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要約本稿は近代都市計画の先駆として

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73  総 合 都 市 研 究 第58 1996

近代都市計画とパリ都市改造

1.はじめに

2.オスマン没後百年とパリ改造研究 3.伝統的公用収用と1852年のデクレ 4.おわりにーパリ改造と現代

羽 貝 正 美 *

要 約

本稿は近代都市計画の先駆として19世紀以降の世界の諸都市に様々な影響を及ぼしたパ リ都市改造に素材を求め、その歴史的意義を再考することを課題とする。はじめに、近年 のフランスの都市研究の特質を検討し、その中に、パリ改造研究の新しい視点を探ってみ たい。その上で、パリ改造推進の最も重要な法的手段であった公用収用権限、超過収用、

地帯収用制度に焦点を合わせ、その導入の背景を考察する。具体的には、 1840年代の都市 状況とこれらの実施をめぐる議論を検討し、こうした制度が導入されるに至った多様な要 因を整理したのち、 18523月26日のパリの街路に関するデクレの意義を検討する。最後 にこのデクレの斬新性と限界とに注目し、近代都市計画の先駆としてのパリ改造の歴史的 意味、その二面性を再考する。

.はじめに

1991年は、フランスにおける都市計画行政の展 開を回顧するうえでひとつの節目となる年であっ た。というのも、今日のパリとこれを核とするパ リ首都圏の、都市居住環境の基礎を築いた第一の 主体たる当時のセーヌ県知事、ジョルジュ・ウジェー ヌ・オスマン (Georges‑EugeHaussmann :  18ω‑1891、但しセーヌ県知事としての在任期間 は136月く44歳〉から18701月くω歳〉ま で)が、 18911月11日、パリ 8区のマドレーヌ 寺院に近いボワシィ・ダングラ街(12rue Bois  syd' Anglas)の自宅で81歳の生涯を閉じてから、

*新潟大学法学部

ちょうど1世紀の時が流れたことになるからであ る九オスマンの長逝は、彼がパリ改造のプロセ スとその成果を、官僚としての、その歴々たる自 負心から、と同時に、いささかの弁明の心情をもっ て自ら明らかにしようとした『回想録IJ(Me  moires 1890)3巻の校正に取り掛かっていた 時期のことであり、妻のオクタヴィ(仇taviede  Laharpe:  18071890)の死からわずか18日後の

ことであった。パリ改造の総決算をし、その幕を 自ら引いた後の死であったといってよい。オスマ ンの伝記作者ジャン・デ・カールが指摘するよう 81年のその生涯は、ある意味で、文字どおり 19世紀という 1世紀そのものを象徴するものといっ ても過言ではないであろうヘ

(2)

74  総合都市研究第58 16 では、 19世紀という時代とは、また、その中で

のパリ改造とは、どのようなものであったのだろ うか。また、それは今日の都市計画にとっていか なる意味を有するものであろうか。

本稿は、都市計画行政史上、「近代都市計画の 先駆Jとして位置付けられる第二帝政期のパリ改 造に素材を求め、都市政策におけるその今日的意 義を考察することを課題とする。具体的には、ま ず、オスマン没後百年を節目として、それに前後 して公刊されたフランス都市研究の成果を手がか りに近年の研究動向と特質を整理する。その上で、

パリ改造による都市空間再編の決定的な手法となっ た1852年のデクレに焦点を合わせることによって、

パリ改造のもつ「近代」の意味を再考することを 試みるものである九

2.オスマン没後百年とパリ改造研究

2. 1 改造の概要

まず、パリ改造の成果と時代背景とを概観して おきたい。(帝政初期段階から末期へ、さらに第 三共和政初期にいたるパリの街区と道路網の変化

については、図 1~3 を参照されたい。)

先に言及したとおり、オスマンの生涯と官僚と してのそのキャリアは、まさに19世紀という時代 にぴったりと重なるものであった。

では、 19世紀とはいかなる時代だったのであろ うか。工学や建築といった分野を一瞥しようとす るならば、ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ Jがただちに想起される。産業革命の進展と新 しい技術の開発と応用、鉄やガラスなどの資材を 豊富に用いた新たな建築様式の出現が現実のもの となった時代であった4)。また、政治や経済に視 点を移すならば、社会主義や民主主義、あるいは 自由主義といった、社会の根底を支え、その発展 の方向を左右する価値基準・イデオロギーが、経 済全般の発展が肯定的に捉えられる状況にあって、

