サー・ジェームズ・ステュアート : その人と時代 背景を中心として
その他のタイトル A Sketch of Sir James Steuart's Life and his Age
著者 戒田 郁夫
雑誌名 關西大學經済論集
巻 8
号 2‑3
ページ 176‑206
発行年 1958‑11‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/15624
従来の学史および思想史研究においては︑重商主義ー│̲︵重農
学派}'ー!古典学派というーつの範疇をもつてすべての人とそ る歴史的研究に内含する︱つの大きなジレンマである︒ 戦後︑内外で彼﹁ステュアートの復活﹂が叫けばれ︑多くの どこかに歪みが生じる︒これは学史や思想史のみならずあらゆ 的浸透を行い理論的再構成に着手しようとするならば︑必らず その顕著な例が︑ する文献の宝庫であった︒このおびただしい文献に対して概念学史や思想史そのものに大きな誤謬を生ぜしめる原因となる︒ がある︒これは学史や思想史の領域においても例外ではない︒
セリグマンによれば︑十七・八世紀のイギリスは経済学に関 合︑しばしば﹁プロクルステースの鉄床﹂の誤謬に堕する傾向 歴史研究において︑過去の存在事実を体系的に把握する場
は し が き
サ ー
・ ジ
工 ー
ム ズ
の学説を評価して来た︒この鋳型に入らないものは圧縮され引
き伸ばされ︑或いは余分な部分を切断されるか︑そうでなければ
全く無視されるかのいずれかであった︒それが余り重要でな.い
人であるならば︑それ程の悲劇が生じないであろう︒だが︑そ
れがすぐれた体系・思想を有つ人に対して行われる場合には︑
サー・ジェームズ・ステュアート・デナム
S i r J a m e s S t e u a r t D e n h a m
(
17 13
1'80)
その人であった︒
すぐれた労作が相次いで出されて来たが︑このようなステュア
ートの再評価は︑ステュアートに関心を抱いている者にとつて —その人と時代背景を中心として—ーー
ス テ
ユ
戒
ア ー ト
田
郁 六四
夫
1.77
苗めて喜ばしい︒
われわれは︑最初︑英国公債論史研究の一環として十八世紀 における公債思想の対極的代表論者にスミスとステュアートを とりあげるべく︑その準備過程において︑余り知られざる﹁人と してのステュアート﹂を知る必要にせまられた︒けだし︑人の 思想の形成はその人の生活環境内至態度と決して無関係ではあ り得ないからである︒それ故︑本稿は︑その準備段階として︑
主としてステュアートの略伝と時代背景のささやかな素描を︑
( 1 )
︵2)
セ ン
S . . R S e n
とティラー
W .
L . T a y l o r
の近業に拠りなが
註
( 1
) S e n , S a m a r R a n n . j a T , h e E c o n 0 m i e s o f S i r ] a
・ m e s S t e z
` a
ミt . o L n d o n ,
1 9 5 7 .
~、わが国Iではすでに、
小林昇教授︵﹃立教経済学研究﹄第十一巻第三号︶と︑財 政論という限られた視角からではあるが︑木村元一教 授︵﹃一橋論叢﹄第三九巻第五号︶による同書のすぐれ た紹介と批評がある︒国外では︑寡聞な筆者の知るか ぎり︑ナワーズ女史
K . A . N a w a z ( T h e n I d i a n E c o n o ・ m i C R e 0
t"ew•V o l . I V N , o . 1 . )
ャ ッ グ ゾ ン
A .
J•Yo.g n g s o n T ( h e c E o n o m i c J o u n
`a-•V o l . L X ] [ , N o .
2 69 .)ゴードゥン
S . G o r d o n ( T h e ] o u r n a o l f P o l i t i c a l
E 8
n o m y . V o l . L X V I , N o .
4 .)等 の
書 評
あ が
る ︒
( 2 )
T o y l o r ,
W .
L . ,
A
S h o r t L i f e o f S i r J o m e s S t e u ・ a r t : P o l i t i c a l E c o n o m i s t . ( T h e S o u t h A f r i c a n
]our•サー・ジェームズ・ステュアーー︵戒田︶
ら︑なかば紹介のかたちで試みたものである︒
五 六
n a l o f E c o n o i m c s . V o l . X X V N , o .
4
.
p p .
290 │
30 2. )
││﹃原理﹄生成の基盤ーー 十七世紀のなかごろ以来︑イングランドに起った二つの政治 的革命│ービューリタン革命
(1 64
ー
2£4 9)
と名誉革命
(16881'8
9)
‑
ーーは﹁中庸政府と二つの国民的政党︵トーリー党とウィ
( 1 )
ッグ党︶の創立とをもつておわった︒﹂すなわち︑それはプル ジョア的志向をもった封建階級出身の土地所有者と新興の金融
( 2 )
的・製造業的・商業的中産階級とのあいだの妥協であった︒プ ルジョア的利益の推進・擁護という共通の利害にもとずき︑彼 等の手で押し進められた経済政策は︑
H
海外貿易の強化︑ロ 原料供給の源泉および英国商品のための市場として植民地なら びに海外領有地の発展︑国国内における農耕地︑就中小麦等 の主要食糧の栽培促進︑四毛織物工業等の国民的産業の育 成︑という四重の目的をもつていた︒そして︑十七世紀において は︑この政策の基調は植民地獲得と海外貿易に置かれていたが︑
十八世紀に入ると︑その重点は︑国内における農業︑交通業︑
炭鉱業および製造業等々︑いわゆる
p r o v i n c i a l h i n t e r ‑ l a n d の発展に移って行ったのである︒しかしながら︑それらの国内 産業の発展も︑所詮︑植民地および海外貿易の独占によって獲
危
ヽ機
に
お
け
る
原
蓄
体
制
(A)
+ 八 世 紀 イ ギ リ ス に お け る 公 債 の累租高
I I I
1公債元金(ポンド)1 7 0 2 1 6 , 3 9 4 , 0 0 0 .
ア ン 女 王 戦 争
( 1 2 , 7 6 7 , 2 2 5 . )
( 1 7 0 2 ‑ 1 7 1 3 ) 1 7 1 3 5 2 , 1 4 5 , 0 0 0 .
ス ペ イ ン ・ オ ー
1 7 3 9 4 7 , 9 5 4 , 0 0 0 .
ス ト リ ヤ 戦 争
(46,39
.91~
・3 , 4 , 2 0 0 1 . 0 ) .
( 1 7 3 9 ‑ 1 7 4 8 ) 1 7 4 8 7 9 , 2 . ( 7 5 , 4 4 8 , 8 0 9 . )
七 年
戦 争1 7 5 6 7 4 , 3 3 2 , 0 0 0 .
