長崎外人居留地に於ける二割金制について
長崎外人居留地に於ける
二割金制について
菱谷武
平
︵昭和三七︑一︑三一受理︶
幕末︑開国に伴って開港︑開市の各地に外人居留地の出現を見ると当
該居留地域の管治の為め逐次﹁ミュニシ︒ハル・カウγシル﹂︵罎q巳︒首9
008︒一一︶と称する自治制の成立を見るに至るが︑その自治都市管理の
財政面に於いて︑その一部負担として日本に差渡すべき借地料の二割を
供出する制度が成り立って居り︑此を一般に﹁二割金制﹂と呼んで居
る︒此の二割金制について︑パスケ・スミス︵H︶90D閃Φ QQbP一叶げ︶は其著書 註 ︵文久元年三月︶の中で︑長崎における外人居留地を論じ︑開港の翌一八六一年四月日本
で最初の﹁ミュニシ︒ハル・カウγシル﹂の成立を述べて
此のヲ含口○首巴oQ団ω富日﹂は列強が上海租界に於いて実施したものを
母型として移し植えたもので︑最初の数年聞︑自治徴収の課税を以て
極めて順調に行使されたが︑時代の推移︑長崎貿易の衰退に伴い居佳 外人の数が減り︑その自治運営が困難となったため﹁横浜と同様
に﹂借地料の二割を割当てる事に依って︑日本政府の責任に肩代りす
るに至った︒
と記述して居る︒
此の彼の著書の記述は外交官としての体験を通して自国︵英国︶の外
交史料を駆使して居るので︑居留地研究上極めて貴重なものであるが︑ 一六
一面自国中心の記述に偏すること又頂点の乗る底辺の経過の記述に乏し
くて皮相的で十分意を尽せない点がある︒其記述の中で﹁横浜と同様
に﹂とある横浜については
此処︑横浜に於いては﹁○げぢΦω①日器ρ畠も︒詳︒・団ω富目﹂が︑領事団
に各国居留民の協力を得る力が無かったために失敗に終って居る︒
と註釈を加えて居るが︑其具体的内容には殆んど触れて居ない︒恐らく
此は上海租界に於ける﹁土地章程﹂に準じて︑長崎に於いては﹁地所規
則﹂が合法的に成立したのに対し横浜に於いては﹁地所規則﹂の合法的
成立を見なかった事実を意味するものであろう︒
居留地の﹁ミュニシ.ハル・カウγシル﹂の成立が﹁地所規則﹂の規定
に基づいて発足して居る以上︑そこから派生する財政面の﹁二割金制﹂
は形の上で﹁横浜同様﹂でも当然︑横浜と長崎に於いて性格的に相異の
ある響き事は自明であり︑又長崎に於ける二割金制成立の時期について
も﹁横浜同様﹂の記述に依れば横浜に後れて成立したと解され誓うが其
時期は莫然として居る︒従って私は此処にパスケ・スミスの前述の記述
を出発点として︑横浜と比較︑対照しながら長崎居留地に於ける二割金
制の性格と其成立︑崩壊の経緯を明らかにし度い︒
註b9ω閃①ωヨ淳げ︑.≦.①ω富讐︼W霞げp匡碧ω一昌冒℃碧9昌α悶oHBoω9貯
日○面目σqρ堵ρU9団ω二
二
パスケ・スミスは﹁横浜の例にならって﹂と長崎居留地に於ける二割
金制を規定して居るが︑其基準となる横浜居留地の場合は極めて明瞭に示されて居る︒即ち元治元年十二月に彼我の間に取極められた﹁横浜居
留地覚書﹂がそれであり︑其覚書の第=一条に
道路︑下水等外国人借地人の負担たらしめ︑借地料の内二割を提供し
て︑居留地資金とする︒
と規定されて居る︒此の﹁覚書﹂は一般に﹁第二横浜地所規則﹂と呼ば ︵万延元年七月︶ 註一れて居り︑最初の一八六〇年八月の﹁神奈川地所規則﹂が彼我の調印が
得られず而も領事団の歩調も合わぬま︑に︑一方的に︑極めて微温的に
居留地内に実施されつ︑あったものが︑漸く軌道に乗って︑彼我の調印
に依って合法的に成立したものである︒
従って横浜に於ける二割金制は極めてハッキリして居り︑其期間も短
期間に終った様であるが︑其淵源︑波及には可成り重大なものがある︒
凡そ規則︑規定の条文には其条文の成立を以て其条丈の内容の事実が成
立したと必しも断定出来ない面がある︒中には実現されず︑野営と化し
たものもあり︑定められた時期を遙かに経過して実現を見る場合もあるし︑三八と逆に既成事実が数年間存在して始めて条丈化される場合もあ ︵万延元年八月︶る︒一八六〇年九月に彼我調印を見た﹁長崎地所規則﹂には第二条に︑
﹁借地人は真の居住者であり︑地券発行後六ヵ月以内に家建つべし﹂と規定して︑外国人の投機的土地獲得を防止して居るが︑事実は塞丈に終
って居る事は前者の例であり︑此処に提示する﹁横浜居留地覚書﹂に規
定する二割金制の条文化は正に後者め範例と見て良い︒
横浜居留地に於ける自治体制は長崎のそれより遙かに後れて結成され
て居る︒長崎多人居留地の場合は合法的な﹁長崎地所規則﹂の規定に基
