デューイにおける初期のカリキュラム論
『児童とカリキュラム』(1902)を中心として
関 勤
(1984年11月5日受理)
1.カリキュラム論における歴史的課題一子どもの生活や経験の価値と教材の価値との対立 カリキュラムに関して論究あるいは検証されるべき課題はきわめて多様である。たとえば,歴史的課題 としては,(九社会的変化に伴うカリキュラムの改造,{イ),教育目的に具体的に連続するカリキュラム,(軌 カリキュラムの統合化と細分化等があげられるだろうし,また,上記の課題を基底にふくみながらも,現実的 課題としては,(エ}.子どもの発達に即応したカリキュラムの構成,(れ各学校段階を一貫するカリキュラム編 成,(鉱カリキュラム編成における自由化と統制化等が指摘されるであろう。しかし,子どもの生活や 経験の価値を主張する立場と教材(教科)の価値を主張する立場の対立の問題こそ,カリキュラム論にお ける根本的課題,すなわち,歴史的課題であると同時に現実的課題であると考えられるのである。
(1)教育過程における主体的契機と客観的側面……いずれに教育的力点をおくか
今野喜清はカリキュラムの定義に関する叙述のなかで,「いずれにしても,カリキュラムというコト バが含意することは「教育と訓練のために意図的に構成された内容」を越えるものではないが,教育過 程における主体的契機(学習者の経験や活動など)と客体的側面(文化財や教科や知識)のいずれに力
点をおくかによって 進歩的。カリキュラム観であるか.あるいは 伝統的.な概念規定であるカ㍉な ηどの検討がなさ鞄てきた」,といっている。ここで,教育過程における主体的契機と客体的側面のいず
れに力点をおくカ㍉という問題は,カリキュラム論における子どもの生活や経験の価値を主張する立場 と教材の価値を主張する立場の対立の問題と,基本的に同一であるとみとめられるであろう。
なお,今野は,以上の問題について,「歴史的にみて,教育観ないし学習観の本質的な差異一たと えばわれわれがなに気なく 新しい教育。とか 古い学習観。とかいう場合には,大まかにいえば人間 主体と環境(客体)との相互作用の働きである人間形成過程のうちの,主体と客体のいずれに教育的な 力点をおくかによって判断されてきた。これまで,客体の側すなわち文化遺産や体系的・客観的知識を 重視し,これらの伝達・注入に力点をおく立場を 伝統的教育.とか脈注入主義的教科主義.とかよび,
これに対し主体の側っまり子どもの経験や興味・欲求などを重視し,これらの主体的な組織や創造を教 育活動の本質とする立場に 新教育.とか 児童中心主義,,の名を与えたことを,教育史がわれわれに 知らせてくれている」2},と説くことによって,教育的な立場の違いとされるものの根源力㍉実はカリキ
ユラムにおけるこの対立に由来するものであることを明らかにしている。
さらに,かれは,カリキュラムにおける以上の対立の姿を,「たとえば,人間形成過程のうちの客体 の側,すなわち文化遺産や体系的知識を重視し,それらの伝達を強調して構成されるカリキュラムを 教 材中心型。とよんだり,子どもの経験や活動の主体的組織を意図して構成されるカリキュラム形態を 経 験・活動中心型.と名づけたりする」3㌧と整理したかたちで示しているのである。
これらの論述を根拠として,われわれは,人間主体と環境(客体)との相互作用の働きである人間形 成過程のうちの,主体と客体のいずれに教育的な力点をおくかの問題,っまり教育過程における主体的 契機と客観的側面のいずれに力点をおくかの問題は,分裂と対立のままに捨ておかれ,統一,止場の状 態からはほど遠いのだ,といえうるであろう。さきに子どもの生活や経験の価値を主張する立場と教材
(教科)の価値を主張する立場の対立の問題こそ,カリキュラム論における根本的課題すなわち,歴 史的課題であると同時に現実的課題であると考えられるといったのは,この意味においてである。
(2)デューイのThe Child and the CuMc凹lum(1902)におけるカリキュラム論の概観 デューイの教育学上の諸著作,『学校と社会』,『民主主義と教育』,『経験と教育』などで,カリ キュラムの問題に論及していないものはひとつもない。とりわけ,初期のカリキュラム論に関しては,
『学校と社会』が重要な意味を持つであろう。しかし,『児童とカリキュラム』は,本文31頁にすぎな い小著ではあるが,デューイが,児童と教育内容との根本的関係をどう認識すべきであるかを,真正面 から説いたものとして,かれのカリキュラム観を把握するのに重要な文献である。この文献は,デュー