( 1 7 5 6 ‑ 1 7 6 3 ) 1 7 6 3 1 3 8 , 8 6 5 , 0 0 0 . ( 1 3 2 , 1 2 0 , 6 6 4 . )
ア メ リ カ 独 立 戦
1 7 7 5 1 2 8 , 5 8 3 , 0 0 0 .
争
( 1 7 7 5 ‑ 1 7 8 3 ) 1 7 8 3 2 4 9 , 8 5 1 , 0 0 0 .
第 一 次 ナ ポ レ オ
1 7 9 3 2 4 4 , 1 1 8 , 0 0 0 .
ン戦争
( 2 4 4 , 7 2 0 , 9 7 6 . )
( 1 7 9 3 ‑ 1 8 0 2 ) 1 8 0 2 5 2 0 , 2 0 7 , 0 0 0 . H i r s t , F . W . , The C r e d i t of N a t i o n s w i t h S p e c i a l R e f e r e n c e t o t / z e D e b t s of G r e a t B r i ‑ t a i n , Germany, F r a n c e , and The U n i t e d S t a t e s , Washington, 1 9 1 0 .
p.1 9 の t a b l e ょ
り作成。尚、定評ある H a r g r e a v e s の数字(こ
の表では括孤内に入れた)と若干異るが、構成
の便宜上 H i r s t のものをとつた。
サー・ジェームズ・ステュアート︵戒田︶
( 3 )
得した資源と市場があってはじめて可能であった︒
従って︑一七一四年から八三年にかけてイギリスに君臨した ウィッグ党の重商主義体制
r
'~いわゆる。ハーラメンタリ・コル
ベルティズムーー←は︑楯民地および海外貿易に利害関係の緊密 な独占的大商業資本と競争力弱く末だ自立し得ない初期産業資 本との経済外的支柱であった︒他方︑国内貿易に関係の密なる 商業査本および既に経済的に自立しうる力を獲得した産業資本 は国家権力による保渡を必要としなかったばかりか︑そのよう
三 00
万ボンドであった公債額は︑第一次ナボレオン戦争の始 まった一七九三年には最初の約十九倍の二四︑五
00
万ボンド
( 4 )
に達した︒十八世紀全般を通じて︑
形 で
あ っ
た ︒
が つ
て ︑
内国消喪税収入から成つていた︒した
それらは主として地主と一般
消費者︵大部分の佑<須民︶
の肩に重くの 税収入の大宗は地租収入と関税および にみられる如く︑十八世紀における租 払いのために租税の増加を伴う︒ B 表 公債の累稲は必然的にその償遠と利 ら一七六三年までは八•五彩であっ
(5 )
た ︒
﹂
年 ま
で は
一 〇
彩 ︑
そして一七五五年か た︒たとえば一七 0
一 年
か ら
一 七
この上昇は実際の戦争の年には更に目覚しかつ
﹁公債の年増加率は三・六 によって︑公債の累稜は急激に増大した︒
一 七
0
二 年
に 約
一 ︑
こ の
世 紀
を 通
じ て
︑
て い
た の
で あ
る ︒
五度にわたつて行われた植民地獲得戦争
な武力によって維持された保護体制を経費のかかるものと感じ
六 六
179
(B) 十八世紀イギリスの租税収入の構成(年平均収入) (単位千ポンド)
サ ー
・ ジ ェ ー ム ズ
・ ス テ ュ ア ー ト
(
戒 田 )
I l ( A ) 地租およ l ( B ) l ( C ) ' ( D ) l ( E ) /A+C+D /EC%)
び ア セ ッ ス ド 印 紙 税 関 税 内 国 計
・タックス 消 費 税
1 6 8 8
ー1 7 0 0 1 , 6 5 1 . 6 5 主 1 ,
M~-t:・ ‑ 1 , 0 9 5 . 3,817.1 I 9 8 . 2
1 7 0 1 ‑ 1 7 1 0 1 , 8 9 0 . 9 1 . 1 , 3 7 8 . 1 , 5 8 2 . 4 , 9 4 1 . 9 8 .
;
1 7 1 1 ‑ 1 7 2 0 I 1 , 6 6 8 . 1 3 8 . 1 , 5 6 3 . 2 , 2 0 0 . 5 , 4 6 9 . 9 8 . 2
1 7 2 1
ー1 7 3 0 1 , 4 3 3 . 1 5 2 . 1 , 6 0 5 . 2 , 6 9 4 . 5 , 8 8 4 . 9 7 . 4 1 7 3 1
ー1 7 4 0 1 , 0 6 1 . 1 3 9 . 1 , 5 2 2 . 2 , 8 8 4 . 5 , 6 0 6 . 9 7 . 5 1 7 4 1 ‑ 1 7 5 0 2 , 1 2 2 . 1 3 3 . 1 , 3 1 9 . 3 , 0 7 6 . 6 , 6 5 0 . 9 7 . 8 1 7 5 1 ‑ 1 7 6 0 1 , 7 8 9 . 1 9 3 . 1 . 7 7 9 . f l 3 , s o ? . 7 , 3 6 8 . 9 7 . 3
1 7 6 1 ‑ 1 7 7 0 2 , 1 3 9 . 3 0 9 . ・ 2 , 3 8 5 . 4 , 8 4 9 . 9 , 6 8 2 . 9 6 . 8 1 7 7 1 ‑ 1 7 8 0 2 , 0 9 9 . ̲ 3 9 9 . 2 , 5 9 5 . 5 , 2 7 2 . 1 0 , 3 6 5 . 9 6 . 1 1 7 8 1
ー1 7 9 0 2 , 7 7 8 . 1 , 0 7 4 . 3 , 5 4 1 , I 6 , 6 0 0 . 1 3 , 9 9 3 . 9 7 . 1 7 9 0 ‑ 1 8 0 0 3 , 8 9 8 . 1 , 9 0 8 . 4 , 8 0 0 . 1 0 , 0 6 7 . 2 0 , 6 7 3 . 9 0 . 7
* 1 6 9 4 ‑ 1 7 0 0 の平均
P r e s s n e l l , L . S . , C o u n t r y Banking i n t h e I n d u s t r i a l R e v o l u t i o n , O x f o r d , 19~6.
