1 .はじめに
2 .石炭需要と炭坑開発 <アヘン戦争>
<長崎開港 1859.6 > 3 .高島炭坑の日英共同開発 <佐賀藩の石炭政策>
<高島炭坑共同開発>
4 .工部省設置(1870.10)と石炭政策 <鉱業政策の模索>
<鉱山心得 1872.3 > <日本坑法 1873.9 >
5 .高島炭坑官収 <官収交渉>
6 .おわりに <鉄と石炭>
1.はじめに
幕末から明治維新期にかけて日本は近代化 へと舵を大きくきった。それは後の東アジア 地域の在り方までも変えていく大きな変革で あったと考えられる。とりわけ筆者が注目し ているのは日本産業社会の近代化と対アジア 政策との関連である。日本近代化が近隣アジ ア諸地域とどのような関係をつくって進行し たか、しかもその形成されていった近代日本 とアジアとの関係史の展開を決定づけた「起 動因」を明らかにしたい。筆者は関係史をす べて歴史の偶然であるとは見ない。また、関 係史をすべて何らかの「社会法則」によって 説明できるとも考えていない。関係史を決定
づけるものは複雑で、錯綜しており判然とし ない。おそらくは、関係史や歴史の進展はい わば過去を反映した運命的な潮流の中で営ま れる人間社会の側の意欲だったり、関係する 社会間での相互作用のようなものによってあ る程度方向づけられるのかもしれない。
この謎に接近する一つの糸口として、産業 や軍事をはじめとする社会全般的な近代化の 梃子の一つとなったエネルギー資源である石 炭に注目して考えていきたい。北部九州地方 では、江戸期中期から既に伝統的な製塩産業 を支える炭坑業が発展しており、それが封建 領主権力による独占的な専売制度に組み入れ られていた。幕末期、新たな技術革新による 蒸気機関の内燃エネルギーとして石炭の需要 が発生し、それが北部九州地方の炭坑業を刺 激し、新たな石炭販売先として長崎港が注目 された。この新しい蒸気船燃料としての石炭 需要は、伝統的に瀬戸内塩田用の石炭を生産 してきた筑豊地域ではなくて、海運の利便性 をもつ唐津炭坑や長崎周辺の高島・香焼炭坑 などから充たされた。炭坑の地理的条件およ び流通手段の状況によって、生産された石炭 を長崎港へ運送することが難しく費用もかさ むといった悪条件にある炭坑、すなわち筑豊 炭坑、三池炭坑などでは新規の需要に応えら れなかった。
長崎港で、主として外国の蒸気船・軍艦な どに積み込まれたのは高島炭および唐津炭で あった。さらにそうした石炭は長崎港を経て 上海、香港などへ輸出された。とりわけ高島 炭は市場の評価が高く、当時の高級炭である
近代日本の石炭政策:長崎開港から高島炭坑官収まで
The Coalmine Policy in Japan between 1859 and 1874
金 光 男
英国ウェールズ炭と比べても同等な品質であ り、しかも安定供給が見込めるほど大量に生 産可能な石炭だった。この高島炭が明治初年 から明治十年代半ばに至るまで中国市場へ輸 出された最大の日本産石炭であった。本研究 ノートでは、この高島炭を中心にして資料を 整理し、可能な限り石炭産業の発展と日本近 代化との関連および国際関係の一断面を跡付 けることを目指したい。
2 .石炭需要と炭坑開発
<アヘン戦争>
唐津炭、筑豊炭、三池炭、高島炭などの九 州地域の石炭は、すでに
17
世紀初頭から18
世紀初頭にかけて採炭され比較的近隣の塩田 や城下町などに薪の代用品として使われてい た。ところが17
世紀末から18
世紀半ばに かけて、石炭需要の著しい増大が見られた。瀬戸内十州塩田での製塩燃料の薪木から石炭 への移行によるものだった。瀬戸内海の沿岸 に散在する入浜式塩田は文化・文政期
(1804
〜 1829
年)に2671
軒あった。その十州塩田 における塩の総生産量は約450
万石だった という。当時の入浜式塩田では塩1石(180
㍑)作るのに石炭
120 〜 150
斤(72 〜 90
㌔)必 要としていたことなどから、かつてない程の 大規模な石炭需要を生み出し、瀬戸内製塩業 にとっても九州石炭鉱業の発展にとっても画 期的なことであった。[金、2008、pp. 62-66]
こうした伝統的な石炭産業の基盤が存在し ているところに、にわかに新しい石炭需要が 生まれた。それは、当時先進的な科学技術の 粋を集めた蒸気船の燃料であった。蒸気船 が東アジアに出現した
19
世紀は、欧州、北 米に拡大した近代資本主義がアフリカ、アジ アへ膨張していった時代であった。とくに1840
年代から50
年代にかけて、アヘン戦争、中国市場開放、クリミヤ戦争、日本開国と世
界市場の「環」が繋がっていった。東アジア を取り巻く英仏米露などの市場争奪競争が激 しくなった。
イギリス駐日総領事オールコックによれ ば、大英帝国は「東洋に大きな権益をもって おり、日本はその東洋の前哨地」であり、日 本の「石炭は役に立つ」と見込んでいた。さ らに大英帝国の「巨大な通商」の「連鎖の一 環たりとも破られたり傷つけられたり」すれ ば、それが東洋のはてにある遠隔地であって も連鎖全体に対する危害を及ぼすことにな り、実際、「満洲の沿岸地帯に急速にふえつ つある」ロシアと対抗している状況である。
そうした「侵略的な海軍国が、朝鮮と日本、
ないしはその一部でも所有するならば、無尽 蔵に近い資源」すなわち「石炭
・
貴金属・
鉄・
鉛・硫黄や避難港と要塞化した兵站基地、造 船用の木材と労力、さらには屈強な船員たち までが手にはいる」。「それゆえにわれわれは、
世界をめぐる大英帝国の連鎖を完成するに当 たって、いまひとつだけ欠けている環である 日本海域での併合とか征服とかいう問題にた いして、差し迫った重大な関心をよせざるを えない」と云う。
[大君の都<下>、pp. 95-98]
イギリスは万延
1 (1860)
年1
月に英国軍 艦に必要とする石炭を獲得するため、九州北 部の炭坑地帯に自国の技師を派遣し鉱脈調査 を行う許可を幕府に求めている[大日本古文書
・幕末外国関係文書之
34、pp. 34-37] 。この英国総
領事オールコックの求めに対して幕府は即座 に書簡にて断わっている[同上、pp. 159-160] 。
東アジア海域で大量の良質な石炭を供給可能 な炭坑は九州北部の炭坑地帯、とりわけ高島 炭坑がほとんど唯一の存在として見られてい た。この海域の炭坑としては華北、台湾、セ ブ島、ボルネオ島北部などに良質の炭層が知 られていた。しかしそれらの炭坑は海岸から やや奥地にあるため鉄道建設に莫大な投資と 開発が必要であり、治安が不安定であった。その点、高島炭坑は運炭船が直に接岸でき
て、しかも近くには近代的な機械設備の整っ た船舶修理工場を備えた長崎港をひかえてい た
[今津 1974、p. 9] 。
当時のイギリスは東アジア貿易の重点を綿 織物輸出に置いていた為、蒸気船や軍艦の燃 料炭を九州から安定的に供給することを求め ていた。こうした状況において、日本の上海
・
香港市場への石炭輸出が東アジア海域でのイ ギリスの「自由貿易体制」を燃料面において 支える構図になっていたのである。[長野暹、 p.