づいて︑居留外人の投入と殆んど同時的に︑ ﹁ミュニシ.ハル・カウγシ 註ニル﹂が結成され︑東洋に於ける﹁目○α①一〇霧Φ﹂を夢見て︑英領事を中心
に官民一致して団結を固め︑それが領事団の背後勢力を為して有力に動
いて居るのに対し︑横浜に於いては当初︑勘甚の﹁神奈川地所規則﹂が
彼我の間に調印のはこびに至らず︑各国居留民間乃至官民間にも意志の ︵文久二年三月疎通を欠いで団結の熱意の盛り上りは極めて低かった︒一八六二年四月士冒︶一日︑横浜居留地に於ける借地人集会が招集され﹁ミュニシパル・カウ
γシル﹂が結成されたと言われるが︑それは一貫した恒久的のものでは
長崎外人居留地に於ける﹁二割金制﹂について なく︑臨時的のもので其財政的裏付けに欠けて居たので︑パスケ・スミスは此を以て横浜居留地に於ける﹁ミュニシパル・カウンシル﹂の雨芽 七三とは見るが︑その発足の時期とは見て居ない︒ 然し横浜の特殊事情︑特に文久の政変を契機とする穣夷派の外人迫害事件が頻発し︑居留外人の増加を見ると漸く居留外人の団結意識も高まり︑強固な自治行政権の行使をはばむ隆路として其財政面の資金の捻出 ︵一八六二年︶ ︵一八六四年︶に関心が払われ始め︑文久二年の後半より元治元年に至る間に此れが居留民間に大きな問題として取り上げられ︑日本側に支払う地代の内から何心かをさいて︑此を居留地自治資金に当る事を正式に日本側へ承認を求め様うとする機運が高まって来て居る︒而も事実︑仏︑葡︑普︑一等は ︵一八六二年︶地代全額を日本側に支払つたに対し︑英︑米は丈久二年から︑蘭は翌
(一
ェ六三年︶丈久三年から其一割五分乃至二割を差引いて地代を我国に支払って﹁既
成事実﹂の撰を打ち込んで居る︒従って此の地代支払の方式が我国でも 註四問題となり﹁各国不同有之候ハ不都合﹂と再三再四談判を重ねたが︑結
極我国としては差引額を強要すれば逆に彼方の工事支出額を莫大に要求
される事必至と見て︑その妥協が﹁横浜居留地覚書﹂の中に居留国民全
体共通の二割金制として条文化されたものである︒
此覚書の二割金制の成立に主導的役割を演じたのが横浜駐在の英領事
ウ・γチエスター︵壽.鍾3である・彼竺︵薙面壁罷♂日・ 註駐英公使オールコック︵口●と︒︒oド︶に書翰を送り︑横浜に於ける﹁強力
な居留地自治体制の確立﹂を法制化し順うとして︑
長崎地所規則は領事と奉行との︑承認を得て居り︑且公使︑老中との承
認も得て居て法規として制定されたが︑横浜に於いては正式の承認を
経て居ず︑従って︑それは外国借地人に対し拘束力が無いと同時に日
本政府がそれを守らねばならない様な特別な義務もない︑
一七
長崎外人居留地に於ける﹁二割金制﹂について
と論じて︑横浜に於いて﹁新しい規則﹂の公的な締結の必要を強調した
上で︑日本側に納入する地代の内高割かを還元︑払戻して﹁ミュニシ.ハ
ル・カウンシル﹂に手交し︑資金難に悩み弱体の横浜居留地自治体に︑
﹁テコ入れ﹂すべきを献策して居り︑其構想が五条︑一二条に盛り込ま
れて﹁横浜居留地覚書﹂は成立して居る︒
此覚書に依って横浜居留地に於ける二割金制は確立し︑此に依って外
国人団体の強固な統一的活動をはばんて居た運営資金の欠如も安定した
根拠を見出し︑此処に自治機関の強力な再組織が活濃に行われる事とな
り︑地代二割の還元を受けると共に運営資金として免許料︵=O①昌Q∩Φ︶科 ︵一八六四年︶料︵︷ヨΦ︶の自治徴収が領事団に依って認められて居る︒元治元年一一
月一二日︑借地人集会が招集され︑今後︑居留地の市政は﹁ミュニシ.ハ ︵一八六五年︶ル・カウγシル﹂に依って運営さる可き事が決定︑翌慶応元年一月の借
地人集会︑次いで同年四月差︑同委員会に委任される諸権限について領
事団との諒解が成立して始めて﹁ミュニシ.ハル・カウγシル﹂成立の根
拠が明確にされた︒︒ハスケ・スミスは二時を以て横浜居留地に於ける︑
﹁ミュニシ.ハル・カウγシル﹂の発足と見て居るが︑それは正に﹁横浜
居留地覚書﹂の成立と時期を同じくすると見て良く︑其の委員選出法や
組織︑運営等に就いて︑長崎居留地の場合と可成り違って居る様であ註罷
る︒ 勿論︑此覚書の規定に基づく借地料の二割の還元が直ちに居留地自治
運営費の全額を賄う性質のものではない︒当時開設されて居た居留地借
地人集細め議に基づいて﹁ミュニシ.ハル・カウγシル﹂が結成され︑借
地人集会の決議につ基いて︑居留地内の一切の飲食店︑旅館に対する免許料︑一軒に付月額一二弗宛と規定に反する者への科料を合せて年間約
四千弗の自治徴収を見込んで居り︑それに地代の二割金還元︑年間六千
弗を合せた一万弗が横浜居留地の自治歳入予算として予定されて居り︑ 一八
