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ミルの年譜とそれに関する一註釈 : ミルにおける 社会主義の問題

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(1)

ミルの年譜とそれに関する一註釈 : ミルにおける 社会主義の問題

その他のタイトル A Brief Chronicle of J. S. Mill, with a Comment of his Socialism.

著者 杉原 四郎

雑誌名 關西大學經済論集

巻 6

号 7

ページ 571‑590

発行年 1956‑11‑01

URL http://hdl.handle.net/10112/15682

(2)

が︑いかに充実した豊富な内容をもつているかということを︑私はあらためて痛感した次第である︒まず︑すでに十

六オの時からはじまり︑病歿する直前まで孜々としてつづけられた彼の著作活動は︑約二十点の単行本の著作と︑

( 1 )  

数百種にの活る雑誌論文を生み出した︒その他になお幾多の友人知己との間の思想的交流を記録した興味ふかい手

( 2 ) ( 3 )  

紙がある︒もしそれらが将来蒐集整理されて完全な全集にまとめられるなら︑その分量は︑おそらく︑最近刊行さ

れた十巻のリカード全集の二倍を優にこえるであろう︒又その内容の範囲も︑

れているリカードにくらべるとはるかにひろく︑論理学・心理学・倫理学・教育学といった哲学的部門や︑経済学

・政治学・法律学・歴史学といった諸社会科学のみならず︑それらとくらべて量的な比重はぐんとおちるが︑文芸

•(4)

(5)

評論や自然科学ーー'とくに彼の終生愛好した植物学'ー—の領域にまで及んでいる。ところで、このような多産な文

ミルの年譜とそれに関する一註釈︵杉原︶

本稿の末尾にかかげた

J.S

・ミルの年譜をつくつて見て︑

} レ

一 八

0 六ー七三年にわたる六十七年間の彼の生涯

における社会主義の問題ー~

ミ ル の 年 譜 と そ れ に 関 す る 一 註 繹

庶とんど政治・経済の範囲に限定さ

(3)

572 

ミルの年譜とそれに関する一註釈︵杉原︶

筆活動に従事した︑ミルは︑リカードと同様に︑決して純枠な学究乃至書斎人ではなかった︒すなわち︑彼は︑三十五

年にわたつて東印度会社のロンドン本店

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に勤務し︑最後はその重役に昇進した有能な社員であり︑

かたわら︑当時の代表的な諸雑誌に寄せた時論によって︑ジャーナリズムや政界に影響を与えてきた有力な評論家で

あり︑さらに晩年はみずから下院の議員として活躍︑其の他実践的な諸団体の指導者となるなど︑かなり行動半径

( 6 )  

のひろい社会人であって︑彼の著述は︑すべてその余暇に︑壮年時代以後ひどくなった健康の障害とたたかいなが

らなされたのである︒ところで︑

およそ単なる職人的科学者ならぬ思想家とよばれるにあたいする人々に共通に見 られるように︑ミルにおいても︑科学者としての学問的梢進と︑改革者としての実践的活動とが︑内面的に結合し

ていた

3

またこの結合を現実の場において相互促進的に実現してゆく場合︑現実を批判的・前進的に方向づけよう とする思想家として当然にあじわわなければならない種々の苦悩を︑ミルもまた彼なりに体験しているということ

は︑その生涯を通観するもののひとしく認めるところであろう︒と同時に︑ミルの場合︑

彼の同時代の過渡期の思想家たちの多くに見られがちな︑自己と現実との疎隔からくる生活の不安定と︑思想的孤 立︑それにともなう反逆者的焦燥や隠遁者的諦念などがその生涯に強い悲劇的な色調をあたえるというようなこと

が︑役とんどないという事実である︒その原因は︑単に︑ミルの個人的な資質にだけ求められるべきではなく︑基本的に

は︑ヴィクトリヤ期のイギリスの御代のさかえをミルも亦享受する一人であったことを考應しなければなるまい︒

東印度会社の高級社員という職業が保証する経済的安定にささえられながら︑台閣に列する権力者から労仇組合の 指導者にいたる広汎な読者層に対し︑ミルは︑進歩的自由主義に立つ国民的教育者としての活動を︑さきにふれた

ような危大な著述の発表を中心に︑ とくに印象的なことは︑

心ゆくまでおこないえたのだった︒彼がその臨終にのべたとったえられるつぎ

(4)

の言葉は︑このめぐまれた思想家の充実した生涯の特色を端的にものがたるものともいえるであろう︒

( 7 )  

の仕事をなしおえた﹄︒

ミルは︑このような生涯における思想の発展過程を彼みずから記録した﹃自伝﹂において︑

年までの第一期︑四 0 年までの第二期︑

期の︑第五・六章を第二期の︑第七章を第三期の殺述にそれぞれあてているのであるが︑

な 影

響 ︑

﹃ 私

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その過程を一八二六

およびそれ以後の第三期と大きく三分し︑第一章から四章までをほ底第一

それにしたがつて各時期

を簡単に特色づければつぎのようになろう︒すなわち︑まず︑ミルが二十オになるまでの第一期は︑父ミルの圧倒的

とくにその徹底した早教育によって︑筋金入りのベンサム主義者にきたえ上げられ︑十六オの頃にはすで

にいわゆる哲学的急進派の一斗士として活澄な対外的宣伝とひたむきな学問的精進に没頭してゆく時期であり︑こ

れにつづく三十四オまでの第二期は︑その活動が頂点に達した一八二六年に突然ひどい神経衰弱におそわれ︑それ

を契機にこれまで自分が身につけてきた教養の一面性を深刻に反省しつ 4 ︑功利主義と対立する新時代の諸思想を

︑ ︑

大いに吸収し︑旧来の哲学的急進派に対する批判的立場に移行してゆく過程であり︑そしてそれ以後の第三期は︑

ミルの前半生に対して父が及ぽしたのにもおとらぬ程の大きな影響をその後半生にあたえることになるハリエット

との不断の精神的交流を通じて︑自己の積極的な社会哲学体系を着々と構築してゆき︑それにもとづく多彩な文筆

的・政治的活動を︑彼女との死別後の晩年の十数年においてもかえつてますます活澄に展開してゆく過程︑

正しく理解するために︑ に探か

ならない︒ところでこのような過程をとおして成長し変貌し円熟したところの広大な︑ミルの思想体系の基本性格を

われわれはどのようなア︒フローチを彼の充実した生涯と業績とに対してこころみてゆけば

よいであろうか︒わたくしは︑ミルが︑あたかも彼がその生涯をおくった時代においていわゆる﹁空想から科学へ﹂

ミルの年譜とそれに関する一註釈︵杉原︶

(5)