547]
かくして大英帝国は東アジアの巨大市場お よび資源供給地として中国大陸から巨大な利 益を求め、アヘン戦争を誘発して一部中国市 場の開放に成功した。この戦争が長崎港での 石炭ブームを引き起こしたのである。中国で のアヘン戦争によって多くの英国艦が東アジ ア海域に集結し、大量の石炭需要を生んだ。
その英国艦が長崎に寄港して「唐船蘭船」か ら盛んに炭塊を買いいれたのは「壬寅癸卯年 間」
(天保 13 〜 14
年、1842〜 43
年)であった。当時長崎での石炭需要を聞いた「山方、里 山方」役人の久米雄七なる人物等が佐賀藩領 内の山代郷
(松浦郡)
で採炭を試み、同時に 佐賀政府にも建議している。炭坑から流出 する汚水が田畑を害するという苦情が出たた め、藩の採掘許可が容易に出ず、最終的に藩 主によって採掘が認められている。「是は領 内の利益を興す新事業なり、人民の苦情の存 する所を避けて、其の患なからしむる方法を 講じ、以て採炭の業を必ず遂行する様にせよ」という藩主の決定により、「年限を定めて試 掘する」ことになった
[鍋島直正公傳<第三篇>、
pp. 146-147] 。
こうして山代郷の炭坑開発が汚水対策をし た上で進められた。「遂に採炭に着手したり しかばここに従来需用の微なりし石炭は簡易 なる方法にて取り出され、其塊炭は尽く海岸 より長崎に輸送させられて非常の高価に買ひ 入れるるとともに是までの中国筋塩浜よりの
船にも廉価の粉炭を輸出したれば、他の塩浜 までも之を聞き伝へて買ひ来るに至り、ため に山代郷には二、三年間に暴富を興したる炭 業者数人に及べり、是を我が肥前に於ける石 炭採掘事業の初めとなす」
[鍋島直正公傳<第三
篇>、p. 147]と云う。佐賀藩はアヘン戦争が 一つの契機ともなり石炭採掘を藩の殖産事業 として進めようとしていた。アヘン戦争からおよそ十年後にはクリミ ヤ戦争が起り、東アジア海域に定期郵便船 を就航させていた英国の
PO
社(Peninsular and
Oriental Steam Navigation Co.)
では、石炭燃料の異常なコスト高に対する積極的な対応策が 講じられた。1854年クリミヤ戦争が勃発し て、貨物船が一斉に戦時動員され、東アジア 海域への石炭運搬コストが大幅に跳ね上がっ た。
PO
社はボルネオ島西岸のラブアン<地名 ;
Labuan >
や台湾で発見された新炭田開発や、東洋諸港の貯炭場に補給炭をはこぶ石炭輸送 船を購入するなどの対策を講じている。
[Boyd, p. 136]
日本でも俄かに石炭需要が増加し、価格 の騰貴により、九州北部の炭坑地域で採掘 稼 人が増え石 炭 産 業は活 発 化し た。ク リ ミヤ戦争の翌年、安政二
(1855)
年の石炭 採掘量についての記録によれば、「是まで の炭礦は、長崎港外に於いて高島、香焼島(甲)、松浦郡に山代郷(
乙)、杵島郡に北 方郷、高来郡に多良郷(丙)より出づ。高 島は廣磯に二千三百六十八萬斤、百摩崎に 一千四百四十萬斤、中山に三百五十八斤(合 計四千百六十六萬斤)、香焼の「あほ」に 一千四百四十萬斤、、云々」とあり、上記(甲)は長崎で外国に供給され、(乙)の山
代郷は出炭量が少なかったので長崎への輸送 分のみであろうと云う。さらに「当時筑前 の蘆屋、若松近傍にて採掘する石炭は一箇年 一億三四千萬斤に上りしも、安政元年以来、六千萬斤に制限して価を調節し、其価は百斤 につき銭百二十文乃至百八十文、総計は三萬
七八千両、運上は百斤に付銭十文乃至二十四 文、凡金二千七八百両に上る、此価額にて見 積れば、我領内の石炭も凡三萬両の価を収 め、二千四五百両の運上
(税)
を徴し得」る と、推計している。[鍋島直正公傳<第四編>、
pp. 285-287]
ただし上記の推計はあくまで当時において 推測されたもので、正確な統計とは言い難 い。それにもかかわらず、安政期に山代郷の 採炭が盛んに行われ、長崎に輸出されてお り、外国船への供給の為に数ヵ所の坑口が開 かれた程であったことは事実であり、またク リミヤ戦争による石炭需要の増加に伴い、各 国と条約締結して貿易を開くや、石炭が主要 な代品の一つとして盛んに開鑿されるように なったのである。
[鍋島直正公傳<第四編>、pp.
287-288]
<長崎開港 1859.6 >
浦賀にペリーが来航する頃
(1853
年)、日
本炭は比較的大量に蒸気船燃料として利用さ れるようになっていた。当時は日本国内に蒸 気船は無くて、長崎その他の港に来航する外 国船に売っていた。通商条約により長崎や神 奈川が開港すると、蒸気船の出入りがさらに 頻繁となり燃料炭の取引量も増えた。そもそもペリー艦隊が持参した大統領親書 には、日本の沿岸に石炭貯炭所を設置したい 旨の一文があった
[大久保利謙、pp. 7-8] 。新興
国アメリカは中国貿易でイギリスと競ってい た。中国市場での毛皮需要、とくにラッコが 珍重された。毛皮の供給地としてアラスカ、カリフォルニアが開発され、米中貿易は一層 高まった。それまでのアフリカ周りでは植民 地の多いイギリスに勝てないが①
、産業革命
による蒸気船が実用化されると、サンフラン シスコから太平洋を横断し中国に直航すれば イギリスと競合できる。だが当時の蒸気船で は、途中で石炭を補給する寄港地が必要であ り、それを日本に求めようとしていた。
[V.F.
