい。 それによると

、 〈

一 小児 / ーーー 絶倫 上衣以/ 繕採流洗雑於内 妓中 少頃 縁 長竿倒立 / 尋去手以足掛竿久之 垂手翻身 市下〉 とある。 〈中華若木詩抄

〉 の

「上竿奴 」と同様の 、

の第

の「ホ」を「 ト 」に訂正してあ

竿の上でいろいろなわざをする ぅ。 東 涯は吋 祖庭事苑』や『 教坊記』の説 を読ん だうえで、

に 「

スギ

ダチ」

という 訓をひとまず は付 したと考えられる。 同じ司紀 開小臆』の第九

冊に、

吋郷 談正音』から抜き世一日きした箇所が あり 、 しご乗り」のようなものであろ

措υこ番タ

斗ヲ

担E n 1力

とあるのも、 間じ理解を示しているものと考えられる。『紀開小 牒』は第五冊が 元禄七年、 第九冊が元禄十四年の識語をもっ。 第五 冊の「スギ ダチ」から「 ト ンホカヘリ」への訂 正がい つ行われたも のかは明らかではない が、 元禄年閣に

東涯

自身が「斤斗・筋斗」H

「ス

ギダチ」と理解していたことを 『 応氏六帖』は反映していると 考えられる 。「斤斗」と「 スギダチ 」との結び つきは 特殊であるに もかかわらず 、『応氏六帖』においてはそれが継承された。 そして、 その後の「 ト ンホカヘリ」への を吋名物六帖』は 受け 継いでい るのである。 近世において一般的であったと思 われる 「斤斗」

と 「

ト ンボ

か。 つまり、 自由であったことが かかわってい るのではないだろう れなかった理由は明らかではないが、 吋応氏六帖』が出版から終に りい エ ワ」との結びつきを 、 主郎氏 六帖』諾 本が ひとつも取

(8)

刊 行

を念頭においた反省的な見直しが

行なわれなかったために、

「ス

ギダ チ」がその まま 継承されたと考え るのである。

イ・ンジン (撒堕)

