学習者の跡を追って
――藤森栄一の場合――
椎 名 愼太郎 はじめに
私の本職は法律学である。大学院でも「行政法」を専攻したし、本学でも「行政法」
を中心に、これと関連する「地方自治」、「環境政策」、「環境法」といった科目を担当 してきた。真面目な学徒であれば、それぞれの専攻分野でひたすら研究を続け、博士 論文を書くとか、専門分野の著作を何冊も出すことが目標でもあり、それが実現すれ ば人生の勲章にもなる。
たしかに、私にも文化財保護法関係の専門書や行政法の教科書、そして、行政法総 論分野の論文を集めた著書もある。だが、私には歴史、考古、民俗といった、本来の 専攻とはかなり異なった分野への関心が強くあり、私の専攻から若干離れた一般向け の啓蒙書が何冊かある(1)。
そもそもの話をすれば、私自身が大学に進学するときに、貧しい家庭であったこと と、当時の社会状況が厳しかったことから、本当にやりたかった人類学や考古学とい う分野を諦めざるを得なかった事情がある。とはいっても、これまで自分が法律の分 野でしてきた仕事がいやであったわけではない。自分の趣味とした考古学と専門であ る行政法の境目に位置する文化財保護法の研究は楽しかったし、伊場訴訟など、多く の遺跡や歴史的景観を守るための訴訟に専門家として関わることができて、よかった と思っている。だが、私は歴史や考古という世界にいまも強く惹かれている。
私が、とくに考古学にのめりこむ契機になったのが、博士課程を終えて国立国会図 書館に入ってから読み出した藤森栄一先生の著作である。後に詳しく述べるように、
藤森先生はただの考古学者ではない。旧制中学の学歴しかない民間考古学者であり、
同時に一流の文筆家で、その文章は読むものを虜にする魅力に溢れている。
本で読むだけではなく、なんとかお会いする機会がないだろうか、1974年の早春に 藤森先生の奥様が営んでいた旅館「やまのや」に電話して宿泊の申込をしたのは、そ んな僭越な動機からであった。しかし、私の予定した日は、なんと先生の100日の法 要の予定の日であるという答えが返ってきた。前年の12月、藤森先生は帰らぬ人と なっていた。訃報を見落としていたようだった。約1ヵ月後の4月下旬に、私は「や まのや」で1泊し、先生の生前のままになっていた書斎も見せていただくことが出来 た。
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こうした個人的尊敬の思いと同時に、私にとっての藤森先生の姿は、困難の中でひ たすら研究を続けた真摯な学習者であり、後に述べるように私が研究生活の中途で挫 折をしそうになった時に、新しい勇気をもつきっかけをいただいた方である。生涯を 通じて真剣な学びの動機付けをもち続けるということは、言葉でいうほどたやすいこ とではない。先生の学習者としての跡を追った拙文は、老境に至って、あらためて自 らの学びの跡を振りかえる契機ともなった。
なお、以下の文章では敬称を一切略させていただく。
1 藤森栄一の生涯
なんとしてもやりたい考古学を続けるために、藤森栄一の62年余の生涯は実に変化 に富んだものであった。2章以下で彼の学習者としての跡を追う前提として、簡略な
ひ
がら、藤森栄一の生涯を素描しておきたい。以下の記述は、半生記である『心の灯』
と、その続編にあたる『考古学とともに』からまとめたものである。藤森の前半生に 焦点をあてた自叙伝『心の灯』は1971年に筑摩書房から少年図書館のシリーズで、青 少年向けに書かれたもので、学生社から刊行された『藤森栄一全集』(以下、「全集」
と略す。)では、考古学者になってからの激動の期間のことを書いた『考古学ととも に』(講談社1970年)と合わせて第2巻(1978年)に収められている。なお、考古学関 連の仕事については、主として3章で述べるのであまりふれないことにする。また、
『心の灯』と『考古学とともに』に関する引用は煩瑣になるので、本章では省かせて いただく。
(1)誕生から復員まで
藤森栄一は1911年8月に現在の諏訪市の商家に生まれた。父の営む本屋は、茶商を 営む本家からようやく分家を許されたばかりで、決して裕福とはいえない環境であっ た。小学校では、3年生で後述する井出良太郎が受け持ちになっている。
藤森の子ども時代の記憶に、土蔵の2階で発見した、小沢半堂の収集した諏訪湖底 曽根遺跡の石鏃がある。これで遊んでいて父に見つかった藤森は、父から小沢半堂の たどった悲劇の一生を聞かされ、考古学を禁じられる。藤森が考古学を志しながら旧 制中学で正規の学びを打ち切らなければならなかったのは、このためであると言って よい。
藤森の諏訪中学(現在の諏訪清陵高校)時代の成績は、あまり芳しいものではなかっ たらしい。しかし、ここで藤森は、恩師である三沢勝衛と出会い、歴史・考古への関 心を育ててくれた石川税(ちから)に出会っている。中学3年で藤森が書いて校友会 誌に発表した「有史以前における土錘(土のおもり)の分布と諏訪湖」という論文は、