イのカリキュラムの哲学を明示するものといえよう。
本書の邦訳をはじめて公にした杉浦宏は,「訳者のまえがき」のなかで,つぎのように語っている。
「偉大な革新的思想家の思想を知る最上の方法は,その思想家の書いたものを熟読することである。創 造的な思想家の新しい観念を,それの研究者たちの解説より理解することは,結局間接的理解の域をで ないからである。『児童と教科課程』は,デューイが1902年に出版したもので,その後多くの版を重ね ている小冊子ではあるが名著の一つである。もともとこの「児童と教科課程』とそれより少し前に出版 されたこれまた名著の一つ『学校と社会』(1899)は,ともにデューイが実際の教育に従事してえた諸 成果といえる。デューイのこの両著は,当時の教育界を活気づけたばかりでなく,彼のそこでの理論は 4)
l々を納得させるものをもっていた」
本書におけるカリキュラム論の概観
デューイが,本書においてどのようなカリキュラムに関する主張をしているのかを概観し,できるな らば,それを図式的に示しておくことは,今後の叙述の理解を助けると思われる。次がそれである。
① デューイの批判するもの一児童とカリキュラム(教材)を基本的に対立させる立場 それには次の二つのものがともにふくまれる
A 子どもの生活や経験の価値を無視して,学科重視を主張する立場 (論理的な立場)
B 教材の価値を無視して,子どもの生活や経験の重視を主張する立場 (心理的な立場)
② デューイの主張するもの一児童とカリキュラム(教材)を教育過程のなかで相互作用をするも のとしてとらえる立場。両者はともに固定的なものでなく相互作用のなかで変化してゆくものであり,
また,相互作用のなかで対等に五分の重みをもつものである,ととらえる立場。
2.デューイの批判の対象一児童とカリキュラム(教材)を基本的に対立させる立場
デューイは一貫して, 「教育過程における根本的要因は,未熟で未発達の人間(子ども)と成人の持 つ成熟した経験のなかに実現されている社会的な目的,意味,価値である。教育過程はこれらの諸力の 正しい相互作用である。もっとも完全な,もっとも自由な相互作用を促進するように,各々の要素を他 の要素との関連で把握することカ㍉教育理論の本質である」5,,という考え方を堅持している。これは,
児童とカリキュラム(教材)とが教育過程における根本的要因であり,この二っの要因の正しい相互作 用によってのみ真の教育が実現せられるという考え方である。だから.かれは,児童と教材という二っ の要因を,個々別々に見ること,他の条件を無視して一条件のみを強調すること,二つを敵対させるよ うに扱うこと,のいずれも,真に重要な問題を,非現実的な理論的問題にすりかえるものと批判する。
(1)子どもの生活や経験の価値を無視して,教材(教科)の価値を重視する立場の主張
デューイは,この立場の主張を,つぎのように具体的に描写している。「●子どもの生活は,小さな 狭い,しかも粗野なものではないのか。しかるに諸学科は,意味の豊富さと複雑さとをもった広大な宇 宙をあらわしている。●子どもの生活は利己的で.自己中心的で,衝動的ではないのか。学科には,真 理と法則と秩序から成る客観的世界が見出される。●子どもの経験は,その時々の気まぐれや周囲の事 情にひきずりまわされるところの,混乱したあいまいな不確定なものではないのか。学科は,永久的な 一般的な真理を基盤にして配列された世界,すべてが測定され,定義されている世界.したがって,子 どもの個人的な特異性やむら気や経験を黙殺し最小限にした世界,すなわち,道徳的世界へ導くものな のだ。子どもの個人的なそれらのものこそ,われわれがそれから離脱する必要のあるものなのだ。それ らのものは,覆いかくされ.または,消滅されるべきものなのだ。●教育者として.われわれの仕事は,
(子どもの)これらの表面的な,しかも偶然的な事柄を,安定した,しかもよく秩序づけられた現実 6♪
irealities)へと交替させることである。これらの現実は,学科や課業の中に見出されるのだ。」
教材の構成法 上述のように,子どもの生活や経験の価値をまったく無視し,教材(教科)の価値を 一方的に重視するこの立場における教材の構成法は,つぎのように説明される。各々の題目が学科に分 割され,各々の学科は(教科書中の)課へ,各々の課は特殊な事実と公式へと分割される。子どもは,