『応氏六帖』人 事箪に収 められている。 諸本 すべて見出しは「描 堕」

。 傍

訓は無窮会 本のみ「イ シヂ

ン」

、 他

の 八本は「 イ ン

ヂ ン

( 早

大本 ・長津

・ 黒川本)、

イ ン

ジ ン

( 清 水本 ・静嘉堂本

山田 ・神 宮本 ・

・ 刈谷 本) 」であ る。 註は静嘉堂

本に「丹鉛

総録

飛瓦 石之 戯」 とあるのみで、 他の諸本にはない。

また、

無窮会本は この人事 議におい

て、

一部 の項目に下位分類のための符号をつけており

、 こ

の「描堕 」には「 節序 」に分類することを示す符号、が付されてい

る 。

こ の

、 は

、 ほ

か に

「 侍座

・除 残

・ 走解

・ 擬

・ 譲

散 ・ 照虚耗 」に付されており、 「節序」は 節季ごとの行事であると考 えられる。 さらに早大本では、 項目を分類したうえで排列を改変し ており、 その中で

「節序

」 関係の項目は箪の最初に集められている。 この早大 本でも「馳堕 」は「節序」に含めら れている。 以上『{泌 氏 六帖』の諸本の状態か ら「イ

ン ジ

( 描

臨) 」は年中行事のひとつ であるととらえられていたことがわかる。 ところで、 安原貞室の吋かたこと』に、

文化女子大学研究紀要

つぎ

のような記述、がみえ る。

ゐんぢつぶてにハ

一 印

地といふべきを oゐんぢんといふハ如何。 飛磯をうち侍る場

ぢんばひがこふろえぢんあやまゐん

の o

棟場に似たるとの僻心得にて。 ゐん棟と誤りけるにや。 印

ぷて

ゐん

地とは。

うてる

飛磯の跡の地 に付て。

を 残

し たるやうのこ

をして

Lろ成べしと云 り。

( 以

下略) 右の記述の「ゐん ぢん」がヨル氏 六帖』 の「イ ン

ヂ ン

・イ ンジ

ン」

8

のことと考えられる。 すなわち「 描隆一 」は「印地 」と同じものをさ

ぢん

す。 しかも「ゐん瞭 」は「誤り 」だとしているのである。 同じよう な解釈は『親縮 涼鼓集』にもみえる。

月五日 /俗云 ゐんぢん誤也〉 ここでも「 ゐんじん 」は「

誤也

」 とされている。

「印地

いとは印地打のことで

、 石

を投げあう遊びである。 これに ついては詳論がすでに あるので詳細はそちらに ゆず

り、

ここでは 簡 単に述べるにとどめる。 まず 『平家物語』にはつぎのようにみえる。 知康送事にをよばず 、 院御所に蹄り

まいて

、「義

仲おこの者で 候。 只今 朝敵に なり候なんず

。 い

そぎ

追討せさせ 給へ 」と申け

れば、

法皇さらばしかるべき武 士には 仰せで

、 山

の廃主

・ 寺

の 長吏に仰せられ

て、

山 ・

一二 井寺の悪僧どもをめされけり。 公卿 殿上人 のめされける勢と市中 は、 むかへつぶて

・い んぢ

、 い

ふか ひなき辻冠 者原

・乞

食法師どもなりけり。

( 巻

八 ゐんぢ

地 印

( 363 )

鼓判官) 木曽義仲を追討するた めに法皇がお召しになった比叡

山 ・

の悪 僧に並ぶの が、 公卿殿上人の召した「む かへつぶて 国 城寺 みても、 印地は ならず ものと結びつけ てとらえられていたようであ 時賀茂河原あたりに巣食っていた 」と する。吋義経記』などの例を 学大系の当該簡所の頭注には「向え磯や印地を得 意とする賎民が 当 いふかひなき 辻冠者原 ・乞食 法師ども」であった。 引用した古典文 ・い んぢ 、

室町 時代になると印地は 五月五日の遊戯としても行なわれるよう る

になっていたらしい。

『節用集』の類では、 少 異があるものの 多くの 本で「印地」・「困

(9)