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方法論に限界はあるものの、初めての考古学論文であり、 天才考古学少年あらわ る と新聞に書かれた(2)。これをきっかけに藤森は中学時代に、考古学の専門性をも つ両角守一に出会って、土器の編年や遺跡の層位などの専門知識を教えられている。
藤森は1929年に旧制中学を終えると、父の経営する書店の店員として社会人とな る。自転車で商品を運ぶかたわら、道端の遺物を採集するという生活に飽き足らない 思いをいだいた藤森は、諏訪教育会の諏訪史編纂委員の一行に加わって県内各地を歩 く。そんな中で北アルプス白馬岳山麓の舟山遺跡調査をもとに『信濃考古学会誌』に 連載した論文が中央学界でも通用する出来のよいもので、各地の考古学の知り合いが できるようになる。藤森が書いた平安時代の蔵骨器に関する論文が縁で、森本六爾と 知り合うことになり、やがて藤森と考古学を決定的に結びつける師弟関係となる。
店員をしながらの考古学研究に絶望した藤森は、1933年に諏訪から脱出する。行き 先は奈良で、ここで知り合って寄寓した家が茶飯を商う一方で、骨董商も兼ねてい て、藤森は主人の買い込んでくる出土品をカンにまかせて「良い」、「悪い」と鑑定を して食い扶持を稼いだ。しかし、ここの生活にも限界を感じた藤森は1933年10月に東 京に出る。そして、なんとか職を見つけるべく森本六爾の居宅を訪ねるが、時期は不 景気のまっただなかであり、森本が何度か藤森を連れて有力者を訪ねたが、仕事にあ りつくことができなかった。森本自身も身を削りながら考古学研究をしている有様 で、同じ年の11月には失意のまま諏訪に戻ることになる。
この時期に、登山やスキーに明け暮れながらも、藤森はさまざまなものを書いた。
森本の主宰する雑誌『考古学』(東京考古学会)にしばしば書いた考古学の論文もあれ ば、後に『かもしかみち』に収録された「山と先住民とその子たち」のような、エッ セイ風の文章もあった。藤森栄一の文章力は抜群で、私が藤森作品に耽溺した理由の 一部は、巧みな文章に誘われたことによる。
この間に森本六爾は奈良に居を移してそこで妻ミツギを亡くす。森本は京都大学の 浜田青陵を頼って京都に移ったが、当時の京都大学考古学研究室は民間研究者を受け 入れる度量をもたなかった。1935年晩秋に、森本は京都に藤森を呼び寄せて秘かに後 事を託した。そして1936年1月に鎌倉で危篤に陥る。藤森は、その死の数時間前に病 床にたどりつき、森本を看取りながら、集まっていた弟子たちと森本の遺志をついで 考古学を続けることを誓う。藤森は、いったん諏訪での生活を打ち切って京都に移 り、また諏訪に戻り、1937年に改めて関西に生活の本拠をかまえる。きっかけは唐子 池の発掘担当であったが、その後、坪井良平の斡旋により大阪鉄工所で働きながら考 古学の調査と研究にはげむ生活を送り、その中で生涯の伴侶みち子と所帯をもつ。し かし、この生活にも限界を感じて1939年、東京に「里がえり」する。
東京ではアパートの管理、大阪鉄工所時代に手をつけた『日立造船史』執筆などで 食いつなぎ、やがて1941年に葦牙(あしかび)書房という出版社を立ち上げる。しか
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し、15年戦争の泥沼化のせいか、1942年11月、31歳の藤森に召集令状が来る。はじめ 中国北部に送られた部隊は、1944年1月に下関に戻るとすぐに南方へ転戦することに なった。藤森が家族のもとに戻ったのは1946年7月であった。
(2)苦闘と名声の確立
戦後の藤森の生活も、変わらぬ苦難が続いた。藤森の出征中、妻みち子の才覚で順 調だった葦牙書房は、東京の空襲で焼かれ、諏訪のみち子の疎開先で再開していた。
藤森の書いた文章を集めた『かもしかみち』は人気をはくして、「昭和22年暮には、
県内一流の出版元にのし上がった」。しかし、藤森は南方で罹患したマラリヤの再発 で病床にふせりがち、しかも娘たちの病気が一家を苦しめた。三女の病の看病をしな がら、藤森は、一旦は考古学をあきらめる決心をするまでに追い込まれていった(3)。 考古学の世界では日本考古学協会設立が藤森を外したままで進んでいた。
戦後初期は、地方出版も軌道に乗っていたが、やがて経済の復調とともに出版事業 は東京に集中し、1948年暮には葦牙書房も消滅することになる。藤森は諏訪駅前の生 家の隣に小さな店を借りて古本屋を始め、そこにささやかに「諏訪考古学研究所」の 看板をかかげ、考古学を志す若者の育成を開始する。しかし、戦後の混乱期はなお続 いており、古本屋はやがて紙クズ屋となり、さらに、生家の苦境を見ていられずに新 刊本を商う本屋の経営に夫婦で乗り出すというように、藤森の仕事はくるくると変 わった。途中には、名古屋の遊郭に餅を行商に行ったり、株で生計を立てようとした りという苦闘が続いた。
