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―怒りと社会正義に関する哲学的分析―

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怒り,共感,スミス,ヌスバウム,正義

目   次   は じ め に

1 .道徳と感情

2 .アダム・スミスの道徳理論  2. 1.共   感

 2. 2.公平な観察者  2. 3.正義と憤慨

3 .ヌスバウムによる感情分析  3. 1.恥辱,嫌悪感そして法

 3. 2.仕返しとしての怒りと移行的怒り

4 .結びに代えて―ヌスバウムによるスミスの援 用とスミスの感情論の可能性

感情と社会

―怒りと社会正義に関する哲学的分析―

太 田 浩 之 横 山   陸

Emotion and Society: A Philosophical Analysis of Anger and Social Justice

HiroyukiOTA RikuYOKOYAMA

Abstract

ThemainpurposeofthispaperistoexploreAdamSmith’s( 1723-1790 )moraltheoryandMarthaNussbaum’s

(1947-)analysisofemotions,keepingpossiblefuturedevelopmentofsentimentalismtheorywhichdealswith modernsocialproblemsinmind.SincebothSmithandNussbaumshareabasicpositionthatsentimentsand emotionsareessentialtoarguemoralityandlaws,andNussbaumherselfreferstoSmithoccasionallyinorder tounderpinhertheory,itcanbeexpectedthatcomparingtheirtheoriesnotonlyrevealsthesignificanceof Smith’smoraltheorybutalsoenrichesNussbaum’sdiscussionwhichtargetsmodernsocialproblems.Inorder toaccomplishthisaim,firstlyitisattemptedtograspthefundamentalelementsinSmith’smoraltheory.These elements include his concept of ‘sympathy’, ‘the impartial spectator’ and his idea of resentment. Then Nussbaum’sargumentisexamined,anditisshowedthatNussbaumhasdeepenedheranalysisofangerthrough thetwobookswhicharetreatedinthispaper.Inconclusion,itissuggestedthatsomecommonfeaturescanbe detectedinSmithandNussbaum.Particularly,Smith’sideaaboutresentmentandlawswhichisbasedonhis conceptof‘sympathy’and‘theimpartialspectator’isnotablebecauseNussbaumacknowledgesthatSmith’sidea of‘theimpartialspectator’wouldhaveanimportantroleinordertomakeangerbeneficialtosociety.

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は じ め に

 18 世紀スコットランドの哲学者アダム・スミ ス(1723-90)は,『国富論』(1776)の著者であ ることから「経済学の父」として広く知られてい る.だが,『修辞学・文学講義』( 1762-63 ),『法 学講義』(1762-64),『哲学論文集』(1795)など の資料が残されていることからも推測出来るよう に,スミスの関心は経済学に限定されるわけでは ない.とりわけ,道徳哲学はスミスの思想の中心 的要素だったと言っていいだろう.スミスの最初 の著作は『国富論』(1776)ではなく『道徳感情論』

( 1759 )であり,彼は死の直前までこの著作の修 正を行い,結果的に六つの版を出版することにな った1)

 これまでの研究は,スミスの思想形成の過程を 明らかにしたり,スミスの理論を当時の文脈にそ くして理解することを目指すものが多かった2 ) スミスの理論を正確に把握する際には,こうした 研究が不可欠であることは確かである.だが他方 で,現代的な問題を視野に入れてスミスの議論を 考察するという試みは,ほとんどなされていない ように思われる.もちろん,スミスの理論の現代 的意義に言及する研究は存在する( Campbell 2013;Raphael2007 )が,こうした研究は依然と して少数であり,研究の余地がある.

 本稿は,以上の問題関心のもとでスミスの理論 を現代の社会問題を扱う議論へと架橋する可能性 を探るものである.こうした目的に際しては,マ ーサ・ヌスバウム( 1947-)の議論が一つの重要 な足掛かりとなる.ヌスバウムは,『感情と法』

( 2004 )や『怒りと赦し』( 2016 )などの著作に おいて,自らの感情の哲学を展開する過程で,繰 り返しスミスに言及している.

 とはいえ,ヌスバウムはスミス研究を専門とは しておらず,現代の社会問題にアプローチする自 身の議論にスミスの理論を接続すること自体に強 い関心を持っているわけではない.そこで,スミ スの理論が現代の社会問題を扱った議論に対して 持つ可能性を考察するためにも,まずはスミスの

『道徳感情論』とヌスバウムの『感情と法』およ び『怒りと赦し』の議論を把握し比較することが 必要となるだろう.本稿では,スミスとヌスバウ ムの主張の正確な把握に主眼を置き,その過程で 両者に共通する点を浮き彫りにする.そして,そ れによってスミスの理論を現代の社会問題を扱う 議論に架橋するための一つの下地を提供したい.

 そこで以下では,次のように議論を展開する.

まず第 1 節では,スミスとヌスバウムの哲学の基 礎にある両者の感情論を概観しながら,両者を比 較することが的外れな議論ではないことを示す.

続く第 2 節,第 3 節では,それぞれスミスとヌス バウムの中心的議論を整理し,最後に第 4 節では ヌスバウムによるスミスの援用の内実を詳しく検 討しながら,「怒り」という感情の社会的機能に ついて考察する.

1.道徳と感情

 ヌスバウムは自分の議論を例証する際にスミス に言及しているが,両者が感情論という土台を広 く共有している点を考慮に入れれば,ヌスバウム がスミスの分析を援用していることは全く的外れ なことではない.

 ふつう,感情とは非合理的で信頼出来ないもの であり,したがって法や道徳は感情ではなく理性 に基づいて構築されるべきと考えられるだろう.

