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イギリス外交官の日本財政分析(3) : ガビンス報告 をめぐって

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(1)

イギリス外交官の日本財政分析(3) : ガビンス報告 をめぐって

その他のタイトル Gubbins on Taxation of Meiji Japan

著者 戒田 郁夫

雑誌名 關西大學經済論集

巻 37

号 5

ページ 623‑650

発行年 1988‑01‑30

URL http://hdl.handle.net/10112/14324

(2)

623 

研究ノート

イギリス外交官の日本財政分析

(3)

ー ガ ビ ン ス 報 告 を め ぐ っ て 一

戒 田

郁 夫

は じ め に

1878 

(明治

11)

10

月上旬,約

2

年半の在日イギリス公使館勤務を終えて次ぎの任地ア テネに赴くため日本を離れた!)マウンジーの遣り残した問題はインフレと通貨についての 分析であった。すなわち, 維新政府は成立当初において確実な財源を有しなかったため に,国家活動の経費調達方法の一つとして政府紙幣(太政官札,民部省札,大蔵省兒換証 券および開拓使兒換証券等)を発行したが,明治

11

年には流通高が約

1

2

千万円,準備 紙幣と銀行紙幣を含めると総額

1

6

6

百万円に達した。それら不換紙幣の膨張によっ 1) 拙稿「イギリス外交官の日本財政分析 ( 1 ) 」(関大「経済論集」第

32

巻第 5 号,昭和

58

1

月,所収)注

36)

参照。なお井上・岩倉によるマウンジーの経歴は「イギリス外交

・領事年鑑

(1882

年版)」

TheForieign Office List and Diplomatic and Consular  Year Book For 1882. 

p.151

から引用したものであるが,

FredericBoase(ed.),  Modern:glishBiography,  vol.  II.  1965. p. 1006. 

に記載のマウンジーの経歴も 同じ資料から採録されている。この

ForieignOffice List 

(以下

FOL

と略す)は最 初

1852

4

30

日に

32

ページの小冊子の形で, 外務大臣クラレンドン伯

(4thEarl  of Clarendon)

の書記であったカヴェンディシュ

(FrancisW. H. Cavendish)

の 手によって出版されたが,

1854

年から

1863

年まではカヴェンディシュとハーツレット

(Sir  Edward Hertslet)

の共同編集で出版された。 しかし, カヴェンディシュが

1836

10

1

日に或るスキャンダルに巻込まれて外務省を退職して後はハーツレット が単独で編纂し,

1902

年に彼が死去すると,末息が外務省職員の協力をえて該書を出 版している。第

49

(1876

7

月刊)までは年

2

回,その後年

1

回の割りで発行され ている。

(FOL.<1927> p. iv.)

これには外務省職員の職歴

statementof service 

や物故録が掲載されているので,彼らの経歴を調べるうえで極めて有用である。

7 1  

(3)

624 

闊西大學「純清論集」第

37

巻第

5

(1988

1

月 )

て対外貿易赤字,正貨の流出,紙幣価値の下落,物価と金利の騰貴という弊害がもたらさ れた。そこで政府は,不換紙幣の大部分を占める政府紙幣の発行額を削減するため酒造税 率の大幅引き上げ(明治

13

9

27

日布告)と金札引換公債の発行(同年

12

27

日発布)

によって得た財源をそれに当て,下落した紙幣価値の回復を目指す紙幣整理計画を実行し た。しかしながら,そのような方策は却って国法銀行紙幣の増発を促し不換紙幣の縮小の 効果はあがらなかった。当該計画の立案者である大隈重信が紙幣消却のための資金調達を 外債発行

(5

千万円)に求めたのはこの頃であった。

明治

14

10

月の政変により松方正義が大蔵卿に就任するや,不換紙幣の膨張の弊害の除 去と財源確保にねらいを置いた大隈方策を改め,不換紙幣そのものの弊害を重視して兒換 通貨制度の確立こそ先決とする松方案が実行に移され,いわゆる松方デフレ時代を迎える のである。拙稿で取り上げる日本書記官代理

ActingJapanese Secretary

時代のガビン ス

(JohnHarrington Gubbins)

の「日本租税報告」(明治

16

9

8

日 )

Report on taxa tion in Japan. 

