生命保険業の効率性と公平性
⎜⎜ 有効競争の観点から ⎜⎜
根 本 篤 司
■アブストラクト
有効競争は,市場における規模の経済性の追求を是認し,同時に市場競争 によるメリットの享受を目的とした概念であり,市場の規制政策評価(有効 競争レビュー)の理論的根拠を提供することで,いまなお用いられる。
わが国の生命保険業においても規制政策評価は必要である。
現在,生命保険会社は規制緩和を端緒とする競争環境に加えて,低調な金 融環境へ対応するために金融収益依存型経営からの脱却・転換を図っている。
こうした状況で生命保険会社の保険金不払い問題が生じた。
生命保険市場における保険金不払い現象を,情報の格差からもたらされる 生命保険会社の機会主義的行動と理解するとき,市場機構を介した効率的な 資源配分は阻害され,また保険取引をめぐって,加入者・被保険者の保険料 負担とリスク負担の公平性は損なわれる。
望ましい市場成果に向けて,このような生命保険業の現代的問題を解決す る必要があるが,規制政策評価としての有効競争の概念は,その一助となる。
市場の効率性の追求と保険取引における公平性の保持が,今後の規制政策 評価の内容に求められる。
■キーワード
効率性,公平性,有効競争
*平成21年10月25日の日本保険学会大会(龍谷大学)報告による。
/平成22年10月25日原稿受領。
1.生命保険業をめぐる有効競争
1.1 規制政策評価と有効競争
現在,ヨーロッパのいくつかの国では,産業の規制政策を定量的・定性的 に評価するために,有効競争の観点から規制産業の競争状況を分析し,評価 する有効競争レビュー(effective competition review)が活用されている。
有効競争レビューは,イギリスの
OFTEL
(電気通信庁)が1998年に提唱し,市 場 影 響 力(market influence)と 市 場 支 配 力(significant market
power
)の概念を中心に市場の競争環境を評価する規制政策評価の手法である。
わが国においても,有効競争レビューは,エネルギー産業や
IT
分野の競 争環境の評価に導入されており ,近年では,その分析手法は他の分野にも 援用されている 。このような有効競争レビューのなかで根幹となる概念は,まさしく有効競争であろう。
有効競争の概念は,産業組織論の理論的体系と重複する部分もあって密接 に関連する。規制政策原理としての産業組織論は,ハーバード学派の提唱し た利潤−集中度仮説(市場影響度)だけではなく,シカゴ学派の支持する効 率性仮説,さらにはコンテスタビリティ理論,取引費用などいくつかの概念 を用いて当該産業を多面的に分析する(表1参照)。そのうちハーバード学 派の
SCP
パラダイム は,市場を3つの視点(構造・行動・成果)から分1) その背景として,経済産業省は市場競争を巡る紛争の増加や産業再編による 競争環境の変化などを挙げている。経済産業省(2004) 市場における競争環 境 の 整 備 に 向 け て−競 争 環 境 整 備 室 の 概 要− (http://www.meti.go.jp/ policy/kyoso seisaku/seibbisitsuset.pdf)。
2) 白川志保=土井良治=白川展之(2009) 有効競争レビューによる大学間の 競争構造の評価への俯瞰的アプローチ 広島大学高等教育研究開発センター
大学論集 第40集,pp.281‑297を参照。
3) SCPパラダイムは,様々な競争の諸形態をもつ市場構造 の下で,企業の 行動 を分析し,その行動による市場の成果 を評価する。宮沢(1999),p.