しかしヌスバウムとスミスはこの見解に異を唱え る.『感情と法』においてヌスバウムは感情的反 応を完全に排除した法を想像することなど不可能 であると論じ,法における感情の重要性を指摘す る.ヌスバウムによれば,感情は人間の「脆弱性 vulnerability 」( Nussbaum2004:6/7 頁 )と い う観念と密接に結びついており,この「脆弱性」

に言及することなく犯罪への罰則を説明すること は出来ず,それゆえ感情は法の不可欠な要素であ る(Nussbaum2004:6-9/7-11 頁).さらに,そ うした感情は,思考と関連し,理に適った感情と いうものがありうるのであり( Nussbaum2004:

9-11/11-13 頁),全ての感情が全く信用出来な い非合理的なものではないとヌスバウムは主張す

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る.

 スミスは,このようなヌスバウムの問題意識を 正確に共有していたわけではないが,似たような 問題に直面していた.スミスが活躍した 18 世紀 のイギリス道徳哲学は,よく感情主義と理性主義 という二つの思想的潮流に区別・整理されるが

(Raphael1947;柘植2009,2016),こうした図式 に 基 づ け ば,フ ラ ン シ ス・ハ チ ス ン( 1694-

1746 ),デイヴィッド・ヒューム( 1711-76 ),ア ダム・スミスらは道徳における感情の重要性を強 調した感情主義の流れに区別される.

 感情主義が理性主義に対して主張したのは,感 情を抜きにして道徳的判断を説明することは出来 ないということだった.例えばハチスンは,『美 と徳の観念の起源についての探究』( 1725 )で道 徳感覚という独自の見解を提示した後,理性主義 からの批判に応答するために『情念と情動の本性 と作用についての試論/道徳感覚についての例証』

( 1728 )を出版した.ハチスンは,後者の著作で 理性を「真なる命題を見つけ出す能力4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4」(Illustra- tion137 )と定義した上で,理性だけで道徳的善 悪を区別することは不可能であると論じた.同様 にヒュームも『人間本性論』( 1739-40 )で理性 を真偽の発見に関わるものと理解した上で(Trea- tise3.1.1.9),理性だけで道徳的善悪を判断する ことは出来ないと結論づけた.ハチスンとヒュー ムが代わりに主張したのは,道徳的判断はある種 の心地よい感じや不快な感じに基づくということ だった.

 ハチスンやヒュームと同じ感情主義という思想 的潮流に分類されるスミスは,理性主義批判につ いてハチスンと同様の見解を共有しているだけで なく( TMSVII.iii.2.9 /下 348-349 頁),感情 に着目して独自の理論を展開している.以上の事 情を踏まえれば,道徳における感情の重要性に対 して自覚的であった点でヌスバウムとスミスは広 く立場を共有していると考えることが出来るだろ う.この両者の基本的な立場に見出される類似性 を考慮に入れれば,ヌスバウムがスミスを参照す ることは決しておかしなことではない.それでは

スミスとヌスバウムは具体的にどのような議論を 展開したのだろうか.以下の二つの節では,両者 の議論を概観していこう.

2.アダム・スミスの道徳理論

2. 1. 共   感

 感情をベースにしたスミスの道徳論を理解する ためには,まず彼の「共感( sympathy )」概念 を把握する必要がある.共感は,スミスの道徳理 論の根幹に関わると言ってよい.だが,そうであ るにもかかわらず,スミスが共感を厳密な仕方で 用いているとは考えられず,スミスの用法にはあ る 程 度 の 曖 昧 さ が あ る と 言 わ れ る( Brown 20163 )).本稿でも,以下ではスミスによる共感 概念の二つの異なる用法を確認しておこう.

 まずスミスは,共感という概念によって他者と 同じような感情を抱くことを指している.そのよ うな他者と同じような感情を,スミスは「同胞感 情(fellow-feeling)」(TMSI.i.1.5/上 28-29 頁)

と呼ぶ.それでは,我々はどのようにして他者と 同じような感情を抱くことが出来るのだろうか.

スミスによれば,私たちは他者の感情を直接的に 経験することは出来ないので,想像力を働かせて 他者の状況を考えることで,この他者に共感する ことが出来るという(TMSI.i.1.2/上24-25頁).

スミス自身の言葉を用いると,「同じような状況 で我々が何を感じるに違いないかを思い描くこと によって」(TMSI.i.1.2/上 24 頁)我々は他者 の感情に接近することが出来るのである.つまり,

想像力によって他者の状況に身を置くことで,他 者と類似の感情を抱くという,ある種の感情移入 をスミスは共感(同胞感情)と呼んでいることが 分かるだろう.

 だが,共感はさらに別の現象を指す際にも用い られている.スミスは,当事者と観察者の感情が ある仕方で調和している時,観察者はその人に共 感していると述べる(TMSI.i.3.1/上 43-45 頁).

この場合の共感は,厳密に言えば,上述した同胞 感情としての共感からは区別されるべきだろう.

このことを理解するためには,同胞感情が必ずし

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も他者の感情に対応ないし一致したものではない ということを考える必要がある.

 スミスによれば,自分を観察している人が自分 と同じ感情(同胞感情)を持っているのを見るこ とは非常に喜ばしいことだという(TMSI.i.2.1

/上 36-37 頁).例えば,当事者がある出来事に 対して喜んでいる時に,その事情を知った観察者 も同じように喜んでいるのを見るのは,当事者に とって嬉しいことだとスミスは考えるのである.

