• 検索結果がありません。

【 】齊藤栄一.pwd

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "【 】齊藤栄一.pwd"

Copied!
14
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

ヨーロッパ美術におけるキリスト教とギリシア・ロ

ーマ神話の三つの出会い

著者

齊藤 栄一

雑誌名

明治学院大学藝術学研究 = Meiji Gakuin

University Art Studies

23

ページ

1-13

発行年

2013-07-10

その他のタイトル

How did Christianity and Greek Mythology

Coexist in European Art?

(2)

ヨーロッパ美術におけるキリスト教と

ギリシア・ローマ神話の三つの出会い

齊藤栄

はじめに

キリスト教美術と呼べるものがその最初の展開を見せたのは、ロー マ近郊のカタコンベ(地下墓所)の中においてであった。その壁にキ リスト教と関連づけて考えることのできる壁画がはじめて姿をあらわ したのは二○○年ごろのことである (1) 。それらの画面は聖書やそのほか の伝承に語られた情景をこと細かに再現するものではなく、むしろキ リスト教のさまざまなテーマを思い起こさせるきっかけを与える程度 の簡単なもので、 それらはむしろ 「図像記号」 (イメージ・サイン) とでも呼ぶべきものであった (2) 。 たとえば、ごく初期の図像表現からキリストは羊をかつぐ羊飼いで あらわされることが多かったが、それは『ヨハネによる福音書』第一 ○章一一節にあるとおり、キリストが自らを善い羊飼いと規定してい ることに由来するのはもちろんであるが、ローマ美術では本来、羊飼 いの姿によって「 (善き)人間性」 (フマニタース)をあらわす伝統が あったのであり (3) 、これもまた、ローマ文化において一般化された理想 像とも意識的につなぎあわされた「図像記号」のひとつと見るべきも のでもある。 さて、一神教であるキリスト教の世界において、キリスト教と直接 関係がなくても 「(善き) 人 間性」 の ような抽象的な概念ならばその 存在が認められるのは理解できるが、それではギリシア・ローマ神話 の多神教の世界の神々はさすがにキリスト教とは両立しがたいもので あっただろうか。それが、じつはけっしてそうではなかったというこ とを簡単に整理し、あとづけていくのが本論のねらいである。



初期キリスト教時代から中世へ

プットー ギリシア神話のエロースは、ヘシオドス以来アフロディーテーとヘ ルメースの子とされ、 「美しい若者で、 気まぐれで、 バラの花の上を かろやかに歩む、有翼の神 (4) 」であったが、ローマ神話のクピードある いはアモルと習合し、 や がては 「弓と矢をもつ子供 (5) 」 と なっていった。 そして、 ラテン語で子供をあらわす pu tu s という語の変形である pu tto という形で呼ばれるようになった。 その姿にローマの人々は、 人の一生を守るべくつきそってくれる守護霊 ( ge niu s) を見ていた ようだが、初期キリスト教徒たちは、その姿をカタコンベの壁画や石 棺彫刻に天使をあらわすものとして利用していった (6) 。

(3)

たとえば、キリスト教を公認したことで知られるコンスタンティヌ ス帝の娘で、その敬虔な信仰のゆえに叙聖されたコンスタンティーナ によって当初は洗礼堂として建立されたと考えられているローマのサ ンタ・コスタンツァ聖堂にも、そのようなプットーたちの姿を見るこ とができる ( 図 1 )。 ここにはマイナス (バッケー) のような異教的 なものの姿も見えるが、それらとプットーたちとのあいだにあって、 彼らを結ぶ植物の葉はどれもすべて十字架の形をしている。 また、かつてはこの聖堂の中に安置されていたコンスタンティーナ の石棺には、葡萄酒を造っているプットーたちの姿を見ることができ る( 図 2 )。 こ こには明確なキリスト教的メッセージはないものの、 キリストが弟子たちにむかって葡萄酒のことを「多くの人のために流 される血、 絜約の血」 (『マタイによる福音書』 第二六章二八節) と言っ ていることや、自らのことを「まことのぶどうの木」 (『ヨハネによる 福音書』第一五章一節)にたとえて、神とキリストと人間との関係に ついて語っていることを思い起こすならば、このプットー/天使たち もまた、 ひとつの 「図像記号」 の 役割を果たしているといえるだろう。 初期キリスト教時代に作られた石棺のなかでもとりわけよく知られ ヨーロッパ美術におけるキリスト教とギリシア・ローマ神話の三つの出会い 2 図 1 プットーとマイナス,サンタ・コスタンツァ聖堂,ローマ,4世紀なかごろ 図 2 コンスタンティーナの石棺,ヴァティカン美術館, 350年ごろ

(4)