167。
析する手法で,古典的ではあるが,現在でも活用されることは多い。SCP パラダイムのなかで有効競争は,個別経済主体による規模の経済性の追求を 是認し,同時に市場競争のメリットを評価する 。市場成果の評価が,有効 競争に基づく規準から良好ではないと判断された場合,その原因である市場 構造あるいは市場行動を改善するための規制政策が改めて検討されるのであ る。したがって有効競争レビューは,有効競争の観点から,規制政策の効果 を定量的・定性的に評価する一つの規準といえる。
4) 有効競争は理念的な完全競争に対する現実的・実際的な政策規準として用い られる。有効競争の提唱された背景には,J.ロビンソンによる不完全競争市場 の独占均衡の分析や,E.H.チェンバリンの差別化された生産物のあいだの独 占的競争や少数の供給者の競争,すなわち寡占市場の分析のように競争と独占 のあいだにある市場分析の発展がある。
(出所)小西唯雄(2000) 産業組織論と競争政策 晃洋書房,pp.15‑112を参考 に作成。
中心的な論者 規制政策の態度
重視するSCP 理論的特徴 中心的な論者 規制政策の態度
重視するSCP 理論的特徴
Coase, Williamson ケースバイケース
(合理の原則)
市場行動 取引費用の概念
取引費用論 Bain, Caves, Clarke
市場構造規制を支持 市場構造 集中度―利潤率仮説
SCPパラダイム
Baumol, Pnzar, Willig 市場のコンテスダブルな 条件を重視
市場行動 完全コンテスタブル市場 の概念
費用関数の劣加法性 コンテスタビリティ理論 Freedman, Stigler, Demsets
厳格な独占政策を批判 市場行動 効率性仮説 新古典派価格理論
Tirol 情報格差の是正と規制政 策の弾力的運用
市場行動 多段階での戦略的行動の 分析(ゲーム理論)
情報の非対称性 新しい産業組織論
Mises, Hayek 自由放任路線を支持
市場行動 知識の発見・伝播論
企業者精神の概念 新オーストラリア学派 (新)シカゴ学派
ハーバード学派
表1 規制政策の代表的原理
有効競争による市場成果の評価は,論者の主観的価値の影響を受けやすく,
当然ながら,理念としての完全競争を用いた規準よりも不明確である 。ま た有効競争が,個別経済主体の限定合理性を想定していないこと,それゆえ,
たとえば中古車の取引市場(いわゆるレモン市場)における逆選択問題
(adverse selection)や個別経済主体の機会主義的行動の分析などに対して は,自ずと理論的分析の限界が存在する 。
しかしながら,消費者利益の保護を重視し,それを規制政策の評価規準の なかに組み込むことを前提として当該産業の市場分析を試みる場合,有効競 争は理論的な分析に加えて,論者の規範的価値 に基づく検討を可能とする と考えられる。つまり,規模の経済性をめぐる個別経済主体の市場行動から もたらされる成果について客観的考察と規範的な考察を同時に行うのである。
このように規制政策評価としての実際の活用と,理論あるいは実証を用いた 総合的な分析を可能とする理論的枠組みを求めたとき,有効競争の概念は,
規制政策評価における分析ツールとして,いまなお有用と思われる。そこで 本稿では,有効競争による生命保険市場への一時的接近を試みる。
1.2 生命保険業と規制政策評価の必要性
わが国の生命保険業における規制政策は,新保険業法の成立を端緒として,
市場競争の促進を図るために種々の規制の緩和を中心に行ってきた。子会社 方式による生損保相互参入や本体会社による第三分野保険への相互参入は,
それまで厳格に規定してきた生命保険会社の生損保兼営を部分的に緩和し,
5) 小西(2001),p.61,p.95。
6) かかる意味で,有効競争によって保険市場で起こりうる種々の経済現象のす べてを分析することは大変困難である。それゆえ,本稿の研究成果における進 取の部分は小さいかもしれない。保険市場の研究には,こうした問題意識と理 論的分析の限界を確認した上で,市場の分析ツールを適切に選択し,用いるこ とが大切であり,あらためて認識する次第である。以上を,報告の質疑応答で 頂いた なぜ,いま有効競争なのか? (愛知学院大学・田畑康人教授)とい う指摘に対する一つの回答としたい。なお,すべての文責は筆者に帰す。
7) 小西(1975),p.94。