この時,当事者の感情と観察者の感情(同胞感情)

には,ある種の一致ないし調和が存在するとスミ スは考える.この感情の一致あるいは調和は,観 察者が同胞感情を抱くことで常に達成されるわけ ではない.確かにスミスは,観察されている人の 本源的( original )感情と観察者の同胞感情が一 致する場合があることを認めているが( TMSI.

i.3.1/上 43 頁),同時に観察者の同胞感情には 限界があることも認識している.スミスによれば,

人は本性的に共感的な存在であるけれども,他者 と同じ程度の感情を抱くことは出来ない( TMS I.i.4.7/上 56-57 頁).なぜなら,想像上の立場 交換は瞬間的なものであり,観察者はすぐに想像 上の当事者の状況から自分自身の状況に引き戻さ れるからである.そこで,観察されている当事者 と観察者の間で感情の一致が生じるためには,観 察者が「ついて行く(goingalongwith)」(TMS I.i.4.7/上 57 頁)ことが出来るように,当事者 の方でも自分の本源的感情をある程度抑制しなけ ればならないとスミスは論じるのである.つまり,

まず観察者が想像力を働かせることで,観察者の 同胞感情としての共感は成立する.そしてこうし た観察者の努力に加え当事者も自分の感情を抑制 するという努力の上に,観察者の同胞感情(共感)

と当事者の感情との調和ないし一致が成立し,ス ミスはこの一致も共感と呼んでいる.したがって,

観察者の同胞感情としての共感と,この同胞感情 と当事者の感情との一致としての共感とは,概念 上区別され,前者に後者が基づいていることが分 かるだろう.

 さて,スミスによる道徳的判断はこうした共感

論を基礎にしている.スミスによれば,観察者と 当事者の感情が一致している時に観察者は,当事 者の感情やその感情から生じる行為を「適切であ る( proper )」と判断するのだが,それは,当事 者の感情と行為を観察者が道徳的に是認すること に他ならないという(TMSI.i.3.1/上 43-45 頁).

例えば,当事者 A にとって非常に嬉しい出来事 が生じたとする.この時,A がその出来事に際 して抱いた喜びや歓喜をそのまま表現した場合に は,A の振る舞いは否認されることになるだろう.

なぜなら,スミスの理論によれば,観察者 B は A の置かれている状況を想像して A の感情を考 えてみても,そこまで大きな喜びを感じることは ないからである.この時に観察者 B が考えるのは,

「その出来事は確かに嬉しいことだが,そこまで 喜ぶことではないだろう」というようなことにな るだろう.そこで当事者 A が喜びをある程度抑 えて振る舞ったとする.その場合,観察者 B は A の振る舞いを道徳的に問題のないものとして 認めるだろう.以上が,共感をベースにした道徳 的判断についてのスミスの基本的な説明である.

2. 2. 公平な観察者

 こうしたスミスの共感論を踏まえた場合,道徳 の客観性がどのように担保されるのかという疑問 が生じるかもしれない.というのも,スミスの図 式では,観察者の立場や信念によって,この観察 者が下す道徳的是認は変化すると考えられるから である.先ほどの例を再度取り上げてみよう.当 事者 A にとって嬉しい出来事が生じた時,A が 素直な喜びを自分の親や親しい友人に見せたとし たらどうなるであろうか.この場合,彼らは A の喜びを問題なく受け入れることが出来るかもし れない.だが,代わりに A が道で偶然出会った 全く知らない人にその喜びを打ち明ければ,A に話しかけられた人はおそらく戸惑いを感じるだ ろう.このように,観察者が変われば道徳的判断 も変化することは,容易に想像出来る.

 もちろん,スミスはこの点を十分自覚していた.

共感は観察者が想像力を用いて当事者の状況に身

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を置くことから生じるが,当事者の状況をどこま で詳細に思い浮かべることが出来るかに応じて,

観察者の同胞感情が当事者の感情に接近する程度 は変化する.そのためスミスは次のように述べる.

「我々は,見慣れた知人(commonacquaintance)

からは,友人(friend)からよりも少ない共感を 期待する.我々は,後者(友人)に打ち明けるこ との出来るあらゆる些細な事情を前者(知人)に 対してあけひろげにすることは出来ない.そのた め,知人の前ではより平静を装い,彼が喜んで考 えるような我々の状況についての一般的な輪郭に 我々の思考を合わせるように努力するのである」

( TMSI.i.4.9/上 59-60 頁).スミスによれば,

単なる知人よりも見知らぬ人( stranger )から は一層共感を期待することが出来ない.そこで,

見知らぬ人の前では,当事者はさらに自分の感情 を抑制する必要がある( TMSI.i.4.9/上 59-60 頁).そうすることで見知らぬ人に問題あると思 われるような振る舞いを避けるのである.

 こうした議論と関連して,スミスは「公平な

(impartial)観察者」という概念を導入している.

「公平な観察者」ということで,スミスは特定の 利害関係を持たないような観察者を想定している と言われるが( Raphael2007:33-34/38 頁),そ の点では,「公平な観察者」は見知らぬ人に最も 近い.実際,スミスは「公平な見方( impartial light )」を獲得する過程を説明するために,観察 者が変化することによって共感の程度が変化する ことを論じ,見知らぬ人にまで話を拡張している

(TMSI.i.4.8/上 58-59 頁).この「公平な観察 者」の道徳的判断は,我々とは特定の関係を持た ない人の判断であるから,「公平な観察者」から 是認されるということは,どのような人からも是 認されるということが含意されている.したがっ て,スミスは「公平な観察者」という概念によっ て,共感に基づいた道徳的判断の客観性を担保し ようとしたと考えられるだろう.