当然︑其歳出の使途の中に覚書の規定に基づいて道路︑濤降等土地に附
帯すべき構築︑補修費が含まれて居る事は言う迄も無い︒
然し︑当時居留地の自治費の徴収︑芯予算の使途については借地人集
会の議を経て︑ ﹁ミュニシパル・カウγシル﹂が運営する規定となって
居るので︑日本側から直接に︑土地を借用して居ない所謂﹁マタ借り﹂
︵ω呂−一9げ冒σq︶の居留外人達には借地人集会に於ける発言権がなく︑自
つからそうした人汝の﹁居留地自治﹂に対する協力が得られず︑而も時
代の進展に伴って居留地自治運営費の使途も広汎︑雑多になって来ると
居留地自治体も自つから財政面に於いて困難を生じて来︑財政不足を理
由として横浜に於ける﹁居留地自治の廃止﹂を明治新政府の発足直前に
︵一八六七年一二月︶宣言するに至って居る︒慶応三年一一月に締結された﹁横浜外国人居留
地取締規則﹂は居留地自治制廃止に伴う本邦側が居留地内に於ける衛生
秩序︑公安の為めに居留地事務を監理︑処分する憎めの規則であり︑此
に依って横浜居留地に於ける居留外人の支払う借地料は今後全額日本政
府に納入する事になって︑横浜に於ける二割金制は解消して居る︒
註一﹁神奈川地所規則﹂に関しては従来全く閑却され︑その存在すら疑われて居
た︒即ち万延元年︵一八六〇︶の此規則の原文は従来殆んど見られず唯僅か
に一〇ω①℃げ出Φoρ日げ①頃ρ罎ρ江くoO︷ρH9℃ρβ①ωρ国α詳Φαげ団﹃ρ旨①ω
鷺目巳oo閃・<o尻障・一︒︒Φα.<o劉一・H・℃や悼望1MαNの内に全文が掲載され
て居るにすぎず其後英国の℃扇び一8菊①︒oaOh甑︒ω保管の英国外務省文書の
マイクロフイルム︵史料編纂所所蔵︶の聞・○・卜︒曾■<o一・お一..娼○ユoh
国9舜αqp≦ρい碧Ω園①αQ巳暮一8︑︑﹂が見られ︑ジョセフ︑ヒコのものと同一
であることが判り此処に﹁神奈川地所規則﹂の存在並びに原文の確証が得ら
れた︒最近横浜市史二巻に﹁神奈川地所規則﹂の訳文が収録されて居るが︑
それは﹁条約彙纂﹂所収の﹁長崎地所規則﹂の邦文と前掲ジョセフ・ピコの
訳書を参照して完成されたものであり︑ ﹁神奈川地所規則﹂と﹁長崎地所規
則﹂とは調印者の異なる点と﹁長崎﹂の場合第=二条が附加されて居るのを
除外すれば同一文言である事が判明した︒此の神奈川地所規則と長崎地所規
則との関係に就いてい拙稿﹁長崎外人居留地に於けるミュニシパル・カウン
シルの最初の決議書﹂を参照され度い︒
註二 一八六一年︵文久元年︶五月十一日発表の長崎外入居留地に於ける寓暮学
o首900自画︒置の..幻︒℃o陣︑︑の最後に次の如く記して其決意を示して居る
︵夢Φ宕ρσq霧ρ匡oQ三℃℃貯σqい一︒︒けρ昌O諺ロ︿①詳一ω2<o一・︶轟..置8昌︒ごω一〇ロ
汁げΦOO二日一暮8げ①σq一Φρく08ρω切⊆葭汁げ︒いpロα菊︒口富吋︒D梓げ9けρ口団
旨㊤ヰ①H︒︒8詣〇三昌σqけげΦ≦o一h鍵oOhげケ①Oo日ヨ5巳鈴団毒一=二巴一江日︒
げ9くΦ什げΦ貯Φ錠昌Φω叶暮8⇔江OPppαoo巳δΦβ二団器ζo賢什げΦ9︒︒︒・一ωけρロ︒①
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娼8σQHΦ︒︒ω8≦霞α層Φ口α角一δσQ仲げ①ω①ヰ一⑦ヨ︒口けρ嵐︒αΦ一〇昌Φ
拙稿﹁長崎居留地に於けるミュニシパル・カウンシルの最初の決議書﹂参照
註三弼霧犀① ωヨ一〇げ ..名Φω審ヨ ヒd鎚げ霞ご昌ω 営匂○℃ρ口 ㊤旨伽 団︒目目○器ヨ
目︒屏qσq9≦ρ∪9図ω
註四 ﹁横浜外国人居留地地区一件﹂
註五閏●○●N①ド<oピお︒を5︒げ①の8吋︑︒・U①ωやZO.N①︵蜜目●♂<ぎ︒げ①︑叶興8
QD井切・︾一〇〇〇醤L≦ρ踊・δ一︒︒①轟︶
註六拙稿﹁長崎居留地に於けるミュニシパル・カウンシルの最初の決議﹂参照︑
尚委員選出法について長崎の場合終始借地人の借地面積の多寡に依って投票
数が国運されて.居るが横浜の場合いそうした特権は認められて居ない︒
三
此の横浜の場合に対して︑長崎に於ける二割金制に就いては﹁永代借
地制度解消記念号﹂の中で︑此二割金制の問題に触れて
明治維新当時一手に外国貿易の利を壇にした長崎港は︑慧後取引が横
浜︑神戸等に移動したので漸次衰微し︑居留地に居住するもの次第に
減少した︒明治八・九年頃より外国人の支払つた地料の二割を居留地
の土木工事に充つる為め風力年間立替えさせた︒