厳しく、時には実力行使をもって対峠する時代で あったことに、改めて注目せざるをえない。そし て、都市社会もまた、一方で、こうした資本主義

の進展のなかから生み出された大量の新しい社会 階層、すなわち無数の無産階級と新興ブルジョア 層に正面から向き合い、他方で、治安、住宅、衛 生といった従来にもまして深刻化した都市問題・

資本主義の矛盾を抱えて、大きく変容することを 余儀なくされていた。

皇帝ナポレオンIII世の率いる第二帝政期(1852

1870)のパリ改造の舞台は、まさにこのような不 安定な時代状況そのものに他ならない。そして、

第二帝政という政治体制が自己の権力の正当性の 基盤を形成する上で依拠しなければならなかった のも、この不安定な時代状況そのものであった。

その意味あいにおいて、パリ改造は第二帝政とい う政治体制の存立という政治的課題と不可分であっ たと言わなければならない。

改造の全貌を詳述することは本稿の直接の課題 ではない。しかし、次のような帰結は、改造の規 模と多岐に及ぶその内容について、その概況を把 握するうえで有益であろう。すなわち、実質17 間の帝政期に、およそ笈)()kmにおよぶ新街路が建 設され(パリ市の現在の道路実延長キロ数は約

)()km)、下水道普及率も実質匝離にして、 600 kmに達した。広大なブーローニュの森(約900 ha)、ヴァンセンヌの森 (850ha)の改造、モン ソ一、モンスーリ、ピュット・ショモンの各公園 の整備と数多くの小公園(スクワール)に象徴さ れる都市公園の整備は、総面積にして18ha 超える規模に拡大している。さらに、各区の庁舎 や病院、教会等の公的建築物の建設や歩道、街灯、

屋外記念碑の整備も改造の重要なー側面であった。

住宅については、約3H削の家屋のうち2αmが取 り壊しの対象となったとされるが、新たに建設さ れた家屋も34α氾を超えている。

こうした数値が物語ることは、パリ改造が都市 の社会資本のほぼすべての側面において、無視で きぬ大きな実績を残したということである。 J.P. ルコワンが指摘するように、却年に満たない短期 間のうちに、そして、堅固な意志をもつひとりの 行政官の統率のもとに、ひとつの全体構想に基づ くこれほど徹底した都市改造がなされた都市は、

過去にも現在にも、世界の大都市の中に類例がな

(3)

羽貝:近代都市計画とパリ都市改造 75 

議 l

1854年のパリ(フランス国立図書館所蔵)

(4)

76  総合都市研究第58 16

品 弘

I l 

園 3 1871年のパり(フランス国立図書館所蔵)

5)。この指摘をさらに補う必要があるとすれば、

それは第一に、パリ改造が同時代のフランスの地 方都市の再開発に多大な影響を及ぼしたというこ とにとどまらず、その後のパリおよびパリ首都閣 の発展の方向を決定づけたということ、第二に、

19世紀後半以降の欧米の主要都市の都市形成にも 様々な影響を及ぼしたという看過できない事実で あろう。

2.2  従来のパリ改造研究

さて、このような、いわば歴史的遺産を後世に 残すこととなったパリ改造は、従来どのように評 価されてきたのであろうか。まずこれまでの捉え 方の特質をみておきたい。

この1世紀の問、オスマン彼自身と彼がパリと いう都市に刻んだ都市改造の刻印に対する評価は、

必ずしも安定したものではなかった。正確にいえ ば、改造に対する評価はけっして一面的なもので はなく、つねに多様な次元においてその諸相を問

題とせざるをえなかったといってよい。例えば、

皇帝の寵愛をうけた野心家であり能更であるセー ヌ県知事オスマンが、皇帝の政治的戦略の実現と いう構想に忠実にこたえつつ自らの都市改造の夢 を強権的に具体化したとの理解は、これまでしば しば示されてきた評価の一例である。そのプロセ スにおいては、都市の労働者、特に下層階級の生 活空間はけっして顧みられることがなく、結果と して階層聞の社会的分離が助長され、社会的緊張 の度が高められたとする。換言すれば、それは、

改造前の都市構造とそこに存在していた都市民衆 の生活実態をある意味で肯定的に見ょうとするも のといえよう。それは同時に、第二帝政・ボナパ ルテイズムの果実としての都市改造を厳しく批判 するものでもあった6)

他方、パリ改造の多様な成果によって初めて

「近代都市」としてのパリが誕生したとの評価も、

比較的早い時期からなされている。この評価は先 に言及した多蚊に及ぶ社会資本整備の実績が、中

(5)