p . 6 4 . の表から引用作成。
六 七
口 一
人 当
り ︱
︱ ‑ 0
マルクであった政府支出負担額 が︑スペイン・オーストリヤ戦争期には三八マル
ク︑七年戦争の年は六六マルク︑ アメリカ独立戦
( 6 )
争期には六ニマルクと著しく大きくなった︒更
は一六•五彩、 スペイン・オーストリヤ戦争の年
には一四・八彩︑七年戦争とアメリカ独立戦争の 時には、それぞれ一九・三%と一七•五彩であっ
( 7 )
た︒平時の一〇彩内外に比べて︑二 0 彩近くにま
( 8 )
で お よ ん だ の で あ る ︒
伸吟したかは︑よく引用される一七八四年の詩︑﹁
︵前略︶帽子を見よ︑リボンを見よ︑右を見ても左
を見ても︑空を仰いでも︑牧場を眺めても︑見廻 すかぎり課税を免れたものとしては石けら︱つな い︒これ以上租税をかけるいかなる余地がある か︑我々は頭の上から爪先きまでかくも租税で充
彼等が如何にウィッグ的重商主義体制の重圧に 大ざっぱな数字であるが︑ アン女王戦争の時期に に︑国民所得に占める政府支出の割合をみれば︑ G
u s
t a
v
Sc hm ol le r
に よ
れ ば
︑
アン女王時代に人
しかかつていたのである︒グスタフ・シュモラー
相次いでクローズ・アップされて来た︒
﹁人ば﹁危機の経済学
な統一戦線を形成して旧体制の攻撃に立ち上った︒その中心と らさない高価な邪屎物としか意識されなくなった︒彼等は広範
一 七
三 0
年代を工ポックとする農業の資本主義的発
サー・ジェームズ・ステュアート 似て︑ジョン・プルはどんなに痩せ衰えようとも我慢をつずけ
( 9 )
ているのだ﹂という語句の中に端的に表わされている︒まこと に︑十八世紀なかばごろから以降のイギリス市民社会は︑民衆
( 1 0 )
の心に弥勒の世と映じたであろうことは想像に難くない︒
佑<貧しき人々ーー彼等こそ旧体制と既に始まりつつあった 産業革命の二重の足枷に縛られた真の犠牲者であったのだーー は云うまでもなく︑最早や自律的な再生産軌道をもつに至った
業 産
資 本
︑
( 1 1 )
展と共に完全にプルジョア化した地主階級ならびに該体制から 閉め出され︑それからは何らの利益をひき出すことのできない中 小商業資本にとつては︑曽つては慈母の如く彼等をはぐくんで くれた保談体制が今や独占的大商業資本だけにしか利潤をもた なったのが︑史家の云うトーリー・フリー・トレイダーであった︒
ウィッグ的重商主義体制がこのようにして全機構的な解体の
危機に直面した時期に︑二人のスコットランド人の経済学者が たされている︑腫物と傷夷で被われたあの不幸なヨプ
oJ
b
に
も
︵ 戒
田 ︶
大畑文七﹃財政学序説﹄︵有斐閣︶昭和十四年︑
頁 ︒
( 1 2 )
︵1 3
)
体系﹂たる﹃政治経済学原理﹂
( 1 7 6 7 )
の 著
者 ︑
ジェームズ・ス
テュアートであり︑今一人はウィッグ的重商主義国家の﹁形骸
( g
化﹂の仕事に着手したアダム・スミス
A d a m S m i t h ( 1 7 2
3 ー
' 9 0 )
で あ
っ た
︒
註
(1 )
エンゲルス﹃イギリスの状態#二﹄マル・エン選
集補巻 5
︵ 大
月 書
店 ︶
五 八
頁 ︒
(2)
エンゲルス・寺沢•山本共訳「空想から科学へ』
︵ 国
民 文
庫 ︶
三 五
︑ 三
六 頁
参 照
︒
( 3
)
C f . F a y , C . R . , G r e a t B r i t a i n f r o m d A a m S m i t h t o t h e P r e s e n t D a y ; An
E g
o m i c n a d S o c i a l S u r v e y . L o n d o n , 5 t h e d i t i o n 1 9 5 0 . p , p
2 3
‑ 2 4 .
( 4 )
H a r g r e a v e s , E . L . , T h e N a t i o n a l D e b t . L o n d o n , 1 9 3 0 . p . 2 9 1 . T a b l e A .
( 5 )
S t e t e r t n
W . ,
F .
S i , r J a m s e S t e u a r t o n t h e
Pub•l i e D e b t ( . T h e Q u a r t e r l y J o u r n a l o f
Economics•
V o l ,
L I X ,
N o
;
3.
p . 4 5 1 , )
( 6 )
S c h m o l l e r , G . H , i s t o r i s c e h B e t r a c h l u n g e n i . i b e r S t a a t e n b i l d u n g u n d F i n a n z e r i t w i c k l u n g . ( J a h r b . f . G e s e t z g . V , r e w a l t .
u•V o l k s w . ,
Z
.
F.jlirg•3 3 . L e i
・ p z i g 1 9 . 0 9 S . . ) 2 8
六 八
一 九
六
I & I
サー・ジェームズ・ステュアート
0載
田 ︶
p t
̀ b l i e F i ̀ l d C e . f r o n ‑
準備期であった︒
( 8 )
F i s k , H . E . , E n g l i s h R e
ミ
o ‑
u t さ
f ‑ o f 6 N 8 8 . L o n d o n , 1 9 2 0 .
大内・武田﹃財
政学﹄︵弘文堂︶昭和三十年︑七二頁参照︒
( 9
)
B u x t o n , S . , F i n a n c e a n d P o l i t i c
s ; An
H i s t o ; i c a i l S t u d y 1 7 8 3
1
1
8 8 5 . V o l . 1 . ( i n
2
v o l s ) L o n d o n , 8 1 8 8 .
p ,
1 8 f n .
ナヒムソン•阿部訳r財政学』昭和七年、
九 八
ー 九
頁 ︒
( 1 0 )
フェイによれば︑国富論の刊行された一七七六年
は﹁英帝国史上最も暗黒の年﹂であったと︒
F a y , o p . c i t . ,
p .3 .
( 1 1 )
M a n t o u x ,
P . ,L a
R
̀ o o l t ̀ l i o n i n d u
s t さ
l e 0 U X V ] [ 0 s i e c / e
e ̀
iA n g l e l e t e r r e ,
R
ミr i s , 1 9 0 6 , ( M . V e r n o n ( t r .
︺
.
