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の数を示してゐるが、又、各尋常中學校を比較して見れば、

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(1)

九州各縣尋常中學

雌繊雛數.

二十一年九州各縣人口比較

宮崎縣一一一八三、二四七人

鹿兒島縣

九二五、六一五人

の数を示してゐるが、又、各尋常中學校を比較して見れば、

生徒數及経費

名調査日五年四年三年二年一年

長崎縣尋常中學校明治汁二年十一月一日一六一九四四五四一○八

私立大村辱常中學校

一一一一五三六四四八一

平戸猶興館明治廿二年十一月中旬1二一五六四七四八

顧岡縣修猷館明治#二年九月末二七五一五七二九一一○一一一

畳津尋常中學校明治汁一一年十月末二○二八一一一八七八一○五

久留未明善校

一六一一五一一一七八○一三一

柳川橘蔭學館明治汁二年十一月初一四二一一一一一一五五一一一八○

大分縣尋常中學校明治廿二年十一月初一○一四三○四五七一

佐賀縣尋常中學校明治汁二年十月末二六四一七七一○一一一二

私立濟々饗明治汁二年十一月竹四日i八一一一六九五一四七

宮崎縣零常中學校明治廿二年十二月初1111八○

となってゐる。以て當時に於ける九州各縣民度の一端を知ることが出來よう。 第三章新梗建築と其後の第五高等中學校

一六四

一金千七百八十圓 宮崎縣負捲額

(千一一一百三十五圓)

一金三千七百一一一圓 鹿兒島縣負婚額

o一千七百七十七回)

合計二寓五千圓

となってゐるが、雨者を比較して見ると、長崎・熊本に於て著しく減じ、輻岡・大分・佐賀・宮崎・鹿兒島に於て相

當額を増してゐるのは、「斯ク修正議決セシ要旨ハセ縣聯合ノ學校費ナレハ其分捲額一一於テモ一半ハ各縣國税高及

地方税高ヲ率トシ一半ハ人口数ヲ率トシテ之ヲ定ムルハ正富ニシテ生徒修學等ノ便否一一依り特一一學校設置及嘗學

部所在ノ縣へ増加スヘキノ理ナシ」と云ふに在ったものシ如くである。(明治二十年十月一一十七日官報)

然るに同年八月七日、内務大蔵雨大臣連署を以て、來ろ一一十二年度以降は、追って何分の心得方相示す迄、地

方税の分擴を止むる旨の通知があった。(濱尾氏演述参看)而して明治二十一年八月一一十二日の官報には、「熊本縣

一一於テ第五高等中學校明治一一十一一年度経費分捲額議定委員ヲ互選セシメタル一一常置委員嘉悦信之、紫藤寛治、菅

貫ノ三名當選セリ」とあれば、果して一一十一一年以降止められたか否かは分明でない。

明治廿一年九州各縣人口比較

長崎縣七○八、五一三人

幅岡縣一、一四六、六○九人

大分縣七六一、五五六人

佐賀縣

五二一一一、九二七人

熊本縣一,○○三、一一一七○人

第三章新校建築と其後の第五高等中學校 第四節御宸署の勅語と勅語演説 總計

二四一一九七一七二三六七二六九二八九二○五一七○三五七二八六

八○

一六五 一ヶ年經潰圃八℃一一一四三・九一一一一四、五八三・四一八四、七一○・○○○七、三一一一一一一・一一一一一一五五、二八四・○○○四、二七五・○○○五、九一一・○○○六、八四三・二○五九、三七二・○○○四二一八・五二○二、四七七・八五一一一

(2)

『qⅡ■】凸■■Orp・ロアリー皿P。。■ローmⅥ「■■qqH引引【明月H『fn1N刊Ⅲp『、■■u■JⅡ『叱似j』-桴fr0凸●8rII‐北‐1-.

辨靜省の

激育勅語下賜

徳と獣に御 の國米於下 峡民心け賜 如遁辞ろ前

校賓と準

校喪

群氏鐸泰西勧善訓蒙、ウエーランド原著阿部泰藏鐸修身論、ピシオリンロ原著津田信道・西周筆記祁田判官讓性

法略等の口授に止め、それ以上の級より上等小學には、何等課することもないと云ふ有様であったのである。而 して勧善訓蒙の如き、フランス共和國の政治主義や、基督教の教義に依るものであることは勿論である。且叉、 第三章新校建築と共後の第五高等中學校

一一ハーハ

我が狡の寶物は何かと間はれたならば、誰しも一一一一百下に、御哀署の勅語竝に「瑞邦渭濟美Lの御額だと答へるに 相違ない。又、準校賓とも濡すべきものには、竣功間もない頃の富眞、勝海舟翁の額、嘉納校長の額、ヘルン氏

