八 王子 千 人 同心 の祖 形
甲州 か ら八 王子 に移 住 した 同心 の 人 数 につ い て一 開 沼 正
1甲 州 時 代 の小 人頭
小 人 頭が 同心 を連れ て八王子 に移住 す る以前 につ いて は,あ ま り記録 が残 ってい な い。 よ く知 られ た資料 と して は,千 人頭 を勤 め た河 野家 に残 され た 「 河 野家 文 書1)」 の 「申伝 書 」(享 和1年)や 同 じ く千 人 頭2)で あ っ た窪 田家 の 由緒 書(宝 永1 年),あ るい は千 人 同心組 頭 を勤 め た塩 野適斎 に よって文政 期 に著 わ され た 『 桑 都
日記』 があ る。
「申伝 書 」 は,文 字 通 り千 人頭 の 由緒 を申 し伝 え る書 で あ る。 史料1と ほぼ 同 じ 表現 の記述 は 『 桑都 口記4)』 に もあ るので,そ の部分 につい て塩 野適 斎 は 「申伝 書」
を参 考 に して書 いたの であ ろ う。 内容 は武 田氏 時代 の感状 の写 しを始 め として安永 5(1776)年4月 に行 なわれ た家 治 の 日光社 参 に供 奉 した こ と まで の 由緒 を述べ て い る。 初 期 の もので は天文,弘 治,永 禄 な どの年 号 を もつ 感状 も多 く伝 わ って い る。
史料1に よる と,武 田氏 が 甲斐 を領 有 して いた 時代 に は,「 甲州 九 口」 といわ れ る甲斐 と隣 国 をつ な ぐ道路 の道筋 奉行 や軍監 な ど,領 内の巡視 や連 絡 な どを主 な任 務 と してい た こ とが 分か る。
「申伝 書 」 には 「甲州 九 口之 道 筋奉 行 」 とい う表 現 の ほか に,「 番 所 江 壱 人宛 相 越」 や 「同役壱 人宛相 添候 」 とい う表現 が あ る。 これ らの表現 は 「道筋奉 行」 とい う同 じ役 職 につい てい る9人 を ひ とつ の グルー プ として扱 って いた り,あ るい は一 つ の役 職 を9人 の ロー テー シ ョンに よって一 人ず つ勤務 を交代 してい る こ とを示 し
てい る。
つ ま り 「申伝 書」 の記述 に よれ ば 千人 頭 の祖 形 にあ た る9人 の武 士(以 下,入 王子移住の前 まで を 「 小人頭」 と呼ぶ)は,武 田氏 の時代 か らあ る程 度 の ま とま りを
もって いた と考 え られ る。 た だ し史料 の残存 状 況 を見 る と,9人 を一 つの グルー プ として,ま とま りのあ る形 で文書 が発 給 され る よ うに な るの は天正10年 以 降で あ る。
天 正10年 は武 田家が 滅亡 した年 なので,家 臣 団 に とっ て は重 要 な年 で あ る。 戦
争が あ り主家 が滅 ん だの だか ら,そ れ以前 の 史料 が残 りに くいの は確 かで あ る。 し
か し9人 をひ と まとま りとして扱 う,武 田家側 が発 行 した史料 が残 って いない とこ
ろ を見 る と,天 正10年 以 前 には グルー プ と しての ま とま りは,そ れほ ど強 い もの
八王子千人同心の祖形
正 開沼
史 料1「 申 伝 書3)」
申 伝 書
於 甲 州 武 田 家 目 付 役 相 勤 ︑ 出 陣
之 時 者 ︑ 鑓 之 者 致 支 配 諸 事 加 下
知 候 ︒ 甲 州 九 口 之 道 筋 奉 行 被 申
付 ︑ 仕 置 申 付 候 ︒ 常 之 詰 所 者 巻
藁 之 問 ・ 近 習 ニ ケ 所 ・ 大 手 三 ケ
所 門 ︑ 足 軽 大 将 相 勤 候 ︒ 番 所 江
壱 人 宛 相 越 非 常 を 相 改 申 候 ︒ 陣
中 之 儀 ︑ 当 番 ハ 組 を 召 連 ︑ 信 玄
馬 之 側 二 乗 ︑ 非 番 ハ 先 手 前 後 左
右 之 備 二 乗 ︑ 目 代 相 勤 候 ︒ 尤 分
国 中 城 々 陣 々 を 預 り 候 侍 大 将 之
方 江 も 軍 監 二 罷 越 候 ︒ 様 子 二 寄 ︑
諸 頭 諸 奉 行 之 代 臨 時 二 相 勤 候 事
有 之 二 付 ︑ 兼 而 采 幣 旋 旗 を も 被
免 候 ︒ 且 又 式 日 之 礼 ハ 守 殿 居 間
之 次 一 ノ 間 ト 申 二 而 陣 奉 行 諸 物
頭 道 筋 奉 行 使 番 小 十 人 頭 一 座 二
而 礼 致 来 候 ︒ 将 又 城 攻 捕 城 代 差
置 候 節 者 同 役 壱 人 宛 相 添 候 ︒ 境
目 之 城 々 江 者 折 々 壱 人 宛 罷 越
候 ︒ 撮 又 甲 州 之 儀 者 不 及 申 他 国
之 儀 迄 及 取 沙 汰 信 玄 江 直 段 二 申
達 候 ︒ (後 略 )
(句読 点 は筆 者 に よ る。 以 下 の 史 料 も同 じ)
で はなか ったの であ ろ う。
武 田氏 の家 臣団 には,「 武川衆 」 とか 「 津 金衆 」 な どの よ うに,「 何 々衆」 とい う グルー プが あ るが,千 人頭 の前 身 となる小 人頭9人 にはそ う した結 びつ きが なか っ た のであ る。
甲斐 国 は,天 正10年3月 に武 田氏 が織 田信 長 に よって滅 ぼ され る と信 長 の支 配 となった。 しか し本能寺 の変 で織 田信 長が倒 れた後 は,徳 川氏 と北条 氏 の争 奪戦 を 経 て家康 の領地 になった。
そ の際 に家康 に臣従 した武士 には本領 安堵 の朱 印状 が発 給 され た。「申伝 書」 に 記 載 され て い る もので は,折 紙 の 朱 印状 が6月17日 の 日付 を もつ 窪 田助 之丞(正 勝)へ の朱 印状5)を は じめ として,石 坂 勘兵 衛(森 通)に は8月9日,山 本 弥右 衛 門尉(忠 玄)に は8月11日 となって いる。