これらの分割された部分を習得するように一歩一歩と前進させられ,最後に全領域を学習するようにな る。その全体が眺められた時には非常に長いように見られたその道筋も,容易にたどられ,特殊的な段 階の連続として考えられるのである。かくして,教材の論理的な細別と論理的関連が強調せられる。
教授上の問題点 この立場における教授上の問題は,教材の論理的な部分品とその配列をうまく与え る教科書をいかにしてうまく手に入れるかということであり,また,これらの割当てられた教材の部分 品を,同じように明白な,順序づけをした方法で.学級(の子ども)の中へうまく提示するということ である。この立場では,教材か目的を提供し,教材が方法を決定すると考えられている。
児童観 この立場においては,子どもは,ただ成熟させられるべきところの未熟の存在にすぎない。
子どもは,ただ深められるべきところの皮層的な存在にすぎない。子どもの経験は,拡大されるべきと ころの狭い経験にすぎない。受け入れることだけが彼の役割と考えられている。子どもの役割は,かれ が(大人の)思うままのもの(従順なもの)となるとき,そして扱い易いものとなるときにのみ,完全 にはたされるのだ,と考えられる。
(2)教材の価値を無視して,子どもの生活や経験の価値を重視する立場の主張
一見して,デューイはこの派の代表者とみなされかねないのだが,かれは断固として,この立場にも 組していない。この立場もまた,デューイからすれば,片手落ちの主張をしているにすぎない。デュー イによるこの立場の主張の要約を見てみよう。「児童こそ出発点であり,中心であり,目的である。か れの発達,かれの成長こそ理想である。それだけが標準を与えるのだ。子どもの成長のためにこそ,す べての学科は手段として役立つものなのだ。それらの学科は,(子どもの)成長の必要のために役立っ
時にはじめて価値をもつ道具なのだ。人格,性格は教材よりも価値の高いものである。目標は知識でも 情報でもなくて,自己一実現である。知識の全領域を所有したとしても,自己自身の自我を喪失するこ とは,宗教における場合と同様に,教育においても恐るべき破局である。さらに,教材は決して外部か ら子どもの内部へ注入することはできない。学習は能動的なものである。それは情神のはたらきによる 到達を意味している。それは内部から出発する有機的同化(organic assimilation)を意味する。文 字通りに,われわれは子どもと同じ立場をとらねばならず,また,子どもから出発しなければならない。
学習の質と量とを決定するものは,子どもであって教材ではない」η
教育の方法 上述のように,この立場は子どもの側の価値を強調するあまり,それと調和のとれた重 みをもったものとして教材の価値を認めることに失敗する。教育過程における客観的側面(教材)の価 値を無視して,一方的に感傷的に子どもの側のみを賛美することは,対立的立場にあるものの運命と同
じように,この側もまた教育における失敗者たることをまぬかれない。
この立場における教育の方法は,つぎのように説明される。唯一の重要な教育の方法は,精神がその はたらきによって到達し,そして同化するときの,その精神の方法(学習法)である。教材は精神的食 物にすぎないし,滋養になりうる性質に富む材料である。材料は,それ自身を消化することはできない。
材料は,みずからすすんで骨となり筋肉となり血液となることはできない。学校において,生命のない もの,機械的なもの,しかも形式的なものが生ずるまったくの源泉は,まさに,子どもの生活と経験と をカリキュラム(教材)に従属させることにある。「学科」が退屈なものと同義語となり,「課業」が 義務として課された仕事と同一化されることは,このことから由来するのだ。
デューイが,以上のような主張,すなわち,学習における子どもの能力や活動と教材とを分離する考 え方,あるいは,片側のみを重視する考え方に対し,どのような批判を加えたかは,すでに拙論81にお いて考察が行われているので参照されたいと思う。
③ 児童とカリキュラム(教材)との基本的対立から生じた教育用語における対立
デューイは,児童とカリキュラムとを基本的に対立させ,その一方のみの優位性を一方的に主張する 二つの立場,あるいは二つの学説は,一連の対立する教育用語を生みだしたとしてその例を簡条書きに
して示している。それを整理して示してみよう。
カリキュラム(教材)重視の立場 子どもの生活や経験を重視する立場
① 「訓練」という言葉一学習指導要領を誇張 ① 「興味」という言葉一自分たちの旗じるし
する人々の合い言葉 , として,「児童」を美しく描く人々の合い言葉
② 論理的な立場 ② 心理的な立場