ア ルミニヨン、pp. 11-13.]日本に求められた開港場の条件は、後背地 に石炭産地を擁するか、石炭の調達が容易で 常時十分に貯炭できることだった。長崎港は その湾口に石炭産地の高島、香焼島、伊王島 などがあり、また唐津炭を擁する満島港との 海運も便利であり最適だった。また下田は常 磐炭田からさほど遠くないし、函館には石炭 調達のため奉行所直営の白糠炭坑、後には茅 沼炭坑が開発されることになった。このよう にアメリカもイギリスも長崎に寄港する一つ の理由は石炭燃料の補給であった。
開港後の長崎において、新たに石炭
1
億 斤の需要が生まれたと云う[永末、p. 50] 。開
港直後の需要の七割は唐津炭田によって供給 された[金、2008、p. 70] 。また「鑛山沿革調」
によると、唐津炭の販売市場が長崎開港に よって一変したことが見られる
[鑛山沿革調、
pp. 11-14] 。東松浦郡の炭坑地域ではそれ以前
から採炭をしていたが開港以後は汽船用とし て販売するために、塊炭が満島港の石炭問屋 へ運び込まれ、海運にて長崎に輸送された。
かくして九州北部の唐津炭田の生産が長崎開 港によりますます活発になった。
唐津炭や高島炭を擁する佐賀藩は、長崎開 港後に、従来からの代品方を中心に展開して きた殖産興業政策を大坂向けから海外輸出向 けにその重心を移していった。
① イギリスは植民地などの諸港に常時石炭を貯蔵していた。たとえば
P&O
社はおよそ9
万トンの石炭を 年間約170
隻の船を雇用して次のような諸港に貯炭していた。サザンプトン、マルタ、アレクサンド リア、アデン、ボンベイ、ポアン・ド・ガル、マドラス、カルカッタ、シンガポール、香港、上海な どである。[中川敬一郎、pp. 292-293.]3.高島炭坑の日英共同開発
<佐賀藩の石炭政策>
佐賀藩が積極的に殖産興業政策を展開する のは、外圧の危機的状況が一層進行した嘉永 期
(1848-53
年)から安政期(1854-59
年)にか けてであった。長崎警備を筑前福岡藩と隔年 にてまかされていた佐賀藩は、台場の増築な ど莫大な軍事支出を賄うため、御側掛硯方② をして、10年間10
万両の貯蓄をするため国 産振興を進めさせ、陶器専売制の再編、白蠟 の長崎会所直納許可を取り付けさせた。[藤
野保、pp. 708-714]安政
2 (1855)
年には佐賀領内の石炭産出 量の実態調査や、福岡藩の石炭会所仕組や産 出量、値段などの調査を行っている[松乃落
葉<巻二>、pp. 150-154] 。この「深堀私領高島 ・
香焼石炭調」[同上]
によれば、高島の「 広 磯 」という炭坑では安政1
年10
月から2
年3
月までの出炭量は864
万斤で、その炭質は いたって良質、日本第一の「上炭」だと云う。この他にも、高島北東部の岬の「百摩崎」や、
同じく高島の「中山」、香焼島の「阿不
<アボ
> 」、
山代郷「久保山」「長浜山」、北方郷「犬 神山」、多久郷「河内山」
など領内での産出量、品質、採炭の実態などが調査されている。
安政
3 (1856)
年には石炭に関しても御仕 組石炭の長崎会所への直納が始まった。石炭 と白蠟に加えて陶磁器も長崎に送られ、長崎 会所への直納体制がとられ、海外への販路開 拓とそれに伴う国産の奨励という方向へ藩 の殖産興業政策は向かうようになった。それ は佐賀藩が長崎警備強化を目指して軍制改革 を進め海軍を創設しようとしたことに関係し ていた。すなわちオランダに蒸気船軍艦を注 文し、その代価支払いの代品を調達する為であった。
[藤野保、pp. 714-717]
日本の石炭輸出について見ると、慶応
3
(1867)
年に初めて横浜港から石炭が輸出さ れるようになるまで、ほとんどすべての石炭 は長崎港から輸出されていた。長崎港からの 石炭輸出量は、安政6 (1859)
年開港の年に7,300
トン(上海への輸出のみ) 、文久 1 (1861)
年
5,000
ト ン、同2 (1862)
年6,000
ト ン、同
3 (1863)
年1,001
トン、慶応1 (1865)
年50,012
トン、同2 (1866)
年10,185
トン、同3 (1867)
年36,170
ト ン、明 治2 (1869)
年18,610
トン、同3 (1870)
年30,880
トンであっ た[杉山、1978、p. 580] 。これらの長崎港から
の石炭輸出は基本的に上海市場向けのもので あったと見做しても良いだろう。ところで国内の政情が不穏となり、佐賀藩 においては慶応
1 (1865)
年から2
年にかけ てさらに大規模な軍制改革が実施され、内戦 に備えた「軍国御備御仕組」が命じられ家臣 団の洋式化が急速に進行した。そのために支 出半減による毎年二万五千石の軍国備米が捻 出され、さらに慶応3
年には臨時方の下に軍 艦御取入方が設けられることになった。翌年 には臨時方が物産方と改名され、この物産方 により殖産興業政策が展開されることになっ た。この時期に高島炭坑の開発が進められる ことになる。[藤野保、pp. 729-732]
<高島炭坑共同開発>
幕末の佐賀藩は富国強兵策を展開して洋式 軍艦や洋式武器を買い入れ、長崎に精錬所も 作った。蒸気船の燃料として、かつ有力な財 源として石炭開発に積極的に乗り出していっ た。たとえば慶応
3 (1867)
年、英国に遊学 していた石丸虎五郎に英国人技師モーリスを 伴って帰国させ、山代郷鳴石で洋式採炭をは② 佐賀藩の財政は「蔵方」と御側「掛硯方」という役所による二重財政構造だった。御側「掛硯方」は 不意非常の備えの為、国産開発を進め新田開発など国益の事業を行い、御側収納米、小物成を財源と していた。[藤野保、pp. 706-707]
じめている。また長崎滞在中のドイツ人技師 ゴットフリート・ワグネルを招いて有田焼を 改良するための石炭窯を造らせた。さらに慶 応
4
年には、唐津藩内の相知坊中梅ノ木谷で 石炭山の開坑を行っている。[井手、pp. 31-32]
なかでも佐賀藩が最も力を入れたのは高島 炭坑の開発だった。慶応
4
年正月に炭坑操業 についての得失を内々に調査し、英人の会社 との「組合」か、あるいは佐賀藩一手による 経営かを吟味し、「組合」にて進めるように「御評決」され、早々条約に取り掛かるよう
お達しがあり、「談判相決、左之通り長崎鎮 台沢公江御届之末条約印形相整」えて、北溪 口坑に取り掛かることになった。[高島炭坑記、
p. 250]
佐賀藩は長崎での兵器売り込みに活躍して いた
T.