また 竪紙 の朱 印状 で は,原 半左 衛 門尉(胤 従)に は11月9日,窪 田助 之 丞(正 勝)・ 窪 田菅右 衛 門(忠 知)・ 荻 原甚 丞(昌 之)に は12月9日,山 本 弥右衛 門尉(忠 玄)に は12月10日,石 坂 勘兵衛(森 通)・ 窪 田菅右 衛 門尉(忠 知)・ 河野但 馬守(通 重)・ 志村 又左衛 門尉(貞 盈)に は12月12日 にそ れぞ れ発 給 され た こ とが記載 され てい る6)。
こ うした朱 印状 は短 い間 に一 斉 に発 給 され るので,小 人頭 た ちに発給 され た朱 印 状 の 日付 が近接 してい る こ と自体 は,彼 らが一つ の グルー プで あっ た ことの確 た る 証 拠 に はな らない。
「申伝 書」 は前 述 の ように千 人頭 の 由緒 書 とい う性 格 か ら,そ の他 の武 田 旧 臣に 与 え られ た朱印状 は記載 され てい ない。小 人頭 た ちに与 え られ た朱印状 だ け をピ ッ ク ア ッ プ して そ の発 給 日だ け を並 べ て み れ ば近 接 して い る よ うに 見 え る か も しれ な いが,武 田旧 臣に与 え られ た朱印状全 体 を見 た場 合,朱 印状 の 日付 だけで は彼 ら9 人 が ひ とま とま りで扱 われ てい た とい うこ とはで きない。 「申伝 書」 は,千 人頭 あ
るい は千 人 同心 とい う存在 が 既成 事実 とな って久 しい時代 に書 か れ た もので あ る。
したが って記述 もそ う した 時代背景 を反 映 してい る こ とに留意 すべ きであ る。
通信 教育 部 論 集 第9号(2006年8月)
史料2「 同心還補 朱 印状7)」
天 正 十 年
八 月 廿 日 成 瀬 吉 右 衛 門 尉 日 下 部 兵 右 衛 門
奉 之
河 野 但 馬 殿 同 心 四 拾 五 人 之 分 ︑ 如 前 々 令 還 補 詑 ︒
若 於 難 渋 之 輩 者 ︑ 披 露 之 上 可 加 下 知 ︒
兼 又 給 分 ・ 陣 扶 持 ・ 夫 丸 ・ 屋 敷 ・ 名
田 ・ 被 官 人 井 諸 役 免 許 等 事 ︑ 如 年 来 不
可 有 相 違 ︒ 以 此 旨 ︑ 可 励 奉 公 之 状 如 件 ︒
そ れ で は全 く結 び つ きが なか っ た か とい う と,そ うで もない。彼 らは本 領安堵 の朱 印状 の 他 に,「 同心 還補 」 の朱 印状(史 料2)を 受 けて い る。「申伝 書 」 に記 載 され て い る朱 印状 の受 取 人 は河野 ・荻原 ・山本 ・石坂 ・窪 田 ・中村 の 6氏 だが,朱 印状 の文面 は還補 す る同心 の数以 外 はほぼ 同一 で,発 給 され た 日付 も河 野但 馬へ の朱印状 が天 正10年8月30日 で あ るこ とを除 け ば,9月1日 で あ る。 書式 をそ ろ えて 同 じ 日 に発 給 され てい る。
徳 川氏 も,武 田氏 の 旧臣 を 自 らの家 臣 として 再構 成す る上 で元 の 「 衆」 や グルー プ を活用 す る だ ろ う。 朱 印状 を グル ー プ ご と に発 給 す れ ば,同 じグ ルー プは同一 の発 給 日 とな るのは 自 然で あ る。彼 らに発給 された同心還 補 の朱 印状 は,河 野但 馬へ の ものが1日 早 いだ けで,日 付 が 同一 の ものが多 い。 とい うこ とは武 田氏時代 にす で にひ とまとま りの グルー プが存 在 した とみ る こ とが で きる。
「 桑都 日記』 には同心 の還 補 の こ とを 「 鷹 下 の士 に命 じ又十 衆 二百 五 十人 を挙 げ 長柄組 と命 ず8)」 とあ るので,9人 は同心250人 を配下 に もつ長柄 組 の頭 として組 織 されて いた こ とが わか る。 さ らに天正11年4月18日 の朱印状 には宛所 が 「 九 人 中」 となってお り,完 全 に一 つの グル ープ として扱 われ てい る。 こ う して千 人頭 お
よび千 人 同心 の祖 形が で きあが った。
2.小 人 頭 に付 属 した同心 の 甲州 時代
ここで組織 された250人 の 同心 は,後 の千人 同心 の祖 形 とされるが,彼 らにつ い ては小 人頭 たち よ りも分 か らない こ とが多 い。 それ は千 人 同心が小 人頭 よ りもさ ら に低 い階層 なの で,記 録 が ほ とん ど残 ってい ない か らで あ る。 『 桑都 日記』 に よれ ば,小 人 頭 ・荻 原 昌之 に属 す る者31名 をは じめ と して,9人 の小 人頭 に合 計248 人 の 同心 が付属 してい る9)。彼 らはい ったい どの よ うな階層 だ ったの だろ う。
武 田氏 の家 臣団 は 「 寄親 一寄子 」制 を とる場 合 が多 い とされ る。 百姓 を末端 の家 臣 と して 軍 団に取 り込 む体 制 だが,要 す るに兵 農が 未分 離 の段 階で の軍 制 であ る。
荻原 昌之 の同心31名 の うち,姓 名 の分 か らない者 が29人 い る。9人 の小 人頭全 体 では174名 の姓名 が判 明 しない10)。
こ れ は単 に古 い 時 代 の 低 い 身 分 の こ とだ か ら記 録 が 残 っ て い な い とい う こ とだ け で は な く,記 録 に残 す だ けの動 機 に乏 しか った とい う要素 も考慮 され るべ きで あ る。 その理 由 として,戦 に徴発 され る者 の顔 ぶれが 軍団編 成 のた びに変 わる とい う こ とであ る。た とえば史料3を 見 てみ よう。
史料3は 甲斐 国 巨摩 郡有 野郷 か ら徴 発 した(被 官や同心 としての)軍 事 動員 あ るい