長崎外人居留地に於ける﹁二割金制﹂について と論じて居るが︑此は明治二二年二月二〇日付の﹁長崎居留地地主総代の陳情書﹂の中に見えて居る︒ 幕末︑慶応年間より長崎会所の施設予算乏しく︑三縄年間借地料の二 割を地主より公返した︒とある事実が混乱して居り︑若干の誤解もある様である︒確かに︑明治八・九年と言う年は国内的に﹁二割金制﹂が表面の問題となり︑現場の長崎居留地の民有地主が連名を以て﹁民有居留地地唄二一ルニ割金免除願﹂を当局に提出し始めるが︑同時に▽︿長崎居留地に於ける﹁ミュニシ 註一.ハル・カウγシル﹂が自壊作用を起して崩壊する時期に当って居るから本来居留地自治制と結んで論ぜらる浅き二割金制の発祥については時元に狂いがあると見て良い︒ 明治八月七月の﹁夫米︑夫銀賞洪水︑修路の為め従前収入致来絹物及び類似之分共総テ桐廃スベシ﹂の太政官布告に依って︑居留地民有地主が結束して︑年来の不満︑苦情をブチまけて︑夫銀の二割金免除を請願したのは翌九年四月の事である︒此の最初の請願の主旨は要約するとe 民有地の地代も一応︑長崎会所に納入されるが︑御下渡の都度その 二割を上納することに文久三年以来なって居る事◎ 其際︑居留地係最高責任者︑福井金平は一二割金制上納は恒久的の ものではなく︑居留地新開の普請諸費に当てるもので︑普請成就後夫 汝割戻す﹁公借﹂である事を公約して居る事日 此二割金制は明治八年の太政官布告の﹁類似三分﹂に該当︑居留地 新開の普請も成就︑居留地自治の廃止に伴い︑四民共通の場所の修理 を地主のみが負担するのは不法である事の三点に絞られる様である︒此面割金制免除請願を起点として︑居留地民有地主の免除請願︑督促︑割戻申請は政府の方針︑対策が確立しないま︑に︑毎年︑殆んど毎月の如く継続されて居り︑それは明治二二年秋居留地民有地の買収に依って抜本的解決を見る迄︑二割金制の慣行は続
一九
長崎外人居留地に於ける﹁二割金制﹂について
いたものと思われる︒ 此の二割金免除の請願一件の記録は﹁民有居留地処分一件﹂と題して 註二県外事課の記録に残って居るが︑此の最初の四月の請願に対する当局の
指令起案文は同年十月に決裁されて居り︑其前書の中に
地底預りタル上弐割引除キ法御立謹選義二電球︑初発外国官吏応接ノ
時分道路︑橋渠修築費ヲ見込︑上︑中︑下等ノ料額相論罷在︑嘗テ記
録二瞥見致シ
とあり︑居留地の借地料を決定するに際し︑其中に工事費も考慮が払わ 註疑れて居る以上︑地主請願の妥当性を認めながらも︑更に続いて︑二割金
成立の事情を適格に証する記録を﹁何分閲出不致﹂と正確な資料を欠く
事を指摘し︑県当局は事態を重視して︑六月に内務省へ民有地を﹁総テ
七二借リ受ケ候ヤ︑悉皆買上官有二帰ス可キヵ﹂両端の指示を仰ぎ︑其
指令を待ちつ︑あった事情が窺える︒幸い︑記録には其後に﹁外国人居
留地歩金二付旧奉行より老中江且ハ申書﹂と題して︑長崎奉行︑服部左衛
門佐の慶応元年二月付の老中上申書が関係文書と共に収録されて居り︑ 註四それは﹁居留地地代元極一件﹂の記録と共に︑長崎に於ける二割金制成
立に関する彼我交渉の経緯を知る貴重な史料である︒
居留地自治体と結んで二割金制を論ずる場合︑長崎に於いては横浜の
如く法的に明文化したものは無く︑寧ろ逆に﹁長崎地所規則﹂の第五条
に規定された \
土地所有権は日本政府に属するから︑日本政府は市街︑道路及波止を
常時十分に整頓し︑必要に応じ下水道を造らねばならない︒従って此
目的の為め居留地の外国借地人に課税してならない︒ ︵文久元年四月︶の趣旨に基づく可き事は当然である︒従って一八六一年五月︑長崎居留
地の﹁︑ミュニシパル・カウγシル﹂発足の直後に発表された﹁決議書﹂ 註五の中に於いて︑其前半に居留地造成と施設︑設備に関する事項が︑領事 二〇
団を通しての長崎奉行への要望︑強制の形を取って居り︑其後半は自治
体の組織︑運営を論じて︑自治費徴収として埠頭税︑地所課税︑営業税
を見込んで居るが︑其対象から居留地附帯工事が外されて居る事は言う
迄もない︒現在残されて居る明治初年の居留地自治体の﹁収支決算書﹂
を調査すると自治徴収の費目︑量目に可成り変更があり︑又横浜のそれ
と格段の相異があり︑収入の部に二割金の繰入はないし︑支出の部に当
該関係の工事支出も無いから︑明らかに長崎に於ける二割金制は横浜の
それと性格を異にするものと言って良い︒ 然し横浜に於ける二割金制が﹁横浜居留地覚書﹂に依って明文化され
ると﹁神奈川之振合﹂に準じて︑それが直ちに長崎居留地に影響する事
は言う迄も無い︒慶応元年二月の長崎奉行の老中具申書は三間の事情を
明らかにして居る︒即ち各国長崎駐在の領事は横浜居留地覚書の第一二
条を楯に取って﹁当地も同様に致し元肥﹂を申立て︑此に対して奉行は