 この「公平な観察者」がスミスの議論で特に重 要となるのは,自己の行為判断を論じた良心論に おいてである( Raphael2007:42/48 頁4 )).こ

れまでの議論で主題となってきたのは,観察者が 他者である当事者をどのように判断するかという 問題だった.スミスによれば,観察者が当事者に 共感することが出来る場合に,観察者は当事者の 感情や行為を道徳的に是認するのであった.これ に対して自己の行為の判断が問題となる場合には,

振る舞うのも,それを判断するのも当事者自身で あるから,観察者と当事者の関係を論じてきたこ れまでの議論とは異なる.しかし,スミスによる と,自己の行為判断の原理は,他者の行為判断の 原理と同じであると言う( TMSIII.1.2/上 282 頁).なぜなら自己判断の場合,当事者は自分を 見ている観察者の立場を想定して,この観察者の 立場から当事者である自分の感情に共感すること が出来るかどうかを考えて判断しているからだと スミスは言う( TMSIII.1.2/上 282 頁).この 場合,当事者はある意味で当事者と観察者という 二つの役割を一人で担うことになる.だが,観察 者が想像上の観察者であれ,実在の観察者であれ,

観察者が共感することが出来るかどうかによって 道徳的判断が行われるという点では,他者の行為 判断と自己の行為判断の基本原理は同じはずだと スミスは述べている.

 このようにスミスの共感論に基づいた道徳的判 断の議論は,「公平な観察者」(TMSIII.2.5/上 286-287 頁)という観点を導入することによって,

道徳的判断の客観性を担保する.さらに,この「公 平な観察者」を内面化することで,道徳的な自己 判断においても,その客観性が確保される.そう すると,スミスの道徳論は,道徳的判断の基礎づ け論であると同時に,道徳的判断の発見論的な性 格も併せ持っていると解釈出来るだろう.つまり,

道徳的行為者は実際に行為しながら,どのように して自分の行為を客観的に道徳的であると判断し ているのか,別言すれば,どのようにして彼は自 分の行為が道徳的であることを発見しているのか,

それをスミスの議論は説明してくれるのだ.

2. 3. 正義と憤慨

 さて,これまで『道徳感情論』の共感と道徳的

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判断に関する議論を概観したが,最後にスミスが 正義と憤慨( resentment )とを関連づけて論じ ている点に触れておきたい.と言うのも,この点 においてこそ,スミスの議論はヌスバウムの議論 と交差するからである.

 スミスによれば,ある行為が他人に利益を与え たり損害を与えたりした場合に,その行為は功績 あるもの( merit )とみなされたり罪過あるもの

( demerit )とみなされたりする.そして,我々 は功績ある行為を報賞( reward )に値するもの とみなし,罪過ある行為を処罰( punish )に値 するものとみなす(TMSII.i.intro.1/上175頁).

この二つ系列のうち,正義が関わるのは後者の罪 過あるもの( demerit )および処罰に値するもの の系列である.

 それでは,我々が処罰に値すると考える行為は,

どのような行為だろうか.スミスによれば,処罰 に値する対象とは,(a)処罰へと人を突き動かす ような感情が向けられる対象であり,しかも(b)

この感情が適切に是認される場合である( TMS II.i.1.1/上 177 頁).つまり,処罰に値する対 象を把握するためには,(a)処罰へと動機づける 感情が何かを特定し,(b)それをどのように表 現することが道徳的に是認されるかを明らかにし なくてはならない.

 (a)について,人を処罰へと向かわせる感情は,

憤慨だとスミスは簡潔に述べている( TMSII.i.

1.2/上 177 頁).だが,自分勝手な怒りに身を任 せても,その感情が向かう対象がすぐに処罰の対 象となるわけではない.実際に,我々はそのよう にしてある対象を処罰に値するとは認識していな い.そこで(b)が重要になる.つまり,処罰の 対象を見出す際の憤慨は,適切に是認された憤慨 でなければならない.スミスによれば,憤慨を含 めた人間のあらゆる感情が適切だと判断されるの は,先述した「公平な観察者」が完全に共感する ものであるから( TMSII.i.2.2/上 181 頁),処 罰に値する対象とは,この「公平な観察者」が共 感し是認するような憤慨の対象だということにな る.

 一つ例を挙げて確認しよう.ある人(A)が大 切にしているものあるいは人を,別の人(B)が 傷つけるか殺害するかしたとする.こうした B の侵害に対して,もちろん A は憤慨する.この際,

もし A と B を見ている「公平な観察者」が A の 怒りに共感するならば,A の憤慨は適切なもの として一般に道徳的に是認されることになる.さ らに,その場合には結果として,憤慨という感情 が伴う処罰あるいは報復をも観察者は是認したこ とになる.

 以上を踏まえた上で,スミスは正義( justice ) という徳の実践が,処罰の対象と関係していると 論じる.より正確に言えば,処罰の適切な対象に ならないこと,あるいは同じことであるが,憤慨 の適切な対象にならないことが正義の実践である と捉えるのである( TMSII.ii.1.5/上 208-209 頁).このように,スミスは共感や観察者などの 基本概念を用いながら,憤慨という感情に着目し て正義を論じている.

 正義に関連して,もう一点注目したいのは,ス ミスが正義の実践を実定法の構築と関連づけてい たことである(TMSVII.iv.36/下 397-399 頁).

適切な憤慨の対象,適切な処罰の対象によって構 成されるような法体系について論じることを,ス ミスは『道徳感情論』の初版の段階から構想して いた.残念ながらスミスが予告していた計画は結 局完成には至らなかったが,その具体的内容につ いては彼の『法学講義』(スミスの講義をメモした 学生ノート)から推測出来ると考えられている5) その具体的な内実については稿を改めたいが,本 稿において注目したいのは,スミスが,感情を基 礎にして道徳,さらに法について論じたように,

ヌスバウムも感情という観点から法について議論 している点である.そこで,次節ではヌスバウム の『感情と法』の議論を検討してみよう.