グラバーの商社ガラブル社と契約し、慶応
4 (1868)
年5
月合弁事業として高島で の竪坑開鑿に着手した。近代的設備を導入し た大規模な炭坑開発には莫大な資金が必要で あり、しかも大量の石炭を上海市場で販売す るためのノウハウも経験もない佐賀藩が一手 に開発することは不可能との判断であった。開発費に関して「高島坑諸入用勘定書」によ れば、様々な機械雑費、月給、手数料、堀方 請負賃等など、都合洋銀で、北溪入費が
14
万5,890
枚6
合3
勺(約 13
万両)、
南洋入費 が3
万7,520
枚7
合4
勺(3
万3
千両)もの大 きな出費であった[高島炭坑記、pp. 338-342] 。
慶応
4
年4
月に締結された条約③によって、佐賀藩は高島炭の大量生産とその販売による 収益を見込んでいた。しかも将来は藩が外 資に頼らずに独自の商会を設立して上海へ輸 出し積極的な交易を行うことが考えられてい た。松林源蔵が立案し藩に差し出した「仕組 書」には次の様なことが述べられていた。す なわち、長崎・上海を一括の商会として交易 を行い、西洋流の商法を会得した上で、香港 その他へ次第に交易圏を拡大していき、その 自前の商会で藩が必要とする武器や資金を賄 いうる体制を整え、西洋流の商法に長じた有 能な人材を異人・唐人・他藩の者の別を問わず 商会に雇い入れ、とりあえずは長崎・上海で 田代慶右衛門(佐賀出身)の経営する陶器店 に藩の物産方役人を派遣することなどであっ た
[藤野保、p. 737-738] 。
さらに藩物産方の意向により、上海での石 炭その他重要物産の売買について詳しく調査 している。その具体的内容
[「 高島坑方ニ付廉
伺書等書留 」、武野、1987、p. 760]は、上海市場 での石炭相場はいかなる要因で変動するか、上海市場にもたらされる諸々の物産はどこの 産か、この二、三年の石炭相場の上限と下限 について、上海市場での石炭相場は日本での 石炭相場と比較しどの程度開きがあるか、石 炭相場変動の間隔はどれくらいであるか、こ の二、三年の石炭相場変動のデータを調べる、
上海より輸入しあるいは上海に輸出して利益
③ 松林源蔵、羽室雷助、ガラブル社中、英コンスル(領事)の署名にて締結された条約の中味は、およ そ以下の通りである。共同経営の契約期間は七年半とする。石炭の輸出販売は主としてグラバー商会 が担当する。高島石炭仕組に支障のない限り従来からの日本人による小炭坑の採炭を許可する。輸出 石炭
1
トンにつき1
両の地主納金は三カ月毎にグラバー側が支払う。利益は三カ月毎に現金にて等配 分する。佐賀藩所有の蒸気船用の石炭は元価で提供する、但その石炭に付いては地主納銀を課さない。炭坑に必要な機械は双方等数を設備する。機械代以外の炭坑諸費用は平等負担とするが、先ずこれを グラバー商会が代弁し、最初の採掘石炭をもって償還する。グラバー商会は松林氏に無断で炭坑の掘 削販売権を他に譲渡してはならない。本条約を終了後に松林氏グラバー商会が延期を好まない場合、
グラバー商会が設置した機械設備は現金をもって佐賀藩が買上げるか、もしくはグラバー商会がそれ を撤去すること。[高島炭坑記、pp. 251-252]
取得が期待できる物産名を調べる、上海市場 における金銀銅の比価を調査する等であっ た。
この佐賀藩独自の上海石炭市場調査を見れ ば、将来石炭の直輸出への意欲は明瞭である と云うことができるだろう。当時の佐賀藩は 単に長崎での交易のみならず、高島炭を梃子 として積極的に中国市場へ進出し、より大き な国益を確保する方針に転換しようとしてい たと解釈できる。
共同開発の相方である
T.B.
グラバーは、1859
年から長崎で、東洋一の商社ジャーディ ン・マセソン商会の代理店業務で石炭などの 商品売買を行っていた人物である。グラバー は佐賀藩との共同開発以前から高島炭をすで に売っており、高島炭の品質が良好であるこ とも知っていたし、高島炭坑そのものを確保 したいと願っていたようだ[McMaster, p. 220] 。
またグラバーは蒸気船や武器類の売り込みを 通じて薩摩藩、長州藩、佐賀藩と密なる関係 を持っていた。グラバー商会の助力により長 州藩士伊藤博文、井上馨がイギリスに密航し たり、薩摩藩士をイギリスへ留学させたりし ている。さらに薩摩藩の武器類や紡績機械の 買い付けにグラバー商会のライル・ホーム氏 が同行して渡欧し、ジャーディン・マセソン 商会による薩摩藩の手形買取りをはかって便 宜を供与している。この様なジャーディン・マセソン商会の資金面での協力が当時の薩摩 藩などにとって極めて貴重であり、幕府の兵 器注文④とは対照的に、買い付けた武器類が 比較的早く到着し諸藩の軍事力増強に役だっ た
[石井寛治、pp. 139-140] 。
英国駐日公使「パークス
(H. Parkes)
がイギ リスの対日政策を実行してゆく上で、イギリ ス商人グラヴァーと緊密な協力関係を保ち、その仲介で薩摩藩へ接近したとすれば、グラ ヴァーの薩摩藩その他との結びつきを経済的 に大きく支えていたものこそジャーディン=
マセソン商会だったのであり、パークスの対 日外交政策は、極東最大のイギリス商社たる 同商会の対日活動によって客観的に支えら れつつ、後者の利害を擁護し拡充するもので あったといえよう」
[石井寛治、p. 141] 。
かくして高島炭坑は条約成立後5
月1
日(旧
暦)から英国技師モーリスを雇用し竪坑を掘 削し、翌明治2 (1869)
年4
月に深さ44
㍍で 厚さ2、4
㍍(8
尺)の炭層に着炭した。その 坑口から船着き場まで「一屯位之鉄之箱ヲ車 二而」運ぶ手筈を整え、9月には蒸気機械に よる排水設備が設置された。日本初の近代的 竪坑だった。掘り出した石炭は高島から長崎 港まで(およそ 15
㎞)運ぶため和船を買い入 れ、地元商人に請け負わせた。上海での石炭 販売はグラバー商会に一任され「二分五厘」の口銭を支払うことになっていた。
[高島炭礦
史、pp. 5-7]長崎港では、大型蒸気船や各国の軍艦が出 入りし高島炭を燃料として直接購入した。ア メリカ船籍の太平洋郵便会社の大型蒸気船は 長崎港に一カ月
6
度も寄港し、上海と横浜 を結ぶ航路の石炭補給地としていた。当初は いわゆる唐津炭を購入していたが、高島炭坑 の開発が進みかつての4
倍以上の炭量を生 産することが可能となり、しかもその炭質 はイギリス軍艦技術主任の比較実験によれば 英国北部炭とほとんど同等の品質であると のことだった。長崎駐在の英国領事報告に よれば、1869年長崎から海外への石炭輸出は
18,610