生命保険会社の新規参入を促した。生命保険会社の保険商品の開発や料率設 定に関する認可制から届出制への移行は,生命保険会社間の料率競争と非料 率競争を活発化させている。こうした市場競争は,保険消費者の消費者利益 を直接的に確保あるいは拡充する。たとえば,生命保険会社の経営効率化は,
付加保険料部分の圧縮をもたらし,営業保険料の低廉化となって現れる。生 命保険会社は,保険需要の確保をめぐって,他の会社よりも相対的に低廉な 保険料率を設定した結果,保険消費者は従来よりも安価な営業保険料で保険 商品を購入する機会を得るのである。
他方で,こうした市場競争から消費者利益の保護を図るために強化される 規制も必要である。たとえば生命保険会社の間で保険料率の過度な引き下げ 競争は,生命保険会社の破綻を招き,生命保険市場の社会的損失が生じる要 因である。それゆえ,実際の規制政策では,ソルベンシー・マージン基準に よって生命保険会社の財務上の健全性の確保に努め,また早期是正制度や保 険契約者保護基金を創設することで生命保険市場にセーフティ・ネットを構 築している。
このようにわが国の生命保険業の規制政策は,規制緩和による市場競争の 促進から生じるメリットの増大を図り,同時に保険消費者が不利益を被るよ うな競争上のデメリットを排除あるいは小さくするように事前的・事後的な 規制を施してきた。
生命保険業は規制産業とされるが,公益事業など他の規制産業では,市場 の効率化や競争の効果といった規制の質的側面の向上を目的として,監督行 政による規制政策の定量的・定性的な評価が行われている 。
保険業における規制政策評価は,金融庁による銀行業および証券業を含め た一連の金融システム改革のなかで見られる。具体的には,他業種からの保
8) アメリカとイギリスでは,市場化(民営化)や規制改革の進む当該産業につ い て,そ の 後 の 規 制 政 策 の 定 量 的 分 析 と し て 規 制 影 響 分 析(regulatory impact analysis; RIA)を実施することが現行制度のなかで規定されている。
詳しくは,山本(2009),pp.23‑62を参照。
険市場への参入による競争促進の実現についての定性的な評価である 。し かしながら,このような生命保険業の規制政策の評価は,規制緩和による市 場競争の促進を目的とすることから,競争政策の効果の測定・分析に限定し ており,生命保険業が現在直面する問題についてはとくに関心を示していな い。
たとえば,生命保険会社によって全社的かつ連続的に生じた保険金不払い 問題である 。保険の機能を加入者から保険金受取人への所得移転 とし たとき,いわゆる保険金不払い問題は,市場における保険取引を介した効率 的な所得移転を歪曲し,一部の加入者が経済的保障を達成することを困難に すると考えられる。したがって,現在の生命保険業における規制政策評価に は,消費者利益を重視する点から市場競争の成果を分析し,その規制政策を 評価するとともに,生命保険会社による不適切な保険金不払いに見るような 市場の保険取引をめぐる効果的・効率的な所得移転,あるいは利害関係者の 間のリスク負担について検討する必要がある。本稿では,これらを保険取引 をめぐる公平性の問題として把握したい。
保険金不払い問題については,既に多くの研究成果 が発表されている が,保険金不払い問題を規制政策評価として有効競争の分析枠組みから考察 する必要性は捨てきれない。有効競争の概念は,論者の主観的な価値判断の 影響もあって,保険取引をめぐるリスク負担の公平性の概念を客観的かつ厳 密に規定することは困難であるが,こうした曖昧さを残して規制政策評価の 対象である生命保険市場を考察するために,有用性があると思われるからで
9) 金 融 庁(2009) 平 成20年 度 総 合 評 価 書 要 旨 (http://www.fsa.go.jp/ seisaku/20s yousi.pdf),p.63。
10) 保険金不払い問題とみなされる当初の発生件数は,2000年から4年間で 1,488件である。鳳(2007),p.2。
11) 井口富夫(2008),p.64。
12) 平成19年度日本保険学会全国大会(於桃山学院大学)では, 保険金等の支 払いをめぐる再検証問題 と題して保険金不払い問題の総括的なシンポジウム が行われた。日本保険学会(2008) 保険学雑誌 第601号を参照されたい。
ある 。
