ド イ ツ 計 画 原 価 計 算 の 生 成 発 展 史 考 佐 藤 好 孝
一︑問題点の所在
二︑計画原価計算起源考について
11前世紀末葉から第一次大戦終結までを中心に1−
三︑計画原価計算の新芽
−一九二〇年代をミッヘルの所説を中心にー1
四︑計画原価計算の生成
−一九三〇年代をミヘルの所説を中心に1
五︑計画原価計算の発展と現状
−1一九四〇年代特に四五年以後を中心に −
一︑ 問 題 点 の 所 在
計画原価計算は︑今日下イツにおける工業原価計算制度の一つとして認められるに至った︒では︑この計画原価計
ドイツ計画原価計算の生成発展史考五三
経 営 と 経 済
五四
算は
︑ ドイツの経営計算制度の中においていかなる地位を占めているか︒この点︑この制度の生成初期の一九三
O年
ドイツの実務家達の聞では︑従来行なわれて来た或程度満足するにたる経営統計・経営簿記・経営
決算(回旦ユ
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などがあったため︑あまり関心を示さなかった様であるが︑(註一)今日では論者の
認識の相違によって︑その見方に多少の軽重の差こそあれ︑非常に高く評価されている現状であるといえよう︒ 代の初め頃には︑
註︑本文に出て来る﹁経営決算﹂
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ロロ肉)は︑ドイヲ計画原価計算の初期発展を特徴*つけると考えられる︑第二節
の問顕に関係があると思うので︑こLで簡単に私見と註釈を附加えて置くことにする︒に出て来る
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筆者の思考する処では︑この﹁経自決算﹂は︑後舗において説明する処の
り拾頭した
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と今世紀初頭
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またドイツの計算思考との結合せる発展形態の再現であると考えられる︒
工業会計における特有の経首管理体系の一つを形成していたと思考せられるものである︒
経営決算(切
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筆者註・ここでは部門決算表と釦臥して置く︒)の助けをかりて捉える場合に特に使
用される名悲であるといわれる︒(︿色
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ここでいhつ
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門費配賦表の発展した一つの形︑即ち補助部門費を製造部門へ配分する部門費の即賦だけでなく︑給付計算︑さらには経営損益
計算をも含めたものを指している︒
﹁計画原価計算は︑経営計算制度ハ
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の発展における最終段階ないしは重要な段 階 に 地 歩 を 占 め て い る も の と い え る
︒ 経 営 計 算 制 度 は
︑ 年 次 計 算 か ら 一 切 の 不 規 則 な 期 間 外 費 用 と 牧 益 を 排 除 し た 短
期損益計算へ︑また総休経営計算
および原価場所計算(問︒
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いい換えれば︑組雑な原価負担者計算から給付単位の精密な区
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分把握へと移行する過程(巧蒜)は︑一切の原価要素を専門的に正しく慎重に限定する体系的な原価計画や計画原価
かくて︑計画原価計算は︑特に︑すべての職能領域および責任領域における合理的な原価
構成の効果的な手段となる︒ひいてはこれが︑企業経営におけるすべての非経済性(ロロ当日立
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の排除
と原価引下げ(問︒巳
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ロ宵同居間)に対する強い刺戟を与えることになる︒﹂(開
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今日︑計画原価計算が︑ドイツの経営計算制度の中において︑非常に重要な地位を占めつつあることは明かであ
たしかに︑この教授の単的な表現の行聞には︑付計画原価計算が︑今日のドイツ経翻って︑この説述を眺める時︑ る
営計算制度中に占める地位は勿論のこと︑同計画原価計算が︑今日の如く︑原価計算制度として認められるに至るま
でのドイツにおける経営計算制度の史的歩み︑いい換えれば計画原価計算の生成の過程︑ならびに︑国計画原価計算
の性格および機能というものが︑実にうまく圧縮して描き出されている︒だが︑この計画原価計算は︑原価計算制度
として認められてから未だ日が浅いため︑そこに幾多の問題を残している事もまた事実である︒例えば︑この計算制