『応、氏六帖Jの資料性

地」 の両形を掲げ、 註は 「五月五日 世俗戯間一帯 」

という内容である。

先の『腕縮涼鼓集』にも「

五月五日 」とあった。 歳時

記においても、

印 池は端

午の節句にちなむものとされてい る。『誹詰初学抄』には 一端午節 左近右近の 馬場騎射

しゃ

うふふく

菖蒲かたひら向 万

い んぢ〈

付かミの

ほり 〉 ちまき

とある。吋山之井』

などでもやは ・ 吋 増山弁』 ・明誹諮新式』 ・吋誹諮歳 時記梁草』

り五月五日の行事としている。

印地は、 時には流血の

惨事にまで歪るほど

エスカレー

ト し

、 中位

以来しばしば禁止されな

がら、

子供の遊戯として江戸時代まで生き

残 っ

た。 しかも端午の節

句の行事としては

ポピュラー

なものであった。『応氏六帖』が「措

堕」を

「節序

」の項目として認識していることには

このような背景

があったのである。

しかし、

ここまでに掲げた例は、

見出しとしてはすべて

「イ

ン ジ

( ジ

とヂとの異な りはここでは関 わない )の形であった。

と吋親縮涼鼓集いにみられた「

ゐんぢん」は

いずれも「誤

」りとさ

れていた。

しかるに『応

氏六帖』では、 無窮会

本の「イ

シヂ ン」を である。

「イ

ン ジ

ン」をどのように考え

たこと』

除き、

すべて「イ

ン ジ

ン るべきか。

前掲の

『かたこと』には「飛礁をうち侍る場の

。 篠崎明に似たると

ぢんあやま

の僻心得にて。

ゐん 陳と誤りける

にや

」とあった。吋

時代別

居語大

辞典室町 時代編』一

の「

いんぢ

」の項には、「印

いと「因

いとの用

字に関して「意

識が用字面に反映したとも解せられる」とする。

かし節用集などで「iヂ

の部分は すべて「地 」であっ たために、

この 部分につい

ては言

及されていない。

ところが漢字表記の中に

「煉

・ 陣

」の字を用いた例を見出すことができるのである。 (お) ヰンピアウヲ 司自制漢音釈書

一一皇子考』

は「時 候円 」の下に「 印地打」を 掲げる。 註に〈 又作一一菌 棟一 一。 端午ノ戯開。 / 朝鮮ノ人 謂コ 之ヲ 石戦之戯ぺ

〉 と

あ る。 ここに「商陳 」という表記がみられるのである。

(お)ふりづんばLインヂ

また、『和漢三

才図会

』には

「瓢 石 」の項に「 陰陳 」という註 記がみえる。 ツブテ 飛磯 ム按飛磯 ハ郷ラ一一瓦磯イ 傷 レ人 ヲ也 端午ノ日村民見章組 げ

川 ヲ飛

一…瓦石イ或用プ瓢石イ終

日闘争ス

謂 一一之ヲ

一毎歳含 膨舵

テ憤ヲ 一一傷

ヨニ人ヲ

近世有 話交 ア 停一一止 之 …

「イ

ン ヂ」 という 訓が付されては いるが、 漢字表記は「詮陳」で ある。 (幻) また、『武徳安民記』には

「陰陣

」の例がみえる。 小西行 長明笑テ 申ケ ル ハ

( 中

略 )今日 ノ数 ハ後 ノ大 事ヲ 頼テ競

ヒ 進 ム庭 ヲ足 入 ノ地形一一テ 敵進退心一一任セスト ハ云 ナ カラ狼リ 一一 是ヲ追ケ ル ユへ再ヒ 追返サレ又守返シ

偏ニ

河原陰樟菖 蒲切 ノ 風情論ス

ル ニ

足 ラス

( 巻

二十

) 合戦の推移を

「河原陰陣

菖漏切 ノ風情」 と評しているが、 この

「河

原陰 陣」は 印地のことであろう。 以上「

菌陳

・ 陰

棟 ・

陰 陣

」 の

例はいず れも音 読すると

「イ

ン ジ

となる。 石を投げ合 って戦う、 というところから、 ン 」

出 陣

・ 陣

鐘など合戦に 縁の深い「 (ぬ) 屋 ・ 陣

( 棟

)」の

字をあて、 それが契機 となっ

て 「 イ

ン ジ

司東 踊子』にはつぎのようにある。 ン 」というよみが行われるようになったのかもしれない。

いんぢうちじどうたはむれせいけひ

〉 き

わろんごいんぢん

印地打の見童の戯は、

清 家

筆記の和 論一訪問に、 国陳と遊間たる庭あ

I

h'bhf》\じま

いんぢうち

り。 今にも 此花芯 き 枠島と云 躍 には、

印地打を

ぜ り。 京師の

(10)

しゃうに やなぎ えだ っく ぼう ぼう あやま 小児、

柳の校を以造れる印地の棒を

、 ぢ

ん/\の棒と誤りて しやう いとけな じゃうしたんご 稀せり。

( 中

略) ??幼き頃迄は、 ぢん/\の棒とて、 上巴端午 もてあそび ぐわんらLLVぬうち Lぬおふもの たはむれき 等には翫物とせり。 元来 犬打にて、 犬追物を戯擬せりとぞ。

「イ

ン ジ

」を京都の子供連が「ぢん/\」と称した

、 と

いうの で ある。 そしてそれを「 誤りて」ととらえている。『日十中国語大辞典』 はこれに 「陣 陣」の漢字をあてる。「ぢん/'\」ま では変化してい ない「イ

ン ジ

ン 」も、

あるいはこれが 端午の節句の遊戯として定着 してきたこととかかわっているかもしれない。 おそらく口頭語とし てはよく使 われたのであろう。『かたこと』や『親縮涼鼓集』の言 及が逆にそれを裏 付ける。