③ 教師の側における適切な訓練と学識の必要の ③児童に対する同情の必要および児童の自然的
強調 本能に関する知識の必要の強調
④ 「指導と統制」一この立場のスローガン ④ 「自由と創意」一この立場のスローガン
⑤ 「法則」一つよく主張されること ⑤ 「自発性」一つよく要求されること
⑥ 古いもの.完成されたものの保存に親近性 ⑥ 新しいもの,変革,進歩に愛情
⑦ 相手への告発のことば一混沌と無秩序 ⑦ 相手への告発のことば一生気のなさと常規的
⑧ 相手への非難一神聖なる権威をもった義務 ⑧ 相手への非難一暴虐なる専制主義による個
の否定 性の圧迫
、
3.デューイの主張一児童と教材(教科)とを相互作用においてとらえる立場
デューイは,前述したような児童とカリキュラム(教材)の対立が,なんら論理的結論に到達しえな いことを知っていた。むしろ,かれは,理論のための理論でなく,理論と実際的な常識とをより密接に 結合させる必要こそが,(かれの説く)本来の主張へ立ち返えるべきことをわからせてくれるというの である。それは,教育過程は正しく相互作用の,相互調整の過程であるから,教育過程のなかには,児 童とカリキュラム(教材)という二つのものを必然的に相互に関係づける諸条件がある,という主張で
ある。
この時以後,デューイの論究の努力は,教育過程における主体的契機と客観的側面に対して,いずれ に教育的力点をおくかというような考え方,換言すれば,教育過程における子どもの生活や経験の価値 と教材の価値とを対立させるような考え方を克服して,二つの要因をいかにして相互作用をするものと して関係づけるか.ということに向けられる。かれは,その場合に,子どもの経験と種々の形式の教材 との間には,その本質上裂け目(相違)があるという偏見の除去こそ,問題なのだと指摘している。
問題を解決するための検討の視点 デューイが設定するそれは,「児童の側面から見れば,この問題 はっぎのようになる。すなわち,系統化(組織化)された学科に含まれるものと同種の諸要素一諸事 実と真理一が,すでに児童の経験のなかでどのように存在しているか,を発見する問題である。また,
より大切なことだが,児童の経験の水準にあわせて.教材を発展させ組織するときにはたらく, (大人 の)物の見方(態度)や動機や興味が,児童の経験のなかにどのように存在しているかを発見する問題 である。学科の側面から見れば,その問題は,学科を,児童の生活の内にはたらく力(諸力,能力)の 副産物(自然の結果)と解釈する問題であり,児童の現在の経験と将来のゆたかな成熟の間に介在する 段階の発見の問題であるf,,というように示されている。この視点は,児童の経験と系統化された学科
とを相互の立場から結合させよう,両者ともに内在的に相互に結びっき作用しあう要素を秘めているこ とを発見しよう,という方向を示している。このような視点からデューイの導き出す解釈を聞いてみよ
う。
(1)子どもの経験と教材(系統化された学科)は連続的な性質をもっている
デューイは,前述のような視点に立って検討する場合,大切なことは,教材観の変革,すなわち,子 どもの経験のぞとがわで固定されたもの,それ自体で完成されたものという考え方を捨てること,また,
子どもの経験観の変革,すなわち,堅固な不動のものではなくて,かえって,流動的の,未発達の,生 き生きとしたものとして見ること,であると指摘している。この見方ができれば,二つの点が一直線を 規定するのと同様に,子どもとカリキュラム(教材)が,教授というただ一つの過程を規定するもので あることが容易に認められるとしている。そして,デューイが教育は経験の連続的再構成という意味は,
子どもの現在の経験から,学科と称するところの真理の組織された集合体によって代表されるものへの 移動なのだというのである。
デューイは,経験と諸学科との結びつきを強調して,諸学科はそれ自身経験である,あるいは,諸学 科は,幾世代にわたる人類の努力,奮斗,成功の累積的結果を具現したものであるという。担し,正確 な定義づけのために,つぎの言葉も忘れてはいない。諸学科は,経験を,経験の単なる蓄積としてでは なく,また,はらばらに引き離された経験の雑多なる堆積としてではなくて,ある組織化された,そし て体系化された方法で一すなわら,効果的に系統的に叙述されたやり方で一あらわしたものである。