羽貝:近代都市計画とパリ都市改造 77  世の都市秩序を依然としてひきずっていたパリを

根底から覆し、パリがめざましい変貌を遂げ得た ことを重視するものである。前述の視点からすれ ば厳しい批判の対象となる「外科手術的」な改造 をとおして、初めて人間にふさわしい居住環境の 基礎が形成されたのだとする立場である。それは、

パリにおける近代市民社会とその多様な文化もま た、この都市改造を介して成立したとの理解にも 通じる。

これらの評価がそれぞれ、パリ改造の一面を明 らかにしたものであることは事実である。そして、

ひとりの論者の評価のなかに、どちらを重視する かというバランスのとり方の異同はあるにせよ、

これらの相異なる視点が共存していることもしば しば見受けられた九

以上のような、従来のパリ改造研究を前提にし て改めて指摘しなければならないことは、今日に おける問題は、世界の都市行政史上前例のないこ の都市改造を可能なかぎり多面的に把握し、その 全体像を再構築することにあるということであろ う。とすれば、この再構築という作業をすすめる 際の座標軸とはどのようなものであろうか。それ は、オスマンが造形した都市空間とその手法が現 代の都市構造、都市の秩序形成を考える上でいか なる今日的意味を有しているのか、そして、何を 示唆しているのかという問題意識そのものではな いだろうか。それは言い換えれば、パリ改造に表 象される「近代」の意味内容そのものを、それ以 前およびその後の時代との連続の中で捉えなおす ことであり、「近代都市計画」の原点に内在する 意義と、その限界とを劇出することではないだろ うか。

2.3  近時の研究動向

さて、このように都市研究、パリ改造再考の視 点を設定するとすれば、近年の都市研究にはどの ような特質がみとめられるであろうか。オスマン 没後百年の節目の年であった1991年を境として、

その前後、あわせて10年間程の聞に公刊されたい くつかの文献を取りあげて、その共通項を考えて みたい。そこには従来の研究にはない発想と問題

意識を窺い知ることができるように思われる。

第一の特質は、第二帝政期のパリ改造を19世紀、

さらに却世紀の現代まで連綿とつづくフランスの 都市変容の長期の過程のなかに改めて位置付けな おすことによって、その意味を間いなおそうとす る問題意識であるように思われる。それは、現代 の都市政策を再検討しようとの意識と表裏一体の 関係をなすものであって、産業革命以降の工業化・

産業化の過程と都市化の過程との、その一様・単 純ではない相関の具体的な有り様を、長期および 短期のふたつの時期設定によって検証し、都市空 間の変容と再編のメカニズムを明確にせんとする ものである。したがって、当然ながら第二帝政あ るいは第三共和政といった政治史上の時代区分は 分析の指標としては必ずしも有効ではない。

例えば、 GeorgesDubyの監修による全5巻の Histoire de la  France urbaine (~都市フランス

の歴史』、SEUIL社)のシリーズはこうした問題意 識によるものである。特に、第4(1983,副題:

工業の時代の都市一一オスマン的循環)および第 5巻(1985,副題:現代の都市一一都市の成長と 都市生活者の危機)は、このようなアプローチに よる研究の特質をよく示しているように思われる。

その一端は、例えば、次のような歴史認識と研究 姿勢に瞭然と看取される。すなわち、「トニー・ガ ルニエ、アンリ・セリエあるいはル・コlレピジェ の時代といった時代が順にあとに続くような、オ スマンの時代くunage d'Haussmann)というも のは存在しない。…存在したのは、今日の都市の 変容、危機あるいは空間編成の手法の中まで生き 延びたオスマニザシオンくl'haussmannisa tion) 

という現象であったJとし、このひとつの現象、

「グローバルな歴史的レアリテ」を、地理と経済、

イデオロギーと芸術、あるいは社会といった様々 なコンテクストの中で分析することが求められる とする姿勢である。そして、この姿勢から自然に、

「様々な実態そのものくrealitesdivers)以上に、

ひとつの実態への複眼的な眼差しくregards divers sur une realite unique)が重要である」

とする言葉が導かれる。いずれも歴史家モーリス・

アギュロンの表現である8)

(6)

78  総合都市研究第58 1996

では、「オスマニザシオン」が意味するところ は何か。それはとりもなおさず、工業化、産業化 という時代の要請に応えるためにとられる多様な 手段の総称であり、その結果として生み出された 都市の形態に対する呼称といってよい。さらに立 ち入ってみれば、それは工業社会・産業社会にお ける技術の絶対的優位と合理主義を是認する価値 観、それらを信奉する技師、彼らの思考と価値観 を共有し、時には自らその先頭に立つ官僚、そう