トンであり、長崎から国内の他の開港地へ輸送された石炭が
5,000
トンであっ た。[Commercial Reports, 1869-70, pp. 56-58]
④ ジャーディン・マセソン商会の長崎代理店グラバー商会と幕府との間で兵器の売買が行われたが、そ の幕府の注文した大量の大砲と弾薬の長崎到着はなぜだか大幅に遅れて第二次長州征伐にも鳥羽伏見 の戦いにも間に合わなかった。[石井寛治、p. 138]
また、1870-71年の長崎駐在英国領事報 告では、中国市場での石炭在庫が不足がち で、燃料価格の上昇がみられ、長崎からの石 炭積み出しに弾みがついたと報告されてい る。1870年
1 〜 9
月までの概算で長崎港で の石炭貿易は、太平洋郵便汽船による直接購入
10,000
トン、日本の蒸気船による購入5,000
トン、帆船による輸出8,000
トン、合 計23,000
トンだった。そして1870
年10
月 から12
月については、帆船による輸出が、10
月が4,581
トン、11月が4,601
トン、12 月4,756
トンで合計13,938
トンだった。し たがって、長崎での石炭売買は相当な規模で あり、中国での需要の高まりにより年末には 大量の取引があり、現段階ですら年間約5
万㌧の外国消費があり、高島炭坑の操業が一層 拡大されれば輸出も増大する可能性があると 云う。ただし、これらは唐津炭や高島炭を含 む各地九州炭の総量であり、中には積み出さ れる日本炭に品質の劣ったものが混ぜられて 輸出されることで、日本炭の評価を貶めてい る結果になっていると云う。望まれるのは、
まず取引量が安定したもので定期的であり、
中国市場において日本からの輸出炭の継続的 供給が可能であり、かつよく選定された高品 質の石炭であるとの信用を獲得することが大 切だと云う。したがって長崎での石炭取引を 一層促進するために、もっとヨーロッパ人の 雇用や機械設備を採用することが必要だと報 告している。またその唯一の事例
(近代技術
導入による共同開発)である高島炭坑の近隣諸 侯が、自らの領国に高島と同じ手法を導入す ることを望んでいると思われるとし、日本政 府がヨーロッパ人技術者をもっと雇用し、外 国資本が石炭産業に投資するのを明確に保証 することが望まれると、長崎駐在の英国領 事は本国外務省に報告している。[Commercial Reports, 1870-71, pp. 54-55]
日本側の資料では、高島炭坑共同開発が始 まった当初、高島炭坑の生産量はわずか日産
90
トンに過ぎなかったが、1870年には日産230
トンに達している。さらに1873
年に上 海総領事の品川忠通は現地新聞の調査に基づ いて高島炭の日産を600
トンと報告してい る[武野要子、1987、p. 761] 。ここで、この時
期の日本の石炭輸出について統計資料を紹介 しておきたい。「各開港場別石炭輸出高」 [今津(1973)、pp.
29-31](1
斤=600g
にて計算した。少数以下四捨五 入およびキログラム百の位で四捨五入した。%は各<品目>の総計による割合である。t =トン)
・明治 2
年(1869.2.11〜 1870.1.31)
<石炭>横浜= 623t,神戸= 930t,長崎= 13,116t
(89%),総計 14,669t。
・明治 3
年上期(1870.2.1〜 1870.7.27)
<石炭>横浜= 53t,神戸= 1,062t,長崎= 7,637t
(87%),総計 8,751t。
<石炭船用無税品>長崎= 8,487t(100%)。
・明治 3
年下期(1870.7.28〜 1871.2.18)
<石炭>横浜= 59t,神戸= 1,509t,大坂= 12t,
長崎=
15,032t(90%),総計 16,612t。
<粉石炭>長崎= 4,153t(100%)。
<船用石炭無税品>神戸= 4,360t,長崎= 1,991t
(31%),総計 6,351t。
・明治 4
年上期(1871.2.19〜 1871.8.15)
<石炭>横浜= 1,125t,神戸= 94t,長崎= 7,100t
(85%) 総計 8,320t。
<粉石炭>長崎= 2,659t(100%)。
<
石 炭 無 税 品>
神 戸= 2,203t,
長 崎= 17,330t
(89%),総計 19,533t。
・明治 4
年下期(1871.8.16〜 1872.2.8)
<石炭>横浜= 137t,神戸= 487t,長崎= 9,998t
(94%),総計 10,622t。
<粉石炭>長崎= 2,000t(100%)。
<石 炭 無 税 品 >
神 戸= 2,255t,
長 崎= 21,498t
(91%),総計 23,753t。
<粉石炭無税品>長崎= 2,077t(100%)。
・明治 5
年(1872.2.9〜 1872.12.31)
<石炭>横浜= 33t,神戸= 1,463t,大坂= 174t,
長崎=
25,938t(94%),総計 27,608t。
<粉石炭>長崎= 5,522t(100%)。
<石炭無税品>横浜= 224t,神戸= 1,818t,長崎
= 28,327t(93%),総計 30,369t。
<粉石炭無税品>長崎= 760t(100%)。
・明治 6(1873)年 1
月1日〜明治6
年12
月31
日<石炭定額品>横浜= 1,407t,神戸= 520t,大坂
= 54t,長崎= 45,568t(96%),総計 47,549t。
<石炭船用品無税>横浜= 28,628t,
神戸=1,835t,
大坂=
2t,長崎= 48,629t(61%),総計 79,094t。
<粉石炭従価品>長崎= 5,834t(100%)。
<石炭無税品外国積帰>神戸= 175t,
長崎=3,485t
(95%),総計 3,660t。
・明治 7(1874)年 1
月1
日〜明治7
年12
月31
日<
石 炭>
横 浜= 2,963t,
神 戸= 27t,
長 崎=
33,134t(92%),総計 36,124t。
<石炭船用品無税>横浜= 7,212t,神戸 = 945t,
長崎=
73,533t(90%),函館= 73t,総計 81,763t。
4 .工部省設置(1870.10)と石炭政策
<鉱業政策の模索>
明治
1
年4
月政府会計官所轄の機関とし て商法司が設置され、本司を京都に、支署を 大坂と東京に設けた。当時、諸藩は独自の藩 札を発行し長崎や横浜の開港場に物産会所や 商会を置いて、いわゆる藩営貿易を経営して いた。明治政府は全国の統一的権力をまだ完 全には掌握しておらず、その経済政策は旧幕 藩体制下での封建的政策を継承しており、太 政官札の大部分は当面する政治的軍事的要請による支出補填に使われていた。さらに政府 は鉱山開採権を独占することなく、藩営によ る鉱山採掘が継続している状況であった。商 法司は貿易決済用の洋銀獲得の為の