T h e I 且
u s t
̀ . i a
‑ R e g
‑ u i i o n i n t ぎ
1 8 t h C e n t u r y , L o n d o n , 9 2 1 8 . r e v , 1 9 3 7 .
p ,1 6 3 . )
( 1 2 )
本田・水田編﹃社会思想史﹄︵ミネルヴァ書房︶昭
和二九年︑七二頁以下︒
( 1 3 )
フル・クイトルは
"
A n I n q u i r y i n t o t h e P r i
母
d p i e s f o o l P i t i c a l E c o n o m y , B e i n
g a ̀ ,
E s s a y o n t h e
・ S c i e
辱 e
ミi f D o m e s t i c P o l i c y i n F r e q N a t i o n s . I n
( 7
)
t h e
ウォールポールの平和時代
( 1 7 1 4 ‑ ' 3 9 )
でさえも強
力な海軍の増強がみられた︒
( F a y , o p . c i t s
p .
2 5 . ) , ¥ '
れ故十八世紀のわずかな平和期は明らかに次の戦争の
l a i s s e z f a i r e
邑
c h 0 r e p a r t i c u l a r l y c ; n s i d e r e d P o p u l a t i o n ,
A g r i c u l t u r e , T r a d e , I n d u s t r y , M o n e y , C o i n , I n t e r e s t , C i r ‑ c u l a t i o n B , a n k s
̀
E x c h a n g e , P u b l i c C r e d i t a n d T a
・ x
e s .
2
v o l s . L o n d o n , 7 6 1 7 .
( 以
下 ﹃
原 理
﹄ と
略 す
︶
(14)
前掲︑エンゲルス﹃イギリスの状態#二﹄一〇六頁︒
ス テ ュ ア ー ト と ス ミ ス の 拮 抗
の 成
果 で
あ っ
た ︒
六 九
彼の哲 れたときには︑当時のイギリスの知識人の間に相当の反響を呼 んだと云われている︒
T h e M o n t h i y R e
ま
i e
さは一七六七年の四
月号から七月号まで四回に分けて書評を掲載してステュアート
の鋭い素質と﹃原理﹄の出来ばえを賞讃した︑また
T h s ・ c r
i t ,
•CalR
さ言も同年の五月号から七月号にわたつて論評し、研
( 1 )
究主題の新鮮さと彼の独創性を讃えた︒しかし︑当時すでに
の風潮が国内にみなぎつていたために︑
学市民社会は﹁不均衡﹂と﹁急激な変化﹂を胚胎しているた
めに︑国家若くは為政家は政策手段によってこの矛盾を克服す
ペき義務があり︑他方ウィッグ的重商主義にみられるグループ
の利益︑経済的自由主義におけろ個人的利益は︑すべて﹁全体 ステュアートの﹃原理﹄は亡命生活十七年間の倦まない研究
二 ︑
一七六七年に第一版︵四つ折阪二巻︶が刊行さ
憩の地を見い出すのであるが︑他方︑スミスの﹃国富論﹄もこ
( 5 )
の時期にドイツにいち早く輸入された︒当時のドイツは﹁経済
学の生きた地盤が欠けていたので⁝・・・経済学は完成品としてイ
自 来
︑
ステュアートはヨーロッパ︑とりわけドイツにその少 二版の独訳があらわれ︑ イルランドのダプリンで出版されたのであり︑また一七六九年 巻︶は三年後の一七七 0 年に当時イギリスの植民地であったア ったヨーロッパでは事情が異なり︑ ナー・ジェームズ・ステュアート︵戒田︶
の利益﹂に遠元さるぺく︑彼らグループおよび諸個人はこの﹁
容られなかった︒しかも︑ 全体の利益﹂のために集団に服従すべきことを強調ーーは受け
一七七六年にアダム・スミスの﹁国
富論﹂が刊行されて以来︑イギリスにおいては︑事実上古典派
経済理論が支配的学説となり︑ステュアートは無惨にも﹁死し
( 2 )
たる犬﹂として見捨てられ︑﹃原理﹄と共に歴史の芥溜のなかへ
( 3 )
投棄されて失ったのである︒
しかしながら︑イギリスの植民地や彼が長期の亡命生活を送
ても明らかである︒
ス テ
ュ ア
ー ト
の ﹃
原 理
﹄ は
可
成り普及したのである︒たとえば︑﹃原理﹄第二版︵八つ折阪三
には﹃原理﹄第一版の独訳が二つ︑更に一七九六年には﹃原理﹄第
( 4 )
一七八九年には仏訳の出たことによっ
チェスクー派の活躍をみるのである︵第三期︶︒ ドイツ自由主義運動の理論的基礎を築いたところの︑プリンス が本格的に摂取されるのである︵第二期︶︒かくて︑ 七七六年から七八年にかけてライプチィヒで出版されたシラー
( 7 )
J•
F . S c h i l l e r
による﹃国富論﹄の独訳をもつて濫籐とする︒
あったゲッチンゲン大学の機関誌ょ^
Gettingis~he
g e l e h r t e n ・ A z e i g e n
︑ ︑
に お
い て
フ ェ
ー ド
ル F e d o r
がシラーの独訳を好意的
に論評したのを契機として︑﹃国富論﹄の独訳︑批評および紹介
( 8 )
が相次いで行われた︵第一期︶︒ 次いで︑イギリスでは﹁経済
( 9 )
学の領域での科学的躍動によって特徴づけられ﹂る一八二 0 ー
三 0 年代の時期に︑ドイツではネーペニウス
N e b e n i u s
や ヘ
ル
・ ス
ミ ス
P r i n c e S m i t
h を
中 心
と す
る ︑
一 八
四 0 ー
七 0 年には北ドイツの小麦の輸出に関して自由貿易論を唱え︑
いわゆるドイツ・マン
マ ン
H e r m a n
n 等によってスミス︑リカードの古典派経済理論 翌一七七七年三月十日と四月四日に︑当時イギリスの支配下に イギリス古典派経済学のドイツヘの流入は︑周知のごとく︑ 済理論の吸収に懸命であったのである︒ ギリスとフランスから輸入ざれた︒ドイツ人の経済学教授たち
( 6 )
は生徒たるにとどまつ﹂ていた︒したがつて彼等は先進国の経 七 0
183
ナー・ジェームズ・ステュアート︵戒田︶ 焦眉の課題は︑したがつて︑対外的には先進国との経済闘争の 特殊な社会的経済的諸条件のもとに出発したドイツ市民社会の かった当時のドイツは︑資本蓄積乏しく市場も狭溢であった︒ し︑植民地獲得競争に落伍し且つ未だ貧弱な農業国家にすぎな 成︶︑そこから莫大な利潤の獲得と資本蓄積とを行い得たのに対
七
再評価と極めて密接な関連を有つている︒この国ではすでに︑ ドイツにおけるスミス批判の高まりはステュアートに対する イツに輸入せられ摂取されるのであるが︑やがてこのイギリス 古典派経済学に対する批判的態度がドイツの特殊事情より生成 乱ーー宗教改革戦争︑漿民戦争︑三十年戦争等々ーーを起因とす る政治的混乱をそのまま継承した十九世紀初葉のドイツは︑三 九に達する大小の王︑侯国の匠か︑都立都市︑騎士領に分裂して いた︒いわゆる封建国家から近代的統一国家にいたる過渡的段 階としての領域諸国家
T e r r i t o r i a l s t a a t e n
(~
ュ モ ラ ー
︶ の 時 代
である︒かかる政治的不統一の結果︑国内の商業︑交通は阻害
され︑対外的にも貿易面において著しい立ち遅れの状態にあっ
た︒イギリス︑フランス︑オランダ等の他のヨーロッパ諸国が
すでに十八世紀までに海外植民地を割拠し︵アウタルキーの形 のである︒﹃国富論﹄のドイツ版と称される 民
的 体 系 ﹄ D a s N a t i o n a l e S y s t e m d e r P o l i t i o c h e n O e c o き
m i e
18 41 .