した専門家集団の手になる都市改造計画、その計 画を実現するための様々な法的、行政的手法、都 市建設への産業資本、金融資本の参加、これら一 切を包含した概念にほかならない。

先の問題認識に立ち返るならば、そこでは、ま さにこれらの要素を条件とするひとつの都市化の プロセスが、 19世紀後半以降、少なくとも今世紀 の中葉まで、フランスの都市を支配し続けた、と いう把握の仕方が可能となるのである。

いかなる都市であれ、都市という有機体は、あ る特定の時代の刻印を深く刻みながらも、けっし てその中に自己完結することなく、常に変化しな がら次の時代に続いていく。であるならば、こう

した歴史観やアプローチは、都市の動態分析にお そらく不可欠のものであろう。言い換えるならば、

それらは、長期のタイムスパンのなかで何が都市 の秩序と形態を決定づけた本質的条件であったの かという聞いに対しても、また、都市政策におけ る連続性と断絶という論点に対しても、より実態 に即した解答を導きだす拠り所となるに違いない。

さて、概略以上のような長期の視点からの、ま た現代の都市政策との連闘を意識した視点、を立脚 点とする都市研究・パリ改造研究は、この他にも 多々公刊されている。しかし、ここでは若干の補 足にとどめておきたい。例えば、ジャクリーヌ・

ボォジュウ・ガルニエのParis:Hasard ou Pre destination? (~パリ:偶然か宿命か~ 1993. 

これは、 Hachette社から出版されているNouvelle stoirede Parisのシリーズの最新刊にあたる) がある。著者はフランス地理学の専門家のひとり であり、本書の考察も、主として20世紀、特に第 二次世界大戦後のフランスおよびパリの都市計画

の推移と都市そのものの変容を中心に進められて はいる。しかしながら、「過去の遺産J(2章) と題する1章をもうけ、その中で第二帝政期のパ リ改造について総括している点が興味深い。パリ の都市生活のあらゆる側面が改造の対象となった ことを踏まえたうえで、 18印年に実現する当時の パリ郊外11市町村のパリ市への合併と20区への市 域の再編、これによって拡大した市域全体の統一 的な道路計画の実現、幾何学性と規則性をもった 街並みの形成、中心部を貫く幹線道路の完成によ るパリの心臓部たるシテ島の中心性の回復、「真 の緑地政策」と呼ぶにふさわしいオープンスペー スの確保等、これらを介して文字どおり新しい都 市が「造形」された (scu1pte)ことを重視して いる。それらはいずれも今日のパリの基礎として 今世紀に引き継がれたものであった9)

最後に、パリ改造そのものに焦点を合わせた総 括的な最近の研究として、パトリス・ドゥ・モン カン、クリスチャン・マウによる共著、LeParis  du Baron HaussmannParissous 1e  Second  Empire) (~オスマン男爵のパリ~ 1991)に言及

しておきたい。本書はオスマンの『回想録』第3 巻の叙述のスタイルにならって、改造計画、街路 網、緑地、上下水道など、パリ改造の全容を回顧 したものである。厳密にいえば著者はいずれもア カデミズムの世界に属する歴史家ではなく、資料 的にも『回想録』および先行業績に多くを負って いるものではある。しかしながら、現代のパリと イル・ドゥ・フランス圏の都市生活が、他に類例 のないこの都市改造によって生み出された基本的 な生活の諸条件を前提としてはじめて成り立って いるとの認識を示している点に注目したい。パリ 改造は、著者にとって、今日の大都市とその郊外 に生起する様々な都市問題を打開するための、あ るいは、大都市郊外に生ずる人口動態の変容を考 察するための示唆を与えてくれる貴重な素材とし て捉えられている10)

こうした認識は先に取り挙げた作品と同様、パ リ改造をトータルに、長期のタイムスパンの中で 再検討しようとする試みのひとつと見ることがで きる。都市(圏)の変容を長期の連続した過程と

(7)

羽貝:近代都市計画とパリ都市改造 79  して捉えたうえで、その連続した過程のなかでパ

リ改造がどのように位置付けられ、評価されうる のか、それが今日の都市の在り様に何を残したの か、これらの研究はまさにこの点を明らかにしよ うとしているものと理解すべきであろう。