「官貿易」
を行い、ますます太政官札の信用を失って、
翌年
3
月に廃止された。[商工政策史<総説 (上)
>、第 1
巻、pp. 3-4]維新期の混乱のなかから、政治と軍事に おける中央集権化への施策が進められる一方 で、「第一ノ経済政策ハ金融ヲ疎通シ殖産興 業ヲ奨励スルニアリ」
[大蔵省『明治財政史』第 11
巻p. 307]
との方針が採られた。政府は旧幕 府諸藩の造兵造船施設を接収し、軍事工業の 官営に始まる殖産興業政策を推進しようとし た。さらに政府は財政金融政策と貿易政策の 確立をめざして、財源増殖による充実と貨幣 制度の統一に着手した。よって財源であると 同時に貨幣の素材でもある金銀銅の確保に傾 注することになった。[商工政策史<鉱業 (上) >、
第
22
巻、pp. 4-5]貿易に関しては、輸入の大半は欧米からの 船舶、石油製品、綿羊毛製品、軍需品、機械 など、輸出は生糸、茶、蚕卵紙、米、銅、石 炭などであり、国際収支は入超傾向にあった。
政府は国産を奨励し輸入を防ぎ、輸出の振興 をはかるため、支払い手段である金銀の確保 と重要輸出品である銅と石炭の増産をはかる 様になった
[同上、pp. 5-6] 。
政府は鉱業行政機構と諸法規を整備し、洋 式技術を積極的に導入して鉱山の官営を進め ようとした。具体的には、まず銅、つづいて 金銀を独占的に掌握するための鉱業行政機構 の整備を行った。明治
1
年2
月大坂の旧幕 府銅座役所を接収し、これを大坂銅会所と称 し、会計事務局に所属させた。銅類売買規則(明治 1
年4
月10
日)を布告して銅の私人間売 買を禁止した。銅が重要輸出品であったから だ。さらに同年7
月に銅のみならず金銀の 売買等を管理する目的で、大坂銅会所を鉱山 局に改称した。さらに江戸の旧幕府銅座から太政官銅座役所と改称されて貨幣司に属して いたものを同年
12
月に鉱山局から改称され た鉱山司が領収して鉱山司出張所とし、関東 以東で産出する金銀銅の購入機関とした。[同
上、pp. 7-10]ところが中央政府の独占政策を厳格に実施 するとかえって本来の目的である鉱業再興と 資源開発が阻害されるおそれが出て来た。明 治
4
年7
月18
日太政官布告第三百六十号に 次のように述べられている。「新貨幣鋳造ニ 付金銀銅ノ三品勝手売買不相成旨去己巳(明
治2
年)十一月中相達置候處自然換用ノ便ヲ 失ヒ竟ニ諸鑛山ノ生産品ヲ減少致候趣キニ付 向後御国内限リ勝手売買差許候條其旨相心得 右職業之者自由営業可為致候且諸鑛年分掘出 高等管轄地方官ニ於テ取調翌年三月限リ大蔵 省ヘ可届出事但金銀二品外国輸出之儀ハ御條 約面之通リ相心得可申銅之儀ハ是迄通五分之 税金相納候上ハ輸出差許候事」[水谷、 p. 55(註
六)]。すなわち新貨幣鋳造のため金銀銅の自
由売買を禁じて来たが「自然換用ノ便」を失 い、ついには生産の減少をもたらしたので、今後は国内に限り自由売買を許可し、管轄の 地方官が生産高等を取り調べて大蔵省に届け ればよいとする。但し金銀の二品を輸出する ことは規則順守を心得るべきであるが、銅に 関してはこれまで通り
5%の納税をすれば輸
出を許可すると云う。政府は明治
2
年に開鑛規程五款を定め、「鑛
山開拓之儀ハ其地居住ノ者共故障筋無之候ハ バ其支配支配ノ府藩縣ヘ願之上掘出不若候府 藩縣ニ於テモ舊慣ニ不泥速カニ差免可申事。但是迄堀来候分共都而鑛山司ヘ府藩縣ヨリ可 届出候事。、、
<略> 、、」 [大蔵省、p. 210]
とす る「開坑規則」を制定した。これにより、実質的に従来禁止されていた鉱山開発、とくに 銅山を府藩縣の許可のもとに一般人民に開放 し、精錬した鉱物は鉱山司が一定価格で買上 げ、外国に販売するものは必ず申告させ密売 を禁じた。鉱山の現場監督は府藩縣に委任し ていた。また当時の政府は、鉱業政策の対象 として銅を念頭に置き、石炭はまだ等閑視し ており、炭坑経営については徳川幕藩の旧慣
(仕組法など)
が続いていた[永末、p. 54] 。
このような銅鉱山の一般への開放と同時 に、明治政府は新たな貨幣制度を作る必要に 迫られ⑤造幣寮を設置して必要な地金銀の独 占的な確保を行った。すなわち民部省布告(明
治2
年11
月、第1068
号)により、金銀銅は大 蔵省(造幣寮)
が買上げ、勝手に売買するこ とを禁じ、その採出額を報告させることにし た。翌3
年には金銀銅以外の石炭、鉛、硫 黄などについても産出量などの報告を求めた が、政府が府藩縣を十分掌握出来ていなかっ た為あまり効果はなかったと云われている。[商工政策史<鉱業(上) >、第 22
巻]明治
3
年に至り、政府はようやく石炭に関 心を寄せるようになった。同年に工部省が開 設され、鉱山事務の管轄にあたることになっ た。この年の末に、工部省は各府藩縣に対し て「石炭産出ノ地名幷一箇地出産ノ総数ニ炭 塊ヲ添付シテ本省ニ呈出スヘク」命じている[工部省沿革報告、p. 51] 。さらに同年、鉱山地
質技師バロン・
フォン・
リヒトホーヘンを雇っ て各地の鉱山を探査させ、くわえて外国の鉱 山技師を多数招聘し北海道をはじめとする各 地の地質調査を開始した⑥。明治 4
年には廃 藩置県が実施され、その結果従来藩の収入財 源として機能してきた「焚石会所」や「仕組 法」が廃止された[菊池、p. 27] 。
⑤ 幕府が諸外国と締結した慶応
2(1866)年 5
月の改税約書によって、新貨幣鋳造の責任が新政府に引 き継がれていた。⑥ 明治
8
年には工部大学が創設され土木、機械、建築、電信、鉱山、化学、冶金の七学科を設置して教 官に多くの英国人を高額報酬にて雇用している[永積、p. 769]。政府が明治
3
年になって石炭に関心を持 つようになった一因としては、高島炭坑の日 英共同経営によって生じた問題が挙げられ よう。当時高島への外国船着岸について英国 側から強い要求が出されていた。明治3
年2
月、長崎駐在英領事代理が長崎県知事に宛て て、高島で採掘した石炭積み出しを目的とし て、英国商船ワンドレル号の高島入港許可を 願い出た。これに対して政府は高島が開港場 ではなく、「殊に遊歩規程外の場所何様の不 都合可引起も難計御取締立至り候ては不相済 儀に付以来同縣管轄地に被仰付坑山稼方の儀 は従前の通据置候様御さた相成候」として最 終的には不許可とした[日本外交文書<3>、pp.