しかし刊

行に捺して傍 訓として掲げるた めには 採用されにくい語形だったのではないだろう か。 それを空泌 氏六帖』は傍 訓として掲げている。 『名物六帖』には「拠堕」は なく 、

かわ

って「 撒埼」が掲載され いる。「 培」はもともと磁を投げる遊 びの意で、 「描堵」の ほうが正 姿である。 傍 訓は

「イシ ウチ

」で、 『升庵集』 からの註があ る。「拠 埼」の直前には「打 瓦」があり、「見レ下一 一」と註されている。

『紀開小臆』には、

第一冊、

第二冊に「描堵 」がみえる

が、

どち らにも訓は 付されていない。 司名物六帖』が 出版に際して「ツブテ

ウ チ

・イシ ウチ

」を選んだ のに対して『応氏六帖』が「イ

ン ジ

ン 」

を 継承しつづけたことは示 唆的である。『応氏六帖』について

、 き

わめて口頭語

的な

訓 を

含ん

でいる可能性を考えることができるからである。 なお、『応氏六帖』無 窮会 本の「イ シヂ ン

」は「

イ ン

ヂ ン

」と「 イ シウ チ」とが混渇したものと考えられる。

10

蹟 ヒルトビ ・ヒルガンドウ (白撞)

司応氏六 帖』諸本では、 増補 本系の 長調停本・ 黒川本とその他の諸 本とで傍 訓が異なっている。 清水

本 は諸 本ほぼ異 同なく、 ・ 早大 本・山田 本・ 無窮会 本・ 刈谷 本 ・ 静嘉堂本 ・神宮本 である。 ただし静嘉堂本は「 向上」の在 白撞同上

に「スリ

」とある。 いっぽう 、長浮本

・ 単一

一'川本では

とあり、 『応氏六帖』には「 自撞向上

ヒル

ト ビ

ヒルガン

トウ」

の二種の

( 361 )

訓がみられる。

「 ヒ ル

ト どは

「ひ

るとんび」と同じも のであろう。『物類称呼 吋 )

の「ぬ

すひと」の項にはつぎのようにある。 O須利

東圏

にていふ〈 すりはぬすびとの党語/也とぞ又 一一一才図禽

ニ 一

説 有

略 ス

〉 江戸 にできんちゃ くきりと

云上

総にて oさがら といふ摂州にて oひるとんびといふ〈 とんびは 鳶也ものをさら ふと云心と/かや

東 国

にてまれ/\に かくもいふ也〉 撰州では 「すり 」を「 ひるとんび」 という 、 というのである。「ス リ」と「

ヒルト

ビ」との結びつきは司応氏六帖』静嘉堂 本の

みられた。 かたち りん たい さだまり めづらし いっ これ か

人の

形醸も五倫五鰻お定 ぢやア 奇くねえとか云

て、

是にも流行 もの うしろ ほう め があったらひょんな物だらう

よ、(

中略) 後 の方にも限があら さきども わき ひるとんび ょうじん

ば、

お先 供の傍 よれもいらず

、 昼

鳶の用心にもよし

と、

恨の

(11)

子L�

を 前主 後ご

""

回 し

iEA

)明あ

け る の さ

( 吋 四十八癖』

『応氏六帖』の資料性

この例もやは

り「

すり

」に

対する用心が

いい、

といっているので あろう。『物類称呼

』に「とんびは

鳶也ものをさらふと云

心とかや

とあるところからも考えられるように

「ひるとんび

」には、 相手に

気づかれないうちにかすめ

とる、

というニュ

ア ン

ス がある。 それに 比して

「ひ

るがん どう」

の例のほうは、

もう少し凶悪

なようである。

源九郎舟よりあがって

切てかLれば無蔵

もぬいてひらめかす。

此いきほひに

恐れをなし。

いふにかひなきわかたう中間ひるが んだうよをひはぎ

よ。

出あへ/-\をカにて皆ちり人\にぞ逃に

ける。

( 『 蛾一脅かるた』第 五) これは加賀郡弓師高が源九

部と無蔵

という手下を伴っ

て、

姉の戸

無瀬を襲う場面である。

若党 ・ 中間が

「ひる がんだうよをひはぎ

よ 」

といって逃げていくのであるから、

」こは「すり

」のことは考えに

(必) ノ\、1V 、c

同じく近松門

左衛門

の作とされている

『田村将軍初観音』

にも

「ひ るがんだう」の例はみえる。

二人 の男ことを見すましあひづ

の呼子を吹

ければこkふかしこの

A A

松かげそハかげ

くま人\より数十人ばら/\と取

ま ハす 馬かた まん中へとんで

ャァさせぬ/\

( 中

略)