さて、近年の都市研究、とくにオスマンのパリ 改造に始まる19世紀以降のドラマチックな都市改 造と、総体としての都市居住環境の大きな変容に 焦点を合わせた研究の特質は、概略以上のごとく である。指摘するまでもなく、それは都市研究の 一端にすぎない。研究動向の細部にさらに分け入っ て、個々の研究の問題関心と対象とを問題とすれ ば、ここで取りあげた研究以外にも数々の労作が 世に問われていることがただちに確認できる11) 都市居住環境のなかでも、とりわけ住宅およびそ の付属設備、上下水道等の物理的条件の改善に着 目し、都市の生活実態、生活様式を中心に論じた 研究、また、建築物と街路との関係を律する新し い空間秩序に現代の都市構造の原型を求めようと する研究などはその一例と言えよう。

しかしながら、近時の都市研究に認められるこ のような研究の射程の拡大、研究対象と視点の多 様性も、巨視的に見るならば、 19世紀を起点とす る近代都市計画の全体像を長期的視点から再構築 する共同作業として、共通の枠組みのなかに捉え ることが可能ではないだろうか。先に、ここで取 りあげた研究の一例が全体の一端であると指摘し た。しかし、一端ではあるが、そこに見られる特 質は、研究動向全体に通底するものと見倣すこと ができょう。前述のように、従来のパリ改造研究 においても、複眼的な視点と、何を問題とすべき かというレベルでの重層性は確認することができ た。しかし、例えば、パリ改造のなかの「近代」

という指摘を例にとるならば、それ自体が多面的 な「近代」概念の多様性とそれを裏づけるための 批判的検証は必ずしも十分ではなかった。いわば、

その多様性を統合する視点が欠落していたといえ るのではないか。近年の都市研究、パリ改造研究 が示唆する最大のポイントは、この統合する視点

究に示唆を受けつつ、パリ改造そのものに立ち返 1852年のデクレに論点を絞って、近代都市計 画の起点としてのその意味を、いま少し立ち入っ て考察したい。

3.伝統的公用収用と1852年のデクレ

3. 1  1852326日のデクレ

パリ改造を介して具体的な形をともなって現出 するにいたった都市景観は、大胆になることを恐 れずに言えば、 1852年のデクレによって拡大され た公用収用権限の行使の痕跡そのものと言ってよ い。それほどに、 1852326日の「パリの街路 に関するデクレJ(Decret relatif aux rues de  Paris du 26 mars 1852 :全10条)が、パリ改造 の都市計画手法、行政手法としてはたした役割は 大きい。それはまた、所有権あるいは収用という 概念のもつ意味内容を大きく塗り替える決定的な デクレでもあった。最も注目すべき点は次の第2 条の三節である。特記すべき条文(第1節から第

3節まで)を以下に示したい。

(1節)パリの街路の拡幅、線路変更、ある いは新設を目的とする全土地収用計画において、

計画実施後の残地が、衛生的家屋を建設するに十 分な面積あるいは形状をもたないと行政当局が判 断した場合には、当局は、関係不動産の全体を収 用計画に含める権限を有する。

(2節)同様に、予定街路の建築線の外側に 位置する不動産について、その取得が、不要と判 断された旧来の公道の除去に必要である場合には、

当局はこれを収用計画に含めることができる。

(3節)建築線外において取得され、且つ衛 生的建築物に不適切な地片は、隣接不動産に、示 談によって、あるいは1807916日の法律第53 条にもとづくこの隣接不動産の収用によって統合

されるロ)。

の重要性を再認識している点にある。 これらの規定について特筆すべき点を以下に整 以下の部分では、このようなフランスの都市研 理しておきたい。まず第一に、これらは残地のと

(8)

総合都市研究第58 16 り扱いをめぐる従来の地主と行政との関係を根底

から覆す、いわば革命的な規定であった。すなわ ち、収用という権力作用にもとづく強制的な不動 産の取得行為の対象は、従来、当該公的事業に必 要なものに厳しく限定されており、そのことによっ て私的所有権の保護がはかられてきた。その結果、

かりに事業予定地を超える不動産の収用がありう るとすれば、その唯一の可能性は、行政側が買い 上げてくれるように地主が自ら行政に対して意志 表示した場合だけであった。この点は、隣接不動 産の所有者に、収用後の残地の買受権を認めてい る18079月16日の法律(正式な名称は「沼地の 干拓に関する法律J)第53条が明らかにするとこ ろである。この規定によれば、新たな建築線の指 定の余波をうけ、偶然にも公道に接する残地に隣 接して土地を所有するかたちとなった隣接地主は、