度の性格の解釈についても︑
一方
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イツの正常原価計算
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﹀と予算原価計算
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生成
発展
史考
五五
経 営 と 経 済
五六
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同 ﹀および米国において生成した標準原価計算との結合体の発展形態と見る論者もあり︑
︿註
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の引続きの発展形態で
あると見る論者もある︒(註一ニ)これと同時に︑この計算制度の生成についても︑
一方
では
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Hこの計算思考は︑米
固から輸入されたものではなく︑ドイツの従来の経営計算制度の内に培かわれて来た諸思考の中に生成したものであ
他方では︑白この計算思考は︑ドイツ古来のものというより米国より輸入されたもの
(註五)その論者の観点の相違より区々な見解が採られている状態である︒かLる見解の
相違は︑従来原価計算の生成について︑村産業革命以後の工場制工業にその生成の基盤を求める学説と︑口産業革命
以前の中世にその生成を求める学説との対立に非常によく似た一つの対立とも考えられる︒いずれにせよ︑今日一般
にいわれている様に︑計画原価計算が︑一九二0年代の産業合理時代にその萌芽を求める見解は︑次節以下の考察に
よって明かなる如く︑確かに当を得たものといえるであろう︒だがしかし︑一方には︑今回︑計画原価計算として結
実されている一連の原価理論ならびに実務の内に︑部分的ではあるが︑一九二0年代の産業合理化時代よりずっと以
前に形成された原価理論ならびに実務が︑非常に大きな貢献をなしているという事実のある事である︒
計画原価計算の生成の問題を考察するに先だって︑ るとする論者もあり︑
(註 四)
であるとする論者もあり︑
以上要するに次節以下の探求の問題点を引出す意味におい
て︑計画原価計算の生成の問題を諸文献の考察を通じて筆者なりに結論すればドイツ計画原価計算は︑米国において
発達した標準原価制度に大きな影響を受けた事は確かである︒だがしかし︑その計算思考の総てが米国から輸入され
たと考える事もまた官険である︒前述せる如く︑一般に計画原価計算が生成したと考えられている以前に︑既にドイ
ツにおいては︑部分的ではあるが︑今日行なわれている計画原価概念として一応結実されている一連の考え方に対し
ドイツ独自の管理思考のもとに形成されつつあったため︑同じ計算思考でありながて大いに貢献している諸思考が︑
いい換えれば共通費ないし製造間接費の管
理という事がその中心になって生成しまた発展して行ったという過程を辿っているし︑また計画原価計算を生成せし
むるに必要な社会的智済的要請も︑共通費の管理というあたりより発生し︑また成熟して行ったという事実である︒
かかる意味において︑ドイツ計画原価計算を正しく理解する為には︑まず第一に︑この間の事情を明かにする必要が
あると同時に︑またこの間の事情をどの犠に認識すべきかが問題となる︒そこで筆者は︑次節以下の考察に当って︑ らも︑そこには後述する如く︑米国のそれとは非常に対眠的な生成過程︑
かLる問題を中心に︑計画原価計算の生成の問題を採り上げて見たい︒
(註 一﹀ 冨芯
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可 一 戸
ドイツ計画原価計算の生成発展史考
五 七
経 営 と 経 済
五八
一 一 ︑
計 画 原 価 計 算 起 源 考 に
つ い て ll
前世紀末葉から第一次大戦終結までを中心に││
計画原価計算を出来るだけ正しい婆において認識せんとする場合︑最初に直面する一つの根本的な疑問は︑計画原
価計算の生成の起点を経営計算制度の発展過程上︑いつの時代に置くべきかという問題である︒この計算思考の経営
計算制度発達史上の関係置をいかなる時点に求むべきかについての諸家の見解は︑区々であるが︑
年代の経営合理化時代に求められている︒
だが︑ミヲヘル(開島
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一般には一九二O
﹁われわれの経済的思考が︑全面的に改められなければならなくなって来
た︒それは︑従来の経済計算において主体的であったものが︑従属的な事項に含められ︑従来従属的なものと考えら
れていたものが︑主体的なものに含められるに至ったからである︒その顕著な例は︑従来あまり注視されなかった人
間労働が︑経済的諸現象の前面に打出されて来たことである︒われわれが︑現代の計画原価計算において︑いい換え
れば︑ある経済機構の責任計算(︿
OB 24 32
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各ロロロ開)において評価の変更を余儀なくされた事を知ちされた如く︑経営管理の領域においてもまた革命を示したのは決して偶然の事ではない︒この発展は︑決して突如として現