574 

た か

︑ ︑

︑ ︑

と進化し︑単なる個々人の思想から明確な実践目標をもつ組織的運動にまで発展したところの社会主義をどう考え

という問題に分析の視点をすえて研究してゆくことによって︑通例過渡期の思想家とよばれているミルの思

想 の

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︑ 一

八 一

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0 年頃から胎動し︑四八年革命を劃期とする現代史の基本線との関連において最も明確に

︑ ︑

︑ 浮彫しうると同時に︑ミルの思想の本質としてこれまた誰しもいうところの折衷的性格を︑個々の問題領域におい

て で

な く

それらを貫流する彼のヴィジョン乃至思考方法において統一的に把握することができると考える︒そし

てこの場合︑私は︑ミルと同時代に︑社会主義という同一の問題との対決を︑やはり哲学的認識論から具体的な改

︑︑︑︑︑︑

革のプランに至る広大な思想体系の建設によってはたしたところのマルクス主義との対比という方法をとりつつ研 究してゆきたいと思う︒この方法が︑上述の分析をすすめる上に効果的であるばかりでなく︑本年その生誕百五十

︑ ︑

年をむかえた︑ミルの思想の現代的意義を評価する場合にも最も適当なものであると信ずるからである︒

本稿は︑このような問題意識をもつて︑ミルの略年譜に関する︱つのコメントをこころみようとするのだが︑別 稿との関聯上︑ここでの分析の重点をミルの生涯の第一期におくことにしたい︒ミルとマルクスとの二つの社会主 義思想がイギリス労仇運動の思想的主導権をめぐつてするどく対立する一八六五年以降の新しい情勢の下で︑ミル

は自分の社会主義に関する考え方を﹃経済学原理﹄とは別の一害にまとめあげるという年来の宿願をはたすべく︑

六九年よりその執筆にとりかかるのだが︑結局は未完の遺稿となったこの﹁社会主義論﹂︑すなわちその執筆の時 期からも動機からもミルの全思想体系の総決算ともいわるべきこの遺稿を念頭におきつつ︑精神的危機以前におけ

る青年︑ミルの思想と行動をあとづけてゆくとき︑

ミルの年譜とそれに関する一註釈︵杉原︶

さきに提示した私のミル研究の分析視角からみてどういう点が注

目されてくるであろうか︒これが本稿の主題に低かならない︒

(6)

(1

)

近年アメリカの研究者の手で︑ミルが生前公表した全著作を発表年次順に記録したノートが発見され︑周到な調査にもと づく解説を附して刊行されたが︑これによって︑ミルの全著作項目が正確且つ容易に概観できるようになった︒とりわけ 通例無署名乃至匿名で発表されていた︑︑︑ルの初期の著作がこれによって確認されえたことは︑ミル研究史上大きな貢献と い え よ う

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1945 

(2

)

従来編集公刊されている︑︑︑ルの手紙類については本誌におさめられている︑︑︑ル文献目録を参照されたいが︑その中で

も︑ハイエク教授によって刊行されたハリエットとの往復書筒集は最近の大きな収獲である︒Hayek,

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ミ ︑

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1951

しかしなお未発表の害簡がすくなくない らしく︑たとえば︑ロンドソ大学にある﹁ミル!ティラー・コレクッョン﹂の中には︑ジョン・レイとミルとの間の往復 書簡があることが報告されている(John

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1943 , 

 

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2535)

またミュラーはその近著の序文で︑コーネル大学のミネカ教授によって近く︑︑︑ルの書簡集が公刊される予定 であるといっている

0

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19 56 , 

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(3

)

全集といえば従来︑︑︑ルの主要著作を独訳した十二巻本が古くドイツで出された︵後掲の著作目録参照︶のみであるが︑

最近アメリカでロンドン大学からッカゴ大学にうつつたハイエクを中心として本格的な全集が準備されているという情報 がったえられた︵水田洋﹁イギリス経済学の潮流﹂経済評論昭和二十七年十一月号二五頁︶︒しかし現在どの程度進捗し て い る も の か は 不 明 で あ る

(4

)

彼の論文集﹃評論と論策﹄全四巻に収録された約四十篇の論文のうち︑文芸評論にぞくするものは第一巻におさめられ

た つ ぎ の 二 篇 で あ る ︒ T h o u g h t s

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18 33

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e 葵

1838

︑ルはこれ以外にも尚数篇の文芸評論をものしているが︑上記の二篇をもふく めてその大部分が彼の生涯の第二期にかかれていることに注意すべきである︒

( 5 ) ベンサムの甥から教えられた︑︑︑ルの植物採集熱は終生かわらず︑晩年ますます強くなり︑その死後には池大な標本がの こ さ れ た

︒ 彼 は 採 集 の 結 果 を と き お り 雑 誌

ytologistに報告しているが︑もとより一アマチュア蒐集家の域を出なかつ P ざ

た︒パックは︑﹁植物学は彼にとつては科学ではなく︑真の意味におけるスポーツであった﹂とのべている︒Packe,

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ミルの年譜とそれに関する一註釈︵杉原︶

(7)

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1 95 4,  

p .  

4 8 6  

( 6 )

`︑ルは﹃自伝﹄の中で﹁自分がはじめて家付の病気におそわれた﹂のは一八五四年とのべている︵﹃自伝﹄岩波文庫阪ニ

九一頁︶けれども︑彼の父と二人の弟の命をうばった結核に彼自身もおかされはじめるのは一八三五年の末にまでさかの

ぼるらしい︒

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8.

 

(7

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p .  50 7.