の著者︑リスト
F r i e d r i c h L i s t
(
17 89
ー
18 46
)
を先駆と
するミュラー
A d a m M U i l
e r ︑
﹃ 政 治 経 済 学 の 国
ロッシャ 1
W i l h e l m R o s c h e r
ヒルデプラント
B r u n o H i l d e b r a
n d ︑クニース
K a r l K n i e s 等
の前期歴史学派の活動がその現われであった︒
ステュアートの人口論に拠つてカメラリスティークの人口政策
( 1 0 )
を批判し︑ステュアートをあらゆるイギリス経済学者のなかで
最も造詣の深い人
G t i n d l i c h s t e
と称讃したヘレンシュヴァント
( 1 1 )
H e r r e n s c h w a n
d 七年に﹁ステュアートに帰れ﹂と叫ん ︑一八 0
( 1 2 )
だフーフェラント
H u f e l a
n d ︑更にステュアートをスミス以上 ぬ影響を与えたイギリス古典派経済学に対する反省がおこった すなわち︑十五世紀から十七世紀にかけて相次いで起った内末以来輸入されその地における自由主義思想の発生に少なから 要とされるに至る︒かくて︑十九世紀前半にはやくも︑前世紀 するに至るのである︒ 国民主義と︑自由主義に対する保渡主義ー干渉主義の理念が必 に
お い
て は
︑
スミスの世界主義乃至個人主義の理念に対立する このような過程を経て︑先進国イギリスの経済学は後進国ド 強化と︑対内的には急速なるドイツ帝国の統一であった︒ここ
ツにおいては引き続きツッケルカンドル
Z u c k e r k a n d
l e ︑
ハスバッハ
H a s b a c h 等によってス
(1 5)
テュアート研究は著しく進展させられたが︑他のヨーロッパ諸 国においても︑就中イタリヤではコッサ
C o s s
a ︑イギリスでは
イルボーゲン
F e i l b o g e
n ︑
思潮が世界的に浸透しはじめた七
0 ー
八
0 年代の時期に︑
フ ァ ド イ
自由貿易の時代が終焉を告げ︑ネオ・マーカンティリズムの りわけロッシャー︑
( 1 4 )
されるのである︒
ヒルデプラントによって採り入れられ浄化
アートの国民主義的理念ならびに歴史的接近方法が︑彼ら︑と 彩られた彼らの見解はやがて前期歴史学派に継承され︑
ス テ ュ
の対立激化とともに︑ドイツ固有の復古的ロマン主義思想に色 制社会に早くも発生したプルジョアジーとプロレタリアートと に重要な人物と考え︑彼の﹃原理﹂をニュートン
I g a
c N e w t o n の﹃プリンキピア﹂
P h i l o s o P h i a e
N a t t `
r a l i s P r
i n c i p i a M a t h
e ,
m a t i c a ,
16 87 .
に比肩すべきものと極めて高く評価したレーペ
( 1 3 )
ル ク R e h b e r g
等によって︑
ステュアートは様々に解釈され認 められていた︒十九世紀四
0
年代頃から六
0 年代にかけて資本
制生産の急激に発展した時期には︑
この国におけるステュアー トに対する関心に一時的な停頓がみられたが︑若きドイツ資本
ナー・ジェームズ・ステュアート︵戒田︶
註
( 1 )
S e n , o p c i t , , ,
p.
13 . ( 2 )
M a r x ,
K . ,
Z u r K r i t i k d e r P o l i t i s c h e n O k o n o m i e . E r s t e s H e f t . V
o l k s a u s g a b e . B e s o r g t v o m M a r x ‑ E n , g e l s
‑ L e n i n ‑ I n s t i t u t e . M o s k a u ,
1 93 4.S .
45 .
マ ル ・ エ ン主義研究所訳﹃経済学批判﹄︵国民文庫︶ニ︱︱頁︒
( 3
)
S e n , 0 p . d t .
︾
p .
1. (4)
一七六九年に
H a m b u r g で出阪された独訳書は二 巻に分れ︑その醜訳者は
J.
U .
Pa ul i
である︒一七六 九年から七二年にかけて
T i i b i n g e で出版されたもの n
︵五巻︶の訳者は不明である︒その後一七九六年に
B a s e l u n d S t r a . B b u r g で出版された独訳害︵五巻︶の訳者名 も不明である︒下つて二十世紀の初葉
(1 91 3‑ '1 4)
!,
J.
︑
H . W a e n t i g 編集による﹃社会科学著名作集﹄
S a m m
g l
g s o z i a l w i s s e n s c h a f t l i c h e r M e i s
t e ヽの第十四ー十六巻の
中に
A . J o h n の翻訳によるものが収録されている︒
尚︑一七八九年にパリーで出阪された仏訳︵五巻︶の訳
るステュアート研究の一潮流を形成するに至るのである︒
この地は第二次大戦後におけ
済的諸条件の変化とともに︑ シ
ャ ド ウ ェ ル
伊 h
a d w e l l やイングラム
I n g r a m 等の手によっ
( 1 6 )
てステュアートの名が学史の上に現われるようになり︑社会経
﹁ステュアート復活﹂の素地が漸 次培養されつつあった︒二十世紀に入ってステュアート研究は
( 1 7 )
アメリカ.に引き継がれ︑かくて︑
七
s9
煮-e&囮砥i:""~忍が伶<降伽(,
c.,
碑James
Steuart Denham. (Conrad, J., Lexis, W., Loening,
E. und Elster, L., Handworterbuch der Staatswiss‑
enschaften, 4 Aufl., hrsg. von L. Elster, A., Webel・
und F. Wieser. 9 Bde., Jena, 1923‑29: 7Bd. S. 1045.)