この残地をしかるべき代価と交換に取得し、まさ に前面道路に進みでる選択を保証されていたので ある。そして、その地主が当該残地を不要とする 意志を明らかにしたときにはじめて、今度は行政 が、この地主の不動産全体を収用することを認め られたのであった。こうした買受権は、 18337 7日の公用収用法第印条、ならびにこれを踏襲

した184153日の公用収用法第60条において も、同様に認められている。すなわち、公益事由 による事業の実施という目的をもって収用された 土地であっても、それが当該目的のために利用さ れない場合、旧所有者はこれを買受る請求をなす ことが認められているのである。第1節、第3 に明らかなように、 1852年のデクレは、こうした 地主への配慮を一切否定する一方、超過収用およ び地帯収用を全面的に肯定したのである13)

第二に注目すべきことは、地主との関係におい て絶対的に優位な立場を保証されることとなった 行政に、事実上大幅な行政裁量を委ねていること である。例えば、収用の対象となりうる残地の面 積と形状に関して、デクレは完全に沈黙している。

同様に、衛生的か否かを峻別する基準についても、

デクレには全く言及がない。第2節にいう「不必 要な旧街路」の判断についても同様である。これ

らはいずれも行政の裁量事項であった14)

このように大きく拡張された公用収用権限は、

極論すれば街区全体の、都市全体の収用の可能性 さえ内在させたものであり、その無制限の公権力 行使を危倶する批判も当初からなされている。む ろん、建築物あるいは一体としての街区の衛生の 確保という明確な目的を必須要件とする公用収用 が、行政の全面的なフリーハンドによってなされ たと理解するには無理がある。とはいえ、収用手 続きのみを問題とした、少なくとも帝政前半期の 司法による行政統制が実質的に機能していない状 況を前提とすれば、パリ市当局、セーヌ県知事オ スマンらに委ねられた行政裁量は極めて大きなも のであったと見るべきであろう。

本稿はこうした裁量の基礎にある都市の公的制 御の新しい発想に注目する。ミシェル・ラカーヴ が注意を喚起しているように、 19世紀中葉は、私 的所有権の保護という課題を大前提とする公用収 用法から、一般利益を優先させるための都市計画 法へと、基本的な発想が転換していく時期にほか ならない。では、その発想の転換の背後にどのよ うな政治的・経済的・社会的背景が存在したのか、

新しい発想と論理が求めているものは何か。これ らの再検討こそパリ改造それ自体の把握とその全 体像の再構築に不可欠の作業ではないだろうか。

以下、さらにこの点を検討することとしたい。

3. 2 19世紀前半の都市状況

さて、こうしたなかば強引とも見える1852年デ クレの規定が生まれるにいたった背景はどのよう

なものであろうか。 7 月王政(l830~1倒的から、

1848年の二月革命を経て第二共和政にいたる、第 二帝政成立前の都市状況を概観しておこう。この 時期の最大の都市問題を摘記すれば、それは第一 に、劣悪な都市の居住環境、すなわち不衛生住宅 とそれらの狭間を無秩序に走る街路とからなる非 衛生的な秩序無き街区の改善そのものである。第 二に、そうした街区を温床として、常にそこに潜 在する、都市全体にとっての社会不安・社会的脅 威、すなわち治安の悪化と都市暴動の種子をいか に除去するかということであった。こうした都市 の実態は、首都パリだけにとどまらず、リール、

(9)

羽貝:近代都市計画とパリ都市改造 81 

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4 1837年のパリ(フランス国立図書館所蔵) lレーアン、リヨン、マルセイユなど地方主要都市

においても同様に認められた。(1830年代のパリ の街区の密集の実態については、図4を参照され たい。)

こうした事態を惹起せしめた要因あるいは遠因 は様々に指摘することが可能であろう。住宅それ 自体の老朽化、下層階級の居住環境に対する家主 の無関心、その多くは無産階級である都市労働者 彼ら自身の生活様式など、貧富の懸隔の甚だしい 社会に内在する多様な要因が複合的に折り重なっ ている。実際、公道に面し、その利点によってい くばくかの家賃収入を期待することのできた家屋 の持ち主でさえ、老朽化した住宅については屋根 の修理以外には全く投資せず、大半の家主は、家 賃をとりたてる時以外には、そこに足を踏み入れ ることはけっしてなかった、との報告さえなされ ている。彼らはそれほどに、労働者階級の居住環 境には無関心だったのである。