526-536] 。同じ願いが明治 4
年に再度出されている。長崎県は
5
月に外務省に宛てて、そ の英国領事代理からの願出要旨を繰り返した 後「北独公使」や「和蘭公使」との会談や申 出を紹介しつつ、高島を長崎県の管轄にして、石炭販売について従来の佐賀藩が行って来た 通りにして、県吏を派遣し相当の税を取り立 てて取締をすることを具申している
[日本外
交文書<3>、No. 301]。
外務省は長崎県を通じて佐賀藩から高島炭 坑の「共同経営」に関する調査のため、佐賀 藩とグラバー商会との間で交わされた約定書 類をはじめ石炭採掘、販売についての資料提 出を求めていた。同年
9
月に佐賀藩がグラ バー商会との共同経営の内容について「皇国 の御規則と相振候」ことを認めて「向後の儀 炭坑心遣のためガラブル社中を佐賀藩之傭入 是迄の通仕相整」たいとの願出をしている。これは結局許可されなかった。上記
9
月の 願出に先立つこと3
月にすでに外務省は「佐 賀藩にて英商を雇候になく英商とコムペニー にて発坑候杯にては後来弊孔必生すべし速に 所置ありたし、長崎の往復は間然する処なし」という判断に達していた。
[日本外交文書<3>、
No. 299]
すでに政府は明治
1
年の政体書でも、外国人雇用、隣藩や外国との盟約等の禁止に関す る方針を掲げていたが、たまたま高島炭坑合 弁契約の締結された時期が戊辰戦役からはじ まる内戦の混乱期であったため、明確な処置 を講じる余裕がなかったと云う
[日本外交文書
<3>、p. 522、534] 。
廃藩置県の後に佐賀藩側の高島炭坑責任者 だった松林源蔵、古賀忠四郎は身分を帰商し て外国商人と相対で炭坑経営に従事する旨を 県庁に出願し内諾を得ている。旧藩主鍋島直 大も高島炭坑経営の継続を工部省へ出願し た。しかし明治
5
年5
月「時ニ本省ノ編纂 セル日本坑法ノ草案略ホ脱稿シ該法則中外国 人ト併結シテ以テ堀採スルヲ許サザルノ項ア ルヲ以テ該炭坑ヲ官収シ、本省ノ所管ト為ス ヲ議決シ、其請ヲ聴サス、之ヲ伊萬里縣ニ令 ス」ことになり高島炭坑官収が事実上決まっ た。[工部省沿革報告、p. 118]
<鉱山心得 1872.3 >
中央政府は石炭を含めた鉱業法制の立案 を進めていた。明治
4
年4
月太政官布告(第 173
号)「鉱山開採願出方」が出され「各府縣
下人民ノ鉱山開鑿ヲ上請スルモノアルトキハ 適宜ノ税ヲ課シ之ヲ允可スヘキヲ以テ、其資 産性格ヲ精査シ之ヲ上稟ス、、<略> 、、」と明
記された。この布告により鉱業はすべて政府 の管掌支配することとなり、人民は政府の鉱 業を請負って稼行するという法的関係が明ら かにされた。行政事務は府藩縣に委任されて いたので鉱業出願も府藩縣においてこれを受 理し、審査して、適格なものについて中央政 府に許可を申請するという行政手段を明確に した。これにより日本で初めて鉱業に対する 課税が導入された。(「府藩縣鉱山ノ掘採額届書式
ヲ定ム」明治4.7.18、太政官布告第 360
号)かくして翌年の明治
5 (1872)
年3
月27
日 に「鉱山心得書」が発布された。これは鉱業 政策上の基本方針を初めて明らかにしたもの であった。すなわち、すべての鉱物に対する領有権が中央政府にあること
(鉱山王有制)
が 明記された。政府は諸藩の鉱山を官坑および 民坑に区分し、それぞれ別の規制に服すこと をその基本原則とした。これにより従来明 らかでなかった「鉱物ノ分義(権利) 」を明確
にし、「公私ノ分義」を立てることになった。ここに土地所有と分離して、地下の鉱物所有 権を政府に置き、それが全鉱石に適用された。
再びここでも鉱業における外国人の介入を禁 止⑦している。外国人は技術面に限って雇用 が認められたが、経営面では禁止された。
この「鉱山心得書」は地方官が鉱山を管理 する上での心得であったが、版籍奉還と廃藩 置県によって土地所有に対する全国的な統括 権を握った政府が鉱業政策の大綱を確定する ものであったと云える。各府縣はこの方針に 従って旧来の仕組法体制の変革を進めること になった。
[隅谷、pp. 103-104]
<日本坑法 1873.9 >
明治
6 (1873)
年7
月、最初の統一的鉱業 法典としての日本坑法が、太政官布告(第 259
号)をもって「鉱山其他諸坑業ノ規則」として公布され、同年
9
月1
日に施行された。日本坑法は地租改正と前後して作られた。地 租改正が地表の所有権を確立し、日本坑法は 未採掘鉱物を地表所有権から分離して政府の 所有とする鉱業独占主義の法制化であった。
その基本原理は「鉱山心得書」と同じであ り、改めてこれを再確認し具体的に法規の体 裁に展開したものだった。これは全文八章、
三十三款に附則を加え、詳細かつ大部な法典 である⑧
。
日本坑法によれば、坑物のすべてが政府所 有であり、試掘、借区人資格を日本人に限り、
外国人は直接鉱業人となることができない
(本国人主義) 。
また鉱山業の発展を側面から支 援する規定、すなわち「第四章、通洞」が規 定されている。ここに云う通洞とは「別ニ探 鉱疏水運輸等ノ為メ地底ヲ横截シ、一道ノ大 坑ヲ穿ツ」たもので「高九尺幅六尺ヨリ」以 上のものである。通洞を企てようとする者は「願書ニ目論見明細図ヲ添テ鉱山寮」に提出