3.ヌスバウムによる感情分析

 スミスの感情論が感情一般に適用されるような 共感論や観察者理論の構築を志向していたのに対 して,ヌスバウムの場合は,むしろ個別の感情に

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関する詳細な分析が議論の中心となる.感情に関 するヌスバウムの著作は多数あるが,本稿では『感 情と法』そして『怒りと赦し』を取り上げて,彼 女の議論を考察していきたい6)

3. 1. 恥辱,嫌悪感そして法

 最初に『感情と法』を取り上げてみよう.『感 情と法』におけるヌスバウムの主張を端的にまと めると,感情なしで法について論じることは出来 ないが,恥辱( shame )と嫌悪感( disgust )は 法の領域において依拠すべき感情からは排除され ねばならないというものである.

 とは言え,恥辱や嫌悪感といった個別の感情の 分析に入る前に,ヌスバウムも感情一般の分析か ら議論を出発させている.ヌスバウムがまず指摘 するのは,感情は思考や評価と結びついていない という一般的な見解が間違っているということで ある( Nussbaum2004:24/31 頁).ヌスバウム によれば,感情には感情の対象とその対象につい ての評価的な信念が含まれており,そのために感 情それ自体が評価対象となりうると言う( Nuss- baum2004:30-31/39-40 頁 ).例 え ば,親 し い 人を亡くして悲しんでいる人(A)について考え てみよう.ヌスバウムの議論によれば,A の悲 しみは,その親しい人が亡くなってしまった事実 という対象を持ち,その人が死んでしまったこと はつらいという評価的信念が含まれる.この場合,

A の悲嘆という感情が適切か否かは,様々な仕 方で評価することが出来る.例えば,A は A の 親しい人が死んだという信念を持っているが,そ れは正しいか(間違った情報を聞いたのではない か)と問うことが出来るし,その人が本当に亡く なったとして,それはつらいことなのかと問うこ とも出来る.これら二つの問いのうち前者に答え ることはそれほど難しくない.その人が亡くなっ たかどうか事実を調べさえすればよいからである.

だが後者はどのように評価出来るだろうか.例え ば,A は親しい人が亡くなったという正しい信 念を持った上で,悲しむのではなく喜んだり怒っ たりした場合,その感情が適切か否かを評価する

には,どうしたらよいだろうか.

 ヌスバウムによれば,この場合,感情が適切か 否かという評価は,「正しいと思われている規範 や価値に関して,私たちが一般に何を考えている か」( Nussbaum2004:32/41 頁)ということに 依存している.つまり,我々は一般に親しい人を 亡くすことをつらいと思うので,彼女が悲しんで いる場合にはそれを理に適った感情=価値判断と して評価する.ヌスバウムによれば,こうした社 会の一般的な価値基準を「常識人( reasonable man )」の視点として想定することで,人々の感 情は法に組み込まれると言う.例えば,裁判にお ける被告の量刑や情状酌量の決定に際しては,被 告の感情が,こうした「常識人」のそれと比較さ れながら考慮されている.この点で,ヌスバウム の議論は,スミスの「公平な観察者」の議論と交 差する.

 しかし同時にヌスバウムは,こうした観察者理 論の限界も指摘する.第一に,アメリカの法にお いて,しばしば「常識人」による判断は,社会の

「平均的な人」の判断と同一視されるが,そうす るとこれは,社会の少数派(女性,有色人種,同 性愛者など)に対して公平とは限らないだろう

(Nussbaum2004:33-37/43-46 頁).第二に,そ もそも社会の一般的な基準に適う,つまり「常識 人」の判断と一致するという意味で,ある感情=

価値判断が理に適っているとしても,その判断が 真であることにはならないともヌスバウムは述べ る.なぜなら,社会規範は時代によって変化する からである.例えば,女性は人間ではないという 規範的判断が過去に通用していたからと言って,

そうした判断が正しいということにはならないだ ろう(Nussbaum2004:33-34/43 頁).このよう に,ヌスバウムは観察者理論の弱点を指摘するこ とも忘れていない.

 以上のような感情一般の分析を踏まえた上で,

ヌスバウムは恥辱と嫌悪感が問題を含んだ感情で あると主張する.なぜなら,恥辱や嫌悪感の認知 内容は自己の完全性を目指し,そのために他者を 軽視するナルシシズムへと陥る傾向があり,その

(8)

ような立場は,平等な人格の尊重や人間の脆弱性 を認める政治的リベラリズムと衝突するからであ る( Nussbaum2004:16-18/20-21 頁,321-322

/403-405 頁).さらに言えば,恥辱や嫌悪感の 根底にナルシズムが存在するならば,こうした感 情における価値判断は合理的とは言えず,そもそ もこうした感情に関して「常識人( reasonable man )」の立場を想定することは矛盾としか考え られないだろう.

 以下では嫌悪感に着目してヌスバウムの主張を 詳しく検討しよう.

 嫌悪感は法の領域において,しばしば依拠され る感情の一つとされる.その一例としてヌスバウ ムが挙げるのは,キャンプ場でレズビアンの性交 渉を見た犯人が,銃でレズビアンの一人を殺害し,

もう一人に重傷を負わせたが,犯人は法廷で同性 愛に対する嫌悪感を理由に減刑を訴えたというも のである(Nussbaum2004:1-2/1-2頁).しかし,

嫌悪感の認知内容を考えてみれば,嫌悪感は信頼 出来るものではないとヌスバウムは主張する

(Nussbaum2004:74/94 頁).彼女によれば,嫌 悪感は非動物的であろうとする人間の欲求と結び ついており( Nussbaum2004:74/94 頁),それ は人の脆弱性や不完全性を拒絶したいという欲求 に他ならないという.嫌悪感の一次対象である排 泄物や腐敗物といったものから自分を遠ざけよう とするのも,このことに関係している.というの も,そうした排泄物や腐敗物は,人間が動物的な ものであること,死すべき存在であること,つま りは不完全で脆弱な存在であることを人間に思い 出させるからであると言う.