開沼 正 入 王子千 人同心 の祖形
史料3「 甲斐 国巨摩郡 有野郷棟 別銭 徴収11)」
右 ︑ 如 此 奉 行 衆 従 廻 触 ︑ 廿 日 之 内 ︑ 速 二
可 其 償 ︑ 過 廿 日 令 無 沙 汰 者 ︑ 以 利 倍 之 勘
定 ︑ 可 収 納 者 也 ︑
弘 治 四 年 戊 午
三 月 二 日 残 而 可 納 分
合 五 貫 八 百 文
調 衆 矢 崎 右 衛 門 尉
有 野 文 右 衛 門
家
免 許
典 厩 御 被 官
壱 戸 有 野 民 部 丞
荻 原 豊 前 守 同 心
壱 縫 右 衛 門
同 衆
壱 従 戊 午 三 月 新 左 衛 門
御 方 様 御 小 者
壱 同 助 八 有 野 郷
は(小 者 としての)労 働 奉 仕 に対 して,免 除 され る棟 別役 を書 き上 げた 上 で残 りの 5貫800文 を速 やか に支 払 うよ うに求 めた ものであ る。 これ に よる と有 野郷 か らは 小 人頭 の荻 原豊前 守12)の 同心 として縫右 衛 門 と新左 衛 門の2人 が徴発 されて いる。
新 左 衛 門 と助 八 は戊 午3月,つ ま り史料 の作 成 され た年 号 で あ る弘 治4(1558) 年3月13)か ら新 規 に免 許 を受 けて い る。有 野郷 が 負担 す る人数 は,そ う簡 単 に変 わ る もの では ないだ ろ うか ら,弘 治4年2月 まで は別の2人 が免 許 を受 けてい た こ
とに なる。
この よ うな動 員 メ ンバ ーの入れ替 えは しば しば行 な われて いた と思 わ れるが,兵 農未 分離 の状態 で戦 時の動 員体制 を定 めて お こう とすれ ば,こ れ は致 し方 ない こと で あ ろ う。 結果 と して姓名 を記載 す るの は固定 された メ ンバ ーだ けに と どめて,あ
とは定員 だ けを何 名 と記 してお いた こ とが考 え られ る。
史料3か らも分か る よ うに,荻 原豊前 守 の ような小 人頭 に附属 す る 同心 には苗 字 の ない者 も多か った。村 上直 は武 田晴信 の弟 であ る信 繁(典 厩)な どの有 力家 臣 に は姓 を有 す る名 主層(有 野民部丞)を 被 官 と した の に対 して,荻 原 豊前 守 な ど小 人 頭 ク ラス に は姓 を もた ない 名 主 層(縫 右衛 門,新 左衛 門)を 同 心 と した と して い
る14)。
しか し史料3に おい て,縫 右衛 門や新 左衛 門あ るい は助八 を名主 階層 とい うこ と がで きるの だろ うか。名 主 とは 「 荘 園公領 制下 の在 地村 落で 中核 的 な地位 を占め た 百姓 の こ と」 で あ り,「賦 課 され る年 貢 公事 の徴 納責 任 者」 と され る15)。有 野郷 に お ける徴 納責任 者 は史料3を 見 る限 り 「 調 衆」 であ る矢崎右衛 門尉 や有 野文右衛 門 で あ る 。
山本 英 二 は,調 衆 に つ い て 「武 田家 が 郷村 単 位 に賦 課 した棟 別銭 の 納 入 責 任
者16)」と述 べ てい るので,調 衆 クラス な ら名主 とい えそ うな階層 であ る。徳川 家康
の 関東移 封 の際 に は,彼 らの子孫 はそ の まま甲斐 国 に土着 した者 が多 か った。つ ま
り調衆 ク ラスの者 は,兵 農分 離が萌 芽 的な段 階だ った に しろ,農 民的 な性 格 を濃厚
通信 教 育 部 論 集 第9号(2006年8月)
に もって いたの であ る17)。
山本 によれば調衆 の他 に武 田氏 に侍 奉公 した軍役衆 もいた との こ とで ある。 しか し現 在 に残 る武 田氏 発給 の棟 別 改 日記 で軍役 衆 を由緒 の根拠 とす る史料 は,ほ とん どが偽 文書 だ とい う18)。つ ま り武 田の軍役衆 は甲斐 国に残 って いない ので あ る。 こ れは調衆 が農 民的 な性 格 ゆえに 甲斐 国 に留 まったの に対 して,軍 役 衆 の多 くは家康 に付 き従 い 関東 に移 動 した と考 えれば説 明がつ く。兵 と農 の大雑把 な ライ ンは,甲 斐 国の場 合,ど うや ら軍役 衆 と調 衆 の 間に引 けそ うであ る。
縫右 衛 門 らの階層 は,調 衆の矢 崎右衛 門尉 よ りもさ らに低 い と見 られ る。 したが って 甲斐 国時代 の小 人頭 に属 してい た同心 は,そ の多 くが苗 字 を もた ない一・ 般 の百 姓 階層 出身 であ り,動 員 され る顔 ぶ れ も一 定 しなか った。 その こ と もあ って姓名 不 祥 とされた ので はない だろ うか。
3.八 王 子 へ の 移 住
徳 川家康 は,天 正18(1590)年8月1日,い わ ゆ る八 朔 に関東入 りした といわれ る。9人 の小 人 頭 と248人 の 同心 は,と りあ えず神 護 寺(慈 根寺)と 呼 ばれ てい た 旧八 王子城 下 に落 ち着 い た。 これ が通説 となって い る。
同心248人 とい うの は 『 桑都 日記』 の記述 に よって い る。 この数 字 は,「 史料2」
の よ うな同心 還補 の朱 印状 に記 され た人 数 を小 人 頭9人 分 だ け足 した もの であ る が,本 当 に248人 連 れ て きたか ど うか は疑 問 で あ る。 なぜ な らば 『 桑 都 日記』(お
よび 「 桑都 日記』の記述を引用 した記事)以 外 は,具 体 的 な同心 数 に言及 した 史料が な い か らで あ る。 ま た 『 桑都 日記 』 の 記 述 で も,「248人 説 」 の他 に 「250人 説 」,