し、通洞券を受けるべきものとされる。通洞 の特徴は「他人ノ借区ニ亘渉」しても設ける ことが可能で、「予メ其借区人ニモ報知」す べきだが、その借区人が「自ラ通洞ヲ開クヘ キ資本有ニ非サレハ我借区中タリト雖モ他人 ノ挙ヲ拒ム」ことはできない(第 14
款)。ま
た「通洞ニ因テ諸借区人便利ヲ得ルコトアラ バ通洞発起人ニ其謝金ヲ出スヘシ」(第 15
款)とされる。この他に、鉱山経営について遵守 すべき事項を定め、鉱業警察に関するもの、
鉱業人の権利内容、借区人と地主および隣区 人との関係、廃業後の借区人の義務、鉱業人 に対し地方法令の遵守など多方面にわたって 規定されている。鉱山に関する税としては借 区税
(鉱区税)
と坑物税(鉱産税)
の二種を定 め税率、納入方法、および罰則規定を定めて いる。[石村、pp. 100-105]
日本坑法は「民坑」のみをその適用対象と し、いわゆる官坑は本法の対象外であった。
それは鉱山心得書に明記されているように、
鉱物はすべて政府の所有であるから、政府自 らが採掘する官坑に対する規則は、民坑のそ れとは別のものだとする見解による。また、
民坑であると官坑であるとを問わず全ての鉱 山が政府所有の対象とされる故に、政府は民 坑を任意に、一方的な決定に基づいて官収し 官営鉱山に移すことができた。官営政策確立 後に政府が若干の鉱山について、ほとんど抵 抗を受けることなく官収することが出来たの
⑦ ただし外国人からの資金借り入れは既に明治
2
年2
月の太政官布告(第 152
号)により禁じられていた。「諸藩私ニ外国人ノ貨幣ヲ借入スルコトヲ禁ス」。
⑧ 日本坑法の全文は、石村善助、pp. 86-98に掲載されている。
は、この政府王有権が法制的に確立されたこ とによると思われる。もっともこの点に関し ては、官収対象となった鉱山が経営不振のた め官収を望んでいたという実際的理由もあっ た。また、日本坑法の下で、九州の炭田にお いて選定鉱区制が施行され、採掘出願につい て制限が課されたり、海軍によって一部の炭 田が封鎖され出願が禁止されたが、いずれも 法的に政府王有権をその前提とした施策だっ た。
[石村、pp. 109-110]
この鉱山王有制
(政府王有権)
の概念は、幕 藩体制から引き継がれたものと考えるのが妥 当であろう。それが法規的に確立されたもの が既述の日本坑法だったわけであるが、そ れ以前の明治4 (1871)
年に早くも海軍予備 炭坑が設定されている[工部省沿革報告、明治 4
年8
月19
日]。すなわち「肥前国平戸同唐津
二県下ノ石炭山(平戸県大瀬山、唐津県下上松浦
郡本山村岩屋村浪瀬村上平山村ノ各村中所々ニアリ)ヲ受領掘採センコトヲ兵部省ヨリ来求ス。乃 チ之ヲ諾ス」。これらの村は幕藩体制下にあっ て幕府の天領であったが、維新政府によって 把握され、その直接的領有下にあったもので ある。幕藩体制下での土地所有は封建領主 による最終的な所有権を保持した制度であっ た。維新政府はその最終的な土地所有権を、
地表面に関しては地主的
(私的)
所有を確立 して地券を交付し、他方で地下・地中に存在 する鉱物資源に関しては国家政府の所有とし て確保し、鉱区、借区を請負う者に対して借 区券を交付していったのである。5 .高島炭坑官収
<官収交渉1872 年 5 月〜 1874 年 1 月> 明治
5 (1872)
年5
月10
日、工部省が鍋島家の高島炭坑営業許可申請を却下し、日本坑 法での外国人との共同開発は許さないとする 規程により「以テ該炭坑ヲ官収シ、本省ノ所 管ト為スヲ議決」
[工部省沿革報告、p. 118]
す ることになり高島炭坑官収が事実上決まっ た。これにより高島炭坑責任者の松林源蔵は 辞職し、炭坑経営一切を伊万里県へ引き継ぐ ことになった。これから明治7
年1
月に官 収手続きが完了するまで1
年8
カ月間を要 して、高島炭坑をめぐる交渉が行われた。明治
6 (1873)
年1
月、宮本外務大丞から 工部省宛てに高島炭坑の件について「英米 公使幷和蘭商社代人ボウトイン⑨とも本日出 省外務卿引合の上来二月三日第十時より於 本省」にて談判を始めるので吉井権頭(工部
省)ならびに関係官員の出席を求める書簡(明
治6
年1
月30
日)を出している。翌日には吉 井鑛山権頭から宮本外務大丞宛てに「高島炭 坑手続取調書送付ノ件」として付属書三通を 添付し送っている。これは既に本論で論じて 来たことで、佐賀藩とグラバー商会とが高島 炭坑の共同開発に至る経緯、およびその後の ボードイン商社との炭坑経営をめぐる交渉過 程と内容を詳しく説明したものである。[日
本外交文書<6>、pp. 554-557]その
2
月3
日に外務省において、副島外 務卿、吉井鑛山権頭、蘭代理公使および英公 使との話し合いがもたれた。それは高島炭坑 の開発状況とそれに要する資金および今後の 営業をめぐる談判であった。結論の出ないま ま蘭代理公使が要望を述べ、それをのちに書 面にて差し出すことになった。[日本外交文書
<6>、pp. 557-559]
明治
6 (1873)
年9
月26
日、上野外務少輔 から米国公使宛てに「高島炭坑回収ノ儀和蘭 商社代人「ボードイン」ニ通達方依頼ノ件」で電報を発し、すべての高島炭坑に関する勘
⑨ 明治
3(1870)年 10
月に、破算したグラバー商会の債権者会議が開かれ、オランダ商社がその負債を代弁済して高島共同経営を引き継いでいた。