此覚書は﹁全く横浜限之証書にて他港へ拘り候義には無能﹂と対抗した
が容易に承服せず︑従って奉行は﹁中央解決﹂を意図し︑老中に経過を
述べて上申 当港南懐ハ横浜同様ニハ難相斥候間︑右物品之差支之事情御推察被成
下︑当地之儀ハ是迄通リ地料差出候様ミニストル江厚く被御三早汝当
地博士共可相達旨ミニストル江御達被成下度
と公使より長崎領事への指示︑伝達方を依頼すると共に
若左様にも相成兼候儀二御座候へは前文小前多人数之者共難儀不致様
格別の御手当被成下持地不運御買上政府之地所二被成置御運渡御座候
上馬横浜に於いて談判之通り当地も地代之二割彼方へ引除候共小前一
同之難渋にも及申渡敷く
と最悪の事態︑国内処理としての民有地買上げの件を上申して居る︒
右の長崎奉行の意図した﹁民有地買収﹂の件は既述の通り︑明治新政
府に引継がれて漸く明治二二年に︑その実現を見︑二割金は解消するが
前者の公使への﹁領事指示︑伝達﹂に関しては︑同年四月七日付︑横浜
奉行より長崎奉行宛の書状の中に
当月五日伊賀守︑横浜表に於いて英公使江応接之瑚︑公使申聞候ハ長
崎表岡士より地代弐割引野比申越三曹共右引方は神奈川限愛心二里長 崎に及ぼし候は心得違に有之︑尤其以来手入用二而道普請いたし候分
は相懸り候入用を引去︑其余は極之通り可相納旨同所岡士差遣り候旨 申聞候
とあり︑英公使が長崎領事に指示を与えた事は明らかであるが︑其の指
示内容は神奈川限りの二割金制を長崎に及ぼす事を﹁心得違ひ﹂と認め
ながらも寧ろ其以来の手入用経費は差引いて納入すべき事が強調されて 註六居る感がある︒而も此の英公使がオールづックからバークスへの交代期
に公使を代理した横浜領事ウイγチェスターその人であった事は慶応二
年二月一三日付︑老中より英公使︑バークス宛書翰に依って明らかであ
り︑横浜居留地に於ける二割金制を指導した彼が︑再び此処に長崎居留
地に於ける二割金制を指導して居る事実は注目に値する︒
此の慶応元年四月七日付横浜奉行の書翰が長崎に着いたのは五月三日
になって居るから︑其間の間隙を縫って各国領事は長崎居留地に既成事
実の作り上げに奔走する︒同年三月一二日付で米領事ウオールスは﹁当
長崎に於いても何れ横浜同様之仕組可有之段﹂と米国居留民の地料から
二割差引いて︑六百拾四枚四合支払つた︑ ﹁受取りの記録﹂が残って居
り︑それが各国領事にも及んで居る事は同年四月︑居留遺掛︑福井金平
の﹁当年丑年分居留場地帯回章之儀二障申上候書付﹂の中に﹁書面地料
銀之理財弐割通之見込を以て三千七百五枚余各国引除彼方に預り有之﹂
と見える事に依って明らかであろう︒福井金平は此書付の中で︑居留場
掛の責任者として居留地辺地料壱万六千百拾六枚余の中から二割通し領
事団に差引かれると普請入用︑居留地諸入用︑地役手当︑其外日当の出
方に差支えを生ずるので二割方の夫銀の立替を会所掛に要請して居り︑
長崎外入居留地に於ける﹁二割金制﹂について 関係掛に連絡﹁何れ御談判済次第可受取乳首に付︑其迄操替玄義は全く
一時の立替に付差支へも無之﹂と諒解が付いて居るが︑勘甚の会所銀の
施設予算が乏しいので︑結局そのシワ寄せが民有地主の小農への支払借 註七地盛に集り︑地主からの﹁融業﹂となったものと思考される︒
此の二割金制に関する談判は外交団に一つの意図が有った丈けに其解決には可成りの時間を要した様である︒代理公使ウイγチェスターは長
崎領事に指示を与えると前後して︑老中に書翰を送って︑
同所地所規則書表通り取扱不相成果マ横浜地所規則第=一条之振合を
以て認知すべし云汝︵横浜地所規則とハ横浜居留地覚書のこと︶
と強要して︑ ﹁長崎地所規則﹂に規定する日本側の責任ある工事翌翌を
迫って居り︑同時的に呼応して︑現場長崎に於いては各国領事は長崎奉
行に書翰を送って
ω 積置し地獄二割を交付すべき我等の約諾は道路等を修理の下めの
耳なれば︑若し当年の末に只成功せし而己二而全備せず︑悪しくあ
るに至りては修覆のため二割は差出し難し
︵︷慶応一兀・六・ 一 一h各国領事より︶
@ 貴下の希望に尊従し候以前︑横浜規則照通り外国人居留地入費の
ため弐割引除解党当港にて御執行有之候義幾等の書面御賜与里下度
︵慶応元・一二・一〇各国領事より︶
㈲ 弐割引之儀は地磯之内より引季候義二無之︑日本政府二等地所規
則第五条を充分御取用ひ相成迄其々拍︵控︶置重罪ノ儀二有之候註八
︵慶応二・五・米領事ブローウルより︶と強要して居るから︑長崎居留地に於ける二割金制に対する外国側の真
意はホ寸諒解出来ると言うものである︒
即ち長崎居留地の場合は長崎地所規則第五条に基づく︑日本側の居留