さらに、高血圧発作という、やがて藤森の命を奪う宿病が1953年秋に彼を襲った。
藤森の看病のかたわら、本屋経営と株式戦線の撤退戦を一人で担ってきたみち子は、
1955年に上諏訪の家の隣の宿屋が売りに出たのを買って、「やまのや」を開業した。
これまでの仕事の整理はあったし、駅から少し離れた宿屋に客をとる仕事もあった が、藤森は考古学にかなり専念できるようになった。しかし、3年かかった療養明け で引き受けた古墳調査の中で、転落事故を起こし、さらに1年間寝ることになった。
藤森が考古学研究者兼文筆家としての名声を確立したのは、1964年に学生社から刊 行した『銅鐸』が毎日出版文化賞になった後だった。この受賞を期に、『古道』(講談 社)、『旧石器の狩人』、『かもしかみち』(再版)、『かもしかみち以後』、『縄文農耕』
(以上、学生社)、そして、森本六爾の伝記『二粒の籾』(河出書房)、本稿の素材になっ ている『心の灯』(筑摩書房、1971年サンケイ児童文学賞大賞受賞)などをつぎつぎと世 に送った。途中1967年には二度目の、1970年には三度目の高血圧発作を起こして入院 生活を送るが、病床でも書き続けた。さらに1968年からはヴィーナス・ライン建設で 破壊されようとした旧御射山遺跡や中央道建設で失われる遺跡の保存運動にも関わる ことになる。そして、1973年12月19日に62歳で没した。
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2 藤森が少年期の恩師から学んだこと
(1)井出良太郎と三沢勝衛の影響
『心の灯』には、小学校3年からの受け持ちだった井出良太郎と旧制中学時代に藤 森に大きな影響を与えた三沢勝衛(地理学)の、よく似た教えが印象深く記されてい る。
井出のことは次のように書かれている。「井出先生のように、当時信州の白樺派の 影響を受けていた先生方は、生徒に一方的に知識をおしつけたり覚えさせたりする教 え方はしなかった。なぜなら子どもにとって大切なことは、勉強をただ知識として覚 えることではなく、自然に親しみながら、その中でいかに子どもらしい夢や想像の世 界をのびのびと持つことができるかということであったからである。子どもは、こう した自然とのかかわりのあいのなかで、さまざまな疑問にぶつかったり、いろいろな 発見に驚いたりしながら、ほんとうの美をみつけていった」(4)。
三沢勝衛は、学校は知識を詰め込むところなのか、人間として考える力を養うとこ ろなのかという問題を提起した。地理学といえば、代表的な暗記科目という常識に反 して、三沢は地域について総合的に考える力こそが生徒にとって大切であると考え、
それを地理の教育を通じて実践した。藤森は、つぎのように三沢の教育論を紹介して いる。「生徒にものを考えさせるほうを教育の中心と考えた三沢先生は、最もすぐれ た教育者であったのか、それとも、知識がふえていかないから、生徒にとってむしろ めいわくな先生だったのだろうか。とにかく三沢先生の教育は、いまの教育技術とい う観点からしても、なおいろいろな問題をふくんだ行き方だったと思う」。「どんなに たくさん、いろいろのことを暗記していい成績をとり、その人が世の中へ出て出世し たところで、試験のためにむりにつめこんだ知識は、やがて忘れ去られてしまうだろ う。しかし、少年期に自分の力で考え、苦しんでみてはじめて得る知識は、おそらく その人の生涯を通じて、けっして滅びることはないだろう、というのが先生の教育方 針の基本であった」(5)。
藤森が旧制中学卒の学歴しかないにもかかわらず、民間考古学者としての地位を確 立できたのは、この二人の教えに影響されるところが大きい。藤森はこう書いてい る。「いま、私は日本の民間の考古学者ではいばっているほうである。べつに自慢す るつもりはないが、私が世に生まれてきた価値があるとすれば、それは、私の考古学 はだれのマネでもない、自分独自の考古学であるということだと思う。そういう私を ささえてきたものは、小学生のとき、井出先生から教わったかずかずの夢と、三沢先 生によって中学1年ぼうずのときからきたえられた考える力だったといえるだろ
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う」(6)。
(2)三沢勝衛の教育
同じ諏訪出身で、私が大学の同僚として、また、山梨学院生涯学習センター運営に おいて大きな教えを受けた宮坂広作も、藤森が直接に教えを受けた三沢勝衛のことを
『風土の教育力・三沢勝衛の遺産に学ぶ』(大明堂1990年)という名著で書いている。