ている「ユニウス・バッススの石棺」の中にもプットー/天使たちは 姿をあらわしている ( 図 3 )。 こ の図像は農民の守護霊としてのプッ トーが農作業を手伝っているところを描いたものともとれるが、死の 床で洗礼を受けたユニウス・バッススがもともと貴族であり、ローマ 市の総督をつとめ、執政官を父にもつ人物であったことを考えるなら ば (7) 、ここでの小麦はもっと公的な意味をもつもの、すなわちその粉に よって作られる聖体のパン(ホスティア)のことが暗示されているの かもしれない。 とすれば、こ れもまたまぎ れもない「図 像記号」のひ とつと考えて もいいだろう。 このかわい らしいプット ーとしての天 使のイメージ も、中世が進 むにつれてロー マ神話の勝利 の女神である ニーケーのそ れにとってか わられ、いっ たん姿を消し てしまう。そ の愛くるしい 姿と天使のイ メージがふたたび結びつけられ愛されるようになるのは、ルネサンス 彫刻の巨匠ドナテ ル ロによる流行以降のことである。 キリストのオルフェウス・イメージ 十戒の第二戒が偶像崇拝を厳にいましめるものであるため、キリス ト教美術にあって彫刻の製作が活発化するのが絵画のそれにくらべて 相当遅れをとったのはよく知られているが、それではキリストの姿を 絵画において具体的にどのようなイメージであらわすかについては、 その初期の時代において明確な指針が存在していたわけではなかった。 周知のように、聖書はキリストの面立ちについて具体的なことはいっ さい語っていないからである。 伝道のために、異邦の地にあって、伝道者たちがその地にすでにあ るイメージや概念を用いて布教するのは、日本に布教に来たイエズス 会士たちの De us の訳語選択においても知られているように、 よくあっ たことである。 四世紀初頭にコンスタンティヌス帝によって公認されたキリスト教 はようやく陽の当たる場所で公然と活動することができるようになっ たとはいえ、四世紀なかばのユリアヌス帝の異教的祭儀の復興の企て にみられるように、ローマの人々の保守層にはキリスト教にたいする 不信感がまだまだ根強かった。そこでキリスト教徒たちが積極的にお こなったのが、すでに多くの支持を得ている既存の宗教のイメージの キリスト教への取り込みであった。 当時の地中海世界で、神々のなかでもっとも親しまれ、また人気が あったのがオルフェウスであるが、キリスト教徒たちは、 亡 き 妻 エウ リ ュ デ ィケーを取り 戻 しに 冥 界へ降りて ゆ くことが 黄泉 への降りを、 またト ラ キアの女たちに 八 つ 裂 きにされることが受 難 の死を 連 想 さ せ もするこのオルフェウスをキリストのイメージとして用いていった ( 図 4 )。ここには、のちに 定着 して ゆ く 我 々にとってのおな じ みのキ リストのイメージ、すなわち 黒 くてスト レ ートな頭 髪 を頭 頂 の中 央 で 図 3 麦をかりとるプットーたち,「ユニウス・バッススの石棺」,サン・ピエト ロ大聖堂宝物室,ローマ,359年ごろ

(5)

分け、おなじく黒いヒゲを生やした男の姿はなく (8) 、ブロンドの巻き毛 とつるつるした頬やあごを見せるさっそうとした青年の若々しさが光っ ている。このように反キリスト教的な保守層をも含む一般民衆に受け 入れられているイメージをキリストのそれとして用いるということは、 いうまでもなく高度な政治性をもつものであるが、 そのことを通じて、 新しい宗教・政治勢力としてのキリスト教は、ローマ帝国の美術の継 承者としての地位をも獲得していったのである (9) 。 ヘラクレスとヤーヌス キリスト教美術はまた、 ギリシア・ローマの神々をキリストのイメー ジへと転用するだけでなく、その神々をそれ自身としてキリスト教の 文脈のなかに登場させてもいる。 ヴィア・ラティナのカタコンベにはヘラクレスの十二功業のひとつ である「ヒュドラ退治」が描かれている。ヘラクレスはこの当時は、 たんなる英雄としてだけではなく、さまざまな悪霊や怪獣などから人 間を解放してくれる救済者としてあがめられていた。そのヘラクレス のイメージに、当時のキリスト教徒のすべてではないにしても一部の 人たちは、救済者としてのキリストを重ねて見ていた。したがって、 救済者としてのヘラクレスに読み込まれた救済者としてのキリストの イメージが墓所に描かれているのも至極当然なことなのである ( ) 。 ヘラクレスのイメージはどちらかというと例外的なものだが、中世 ゴシック時代の教会のファサードなどにひんぱんに登場するヤーヌス となると話は異ってくる。ヤーヌスはローマ神話における門の守護神 であり、ふつうの顔のほかにそれとは反対向きの顔を後頭部につけて いて、 bif ro ns すなわち 「二つの顔」 という添え名まである存在であ る (  ) 。この二つの顔を持っているというところから、ヤーヌスは前の眼 で未来を、後ろの眼で過去を見ることができるとされ、そこから過去 と未来の接点、 すなわち一年の最初の月である一月の名の由来ともなっ た。そして、ゴシックの教会堂に十二の月が農民の働く姿などであら わされるときには、きまって一月のところにヤーヌスが姿を見せてい る( 図 5 )。 ロ ーマ帝国の時代ならいざしらず、 中世もだいぶ深まっ た時期にあっても、キリスト教から見れば異教の神が堂々と教会堂の ファサードにおさまっているのは、十戒の第二戒のみならず、第一戒 にさえも抵触しているのではないかと考えられもしよう。この二つの 顔を持つ奇妙な異教の神が、キリスト教の神聖な場所から排除される ヨーロッパ美術におけるキリスト教とギリシア・ローマ神話の三つの出会い 4 図 4 オルフェウスとしてのキリスト,ドミティラのカタコンベ,ローマ,4世紀な かごろ