やせぬす人のひるが

んだ

ふきやちる様なごまのは

ひゐなか道者をなぶって似せく

A

まのゐのつき付う

れ九ゆ すりハくハぬ道中の見せしめかたはしか らふミ殺さん

やは

り襲ってきた男に

対して「やせぬす人

のひるがんだう・

:・」

といっている。

むしろ相手をののしることばととるほうがよいかも

しれないが、 これも「 すり」ではなく みての発言 であろう。

「 ヒ

ドウ」の「 カン ガ ン

ドウ

」は、 諸辞書「強盗 」の字をあて (村) るように、「がうだう

る。 訓は「 カウ タウ どの 本が「 強盗 ・強禁い一 一 様の 表記を掲げ 節用集の類ではほとん 」 ( 『臼葡辞輩出』のEC) と同じである。

・ ガ

ウダウ

・ ガ

ウダブ

・ カ

ウ タ

ウ 」などである が、 中で伊勢 本略 本の亀田 本が

ガンダワ

強盗〈 或作/

黛 〉

としているのが注尽される。 この亀悶 本は「 盗人」の 訓も「

ヌシ

ヒ ト

」 と

あって 他の節用集とは異なっているが、

「 カ

ンダウ」

と 「

ヌ シビ

ト」

とは 閉じ重さではないように思う。 司下学集』

・ 『

運歩色葉集』 るが、 いずれも

いはぎ」

」 のようなものと

『塵芥』などにも「 強盗」はみえ

ガウ

ダウ

・ カ

ウ タ

・ ガ

ウ タ

ウ」 などであって

tI

ンi」の 形はみられない。

(お)カンタウ

ところが『合類節用集』 には「強盗 」とあって「 ガンダウ 」の 訓 が付されている。

また『和

漢音釈議言

字考』

に「ガ ウ ドウ」としたうえで、左に では 4 ) (強)

盗」

の右

ガン 」という音が付されてい

(門別) hMすひと 『和漢一一一 才図会』では「留 が八い の項に 強盗〈 俗云糞牟/止字 〉 とあり、 さらに 「帆 ャ 叫 リ ・ 家舟断

・ 山

脇 ・

この「ガン 盗」 がみえる。 」と並んで「 即舵 配

ドウ

」について 『倭 訓 色日 、 がんだう 強盗の唐音

ぎ や

んだう の就也といへり と述べている。「ギヤ ンダ ウ」が「強盗 」の唐音であり

、 そ

れが

(12)

誰って

「 ガ

ンダ

ウ」

=;] ,�

唐た

話 づ

纂た 要と

,�� 巴)う

凡 の 出 γt

T あ

が Eえ

で き る

につ

「ギ ヤンダウ」

有2は て

許j岡 多1: 島 強1冠 盗;Z3 〈

ソ コパグ ノ山タチ

/アリ

また

「強盗」

の例ではないが 荻生担保の 豆一昨笠初編』 につ ぎ のようにある。

( 中

略) 又俗語一一 マサ

ル ト

〔強〕

ツヨキト

訓ス 弱

ノ 反劉

ナ リ

MTヤンズ アツコウ

ム 強

似阿寄

ハアニマサリ

ナ リ

「強 」の俗語の発音 、 つまり唐 音は「ギヤン 」であることを示し ているのである。湯沢質幸氏によれば中間語音で宕摂は 中古音 'Mdo↓康代音昔話↓吋中原音韻』'oa