地工事責任を保証付け様うとするものに変って来て居り︑此に対し長崎
奉行は慶応二年五月︑彼等の要求の工事を確約する事に依って︑﹁二割
二一
長崎外入居留地に於ける﹁二割金制﹂について
金しの払戻を早急に要求して
差向修復入用差支ハ勿論小民共より入用償置候様相成り事実難渋之趣
欄然之至︑随而道路修復向も遅延に及候故︑右等了解され右弐割早六
被相渡候様致度︑尤道路修復の等等之儀は地所掛釣配向より兼而図面
を以て申入置候間門と合議之上︑早月回答あらん事を欲す
の尻前を出して居るが︑此は一面自つから彼の術中に落ちた感がないで
もない︒要するに長崎に於いては最初﹁居留地造成﹂に当って︑預り置 註嘆いた借地料の支払を延引して︑有利に事態を展開した領事団は次いで此
処に﹁居留地整備﹂の時期に当って︑横浜居留地の二割金制成立を好機
として此に便乗︑日本側の責任に在る附帯工事費に借地料の二割を確保
する事に成功したものと断じて良く︑凡そ横浜の二割金制とは性格が違
って居ると見て良い︒
註一拙稿﹁長崎外入居留地に於けるミユニシパル・カウンシルの最初の決議書﹂
︵長崎市博物館報第二号所収︶参照
註二県外事課の古記録ハ現在県立図書館に移管され図書館所蔵となって居る︒
三三借地料の決定に際し工事費が具体的に考慮され談判の審議の中に現われて居
る記録ハ此の外一一ハ見出せない︒
拙稿﹁長崎外人居留地に於ける借地料の問題﹂参照茜県立図書畿断暦書落盤﹁居留地々代標津一件﹂居留懇
註五拙稿﹁長崎外人居留地に於けるミュニシパル・カウンシルの最初の決議書﹂ 参照
註六横浜奉行より長崎奉行への書状の﹁其以来手入用二副道普請いたし親分は相
懸の候入用を引去﹂と言う個所二次の下札が付いて居る︒
﹁書面外国人手入用を以て道普請いたし四三ハ於当港ニハ無口候此段為御承 知申上置候﹂
此れに依って当時居留地懸の抱いて居た感情が汲み取れる様である︒
註七会所から民有地主に肩代りされる具体的記録ハ現在の所見当らない︒
註八居留地地代元極一件﹂ ︵県立図書舘︶ 二二
註九拙稿﹁長崎外入居留地に於ける借地料の問題﹂参照
四
以上︑私は横浜居留地に於ける二割金制を基盤として︑長崎居留地に
於ける二割金制の成立事情を論じたのであるが︑長崎の場合︑ご割金制
は横浜の如く︑その﹁覚書﹂の一二条に基づき︑自治経費に繰り込まれ
工事が自治運営されたものではなく︑ ﹁長崎地所規則﹂に基づいて日本
式が居留地の附帯工事に責任を持ち︑自治体の要請に応じ工事補修する
為めの契約︑保証の性格を持つたものと言って良い︒従って其金額が居
留地自治予算に繰り込まれて居ない事は明治初年の﹁母港規則﹂の﹁長 註一 註二三港﹂の部や︑ ﹁長崎居留地自治体の収支決算書﹂に依って明らかであ
る︒唯其二割金確保の為め︑一時金額を領事側で拍︵控︶置く処置が取
られた事実はあっても︑それは談判三次第正常に復して居る事実は明治
初年の長崎居留地自治体の借地人集会の議事録の中に︑日本側の﹁南山
手﹂工事不履行の事実に就いて︑借地料支払停止の動機が出たのに対し 註三領事側が︑此を以て﹁不法﹂として拒否︑答弁して居る記録の見える事
実に依って明らかであろう︒
而も横浜居留地の二割金制は﹁横浜居留地覚書﹂が生命を持つた短い
期間に留ったに対し︑長崎居留地の場合﹁長崎地所規則﹂が居留地成立
の最初から終末迄永続生命を持って居たから居留地自治制が崩壊しても
﹁二割金制﹂は生きて居り︑横浜居留地に於ける﹁国際性﹂に対し︑寧
ろ其以後に﹁国内問題﹂として表面に現われて来て居る︒然して此の性
格の違った横浜︑長崎の二割金制を同時的に横浜領事︑代理公使として
ウイγチェスターが指導して居る事実と国内問題としての長崎の特殊な
﹁二割金制﹂については居留地大半が民有地であった長崎の特殊事情に
依る事は注目すべきであろう︒
長崎居留地は完成される明治初年︑その総軍十万坪余︑其内七万六
千坪が民有地となって居り︑而も海岸附上等地は官に依る埋立造成であ 註四つたから官地が殆んど全部を占めるが︑中等地は官民相交わり下等地の山手は殆んど民有地になって居るから︑借地料決定の彼我の商議に当っ
て︑中等地を基準に下等地の値を格段に下げ︑その補いとして上等地に
多少の色を付けて値上げして百坪に付三七弗︑二八弗︑=一弗の借地料
の決定を見たのは正に小身の民有地主の犠牲に於いて成立したものであ
る︒従って三等地山手の値下を一等地海岸附の値上げで補うと言う立場
からも当局は当初夫銀をそれ以上民有地主に課する事態は夢想だにして 註五居なかったと見て良く︑寧ろ居留地に思いもかけない自治制の成立を