われて来たものではなく︑一つの完全な系列を通じ︑遂次進められて来たものである︒﹂と国自品
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の序説
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生して来たものは一つもなく︑常に一つの完全な系列を通じその歴史の流れにおいて︑現実の社会的・経済的実
践の要求に従って発生して来たものである事は申すまでもない︒かかる意味において︑
一九
二0年代の経常合理化時
代に生成したと考えられている計画原価計算を正しい婆において認識する為には︑一九二O年以前のドイツ国民経済
の状態︑原価理論の発展の流れ︑ならびに計算技術の発達の状態を正しく認識する事が︑計画原価計算をEしく認識
するための第一歩であると思う︒そこで︑以下この問題の考察を次掲の三点に求め︑これを順を追って探求してみる
事に
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︒
H前世紀末葉から今世紀一0年代のずイツ国民経済における企業の状態
同当時の原価理論の状態
国当時の計算技術の状態
(第一点)従来原価計算の歴史は︑経営経済の歴史と平行して経過して来た(︿包・Z帥F
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という過去の事実に鑑み︑計画原価計算もま
たこの例にもれるものでない事は明かである︒
周知の如く︑下イツの国民経済は︑前世紀の末期には既に産業の発展期に入っていたといえる︒従って一八七O年
代には︑先進国フラVスを凌駕し︑英米に次ぐ一大工業国の地歩を占めるまでに至っていたといわれている︒これが
一入
九0年代の末期に至ると︑最早英国を凌ぐ第二位の工業国となるに至っている︒かくて︑これを今ドイツ鉄工業
界の代表的企業の一つであるクルップ(同
22
︾﹀会社に例をとってみても︑一八九三年に従業員約二万四千名を擁し
ていたものが︑数年後の一九
OO
年には二倍近くの四万五千名という非常に膨大な数になって居り︑また一八九六年
には自社用の熔鉱炉を建設し︑同時にまたキ1ル造船所を合併するなど飛躍的な発展を遂げている︒また︑これを電
気産業界の代表的企業の一つである7
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五九
経 営 と 経 済
六O
一八九五年には電動機生産高が四千台︑その馬力数は六万八千馬力であったものが︑五年後の一九OO年
てみ
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︑
には︑生産高が︑更に五倍以上の二万一千余台となり︑その馬力数は二六万余馬カといった具合に飛躍的な発展を遂
げるなど︑相次ぐ大規模産業の出現をみるに至っている︒
だがその反面経済界は︑
一九
00年代の恐慌と共に︑ひどい不況時代に遭遇し︑ために企業が相次いで破産し︑そ
の破産件数も実に一万余件に達するという様想を呈していた︒そこで企業は︑この不況期の乗切策として︑企業の集
中合併を行ったため︑企業は︑ますます大規模化の一途を辿ると共に︑その経済的な弾力性を失って行った︒かかる
状態に置かれていた下イツの経済界が︑
し︑その後数年間︑重工業部門では︑生産制限を余儀なくせしめられるという程の苦境に追込まれ︑
は︑破産件数も実に一万三千件という記録を出す深刻な状態に立至っている︒(註一)か
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る 状 態 に お か れ た 企 業
は︑一方では間接費︑特に一般管理販売費ならびに固定設備過剰にもとづく不働費の激増︑他方では競争の激化と不
況になやまされた︒そこで︑当時の企業経営者達にとっては︑かかる状態をいかにして克服して行くかという事が最
ま た ま た 一
九O七i八年にかけて信用恐慌に見まわれるという事態に直面
一九一二年に
大の課題となっていたといえる︒
註一
︑当
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る︒
(宮上一雄著﹁工業
会計
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頁参照)
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生産増加率問機械発動機能力設備増加率
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以上の統計表より知り得る如く︑一八七五年から一八九五年にかけて設備能力が︑
産量は︑一二O%増加している︒これに反し︑一八九五年から一九O七年にかけては︑
し︑生産量はわずかに八九%の増加しか示していない︒これを見ても明かなる如く︑ 五九%増加したのに対して︑当該期間の生
設備能力が七九%増加しているのに対
当時の企業が如何に不況に悩まされてい
たかがわかる︒
かかる状態におかれている企業を経営計算制度の面より眺める時︑そこには︑従来の伝統的な年次計算または総体