図,:(;‑!1'べ入次一似差招睡IIIl磁旦嘩誕的~\--'.:;.t‑Q悉
踪社
1
兵l lll‑1
回母QA.
John旦サ応,?Q~:tや玲0 ‑td.
0痙’匝似振皿磁且~.a楽捻Q~溢緯~~温....) ¥.J
将マ゜
Recherches sur les principes de i'economie politiq・
ue,
01↓essailsur la science d~la police interieure
des nations fibres; trad. de /'anglais par 〔 Sen 。 vert 〕
Paris, 1789. 5v.
(LQ)
要Qlll‑ll""く濫囲kl. 0 ;; ¥.J IM•~ 辺'
t¥11¥>.Kや辻
1
や<O
母ll. Blavet
且""'0 ¥‑‑'.
令...)や〇駈王的ぶ共,,;JQ
茶l ‑¥J< 1
母足Yverdun (‑1
くiil!il)
心Paris(l!l 瑯)
ゃ手しヒ的兵札゜l\'Q${1や兵0-l!¾-以忠-<
Roucher' 1 <Otlltt‑
且辻Count Germain Garnier(~
恕),1 <臣 111
一国国尉足社匡ロマGarnier
(1l~) e
謳溢!l
""'t‑Q~Q冶~~Al-¼'ふぶ兵4!0~l\'\i\ヽゃ吐lやや兵ー<
0 母址 Dr
叫bye Q
溢冷,~ ヽ:::..~t.J廷Iや<Oltt-1.!'tii<~K゜(~>,
や吐 l
や兵因ltt‑ 1l J.A. Ortiz U
.i;IQ~
饂共字む的ぶ~~,
I¥'
兵ふ必ニャ兵ふく:‑1if:
据且辻『圃緯木一・ ~ti-~~. r<!hrlt‑.. ー... (恨凪)
瀧JQ「奴姓Q$!~的A)1\-'II'\~Q溢臨灼」涵山尉粕鋭罪淀足"""'(¥¥‑'恕しヒ赴丑或令如>0
:t ¥‑'> .U (John Rae)°Cf Bonar, J., Adam Smith. 【 Higgs, H. (ed.,) Pa/grave's
Dictiory of Political Economy, 1926, Vol. 皿, p. 423. 】
(c.o)
-R-~・
t,~ヽ t<,
喉約語條『艇怜釦(学共似笹)諏
l
絵諏1¢:
串'出<嵐「諏II凝Q~蜘如」。(t‑)
痙,t< ,,, t< Q
『痘縣迦裁纏』The Theory of Moral
Sentiments. London,'1759.
辻JJ兵サ〇叫v]ややO 母 1!.
Brunswick令ふ(~榔K
郡)'賑足l
や兵I‑ 共
1‑1=1.lt!‑足廷
L. Th. Kosegarten 1!.
"°"'IQ~Q冷王謳杓~.u゜図i-t-1!.'~祗~I担(国掛足E.
Dons' l
やや因母且Abbe Blavet'I
や兵<母1!. M
紅叩函邸叫叩砒且.1-4,Q~Q冶ギ共知名ti~足心おド王謳灼~-t.!°
Cf. Bonar, op. cit., p. 423. Jahn, G., Adam Smith. (Handworterbuch derStaatswissenschaften, 4 Aufl., hrsg. von L. Elster, A. Weber, und F. Wieser, 7 Bd., S. 501.)
(oo) I
や共国一出澤足廷Chr. Grave'I
<国1
環一ギ
JJi‑ !J. Max Stirner'I < K 1
母!.l C. W, Asher'1
<ギ<母且廷
Sttspel' I < < 0
母以Ltswenthal'
賑旦II
十羊祉以ベIQ AJ'W. Schmidt, E. GrUnfeld 1l .1‑4 IQ
駁攀冶均ふ~~炉Cf. Bonar, t'bid., p. 424. Jahn, ebenda, S. 501.
(o,) t,~
ヽ t<,
据瞼『艇怜鎖』や<Im( 。
や Ill
令ー・
~tl--4~
• r<1¥‑‑,l¥t‑‑, ー...
(据田)
や臣ぼ)
Herrenschwandi
De
l'Economie
Politique
Mod‑
erne,・Discours
fondamental
sur la
Population.
Pa‑
ris, 1786.
田縣悩11『lhli""~K•r<1¥,‑.tl¥'‑., ー...宙獣Q 溢恒.!d~;;¥.J
』(『瑚犀+渥報』撚十兵瑯撼
11¥ nit,' 由く
嵐る紺己)°
症'幸褥釘忌卦廷出
Q'rv
共如
JQ濡択且嘩淋ヽ叩J>(I~
惑;;° ば) Ingram, J. K.,
Steuart.(Palgrave's
Dictionary
of
Political
Economy.
1926. Vol. :in:, pp.
475‑476.)
(~) Sen, op. cit., p. 18,.
~Q榔卿や廷'NeueGrundle
―gung der
Staatsworthschaftskunst.
Wien, 1815.
田縣昭忌寂縄忍
'K
〇嵐揉豆゜(~)
Rehberg,
A. W.,
Samtliche
Schriften.
Hannover,
1827/30, Bd.IV. Cf. Ingram, op. cii.,
(苫)
Roscher,
W.,
Geschichte
der
Nationaliikonomie
in
Deutsch/and,
1874.
Hildebrand,
B.,
Natural~,
Geld‑, und
Kreditwrit‑
chaft, 1864.
(~)
Zuckerkandle,
Theorie des Preis;s, Leipzig 1889.
Feillogen,
James Steuart und Adam Smith in
,,Zeitschrift
fur die gesamte
Staatswissenchaft"
Bd. XLV,
Ttibingen
1889.
Hasbach,
Untersuchungen
uber Adam Smith, Le・
ipzig 1891.
(~) Cossa. L., Guida a/lo studio dell
economica
politica, Milano,
1876.'Engl.
tr., Guide to the Study of Political
Economy.
tr. from the 2. Italian ed.,
with a preface by Jevons, W. S.,
London.,
1880.
rev. enl. ed., 1893.
Schad well, A System of
Political
Economy,
Lon‑
don 1877.
Ingram, History of Political
Economy,
ebd. 1888.
Cf., Ingram, op. cit.
(;::;)
Stangeland,
C. E.,
Pre‑Malthusian
Doctrines
of
Population,
New York 1904.
Monroe, A.E.,
Monetary
Theory be/ ore Adam Smith,
Cambridge
1923.
Johnson,
E. A. J,,
Predecessors
of Adam Smith,
1937.