の試験問題、夏目教授の祀饒等であらうか。

蕊蕊蕊

凪蚤椰似抵併岱〈か可式人

|…

第三章新校建築と共後の第五高等中學校 中學校に於ては、その後編・績編や、箕作氏課佛蘭西民法等を採用してゐたところも 少くないと云ふ有様である。かくて明治十一年頃から、法律書採用の儀は中止させら れ、十四年には、畏くも明治天皇の叡覧を仰いだ後に、小學校教員心得なるものが 頒布せられ、中等科に課すべき歴史の如きも、建國の鵠制以下の諸項目に於て、「務メ テ生徒ヲシテ沿革ノ原因結果ヲ了解セシ〆殊一一尊王愛國ノ志氣ヲ養成センコトヲ要

ス」と示されてゐる。さりながら、明治十七八年頃に於ける小學兒幸二は、君臣の關係 目すら之を明議してゐる者が少ないと云ふに至っては、洵に憂慮に堪へない次第で、 教明治天皇が、茨城縣下の大演習から還御遊ばされて間もなく、千古不磨の勅語を、 授山縣總理。芳川文相を御召しの上御下賜になったことは人の知る通りである。而して 勅語中の「常一一國憲ヲ重ンシ國法一一遵上Lの一句に開して、之を入るべきか否かに就

いて、元田侍講と芳川文相との間に一息見の相違が生じ、半年近くも御手許に止め置か 紐せられ、御熟考の末御決定遊ばされたと拝間するだに畏き極みで、一一賢の意圖は、時 酔代の風潮を物語るものであると老へられる。

此の如くにして、今や全く国民道徳極養の一大方針は確立せられ、文部省は、訓令

第八號を以て、

今般教育一一開シ

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院。.、ofIUL7.-.蘂:;H1X:.::;・ヅーブ.

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部一の題問験試の氏ンルヘ

抑足明治改元の當初に於て、明治二年大政

官布告には、「漢洋は皇道の羽翼たるべき事L

と明示されてはゐるが刀大勢の赴くところ、

泰西の文明に心酔して、事細大となく取入れ

たことは錘にも述べたが、殊に明治五年の學

制頒布に際しても、國民の徳育に開しては、

何等の主義方針もなく。例へば下等小學校の

P、、、

第一年級の修身は、之をぎやうぎと訓じてb》

幅澤氏讓童蒙をしへ草の如きものを口授し、

第二年級に在りては、佛國ポンヌ原著繁作鱗

六 七

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(3)

けり

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御哀署の

勅語下賜 熊本縣に

於ける勅 語謄本交

付式 勅語奉読

式と演説

署學部に 於ける奉 拝式と本 校校長室 に奉掲し

ある勅語の大額

IF○制団PhP1L■■I叺珂、『ぺ的四『四句コゴヨ■ユ■■q吠巴R凸8. 第三章新校建築と共後の第五高等中學校一六八

マも

勅語ヲ下シタマイグルニ付赴く謄本ヲ頒チ本大臣ノ訓示ヲ護ス管内公私立學校へ各一通ヲ交付シ能ク

聖意ノ在ル所ヲシテ貫徹セシムヘシ

との訓令を發し、同時に訓示をも出した。本校に於ては、煥發の直後即ち十一月一一十三日、新嘗祭の佳辰を卜し て、午前八時より、雨天鵠操場に於て、奉讃式を墨行し、中川校長、恭しく勅語を奉讃、続いて訓話を爲し

かずひ刀

たる後、秋月胤水教授は、至誠丹心を軍めて、一場の演説を試みたのであるが、時と人とを得たその奉読式竝に 演説が、如何に深刻なる印象を與へたかは、唯且想像するだけである。因みに、熊本縣に在りては、二十四年一

月六日、各郡市長各縣立學校長等を廃内に召集して、勅語謄本の交付式を行った。 然るに、本校に對して、畏くも明治天皇が、・御名御辰署の勅語を賜はったと云ふことは、當時の高等中學校

か、如何に世に重んぜられてゐ仁かか解るであらう。乃ち、明治二十四年一月二十二日、平山校長か、恭しく奉 持して錦任するや、枝を墨げて恐擢欣躍し、奉戴式學行の後は、大正六年五月、奉安所竣成まで、本館階上玄關 上の一室に奉置し、二十四年の天長節には、午前九時、一同本館前に整列、校長教授の外は、||名乃至三名宛、