と変化しており

、 呉

音・

漢音では通例G ウ

形が与えられるとい

一明 百山や祖篠の「 ギヤンいの「ン」は韻罵を そのまま写したもの 、 と考えることができる。 また 、『中原音韻』 の200であれば 、「

ガ ン

」 これまでのところ「

ギャ ン」と「

となる可能性もある。

しかし 、 ン」とを直接結びつけるよう な資料を見出すことは でき なかった。 さて 、『応氏六帖』では前述のように 七本 が「

ヒル

ト ビ

・黒川本の二本が「 」 、 長津 本

ヒルガ ント ウ」であった。『名物六帖』の「

撞 」

には

、長

津 本・黒川本と悶じ「 ヒルガ ントウ」の 訓が付されて いる。誌としては吋 幼事須知』の書名を掲げるのみであ るが 、

つぎ

の「 白撞

〈 白日撞ニ入人家一 繍潤嶋崎四 郎町昨脱 」 はやや 詳しい註を載せる。

ところで吋紀開小腐』 は「 白撞 」の見出しに吋類審纂要』の説を のことである。 この説によれば 、 やはり「 ヒルガ ンドウ」は 白昼 の押し込み 強盗 一一之ヲ |!っ 一/ 見レ 物便取謂 付す。吋類審築要』は司名物六帖』では

今あげた「 白撞 賊

」に採ら

れてい

るが

、『紀開小騎』で

は「賊

」は引用の最後に「

iil ある。 この「 白撞 いに『紀開小騎 』では「 ヒルヌス ヒ 賊 」 と ト」

という傍 訓が付されている。「

ヒル ヌス

ヒ ト」

はか なり古くからあったよう (臼) (門出)

で 、『

今昔 物語』に例がみえ る。 また 『日葡辞書』には「昼 の盗人 、 すなわち 、

図 々

しい盗人」という註記がみえる。 以上のように 、「 白撞

(賊

どという同一 の見出しに対して内応氏 六帖』 ・司名物六帖』 ・『紀開小臆』で「

ヒルト

・ ヒ ルガ ントウ

・ ヒ

ル ヌ

スビ ト 」という三 様の 訓がみられた。 この中では 吋紀聞小階居 の「

ヒル

ヌス

ト いが、

一訟の説明としては最もわかりやすいであろ う。 しかし

、「 ヒル

ト ピ 」あるいは「

ヒルガ

ンドウ」のほう

が 、

東 珪やその周辺の人 々にとっては生きた 、耳近い一語だったのではない

12

立子語編』 では 「白撞

」 の

見出しの右に

「ヒルガントウ

ヘ左

右に「 ヒルヌス ヒ シコミ」の 訓を付す 。吋雑字類編』 ではやはり「 白撞 」の見出しの に 「 オ

ト」

、 に「

ヒルガ ンダ

ウ」の 訓を付し

、「 ヒルト

(359 )

対して〈 いっぽう『酷引小説字裳』では 」 はみえない。

ヒルト/

ン ピ

日撞 」の註に「 また 『俗語解』で は「 白 〉 という註を付す。

ヒル

カン

ドウ ヒル トン

ビ 」とみえる。主文 那小説字 (円出) ハク シアトウ 索』でも向じ「

( 白

) 日撞 」の註 に〈 白議ニ往来人 ノ提 ル 物ヲ取ル /モ

、 此方ニ云フ

ヒル トン ビ 々であるが 、 大部分は「 〉 と ある。 このように諸議により様 ヒルガ

ンドウ」と「

ヒルトン

ビ 」である。 なかでも「

ヒルトン

」は、

現在でも京都・ 蚊阜 ・愛知あたりから 岡山 ・一福岡まで

、 生

きつづけている語である。 これも「イ ン

ジ ン

」 と同じく 、 きわめて口頭語的なものを 司応 氏六帖』が訓として付し

( 白

) という見出しに

(13)