経営計算をもってしては︑倒底当時の企業家達の要求に答え得ない状態に追込まれていたといえる︒ここに前節で述
べた︑年次計算は短期損益計算に︑また総体経営計算は︑原価部門および原価場所計算に移行する要因が充分あった
し︑また次に述べる部分的解決策としての諸種の原価理論ならびに技術の発生を招いたといえる︒
(第二点﹀かかる経営事情に直面した企業の経営計算制度︑なかんずく原価計算においても︑上述の如き事情を解
決する為には︑従来の単なる給付単位当りの原価の計算といった伝統的原価計算では既にその限界に達し︑これの解
決策として︑部分的ではあるが︑付原価理論の面では︑費用分解︑計算価格の問題を生じ︑同計算技術の面でも部門
計算表
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︒
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﹀の完成など︑原価理論の面においても︑また計算技術の面においても︑相当の変化を来たし
始めていた事は事実である︒
まず︑原価理論の面における質的変化の発端をなすものは︑なんといっても︑シュマlレシベヲハ教授が︑一八九
九年にドイツ金属工業新聞に掲載した﹁工業経営における簿記と原価計算﹂(∞各自己
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︒FSN∞・)なる論文であE
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ドイツ計画原価計算の生成発展史考
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六 一一
周知の如く︑間接費を中心にして経営費用を操業度との関係から費用形態を第一次原価および第二次原価
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E g g ‑ S E E S 5 5 5 )
に分離して︑これを価格政策の観点から費用補償の問題を取扱っている︒(久保田音
二郎博士著﹁間接費計算論﹂第七章参照︒向︑﹁原価計算と期間損益計算との関係﹂﹁シュマ1レンパヲハ研究﹂所牧)
これが後に︑経営費用論
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82 0) の問題へと発展して行っている︒経営費用論は︑申すまでもなく企業の操業度と の関係において生ずる費用変化︑いい換えれば費用分解(同
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52
ロ尽ないしは費用形態の問題を採り上げた 理論である︒勿論これが︑後に費用範鴎論︑費用法則論︑費用管理の問題へと発展して行ったのであるが︑この前世
紀末葉から今世紀一0
年代にかけて除々に発展して行った経営費用理論が︑今日の計画原価概念として一応結実され ている計画原価の原価計画の一連の考え方に対して非常に大きな貢献をなしている事は周知の事実である︒同じく計
算価格の問題も︑
シュマlレンベッハ教授の前掲の論文に端を発し今世紀の初頭から発展して来た︒この計算価格の
問題については例えばカルフェラム教授の如きは︑
ドイツの先見の明ある企業では︑数十年来それぞれ独自の方法で一種の予測計算を展開して来たし︑今世妃初頭に最
初の商科大学(国
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0 zv o n v
己め)の設立以来︑経営経済学は︑熱心にこの問題と取組んで来た︒シュマE F
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ッハ教授は︑既に一九
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三年にグ経営内部の計算価格についてグ(ロ
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E8 ) と い う 彼 の 基 礎 と な る 論 文 で も っ て
︑ と い う 事 を 主 張 す る
︒
﹁計画原価計算を︑米国からの輸入品とみるのは偏見である︒
一種の計画計算に注意を向けさした︒:::﹂
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・m ‑ H ω
印 )
註︑本文のカルフェラム教授の所説に出て来る
なる一節の出所が閉確でないが︑おそらくシュ教授が︑
﹁シ
ュマ
1レンパヲハの一九O三年のゲ経営内部の計算価格について0
・ : : :
: ﹂
一 九 O三年にケルン商科大学へ制任の際演説された
﹁大
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同 ゅの ﹃
ロ ロロ
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田宮
内古
田仲
立︒
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﹀なる論文を指して述べているものと考えられる.