︒ハックはそこで︑︑︑ルのヘレン・テーラーヘの最後の言葉をレイ牧師の著書によってつぎのように

かいている︒^"

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一 八

0 六年から二六年におよぶミルの生涯の第一期は︑さきにもふれたように︑思想的にも性格的にも啓蒙思潮

の権化ともいうべき父ジェームズ・ミルの周到かつ精力的な個人教育

1

それは︑外界との接触を完全に遮断した

ー に よ っ て

厄とんど一日の休みもなく︑ミルの三オのときから十四オにいたるまで︑

年ニヶ月のフランス留学ー—

i

これについては後述ーーーにおいてその仕上げがなされる、 ベンサム主義者として必要な基本教養と思考の訓練をあたえられ︑十四オから十五オにかけての一

︑ ︑

という幼・少年期の修業時

代と︑留学からかえった年の冬にベンタム思想の解説書︵デュモン﹃立法論﹄︶をよんでこれに心酔︑以後熱烈なべ

ンサマイトとなって読書のみならずョリ能動的な討論乃至執筆を通じて自党的積極的に自己の思想をかためてゆ

一人として改革運動の推進に重要な役割をはたす︑ き︑﹃ウェストミンスター・リヴュー﹄が創刊される二十四年以後は︑それを機関誌とするグループの小壮幹部の

という青年期の活躍時代を包含するのであるが︑この期のミル

史 ︑

ついでラテン語︑幾何・代数︑物理・化学︑そして最後に論理学と経済学という順序で精力的に遂行された 家庭において︑

ギ リ

シ ャ

語 ︑

算術︑歴

̀︑ルの年譜とそれに関する一註釈︵杉原︶

(8)

ミ ル

の 年

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そ れ

に 関

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一 註

釈 ︵

杉 原

︵ 二

︶ 一

七 九

0 年以降十九世紀初頭にかけての産業資 の活動を理解するためには︑当時のイギリス資本主義のドラスティックな発展︑ならびにそれを一八三二年の選挙 法改正へ方向づけてゆこうとする﹁哲学的急進派﹂の運動についての一応の予備知識を必要とする︒さて十九世紀 の第一四半期のイギリスの歴史は︑

前世紀の末から開始された産業革命の進行にともなう社会構造の急激な変革

が︑フランス革命からナポレオン戦争にかけての大陸の動乱の影響によって一そうの複雑さを加えつ 4 ︑幾多の摩

擦と混乱とをひきおこしながらも︑結局は産業ブルジョアジーを中核とする資本宅義体制の確立という基本線にそ

つて︑強力におしすすめられてゆく時代である︒そして一般にこのような社会の転換期においては︑錯綜する種々

な階級的利害を代表するイデオロギーが形成され︑相互に理論斗争をおこないつつ基礎過程に反作用をおよぼして

︑ ︑

︑ ︑

ゆくのであるが︑当時の思想史の展開過程の中で当面われわれに疸接関係のある哲学的急進主義は︑それがほかな

︑ ︑

︑ ︑

らぬ産業資本の立場を代表するという性格の故に︑歴史的現実自体にとつても基軸的地位をしめるものであった︒

すなわち︑︵一︶﹃国富論﹄の刊行された一七七六年からフランス革命の勃発する八九年までの時期

11

ベンサムの青年

時代においては︑産業資本がいまだ単純商品生産者的色彩を完全に脱却していなかったことに照応して︑自然法思想

から判然と分化していなかった生成期のイギリス功利主義が︑

本の急速な発展にともなう三階級分化

11

小生産者の没落に照応して︑ジャコバン・フラクション乃至ゴッドウィン的

無政府主義とむすびつく自然法思想との明確な対抗を意識しつつベンサムによって包括的な功利主義哲学として体

系化されてゆき︑さらにジェームズ・ミルを媒介してリカードの経済学とむすびつくことによって︑地主攻盤の理論

的武器としての実質をそなえるとともに︑︵三︶一八一五年の平和回復以後は︑穀物関税撤廃と選挙法改正という具

( 1 )  

体的な改革目標をかかげて当時の論壇を指導する有力な思想団体として︑多彩な活動を展開していったのである︒

(9)

‑578 

ミ ル

の 年

譜 と

そ れ

に 関

す る

一 註

釈 ︵

杉 原

そしてこのグループにこのような党派性と実践力をあたえることに成功したオルガナイザーこそジェームズ・ミル

に低かならないのであって︑彼が一八 0 八年にベンタムと遅造してその知遇をえて以来︑哲学的急進派の結集に努

さらに﹃人間精神の める一方︑みずからも﹃印度史﹄(‑八一八年︶︑

( 2 )  

現象分析﹄︵二九年︶といった主著をつぎ l¥ `にものしてゆく激務のかたわら︑あれ往ど熱情をかたむけて長男の教

﹁ 政

治 論

︵ 二

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﹃ 経

済 学

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年 ︶

育にあたったのも︑自己の陣営の拡充の中心たるべき有能な次代の同志をつくりだすという大きな目的があっての

この教育の具体的内容とその効果について︑また被教育者たるミル自身が晩年に一生を回顧した上でその教育を

﹃自伝﹄を彼が執筆した動機の一つであったー│'ところにゆづり︑ ここでは立ち入らないことにしよう︒また︑第

二期以後のミルが︑厳格な知的訓練によって精巧な推理機械を短時間で強行製作したこの教育が他面においてもた

ざるをえなかった鋏陥をいかにみずから克服していったかという過程—~それは同時に過渡期の思想家としてのミ

( 3 )  

ル独特の性格の形成過程でもあるーー!の考察もここでの問題ではない︒ただ之こで確認しておきたいことは︑父の

強烈な人格を通じて青年ミルが身につけた哲学的急進主義︑すなわち啓蒙思潮の十九世紀イギリス的一変種は︑後年

いかに彼が多くの異種の思想にふれて柔軟な精神的遍歴を経ようとも︑またいかにそれを通じて時代の新しい要望

に応じた修正と補充をうけようとも︑基礎的には︑終生一貫してもちつづけた彼の根本思想であったということ︑ 全体としてどう評価しているかについては︑

れである︒そしてこのことを確認しておくことから︑われわれのテーマである彼の社会主義論を問題とする場合に︑

つぎの二点がみちびき出されてくるであろう C すなわち︑第一の点は︑彼の生涯の第二期および第三期において︑社会 ﹃自伝﹄が詳細にのべている'│lこれを記録しておくことがそもそも ことだったからに低かならないのである︒

(10)