子どもの経験と教材の連続についてのデューイの強調は,「子どもの現在の経験のなかへ入ってくる ところの事実と真理,および,諸学科の教材のなかにふくまれているところの事実と真理は,一つの現 実をあらわす最初の言葉と最後の言葉である。それを相互に対立させることは,同じ成長しつつある生 活の幼年期と成熟期とを対立させることである。それは同一の過程の動きつつある傾向と最後の結果と を相互に対立させることである。それは子どもの本性と宿命とが相互に戦うと考えることである」101と 表現されている。デューイの思想の特色に連続観と呼ばれるものがあるが,以上もその一つであろう。
② より大きな成長一過程の光に照らして,子どもの生活を解釈し指導する必要
デューイは,子どもを,あるいは子どもの現在の経験を,どう見るかについての二つの極端な立場,
すなわち,一方は全面的な価値否定,他方は感傷的な理想化(賛美)について,どちらもその根源を共 通の誤謬においているとみる。その場合の共通の誤謬とは,成長あるいは運動の諸段階を.切り離され
た,そして固定したあるものとして考えるということである。かれは,古い教育の弱点と新教育の危険 性とが,ともに子どもの見方の極端な誤りによるゆえんを,「全体として古い教育が,子どもの未熟性と 成人の成熟について望ましくない比較を行ない,子どもの未熟性について,できるだけ早く,しかもで
きるだけ多く,それから離脱すべきものとみなしたことは,古い教育の弱点であった。だが,それと全 く同様に,新教育が子どもの現在の能力を,究極的にそれだけで重要なものとみなしたことは,新教育 の危険である」1Qとたくみに言い現わしている。
子どもの現在の経験は,究極のものではなくて過度的のものであり,それ自体で完全なるものではな くて,ある成長一傾向の徴候あるいは指針であるにすぎない。実をいえば,子どもの学習や学力は,流 動的なもの,動きつつあるものである。毎日毎日,1時間ごとに変わるものである。こう考えてくると,
子どもの生活を解釈し指導するために,成人の精神の体系化された,規定された経験が価値をもつこと が理解されてくるのである。われわれが教育上必要とするものは,子どもが現在あらわしている力の発 揮や衰退を,それらがその中である位置を占めているなにかより大きな成長一過程の光に照らして,解 釈したり評価したりすることを,可能にせしめるところのあるものである。解釈と評価の基準である。
デューイは,より大きな成長一過程の光に照らして,はじめて評価できる子どもの行為をつぎの三種 に分類して説明してくれる。① 子どもの行為のあるものは,衰えつつある傾向の徴候である。それは 役割をすでにはたした,そして生き生きした効用を失った器官の作用の残存物である。注意をはらう必 要はない。②他の活動は,最高位に達している能力と興味の徴候である。それらの活動に対しては,
鉄は熱いうちに打てという格言が適用せられる。③ 子どもの他の行為と感情は,予言的なものである。
それらの活動は,はるかな未来においてのみしっかりと光り輝くであろうところの光のはじまりをあら わす。これに関して今なすべきことは少なく,将来をまちながら,完全な機会を与えることだけが必要 である。
デューイは,科学や歴史や芸術の教材は,真の子どもの発達の姿を,われわれにわからせるのに役立 つのだ,と言いながら,「われわれは,子どもの傾向,あるいは,子どもの実行のいずれかの意味を知 ろうとする場合,それらのものを,花や果実などを生ずべきあるくだものの発芽しつつある種子,ある いは,開きつつある蕾として考えなければ,それを知ることができない」1?というたとえ話をしている。
これは,われわれが,これらの教材に関する知識をもつことによって,子どもたちが,その発達の諸段 階において,いろいろ多様に示す興味や行為や能力の意味をほぼ正しく解釈し指導できることを意味し ているのであろう。より大きな成長一過程という基準あるいは標準をもたなければ,われわれにとって
子どもの示すあらゆる行為は,すべて同じように区別なく,善にも悪にも見えてしまうのであろう。
(3)諸能力や諸興味を発達させるには,教育的媒介が必要である
子どもの発達について,かれは,「発達とは,何かが精神から出てくることを意味しているのではな い。現実に必要とされるものは経験の発達であり,経験への発達である。そして,このことは,諸能力 や諸興味がその本来の作用をするのに価値あるものとして選択されるのを可能にするところの教育的媒 介が用意されていなけれ1黄不可能なことである」131と述べ,能力や興味はみずからをはたらかせるた
めには,それが相互に作用し合う材料(教育的媒介)を必要とすることを強調している・
