弘 前港 に お け る 酒 造 業発 展 の 過 程
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松木
まえがき
日本資本主義の賛蓮が如何なる特質を持つものであるかを究明する事が現段階の兄とおしのために極めて大切な事
であるとするならば、特にその「生成期」といわれる時期に於ての「地域性」と「階層性」の特質が分析されなけれ
ばならない。即ち'日本近代産業の生成が「米」と「繭」という重要産物の再生産過程に開聯するものであるとする
ならば'藩政時代から維新へかけての津軽地方の経済構造の「型」は「米」作の生産力増大が結果する諸事態、特に
「米」作を土台に築き上げられ、主導的産業として発展していた一個の産糞部門、即ち「酒造葵」従って又「酒造資
本」の発善と縛化のあとをたどる事によって統1的に把握されうるであろう.
一弘前藩の経済構造及び酒造業の位置
(‑)弘前藩の国産中、米が竜重なものであった事は諸記録の中に「御国の物産は米より他に無之」との辞旬が到る朗に見
(2)られる事によっても知られ、米は藩中唯1の財源となっていた.それ故、藩は全力をあげて開墾に志し'種々の優遇
法を講じて之を奨励していたのも極めて当然な事である.弘前藩に於て'農業が'殊に米作が如何なる程度に支配的
であったかを見るに'各種生産物の数量及び債格に関する全般的統計の存在しない当時にあつては、之を知り得べき(3)方法は当時の全人口における農村人口の比率を招いて他にない。之について'安永三年の調査記録に拠れば、領内人
間 代 口
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Yこ 五万人となってお‑'その中'約二十二万五千人即ち約九割が農民であったO又'弘前藩の知行高は帝九
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そ の 次に弘前蕗の米の輸出状況は、これも適確な数字を知る事は出来ないが'例えば'天明三年の「廻米調査」に拠れば (6) になってからは八十万石から百万石の間を上下している. (5) 実放寂は世評に四十万石叉は五十万石と推算されており、明治年
「上々桂御萱せ米大阪御廻米式拾万俵飴江戸御廻米式拾高儀前後四十高儀飴にて云々」と記されている.又津軽米の(7)市場における品等は'延宝三年、敦賀(藩の蔵屋敷所在)に於ての「相場書」に拠れば、「越後米'鋭十匁に付き一
斗三升≡合宛'庄内米'銀十匁に付き一斗四升宛'秋田米、銀十匁に付き一斗五升宛'津軽米'銀十匁に付き1斗五
升宛」とあるから'大体秋田米と同等で庄内米より少し下っていたものと思われるo(8)(9)か‑の如‑'米の図である弘前藩はその良質の米と清水を併有していたため酒造法は早くから始り'塞韓としての
必需性及び慶大な販路のために'営業としての酒造が寛大に取扱われていた傾向があり'城下町弘前を中心として次
第に発展して行った.弘前滞領内酒造業の規模についてみるに'元線十八年六月十九日の「御領分中酒造米高並酒屋(10)敷御公儀江御書上致候軽写」に拠れば'攻の如‑である。「陸奥国津軽越中守御領知新高'四高二千石。右酒造米高
六三二百七十八石九斗三升。酒屋教'二百二十六軒。右之通城下町並相改酒造高御吟味敦し通此御座候」更に'これ(H)を同じ元緑年間の記録に拠り'他藩のそれと比較してみるに'如何に弘前藩では酒造柴が繁栄していたかが判明する
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であろう。例えば「榊原大輔十五高石'新造米高二千五百八十七石一斗七升。於平備前守十高石'酒造米高二千
二首ヨ+九石四斗四升'酒屋数百十三軒。松平下絵守十高石、酒造米高五千三百八十八石'等々」(12)次に'当時における酒造業者の階層的地位について見てみよう。「文政年間津軽長者鑑」に拠れば'東方では横綱
片谷清吹郎'大開伊香才書、関脇鳴海栄作'小結村林平左衛門、前頭筆頭歴谷治右衛門以下'西方では横綱前田常三
郎、関脇松山息左衛門'前頭筆頭中村久左衛門以下多数の酒造業もし‑は酒造業によって産をなしたものが名を列ね(13)ている')又「安政年間津軽持丸長者鑑」に拠れば、(横綱なし)東方では大関井筒足長左衛門'小結塵犀利左衛門、
前頭筆頭松大屋彦右衛門以下'西方では関脇鳴海久兵衛、前頭筆頭滝昆善五郎以下多数酒造業者の名が見えている。
以上の例に於て見られる如‑、藩政時代を通じて津軽地方に於ては「金持」と稀せられるものは大抵酒造発着である
か'若し‑は嘗て一度は酒造葉を営んだ事のある家柄であったのである.