(6)

どころかむしろ積極的にとりあげられていった理由は、おそらくカト リシズムという考え方それ自体に求めることができるだろう。 カトリシズム、すなわち普遍主義を貫徹するには二つの相において 普遍性が成立していなければならない。すなわち空間と時間である。 空間において普遍的であることは、実際には不可能だが理論的には可 能である。地球上のすべての人間がカトリック教徒になったときがそ れである。もちろんこれはとても実現しそうにないことではあるが、 かつてそれを信じた人もいた。多くの困難をものともせずにはるか極 東までやってきたイエズス会士のような人々である。ところが、時間 においても普遍的であることは理論的にも第一義的には不可能である。 なぜなら、神が受肉してキリストとなってこの世に降り立った時点以 降の人間はキリストの福音にあずかることができるが、それ以前に生 まれた人は、たとえソクラテスやブッダのような人であってもキリス トの福音を聞く機会は与えられず、救済者としてのキリストを信じる 信仰を得ることもまったくない。これでは、カトリシズムは、天地創 造いらい現在にいたるまでの全時間において普遍性を有しているとは とても言えない。そこで、キリスト教以前の諸宗教はキリスト教とは 無縁の異教ではなく、まさにキリスト教の神がキリスト教を成立させ るための準備的なものとしてこの世に送り込んだものである、とカト リシズムは考えた。 そもそも、キリスト教以前の諸宗教を宗教と定義したその瞬間に、 キリスト教は自らをも諸宗教のひとつと定義することになる。それは 自らを相対化することである。すなわち自らをさまざまな宗教からな る集合のひとつの構成要素としてしまうことになる。普遍主義という のは全てを包含することであるから、カトリシズムはその本質上、他 の宗教と並存してはならないし、対立してもならない。他の宗教(と されたもの)の上に超然と立ち、それを飲み込むものでなければなら ない。 ローマ・カトリックの総本山であるサン・ピエトロ大聖堂の正面の サン・ピエトロ広場の中心部分、まさに聖ペテロがさかさ十字架には りつけられたとされるその場所に、エジプトから一世紀ごろに運ばれ てきたオベリスクがいまだに偉容を誇っているのも、まさにこういっ た考え方に裏打ちされてのことである。 顔面を二つ持つ奇怪な異教の神がキリスト教の教会堂の正面に姿を 見せているということこそが、ローマ・カトリックが異教の神々の跋 扈していたキリスト教以前の世界をも時をさかのぼって支配している ことを表明しているのである。 ヨルダン川の精 東ゴート王国の首都であったラヴェンナには、正教徒洗礼堂とも呼 ばれるネオニアーノ洗礼堂がある。これは四世紀ごろにこの地の司教 であったウルススによって創建されたものだが、四五八年ごろに司教 ネオンによって上部が改築されたがゆえに、その名をとって「ネオン 図 5 ヤーヌス,サン・ドゥニ修道院聖堂正面南側 入口右扉,1137年ごろ

(7)

の洗礼堂」と呼ばれるようになったものである。そのドームには天頂 部分に「キリストの洗礼」をいただき、その周囲を十二使徒が囲み、 さらにそれが四つの玉座と四つの福音書をのせた祭壇からなる八つの テンピエットで囲まれる構造になっている天井画が描かれている。 「キリストの洗礼」 の部分は後世の修復がはなはだしいものの (  ) 、そ の 東方的・宮廷的古典主義に近い様式の持つおもむきはよく保存されて いる ( ) 。 その「はなはだしい修復」の手をのがれて、本来のキリスト教的文 脈からみれば一人の招かれざる客が、その洗礼の場面に姿をあらわし ている ( 図 6 )。 キリストがその半身をひたしているヨルダン川の精 である。ここでも我々は、ヤーヌスのところで論じたようなカトリシ ズムの大義をふりかざさなければこのヨルダン川の精の存在の妥当性 をうんぬんできないのだろうか。そういう側面もたしかにあるかもし れないが、むしろこれは、のちにキリスト教神学が大系化されてゆく はるか以前の世界にあって、むしろキリスト教世界にあってさえもま だまだ民衆に共有されていたパンテイズム的あるいはアニミズム的エー トスの残滓と考えるほうがよいかもしれない。同じラヴェンナの、現 在はサンタ・マリア・イン・コスメディン修道院に含まれるアリウス 派洗礼堂のドームにも、このネオニアーノ洗礼堂の影響を受けて、ヨ ルダン川の精がキリストのそばにその堂々たる体 を誇示している。 また、こういった発想は、ラヴェンナの作例から五○○年近くたっ た時点でも写本装飾のなかに見出すことができる( 図 7 )。ここでは、 モーセがシナイ山にのぼって神から石板を授けられている間、シナイ 山のふもとで彼の帰りを待つ民衆の最右端に裸体で水につかる男の姿 が描かれているが、これはアダムとイヴ、あるいは泥酔したノアぐら いしか裸体の登場しない中世キリスト教美術にあって、泉の精とでも 考えるほかに理解のしようのない存在である。 ヨーロッパ美術におけるキリスト教とギリシア・ローマ神話の三つの出会い 6 図 6 キリストの洗礼,ネオニアーノ洗礼堂,ラヴェンナ, 458年ごろ 図 7 律法を授かるモーセ,『レオの聖書』,ヴァ ティカン図書館,92550年ごろ