見︑其発言力に押さた︑たまたま横浜に於ける二割金制成立の﹁アホ
リ﹂を喰って︑居留地の補修工事に借地料の二割を組むと言う思わぬ負担が課せられたと見るのが妥当であろう︒そしてそれが会所銀の窮迫か
ら大きく民有地主の生計の負担へ転稼させて行く事は明らかである︒
此間の事情は前述の慶応元年二月の長崎奉行の老中上申書の中に縷汝
と述べて居るが︑
当地ノ儀者横浜ト違イ新規埋立之外二七重二小舞共持地二有之十重山
畑之場所ハ高低為谷等ニテ家作取建候二者不都合之地所出来然取地相
高風得者常職モ難出来全ク不毛地ト相成候場所モ有之其上所汝通路ノ
タメ小営補理候儀ニテ其何ソモ地料不請取扱地主共平方勘弁之上外国
人共より請取団地料の内より割渡候様村方一同先役共より申諭置候二
有之とあり︑山手百坪に付一二弗は外国人より三等地山手借地料を請取る基
準ではあるが︑地主には其持地総坪数の全額が払われるものでは無い事
を明らかにし タトエバ村中一万坪有之内三千坪道路潰地有之候得者全貸結縁七千坪
長崎外人居留地に於ける﹁二割金制﹂について ノ同工外国人より請取候分其惣坪壱万坪二割渡候二面百坪二付下等地 之無料洋銀拾弐枚宛之処八枚四分請取候訳一=ア其内猶弐割備置二引除 キ候得者六枚七分弐厘二当リ⁝と二割金制の強制は民有地主の借地料を手取り半減せしめ︑小身の地主農民の生計を塗炭の苦しみに追い込む事態を明らかにして居る︒ 註六 華やかな長崎外人居留地の出現の背景︑底辺には斯うした地元小身の農民地主の目に見えない蟻牲と無言の抵抗が潜んで居り︑たまたま太政官布告の﹁封建的﹂な夫米︑夫銀の廃止令と居留地自治体の崩壊を契機として︑其不満︑抵抗が︺音﹂を発して﹁二割金免除願﹂となり︑国内問題として表面に現われたものと言って良い︒註一明治初年外務省が各開港地より蒐集した﹁各港規則﹂の﹁長崎之部﹂の中に 次の如く見える︒ ﹁道普請之義ハ地料取立高之内二二割引出響へば百枚二付弐拾枚積置き道 路︑下水新に三又ハ修復掃除等外国人より申立次第当方にて補理右入費遣払 申候﹂ 拙稿﹁長崎外人居留地二於けるミュニシパル・カウンシルの最初の決議書﹂ 参照註二自治体の﹁収支決算書﹂ハ ︑.夢Φ2帥σq霧ρぎ国×鷲Φ⑦ω..に断片的二収録さ れて居るが一番詳細なものに一八七三年度の収支決算書 ﹁露q巳︒ぢ巴一な90霞ρ貯988馨曼一夢夢Φ寓q巳︒首巴03琴ご 国Hoヨ﹈19昌郎鎚団言仲8ω臼玉UΦ8ヨげ①H一〇︒お﹂ 拙稿﹁長崎外人居留地二於けるミュニシパル・カウンシルの最初の決議書﹂ 参照註三一八七四年一月三一日の借地人会の議事録 .︑けげΦ客pσq9︒・ρ置旧×℃おωω︑<○一・<2聾ω且註四拙稿﹁長崎外人居留地二於ける借地料の閥題﹂参照註五拙稿﹁長崎外人居留地二於ける借地料の問題﹂に於いて借地料決定の審議の 経緯を述べたが其際附帯工事費ハ殆んど問題二なって居ない様である︒
二三
長崎外入居留地に於ける﹁二割金制﹂について
註六民有地所有の東山手︑南山手ハ所謂﹁山手画学として春︑尚特異な存在をなし
て居り︑そこに民有地主の悩が済んで居たことは殆んど忘れられて居る︒
五
長崎外人居留地に於ける所謂﹁二割金制﹂なるものについて︑パスケ
・スミスの論述を起点として私見の一端を述べたものであるが︑形の上
に於て二割金制は明らかに﹁横浜同様﹂であるが其成立事情︑性格には
可成り長崎の特殊事情が影響して居る様である︒永代借地制度解消記念
号ハ︑長崎の二割金制を説くに当って︑パスケ・スミスと論調を同じくし︑其動機付けを長崎居留地の貿易衰微に置いて居るが︑此は当らな
い︒而も同書は二割金制発生の時期をホ寸明治八・九年に置いて居るや
に感じられるが︑それは﹁国内問題﹂として二割金制が問題化する時期
であって︑其の誤りである事は既述の幕末関係資料︑及明治二二年﹁長
崎居留地地主総代の陳情圭目﹂に依って明瞭である︒
従ってパスケ・スミスの記述する﹁最初の数年︑自治徴収の課税を以
て極めて順調に行使されたが︑時代の推移︑長崎貿易の衰退と言う﹁最
初の数年﹂を数えての二割金制の発生が﹁幕末﹂を指す事が明らかとす
れば︑其後に続く︑ ﹁居留外人の数が減り︑自治運営が困難となった為 ︵文久元年︶ ︵明治二年︶め﹂と受けて居る文意は一八六一年より一八六九年迄の﹁長崎罪人外人 註の異動表﹂に対照して矛盾があろう︒今此異動表に於いて︑仮に長崎二 ︵一八六五年︶割金制が彼我交渉の中心問題となった慶応元年に時元と取って見ても外 ︵一八六一年︶人居留︵支那人を除く︶一四四名であり︑それを当初の丈久元年の六三