 しかし,ヌスバウムによれば,嫌悪感のこうし た側面それ自体が問題であるわけではないと言う.

というのも,排泄物や腐敗物は何らかの実質的な 害をもたらしうるので,それらに対する嫌悪感は 危害に対する防衛反応でありうるからだと言う

(Nussbaum2004:127-129/164-165 頁).したが って,こうした排泄物や腐敗物を規制するかぎり では,生活妨害禁止法も,この法がこれらの対象 への嫌悪感に基づいていることも,ヌスバウムは

問題とはみなさない.

 ヌスバウムによれば,嫌悪感の問題は,むしろ その対象が排泄物や腐敗物といった一次対象を超 えて,容易に拡大されることにあると言う.伝染 や類似などの誤った因果的思考によって,嫌悪感 はある特定の集団や全く害のない人々に結びつけ られうるのである( Nussbaum2004:96-97/123 頁).そして,嫌悪感の中核には自己が汚濁され ることの拒絶があるため,嫌悪感の対象となった これらの人々は排除や消去の対象となってしまう.

つまり,嫌悪感は根拠のない因果関係に基づいて,

その対象となった特定の人や集団を排除すること に容易につながりかねないのである.このように 嫌悪感の対象が排泄物や腐敗物から,特定の集団 や人々へと拡大される時,嫌悪感の根底にある人 間の脆弱性や不完全性を拒絶する欲求はナルシズ ムへと陥る.それは自己の完全性を願望すると同 時に,自己の脆弱性や不完全性を他者へと投影し この他者を排除しようとする.したがって,「嫌 悪感を判断基準として使用することには,どんな 法的価値もない」(Nussbaum2004:126/163 頁)

とヌスバウムは主張する.

 しかし,ヌスバウムは感情を抜きにして構成さ れる法など想像することが出来ないとも言う.そ れでは,法の領域において信頼出来る感情とは何 だろうか.ヌスバウムによれば,それは,怒り

( anger )や憤り( indignation )に他ならないと 言う.そもそも法が必要なのは,人間が損害を受 ける傷つきやすい存在(脆弱な存在)だからだと 言う( Nussbaum2004:5-6/6-7 頁).嫌悪感が 誤った因果関係によって,無害の人々へも向けら れるのに対して,怒りや憤りは,実際の危害や損 害へと向けられるものであり,したがってそれら の感情は法的根拠になりうるとヌスバウムは述べ る( Nussbaum2004:102/129-130 頁).人間の 脆弱性から目を背ける嫌悪感ではなく,それと向 き合い,不当な危害や損害に対峙する怒りこそ,

ヌスバウムにとって法的根拠となるべき感情なの である.

 とは言え,『感情と法』における議論は,怒り

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とは似ているようで実は異なる嫌悪感が,法的根 拠として信頼に値しない感情であることを論証す ることが議論の中心であり,法的根拠として信頼 に足る怒りとはどのような感情なのかを詳細に分 析しているわけではない.ヌスバウムが怒りに関 する議論を具体的に展開するのは『怒りと赦し』

においてである.そこで次に,『怒りと赦し』に おける怒りの分析について詳しく検討することに しよう.

3. 2. 仕返しとしての怒りと移行的怒り  『感情と法』における怒りに対する一見肯定的 な見解と比べると,『怒りと赦し』では,ヌスバ ウムは怒りに関する非常に慎重な議論を展開して いる.ヌスバウムは『感情と法』の場合と同じよ うに,怒りが道徳的生活に不可欠な価値ある要素 であることを認めつつも,それは人間の交流にと って危険なものにもなりうると言う(Nussbaum 2016:14-15 ).こうした怒りの持つある種の二面 性を指摘しつつも,怒りという感情をより建設的 な仕方で用いる方法を模索することが『怒りと赦 し』の主題となっている7)

 ヌスバウムによれば,怒りに認められる有用な 役割があるとすれば,それは次の三つだという.

(a)何か間違ったこと(不正)がなされていると 知らせる( signal ).(b)正義の実践を動機づけ る(motivation)(c)不正を抑止する(deterrent)

( Nussbaum2016:37-39 ).だが,ヌスバウムが 強調するのはこうした有用性よりも,むしろ怒り が含む危険性である.ヌスバウムの議論が示唆し ているのは,そうした有用な役割が認められると しても,怒りの使用において極めて慎重になるべ きだということである.

 怒りの問題点は,仕返し(payback)という要 素が怒りの概念の一部を構成している点にある

( Nussbaum2016:22 ).ヌスバウムによれば,あ る出来事に対して怒っている人には三つの選択肢 がある.(1)「仕返し4 4 44道(4 road of payback)」(2)

「地位の道(4 4 4 4 road of status )」(3)先の二つの選 択肢を拒否して未来的志向を持って最善の行いを

探る( Nussbaum2016:28 ).この三つの選択肢 のうち,ヌスバウムが推奨するのは最後のもので ある.

 まず「仕返しの道」で意味されているのは,文 字通り自分や自分に近い存在に対して損害を与え た者に向かって,何らかの損害によって仕返すこ とである.いわゆる「目には目を,歯には歯を」と いうような報復的正義と呼ばれるものである.だが,

この道は,相手に仕返すことで物事が正しくなり 自分になされた損害も相殺されるという,ある種 の幻想に基づいているとヌスバウムは指摘する

( Nussbaum2016:24-25 ).合理的な( rational ) 人は,少しでも考えればこうした発想が馬鹿げた ものだと気付くだろうとヌスバウムは言う.犯罪 者に何をしたところで,死者は戻ってこないし,

折れた腕は癒されないし,性的暴行をなかったこ とに出来ないのは明らかだからである(Nussbaum 2016:21-22 ).つまり,仕返しは合理的な人にと っては何も意味をなさないのである.