藤森自身も三沢勝衛の評伝を、『信州教育の墓標』(学生社1973年)という著書にして いる。この2冊を並べることが適切であるかどうか分らない。宮坂の著作は、三沢の 評伝と合わせて、「風土性の研究と教育―風土の教育力の解明」と題して、三沢の風 土性研究と三沢の教育実践の詳しい紹介を試みた第2部、「現代社会と風土の教育 論」と題した三沢教育論の総合的評価を試みた第3部から構成されており、教育学者 としての客観的な三沢勝衛論である。確認しておくが、宮坂は1931年生まれで、三沢 が没したのは1937年であるから、宮坂は三沢に直接教えを受けていない。
これに対して、諏訪中学で5年間三沢と師弟関係にあった藤森の三沢論は、客観的 評価からかなり遠いものである。宮坂は藤森の『信州教育の墓標』について、「自己 の死を間近にして、いわば後世の人びとに贈るべく書いたこの書物は、全体として過 ぎ去った栄光と感激、生きた人間の血の通った教育実践のすばらしさ、師弟のあいだ の共感と違和との、『思い出の記』になっている」と評している(7)。
本稿は藤森栄一の学習の跡を追うことが主題であるから、三沢勝衛について深入り することは避けたい。ただ、藤森が三沢の教育をどのように受けとめていたかという ことは、おさえておく必要があると考える。この点を知る上でヒントになるのが、藤 森が三沢勝衛に影響を与えた人物として挙げている2人である。
1人は、百験罎という、一つの罎で百の実験が出来る器具を公園の人ごみに持ち出 して実験を見せていたという渡辺敏。渡辺は、戊辰戦争で有名な二本松少年隊の生き 残りで、1874年に志をたてて東京師範学校に学び、筑摩県大町の仁科学校に赴任し た。渡辺はやがて1886年に長野小学校長、1896年には長野高等女学校の校長を兼ねる ことになる。渡辺は、これを実験室から廊下に持ち出して、休み時間に学年学級の区 別なく生徒に見せて、生徒の好奇心に応えた。渡辺は退職後、現在の長野市内の城山 公園にこれを持ち出して、同じように集まってくる子どもたちに実験を見せていた。
三沢勝衛は、水内郡水内村の尋常高等小学校の修学旅行の自由時間にこの実験に出会 い、藤森によれば「学問との出合い」をしたのだという(8)。渡辺敏は、藤森に歴史・
考古への興味を植えつけた石川税にも影響を与えている(9)。
もう一人は、三沢が代用教員を経て1907に23歳で小学校本科正教員試験に合格して 赴任した年に臼田小学校にやってきた保科百助(五無斎)である。保科五無斎は代用 教員を経験したあと長野師範学校に学び1891年に教員生活に入る。藤森は保科の履歴
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について、詳細に語っているが、要するに師範を出ていながら信濃教育会における異 端児であったと位置づけている。保科は、臼田小学校に現れる前年、東京読売新聞社 の「日本百奇人投票」で第一位に当選している。ただ、この奇行は理由のないもので はなく、例えば、長野県北部に多い差別問題への怒りが動機となっている。保科は現 在でいう鉱物学に深い関心をもち、心血を注いで「長野県鉱物岩石標本」を百組制作 して各学校に寄贈している。
藤森はかなりの頁を保科の人となりについて割いているが、その部分の表題は「実 学との出合い」。保科の実学の弁とは、「先生というものは……生徒に科学的資料つま り標本を与えて、見て感じ考えるようにさせれば、子供たちは先生よりもっと高い次 元において理解して伸張していく」というものだという(10)。
教える内容を書き取って記憶することではなく、考え方を身につけることを強調し た三沢勝衛の教育論の核の部分は保科五無斎との出合いにあったようだ。そして、三 沢にたたきこまれた、自分の頭で考えるという方法は、藤森が旧制中学卒で実家の本 屋の下働きから始まった考古学を続けるための暮らしをたてる苦闘の中でも生かされ た。
考古学の恩師森本六爾を失ったあと、京都で何か商売を始めようとして、市内を自 転車で走り回って大地図に商売別のドット・マップを作成していた。これを見た、当 時の大阪鉄工所(後の日立造船)の営業課長坪井良平が、この方法を工場の操業シス テムのむだな部分を統計やグラフの中から見つけ出すという仕事に生かすようにとい うことで、藤森はしばらく大阪でサラリーマン生活をすることになる(11)。藤森はこ こで、いろいろな改革案を作成するのと並行して、『大阪鉄工所五十年史』を編纂し ている。改革案作成について、「三沢先生の風土学で学んだことを実際に生かしてい るのだから、会社にとって悪いはずがない」と自信を語っている(12)。
3 考古学研究の師との出会い
(1)諏訪中学の教師石川税の影響
藤森の考古学への興味の端緒は、前述したように生家の土蔵の2階で発見した、小 沢半堂が収集した諏訪湖底曽根遺跡の石鏃にあったことで間違いないが、これを大き く成長させたのが、中学時代の石川税による歴史教育であったと考えられる。藤森が 語るところによれば、中学1年から3年まで西洋史と日本史を石川から学んだが、西 洋史は1年間でギリシャ文明をたたきこまれ、次いで宗教革命そして最後が南北戦争 だった。日本史についても、当時の定番だった神話などは出る余地がなく、「石器・