ているとみることができる。

お わ り

「 ス

ギダチ 1トン

ボカエ リ」 、「 イン ジン iイチ

ウ チ

・ ツ

ブ テウ

『応氏六粘』の資料性

チ」 、「 ヒ

ル ト

ヒルガ

ンド

ウ」

という傍

訓の比較を通して吋応氏 六帖』の資料性について考えてきた。

最初にも述べたように

、 こ

まで吋応氏六帖』は『名物六帖』の編纂

過程の産物以上

の位援を与 えられていなかった。『名物六帖』の名が

あまりにも大

きすぎたた めに、

そのような位置づけは『

応氏六帖』伝 本

の内部にも

無意識に

あらわれる。 たと

えば替嘉堂本は表紙と白

録を「 磨氏名物六帖」と している (本文は

すべて「臆

氏六

帖 」

) 。 刈

谷 本は

吋名物六帖』の目 録をそのまま最初に掲げている。

もちろんこの目録は『応氏六帖』

本文とはまったく一

致しないから

、 刈

谷 本の書写者は『 名物六帖』

から目録だけを転載したのであろう。

また清水本では

表紙題筆を上

・下 冊ともに「名物

六帖

」とする

(本文はすべて「

麗氏 六帖」

) 。 しかし『応氏六帖』は司応

氏六帖』としての系譜と広がりをもっ 資料である。

稿でのこれまでの考察を通しても、

『名物六帖』ゃ あるいは『紀開小臆

』とは異なる独自の価値をも

っ資料としてとら えられることが

明らかになった。

ただし

本稿で明らかにしえたのは その可能性と方向性とにとどまる。『応氏六帖』

が吋名物六帖』や

『紀聞小績』と

異なる傍

訓を付 す項目は多数にの

ぼるが、

そのよう な例がすべて問じ方向をさし

ているとは限らない。

個 々

の例につい

ての分析を積

み重ねていくことによって

、 さ

まざまな 角度

から『応 氏六帖』の独

自性と、

他資料との共通性とを明らかにしていかなけ

ればならないであろう。

さらにいくつかの項目について簡単にふれ ておく。「鐙倉」は『応氏いに「

ホソイリ」

、『名物』に「

ヤジリキ

リ」の 訓がみられる

。「ヤジ

リキリ

」は例を見出すこ との 容易な語 であるが「 ホソイリ」は に見出しただけである。

氏六帖』の官官写者にとっても「

ホソイリいはな じみの薄い語であっ たらし く、

神宮

・ 早

大本「 ホリイリ」

、 刈

谷 本

「ホ

ソイソ」 、 多和

本「ホツイ

リ」のようにする。

また、

「 ヒ

ル トビ」と 同様、長津 本

・東大

本は

「ヤジ

リキリ」の 訓を付し、 他の八 本と 異なる。

「井 欄」

の「

ヰ ッ

、 い

(『応氏』

)と「ヰトヤカ

タ」 (吋名物』

) 、 「畑 蓋

・ 姻敬」の「

モノ

ミ」

( 『 応氏』 )と「

ヒ ノ

ミヤク

ラ 」

( 吋名物』 )は 『名物六帖』が新しい語 形を採用していっ た例と考えられる。

「単

列」 の「

イツキウチ

( 『 応氏』

)と「イツキ

タチ」 (『名物

』 ) 、

「闘 騒」

の「ジキサウ」

( 『 応氏』

)と「カ

ゴソ」 (『名物』 )は『名物 六帖』の 訓の ほうが見出 し語の意味を正確に伝えている。

中村幸彦 氏は『名物六帖』人

品築将校兵卒の条について

、 自

筆底 本と 刊

本との訓を比較し、

「東

涯のは 意訳である

が、

出来るだけ臼

本語の単語で訳を与えようとした。

為に 宝暦ではやや 古い語感のも のになっている。 刊本

のは 出来るだけ原意を忠実にあらわそうとし た為に、 やや生硬になった。 しかし語感は新しくなっていると云 え (お) る。

」と分析している。

さらに資料の隔を拡げ、

一言語の地域差など

も考えながら検討を重ねていきたい。

吋名物ムハ 註

』は

五十 四年に朋友来日広から影印刊行されている。板 本剖帖

分に米刊部分を橋本によっ

て織

たも

のである。天理図書館複製

参照

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