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証
(‑)弘前市立図等館所敢「津軽蕃日記」をはじめ旧記'家記類に辞旬多し。
(Z)歴代蕃公の開墾奨励に関する記銀は甚だ多いが'まとまったものとして'竹内貰平氏「青森際通史」'東北振興会稲「釆
北産業経済史」第五容参君。
(3)「津酵藩日記」安永三年の項参項。
(4)目寛政四年至文政十二年。
(5)青森杵柄「青森陣史」大正十五年刊二八雀'農地委員会青森牒協讃会飼「青森鞘農地改革史」参府。
(6)「津軽滞日記」天明三年の項参照。
(7)「津軽藩日記」廷宝l二年の項参照。
(8)因みに津軽信政の客臣でその碩学1世に鳴り響いた経済学者野太活文は「外ケ浜'油川町の小流は宇治川の水より七匁軽
し。若し酒を醸さば銘酒を得べ‑'布を晒すも亦吋なり」として日太第1の折紙をつけている。
(9)弘前河道組合飼「弘前酒造沿革史」に積れば'慶長十六年番組篤信築城と同時に閉業の許可を得たとされている。
(10)弘前絹本町野村民折臓。
(‖)田右。同先のものと思われる。
(1)弘前市立図胃館長成田末tF.都民所癖。
(13)陸奥史談会発行「陸奥史談」第二号所載。
酒造業生成の基因
然らば、か‑の如き津軽酒造資本は如何にして生成したのであろうか。津軽地方における「商業資本」殊に酒造業
の費展は、近世初頭近鼓乃至閑束よ‑のそれの進出過程として把捉され'この過程の中に於て各方面に亘る薄の経済
(1)が商品・貨幣経済の中に捲き込まれる事となり'そこに強力なる「買税制」が登場し始めるのである。即ち'藩政時
代の津軽地方に於て'自然経済が支配的であった事は前述の如‑であるが'攻寄に進展せる徳川時代の都市・商品・
貨幣経済'従って又商業・高利貸資本は二百数十年の過程を通じて漸次慣接にも津軽地方へ侵蝕してゆかない筈はな
かった.かくの如き商品・簡幣経済の地方侵蝕は'買租の過重と相保って土地金融の必要を増大せしめ'それが「永
代膏買禁止」や「分地制限」等にもかかわらず'農村CJは質流れ其の他の「非合法的菅買」による土地の兼併が増大
し'他方に於ては土地を喪失した農民の小作人化が進行した。即ち'「階級的分化」の進展が見られたのである。
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かかる場合'土地を乗併する者の「類型」を見るに'昔からの豪農もあつたが'牢農年商の者(特に酒屋'油
臣、紺屋等が多い)で多‑の田畑を得た者の方が多かつたようである。かの徳川封建経済史における古典的引用書「(2)民間省要」に「村々に富来よ‑の百姓の代々持伝へたる田地屋敷は世上に稀な‑。当時ここかしこ村々に遥々身代宜
しき百姓の有は皆以て田地ぼか‑の類に非す。皆外に商茸を兼帯するなり」とか「片田舎山中野方海達里方に至る迄
其の朗々富豪の有は'皆百姓にして商を兼ねたる者にあらで'誰か金銀を自由にするあらんO或は酒や椛や紺屋など
叉夫々の諾商責'金を借し質をとるなどは非すして'首姓一通‑にして'中々人らしき世を渡るにー心易‑暮す事は
不叶ものと知るべし」とか「近年世間商事も末に成'金持の町人ども工み所々へ金をかし、田地質流しと成て百姓の(3)田地多‑町人の有と成」と云い、叉「勧農策」にも「在方1統困窮仕候内に'間には豪富の者も相見へ候。是は如何