(8)

もっとも、この水の精の命脈は意外に長く、ルネサンスの古典主義 的様式と精神を受け継いだ一七世紀の画家によってもまた新たな生命 を吹き込まれている ( 図 8 )。 人 物像が幼児モーセの姿へと我々の視 線を収斂させてゆくように構成されるなかで、 その左端にひとり、 ひっ そりと我々に背を向けてねそべっている裸体の男は、その手にする豊 穣のしるしであるコルヌコピアエによって、まぎれもなくエジプトに たまものをもたらすナイル川の精と知れる。その川がナイル川である ことはすでに画面右のピラミッドではっきりと示されているのだから、 このナイル川の精は、古典主義者プッサンが、自らの文化的ルーツが ルネサンスをさかのぼってはるか昔の古典古代の世界に属するもので あることを示そうと意図的に置いたものと考えるほかないだろう。



ルネサンス

ヴィーナスとマドンナ ボッティチェリといえば、対副をなすのではないかとも考えられて いる 「春 (ラ・プリマヴェーラ) 」 と 「ヴィーナスの誕生」 の二作に よってルネサンス絵画にその名を永久にとどめる画家として遇されて いるが、一四八五年 ( ) もしくはその翌年ごろ ( ) に製作された「ヴィーナス の誕生」とほぼ同時期に製作された作品に「ザクロの聖母」と呼ばれ ているものがある。 パッツィ家の放った刺客によって命を奪われたジュ リアーノ・ディ・メディチの愛人シモネッタ・ヴェスプッチをモデル にしているともいわれる「ヴィーナスの誕生」のヴィーナスのイメー ジを、我々は驚いたことにこの「ザクロの聖母」の中にもまた見出す ことができる ( 図 9 、 10)。 こ の女性がシモネッタであるかどうかは おくにしても、 ボッティチェリが、 ギリシア・ローマ神話のアフロディー テー/ウェヌスとキリスト教の神の母マリアとを同じイメージで描い たというまぎれもない事実は否定しようがない。 ヴィーナスは愛と美の女神と位置づけられているが、その愛とはエ ロスのことであり、聖母の愛であるカリタスとはむしろ対極的なもの である。また、現世的な美に溺れることはまさにキリスト教における 罪のひとつである虚栄 (ヴァニタース) におちいることであるか 図 8 川から救われるモーセ,プッサン,ルーヴル美術館,1647年

(9)

ら、聖母のし ろしめす世界 はヴィーナス の愛と美をむ しろ否定する ところに成立 するものであ るはずだ。そ れゆえ、聖母 をヴィーナス のイメージに 重ねて描くと いうことは、 ヴィーナスを 聖母の「図像 記号」的なも のとして考 えることが まったく不可能であるからには、ボッティチェリが彼独自の聖母のイ メージをヴィーナスのそれにひきつけて描いたと考えるほかはない。 ここにあるのは、おそらく「ヴィナスの中にマドンナが宿り、マドン ナの中にヴィナスが宿った (  ) 」。 というようなヴィーナスと聖母とのあ いだの相関的な予定調和の世界ではない。この聖母は中世に描かれた 聖母が多かれ少なかれ持っていた超越性や神秘性といったもの、ある いは 「神の母」 (テオトコス) としての荘厳さといったものをいっさ いかなぐり捨てた、あくまで現世的な唯美的感覚のうえになりたって いる。 も ちろん、 こういったイメージはただボッティチェリのみが持っ ていたものではなく、当時のフィレンツェの知識階級を席巻していた 新プラトン主義に親しんでいた人々が多かれ少なかれ共有していたも のだろう。 しかし、 画 家であるボッティチェリにとって、 「ヴィーナ スのような聖母」という具体的なイメージは、彼が本来持っていたで あろう唯美的な感覚にたいしてとりわけ大きく訴えかけるものであっ ただろう。だからこそ、サヴォナローラの言説に出会ったあとの周知 の激烈な自己批判と「転向」もおおいにうなづきうるものとなるので ある。 聖母をヴィーナスのようにイメージするというのは、いかなるキリ スト教のテーゼからも引き出すことはできないし、またここまでドラ スティックにヴィーナスとしての聖母を描いた画家も彼をおいて他に はいない。だがそれゆえにこそ、そのことがボッティチェリをして、 いわゆるルネサンスの時代においてもっともルネサンス的な画家たら しめているのである。 ヘラクレスとダヴィデ アゴスティーノ・ディ・ドゥッチョが製作不可能として放棄したダ ヴィデ像の完成をまかされたミケランジェロが、その仕事を引き受け た当初思い描いていたダヴィデのイメージは少年のそれであった。そ のことは残されている初期のデッサンからもはっきりしている ( ) 。じっ さい、ミケランジェロの先達であるドナテッロにせよヴェロッキオに せよ、そのダヴィデ像は少年の姿であった。しかし、ミケランジェロ の完成作はまぎれもなく堂々たる青年像である( 図 11)。 ヨーロッパ美術におけるキリスト教とギリシア・ローマ神話の三つの出会い 8 図 11 ダヴィデ, ミケラ ンジェロ, アカデ ミア美術館, フィ レンツェ,1504年 図 10 ザクロの聖母,ボッ ティチェリ,ウフィ ツィ美術館, 1487 年ごろ,細部 図 9 ヴィーナスの誕生,ボッティ チェリ,ウフィツィ美術館, 1485/86年ごろ,細部