~ヰ田縣出溢戦堡似
'Kill
嵐紺§~~,
函る
Sen, op. cit., p,3fn., 6.
•i\匪゜11]'-~o
KI'- 入'ギ,ヽ ~KI ト rl~ ー
,.L.瓢
器 $<Qt<
Iト
rjI'--ー..,__吉娯~,
\'--'l<..=--R'""~;:,__~
お心茶囲や
淀 R
孟足亜,..)悪唸心怠
¥J::;,
1‑Q茶,
~Q脳因択甜辺
K廷f6Q癌足
K
志怜1‑QIJ ...IJ裕や油心や玲
1-(\•0
゜ヤ岱兵心’載
I廷l'r~
ヽ k 園
淀 :!l‑1,Q
科瑯足殴::;,
‑<
‑t!足 .l‑6 t‑Q4JQ ゃ, t<
Iト
rjI'‑‑
ー,.t....Q 杷叫ギ哨
Q 掟痢孟距頴択甜如渫窓,..)
, K ,;
バ<...IJQ索丑足将~\J'~Q
拙
187
ナー・ジェームズ・ステュアート︵戒田︶
その他のものはすべて歴史の誤謬であるとみなし︑それとの歴 想とする社会は︑原始社会とプルジョア社会の二つだけであり︑
そ れ
は ︑
七 五
彼の原理の中に見出され得る
e v o ‑
フリト・トレイドという合理的な物指でもつて測る︒彼らの理はジョーンズ︑従ってまたマルクスの先駆者として高く評価さ 理主義的接近にもとずくものである︒彼らは先行社会をすぺて 次の如く云う︒古典派経済学者の体制認識の欠除は︑彼等の合
とするのである︒かかる潮流の中に占めるステュアートの地位 そして最後にその綜合者たるカール・マルクスの中に見出そう
序説﹄の中でスミスの歴史意識の欠除を指摘した点を敷術して
さて︑グロスマンは︑周知のごとく︑マルクスが﹃経済学批判 ロスマンと︑センの最近の労作を結論的にとりあげよう︒ の立場からステュアートとケインズとの系譜性を求めようとす 史的地位を再評価しようとするものであり︑第二は近代経済学
従 っ
て 又
︑ ようとするものである︒わが国におけるステュアート研究の主 流をなす小林昇教授と田添京二教授が前者に含まれる︒また︑
アメリカで戦後のステュアート研究
( 1 )
の先端を切ったグロスマン
H e n r y k G r o s s m a n
をもこれに含め
てよいであろう︒後者の部類には︑前記インドのセン及びアメ リカのステットナーの両氏を数えることができる︒
( 2 )
ところで︑センの最初の論文とステットナーのそれは︑すで に田添氏によるすぐれた紹介があるので︑ここでは割愛し︑グ
を得るに至った︱つの思潮︑すなわち先行社会よりもすぐれた ﹁十八世紀の最 則を見つけ出すことである﹂と︒かくて彼は︑ 代毎に一定の変革をこうむるのである︒社会科学の課題は︑した 自然は永遠且つ不変であるからである︒しかし人間社会は各時 変らない法則は自然科学には有効であるかも知れない︑けだし スマンは社会科学の特殊性とその課題を定義して日く︑﹁永遠に て︑それ以外の何ものでもないからである︒これに対し︑グロ
後の三十年間に社会科学の中に現われ︑十九世紀の前半に勝利 経済段階を継承する人間社会の進化概念
T h e c o n c e p t o f
evo•
l u t i o n ﹂
の 流
れ を
︑
フランスではコンドルセ
C o n d o r c e t ︑
サ ン
・
シ モ
ン S a i n t ・ S i m o
シスモンディ n ︑
S i s m o n d i
︑イギリスでは
ジェイムズ・ステュアート︑およびジョーンズ
R i c h a r d J o n e
s ︑
れるのであるが︑
l u t i o n a r y a p p r o a
c h ーーそれは方法論上における帰納法と演繹
がつて︑永遠の法則を求めることではなくて︑変革それ自体の法
やや趨勢を異にするが︑ る ︑
彼をマルサス復興の論理的到着点として捉え
史的連関性を考察しない︒
彼らの求めるものは自然法であっ
ステットナーのこの推測については︑
セ
て︑ステュアートを故意に無視したスミス自身の態度に求めて
( 6 )
い る
︒ し
か し
な が
ら ︑
重嬰性を認めたときでさえも︑彼等は終始師のライバルを少し 後︑彼等がその問題に関する初期の著述家のあるものについて イ
W i l i a m P u l t n e y
宛の手紙︵一七七二年九月五日付︶に依拠し 豪 も 信 じ な か っ た し ︑ また信じようともしなかった︒
﹁ そ
の
の決定的な原因はやはり時の流れにあったことを強く指摘して
( 5 )
い る
︒ ま た
︑
﹃ 原 理
﹄ が ス ミ ス の 著 書 に よ っ
て完全に抹殺され陳腐化された原因の一部をスミスの︒ハルトネ 凌アダム・スミスならびにその追従者たちの影響下にあったの で︑長い間スミス以前にも合理的な経済思惟の存在したことを
ス テ
ッ ト
ナ ー
は ︑
である﹂からである︒ところが︑ これまで大低の経済思想史家 ステュアートが人気を矢った一因について︑イングラムは︑
( 4 )
コッサやステュアート
D u g a l d S t e w a r
t と共に︑それを彼の文
プ
e r フユージョン
体の欠点ー冗長な文体︑言葉の濫用ーーに求めているが︑そ
を公明正大に評価することが︑史家︑とりわけ学説史家の義務 の相対的重要性︑さらには相互に関係あるもののリアクション ては妥当しない︒けだし︑ ﹁証拠を細心に取捨し︑様々な主張 何故にスミスの影にかくれて文字通り﹁忘れられた経済学者﹂
( 3 )
としての不運に甘んじなければならなかったのであろうか︒ らないと要求されることはない︒﹂しかし︑この事は史家につい ような価値ある教訓を学んだかを認める往ど鷹揚でなければな いても︑すぐれて独創的であったといわれるステュアートが︑ 撃のために敵の最強の要塞を選ぷべきであるとか︑敵からどの
る特定の分野ーーたとえば︑人口︑農業︑貨幣︑財政等ーーにお士なるものは︑
彼がいかに高潔の士であっても必らずしも攻
この様に︑体制認識や科学的方法論の導入の点において︑
ス
あったのである︒ の古典派経済学者たちを超えるものとみなされたのもこの点に ス ミ ス は よ く 知 つ て い た ︒
9,
スミス︑リカード
1ー故であった︒彼がグロスマンによって︑
法ならびに一般化と特殊化との和合によって特徴ずけられる