土器だけでほぼ半年、後は、奈良の仏教美術だけで終ってしまった」(13)。
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教室の中は仏像写真でいっぱいで、「奈良へ一度もいったことのない生徒が(その ころの諏訪中学には修学旅行もなかった)、飛鳥・白鳳・天平・弘仁の彫刻をはっきり鑑 別した」。……「私は、石川先生が準備室につくった郷土資料室に出入りして、しだ いに土器や石器に深沈するようになった」(14)。第1章で、1933年に諏訪から脱出し た藤森が、奈良で寄寓した家の主人である骨董商が買い込んでくる出土品をカンにま かせて「良い」、「悪い」と鑑定をして食い扶持を稼いだことを書いたが、この「カ ン」は石川税の薫陶で養われたと考えるしかない。同じように、中学3年で書いて校 友会誌に発表した考古学論文「有史以前における土錘(土製のおもり)の分布と諏訪 湖」で 天才考古学少年あらわる と書かれた素養も、石川から与えられたのであろ う。
(2)両角守一の指導
しかし、藤森に本格的な民間考古学者への道、つまり学問としての考古学を最初に 指導したのは両角守一である。
諏訪市が開設しているホームページでは、両角守一について「1897〜1936 上諏訪 に生まれの銀行家で考古学者。日本最初の竪穴住居址の報告「信州諏訪丸山竪穴遺 跡」を『人類学雑誌』に出し、また信濃考古学会や信濃史学会の会員として、諏訪神 社にかかわる考古学的視察を進めました。」という簡略な記述しかない。
いまなら、考古学の講座をもつ大学も多くなったし、一般教育の枠での教員職も増 えたが、この時期にはよほどの能力と幸運の両方に恵まれなければそんな立場にはな れなかった。自治体の文化財担当も1970年ごろからようやく増えた職業である。だか ら、藤森の場合もそうなのだが、考古学などという経済活動と直結しない学問は、他 に定職をもちながらやるのが当たり前だった。両角も小口銀行という地方金融機関で 生活を支えながら、自由時間を考古学研究に費やすしかなかった。両角には、日本で 初めて竪穴住居の発掘を、しかも始められたばかりの層位編年の方法論で行い、これ を鳥居龍蔵の仲介で『人類学雑誌』(35巻167号)に発表したが、なぜか、肝心の図が 全くついていないという不完全なものに終っている。当時の中央の学界が在地研究者 に向ける冷ややかな視線を感じるエピソードである。
藤森は両角守一との出会いをこんな風にかいている。「ある日、私が家の二階の板 じきの部屋で、表面採集してきた標本をならべて楽しんでいると、階段をひとりの若 い紳士があがってきた。黒い洋服を着たスラッとした人で、色白の細い顔にかがやく ような若々しい目が光っていた」(15)。藤森が中学3年で校友会誌に論文を発表して 間もなくのこととすると、1926年だから、両角は30歳前後ということになる。たしか に「若々しい目」であったろう。
両角は、藤森が石器や土錘ばかり集めていることを方法論として批判する。藤森の
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収集は、物好きレベルで、学問ではないことを鋭く指摘する指導だった。『心の灯』
で藤森は両角にこう語らせている。「君の諏訪湖の土錘の研究っての、見たがね。ダ メダメ、だいいち、あの土錘が何時代のものかってことが、ぜんぜん証明されていな いじゃないか。土錘といっしょに出た土器、君のいうそのかけらが時代区分のきめ手 になるのだよ」(16)。
この両角の言葉に藤森ははげしいショックを受ける。彼にとっての学問への開眼で ある。私自身のささやかな研究の歩みを振り返っても、何人か、私がこの先生に出 会っていなかったら、今の私は無かっただろうという出会いがある。私の眼を開き、
私の研究を肯定的に評価して勇気付けてくれた師である。藤森の考古学は両角守一と の出会いで本格的軌道に乗ることになる。
藤森は、「両角守一先生を心から尊敬し、慕い、その腰ぎんちゃくのように、しょっ ちゅう、くっついてまわるようになった」(17)。藤森は、両角から遺物の実測図の取 り方、土器の拓本の取り方、そして、平板測量器なしに地形歩測図の取り方を学びと る。両角は決して手取り足取りというタイプの指導者ではなかったらしい。「来たけ ればかってについてこい」という態度であったと藤森は記している(18)。
「昭和2年、中学四年生になった私は、やっと両角さんから遺跡の調査につれて いってやろうというお許しをもらった」。松本市城山遺跡の発掘である(19)。この発掘
あわせ
では、弥生式の中期でも終わりに近い時代の遺跡と、平安時代のはじめのころの合
ぐちかめかん