保険市場を市場競争による経営効率化という観点から見れば,わが国の生 命保険業は,規模の経済性による参入障壁は高く,また保険の特殊性から実 質的な製品差別化は困難であり,保険販売競争が有効な市場とされた。他方 で,低調な金融環境を発端とした近年の逆ザヤに関する問題は,生命保険会 社の財務の健全性に深刻な影響を与え,市場行動の変化をもたらすことが考 えられる。生命保険市場における競争原理を強化し,生命保険会社のいわゆ る企業努力によって種々の効率化の実現を図るものであるが,こうした市場 競争のなかで,結果として生じる生命保険会社の破綻は,経済的保障の達成 という加入者の消費者利益を損ねるものであり,さらに生命保険会社による 保険金不払い現象は生命保険業の社会的な信用にも影響を及ぼすことが考え られる。
以上から生命保険市場における生命保険会社間の市場競争と関連する,い くつかの問題に加えて,一連の保険金不払い問題を取り上げ,市場成果とし て検討する。これらは生命保険業の現代的課題といえる。生命保険市場の有 効競争を実現するためには,競争上の紛争を回避しなければならず,また,
このような保険取引の公平性を確認することなしに,生命保険業の規制政策 評価における有効競争の規準を考察することは困難と考える。
以下,二つの論点を中心に考察する。第一に,生命保険会社の経営効率化 を目的として,生命保険会社の追求する規模の経済性について生命保険会社
13) なお,岡村教授は,保険業における有効競争の評価規準として,以下の6項 目を挙げている。⑴保険商品の形成をめぐる効率が実現可能な最高状態に適度 に近づく状態。⑵販売に投下される社会的財や労力が一定限度内であること。
⑶技術革新を遂行しうる適正な利潤と危険対策のための十分な内部留保。⑷社 会的需要を抑制しない適正価格。保険企業の永続と循環的変動への反応が可能 であること。⑸保険の提供が社会的に諸資源・財や労働力の最適配分から乖離 しないこと。⑹商品,販売,経営上の革新の機会の保護。岡村国和(1980)
生命保険事業における有効競争の限界⎜⎜料率競争をめぐって⎜⎜ 保険研 究 第32集,慶應義塾保険学会,pp.218‑219。
の市場行動との関連から考察することである。近年の生命保険会社の経営環 境の変化の影響を受けて,規模の経済性と市場競争のメリットを実現する有 効競争の競争形態が変化していることが考えられる。
第二に,保険取引をめぐるリスク負担および保険料負担の公平性について の検討である。保険金不払い問題は,保険取引の行われる市場機構による効 率的な資源配分を妨げる。また,加入者と生命保険会社,あるいは加入者の 間で不公平感を醸成するものであり,こうした保険取引の生じる要因につい て考察する。加入者と保険者における情報をめぐる量的・質的な格差は機会 主義的行動を生む要因とされるが,保険金不払い問題は保険会社・保険者側 に情報が偏在する場合に生じることが考えられる。
2.規模の経済性と有効競争
2.1 規模の経済性と生命保険会社の市場行動
効率性には,費用を最小にして生産量の増加を図る技術的効率性と,効率 的に資源配分を達成する配分的効率性があり,技術的効率性には,規模の経 済性と範囲の経済性が含まれる。以下では,生命保険業の規模の経済性をめ ぐる議論について有効競争との関連から整理する。
生命保険業における規模の経済性 は,生命保険会社の保険収益である 費差益の生じる要因である。生命保険会社は,保有する契約の営業保険料と 保険金額に基づいて設定される予定事業費を算出するので,保有契約高の増 大は,営業保険料と保険金額の比例から予定事業費を大きくする。生命保険 会社は,増大する保有契約高から予定事業費を設定する一方で,実際の事業 費を改善することによって,その差として費差益を確保する。費差益は優れ た費用構造をもつ大規模企業ほど生じやすく,生命保険会社は規模の経済性 を追求するべく,保有契約高拡大行動として企業規模の拡大を志向する。こ こに事業費をめぐって規模の経済性の作用が見られるのである。したがって,
14) 規模の経済性とは,生産物の生産量の増大にともなって,それにかかる長期 的な平均費用の低下する技術的効率性である。
規模の経済性を追求する生命保険市場の有効競争は,事業費をめぐる経営効 率化を促し,生命保険市場に積極的な市場競争の展開をもたらすインセンテ ィブを生じさせる。
しかしながら,こうした規模の経済性の存在は,企業間の相互依存に従っ て積極的な市場競争をもたらさないケースがある。すなわちカルテル料率規 制下における生命保険会社の市場行動である。かつての護送船団体制で見ら れたカルテル料率規制は,経営体力の小さな生命保険会社の破綻を事前に防 止することで間接的な消費者利益の保護を図ってきたが,他方で費用構造の 優れた大規模な生命保険会社に対して長期的な超過利潤(レント)をもたら し ,料率競争をめぐる生命保険会社の協調的行動を強める。こうした規制 における市場競争は制限的となって最適な資源配分を実現しないので,最良 好な市場成果をもたらすものではない 。