ミスよりも遥かにすぐれていた許りでなく︑政治経済学におけ うちたてるにあたってステュアートから多くのものを借りてい た︒﹂それにも拘らず︑スミスがステュアートを全く無視したの
クルーセイダー
は︑偏に彼の聖戦士としての立場からである︒なぜなら︑﹁聖戦 サー・ジニームズ・ステュアート︵戒田︶
で あ
り ︑
ンは次の様に論駁する︒すなわち︑ステュアートの体系が精緻
それに徹底的な批判を加えることの容易でないことを
﹁ 事
実 ︑
スミス自身︑自己の体系を 七六
1&9
がもとであったのである︒このことは︑
センによれば︑社会科
七 七
永続的危機の理論移行に際する内的矛盾の分析等に多くの影 精 神 営
it
ge
ls
t
︑社会経済的諸条件等︑主として外在的な要因論︑社会的カテゴリーとしての労佑概念︑交換経済に内包する
た こ
と ︑
これである︒すなわち︑
街学的且つ難解であったこと︒第四に︑
r 国富論﹂がその時代の
ジーニアK
精神を極めて適切に表現した天オの作品であるのに対し︑﹃原
インテレクー
理﹄は当時の社会経済的諸条件から逸脱した知者の作品であっ
ステュアート忘却の原因は︑
﹃原理﹄そのものの内容よりもむしろその表現形式および時代
ナー・ジェームズ・ステュアート︵戒田︶
クスは若干の個所で彼を手厳しく批判したけれども︑同時に極
さて︑結論を急ごう︒センによれば︑ステュアートの主たる
( 1 0 )
貢献は彼の社会統制の経済学に存するが︑彼に対するそのよう な評価に近よったものはカール・マルクス唯一人であった︒マル めて高く評価した︒事実︑マルクスは︑ステュアートの経済構造
常に魅力的であったのに反して︑
ステュアートのそれは冗長︑
る ︒ ガンの採用を阻害せしめたこと︒第三に︑﹃国富論﹄の文体が非
なギャップをうずめることが︑
センの窮極の目的となるのであ
と ︒
第 二
に ︑
ステュアートの折衷主義が彼をして簡単なスロー
ったステュアート観を是正し︑経済思想の文献に存在する重大
し て ︑ ﹃ 原 理 ﹄ は
" i f "
や
abu tn
という言葉を過度に用いたこ
世紀初期にわたるドイツ︑アメリカのステュアート研究者の誤 系籍を求めるために︑彼を誇大に賞揚した﹂十九世紀から二十
の史家の態度であるとセンは云うのである︒
ものに他ならぬ︒従って︑それの最も著しい犠牲者の一人であ
でも認めることを拒んだ⁝⁝︒この問題を取扱ったイギリスの 著名な史家の殆んどすべてのものは︑
これまでスミス自ら与え た示唆にしたがつて簡単にステュアートを放遂しようと試みた り︑或いは派手な文句で彼を粉砕しようと企てて来たのであ ると﹂かくて︑.批難さるべきはスミスではなくて︑むしろ後世 そこで︑センはステュアート忘却の原因を次の四つに求め
( 8 )
る︒先ず第一に︑﹃国富論﹄が簡単なスローガンを掲げたのに対
いかにすぐれた理論が唱えられても︑それが時代精神や社会の
( 9 )
潜在意識と相容れないならば︑社会的に無視される
1
ーを示す ったステュアートをかかる狭盗な視野から解放し︑﹃原理﹄の内
在的研究により︑書物の外側に接吻する人にしかすぎなかった
従来のステュアート批判者の大部分︑また﹁自らの持論の古き 学
全 般
の 後
進 性
.
9│
ー自然科学と異なり︑社会科学の分野では︑
は正当な地位をうるかもしれないという十分な兆しがある︒﹂
べきであると︑次の如く主張する︒従来︑経済的自由主義は重
商主義からの発展のみならず︑童商主義の反動として︑また社 は彼を社会主義と統制に関する経済思想の始租として評価さる
最 後
に ︑
ステュアートの学史上の地位について云えば︑
セ ン
が古典派経済学に攻撃を開始して以来︑ ステュアートが最後に のそれである︒理論の領域においてもまた︑とりわけケインズ p o
s t M a r x i a n a n t i ‑ i n d i v i d u a l i s t
に継承されていない︒彼等は
マ ル
ク ス
と 異
な り
︑
アートはマルクス以降の経済思想の一般的発展に直接何らかの
影響を与えたとは言えないと︑彼の思想の現代までの連続性を
センは否認するのである︒しかしながら︑二十世紀における個人
主義思想の退潮と呼応してアダム・スミスの影蓉が弱まるにつ
れて︑ステュアートの哲学は地歩を得て来た︒﹁二十世紀半に︑彼
が久しく認められなかった母国においてさえも︑現在施行中の
経済政策は事実上アダム・スミスのものでもなければ︑カール・
マルクスのものでもなく︑本質的にはジェームズ・ステュアート 哲学を駁するのみで︑彼の正しい評価を行わない︒従ってステュ
ステュアートの外見上貴族的且つ保守的な 菩をこうむつている︒
だ が
︑
( 1 1 )
ステュアートの社会主義思想は サー・ジェームズ・ステュアー t
︵ 戒 田 ︶
方は次のように修正を要する︒童商主義の
m i l i e u
の中から異
される社会統制の経済学に︑他方がスミスの国富論に開花した
スミスの哲学
は当時の精神に受容れられ即座に驚異的な成功を遂げたのに反
なって︑社会経済的諸条件が変化したとき新らしい道が社会主
義の方向に分岐した︑というよりは︑ それらは新らしく現われ
たのであるが︑しかし実際にはステュアートが曽つて歩んだ同
じ旧径ーーもっともそれは恐らくもう目には見えなかったであ
( 1 2 )
ろうけれどもーーを辿つていたのである﹂と︒かくの如く︑セ
ンはステュアートを学史の芥溜から掘りおこし︑彼に永遠の生 命を賦与しようと努めるのである︒
註
( 1
) G r o s s m a n ,
H . ,
T h e E v o l u t i o n i s t R e v o l t a g a i n
s t C l a s s i c a l E c o n o m i c s , H
. n
.
︵
T
h e j o u m
‑ 0 i o f P o ] i t .
図
l E o C n o m y
"
V o l .
L I ,
N o .
5
&
6. 1
94
3.
)
( 2 )
S e n , S . R . , S i r J a m e s S t e u a r t ' s G e n e r a l T h e o r
y