名に比較すると約二倍に当り︑それは漸次増加の一途を辿って明治初頭
には一九九名になって居るから明らかであろう︒
確かに長崎に於ける﹁居留地貿易﹂の将来については居留地開設の当 ︵万延元年七月︶初から暗影があった︒一八六〇年八月︑新開拓地︑日本の産業調査の為 二四
め来朝したロバート・フォーチュγ︵H囚○σ①H伴 司OH叶自b﹇Φ︶は其の長崎滞
在一週間の所見を其著﹁≦ω詳げ︒冒℃窪ρ口α○び一⇔9﹂の中に︑
諺σQN$叶℃OH賦︒昌oh昏①一pu畠︒︒Φげ㊤℃霞げhoHhoH鼠αQ口Qり①算δ日①導
白9ω一口什げΦ8目話Φo囲σoぎσqH①9巴Boα冨昌αヰ︒日夢ΦωΦp9口◎
①おδ昌σqp8≦目︒囲8<ωこ①蜜亘①ω冒Φ≦三密Φ8什財Φωげ○おω︒h
けげ︒げΦ目江h巳び9団
と建設途上の居留地造成が日ならずして完成するであろうと﹁輝かしい
居留地﹂の誕生と予想しながら︑其貿易については
と夢2σQげ拷9σQ霧p匹日ミ昌①<興げ①8目①9℃冨8︒hく①qαQH8汁
一日℃○詳9昌8霧おαq9巳ω汁N9創ρ詳霜富屋○鉱○口び叶唱8くoOごΦ9
夢①目︒ω叶げ︒巴夢蜜ω富江○口話夢①国難け帥づαヨ欝唄︒昌①α9団げ08ヨ①
Boωげく巴qρ三⑦霧QQ帥昌暮○目置日hO目︒霞ヰoo℃ω一ω9暮ρo錠け①H
Oh汁げ①○一〇σO・ ︵文久元年三月︶と述べて居り︑決して明るいものではなかった︒次いで一八六一年四月
長崎居留地に﹁ミュニシパル・ヵウンシル﹂が組織されるが︑其意慾的
発足に当って︑此に呼応して︑此の地に於いて︑日本最初の外字新聞
﹁甘Φ賭9σq霧9匹qQぼ唱貯σQい鼻窪ロ︾α<①益ω①こをハンサード︑
︵国9口ω霞傷︶が刊行するが︑それも僅か半歳にして同年末求愛を去って
居る︒彼の﹁横浜転出﹂の弁は彼が其後︑横浜で刊行した﹁夢①冒℃き
乱舞巴自﹂の初号に次の如く記載されて居るが
我女の目的は最初から本紙を﹁日本のための新聞︵ジャーナル︑フォ
ア︑ジャ.ハγ︶にし度いということであった︒その為めには﹁発展途
上﹂にある横浜に発行所を移すことが︑どうしても必要であると考え
るようになったのである︒
脚光を浴びた横浜に長崎が取って代えられるのは既に時間の問題であっ
た︒ ﹁鎖国と長崎﹂と言うキャッチフレーズは此処に﹁開国と横浜﹂と言
うキャツチブレーズに置き代えられる時代が来る︒明治も一︑二年をす
ぎれば﹁幕末︑維新史﹂的色彩が薄れて行き︑長崎を舞台とした﹁冒険
商人﹂の影が薄れると共に上海︑横浜間に夢Φ℃碧庄︒寓巴一〇〇日℃き団
の大商般の定期航路が開設されると︑ロバート・フォーチュγが指摘し
た様に︑長崎港の性格は一変して所謂﹁ω巽≦8QQ蜜江︒口﹂に転落をする︵明治三年︶一八七〇年の最初の﹁夢︒乞騨αQp鈴巴国鷺Φ×ωω﹂の社説に﹁支那人問題﹂
︵Oげ営Φ︒・ΦO信$江︒ご︶が連載されて︑当時の海外貿易の実態が52%も支
鄙人︑華僑に喰われて居る事実を指摘して居るのも又﹁℃Φ葺δ昌︒=亭
富目く①暮δ昌︷o吋山暮唄︒口8①9﹂ ﹁℃Φ江江○昌Op一〇汁HΦ導﹂﹂と茶税の軽減
借地料の軽減を領事団を通じて陳情して居る事実の記録が収録されて居るのも︑それを暗示する好材料であろう︒
従って︑長崎に於ける﹁居留地貿易﹂は時代の推移に伴って衰退する
事実は否定出来ないが︑此の事実を以て長崎に於ける﹁二割金制﹂成立
にかける事は当らない︒寧ろ上海租界に於いて実施に成功した﹁土地章
程﹂を母型として横浜居留地に﹁地所規則﹂を設定し様うとして失敗し
た外交団は︑此を﹁国の留﹂しで而も従来の外交の璽性に乗った長崎の地
にその落児をなし︑窮余の一策として成立させた﹁横浜居留地覚書﹂に
基づく﹁二割金制﹂の実質を長崎に移したものであり︑此処では﹁長崎
地所規則﹂に基づく日本側責任の居留地附帯工事に借地料の二割を確保したものと見て良い︒横浜居留地の自治制が廃止され﹁横浜外人居留地
取締規則﹂が締結されると居留地内に於ける衛生︑秩序︑公安の為めに
必要な経費が国費に依って賄われるのであるから当然従来居留団に支払
われた金額は日本国家の会計に於いて居留地関係に当てられる事になる
から︑それは長崎の﹁二割金制﹂とホ寸性格を一にすると見て良いであ
ろう︒而も此際に当って横浜居留地の二割金制の名称が消え︑改めて長
崎居留地の二割金制が大きく叫ばれる所以のものは︑それは民有地主を
対象とする﹁国内問題﹂であった為である︒
長崎外入居留地に於ける﹁二割金制﹂について
註
﹁長崎投入外人の異動表﹂
格﹂の中に所収 は拙稿﹁長崎外人居留地に於ける冒険商人の性
二五