また,超過利潤を得る生命保険会社は,生命保険需要の選好を誘引するた めに広告や販売活動を重視するので,生命保険市場では非料率競争の展開が 促される。
市場で価格競争と非価格競争の二つの競争形態が展開されることが有効競 争として望ましいが,生命保険市場にカルテル料率が存在する場合には,協 調的な料率設定と規模の経済性を認めた上で,なお市場競争を促し,そのメ リットを保険消費者が享受することが求められる。そのためカルテル料率の もとでの非料率競争として,保険契約者配当の価格の事後調整機能を利用し た配当競争が有効競争の競争形態として期待される。
保険契約者配当は,生命保険会社の前払い保険料による徴収のもとで,危 険率に対するバッファとして保険料に組み込まれた安全割増から生じた余剰
15) 水島(2006),pp.108‑113。
16) このような市場成果を改善するために種々の規制緩和とセーフティ・ネット の整備などの規制強化が施されたことは,護送船団体制のひとつの通念的帰結 であった。水島一也(1974) 連載・日本の産業組織17 生命保険 季刊中央 公論 経営問題 中央公論社,pp.210-214。水島一也(1997),pp.123‑134。
であり,生命保険会社は収支相等の原則に則って有配当保険に帰属する剰余 金 を契約者配当として契約者に払い戻す。このような契約者配当は,結 果として,契約者の実質的な保険料支払いを軽減するという価格の事後調整 機能をもつので,生命保険会社は配当水準の差異を設定することによって保 険商品の製品差別化を実現する。
2.2 生命保険経営の転換と有効競争
生命保険会社は,収支相等の原則を重視し,数理的技術を活用しながら安 定的な保険経営を図っており,保険料率や責任準備金の設定は厳格に行われ る。たとえば,保険料の設定は,期間・年齢・性別の種々の指標ごとに危険 を等級化し,同種の危険に対して同一の保険料が設定される。とくに純保険 料の危険保険料は,選定した予定死亡率(予定生存率)に,事故発生の推定 値と実際の事故との誤差を含めた安全割増も計算される。予定利率は,将来 的な経済・金融情勢を予測のもとで設定される 。
利差損は,こうした保険経営の財務状態の健全性を小さくし,保険経営を 不安定にさせる要因である。その結果として,生命保険会社の適切かつ円滑 な保険金支払いができない場合,加入者は貯蓄など他の手段による経済的保 障を求めることを余儀なくされ,新たな経済的負担を付随的・追加的に負担 する。こうした問題が常態化すれば,加入者の解約・脱退が増加し,生命保 険会社の財務状態を弱体化させるという連鎖的な状況を引き起こして,さら
17) 損益計算上では,保険料収入と利息・配当金収入,有価証券収益から保険金 の支払いと事業費,解約返戻金,そして責任準備金繰入額を差し引いた残額が 契約者配当として扱われる。契約者配当の大部分は,利息・配当金収入による 利差益(利差配当部分)から構成される。
18) 将来保険金として支払われる責任準備金積立てもまた厳格に管理される。チ ルメル式積立てでは,初年度にかかる外務員報酬や診査費用を責任準備金から 拠出し,将来的に償還されてゆくので,安定的な保険経営のためには純保険料 式が有効である。なお標準責任準備金制度では,監督行政によって平準純保険 料式による積立てと,特定の予定死亡率と予定利率の計算基礎率が定められて いる。
には,生命保険業に対する社会的信用の低下を招くかもしれない。
いわゆるバブル崩壊以降の生命保険会社の経営的特徴である保険収益依存 型経営(死差益依存型経営)は,死差益と費差益の保険収益を堅実に確保す ることで,逆ザヤから生じた莫大な利差損の補塡を図っており,いわば金融 収益による利差益依存型経営からの脱却・転換といえる 。
金融収益依存型経営を志向する生命保険会社は,利差益を確保するために は,保険資金の原資である収入保険料の増収が不可欠であり,したがって生 命保険会社の保有契約高行動は,保険資金の増大と事業費における規模の経 済性を享受するために有効であった。生命保険会社は,集積された保険資金 の資産運用から含み益と巨額な内部留保を形成し,加えて規模の経済性によ る費差益を確保することで,リスク・バッファとしての担保力を増大させ,