(10)

ダヴィデの姿についてもっとも具体的に触れた箇所として『サムエ ル記』上第一七章四二節をあげることができる。そこでは新共同訳に よれば「血色の良い、姿の美しい少年」とある。ミケランジェロが得 たダヴィデについての情報がまさかヘブライ語に直接由来するもので ないとすれば、それがウルガータのラテン語によるものであると考え るのは至極妥当なことであろう。そのウルガータによれば、ダヴィデ は ad ole sc en s であると表記されているのであり、 けっして pu er と 書かれているのではない。もとのヘブライ語がなんであれ、ラテン語 の ad ole sc en s、正確には ad ule sc en s は十四才から三○才ぐらいまで の若者あるいは青年というイメージを一般的にあらわすものである ( ) 。 その、 本 来そうであるべきはずの青年のイメージに変更されたダヴィ デの姿にミケランジェロは、一四九二年から九四年ごろに製作され、 今は失なわれてしまった自作のヘラクレスの姿を与えた (  ) 。 そ のことは、 現在ルーヴル美術館に残されているルーベンスによる素描や、 カ ーサ・ ブオナローティが所蔵する 製模型によってはっきりしている ( ) 。 前述した十二の功業で知られるヘラクレスは、十三世紀末からフィ レンツェの保護者・守護者として崇敬をあつめており、ほかでもない フィレンツェ市の印章のうえにもあらわされてきている ( ) 。このヘラク レスのようにもたくましい筋骨隆々たるダヴィデ像にカトリックの四 つの枢要徳のひとつであるフォルテッツァ(剛毅)のイメージが与え られていることを読みとるのはさほどむずかしいことではあるまい。 それはまた、もっとも重要な市民的徳として考えられてきたものでも ある。 さらにダヴィデの眉根にしわを寄せた怒りをたたえたような顔付き にはイラ(怒り)をも見てとることもできよう。これはいうまでもな く本来は七つの悪徳のひとつであるが、フィレンツェ市民の文化の文 脈にあってはむしろフォルテッツァを補完するものとしての積極的な 意味を獲得していたのであり、ミケランジェロはこのヘラクレス ダ ヴィデ像のなかに市民・戦士のイメージを意図的に付与したのであろ う ( ) 。ミケランジェロの同時代のドイツの画家でイタリアの人文主義の 影響を強く受けたアルブレヒト・デューラーが、ミケランジェロのダ ヴィデ像より二○年ほどあとに製作した「四人の使徒」において、聖 マルコは四性体説のうちの胆汁質、すなわち怒りっぽい性格をあらわ すものとして解釈されるのが一般的であるが ( ) 、その聖マルコがほかな らぬフィレンツェ市それ自体の守護聖人であることをここで思い起こ すのもけっして意味のないことではないだろう。 ここでダヴィデのポーズそのものに眼を 向 けてみよう。 ミケランジェ ロはダヴィデの体重を 右脚 すべてにかけさせている。そのために 右 半 身 は完 全 に 垂 直となり、いわば 閉ざ されている。いっぽうで 左半身 に おいては 左腕 が 持 ち上げられることによってその 輪郭 が 開 かれている。 J ・ヴィルデによれば、この 対比 は、 中 世において人体の 両側面 のあ いだにうちたてられた 道 徳的 区分 と 関連 している。すなわち 身 体の 右 側 は 神 の保護のもとにあり、またそのことを自らが知っていることに よる確 信 に 満 ちているのにたいし、 左側 は 傷 つきやすく、悪の 力 に 晒 されているのである ( ) 。 そのいっぽうで、かなり 形 がくずれてはいるものの、ミケランジェ ロはダヴィデにコントラポスト、 すなわち 古 代 ギ リ シ ア 彫刻 のクラ シ ッ ク 期 に 開 花 した、上 半身 と 下 半身 のカーヴを 逆 にすることによって 運 動感 と 安 定 感 の 両 方 を一 挙 に得ることのできるポーズをとらせている。 さらに、もともとこのダヴィデ像はフィレンツェの 大 聖 堂造営 局 から の 注 文であり ( ) 、当時の記 録 からも本来は 大 聖 堂 の 外 側 の付け 柱 か 扶壁 の 最頂部 に 置 くことを 想 定 して製作された ( ) 。そのため、 下 から見上げ るように 構想 されていたが ゆ えに 頭部 と 手 が 大 きめに作られているの であるが ( ) 、その 頭部 にはあきらかにヘラクレスというよりはアポロの それを思わせるほどに ギ リ シ アの 神 々のイメージが 横 している。ま た、同 じ く 古 代 ギ リ シ ア 彫刻 のクラ シ ック 期 ににわかに 登場 したもう ひとつの表現 法 もミケランジェロはこの作 品 において 踏襲 している。 それは 胴 体と二つの 大 腿 部 とのあいだにしつらえられた 明白 す ぎ るほ