「171人 説 」 を併記 してい る。塩 野 自身が 「 未 だ敦 れが 是 な る を知 らず19)」と述べ てい る よ うに,塩 野が 「248人 説」 に確証 を もっ ていた わけ では ないので あ る。
本稿本 文末 の参考 資料 「 小 人頭 に付 属す る苗字 の判 明す る 同心(1)」で,河 野通重 に付 属 す る とされ る同心 の顔ぶ れ をみ る と,天 正10年 と19年 の両 方 で西 山内膳 と 乙津 金兵衛 の名 前 が記載 され てい る。 召 し抱 えの時期 や人数 な どがあ ま り正確 には 把握 され ていなか った例 であ る20)。
苗字 が わか って い る同心 につ いて も,彼 が附属 してい た小 人頭 につ いて はあい ま いな点 が残 る。 た とえば 向 山市 兵衛 とい う同心 は,天 正10年 に河 野通 重 に したが って八 王 子 に移 住 した とされ る。 い わ ゆ る天正 以 来 の 由緒 あ る河 野組 の 同心 であ る。 た しか に嘉永7年 の 「番組合 之縮 図」 とい う史料 にで て くる向山佐 之吉 も慶 応 4年 の武 州八王子 千 人隊 に名 を連 ね る向 山市 之丞 も河野組 であ る。 ところが 向山氏 が河 野組 の所 属 にな った の は享 保年 問で あ る。 そ れ以前 は中村 組 に属 して いた が, 何 らか の事 情 で組 頭 役 を取 り放 た れ 平 同 心 と な り,中 村 組 か ら河 野 組 に組 替 え と な ったので あ る21)。
塩 野 適 斎 が 『 桑 都 日記』 を編纂 す る際 には,天 正 以 来 の 旧家 は おそ ら く塩 野 の
「 取 材 」 を受 けて い るはず で あ る。 そ の と きに各 家 の 関係 者 は どの ような対応 を し
た のだ ろ うか。 もちろ ん種 々の対 応 が考 え られ る。正 直 に史実 を話 して くれ る家
開沼 正 八 王子千人 同心 の祖形
取材 拒 否の家 そ して事 実 を歪 曲 して伝 え る家等 々。 どの家 も家名 を傷 つ ける よ う な事 実 は外 に は出 さないだ ろ う。大事 なの は塩 野適斎 が事実 の歪 曲を見抜 けたか ど うか であ る。 向 山氏 を河 野氏 の所 属 と してい る ところ を見 る と,塩 野が 旧家 の言 い 分 を鵜呑 み に してい る可 能性 を否定 で きな い。
さ らに 『 桑 都 日記 』 で は慶 長5年 に召抱 えた組 頭 と してい る丸 山小 右 衛 門22)に つ い て,そ の召 し抱 えの 時 期 に も疑 問 が あ る。「丸 山家 系 譜23)」(丸山雄重家文書) で は小 右 衛 門の 没 年 が延 宝4(1676)年 で あ る旨 が記 載 され て い る(享 年 は不 明)。
逆 算 す る と,慶 長5年 当時 で は小右衛 門が生 まれ てい た と して も,子 供 で あ る可 能 性 が 高い。
『 新 編 武 蔵 風 土 記稿 』 の 記 述(5巻328ペ ージ)に よる と,小 右 衛 門 は寛 永16 (1639>年 に弥 一右 衛 門家 か ら分 家 した とあ る。 小右 衛 門が文 禄 ・慶 長期 の生 まれ だ とすれ ば,こ の分家 は十分 可能 であ る。 しか し慶 長5年 の召 し抱 え とい う 『 桑都 日記 』 の記述 につ いて は,年 齢 的 にか な り無 理が あ る。 『 新編 武 蔵風 土記稿 』 の 編 纂 に も携 わっ た塩 野 適斎 が,『 桑 都 日記』 を編集 す る際 に,こ の よ うな翻 齢 をなぜ 見逃 した ので あろ うか 。 同心 召 し抱 えの時期 に関す る記述 をは じめ と して 『 桑都 日 記』 の記述 につ いて は再 検討 が必要 で あ る。
塩 野適 斎 は 『 桑 都 日記 』 を執 筆 す る にあ た っ て様 々 な史料 を参 考 に してい る。
『 桑都 日記 』 には 「 凡例24)」の 中で,「 桑都 日記 引用 書 」 と して45冊 の書 籍が 紹介 されて いる。朱 印状 の よ うな史料 につ いて は引用書 の一 覧 には含 まれて いない。 し か し本文 が漢文体 で書 かれ てい るの に対 して,史 料 につ いて は書 式等 を忠 実 に写 し て紹 介 してい る こ とか ら,原 本 あ るいはそ の写 しを見 てい る こ とが分 か る。 同心 還 補 の朱印状 に して も,適 斎 が 目を通 してい る こ とは間違 い ない。
しか し朱 印状 に記 され てい る こ とは,天 正10年 の時 点 で還補 を許 され た同心 数 で あ る。八 王子 に移 住 す る8年 も前 の数 字 で あ る。 天正10年 の時 点 な ら,小 人 頭 たち は武 田氏 時代 と同様 の 「 小 人頭一同心 」の 関係 をなん とか維 持 で きた こ と も考 え られ る。史料2を 見 れ ば,同 心 を続 け られな い 「 難渋 之輩」 が 出 るこ とも予想 さ れ た こ とが分 か るが,と にか く数 の上,つ ま り朱 印状 の文言 で は従 来通 りの動 員数
を保 った。 これが小 人頭 全体 で248人 の 同心 で ある。
ところが天正10年 か ら18年 の間,小 人頭 が一・ 貫 して248人 体 制 を維持 し得 たか どうか不 明で あ る。そ れ は小 人頭 の動 員力 に も変 化 が見 られ るか らで あ る。 「申伝 書 」 には天正10年8月 と12月 に小 人頭9人 に発給 され た本領 安堵 の朱 印状 と天正
17年11月 に同 じく小 人頭9人 に出 され た 「 知行 書立」 が紹介 されてい る25>。