ミルの年譜とそれに関する一註釈︵杉原︶

般に一八三 0 年以来︑とくに四八年革命以後においては︑

実であるけれども︑

たヨリ脆弱な社会的地盤の上に立つているプルジョアージーにくらべて︑

安定性とそこから生ずる相対的進歩性を区別して考えなければならないということ︑

主義思想に対する接触と理解とが漸次ふかまつてきて︑ついには﹁私逹をひろく社会主義者という一般的名称の下に

( 4 )  

戟然類別するものとなった﹂と自認せしめるにいたるのであるが︑そして︑社会主義に対する父ミルの戦斗的な反対

( 5 )  

の姿勢と︑晩年とくに一八五 0

年前後のミルの社会主義に対する同惜的な寛容の姿勢とには︑たしかに大きな相違

が見られはするけれども︑その場合のいわゆる社会主義とは︑哲学的急進主義と原理的に対立するごときものでは決

してなく︑むしろどこまでもその原理の拡充としてなりたつような性質のものであるということである︒つぎに︑一

プルジョアジーが︑︒フロレタリアートとの対抗上︑従来の

敵であった地主に対して妥協的になり︑本来もつていた反封建的怠進的性格にかわって弁護的俗流的性格が濃くな

つてくるとされ︑ミルも亦その動向の外にあるのではないと説かれるものであるが︑そしてこのことは基本的には真

その場合同時にわれわれは︑このような動向の中でもたとえばフランスやドイツのヨリおくれ

イギリスのブルジョアジーのもつている

つまり十九世紀初頚のイギリ

スプルジョアジーが労佑者階級の先頭にたつてそのエネルギーにささえられながら地主政権から選挙法改正をたた

かいとったときにもつていた開放的性格は︑時代とともに稀薄化してはゆくものの︑これを全然喪失してしまうまで

にはいたらないというところに︑イギリス自由主義の伝統的な健康さ乃至しぶとさが見られるのであって︑それと照

( 6 )  

応してミルにおいても亦初期の急進的性格が基本的には最後まで維持されていたということが︑第二の点である︒

ミルの社会主義論がもつこの消極積極の両面をともに本質的に規定するものとして哲学的急進主義があるというこ

と︑これが本稿でわたくしの強調しておきたい要点に保かならないのであるが︑第一期におけるミルの思想と行動

(11)

580 

ミルの年譜とそれに関する一註釈︵杉原︶

の 中 か ら

︑ こ の 点 に 関 し て と く に わ た く し の 注 意 を ひ く 若 干 の 事 項 を と り あ げ

︑ 節 を 改 め て 考 察 す る こ と に し よ う ) ( 1 ) イギリス功利主義の本質とその発展過程については︑﹃ドイツ・イデオロギー﹄における古典的叙述︵古在訳・岩波文庫版

0

三ーニ―二頁)のほか、内田義彦『経済学の生誕』一六一—――頁の註ならびに石本美代子「ベンサム経済理論研究序

説﹂︵﹃商学論集﹄第二十四巻第四号︶︑とくにその冒頭の被述を参照︒なお当時のイギリス経済思想史をとりあっかったロ

ルンド

•L

・ミークの三つの論文ー|lそのいずれにも父‘‘、ルが大きくとりあげられている||↓が、最近吉田洋一氏によっ

て一括顔訳されたが︵﹃イギリス古典経済学﹄・社会科学ゼ︑ナール︶︑これは︑当時のイデオロギー斗争が経済学の領域に

いかに反映しているかを解明するものとして興味ふかい︒息子の︑︑︑ルも一八二 0 年代においてすでに数篇の経済論文ーーー

トレンズやマルサスの経済学に対する理論的批判や︑穀物条令や二十五年恐慌を論じた時事評論などー│̲を発表している が︑これらを当時の経済思想史の流れの中でとりあっかうことは︑資料の関係上他日にゆづらなければならない︒

( 2 )

これらの著作がいずれも子︑︑︑ルに深い惑銘をあたえ︑その精神的血肉になった事情については︑﹃自伝﹄︸ゥくわしい︒

﹃印度史﹄については四四ー五頁︒﹁政治論

. .  

一については︱二 0 頁︒﹃経済学綱要﹄については四八︑八五︑一四八頁︒一人間

精神の現象分析﹄については九ニー九三︑一五一頁等参照︒この中でもとりわけ注目されるぺきは︑最後の心理学書から の影響である︒けだし︑彼は︑この著書を︑父の全業鎖の中でも最も重要視している︵一自伝﹄一三四ー五︑二四三頁参照

︶のみならず︑みずからの社会哲学においても心理学に基軸的な地位を与えてーー'コント体系における生理学!骨相学の

地位と`︑ル体系における心理学ー性格学のそれとを対比せよ

( c f .

M e u l l e r ,   o p c i t .   . ,  

p p . 1 0 9 1 1 0 )

ー│おり︑晩年この著 書の新版をみずから紺集刊行して︑父の業組を顕彰する︵﹃自伝﹄三五三ー四頁︶とともに︑﹁人間の性格の著しい差別 をもつて一切生得的とみなし︑その大部分をば到底梢すべからざるものと考え︑そして個人間にしろ︑人種問にしろ︑両 性間にしろ︑それらの差異の大部分は境遇の差異によって︑ただに生ぜられ得るのみならず︑むしろ生ぜられるのが自然 であるという不可抗的の証拠を無視する現代一般の領向﹂︵﹃自伝﹄=二八頁︶に強く抗談したからである︒

(3

)

父︑ルからの影響に関する興味ふかい最近の研究を二つあげておこう︒︱つはレヴイの﹃自伝﹄の最初の草稿についての 報告であって︑彼は︑父︑ルの威圧からのがれようとしてもだえくるしんだ息子の真情を現行版﹃自伝﹄よりもはるかに 率直にひれきしているこの草稿を検討して︑その精神的危機の主因を︑父の死をねがわざるをえない彼の悲壮な心情に求

めている

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(12)

581 

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︑ルの年譜とそれに関する一註釈︵杉原︶ A

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︒もう︱つはイギリス古典派経済学をながれるスコットラ ンド的伝統を強調するマクフィの見解であつて︑彼は︑その論文のジョン・ステューアート・ミルに関説したところで︑