(11)

どのくびれである。現実の人体にはこのようなくびれは存在しない。 このように、ミケランジェロはこのダヴィデ像において古代ギリシ アの神のイメージという外形のなかにキリスト教的徳というメッセー ジを込めたのだったが、それはまたミケランジェロ自身が考えもしな かった新しい意味あいをも帯びることになった。ダヴィデ像が完成し たとき、 それが当初の設置場所と目されていたサンタ・マリア・デル・ フィオーレ大聖堂に置かれることはなく、この像をどの場所に置くか を決定する委員会が召集されたのだった。そのメンバーにはレオナル ド、フィリッピーノ・リッピ、ジュリアーノおよびアントニオ・ダ・ サンガッロ、コシモ・ロッセリ、そしてほかでもないボッティチェリ といった錚々たる人々の名が見られたのだが (  ) 、このような委員会が開 かれたのは、じつは、サヴォナローラ失脚後の政治の混乱、そしてピ サ攻略戦の失敗やチェーザレ・ボルジアの軍事的脅威といった内憂外 患のなかで ( ) 、この像が製作当初の思惑とはことなり、ミケランジェロ 自身も思いもよらなかった政治的な意味を持つようになったからであ る。そして、最終的にこの像がパラッツォ・ヴェッキオ、すなわち政 庁の前に設置されたのは、まさにフィレンツェがピサにたいしてあら たな軍事行動を起こそうとしていた時期であった。 当時のフィレンツェの人々から 「イル・ジガンテ」 (巨人) とも呼 ばれ、 「マヌ・フォルティス」 (強い手)とも呼ばれていたこの巨大な 像が共和政のシンボルである政庁の前に置かれたのは、 そ こに、 「マ キャヴェリの構想下に市民軍の創設を準備していた共和国政府の戦闘 的パトスと 「ヴィルトゥ」 (力量) への英雄的意志」 というイメージ を市民たちに読みとらせようとする為政者たちの意図があったからか もしれない ( ) 。 そ してまた、 フ ィレンツェ市民みずからが、 フィレンツェ を古代ギリシア・ローマと結びつけることによって、古代の神話的な 力を内在的に感じるということもあったにちがいない ( ) 。じじつ、この ダヴィデ像はかつてドナテッロのユディト像がおかれていた場所に設 置されたのだが、もともとはメディチ家のために製作されたその像を 一四九四年のメディチ家追放の翌年にもとあった場所から政庁前に移 動し、そこに「一四九五年、共和国の救済の鑑として市民がこれを設 けた」という銘句を刻ませたのは、ほかならぬフィレンツェ市民自身 だったのである ( ) 。



近現代

ギリシア・ローマ神話の枠を借りて、あるいは古典古代のイメージ を借りてキリスト教の精神や教条を語りあるいは示すことは、ルネサ ンスおよびその後裔であるプッサンらの古典主義以降も可能であろう か。結論から言えばそれは不可能であった。 十八世 紀 の新古典主義はギリシア・ローマ神話への 明快 な志 向 を見 せるいっ ぽ うでキリスト教的テーマにはほと ん どまったく 眼 を 向 けな かった。 ぎゃ くにナザレ 派 や C ・ D ・フリードリ ヒ などに代 表 される ロマン 派 にあっては、 主 情 的なキリスト教 絵画 が主 流 でギリシア・ロー マの神々の 入 る 余地 はなかった。その後、新古典主義を 基調 とするア カ デミ ズム にせよ、 それに 対抗 する 近 代 絵画 の 諸 派 にせよ、 ギリシア・ ローマ神話やキリスト教のテーマを 個別 に 取 り 上げ ることはあっても、 それらを 合 体させてあらたなイメージを構 築 するということはなかっ た。 宗 教的教条や精神、 あるいは 理念化 ・ 理 想 化 された人 間 精神といっ たものを 絵画 で 提 示するというシステ ム が 文化 的な 支 えをすでに失っ てしまっているからには、それも当 然 のことであった。 む しろこの 二 つの 領域 が 絵画 の世 界 で 出 会うとすれば、それはギリシア・ローマ神 話やキリスト教が持つ精神の 重 みから 軽 やかに 解 き放たれた「 遊 び」 の世 界 においてしかあるまい。 近 現代 絵画 の 流 れにあって、その 運 動が 本質 的に 遊 びの精神によっ て動かされているものがあるとすれば、その 筆頭株 はな ん といっても シュールレアリス ム であろう。アンドレ・ ブ ルトンがチューリ ヒ で 生 まれたダダに 触 発 されパリで起こした 運 動はやがて一九 二 四年の 『 シュー ヨーロッパ美術におけるキリスト教とギリシア・ローマ神話の三つの出会い 10