安定的な保険経営を図ってきたのである。こうした保険経営の傾向は,株式 による自己資本を形成することのできない,相互会社形態の生命保険会社に おいて,より強く現れる。
生命保険会社による死差益依存型経営への脱却・転換は,費差益の確保を より重視するので,財務の健全化という経営上の目標のもとで,規模の経済 性の追求が経営戦略上の中心的課題として,より明確に位置づけられるので ある。
先述したように,配当競争はカルテル料率規制といった料率競争の制限下 における効果的な競争形態であり,保険契約者配当の配当割当の引下げは,
19) こうした変化は生命保険会社の商品政策に影響を及ぼす。バブル期以前の生 命保険会社は養老保険など貯蓄性の高い保険商品の販売を重視してきたが,死 差益依存型経営のもとでは,有配当保険や貯蓄性の高い保険よりも無配当の定 期保険や医療保険の販売を重視するようになった。岡村(2006),pp.204‑205。
なお,医療保険の保険リスクは,統計上正確に把握されていない。田口茂
(2006) 第10章 保険業における数理技術の発展 堀田一吉=岡村国和=石田 成則編著 保険進化と保険事業 慶應義塾大学出版会,p.270。今後,生命保 険会社には,このようなリスク管理のための高度な技術の研究開発がますます 大切になると思われる。
生命保険会社間で異なる配当水準の実現し,製品差別化をもたらす要因であ った。ところが,死差益依存型経営を志向する生命保険会社は,利差損の解 消のために内部留保を効率的に形成しなければならないので,配当率の設定 をめぐって暗黙的ないしは明示的な協調的行動を選択し,配当競争を回避す ることが考えられる。契約者配当の原資である剰余金の大部分は利息・配当 金収入であるが,これらの一部は生命保険会社に内部留保され,財務状態の 維持・向上に寄与し,生命保険会社のリスク・バッファの増大に貢献する。
生命保険会社が剰余金のうち内部留保の割当を厚くする場合には,契約者配 当の配当水準は低下し,配当競争は消極的となる 。多くの生命保険会社が 死差益依存型経営を志向する場合には,配当競争による有効競争のインセン ティブの効果は小さい。
規模の経済性をめぐる生命保険会社の市場行動は,それを追求するための 保有契約高拡大行動を志向するが,他方で,有効競争として期待された契約 者配当を介した配当競争による製品差別化を促進することなく,契約者配当 を価格の事後調整機能の域に留めるのである。このように規模の経済性と生 命保険会社の市場行動をめぐる有効競争は,現在の生命保険会社が直面する 経営環境について認識を与える。
3.保険取引をめぐる公平性
3.1 生命保険会社の機会主義的行動
生命保険会社による保険金の不適切な不払いは生損保の保険業で連続的に 生じており,監督行政はそれらについて調査報告を実施し,行政処分を行っ た。生命保険業における保険金不払いは大まかに3つのケースに分類される。
⑴詐欺無効を厳格に適用にしたケース,⑵生命保険会社独自の基準を適用し たケース,⑶書類の改ざんによる不正な契約解除のケースである。
死亡保険金についての告知義務違反には,病気について被保険者の認識の
20) 根本(2003)pp.266‑268。
困難のものや,また貯蓄性の高い保険に加入していながら,欺 行為とみな されたケース,重要事項の告知義務違反とは異なるケースなど,本来の目的 から離れて厳格に適用された点が特徴である。具体的には,営業職員による 不適切な募集行為に基づく保険契約について告知義務違反を適用し,保険金 を支払わなかったケースである 。また,加入者が保険金請求権を行使しな いことから生じた保険金支払い漏れの事例においても,保険金請求の際に契 約者の用意した必要書類の記載事項を見落とすといった支払査定部門でのヒ ューマン・エラーも明らかとなった。
支払査定部門の担当職員の書類改ざんによる契約解除とあわせて,生命保 険会社のモラル・ハザード(moral hazard)とコンプライアンス(compli-
ance
:法令遵守)のあり方が指摘されている 。さて,このような保険金不払い問題を保険市場の経済現象として,いかに し て 把 握 す れ ば よ い だ ろ う か。以 下,保 険 金 不 払 い 現 象 を,石 田 博 士
(2007)と田畑教授(2008)の研究成果を再構成して考察を試みたい。
新古典派経済学の想定するところと異なり,実際の個別経済主体は,限ら れた情報と自己の能力の範囲のなかで,自身の効用・利得を最大化するよう に合理的な行動を選択するという。個別経済主体の機会主義的行動には,こ うした限定合理性の概念が関わっている。