つぎのようにのぺている︒ハチソンから

J.S

・ミルまでの間のイギリス経済思想の一般的性格を形成してきたのは︑ス コットランド的なアプローチの仕方であって︑それは哲学的乃至は社会学的なアプローチとよばるぺきものであるが︑ジ ェームズ・ミルを通じてこの伝統が功利主義運動全体を貫流しており︑とくに彼の直接指導を通じて︑

J.S

・ミルの思

想をも強力に刻印づけているのである︑と︒

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  ,1[

この占~については、*田洋り『社会思想史の旅ー|ーイギリス』八・六二頁

をも参照︒

( 4 )

﹃自伝﹄二七一一頁︑なおニ二八頁をも参照

( 5 ) ラッセルの﹃西洋哲学史﹄は︑ジェームズ・ミルのホジスキン流のリカード派社会主義に対する脅怖と憎悪とを吐露し

た興味ふかい手紙を二通ー

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―つは一八三一年の、もう一っはそれより以後のー—↓を引用している。

Russel, A 

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8 0 9 .

  市井三郎訳﹃西洋哲学史﹄下巻二五七ー八頁参照︒

( 6 )

....ヽルが晩年においても労佑者階級との同盟において地︑正を批判することの必要を感じていたことの一証左として︑一八 六六年一月一日付けのヘンリ・フォーセットあての手紙の一節をかかげておく︒﹁労佑者階級を政治に参加せしめるこ とから生ずる最も重要な帰結の一は︑そうすることによって︑つぎのような格律から解放されているような人々が下院の 席をしめることになるということです︒その格律とは︑人間社会は土地所有のためにあるのだ︑というのでして︑このい やしむべき迷信は︑今なお上流階級のあいだに有力なのです﹂

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52)

( 1 )  

一 八

0

年五月ーニ︱年七月の間のフランス留学に注目しよう︒

﹁ある意味ではこの旅行は彼が五三年後にアヴィニオンで埋葬されるまでおわらなかったのだった︑というの

ま ず

け だ

し ︑

(13)

582 

ミルの年譜とそれに関する一註釈︵杉原︶

は︑その全生涯を通じて︑彼は︑ フランスとの交渉をあらたにするたびごとに人間とその相互関係についてヨリ深

( 2 )  

ぃョリ刺激的な知識にみちびかれてきたからである︒﹂ミルがその留学中に習得したフランス語︑見聞した風物習

慣︑そしてとりわけ父の友人であるジャン・バティスト・セイのところで多くの自由思想家たち│ー︑その中には

後年彼がその思想から強い影響をうけることになるサン・シモンもまじっていたー—炉←接したこと、これらの点が

相まつてミルが終生もちつづけられたフランスヘの深い関心を培養する基礎となった︒帰国後まもなく彼ははじめ

てフランス革命史をよみ︑﹁当時到る所において見た所では微々として振わない少数派である民主主義の諸原則が︑

( 3 )  

フランスにおいて三十年も前に一切を風靡し去つて︑国民一般の信条となっていたことを知つて﹂驚嘆︑フランス

に対する親近感を一そうふかめるのだが︑このような体験を有する︑ミルが︑精神的危機後の脱皮過程において︑イ

ギリスの保守派やその精神的基礎たるドイツ観念論から新鮮な刺激を与えられながらもこれらに全面的に同調しえ

一八二八年たまたま知りあったサン・シモン主義者グスタフ・デヒタールを通じ

て教えられたフランスの新思想に接近していったのは自然の成行であった︒それ以後のミルの思想的成長過程にお

いてフランスの現実の動きと思想的潮流とが演じた役割は決定的に重要であって︑社会主義の問題に限定しても︑

サン・シモン主義やフーリエ主義あるいはルイ・ブランの思想からミルがいかに多くのものをまなんだが︑

それが彼の経済学乃至社会哲学の体系にいかに重要な影響をあたえたか︑ そして

については︑彼の﹃経済学原理﹄││と

( 4 )  

くに第二巻のはじめの二章ーー`と四八年革命をはさんでのその部分の初←二←三版の変化とが如実に物語るところ

である︒遺稿﹁社会主義論﹂においても︑吟味の対象としてとりあげられているのは︑ときに言及されるオーエン

をのぞけば︑ほとんどルイ・プランとコンシデランの著書であって︑そこにもられた思想の民主的改良的性格に当時 ないで模索をつづけていたとき︑

(14)

583 

ミ ル

の 年

譜 と

そ れ

に 関

す る

一 註

釈 ︵

杉 原

勃興してきた革命的社会主義との対比の上で高い価値があたえられると同時に︑

本的立場から見ての個別的な問題点が指摘されているのである︒

事情をミルについても考えるとすれば︑前者においてはドイツ古典哲学からの脱皮過程においてイギリス古典経済

︑ 学とフランス社会主義が演じた役割を︑後者においては︑ドイツ古典哲学とフランス社会主義とが︑イギリス功利

( 5 )  

セ義哲学ーーそれはマルクスのいうように父`ミルの段階にいたって経済学と完全に一体化したー│ーからの脱皮過程

において演じたわけであるが︑この二つの場合におけるフランス社会じ義の同様の役割は︑

ミルの場合においてヨリ重要であったといわなければなるまい︒

つぎに︑一八二三年︑十七オのミルが︑ フランシス・︒フレー・スの産児制限論に共嗚し︑その宣伝用紙をスラム街に

.(6) 

配布したかどで︑十四日間の禁錮を宣告されたというエピソートをとりあげよう︒当時の彼の思想の中でマルサス

の人口論がいかに重要な意義をもつていたかという点について︑

の人口原理は︑ ベンタム特有の思想と全く同様に︑ われわれ同志の間の旗印であり︑思想の統一点であった︒この

偉大な学説は︑もともと人世の事はどこまでも改善されうるものだという考えに対する反駁論として提唱されたも のであるが︑われわれはそれとは全然反対の意味において熱心に採用し︑この説は労佑者の人数の増加の自発的制 限によって全労仇者階級を高給で全部就業せしめ︑さきに不可能とされていた人生の改善を実現する唯一の方法を

( 7 )  

指示するものとした︒﹂マルサスの人口論が哲学的急進派によって重視されるのは︑それによって資本と賃労仇と

( 8 )  