ここで は小 人頭 の知 行 は,貫 高制 か ら俵 高 に よる表示 とな ってい る。 これ は天正 17年 か ら18年 にか けて家 康 の支 配 地 域 に出 され た 「 徳 川家 七箇 条 の制 法」 の 中 で,年 貢 納 入 の 際 に年 貢 額 の 単 位 を 「俵 」 とす る こ とが 定 め られ た こ とに よ る の で あろ う。 この制法 の発 令 と同時 に,家 康 は領 国の検 地 も してい る(五 力国総検地)。
貫 高か ら俵 高へ 表示 を変 更す るに際 して は,1貫 につ き何俵 とい う一定 の換算 率
が 見 られ ない。 た とえば窪 田正勝 は貫 高 では156貫500文(9人 の中では最高の貫高)
だ ったの が,俵 高 で は1766俵1斗7升2合 とな って い る。 窪 田の換 算 率 は1貫 が
通信 教 育 部論 集 第9号(2006年8月)
表1小 人頭の貫 高 か ら俵高 へ の変遷 と換算率
小人頭 貫 高
(天正10年)
貫高 順位
俵 高 (天正17年)
俵高 順位
貫高→俵高 換算率
換算率 の順位
窪田正勝 156,500 1 1766.1720 1 11,285 7
荻原昌之 121,500 2 1672.1232 2 13,762 4
原 胤従 ':i11 3 1072.1152 5 10,939 9
中村安直 :'11 4 990.1600 7 11,063 8
河野通重 82,300 5 1074.0480 4 13,050 5
志村貞盈 79,000 6 1024.0400 6 12,962 6
窪田忠廉 77,770 7 1265.1736 3 16,268 2
石坂森通 55,500 8 894.0000 8 16,108 3
山本忠玄 45,600 9 749.0560 9 16,426 1
※小 人 頭 名 は 天正10年 現 在 の もの 。 天 正17年 に は代 替 わ りを して い る家 もあ る。
11俵2斗8升5合 余 りで あ る。 これ に対 して 山本 忠 房 は45貫600文(同 最低) だ った のが,749俵5升6合(同 最低)と なっ てい るの で,換 算 率 は1貫 が16俵
4斗2升6合 余 りであ る。そ して9人 の小 人頭 の 間の換 算率 もまち まちで ある26)。
窪 田正勝 は貫 高で も俵 高で も,9人 の中 で は最 高 の数値 で あ る。 そ して 山本 忠房 は貫高 で も俵 高 で も最 低 であ る。9人 の順 位 は換算 の前 後 で多少 は変 わ って はい る が,勲 功 に よる加増 や失 策 に よる減封 とい う要素 が加 味 された とは思 われ ない。上 位2人 と下位2人 の順 位 が 同 じで 中間層 の入 れ替 えが あ るだけで あ る。
小 人 頭 が 甲州各 地 に もって い た知行 地 も,天 正17年 の知 行書 立 に よって根 こそ ぎ変更 され てい る27)。天 正10年 の 朱印状 で は,小 人頭 は武 田氏 以 来 の本領 を安 堵 されて いた と思 われ る。 しか しこれ ら朱印状 と天 正17年 の知行 書立 とを比べ る と, 従 来 と同 じ知行 地 を拝 領 した の は山本 氏28)だ けで あ る。
そ れ も全 所領45貫600文 の 内,甲 州甘 利 上 条で の所領 が継続 して与 え られた に 過 ぎない。天正10年 の朱印状 で は15貫 文 だ った甘 利上 条 での所領 は,知 行書 立で は 「 甘利 上条東 ノ割 之 内」で100俵 とい うこ とに なってい る。
天 正10年 の朱 印 状 に は,9人 全 体 の所 領 につ いて 多 くの郷 名 が 見 られ る の で, 小 人頭 の所 領 が 甲州 各 地 に分散 してい た こ とが 分 か る。 しか し天正17年 の知行 書 立 で は,知 行地 の地名 数 がか な り減 ってい る。 しか も複 数 の小 人頭 が 同 じ郷 を分 割 し合 うかた ちで所 領が 与 え られて い る(具 体的には,和 戸,長 塚 長松寺)。 これ に よ って小 人頭9人 の所領 は,全 体 と して近接 地域 に ま とめ られ た。
とい うこ とは徳 川氏 の方針 として小 人頭 問の格差 を小 さ くした とい う ことであ ろ う。 従 来 の 貫 高 に よ る 順 位 を あ る 程 度 尊 重 し なが ら も,俵 高 で は下 位 者 に 手 厚 い換 算率 を適用 してい る。 これは9人 をひ とつ の グループ として まとめ るた め に,小 人 頭 の均 一性 を高 め る ことが 目的 であ る。 この結 果 と して,小 人頭 一 人 ひ と りの動 員 力 は大 き く変化 した はず であ る。全 体 で248人 の まま とは考 え に くい。
さ らに家康 は関東へ転 封 され る こ とに なった。 関東 へ の移住 となる と,甲 斐 にい
開沼 正 八王子千人同心 の祖形
る と きとは話 は別で あ る。 身分統 制令 こそ発令 されて はい ないが,兵 農分 離の流 れ の中 で,百 姓 を転封先 に連 れ てい くこ とは禁止 され る方 向 にあ った。多 くの百姓 が 甲斐 国 に留 ま らざ るを得 なか っただ ろ う。 つ ま り天正10年 の朱 印状 は,こ の 時点 で反故 に なった と考 えなけれ ばな らない。
そ れで は何 人 くらい の同心 が小 人頭 につ い て きた のだ ろ うか。 どこ まで を家 臣 と して連 れ てい くのか。 この基準 は大 名家 に よって異 な るか ら一概 にはい えない。 こ の点 が後 に全 国で 「 郷士 」 を生む原 因の ひ とつ と もな る。