周知の如く︑計算価格の問顕については︑教授は前掲の論文を基にして︑この他一九O八l
九 年 に
﹁ 原 価 算 定 の 理 論
﹂
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なる論文を発表
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・忌
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uしている土岐政蔵著﹁原価計算の研究﹂︑第四章︑第八章
参照
﹀.
この教授の主張される如く︑この計算価格の問題もまた︑確かに今日の計画原価概念として結実されている計画原
価の原価計画の一連の考え方に対し非常に大きな貢献をなしている事は申すまでもない︒この様に考えて来る時︑原
価理論の面においても︑ドイツ独自の原価思考ないし工業会計における管理体系のもとに︑既に部分的ではあるが︑
一九
一
0年代にはその基盤となるべき原価理論が一応出揃っていたといえる︒
一方計算技術ないしは計算思考の面においても︑その変化をきたし
始めていた︒周知の如く︑今世紀初頭から一0年代にかけて︑経営計算制度は︑年次計算から一切の不規則な期間外
費用と牧益を排除した短期損益計算へ︑また全体経営計算から原価部門ないし原価場所計算へと︑いい換えれば︑粗 (第三点﹀以上の如き原価理論の発展と共に︑
雑な原価負過者計算から給付単位の精密な区分把撞へと移行しつつあった︒
(註
二﹀
註︑ドイヅの文献において︑司
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ロの名称と概念が始めて現われたのは︑一九OZ五年九月に﹁独逸工業新聞﹂(ロ
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・土酸博士訳︑三七三頁﹀このあたりより︑総体 なる論文であるといわれる︒
経嘗計算が︑後にドイW/独自の管理体系を形成したと考えられる職場原価計算ないし原価場所計算(盟主
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ドイツ計画原価計算の生成発展史考
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かくて︑総休経営計算より原価部門ないし原価場所計算へ︑そうしてこれが︑休系的な計画原価計算への完成に大
きな貢献をなしたものに
真の出発点と考えられるものに﹁部門計算表﹂
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﹁その名称の示す如く︑原価部門について取扱われ︑より正確には
損益計算の核心としての費用部門について取扱われる︒そこで︑人々が︑常に望んでいた労働の管理という問題を︑
これをもって行なわんとする運動が起るのは決して偶然の事ではない︒最初留巴芯ロ
σ︒窓口は︑原価計算によって
いい換えれば生産過程を通じて次々と処置される複雑な労働段階に分解する課題をもって 一九一三年以来よく知られ︑また拘束力ある経営管理ならびに原価計算の非常なる発展の
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人々は︑操業度が変化した場合︑あるいは外部からの購買価格の変動が目にみえてはっき
りしている時︑かかる条件の下での各部門の経済性の状態についての情報を得たいという事を望んでいた︒この様に
みて来る時︑かかる仮定の下での原価量の管理は︑拘束的でなければならない︒:::だが当時においては︑規範との
関係は︑厳密には企図されていなかった︒﹂ いた︒だがこれと同時に︑
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・ロ・﹀と述べているが︑たしかに留め口︒ロσ
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の確立は︑形式的には原価部門ないし原価場所別計算の確立︑実質的には間接費ないし共通費を通じて経営を管理す
るという思考︑ひいては正常原価計算への発展の基盤を確立したといえる︒
註
一九
一
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y経済社会の事情について︑ミヲヘルは︑大略次の如く説明している︒
は︑時間研究が是非必要であり︑労働のEしい管理として時間研究に注意が向けられはしたが︑当時米国で行なわれていたテ
イラー・システムに対してドイyでは非常に悪評であったため︑当時としては︑時間研究などという事は一種の冒険に属して
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H・P・ω・邑)という事を述べている︒かかる事情を勘案する時︑
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