 これに対して,「地位の道4 4 4 4 road of status 」は,

侵害によって貶められた相対的な地位を回復する ものとして仕返しや処罰を捉える立場である.つ まり,仕返しや処罰によって加害者の地位を引き 下げることで,彼によって侵害され貶められた被 害者やその関係者の地位を相対的に回復しようと 考えるものである.ヌスバウムによれば,「地位 の道」は「仕返しの道」よりも意味をなすが,や はり多くの規範的問題を含んでいるという.まず,

あらゆる出来事を自分自身や自分自身の地位に関 わるものとみなす点で,この道はナルシスティッ クな傾向を持ち,それは互恵的関係や正義に重き をおく我々の民主主義社会に適したものではない と言う( Nussbaum2016:28 ).さらに,そうし た姿勢によって,我々の行為の道徳的価値への感 覚が失われることをヌスバウムは危惧する.例え ば強姦は,被害者やそれに関係している人々を貶 めているからだけではなく,それが被害者や関係 者に計り知れない苦悩をもたらすからこそ,悪で あるという点が見失われかねないのである.さら に,加害者の地位を相対的に引き下げるという目

(10)

的で処罰や仕返しを用いることは,平等な人間の 尊 厳 へ の 尊リスペクト敬 に 反 す る と も 言 う( Nussbaum 2016:28 ).したがって,「地位の道」は規範的に 間違っているとヌスバウムは主張する.

 それではヌスバウムが推奨する残された一つの 選択肢はどのようなものだろうか.それをヌスバ ウムは「移行4 4 Transition」(Nussbaum2016:31)

と呼ぶ.ヌスバウムによれば,合理的な人は先に 述べたような仕方で,「仕返しの道」と「地位の道」

を問題とみなすため,怒りに気が付くとそれらの 道から去り,むしろ社会の福利(socialwelfare)

のために何が出来るかという未来を志向した道に 向かうという.ヌスバウムは,これを怒りから「思 いやりのある希望( compassionatehope )」への 移行と捉える.そして,その過程において抱かれ る 怒 り を「 移 行 的 怒 り4 4 4 4 4( Transition-Anger )」

( Nussbaum2016:35 )と呼ぶが,それは「なん てひどいことだ! これに対しては何かなされな け れ ば な ら な い( Howoutrageous!Something mustbedoneaboutthis)」(Nussbaum2016:35)

と表現されるような感情だと言う.

 ヌスバウムの主張する「移行的怒り」の内実に ついて,さらに詳しく検討してみよう.ヌスバウ ムは「移行的怒り」が依然として怒りだと言う.

「なんてひどいことだ!」という表現が示してい るように,少なくともそれは何らかの不正が行わ れていることを知らせている点で,通常理解され ている怒りと同じである.だが,「これに対して は何かなされなければならない」という表現にお いては,いわゆる報復的な怒りが目指す仕返しと は異なる事態が志向されている.ヌスバウムによ れば,「移行的怒り」が生じるのは,怒りの持つ 報復や仕返しという傾向に間違いがあることを理 解することからだという.そうすると「移行的怒 り」は,仕返しという対処の仕方から離れようと する動きの感情,つまり情動(emotion)だと解 釈出来るだろう.こうした「移行的怒り」の動き が目指すのは,社会の福利や人々の幸福に他なら ないとヌスバウムは言う(Nussbaum2016:36).

 もちろん,「移行的怒り」が社会的福利を目指

すということは,通常見られるような犯罪に対す る処罰をなくすという意味ではない.実際,犯罪 に対する処罰が,犯罪の抑止につながるのであれ ば,そうした処罰に問題がないことをヌスバウム は認めている( Nussbaum2016:192-193 ).なぜ ならそれは社会的善に寄与するからである.だが 注意すべきは,そうした処罰が実践されるとして も,それが「移行的怒り」に基づくかぎりは,仕 返しという発想を捨てて,社会の幸福の実現につ なげるという目的を常に見据えていなければなら ない.これは,もちろん,通常行われているよう な処罰が犯罪の抑止に有効ではないと分かれば,

すぐにそうした処罰をやめなければならないとい う規範を含意している.

 こうした姿勢から,ヌスバウムは法に関する議 論を犯罪の事後的処罰だけに限定するのではなく,

犯罪の事前的予防へも展開していくべきだと主張 する( Nussbaum2016:179 ).つまり,ある犯罪 が起きた時に,その犯罪の抑止を目的として犯人 を処罰をするだけでなく,そうした犯罪が起きた 原因に対処するような政策へも意識が向けられな ければならないと,ヌスバウムは考える.したが って,「移行的怒り」をベースにした法の議論は かなりの広がりを持つことになる.ヌスバウムは 犯罪の事前的対策について考える際に,人々が十 分な栄養を得られているか,十分な教育を受けて いるか,十分な雇用があるかなどといった点にま で視野を広げている(Nussbaum2016:179).

 以上のように『怒りと赦し』では,怒りの感情 の具体的な分析とその問題点の指摘を通じて,ヌ スバウムは怒りの概念を「移行的怒り」として新 たに再構成する.そして,それによって人々の幸 福を実現するより建設的な思考への道筋を提示し ている.