しかしながら、これらの要因は、それを可能に

させたさらに根本の要因があるという意味合いに おいて、副次的要因と見るべきであろう。最も本 質的・直接的な要因は何か、と問うならば、それ は、衛生を無視した旧来からの街区の構造、秩序 なき都市の構造を温存させてきた不動産所有者と 行政当局との関係、すなわち私的所有権を厳格に 尊重した公用収用制度とこれに象徴される行政法 秩序にほかならない。収用後の残地の整理・統合 がなされぬまま、地主によって奥行のない狭小な 残地に住宅と呼ぶに値しない建築物が建てられて いく事態を許容する現実は、その当然の帰結であっ

そして、看過できないことは、極めてアンヴィ パレントな次の事態である。すなわち、パリの行 政当局と政府が、 19世紀初頭以来、一方で都市の 居住環境の劣化を懸念する姿勢を、少なくとも表 面上は見せながら、他方で人口と経済の集積を是 とする姿勢を久しくとり続けたことである。その ねらいは、消費物資に対する地方税たる入市税

(10)

82  総合都市研究第58 1996

(オクトロワ)と国税としての地租、営業税等の 税収の増加を実現し、財政を拡大・安定させるこ とにあった。例えば、パリ市議会の議員のひとり、

オギュスタン・シュパリエ(AugustinChevalier)  は、パリ警視庁が許可制をしいていたパリ市内の 工場における蒸気機関導入の許可件数について、

1830年以前に131件にすぎなかったものが、 1849 年には1185件に達する程に急増していることを行 政資料から指摘し、合わせて工場主に対する行政 側の恒常的な保護の実態を批判している15)。シュ パリエによれば、その間に、パリは市中の多くの 個人邸宅が工場に変わり、庭園が失われていくと いう、慨嘆すべき変容をとげたのである。彼はこ の変容を漸次的な「工場都市J(une ville  manu‑

facturiere)化と呼ぴ、富裕な階層をしてしだい にパリを離れてさせていった動因とみている。

3.31840年代の議論

では、このような法的枠組みの制約と行政の姿

勢の下で進行している都市の現実に、いかなる処 方塞が提示されていたのであろうか。議論はすで 7月王政期の1830年代からはじまっている。

パリの急撤な都市化現象をめぐる議論、特に中心 部からの人口の流出現象をてがかりとして、さら に探ってみることとしたい。それはパリ改造を考 察するうえで極めて興味深い。なぜなら、その議 論のなかに、やがて1852年のデクレの思想に連動 していく新しい都市の公的制御という発想の芽生 えを看取することができるからである。(街路の 錯綜する1830年代のパリの中心部の様相について は、図57を参照されたい。)

さて、この問題を考察しようとする時、パリ市 議会の議員のひとりであったジャック・セラファ ン・ランクタン (JacquesSeraphin Lanquetin:  17941870)の存在を忘れるわけにはいかない。

ランクタンは、中心部からの人口の流出とそれに からむ中央市場の移転というふたつの大きな問題 について1830年代末葉から、精力的にこれに取り

5 1836年ごろのパリ(テュイルり庭園、ヴアンドーム広場近辺)

ATLAS GENERAL DE LA VILLE DE PARIS de Th. Jacoubet, 16.(フランス国立図書館所蔵)

(11)

羽貝:近代都市計画とパリ都市改造

6 1836年ごろのパリ(シテ島と左岸)

ATLAS GEr岨:RALDE LA VILLE DE PARIS de Th. Jacoubet, 1836. (フランス国立図書館所蔵)

7 1836年ごろのパリ(中央市場、パレ・口ワイヤル近辺)

ATLAS GENERAL DE LA VILLE DE PARIS de Th. Jacoubet, 1836. (フランス国立図書館所蔵)

(12)

84  総合都市研究第58 16 組み、当時の議論をリードした中心的人物である。

彼はまた、 183911月に人選がなされ、翌年1840 5月に第一回の会合がもたれた、内務大臣、シャ ルル・ドゥ・レムュザ CCharlesde Remusat)  が座長を務める中心部の衰退問題を検討する政府 委員会の一員でもあった。彼は、自己の見解をと りまとめた意見書を数次にわたってパリ市当局に 上書しているが、ここでは1842415日づけの 意見書をてがかりとしたい問。