前節 で述 べ た よ うに,248人 の うち174人 は姓 名が 分 か らない 「 縫 右衛 門」 の よ うな一般 の百姓 であ る。彼 らが 甲斐 国 に留 まった とすれ ば,関 東 に移住 で きた 同心 は,苗 字 の判 明 す る70名 程 度 だ ったの で はな いか。 もち ろん身 一つ で気 軽 に移動 で きる傭兵 の ような同心 もいた だろ う。 しか し史料3に 見 られ るよ うに年 限 を決 め て 同心 を動 員 してい た とす れ ば,同 心 と して動 員 され てい ない期 間は何 か生 業 を も ってい なけれ ば な らない。 つ ま り彼 らの大部分 は在 地 に生活基 盤 を もってお り,簡 単 には移 住 で きない。 した が って傭 兵 的 な同心 を 「移 住組 」 の 数 に加 えた と して
も,合 計 の移住 者 はせ いぜ い100名 程 度で あ ろ う。
その根 拠 とな るのが 史 料4で あ る。 そ こに は 「召 連候 同心 共 之筋 目之 者30)」は 70人 程 だった とはっ き り書 かれ てい る。 しか も天正19年 と慶 長5年 に召 し抱 えた 同心 には組屋 敷が ない として い るの だか ら,組 屋 敷 に住 む のが 甲斐 国か ら連 れて き た 同心 であ る こ とは明 白で あ る。従 来 この史料 は,甲 斐国 か らの移 住者248人 とい
う 『 桑都 日記』 の数 字 を大前 提 と して 「(たまたま)組 屋敷 を与 え られ た同心 が70 人程 いた(し かし,そ うでない同心も170人 程いた)」 と解釈 され て きた。
しか し考 えて も見 よ う。移住 先 で住 む家 す ら保 証 され てい ない者が,わ ざわ ざ甲 州 か ら八 王子 まで付 いて くるだろ うか。 い くら千 人頭 の 由緒 書 な どに 「 其 辺(城 近 辺)二 罷在候 様,被 仰付31)」た と記 述 してあ るか らといって,本 当 に八 王子城 近 く の 「その辺 の土 地」 に銘 々勝 手 に住 まわせ た とは思 われ ない。記 録が残 ってい ない た め,こ の よ うな記述 になっ ただけで あ る。徳 川氏 の立場 か ら考 えて も,動 員 して きた同心 た ちの ご く一 部 に しか屋敷 地 を確 保 しない とい うの は無責任 す ぎるで あ ろ う。
た とえてみ れば,関 東転封 当初 の徳 川氏 は 占領 軍で ある。見 知 らぬ地 であ るだ け でな く,い わば敵地 に乗 り込 む とい う状 況 で,兵 に 自ら住 む場 所 を さが させ るの は 無 理 であ る。移 住 した 同心 全員 の屋 敷 地 を確 保 した はず で あ る。
千人頭 の先祖 書 に は,八 王子 に連 れて きた 同心 の 「当分人 数書立 」 を提 出 した 旨 の記述 もあ るが,こ れ は配下 にい る同心数 が 甲州 時代 とは大 き く異 なってい るか ら であ ろ う。提 出 に際 しては,単 に同心 数 だ け書 くよ りは,彼 らの氏 名 まで記述 した ほ うが 親 切 で あ り敬 意 が こ も っ て い る 。 そ して こ こ に氏 名 を記 載 され た 同心 こ そ, 後 に苗字 が判 明 して い る74人 の同心 と考 え る。彼 らこそ千 人 同心 の オ リジナ ル ・
メ ンバ ー であ り,江 戸 時代 を通 じて武 田旧 臣のア イデ ンテ ィテ ィー と天正以 来 の旧 家 の家 筋 とい うプ ライ ドを強 くもち続 けた集 団で あ る。 身分 的 に は同心 ・組頭 な ど
として1000人 を一緒 くた に見 が ちだが,意 識 として はむ しろ千人頭 に近 い。
通 信 教 育 部 論 集 第9号(2006年8月)
史 料4「 千 人 同心住 居 之儀 御 答書 付29)」
(前 略 ) 千 人 同 心 之 儀 ︑ 甲 州 二 而 被 召 出 ︑ 私
共 先 祖 天 正 十 八 寅 年 八 月 (台 頭 ) 権 現 様 (欠
字 ) 御 入 国 之 劒 ︑ 八 王 子 江 罷 越 候 様 被 (欠 字 )
仰 付 候 節 ︑ 召 連 候 同 心 共 之 筋 目 之 者 者 ︑ 組 屋
敷 住 居 罷 在 候 訳 二 而 ︑当 時 七 拾 人 程 も 御 座 候 ︒
ゑ
其 後 天 正 十 九 卯 年 井 慶 安 五 子 年 被 召 抱 候 同
て
心 ︑ 拝 領 組 屋 敷 無 御 座 有 来 ︑ 組 屋 敷 地 狭 二 付
住 居 可 仕 場 所 も 無 御 座 候 間 ︑ 在 々 打 散 地 方 住
居 罷 在 候 ︒ (後 略 )
こ うした こ とか ら,移 住 組 は100人 前 後(よ り 具体的に言えば苗字の判明する74人)と 考 え るのが
自然 であ る。 千 人町の組屋 敷 に住 んで い る同心 数 が近 世 を通 じて70人 か ら100人 程 度 だ っ た とい
う事 実 も,こ れ を裏付 けて い る。
た しか に小 人頭 た ちは 甲斐 国 にいた とき と同様 の同心規模 や格 式 を維持 す るため に,反 故 になっ た朱 印状 に記 載 されて いるの と同人数 の 同心 を配 下 に置 くこ とを望 み,八 王子 移 住 後 の早 い時 期 に,「248人 体 制 」 を再構 築 しよ う と した可 能 性 もない こ とは ない。 仮 にそ うで あ った と して も, そ れ は八 王 子 で の現 地採 用 に よる 「248人 体 制 」 で あ る。 甲斐 か ら移 住 した 同心 は70人 か らせ い ぜ い100人 程 度 であ る とい う主張 と矛盾 す る もの