(12)

ルレアリスム宣言』へと結実するが、この運動はブルトンとその一党 にのみとどまるものではない。パリに出てブルトンと一時期歩みをと もにしたマグリットとはことなり、 同じベルギー人であるP・デルヴォー はパリのシュールレアリスムに呼応しながら一生ベルギーを離れるこ となくその運動を実践していった。 すでにサン ジルの高校の生徒だったころから『オデュッセイア』 を愛読していた彼は ( ) 、 い っぽうで水浴するニンフたち、 「セイレーン たち」 (一九三七年、個人蔵) 、「セイレーンたちの村」 (一九四二年、 シカゴ美術研究所)といったギリシア・ローマ神話に題材をとったも のを製作し、また一九四三年からの十年間ほどは骸骨をテーマとした 作品を多数生み出している。もちろん後者は、キリスト教美術の重要 なテーマのひとつである「死の舞踏」あるいは「メメント・モリ」に 直接つながるものである。さらには聖衣をつけたキリスト以外はすべ ての人物が骸骨である 「 エッケ・ホモ」 (一九四九年、 個人蔵) の よ うな作品もある。 ところが、この二つの領域、すなわちギリシア・ローマ神話とキリ スト教の二つの世界をかけ合わせたような作品をもまたデルヴォーは 生み出している。 たとえば 「眠ったヴィーナス」 ( 図 12)で は 、 中 央 にヴィーナスがよこたわり、その左に骸骨が立っている。ここに我々 は美と破壊、生と死、虚栄、メメント・モリなどさまざまなテーマを 読みとることもできよう。 しかしそれはデルヴォーの本意であろうか。 「解剖台のうえの蝙蝠傘とミシンの出会いのような美」 を尊び、 夢 や無意識を重要視するシュールレアリスムの体現者であるデルヴォー が我々に提示するのは上述のような説教くさいお題目であろうか。む しろデルヴォーがここで我々に見せてくれているのは、ヴィーナスを 見れば美とエロスのギリシア・ローマの世界に想いを馳せ、骸骨を見 ればメメント・モリを、あるいは世の無常を想うように、文化という システムの中にとりこまれ馴致されてしまった我々の硬直した精神に 向けられた、茶目っけたっぷりの「遊び」あるいは「揺さぶり」とで も呼ぶべきものではないだろうか。 シュールレアリスムというのは、そもそも意味というしがらみや、 ひとつの作品には統一的なテーマがなければならないという規律ある いは呪縛から自らを解き放った運動であり、ギリシア・ローマ神話と キリスト教という二つの領域のイメージをも、その歴史的・伝統的文 脈にまったくとらわれずに用いることさえ意に介さない。そのもっと もよい例がデルヴォーの「受胎告知」 ( 図 13)であろう。 図 12 眠ったヴィーナス,デルヴォー,テイト・モダン,ロンドン, 1944年

(13)

受胎告知は、大天 使ガブリエルが乙女 マリアに聖霊による 救世主の懐胎を告げ るキリスト教美術に おけるもっとも重要 なテーマのひとつで あるが、それだけに ギリシア・ローマ神 話の要素が入り込む 余地はまったくない といってよい。デル ヴォーは、しかしな がら、このキリスト 教のもっとも重要な テーゼともいえる 「神の受肉」 の現場 をいとも軽やかにギ リシア・ローマ神話 のなかで展開させて いる。 ここでは大天使も聖母も伝統的な受胎告知の表現に見られるポー ズをとってはいるものの、乳房をあらわにした姿は、キリスト教の説 話の一場面というよりは、ギリシア・ローマ神話の女神たちのあやな す物語のなかのそれである。デルヴォーはまた、このギリシア・ロー マ神話とキリスト教との融合の最後の大輪がルネサンス時代に花開い たことをまるで再確認するかのように、厳格な線遠近法を背景の床面 やアーチ状の生垣に応用している。その遠近法の消失点は生垣の中央 に設定されているが、大天使の視線も聖母のそれも、どちらもがその 消失点へと向けられており、あたかも二人の視線ははるかかなたの虚 空において結び合うかのような錯覚を我々に起こさせる。

結語

初期キリスト教時代には、 キリスト教ばかりではなくギリシア・ロー マの神々の世界もまた、同時代の人々にとっては、それらにたいする 信仰をともないながら、確かな存在感を感じさせるものとして表象さ れていたのであり、それゆえイメージの世界においてキリスト教とギ リシア・ローマ神話の世界は、あなどりがたい親近性を見せながら、 そこここで融合していた。 しかし、中世も深まるにつれてヨーロッパ人にとっての神信仰はい うまでもなくキリスト教のそれのみとなり、ルネサンスの時代になっ て人文主義的な関心から見直されたギリシア・ローマの神々の世界は もはや信仰の対象ではなく、人間存在の理想型を謳いあげるための道 具としての説話になった。 そして近現代になり、ヨーロッパ文化においてキリスト教信仰が相 対化されるにつれ、 キリスト教のさまざまな神話も、 かつてギリシア・ ローマ神話にたいしておこなわれたのと同じように説話化されていっ た。図像そのものが信仰を担保する必要にして十分な機能を果たすこ とは、ギリシア・ロシア正教におけるイコンのようなものを例外とす れば、なくなってしまった。それがかつてあったような形で将来復活 することはおそらくないだろう。それは、キリスト教信仰の根幹をロ ゴス化したプロテスタンティズムだけにとどまるものではなく、カト リックをも含んだヨーロッパのキリスト教全体について言えることだ ろう。 神話の図像化という営みは、信仰へのうながしや信仰心の鼓舞とい う当初の機能から、説話化された物語のなかの人間精神の軽やかな遊 びの世界へと変容した。ヨーロッパを形づくってきたといわれる二つ の大きな柱、 すなわちヘレニズムとヘブライズムは、 いま、 デルヴォー ヨーロッパ美術におけるキリスト教とギリシア・ローマ神話の三つの出会い 12 図 13 受胎告知,デルヴォー,サウサンプトン市立アート・ギャラリー, 1949年