の生産関係に関する弁護論的説明原理としての賃金基金説が基礎づけられるからであり︑その賃金基金説から︑労

( 9 )  

仇組合無用︵禁止ではない︶論や移民奨励論や救貧法改正︵労佑者の側からいえば改悪︶論やさらには産児制限論とい ﹃自伝﹄はつぎのようにのべている︒

﹁ マ

ル サ

マルクスの場合よりも マルクス主義における三つの思想的源泉と同様の

本稿のはじめにのべたミルの基

(15)

584 

った実践的帰結がみちびき出されるからであった︒このような一連の思想の信奉者であった青年︑ミルの持前の熱情

するようになってからも︑ が︑あのエピソートを生んだのである︒しかも︑彼がフランス急進派の思想にふれて社会主義思想をある程度容認

さらにその晩年友人ソーントンの批判によって賃金基金説を放棄してから後でも︑人口

制限のみが生活水準の究極的上昇を保証するという信念を︑決して失わなかった︒遺稿﹁社会主義論﹂において︑

低賃金の主原因は︑社会体制の如何をとわず生活資料に対する人口の圧力であるとされ︑

ーリエ主義が人口問題の重要さにヨリ大きな注意をはらっているということの故に他の社会主義思想よりも高く評

価されていることは︑その・一証左である︒ところで︑このような︑ミルの主張の根底には︑彼が﹃経済学原理﹄の成

功の主なる原因とするところの生産分配峻別論がよこたわっていることに︑注意しなければならない︒彼は︑人力

の如何ともしがたい自然法則たる生産法則と︑社会改良によって修正しうる分配法則とを明確に区別し︑それにも

とずいて第二篇の分配論を財産制度論から出発せしめ︑ そこで資本主義と社会主義との比較を行うとともに第四篇

第七章の﹁労仇者階級の将来﹂という展望をうち出したのであって︑この点にこそ本書を﹁これまでの経済学書に

( 1 1 )  

対して反感をいだいていた人たちの心を緩和する上に相当役立つものたらしめた所以﹂があると自負するのである が、しかし、分配法則の基礎に之を超歴史的に規定する自然法則ー—ーその中心がかの人口法則にほかならないーーよ 3 ︑ ︑ ︑ ︑ ︑

厳存を固執する以上︑基本的にはオーウエン主義者の批判を﹁感傷的﹂だと一蹴した二

0 年代の主張とすこしもか

わっていないのであって︑これでは人口制限論のような冷酷無情な主張をおこなう経済学に対する攻撃を根絶する

ことは依然として不可能である C ミルの﹃原理﹂について今まで書かれたものの中で最もすぐれた体系的批判の二

書ーー'チェルヌイシェフスキーの﹃評解と概説﹄(‑八六

01

一年︶エッカリウスの﹃一労仇者の反駁﹄︵六六ー七年︶

ル の

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註 釈

︵ 杉

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ルイ・プランの主張やフ

一 四

(16)

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註釈

︵杉

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ーーはともにその攻撃の主目標をこの人口制限論にむけているのであって︑われわれはこの場合︑

﹁さらに教養ある一そう批判的な人間は︑分配諸関係の歴史

的に発展した性格を承認するが︑しかしその代りに︑生産諸関係そのものの︑同等不変な・人間的自然から生ずる

(12) 

•したがつてあらゆる歴史的発展に係わりのない・性格を、それだけます

l

\固執する。」

一八二五年におこなわれたオーエン主義者と哲学的急進派との間の論争にミルも参加し︑

タムソンとわたりあったことは︑彼の最初の社会主義批判として重要である︒

年ラスキの努力によって発表された︑ミルの演説草稿から︑

一 五

ウィリアム・

﹃自伝﹄によれば︑討論はまず人口

﹁その問題がおわると︑今度はオーウェンの主義全体の価値についての討論が始まった︒

この論戦は前後を通じて︑約三ヶ月にもわたったのだが︑それは実にオーウェン主義者と彼等が自分たちの最も頑

(13) 迷な反対論者とみなしていた経済学者との肉弾戦であったのである︒﹂同じくベンサムの体系から出発しながら︑

一方では︑その民主主義的︑環境論的主張を徹底せしめることによってイギリス共産主義を基礎ずけたオーエンの

( 1 4 )  

思想と︑他方ではその自由主義的改良論的側面に実質的内容をあたえようとしたリカード学派とが︑一八二四年の 団結禁止法撤廃という新しい段階の下でおこなったこの理論的対決において︑青年ミルがいかなる論陣をはったか

ということは︑われわれの興味を十分そそるものがあるが︑この討論会におけるミルの最終的主張を︑われわれは後

( 1 5 )  

うかがうことができる︒それは︑まず︑タムソンの指摘す

るところの競争原理の支配する現体制に内在する害悪のごときは︑現実の誤認︵利澗・地代部分の過大視のごとき︶か︑

正しい経済論11補償説に対する無智︵機械の採用が労佑者の窮乏と彼等相互の憎悪感をかりたてる原因だと考えるごとき︶か︑

あるいは社会主義社会の本質に対する認識の足りなさ︵そこには何らの競争も存在しないとするごとき︶等にもどずく 問題からはじまったが︑

最後

に︑

ぎのミル批判の言葉を想起せざるをえないのである︒ マルクスのつ

(17)

586 

するような全面的千渉の危険があること︒

﹁人間には彼の仲間に対する愛よりもはるかに恒常的で又はるか

幻想であると指摘した後︑すすんでタムソン等の主張する協同原理の支配する社会がもたざるをえない難点ー│'

︵一︶生産力をフルに発揮せしめえないこと︵二︶優秀な経営力を十分に保証しえないこと︵三︶個人の自由を侵害 ︑ルの年譜とそれに関する一註釈︵杉原︶

︵四︶その制度を発足させるに多大の費用をともなうことーーを列挙︑

自分の基本的態度をつぎのように約言している︒

に普遍的な原理が内在している︒それは彼自身に対する愛である︒私は︑前者の原理を排除しはしないが︑主たる

( 1 6 )

17) 