口甕棺とが出ている。弥生期の遺跡で発掘された土器には弥生土器の特徴である回転 文様と同時に縄文土器の特徴も残されていた。杉原壮介の「接触式文化」という理論 につながる発見であった。
(3)「本屋の小僧」の考古学
やがて藤森の学生生活は中学5年で終る。彼は、岡谷市出身の先輩八幡一郎のよう に、東大の人類学教室に選科生(現在の科目等聴講生に似た制度)として入って考古学 者を目指す考えで、進学のことは考えずに考古学だけをやっていたのだが、藤森が中 学を卒業した1929年から国立大学の選科は廃止になってしまった。ここで藤森の考古 学への道はいったん頓挫したことになる。だから、藤森の社会人としてのスタート は、「父がしている書店の店員」として、「背中に大きな字で店名を染め抜いた紺の ハッピ」を着て書籍や文房具を自転車の荷台にくくりつけて遠くの村まで出かけて販 売する行商であった。
ときには40キロも遠くの村の小学校などへ自転車で走る行商の途中、道端の畑など でいくらでも考古遺物の表面採集ができた。藤森の足取りは、遠く山梨にまで及ぶ。
夜間にその日に採集した遺物の図を作ったり、原稿を書いたり、これが、当時の藤森 にできた考古学であった。だが、進学した同級生が帰郷して、彼らの成長の姿を見る
−13−
と、藤森はむなしさとみじめさを実感するしかない(20)。外見からしても、生活の基 盤という面でも、当時の彼は「本屋の小僧」でしかなかった。
しかも、藤森にはすでに考古学の師である両角を越えているという自己意識があっ た。これが実際にどうであったか、今となっては確かめる術がないが、現物にあたり つつ、自ら研究方法を見出していくという三沢勝衛の方法論がここでも生かされたの かも知れない。
両角と一緒の発掘では助手でしかない。そこで藤森は諏訪教育会の諏訪史編纂の調 査会の旅行の案内役をかってでた。1929年9月には日本海に姫川がそそぐ右岸、北城 村(現在の白馬村大字北城)の舟山遺跡の調査に同行して、諸磯式(縄文時代前期後葉)
けつじょう
の飾り玉製造跡の発掘を行い、これを「
状 耳飾を出せる諸磯式遺跡」という論文 にまとめて『信濃考古学会誌』2巻1、2号に連載した(21)。これは「中央学界にも じゅうぶん通用するひじょうに出来のよいレポート」で、これを契機に杉原壮介など 各地の考古学仲間との交流が開始する(22)。(4)二つの出会い
この頃、藤森は彼の考古学者としての運命を決定する新たな出会いをしている。一 人は、中学の友人伊藤和泉の年の離れた兄である伊藤富雄。彼は、1927年に出版され たばかりの梅原末治著の『銅鐸の研究』資料編と図録編を示して、大和朝廷が政権を 掌握したなぞをにぎるのはこれだと藤森に教えた。これが、やがて藤森を本格的に有 名人にした毎日出版文化賞受賞の著書『銅鐸』に結実する。
もうひとつの出会いは、森本六爾である。彼こそ、藤森を生涯考古学者として歩ま せた恩師であり、運命の人であった。きっかけは中学生だった1928年に友人の家の畑 から骨の入った壷が発見されたことだった。これは灰釉の長い首をもった平安時代の 壷で、中から火葬骨の断片と隆平永宝(796年に日本で鋳造・発行された青銅銭)一枚が 入っていた。これについて藤森は「隆平永宝を出せる蔵骨器」という論文を書いた が、この情報が八幡一郎を通じて、火葬墓研究が多かった森本六爾に届いた。1930年 に森本から原稿依頼があり、これがよく書けていたため、彼が主宰していた東京考古 学会の雑誌『考古学』につぎつぎに原稿を書くようになる(23)。
(5)迷いの日々から森本六爾に師事するまで
しかし、藤森の考古学への道はまことに困難に満ちており、藤森自身にも迷いが あった。間歇的に綴られた藤森の日記が、全集の15巻に収録されている。「本屋の小 僧」から逃亡するために故郷を出奔する前の時期(1933年前半)には、彼の迷いと懊 悩を示す記事が散見される。
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* 4月24日 「一日中ぼんやりしている。」
* 4月26日 「朝から泣いている。」
* 5月1日 「5月に入って宮坂退店。僕も少しは忙しくなる訳。毎日、チュウイ ンガムの粕をかむ様だ。(以下、略)」
* 5月6日 「考古学4ノ4を読む。森本、小林、孤軍奮闘、余りにも涙ぐましい 4月号だ。(中略)森本、小林、孤軍奮闘している。是れで良いのか。」
* 7月17日 「畜生
何という馬鹿だ」藤森栄一が文通ではなく、初めて森本六爾に会ったのは1933年、こうした悩みのあ げくに、諏訪を蒸発し、奈良での骨董商の鑑定家のような生活からも逃げて東京に移 り、そこでの生活に窮乏して森本を頼ったときである。9月30日に森本家を訪ねた22 歳の藤森は、東大の人類学教室に講演に行く森本につれられて、よれよれの袷にちび て板のようになったセル張りの下駄という姿で学者たちの列席する講演会の末席に座 る。森本が演壇で「大和の高地性集落と低地性集落」というテーマで、弥生時代は水 稲社会であったと訥々と語る。その内容に、聴いていた学者の多くは聞く耳を持たな かったが、藤森だけは「身をのりだし、空腹も忘れ、自分の道をききだしている思い でいっぱいであった」(24)。藤森が森本の伝記として書いた『二粒の籾』には、この 時の感激がこう書かれている。「私は、その聞きにくい話に、次第に引き込まれて、