(14)

が見せてくれるような世界のなかで、その重くて長い営みを終えたあ との休息を楽しむかのように軽やかに戯れあっているのである。 注 ( 1 ) Gr ab ar , A. : C hr ist ia nI co no lo gy ― AS tu dyo fI tsO rig in s, 19 68 , Pr in ce to n, p. 7. ( 2 ) Op .c it., p. 8. ( 3 ) Op .c it., p. 11 . ( 4 ) 高 津春繁 『 ギリシア・ローマ神話辞典』 一 九六○/八四年、 岩波書店、 七六頁。 ( 5 ) 前掲書、同頁。 ( 6 ) Ha ll, J.: Di cti on ar yo f Su bje cts &S ymb ols inA rt, 19 74 /7 9, NY, p. 25 6. ( 7 ) ラウデン『初期キリスト教美術・ビザンティン美術』益田朋幸訳、岩 波書店、二○○○年、四九頁。 ( 8 ) こ のイメージは、 一般にはオリエント由来のものとされるが、 グ ラバー ルのように、ユピテル、ネプトゥーヌス、プルートスなどのイメージか ら来たと考える向きもある( Gr ab ar ,o p. cit ., p. 34 )。 ( 9 ) フッター『初期キリスト教美術・ビザンティン美術』越宏一他訳、グ ラフィック社、一九七八年、三○頁。 ( 10) Gr ab ar ,o p. cit ., p. 15 . ( 11) 高津、前掲書、二九二頁。 ( 12) ラウデン、前掲書、一一二頁。 ( 13) フッター、前掲書、七六頁。 ( 14) 黒江光彦他『西洋絵画作品名辞典』 、三省堂、一九九四年、六九五頁。 ( 15) 摩寿意善郎『ボッティチェ ル リ』 、集英社、一九七八年、一一四頁。 ( 16) 前掲書、八八頁。 ( 17) 吉 川逸治・田中英道 『ミケランジェロ』 、集 英 社 、一 九 七 八 年 、九 六 頁。 ( 18) 國原吉之助『古典ラテン語辞典』 、大学書林、二○○五/二○一○年、 二○頁。 ( 19) トルナイ『ミケランジェロ 彫刻家・画家・建築家』田中英道訳、 岩波書店、一九七八年、一三頁。 ( 20) 前掲書、七頁。 ( 21) 前掲書、一五頁。 ( 22) 前掲書、一四頁。 ( 23) Pa no fsk y,E .: Th eL ifea ndA rto fA lb re ch t,D u re r, 19 43 /7 1, Pr in ce to n, p. 23 5. ( 24) トルナイ、前掲書、一三―一四頁。 ( 25) ヒューズ『ミケランジェロ』森田義之訳、岩波書店、二○○一年、六 六頁。 ( 26) 前掲書、六八頁。 ( 27) トルナイ、前掲書、カタログ、三四頁。 ( 28) 同前。 ( 29) 森田義之『メディチ家』講談社、一九九九年、二一四―二一五頁。 ( 30) 前掲書、二一八頁。 ( 31) トルナイ、前掲書、七四頁。 ( 32) トルナイ 『ミケランジェロ』 芸術と思想』 上平貢訳、 人文書院、 一九八二年、一九頁。 ( 33) 中原佑介『デルヴォー』 、集英社、一九八六/二○○四年、八四頁。

図 5 ヤーヌス,サン・ドゥニ修道院聖堂正面南側 入口右扉,1137 年ごろ

参照

関連したドキュメント

しい昨今ではある。オコゼの美味には 心ひかれるところであるが,その猛毒には要 注意である。仄聞 そくぶん

する愛情である。父に対しても九首目の一首だけ思いのたけを(詠っているものの、母に対しては三十一首中十三首を占めるほ

が有意味どころか真ですらあるとすれば,この命題が言及している当の事物も

ところで,このテクストには,「真理を作品のうちへもたらすこと(daslnsaWakPBrinWl

しかし私の理解と違うのは、寿岳章子が京都の「よろこび」を残さず読者に見せてくれる

最愛の隣人・中国と、相互理解を深める友愛のこころ

基準の電力は,原則として次のいずれかを基準として決定するも

基準の電力は,原則として次のいずれかを基準として各時間帯別