にして官有に相成‑侯ぞと申に'耕作計にて身上仕出し候にては無御座'多‑は酒油店商質屋等にて御座候。一向無
商責の者も皆金倍Lを仕‑'其の利息を取て手前よ‑相成候にて御座候」とある事は'金‑津軽郎方に於ても妥当し(4)たのであるOか‑て「新田開蟹」特に「町人請負新臼」の経営にしても'「土地乗併地主」の経営にしても'それら
は封建的農業生産関係への商業資本高利貸資本の侵蝕なのであ‑'そこには「資本家的土地所有」及び「資本家的農
業経営」の萌芽さえ見る事が出来るOそしてそこに'都市商工業の発展に伴なう商業的勢力の農村への侵入と農産
物の商品化に基‑農糞の襲質'更には都市的乃至商工的人口としての農村人口吸収の可能性が出現したのである。即
ち'かかる関係こそ'停滞不撃の状態を持続したかの如‑見える封建農村乃至すぐれてそれを基啓とする津軽封建社
会を大き‑括り動かし始めたのである。
然らば'酒造業の発達は如何にして具体的に進展して行ったのであるか。それは'第1‑藩府当局の、いわば「上か(5)(6)(7)らの」保護に基す‑もの'葦二'旧地主の商品・貨幣経済の侵出に促されて商人・高利貸化したもの、第三新地主印
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ち商人殊に中央よ‑流入して来た「前期的商人」によるものと大体三つに分けて考えられるのである。
註
(‑)津揮信政は天和元年十二月'領内の民戸を調査し年具法を制定している。即ち'上・中・下の三等に田を分ち'その階級
田に鷹じて投法が異っている。これは後代しばしば改正せられたが'その大要は積読している。即ち'年具としてほ田租
畠租が五公五民内外とされ'米嗣に関しては村民の連帯背任が強調され'五人組の連帯嗣付が活用された。
弘前藩に於ては、明暦'寛文'廷宝'天和'貞享と昏々検地が行われている。村位は大体上・中・下の三等'同位は大体
(上上)上・中・下(下下)の玉等'畑地は大体上・中・下(下下)の四等に分類せられたよ‑である。何れにしても披見
の方法が次第に苛酷となり'年具、賦役'妊現が「段々埼」になったのであり'後には大公四民は定則となっている。(2)土居喬堆氏著「近世日本農村経済史論」一五五貢'「日本経済大典」第五'lO三文以下参照。
(3)同第三十二'六七五頁参照。
(4)小野武夫氏著「農村社会史論講」二五貢参照。
「拒世地主の発達」の顎に於て'地主発生の由来及び其の性状について述べ、特に「新田開発地主」と「土地乗併による
地主」の説明をなし'新田地主は徳川時代における各種地主中'最も勢力があり'且つその数もかなり多きを算するに至
ったといわれている。
(5)その典型的なものは「青森開港」に伴な‑酒造業の発展である.その詳細については既に発表しているのでここには省略
する。
弘前大学人文社会学会第1回研究発表会報告「幕末後進叢におけるコルベルティズム的基調」参照。
「社会経済史学」第十七巻第六号'拙稿'「津軽酒造資本と青森商社」参照。
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