と 「国法銀行の紙幣償却計画に関する党書」(明治

17

1

31

日 )

Memo‑

randum on the scheme for redemption of the paper issue of the national banks. 

及 び「新政府債に関する覚書」(同年

2

7

日 )

Memorandum respecting new government  loans. 

はまさにこの時期のイギリス外交官による日本の財政分析のひとつである。

ガピンスの略歴と著作

1852

1

24

日生まれのガビンスが父に倣って領事試験に応募し無事合格したのは

1871

3

25

日であった

2)

。同年

4

14

日には日本語の通訳生

StudentInterpreter3>

として 在日イギリス公使館の領事部門に配属されたが,当時公使館にはアーネスト・サトーが日 本書記官兼通訳官

JapaneseSecretary and Interpreter

として活躍中であり, ガヒさ

2)

ガビンスの略歴については,

FOL(1892)p.  115. (1930)p. 457 A

所収の

Obituary

及び Who'swho, 19291940. p.  564. 

参照。なお,内閣文庫所蔵の「日本在駐各国公 使領事書記官等之人名」(明治

8

4

月調)によると,

Gubbins

の片仮名表示はゴプ ビンスとなっているが,ここでは竹内博編著「来日西洋人名事典」

(1983,

日外アソ シエーツ)のそれに倣った。

3) Student Interpreter

の訳語は,前掲の明治

8

年の「人名」では「通弁官見習」, そ して外務省「日本在留外国外交官人名表」(明治

10

7

月)では「訳官見習」となっ ているが,ここでは通訳生に統一した。通訳生とは勤務志望地の言葉や文字の修学と 領事事務の実習のため直に任地へ派遣される領事試験合格者をいう。(鹿子木小五郎 訳「英国領事制度」,『国家学会雑誌」第

14

巻第

167

号,明治

32

年 ,

823

ページ)。

72 

(4)

イギリス外交官の日本財政分析( 3 )(戒田)

625 

ンス以外にマクラチー

(J.

R .  H. 

McClatchie), 

ゥーレー

(W.A. Woolley), 

ボール

(E. B. Paul)

という

3

名の通訳生がいた°。 ' 

→ 

彼は

1875

(明治

8)

年 4月

30

5)

には

2

等書記生

2ndClass Assistant

に , そして

1882 

(明治

15)

8

6

日には

1

等書記生

1stClass Assistant

に昇進したが,その間,

1876

年から

78

3

月まで

2

等書記生兼通訳官

2ndClass Assistant and Interpreter

の 資格で兵庫領事館に勤務

6)

した後,

1879

(明治

12)

4

8

日から翌年の

10

5

日まで江 戸在勤の副領事代理

ActingViceConsul

を勤めた丸

彼が兵庫領事館に配属となった年(明治

9

年)の

2

10

日にマウンジーが夫人同伴で前 任地のパリから江戸の公使館

1

等書記官

Secretaryof Legation

として赴任してきた。

マウンジーが次の任地アテネに移るのは

1878

(明治

11)

年の後半であるから,マウンジ一 とガビンスが江戸の公使館での勤務を共にしたことはなかったようであるが

8),

マウンジ ーが

1879

年にロンドンで公刊した『薩摩反乱記」

TheSatsuma rebellion. 

は主にガビン スの作成した報告書に依拠しているそうである丸

4) The japan Herald Directory and Hong List.  (Jan.  1872). p.  2. 

5)

前掲の「人名」(明治

8

年 4 月調)によれば,在日イギリス外交官の総数は

15

名で,

アメリカ合衆国

(10),

ドイツ

(9),

イタリー・ロシア(各

4),

ベルギー

(5),

フ ランス

(4)

等,欧米諸国の在日外交官数のなかでトップを占めていた。

6) Cf. "The Japan Herald" Annual Directory.  (1877), (1879). & japan Directory.  (Jan.  1878). 

なお,ガピンスは

1879

1

月に兵庫県知事の紹介状をもって西南の役後の鹿児島を 視察している。 ( F .

V

ディキンズ,高梨健吉訳「パークス伝』,昭和

59

年,平凡社,

288

ページ)。

7) F. Boase, op.  cit.,  p.  1006. "The Japan  Hera

'AnnualDirectory.  (1877),  p. 83. 