一段一段、前の空席に移り、はては、セル張りの下駄を足脂でぬるぬるさせながらの りだしていた。考古学は素晴らしい生きていた人間の学問なんだ。土器の型式や編年 の一つも出てこない研究の中に、将来の大道が、いつかきっと展ける。私は、ひとり 身をのりだす感激を止めることができなかった」(25)。
その後、森本家に寄寓した藤森は、森本の指示で「銅鐸面絵画の原始農業的要素」
という論文に取り組む。
この当時、すでに藤森は考古学者としての一通りの素養は身につけており、学習者 としてほぼ自立していた。しかし、この当時先進的であり、また独創的であった森本 の発想法が藤森を強く森本に傾倒させたのではないか。ここで見出した「自分の道」
が、やがて縄文農耕という藤森の独自の縄文観につながっていったのだと思う。
だが、森本の家もミツギの教師としての収入でかろうじて支えられていた。藤森を 長く食客として置くだけの余裕はなく、世相はひどい就職難で、藤森は定職を得るこ とができずにいったん諏訪に戻った。
藤森が諏訪でのどっちつかずの日々を最終的に捨てて、考古学を生涯の道と心にき めたのは森本の死を看取った後だった。
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4 アマチュア精神―学習者藤森を支えたもの
(1)学問への情熱
藤森栄一は、生涯を通じてアマチュア研究者であることを誇りにしていた。それ は、彼が「わたしの考古学の先生のきっと、たった一人の人といっていいだろうと思 う」(26)と言う森本六爾の強い影響を受けたからであり、同時に、当時あまり多くな かった考古学や人類学の講座で大学に在職する学者たちの、アマチュア差別への怒り からだと思う。
森本は関西在住の1935年頃、学界で唯一彼に同情的な京都大学の浜田青陵の好意で 京都大学の研究室に出入りを許されていた。しかし、「これまで学問として考古学の 教えを受け、研究をつづけ、さらには京都大学の考古学教室を背負っていくべき立場 にある人たちにとって、アマチュアの考古学者が大きな顔をして研究室に出入りする ことは、やりきれなかったのであろう」。結局、浜田青陵は森本の出入りをとりやめ にしてほしいというかれらの申し入れに従い、「気がすすまぬまま」これを森本に伝 えなければならなかった。これは、藤森が京都に森本をたずね、ふたりで京都の街を 楽しんだその夜のことであった(27)。
藤森はこの時の感情をこう書いている。「小林行雄からその話を聞かされた瞬間、
私には将来の生き方が決まった。『アマチュア考古学者だから研究室を出ていけとい うのだな! よし、今にみている!』私のこの興奮はまとはずれであったかもしれな いが、アマチュアにもりっぱな学問というものがあるのだということを証明するため の、長くてつらい生涯はその時の憤りからはじまったのであった」(28)。
浜田青陵を除く京都大学の研究室メンバーの側から見れば、森本は松本清張の『断 碑』にえがかれたように、冷たく、傲岸な一面を、彼に敵意を示す人々には示したの かもしれない。それに、当時の森本は腸結核で感染の心配もないわけではなかった。
ただ、差別というものは、された側にしか分らないものがあることも事実である。
学習者としての藤森栄一を支えていたのは、いつも新しい感激で研究に取り組む情 熱であった。これは考古学という学問がもっている魔力とも言うべき魅力がそうさせ たこともあるが、藤森自身がもっている学問への姿勢の特徴でもあった。弟子の一人 である戸沢充則は全集第1巻の解説でこう評している。
「藤森先生は生涯、客観者としてものを書くことができない人だったような気がし ます。考古学も、その研究対象である石器時代人も古代人も、また彼等の死んだ形骸 にすぎない石器も土器も、あらゆるすべてのものが、単なる学問的研究の対象として ではなく、それぞれに先生の魂をゆさぶる媒体でなければならなかったのではないで
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しょうか」(29)。
私は、藤森が古代人の姿の探求にかけた情熱は、彼が生涯アマチュアであったから こそ、持ち続けることができたものだと思う。ときとして職業的にノルマを果たすこ とに傾くことがあった自分自身の研究生活をふりかえって、反省をこめてこの結論を 書きとめておきたい。
(2)後に続く学習者への視線