4 .結びに代えて

―ヌスバウムに

よるスミスの援用とスミスの感情 論の可能性

 本稿はスミスとヌスバウムの感情論をそれぞれ 検討することを通じて,スミスの議論とヌスバウ

(11)

ムの議論との関連についても示唆してきた.そこ で,最後に,ヌスバウムの議論から,改めてスミ スの感情論の可能性を検討することにしよう.

 そもそも,ヌスバウム自身はスミスに関して,

どのような言及をしているのだろうか.ヌスバウ ムが自身の主張の中核に関連づける形でスミスに 依拠している,もっとも重要な箇所は,『怒りと 赦し』における「移行的怒り」に関してである.

ヌスバウムは「移行的怒り」を持つための一つの 方法として,スミスの観察者理論に言及している.

ヌスバウムによれば,加害者への仕返しのみを志 向する報復的怒りに陥ることなく,「移行的怒り」

を持つためには,スミスの「公平な観察者」とい う発想が非常に有用だと言う.怒りを持った時に,

自分を外から見ている観察者の立場を想定するこ とで,我々は仕返しという自己中心的な発想を回 避することができる.さらに,社会全体の幸福の ために何が出来るかというより広い視野に立って 判断を下すことが出来るという.そのため,「ス ミスの思慮深い観察者は,過度な自己中心的没頭

( ego-involvement )から一般的な社会的関心へ の移行を促進する装置」( Nussbaum2016:53 ) になると,ヌスバウムは評価する.『怒りと赦し』

におけるヌスバウムの主張の中核をなす「移行的 怒り」について,それを実現するための方途とし てスミスの理論が言及されていることは注目に値 する.

 『感情と法』と『怒りと赦し』とを接続させて読 むならば,ヌスバウムは怒りに類似した感情であ る嫌悪感と恥辱とを法の領域から排除し,さらに 怒りの概念を再構成して,法が依拠するにふさわ しい感情として「移行的怒り」を提示している.

そして,この「移行的怒り」の実践に関して,ス ミスの観察者理論が参照されている.このことは,

第 2 節の最後で述べたように,スミス自身も観察 者理論と怒りの感情に基づいた法体系を構想して いた事実を考慮すると,非常に興味深いものである.

 もちろん,ヌスバウムの「移行的怒り」は彼女 の独自の議論であり,スミスが怒りの種類を区別 することについて,ヌスバウムほど自覚的であっ

たとは言いがたい.だが,スミスとヌスバウムの 議論は,ヌスバウムが言及する以上に,多くのも のを共有している.したがって,スミスの理論を ヌスバウムの議論に接続させることで,両者の議 論を批判的にさらに発展させる余地は十分にある だろう.

 とは言え,そのようにスミスの理論を何らかの 仕方でヌスバウムの議論に接続するためには,よ り多くの検討が必要となる.例えば,「移行的怒り」

の議論へ観察者理論を応用させる点も含めて,ヌ スバウムによるスミスへの言及は表面的なものに とどまっている感もあり,緻密な議論による再構 成が必要だろう.また,なによりもスミスの理論 を(ヌスバウムも含めて)現代の社会哲学の議論 へと架橋するという視点自体が,スミス研究にお いて十分に展開されていないという事情もある.

 本稿としては,スミスとヌスバウムの感情論の 枠組みを比較することを通じて,スミスの理論を 現代の社会哲学の議論に架橋する可能性を提示で きたところで,ひとまず満足したい.ヌスバウム とスミスの議論をより詳細に,そして,より具体 的に関係づけることについては稿を改めることと したい.

1)アダム・スミスの著書からの引用はグラスゴー全 集版により,引用箇所の表示は原書の略符号(『道 徳感情論』の略符号は TMS )と全集版の部・篇・

章・節符号によって行う.グラスゴー版編者によ る序文に言及する際には introduction と記した上 で頁数を記載する.訳出に関しては適宜邦訳を参 照しながら筆者自身で行なった.なお本稿で扱う スミスの議論について初版から第六版の間で根本 的な変更が加えられたとは考えられないため,本 稿では第六版を底本として参照する.

2)Haakonssen( 1996:1-5 )によれば,スミスも含 めた 18 世紀スコットランドの思想を理解する際に 重要となる文脈は,自然法思想,シヴィック・ヒ ューマニズム,自然科学の影響,ストア主義思想,

キリスト教などである.これらのうち特に注目を 浴びてきたのは自然法思想とシヴィック・ヒュー マニズムであり,Hont と Ignatieff による論集『富

(12)

と徳』(1983)がこのことを示している.

3)基本的な共感の理解としては Broadie(2006)の 解釈を参照することが出来る.なお,スミスの共 感概念の曖昧さを肯定的に捉えるならば,多様な 現象を包括するような広がりを持つ概念というこ とも可能であろう.多様な種類の共感がスミスに よ っ て 扱 わ れ て い る と い う こ と に つ い て は Griswold(2006)が詳しく論じている.

4)「公平な観察者」という概念の発展は,『道徳感情 論』の改版過程を分析する際の一つの視点として 取り上げられてきた.この点に関係する議論とし ては,グラスゴー版編者による解説( TMSintro- duction,15-17)や Broadie(2006),Macfie(1967),

Raphael(2007)らを参照.

5)『法学講義』は学生の講義ノートから構成される ものであり,スミス自身の手によって出版された ものでないことから問題視されることがあるが,

それでも『法学講義』に対する詳細な分析を行な っている Haakonssen( 1981 )や田中( 2003 )ら の研究は価値ある研究として十分に認識されてい るように思われる.

6)ヌスバウムの著作の訳出に関しては,適宜邦訳を 参照しつつも筆者自身で行った.

7)『怒りと赦し』では赦し( forgiveness )が副次的 な主題とされているが,スミスとの関連性を重視 した本稿では赦しについては論じない.

参 考 文 献

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(14)

参照

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