8)

前掲の「人名表」(明治

10

7

月調)によれば, ガビンスの兵庫領事館時代の在京イ ギリス外交官は,特命全権公使兼総領事のパークス,公使館書記官のマウンジー(モ ンセイ),

2

等書記官

2ndSecretary of Legation

のソーマレツ

(J.S. Saumarez),  2

等書記官兼日本書記官

2ndSecretary and Japanese Secretary

のサトー, 日本 書記官補

Assistant Japanese  Secretary

のアストン,そしてガビンスとおなじ

2

等書記生兼通訳官のマクラチー,通訳生のボールとマッカーシー

(J.W. McCarthy) 

であった。そして公使館の領事部門には,後年日本学の各専門領域で権威ある地位を 築き上げた有能な人材のそろっていたのが, 他国の公使館に見られない特徴であっ た 。

9)

前掲,『パークス伝』,

223

ページ。

73 

(5)

626  関西大學「紐清論集」第37巻第5(19881

月 )

ガビンスが

1

等書記生に昇進する

4

カ月前の

1882

4

月1

0

にマウンジーが任地コロンビ アの首都ボコダで死去した。そして

3

カ月前の

5

月2

8

日にはトレンチ

(P.Le. P. Trench) 

が前任地のローマから東京の公使館書記官に昇進転勤してきた。彼は翌年の 8月3

0

日から

1884 (明治17)年3

月1

5

日までと,

1887(明治20)年8

8

日から

1888

3

7日までの

二度にわたって臨時代理公使

Charged'Affairerの任を果たした後, 1888

年1

0

1

日に 在ベルリン大使館書記官に栄転し日本を去った

10)

。在日中,彼は 3つの日本財政に関する 報告書

(1884

8

2日

付 ,

1886

年1

2

月2

0

日付,及び1

888

1

月1

8

日付)を本省に送って いる。

外交部門のトレンチのこのような仕事を手助けしたガビンスは

1883

1

1

日から翌年 の1

0

1

日まで,

1886

2

9日から1887

5

月2

7

日まで,そして

1888

年1

1

8日から翌

年の

6

1日までの三度にわたって日本書記官代理 ActingJapanese Secretary

を勤 めている。ガビンスが前記の日本財政に関する報告書を提出したのはこの間のことであ った。更に彼は

1886

4

1日には東京で開催された条約改正予議会に書記の資格で出席

している。彼はまた

1884

年1

0

2日から1886

2

8

日までと

1887

5

月2

5

日から翌年の

10

1

日までの二度にわたって日本書記官補代理

ActingAssistant Japanese Secre taryを勤めている。 1886

5

月2

0

日 , 日本書記官に昇進したアストンは翌

1887

9

月2

1

日には公使館

2

等書記官に任命された

11)

。他方,ガビンスは同年1

0

月2

9

日から

1888

4

20

日まで東京の副領事代理

ActingViceConsul,  188

4

21日から6

3日まで横

浜の領事代理,

6

4日から11

6日まで再度の在東京副領事代理を歴任した後, 1888

10

1日に日本書記官補に昇進した。そしに遂に1889

(明治2

2)

6

1

日 , 彼は日本 書記官に昇格した。彼の月俸は

700,

他に住宅手当

(HouseRent)が£150.

支給される ことになった

12)

。 しかしながら,同じ日に

48

歳のアストンが健康上の理由で退職し,£

662.  4s.  5d. 

の年金生活に入った

13)

1890 (明治23)年2

月1

3

日,公使館

2

等書記官(ローカルランク)に昇進したガビンス は ,

1892

年1

1

月1

1

日に日本協会

TheJapan Societyの名誉会員に選出された。その年

には,在パリ日本公使館のお雇い外人

A.

マーシャル,既に年金生活に入っているアスト ン,そして

1891

年正月にリスボンから在東京公使館へ転勤になったプンゼン

(M.W. E.  10) FOL. (1892), p.  206. 

11) Ibid.,  p.  57.  12) Ibid.,  p.  31.  13) Ibid.,  p.  277. 