希望を後者の原理にかけたいと思う︒﹂わたくしは︑遣稿﹃社会主義論﹄における彼の競争讃美論を想起し︑本稿

のはじめにのべた彼の社会主義に対する基本的態度の特質を︑あらためてここに確認せざるをえないのである︒

( 1 ) この期間にかかれた.`︑ルの日記や手紙はプリティシュ・ミュゼアムに保存されているといわれるが︑その一部分はペイ

ンの伝記

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8 2

) やミュラーの前掲書に紹介されている︒

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︑ミュラーのこの著作は︑彼のフランスヘの目覚め︑一八︱︱

‑0

年革命︑サン・ンモン主義者たち︑コ

ントの影響︑トウックヴィルの影響︑四八年革命︑晩年という順序で︑ミルの社会ならびに政治哲学におよぽしたフラン ス思想の影欝を︑国家的干渉と個人的自由との関係という点を中心にあとづけたもので︑ミルの社会主義論の研究にとつ てもきわめて有益な力作である︒

( 3 )

﹃自伝﹄八六頁︒︑ミュラーは︑大革命史に対するこの青年︑︑︑ルの惑激の中に︑後年七月革命や二月革命に際して彼が示

したようなロマンティックな熱狂ぷり

1

それは︑ベンサムや父ミルが大革命に対して決して示さなかった態度であるー がすでに見られる点を注意している

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1 0 )

( 4 ) こ の 点 を 詳 細 に 吟 味 し た 最 近 の 研 究 と し て

︑ 福 原 行 三

J.S

︑ミルの社会主義思想についての一考察﹂︵大阪府立大学

紀要・人文・社会科学篇第四巻収所︶がある︒

( 5 )

﹃ドイツ・イデオロギー﹄古在訳・岩波文庫一

・ 1 0

八頁

( 6 )

﹃自伝一にはしるされていないこのエピソートについてはつぎの二書ならびにそこに掲載されている諸文献を参照︒

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一 六

(18)

587 

︑ルの年譜とそれに関する一註釈︵杉原︶

一 七

( 7 )

﹃自伝﹄一三一頁︒なおさきにふれた︑︑︑ルの公刊著作目録によれば︑彼は︑一八二三年から二四年にかけて雑誌

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D 言ミ.に人口制限に関する三つの文章を寄稿している

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︑ d .

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4

5)

尚この雑誌の進歩的性格︐

1

ついては︑帆足図南 次『イギ"スの民主主義文学』(昭和三十一年)五七•五九・七―-」ー四・九二頁を参照。

(8

)

このような意義をもつ賃金基金説が明確に形成されはじめる端緒ほ︑学説史上︑父ミルに求められ︑その完成者は息子 のミルであるとされている︒吉田秀夫﹃新マルサス主義研究﹄五

01

六七頁︒なお玉野井芳郎﹃リカードからマルサスヘ﹄

六八.︱‑六頁参照︒

(9

)

このような立楊から産児制限論を最初に明確に主張したフランシス・プレースの学説については︑吉田秀夫・前掲書︑

九―― 1-10 二頁、真実一男「学説史におけるマルサスの復位|ー—その人口理論を中心として|_」(大阪市大・経済学年 報第六輯所収︶二九ー三

0

頁を参照︒

( 1 0 )

﹁社会主義論﹂のうち﹁現在の社会秩序に対する社会主義者の反対論の吟味﹂という節を参照︒

( 1 1 )

﹃自伝﹄二八ヒー八頁︒なお﹃原理﹄緒論の末尾を参照︒ (12) 『資本論』第三巻第五十一章「分配諸関係と生産諸関係](長谷部訳•青木書店版.―二三六頁)。なおここでの註に、‘‘

ルの﹃原理﹂ではなく﹃経済学試論集﹄(‑八四四年︶が引用されているのは解しがたい︒けだし﹃試論集﹄においては いまだ生産分配峻別論は展開されるにいたっていないのであるから︒

( 1 3 )

﹃自伝﹄一五ニー四頁参照︒なおここで︑︑︑ルが言及しているタムソンとの関係をとりあっかった最近の文献としてつぎ

のものがある︒小林巧﹃忘れられた思想家ウィリアム・トムソンの婦人解放諭﹄︵経済集志第二十六巻第一号所収︶

( 1 4 ) マルクス・エンゲルス﹃神聖家族﹄岩波文庫阪ニニ七頁参照

( 1 5 )

 

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225 

│ 

39 , 

4 4 6

7

( 1 6 )

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238 

( 1 7 ) 杉原﹁

J.S

・ミルの社会主義論ー逍稿

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を 中 心 と し て │ │ ̲ ﹂

号所収︶参照︒ ︵﹃経済研究﹄昭和三十一年一刀

(19)

588 

二 九

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ニ 四

二五

一八

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︱ ‑ = ‑

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一 九

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五月二0日︑ロンドンで︑.ジェームズ・ミルの長子として出生︒