旧教育に対して,かれは,それが児童の現在の経験のなかに本来的なものとして存在する力動的な性 質,発展する力を無視し,そしてそれゆえに.指導と統制は,まさに子どもに専断的にある所与の道を っけてやり,そして子どもをしてその道を歩むように強制することがらにすぎないと仮定する傾向をも っていたと批判するが,同時にかれは,返えす刀でいわゆる「新教育」に対しても痛烈な批判を加えて いる。「新教育」は,まったくあまりにも形式的な,そして空虚な方法で発達の観念を考えるという危 険のなかにある。子どもは,かれ自身の精神からあれこれの事実あるいは真理を展開し発現するように 期待されている。子どもは,思考が開始され,そしてそれが正しく指導されていく場合に必要な諸条件 がなんら補充されることがなくても,自分自から物事を考えだし,物事をつくり出すように考えられて いる。しかし,何もないものから発達できるものは何もない。これは,新教育が,子どもの精神,子ど もの能力,子どもの興味を一方的に理想化し,過信し,実は子どもの能力や興味が現実に作用するため に必須の材料,いわゆる教材の組織に無関心だったずさんさを指摘したものである・
旧教育も新教育も,ともに発達の概念に無知であるとするデューイは,「外部から子どもに強制する ことと,子どもを全く放任することについて,どちらか一方だけを取るべきでない(つまり別の工夫が ,
?驕jことを知らない人々がいる。別の工夫を知らないがゆえに,ある人々は一方を取り,他の人々は 別の方法を取る。そこで両者とも同じ基本的誤謬に陥ってしまう。両者とも発達のことを口にするが,
発達が適切で正常な諸条件が与えられた時にのみ成就されるところのそれ自身の法則をもった明白な過 程であることを見すごしているのだ141と批判し,発達における精神と教材の関係を明らかにしている・
(4)教材が子どもの現在の経験と直接の関係をもたない場合の弊害
「学習者の立場から見れば,科学的形式(論理的形式)は到達しようとする目標であって,そこから 進み出す出発点ではない」1?この命題は,デューイが旧教育の学科課程に対しきびしい批判を加えっづ けたときの基本的観点である。かれは論理的形式によって整えられた教材は,教師(大人)の教材では あっても学習者(子ども)の教材ではないこと,それは子どもの経験の立場にたって心理化される必要 があることを強調したものである。ここで1ま上記の弊害とされるものを摘記16}しておくことにする。
第一,子どもがすでに見たり,感じたり,愛好したりするものとなんら有機的な関係をもたないこと がらは,その材料をして純粋に形式的な,そして記号的なものたらしめる。単なる記号的なものは・死 んでいるもの,不毛のものである。
第二,動機の欠除。課業として与えられても,必要と目的を関連させる連鎖が欠除している。子ども と教材との相互作用は生じようもない。子どもと教材との相互作用とは,子どもの精神的要求と材料の 供給との相互作用と同意義である。
第三,最も科学的な材料でさえも,外的な,既成の形で提示されるとき,子どもの精神的要求と材料
の供給との相互作用の性質を喪失してしまうのである。
総体として,これらの教材は生き生きとした動機を欠除しているので,それをうめ合わせるために,
第一の代用品として,きまりきった行動の様式のみを要求する諸条件を連続的に供給すること,第二の 代用品として,対比一効果(小言,嘲笑おのこし,欠点,落第等)の方法がとられたりする。
注
P) 今野喜清 『教育課程論』 (第一法規出版,1981) p.48。
2) 同書, pp.57−58。
3) 同書, p.59。
4) ジ・ン・デューイ著。杉浦宏訳 『児童とカリキュラム』 (関書院新社,1967) p.1。
5) J.Dewey, The Child and the Curriculum,The University of Chicago Press,1902, p.4。
6) Ibid., pp.7−8。
7) Ibid., p.90
8) 拙著 『教育的経験の探究』 (教育調査研究所,1982)pp.108−113。
9) J・D・w・y・Th・Child and血・C・πi・ω・m, Th・U・iversity・f Chi・ag・P・ess,1902, P.11。
10) Ibi(L, p●12。
11) Ibid., p.15。
12) Ibid., p.16。
13) Ibi(L, p.18。
工4) Ibid。, p.17。
15) 拙著 『教育的経験の探究』 (教育調査研究所,1982) p.61。