74 

(6)

イギリス外交官の日本財政分析( 3 ) (戒田)

627  De Bunsen)

があい前後して名誉会員に選出されただけでなく,

2

15

日にはサトーが 同協会の副会長に選ばれている

14)0

1893 

(明治

26)

年に

41

歳でヘレン・プローディ

(HelenBrodie)

と結婚したガビンス は , 日本の法権と税権の回復(領事裁判権の廃止と関税率引き上げ)を実現した

1894

( 明 治

27)

7

16

日の日英通商航海条約調印のために同年

2

月から

7

月まで外務省勤務とし てロンドンに滞在し,翌年には日英追加条約締結

(7

16

日)のため関税委員会でイギリ ス代表として活躍した。それに先立って

5

21

日に

C.M. G. 

勲章を授与された彼は

1900

(明治

33)

5

18

日から翌

1901

11

4

日まで朝鮮臨時公使代理を勤めて後,

1902

6

26

日公使館

1

等書記官(ローカルランク)に昇進し外交部門の担当になった

15)

。彼が職 業外交官から引退し年金生活に入ったのは

1909

(明治

42)

9

月1

0

日であった。退職後彼 はオックスフォード大学で日本に関する特別講義を 6回行った。そしてその成果をまとめ たのが

Theprogress of Japan, 1853‑1871, 1911. 

であった。

ガビンスは在日中の多忙な公務の暇を縫って日本に就いて研究しその成果を著作にまと めている

16)

。以下はガビンスの「仮の著作リスト」である。

〔著作〕

1.  A dictionary of ChineseJapanese words in  the Japanese language. 3 pt.  London, Trubner & co., 188992. 

nd ed. Tokio, Osaka 

Kiyoto.  Maruya 

co., 1908. only part 1. no  more published. 

『漢和英訳辞典」丸善書店,博文社.

Reprint. London, 1920.  (Handbooks repared under direction of the His torical Section of the Foreign Office. no. 73.) 

2. The progress of Japan, 18531871. Oxford, The Clarendon press, 1911.  14) Transaction and Proceedings of the Japan Society, London. vol.  I. (1893), pp. 

171192. 

15)

イギリス領事の任用制度は,①アジア ③オリエント ⑧その他の諸国の 3つに区分 され,アジア(中国, 日 本 , タイ)在勤志望者の転勤はその任地内であって,任地外 に移ることは希であった。また領事部門の最高のランクは公使館書記官若しくは総領 事であった。(前掲,「英国領事制度」,

83

ページ)。、

16)

パークス公使は部下の領事館勤務の職員に対して日本に関するテーマの研究を奨励 し,その成果を「日本アジア協会紀要」に寄稿させた。そして彼らの研究調査から

「日本の社会と政治の情勢について貴重な情報を得たことが多く,彼が政策を立てる のに大いに役立った。」(前掲,『パークス伝』,

348349

ベージ)。

75 

(7)

628 

園西大學「親清論集」第

37

巻第

5(1988

1

月 )

Reprint. Wilmington, Del., Scholarly Resources, 1971 1973.  3.  The making of modern Japan. London, Seeley, Service & co.,  1922. 

Reprint. Wilmington, Del.,  Scholary Resources, 1973. 

4.  Japan. London, H. M. S. 

0 . ,  

1920.  (Handbooks prepared under the direc tion of the Historical Section of the Foreign Office. no.  73.) 

Reprint. Wilmington, Del.,  Scholarly Resources, 1973. 

5.  Socialism and the Socialist  Press ... An address,  etc.  Edinburgh, W. M. 

Urguhart & Son, [1926]. 

Reprint.  Wilmington, Del., Scholarly Resources, 1971. 

〔翻訳〕

1.  Bemmo 

(弁妄)

by Jasui Chiuhei. "an exposition of error", being a trea tise directed against Christianity ... With a preface by Shimadzu Saburo. 

*ドイツ語の重訳

(vonC. Friederici.)

あり。

2.  The civil code of Japan,  with introduction on Japanese family system.  (2  vols.),  1897. Tokio, Maruya, 189799. 

(雑誌論文〕

I.  Transactions of The Asiatic Society of Japan. (Yokohama) 

1.  Notes of  a journey  from Awomori to Niigata,  and of a visit to  the  mines of Sado. (vol.  3,  pt. 2,  1875. p.83ff.  reprint. ed.,  1884. pp. 7489.)  2.  Review of the introduction of Christianity into China and Japan.  (vol. 