前述のA・シュパリエの視点とは若干異なって、

ランクタンの状況認識によれば、中心部の人口の 流出と衰退の主たる要因は、パリの中心に位置す る巨大な中央市場の存在と、それを取り巻く狭陸 な街路にひしめく堪え難い雑踏、交通渋滞、その 中で孤立する地区、いわば飽和状態に近い街区の 実態にあった。それが富裕階層あるいは卸売り商 をして中心部に見切りをつけさせ、地区間の居住 環境の格差と住民の不満を拡大し、ひいてはパリ

という都市全体の衛生の秩序、その将来を危うく しているとの認識である。したがって、彼にとっ て中央市場の移転は、事態の打開に不可欠の条件 だったのである。しかし、パリ市道路局の意向は、

これを移転することなくさらに拡張し、その上で 周辺を規制するというものであった。彼は幾度と なく、行政の無気力と、財政悪化への懸念から現 状維持に甘んずるその姿勢を批判している。

我々はこのような見解の対立のなかで示された ランクタンの構想のいかなる点に注目すべきであ ろうか。第一点は、ランクタンが、公益の実現を 根本とする、パリの将来を展望した総合的・全体 的な道路計画 (unplan d'ensemble)の重要性を 認識し、その早急な検討と策定を当局に求めてい ることである。これは当初からの彼の主張でもあ る。そのうえで、中心部の交通の完全な麻痩状態 を抜本的に改革するべく行政当局がこれに全力を 投入することは、「もはや単に必要だという段階 をすぎて、喫緊・不可避の課題」であると指摘し ている17)。当局はこの要請にこたえて、いくつか の計画案を作成することとなる。

第二のポイントは、中心部の再生を最優先課題 とし、これへの取り組みの端緒として、中心部を

東西に貫通する幹線道路の建設に着手することの 妥当性を強調していることである18)。この幹線道 路計画はすでに行政側から提示されていたもので はあるが、東部のフォーブール・サン・タントワー ヌおよびサン・タントワーヌの二本の街路を延長 することによって、パスティーユ広場からルーブ ルまで一気に結び、そこでリヴォリ街、サントノ

レ街と連結せんとする計画であった。これが、雑 踏を極めた当時の密集地区たる 4、 6、 7区を貫 通し、これにいわば風穴をあける効果をもつこと、

同時に、この地区を放棄し、証券取引所(プルス)、

ショセ・ダンタン方面へと移動しつつある商人た ちの流れに歯止めをかけ、中心部の再生に大きく 貢献すると期待されること、以上が彼の判断であっ た。そして、これらのふたつの目的の実現のため には中央市場の移転が不可欠だった19)

第三に注目されることは、この幹線道路の実現 にあたって、十分な資本力をもっ実業家が、道路 に必要な不動産だけにとどまらず、一定の奥行を もっ街路に沿った不動産をすべて、事前に取得す る必要があることを、やはり計画街路のひとつで あるルイ・フィリップ街の建設についての持論を 想起するかたちで主張していることである3))。彼 によれば、街路の実現に要する莫大な経費を縮小 するには、新街路にそって建設される豪華な建築 物が得るであろう増価分への投機に期待する以外 に方法はない。しかし、この投機が有利なものと なり、企業家とその資本を集めるには、富裕な階 層がこの街路に建つ建物に住むということが確実 でなければならなかった。彼の主張を敷倍すれば、

中心部の再生の決め手は、幹線道路の建設とその 周辺一帯の再開発の同時進行であり、そのために は、「道路に必要な不動産だけでなく、一定の奥 行をもっ街路に沿った不動産をすべて、事前に取 得する」超過収用が必須の条件であった。

但し、超過収用・地帯収用の必要性と実現可能 性を、彼が、またパリ市の行政当局がどのように 見ていたか、という点については、若干注意を要 する。行政当局はすでに現行収用法制の限界・欠 点を十分に認識しており、「街路の貫通に影響を 受ける不動産の全体を取得することを法律によっ

図 1 8 5 4 年のパリ(フランス国立図書館所蔵)
図 4 1 8 3 7 年のパリ(フランス国立図書館所蔵) l レーアン、リヨン、マルセイユなど地方主要都市 においても同様に認められた。(1 8 3 0 年代のパリ の街区の密集の実態については、図 4 を参照され たい。) こうした事態を惹起せしめた要因あるいは遠因 は様々に指摘することが可能であろう。住宅それ 自体の老朽化、下層階級の居住環境に対する家主 の無関心、その多くは無産階級である都市労働者 彼ら自身の生活様式など、貧富の懸隔の甚だしい 社会に内在する多様な要因が複合的に折り重なっ ている。実
図 7 1 8 3 6 年ごろのパリ(中央市場、パレ・口ワイヤル近辺)

参照

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