で はない。
千 人頭 の由緒書 ・先祖 書 の類 を見 て も,管 見 の 限 り引 き連 れ て きた 同心 の数 を具体 的 に記 した史料 は見 当た らない。 む しろ史料4 の よ うに,248人 を否定 す る記述 が あ るほ どで あ る。 そ れで は なぜ塩 野 適斎 は同心
248人 が移住 して きた と記述 したのだ ろ うか。
『 桑都 日記』 の記述 が天正10年 か ら始 まってい る ことか らして,千 人頭 ・千人 同 心 とい う組織 に とってエ ポ ック となっ たの は,徳 川氏 の支 配 下 に入 った 天正10年 であ る と適斎 は考 えて いた に違 い ない。主 君 は武 田氏 か ら徳 川氏 に変 わ り,軍 団 も 再 編成 され た。天 正10年 の前 と後 では大 きな断絶 が あ る とい うのが適 斎 の考 え だ った32)Q
それ に対 して家康 の 関東 転封 につ いて は,単 に居住地 が移 っただ けだ と軽 く考 え ていた節 が ある。 た とえば 『 桑都 日記 続編』 には 「関東 の辟 命 に応 ず る者,隊 長九 人,士 卒 二 百 五 十 人,甲 陽 に在 住 す る こ と九年 に して後,武 州八 王 子 郷 に移 る」
(77ペ ージ)と あ るが,同 心 約250人 の移 住 につ い て は何 の考 証 も加 えて い な い。
主君 は徳 川氏 の ま まで あ るか ら,天 正10年 以 来の体 制 をその まま維 持 してい る と 考 えた わけで あ る。
変 更 された こ と とい え ば小 人 頭 が1人 増 え て10人 となった こ とだが,そ れ は グ ル ープ としての結 束が 強 め られ た こ とであ り,組 織 と して はむ しろ強化 され た と解 釈 され た。 したが って組 織 と しての連続 性 に疑 い を持 た なか ったの であ ろ う。248
人 とい う数 字 もあ ま り検 証せ ず に用 い たので あ ろ う。
しか し豊 臣 秀 吉 の 時 代 は,武 士 を 取 り巻 く環 境 が 大 き く変 化 して い る。 大 名 は 本 領 か ら切 り離 され て領地 を移 され る よ うに な り,武 士 で あ る家 臣 も主 君の移 動 に付 き従 って移動 した。 江戸 時代 に なる と一般 的 にみ られ る転封 であ る。小 人頭 お よび 同心 に とっての大 きな断絶 は,む しろ天正18年 と見 るべ きであ る。
塩 野適斎 は,天 正10年 の時点 にお け る小 人頭 の同心 を武士 と見 てい た。 「武士 で
開沼 正 八王子千人同心 の祖形
あ る」 とい う思 い込 み か,「 武士 で な けれ ば な らない」 とい う確 信犯 か は定 か で は ない。いず れ に して も 「 武士 で あれ ば主君 につい て移住 して くるはず だ」 との前提 の もとで248人 とい う数字 を導 き出 してい る。
つ ま り適斎 は16世 紀 末 の社 会変 化 を考慮 しなか った。す で に見 た ように,小 人 頭 に付 属 す る同心 の大 部分 は苗字 を名乗 れ ない階層 で ある。農 業 に生活基盤 をおい てい た同心 は少 な くない。 兵 と農 とが 分 け られ た場 合 には,彼 らは農か ら離 れ るこ とはで きな い とい うこ とを見落 と してい たので あ る。
明治維新 後 に徳川 宗家 が静 岡 に転封 された際 付 き従 った千 人 同心 は ご く僅 か で あ った33)。千人 同心 の大部分 が農業 をは じめ とす る生業 を もって お り,八 王子 を中 心 に した近接 地域 に生活基 盤 をお いてい た。彼 らはそれ を捨 て て静 岡へ は移住 で き なか ったの であ る。 そ うした生活環境 は,幕 末 に なって突然 現 れた もので は もちろ ん な く,16世 紀 の終 わ りには既 に見 られ た もの であ る。
つ ま り適斎 が 生 きた時代 の千 人 同心 の生活 環境 は,天 正18年 の248人 の 同心 の それ と酷 似 して いた。 それ に もか かわ らず,当 時の 「 兵農 一致」状 態 の 同心 を考慮 せず に248人 全員 が八工 子 に移住 した と 『 桑都 日記』 に記述 して しまった。 適斎 と
しては 自 らの生活経 験 を歴 史の記述 に活 かせ なか った こ とになる。
参考 資料 小 人頭 に付属 する同心 の うち苗字 の判明 す る者(1)
甲州 か らの移 住 者(天 正10年) 第1次 増 員分(天 正19年)
小 人 頭 計
同 心 名 人数 同 心 名 人数
荻原昌之
神宮寺勘右衛 門◎
大森助左衛門 小俣右金吾
3
(31) な し
0 (47)
30 (50) 森田勘兵衛◎
太田九兵衛◎
宮崎小右衛 門◎
秋山彦兵衛◎
矢部七郎右衛門◎
平野彦左衛門 小川杢左衛門 石坂森通 浜中郷左衛門
天野仁兵衛
16
(22) な し
0 (34)
1615 (50) 近藤曾右衛門
吉野平右衛門 久保与五兵衛 馬場角右衛門 後藤惣七 小峰大膳 渡辺作左衛門 高城新四郎◎
江添主馬之丞◎
原嘉内
井出惣右衛門
通 信 教 育 部 論 集 第9号(2006年8月)
窪田正勝
山崎甚右衛 門 秋間定助 武藤善右衛門 峰尾次右衛門 松本六右衛門
9 (35}
日野沢茂兵衛 八木岡新右衛門 峰尾助左衛門
3 (41)
12is (50)
河野通重
前嶋権兵衛◎
風祭伊兵衛◎
辻九左衛門◎
向山市兵衛 竹田仁右衛門 三沢八郎右衛門 乙津金兵衛 西山内膳 井上次郎左衛門
9 (35)
西 山 内膳 乙 津 金 兵 衛