6.  pt. 1, 1878. p.  1 ff.  reprint. ed.,  1888. pp.  138.) 

3.  Hideyoshi and the Satsuma clan in the sixteenth century.  (vol.  8.  pt.  1,  1880. p.  92 

f f .  

reprint.  ed.,  1902.  pp.  124195.) 

4.  The feudal system in  Japan under the Tokugawa shoguns.  (vol.  15.  pt.  2,  1887.  p.  131  ff.) 

5.  Law of Tokugawa period.  (vol.  26.1898. p.  154 ff.) 

6.  Some features of Tokugawa administration. (vol.  50.  1922. p.  59 ff.)  II  . The Cornhill Magaz

Bank of England note.  (vol. 70.  o.  s.,  23  N. S.,  Aug. 1894. pp. 186192.) 

皿.

The Transactions of the Japan Society.  (London) 

76 

(8)

イギリス外交官の日本財政分析( 3 )(戒田)

629  The "Hundred Articles" and the Tokugawa government. (vol. 17. [192]  pp. 128184.) 

Paper was read at the first ordinary meeting of the thirtieth session. 

ガビンスの著述活動は

1909

9

月の退職を境にして前期と後期に大別できる。前期の著 作は, 『漢和英辞訳辞典」

1

点と翻訳

2

点を除けば, 雑誌論文が大部分である。その主た るテーマは徳川時代の法制史であり,掲載場所はアジア協会の紀要である。彼が

1

等書記 生であった

30

歳頃には, 日本財政報告書の作成等本来の公務以外の日本研究に関する論文 はなく,それの執筆活動は日本書記官代理時代を挟んで

28

歳以前と

35

歳以降にわかれてい る。翻訳の

Civilcode of Japan.  (1897)

はガビンスが日英通商航海条約の交渉に日本 問題専門家として参与したときの勉強の成果であろう。後期の著作は著書が中心で, 彼 のイギリスにおける日本研究者としての地位を確固たるものにした前記の

Theprogress  of Japan. (1911)

とその続編で,亡き妻ヘレン

(1922

年死去)に捧げられた

Themaking  of modern Japan. (1922)

が代表作である。

外務省退職後も日本研究を続けて研鑽していたガビンスも寄る年波には勝てなかった。

最後の著述を終えた

3

年後の

1929

(昭和

4)

2

23

日,満

77

歳の誕生日を迎える直前に ガビンスは逝去した。約半年たった 8 月

26

日に彼を「わが友」と呼んだ 9 歳年長のサト ー

17)

もガビンスの後を追って天寿を全うした。アストン

(1911

年死去),ミットフォード

(1916

年死去)既に亡く,パークス公使とイギリスの対日外交を支えただけでなく,桓東 の片隅の誕生間もない明治日本を世界に知らしめる役割を果たした彼らの死は新らたな日 英関係の幕開けを告げるものであった。

1 [   ガ ピ ン ス 報 告 の 要 旨

1883 

(明治

16)

11

9

日,外務大臣グランヴィル伯の元へ在日公使館

1

等書記官トレ ンチから

1

通の文書が届いた

¥8)•.

東京,

1883

9

12

閣下,

17)

坂田精一訳「アーネスト・サトウ ー外交官の見た明治維新 下」(昭和

35

年,岩波 書店),

81

ページの注。

18)  Commercial Reports, by Her Majesty's Consuls  in  Japan. (1883), p.  211. 

( 以

下 ,

CommercialReports

と略す)。

参照

関連したドキュメント

このように,先行研究において日・中両母語話

日露戦争は明治国家にとっても,日本資本主義にとってもきわめて貴重な

る、というのが、この時期のアマルフィ交易の基本的な枠組みになっていた(8)。

※ 硬化時 間につ いては 使用材 料によ って異 なるの で使用 材料の 特性を 十分熟 知する こと

[r]

彼らの九十パーセントが日本で生まれ育った二世三世であるということである︒このように長期間にわたって外国に

の主として労働制的な分配の手段となった。それは資本における財産権を弱め,ほとん

7月21日(土) 梁谷 侑未(はりたに ゆみ). きこえない両親のもとに生まれ、中学校までは大阪府立