啓蒙思潮の教育論にもとづく父の厳格な個人教授はじまる︒

ベンサムの居宅の隣に移住︑ベンサムとミル家の親交ふかまる︒

父より論理学︑経済学を学ぷ︒︵父︑前年出版した﹃印度史﹄が縁となり︑東印度会社に入社︶

五月より翌年七月までベンサムの弟の招待でフランスに滞在︑大いに見聞をひろめる︒

ベンサムの思想の解説書を読んでこれに傾倒︑以来熱烈なベンサム主義者となる︒心理学︑フランス革命史︑ローマ

法等を研究して教養を広める一方︑グロート︑オースチン兄弟らとの交友を通じて思索をふかめる︒又はじめて雑誌

に論文を発表︑価値論についてトレンズと応酬する︒

友人と共に功利主義協会を結成︑そのリーダーとなる︒五月︑東印度商会に入社︑父直属の書記となる︒フランシス

・プレースの産児制限論に共嗚︑その宣伝をして検束される︒

急進派の機関誌﹃ウェストミンスター・リヴュー﹄創刊︑ミル父子これに協力︵二八年までつづく︶︒

ベンサムの大著証拠論の編纂に没頭する︵二七年出版︶一方︑共同研究︑討論︑執筆など︑精力的に活動する︒人口

問題や社会主義論につき︑オーエン主義者たちと論戦︒

秋から翌年の春頃まで︑重い憂鬱症にかかり︑これを転機に︑従来の思想の偏狭さを反省︒

コールリッジやワーズワースの作品を愛読し︑同好のモリスやスターリングと交友︑またサン・シモン主義者グスタ

フ・デヒタールとあい︑彼を通じてコントの著作をも知る︒

彼自身の思想的過渡期で低とんど外部的活動を行わずに沈潜︒父ミルの演繹論的政治論に対するマコーレーの帰納法

重視の批判に注目︒

ジョン・テーラーの夫人ハリエットと知り相愛の仲となる︒七月革命に際しフランスに急行して現状を視察︑﹃イグ

ザミナー﹄誌に﹁フランス政界展望﹂を発表︑数年間継続する︒サン・シモン主義者アンファンタン︑バザールと相

知る︒﹃論理学﹄の執筆開始︒叉翌年にかけて経済学の諸論文も執筆する0

ジ ョ ン

・ ス テ ュ ア ー ト

・ ミ ル 略 年 譜

ミルの年譜とそれに関する一註釈︵杉原︶

︵後八人の弟妹うまれる︶

(20)

589 

ミルの年譜とそれに関する一註釈︵杉原︶ 四九五 一五六五七五八 ﹃イグザミナー﹂紙に﹁時代の精神﹂発表︑これが機縁でカーライルと親交をむすぷ︒プラトンの対話篇を醍訳して好評を得る︒ウェークフィールドの組織的植民論に興味をもつ︒﹃ロンドン評論﹄創刊︑やがて﹃ウェストミンスター評論﹄を合併するが︑ミル父子はその有力な支持者となるC

ックヴィルの﹃アメリカのデモクラシー﹄に感銘︑文通をはじめる︒健康を害し数ヶ月休養する︒

﹁文明論﹂︒﹁経済学方法論﹂︒父死す︒﹃ロンドン・ウエストミンスター評論﹄の主筆となり︑スターリングやカ

ーライル等をも寄稿させ︑ために旧来の急進派の同志とやや疎遠となる︒

前掲誌の編集のみならず経営をも引受ける︵四0年迄︶︒ヒューウェルの著書に剌激されて﹃論理学﹄の執筆再開︑

帰納法の部分をかきあげる︒コントの﹁実証哲学諧義﹄から多くを得る︒﹁ベンサム論﹂︒カナダの反乱を機に植民

地を自治領にすぺしという﹁ダーラム報告﹂を支持︒ダーラム卿を首領とする急進的第三政党が結成される機運をつ

く る ぺ

< 努 力 す る も 成 功 せ ず

四0﹁コールリッヂ論﹂︒﹁アメリカのデモクラシー﹂︒この頃からロンドンの社交界と殆んど交渉をもたなくなる︒

四 一

﹃ 論 理 学

﹄ 成 稿

︒ コ ン ト と 文 通 開 始

︒ 曹 .

四三﹃論理学︑論証と帰納︑証明の原理と科学研究の方法とに関する一貫した見解﹄公刊︵第三版五

0

年・

第八

版七

二年

︶︒

四四﹃経済学上の未決の諸問題に関する論文集﹄公刊︒三六年の論文をふくむ五篇を収録︒

四 五

﹃ 経 済 学 原 理

﹄ 執 筆 開 始

﹁ 労 佑 の 要 求

︒ 曹

四六カーライルと絶交︒コントとも文通絶える︒アイルランドの馬鈴薯飢饉に際しその土地制度を研究︒

四八︐二月革命の勃発と前後して﹃経済学原理︑社会哲学に対するその原理の若千の応用﹄公刊︵第二版四九年︑第三版五

二年︑第七版七一年︶

ョンテーラー病死︶cーフランスニ月革命擁護論﹂e

︵ ジ

二0年間の恋愛の後︑テーラー夫亡人と結婚︑フランスの政変︵ルイ・ナポレオンのクーデター︶に失望︒

会社の重役に昇進︵年俸二

0

0 0

ポンド︶︒妻と﹃自由論﹄の共同執筆開始︒

インドにセボイ︵土民兵︶の叛乱勃発し東印度会社の存廃問題化︑会社の為の請願書や公開状を発表︒

東印度会社の廃止を期に退職︒南欧への旅行の途中アヴィニオンで夫人急逝︒以後当地とロンドンで養娘ヘレン︑テ

一 七 六 三 三 一

三 四

一九

(21)

.590 

七〇七三 六一六

六五 二

六六六七

六八

六九 五九

(一九五六•一― ·10

ーラーと共に生活する︒

『自由論』、『議会改革論』、『論文集』(三三年以来の著述を自選したもの)第一•第二巻。ヘーアの主張する比例代表

制に共嗚︒この頃からふたたび種々の対外的交渉をもちはじめる︒﹃代議政治に関する考察﹄︒﹁功利主義論﹂︵六三年刊行︶︒﹃自伝﹄および﹃婦人の隷従﹃一の執筆︒﹁アメリカの戦乱﹂︵北軍を支持する論文︶でイギリスの世論を批判︒﹃コントと実証主義﹄︑﹃ハミルトン哲学批判﹄︒下院議員に当選︑選挙法改正に尽力︑主要著書の廉価版刊行︒ジャマイカの土民の暴動に対する官憲の不当な弾圧に抗議する運動に熱心に参加︒﹃論文集﹄第三巻︒﹁要アンドリューズ大学総長就任演説﹂︒下院で婦人参政権を主張︒﹃

イ ン グ ラ ン ド と ア イ ル ラ ン ド

︒ 総 選 挙 に 落 選

父の心理学の著作の新版を編集出版︒ソーントンの賃金基金説批判を容認︒﹃婦人の隷従﹄︒社会主義に関する著書

を起

稿︒

借地改良協会を組織し︑会長となって活動︒﹃自伝﹄および宗教論執筆︒

アヴィニオンで丹毒のため五月七日逝去︒同年﹃自伝﹄︑翌年﹃宗教論﹄︑七五年﹃論文集﹄第四巻︑七九年社会主義

論﹂︑いずれもヘレン・テーラーにより公刊される︒

本稿は昭和三十一年十一月一日同志社大学で行われた経済学史学会主催の

J. s.

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︑ル生誕百五十年記念講演会において私の行った講演﹁

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ミルの年譜とそれに関する一註釈︵杉原︶

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参照

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