※2人 と も 天 正10 年 と重 な る。
2 (41)
11⑨ (50)
窪田忠廉
越石七兵衛◎
坂本佐左衛門 飯田市之丞 増田作内
4 (20)
田辺利兵衛 飯嶋八兵衛田 北嶋仁左衛 門
3 (46)
712 (50)
中村安直 森田新右衛 門◎
神宮寺惣右衛 門◎
2 (20)
虎見主馬之助 大谷四郎右衛門 名倉七郎左衛門 石川久内 兼井兵右衛門 秋山助兵衛門 八木岡弾正
7 (48)
gto (50)
原胤歳
塩野久兵衛◎
川村七郎兵衛◎
菱山織部 田中市之助 福嶋宗三郎 天野三之丞 馬場庄左衛門 秋山五郎左衛門 石田助兵衛
9
(35} 西村与次右衛門 1 (41)
10 (50)
志村貞盈
三木彦右衛門◎
風祭市兵衛◎
粟沢伊右衛門◎
山崎次兵衛 窪田新兵衛 後藤徳右衛門 藤本七左衛門 平井作右衛 門
8
(20) な し
0 (42}
$15 (50}
河西茂 兵衛 ◎ 植田三郎右衛門◎
山本与兵衛◎
保坂孫右衛門◎
青木久兵衛
長田弥次兵衛
開沼 正 八王子千人同心 の祖 形
山本忠房 後藤市郎左衛門 石川源右衛門
14
(20) な し
0 (36)
14⑪ (50)
笹野六右衛門 小林忠右衛門 清水安右衛門 後藤徳兵衛 岩下十右衛門 山口勘右衛門
伊藤七郎兵衛
窪田次持
一 一大石利右衛門
木住野三郎左衛門
4 (50)
4●
(50)
滝本久左衛門
計 74
(248)
20 (426)
94 (500)
※ 『 桑 都 日 記 』22〜24,71〜72ペ ー ジ を 参 照 し て 作 成 。
※ 天 正10年 の 河 野 通 重 組 の 組 頭 に は,石 坂 右 近 之 丞 と 広 瀬 太 郎 左 衛 門 の2人 を 加 え,組 頭5 人 とす る 説 も あ る 。
※ 同 心 名 の あ と の ◎ は 天 正11年 現 在 の 組 頭(計23名)。
※ 人 数 欄 の()内 の 数 字 は 同 心 の 総 数 。 天 正10年 の 場 合 に は 甲 州 に 残 っ た 同 心 も 含 む 。
※ 丸 数 字 は 寛 文7(1667)年 に 拝 領 地 に 居 住 す る 各 組 の 同 心 数(『 桑 都 日記 』322〜325ペ ー
ジ)。 合 計 で101名 い る 。
通 信 教 育 部 論 集 第9号(2006年8月)
小人頭 に付属 する同心 の うち苗字 の判 明す る者(2)
小 人 頭
第2次 増 員 分(慶 長5年) 千人同心の成立
苗 字 の判 明 す る 同心 人数 増 員 した 同 心 数
苗字の判明す る同心数の組 合計
組人数
荻原昌之 村木四郎右衛門 平山平兵衛
佐久間佐右衛門 3 50 6 100
石坂森通 丸山小右衛門◎ 馬場長左衛門
木村七左衛門 森作兵衛 4 50 20 100
窪田正勝 志村伝右衛門 飯田岡右衛門
根来久兵衛 串田嘉左衛門 4 50 16 100
河野通玄 な し 0 50 11 100
窪田忠廉
師岡九右衛門◎ 松井七兵衛 小林郷左衛門◎ 小岩井右京
朝倉九左衛門 永野藤兵衛
坂本内膳
7 50 14 100
中村安利
斉藤佐兵衛 石川与五兵衛
原川長兵衛 菊谷三右衛門
小川佐右衛門 松本長左衛門
田所四郎兵衛 私市兵内
五十嵐郷左衛門
9 50 18 goo
原 胤虎
松本玄蕃◎ 原清兵衛◎
安田三右衛門 佐藤勘助
山田内蔵之助 市川善左衛門 原島太郎右衛門
7 50 17 100
志村 貞盈 松本佐左衛門 粟沢十左衛 門 2 50 10 100
山本忠房 山本与左衛門◎ 米山次右衛門 2 50 16 100
窪田次持
峰尾庄左衛門◎ 片山新右衛 門 大嵩次郎右衛門 斉藤九左衛門
宮崎庄左衛門 設楽次兵衛
松永内膳 松沢勘兵衛
細谷七郎左衛門 中沢次右衛 門 菊谷八兵衛
11 50 15 100
合計 49 500 143 1000
※ 『 桑 都 日記 』91〜92ペ ー ジ を参 照 して作 成 。
※ 同 心 名 の あ との ◎ は慶 長5年 現 在 の組 頭(計7名)。
開沼 正 八 王子 千人 同心 の祖形
注
1)『 八 王 子 千 人 同 心 関係 文 書 目録 第2集 』(八 王子市 教育委 員会,1989年)77ペ ー ジ。
2)時 代 に よ り多 少 の 顔 ぶ れ の 変 動 は あ る がrた と え ば 「申 伝 書 」 が 書 か れ た 享 和1年 の 時 点 で は,荻 原(上),荻 原(下),窪 田(上),窪 田(下),志 村,原,中 村,河 野,山 本, 石 坂 の10氏 で あ る。
3)八 王 子 市 教 育 委 員 会 『 八 王 子 千 人 同 心 史 ・資料 編1』(1990年,156ペ ー ジ)。以 下 『資料 編1』 とす る。 同 シ リ ー ズ の 『 八 王 子 千 人 同 心 史 ・通 史 編 』(1992年)は 『 通 史 編 』 と す る 。
4)鈴 木 龍 二 記 念 刊 行 会 『 桑 都 日記 』(1973年)18ペ ー ジ 。
5)本 能 寺 の 変 が6月2日,家 康 が 甲斐 攻 略 を 開 始 した の が8月21日 な の で,6月17日 付 の 朱 印状 は 時 期 が 早 す ぎ る 感 もあ る 。 た だ 当 時 は 織 田 氏 に任 命 さ れ た 河 尻 秀 隆 が 甲斐 国府 中城 主 だ っ た が,武 田 旧 臣 が 反 織 田 の 一 揆 を起 こ し,川 尻 は6月18日 に戦 死 して い る。 こ の 一 揆 は徳 川 家 康 が 起 こ させ た との 説 もあ る が,朱 印 状 の6月17日 とい う 日 付 は武 田 旧 臣 を懐 柔 す る た め の 工 作 と関 係 が あ る可 能 性 も あ る。 今 後 の研 究 を待 ち た
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