藤森のアマチュア精神は、多くの啓蒙書執筆という形で、アマチュア学習者への語 りかけとしても発揮された。私自身がそうであったように、考古学関係の文献を読む のは専門研究者ばかりではない。中学生時代の藤森自身と同じように、入口をうまく 通過したものだけがやがて熱心な学習者となる。難しい理論を難しく書くことは、専 門研究者であれば誰でもできる。それを、できるだけ平易に、分りやすく解説するに は、後に続く一般学習者への視線が重要である。藤森は、いつもこの視線を意識して 執筆していた。1970年に学生社から刊行された『縄文農耕』の「はしがき」で藤森は こう書いている。「今にして思えば、私の念願である、論文はその専門の学者に通じ さえすればいいのではなくて、一般の誰にでも考えてもらうべきものだという方法 で、できるだけ平易に書き続けてきたことが、この本の生まれた理由だろうと思 う」(30)。
啓蒙書を書くときだけではなく、専門論文を書くときにも、一般の人に理解できる ようにという配慮を怠らなかった姿勢がここに語られており、民間考古学者として生 涯を終った藤森の思いがあふれでた一文である。
おわりに
本稿は、主として『藤森栄一全集』に残された藤森栄一自身の著作の中から、藤森 の学習の跡を追いかけるという手法をとっている。藤森の文章が全部事実を書いてい るとは限らない。文章家でもある一面から、ある程度の脚色があることも事実であろ う。実際に、藤森の文章に登場するある先輩から、「事実と違うところもありますが ね」と聞いた記憶もある。しかし、学習者・研究者としての歩みの大筋については、
信じてよいと考えている。
1942年、31歳の藤森に遅い召集令状が来て、朝鮮半島経由で天津へ運ばれる列車の 中でも彼は原稿を書き続ける。これを帰還する列車らしいのにわけを書いて投げ込ん だものの一つが『古代文化』14巻10号に掲載された「日本石器時代における器具の発 展について」である。この雑誌は1944年6月廃刊になったのだが、その時のあとがき に後藤守一は「出征の列車の中でも書きつづけていた藤森栄一の、心に燃えつづける
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灯を思う」と書いている(31)。生涯をかけてアマチュア考古学者として研究し続ける 藤森の姿の、まさにハイライトとも言うべき一場面である。この半生記のタイトルは ここからとられたのだろう。
最初に藤森の文章を読んだ当時の私は、大学院の博士課程3年をさらに1年余計に 在学したあげく、研究職には就くことが出来ず、研究者としての前途にいささか絶望 感をもっていた頃だった。藤森が一生涯守り続けた心の灯に触れることによって、私 は、なかば諦めかけていた研究者への道を続けることができたように思っている。そ れだけに、不十分ながら学習者としての藤森の跡をたどることができたことを喜んで いる。
最後に、この文章を読む後進に、藤森の言葉を伝えて拙論を閉じることにしたい。
「どんな廻り道だって、人生に無駄だったなんてことは一つもないんだ。一度ともし た灯を消しさえしなければね」(32)。
注
1 『歴史を保存する』講談社1983年、『歴史保存と伊場遺跡』三省堂1987年、『遺跡保存を 考える』岩波新書1994年など。
2 この論文は校友会誌に発表されたままの文章で全集12巻に収められている。
3 「春秋の暦」『かもしかみち』再版1967、全集1巻227頁。
4 『心の灯』1971年、全集2巻33頁。
5 同上、50頁。
6 同上、53頁。
7 宮坂広作『風土の教育力』8〜9頁。
8 『信州教育の墓標』、全集6巻23〜24頁、同28〜31頁。
9 「箱清水遺跡と忘れられた人」『長野』5号1965年、全集1巻126頁。
10 『信州教育の墓標』、全集6巻43頁。
11 『心の灯』、全集2巻105頁。
12 同上、109頁。
13 「箱清水遺跡と忘れられた人」『長野』5号1965年、全集1巻125頁。
14 同上。
15 『心の灯』、全集2巻60頁。
16 同上。
17 同上、60〜61頁。
18 同上、61頁。
19 同上、65頁。
20 同上、66〜68頁。
21 全集12巻184頁以下所収。
22 『心の灯』、全集2巻78〜80頁。
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23 同上、83〜85頁。
24 同上、92〜94頁。
25 『二粒の籾』河出書房1967年、全集5巻235〜6頁。
26 『二粒の籾』を改題した『森本六爾伝』1973年の「改題のことば」、全集5巻297頁。
27 『心の灯』、全集2巻99〜100頁。
28 同上、100頁。
29 全集1巻解説264頁。
30 『縄文農耕』「はしがき」、全集9巻238頁。
31 『心の灯』、全集2巻141頁。
32 『かもしかみち以後』学生社1967年「はしがき」、全集1巻259頁。
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