保険市場における機会主義的行動の問題は,加入者・被保険者と保険会 社・保険者の間にある情報の格差を利用した加入者の機会主義的行動に求め られる。保険会社・保険者は,加入者・被保険者の既往歴などについて,情 報の劣位にあるとみなされるので,通常では加入できないような健康状態に ありながら,これを隠して加入するという機会主義的行動が生じるのである
(逆選択の問題)。
21) より具体的には,生命保険会社の営業職員の勧めに従って,過去の病歴を告 知しなかった被保険者について,生命保険会社は告知義務違反を適用していた ケースである。
22) 石田(2007),pp.22‑24。
しかしながら,両研究では,保険市場における機会主義的行動が,生命保 険会社においても生じることを指摘される 。
保険による経済的保障は,加入者・契約者が保険料を支払い,保険事故が 生じた場合に保険金を受け取るという一連の過程を経て達成されるが,加入 者・契約者がそれぞれの場面で入手しうる情報は,保険商品のラインナップ や保険会社の財務の健全性などの保険会社が開示する内容に限られている。
また,加入者・契約者は,こうした情報を積極的に収集し,検討しなければ ならないが,このような保険に関する専門的知識を正しく理解し,適切に活 用するというような情報の処理能力についても限界がある。
保険取引をめぐる情報の格差は,健康状態について加入者・被保険者が優 位である場合だけではなく,保険商品や保険会社の財務状態などについて保 険会社・保険者が優位である場合という,二つの状況が存在するのである。
後者のように保険取引における情報の格差が,加入者・契約者・被保険者 側に劣位であるとき,保険会社の機会主義的行動を生じる可能性がある。営 業職員の不適切な募集行為を含めた一連の保険金不払い問題は,こうした保 険会社の機会主義的行動の延長にあると考えられる。
3.2 保険料とリスク負担の公平性
ところで,新古典派経済学では,加入者・被保険者と保険会社・保険者の 情報に関する格差がない市場を想定したとき,自身の効用を最大化するため に行動する加入者・被保険者と,利得・利潤を最大化するように行動する保 険会社・保険者は,両者の資産水準の均衡するところで保険取引を行うとさ れる。このようなところでは,加入者・被保険者と保険会社・保険者の間で,
保険取引を通じて純保険料と保険金の交換が行われ,このとき保険市場は効 率的な資源配分を実現する。
23) こうした問題意識の相違が生じる原因として,石田(2007)は,その前提と しての保険(制度)の把握が,経済理論と保険理論で異なることを指摘される。
石田(2007),p.23。
しかしながら,生命保険会社の保険金不払い現象が生じる場合,費用とし ての保険金が生命保険会社に留まることによって,生命保険会社の資産水準 は増大し,一方で加入者・被保険者の資産水準を満たさないので,市場では 保険取引による効率的な資源配分が阻害される状況が生じることになる。
このような現象が生じる要因として,田畑教授(2008)は,保険経営の安 定化を図りたい生命保険会社によって,給付・反対給付均等の原則と収支相 等の原則の成立関係が捻れる点を指摘される 。
私的保険では,保険会社の収支相等の原則の達成に先駆けて,給付・反対 給付均等の原則が前提的に成立される構図が望ましいのであるが,利差損の 解消による財務の健全化を目指すなかで,保険金の支払いに直面した生命保 険会社は,収支相等の原則を優先的に達成し,しかる後に個別の保険取引に おける給付・反対給付均等の原則を目指すというのである。
このように考えると,一連の保険金不払い問題は,加入者・被保険者と生 命保険会社・保険者が確保・処理できる情報の格差から生じる生命保険会社 の機会主義的行動であり,生命保険会社の利得最大化行動に従って,保険金 支払いの抑制による死差益の確保を目的とするとき,事後的な機会主義的行 動としてのモラル・ハザード となって現れる。
保険は加入者・被保険者による保険会社・保険者へのリスク移転を可能と するが,それは保険事故の発生を条件として保険者から保険金受取人である 加入者へ保険金給付が適切に行われることで実現するのであって,不適切な 理由で保険金が給付されない場合,すなわち給付・反対給付均等の原則が実 現されない状況では,加入者・被保険者はリスクを負担したままの状態に置 かれることになるので,リスクを引受ける保険会社・保険者と加入者・被保
24) 田畑(2008),pp.126‑127。
25) モラル・ハザードは,公序良俗に反する行為によって経済的不利益を被る危 険としての解されることもあるが,ここでは個別経済主体が取引相手の行動を 監視できない状況で,取引相手の利得最大化行動によって経済的不利益を被る 危険と規定する。なお,本稿はO.E.ウィリアムソン,浅沼=岩崎訳(1980),
pp.23‑26の記述を参考にした。
険者との間において,保険取引をめぐるリスク負担の公平性が保たれない。
また,同じ契約条件の下で保険団体を形成する加入者・被保険者の間におい ても,適切に保険金給付を受ける者とそうでない者が存在し,加入者・被保 険者の間でリスク負担の不公平感が生じると考えられる。
保険は,同質的なリスクをもつ加入者を集めて形成される保険団体のなか で,大数法則の作用を受けてリスクの分散化を図っているのであり,こうし て加入者・被保険者は他の加入者のリスクを負担する。保険取引において給 付・反対給付均等の原則が見られない場合には,加入者・被保険者の拠出す る純保険料はリスクに応じて設定されない。こうして当該保険団体の加入 者・被保険者の関係では,保険料負担の公平性も欠落する。これらは保険取 引を介した市場の資源配分を非効率的にする要因である。
以上から,生命保険業における規制政策評価の規準については,⑴生命保 険会社のモラル・ハザード問題による経済的影響をなるべく抑制し,⑵生命 保険会社・保険者と加入者・被保険者の関係,加入者・被保険者の間の関係 における,保険取引の公平性を担保することで,⑶生命保険市場の市場機構 を介した効果的・効率的な資源配分を促すことを考慮しなければならない。
4.有効競争のあり方をめぐって
わが国の生命保険業では,生命保険会社の逆ざやの解消を目的として規模 の経済性の追求がみられ,他方で市場における保険金不払い現象は,保険取 引をめぐって,加入者・被保険者同士の関係,あるいは加入者・被保険者と 保険会社・保険者の関係における,リスク負担と保険料負担の公平性の保持 を妨げる。
保険市場において保険商品を販売する保険会社と,経済的保障を達成する ことを目的として保険商品を購入する加入者を比べれば,両者には経済的格 差が存在する。生命保険会社は株式会社あるいは相互会社を問わず,巨大な 企業組織を形成しているのであり,その経済的規模は個別経済主体である加 入者よりもはるかに大きいのである。
このような経済社会における企業と個人のあいだにある経済的規模の格差 を残したままで,加入者・被保険者の行動に自己責任原則を厳格に問うこと は,果たして適切であろうか。こうした認識を踏まえて,生命保険市場で有 効競争を実現するためには,市場において加入者と生命保険会社の間で公正 な保険取引が行われることを監督行政によって保証することも検討されよう。
現在,保険会社には財務の健全化のために効率的に収益を確保することが求 められるが,同時に,保険取引における加入者の間にある不公平と,加入者 と保険者の間にある不公平を縮小・是正することも必要なのである。
不適切な保険金不払い・支払漏れの防止が生命保険経営の課題と考えられ るが,そのためには生命保険会社と加入者の両者が,保険商品の複雑化が進 むなかで,保険を適切に認識することが挙げられる。
保険商品の機能を分解すれば,保険会社の適切な保険経営によって,加入 者に対して適切に契約内容を実行する部分と,それを補完するために保険取 引において種々の情報を提供するようなサービスといった付随的機能から構 成される。生命保険会社は,加入者の拠出した保険料の管理者であり,同時 に保険金受取人に対して,適切に保険金を支払うためのサービス提供者であ るので加入者の経済的保障の達成には,主要機能と付随的機能の二つが十分 に機能することが大切である。また,加入者についても,保険の知識と活用 について適切に認識・理解することが必要である。
こうした保険をめぐる加入者と保険者の両者の十分な認識のもとに,有効 競争の実現が期待される。
かつて有効競争は 望ましい競争 を実現するための規制政策を検討する 上で用いられてきた概念であるが,今後は保険消費者利益の観点から,市場 競争による効率性の促進と保険取引の公平性の確保を重視し,これらを規制 策評価の対象の一つとして求め,重視する必要があろう。
(筆者は福岡大学非常勤講師)
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