御眞影と勅語とを拝したる後、雨天篭操場に於て、謄本の奉讃及び演説を爲し、天長節の歌を齊唱し、式後、一

同寄宿舎食堂に於て、祇酒を供せられてゐる。 因みに、醤學部へ御下賜の勅語に就いては、同年一一月十二日、奉拝丼奉讃式を執行したが、校長室に奉掲し

てある勅語の大額に就いては、との通り熊本縣屡宮川某の護書に係る旨の記録か、大正四年雑件綴の中に遣っ

てゐる。

第三章新校建築と其後の第五高等中學佼

■『。,〉胸.汰叩。ⅣIⅢ18.赤涯・咄覗凧丁

(鷺襲學騨童駕綜)

所安奉影眞御

(4)

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←-・Illi・ロ■0■‐11-閂71。 勅語演説ヲ進ツル表

秋且教授

の「勅語演説」

五月酔職の直前には、本校に於て之が印行を爲したのである。而してその内容は、當時の龍南會雑誌にも連裁き

れてゐろ。 御聖影奉安室

大額

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Ⅶ‘・軒8に』

臣秋月胤永

薫沐九拝謹テ表ヲ上ル臣不肖皿リニ乏ヲ熊本第五高等中學校教授ノ職一一承ク伏シテ椎ミルニ 陛下光明隆渥ナル無前ノ叡慮ヲ垂レサセラレ去年十月一一一十日ヲ以テ乃チ教育ノ勅語ヲ隆シ賜上教導ノ基礎

N□Lロリヴーロ』■37

右〈教育ニ開スル勅語ニシテ熊本縣圃宮川某二依頼シ奉篇シタルモノナリ|兀瑞邦鯖一一奉掲シアリシヲ同霞ヲ柔

明治二十四年十月

第三章新校建築と其後の第五高等中學校

第三章新校建築と其後の第五高等中學校

F外一再甲

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【b 戸口■Ⅲ・可P卓凰冤・炉笘野Tl 11iI

■■■P鱗 勅語演説ヲ進ツル表

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第五高等中學校教授正七位秋月胤水

一七一

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■山一ユ

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撹 脂 秋

道ノ教場一一充テタル際奉安室一一移藏ス 筆者の調査する所に依れば、宮川某は、富 岡知事時代の縣鴎で、巌谷一六流の書を善

くし、・時折知事の代筆をも命ぜられてる士

と云ふ。従って、奉南したのも、恐らく明

治二十四年のことと察せられる。

秋月教授は、その後も各地に演説を頼ま

れて、國髄の本義、忠君愛国、國民道徳等

を闘明したのであるが。二十四年十月には

勅語演説を乙夜の覧に供し奉り、二十八年

之一一由リテ固ク立チ生徒ノ方向之一一由リテ

堅ク定マリ多岐亡羊ノ迷夢一期一一シテ鯉メ

グリ臣等教導ノ職ヲ奉スルモノ歓喜雀躍ノ

至一一罐ヘス是一一於テ日夜躯勉以テ微力ヲ議

シ深ク聖旨ヲ生徒ノ心肝一一貫徹セシメン

コトヲ朕幾上畏クモ宣リ給ヒシ大御心ノ

存スル虚ヲ敷行シテ一書ヲ草シ以テ倫理講

説ノ資一一供セリ因リテ今謹テ之ヲ闘下一一奉

進ス若シ乙夜ノ叡覧ヲ賜ハハ臣ノ光榮何モ

ノ力之一一週キン謹テ表ヲ奉シテ以聞ス臣胤

永誠恒誠恐頓首頓首

一七○

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(5)

伊守則ⅢⅡIⅢⅡ曰111.08,,■KqIb0ⅡiIUI卍々I‐DB■■●乱1‐Il0J0qJC『18ⅡgI0Bl0rI

木村弦雄 氏の践文 中川校長 の序文 第三章新校建築と共後の第五高等中學校

一七一一

次に、中川校長の「勅語演説の席上を引用すれば、

世界萬國多かれとも、開關この方、帝統連綿、金甑無職なる、我が御国の一)とき、それ何虎仁かある、殊に我

が叡聖文武なる、今上天皇に至りて、轡きに勅語を降し給ひて、始めて教育の道を教へ給ひしより、山間僻

阪、到らぬ隈なく、聖意の遍く人心に感字せしことは、更にも一一一一戸はす、遠き外國まても、その盛徳の聞えける

こそいともj~尊き御事なれ、嘗て露國の海軍軍嘗のなにかし、我か核に來りしとき、倫理教場に至り、勅語

の御趣旨を聞き、いたく感激して、やがてその鵬本を請ひ求めけるに、輿へければ、なにかし大に謝していへ らく、學校にて,|の宗教をも教へかり皇帝の勅語を授くるは、萬國に比類なき事なり、予必すこれを我か語 に課して本國に途ろへしと一一一一尺b、今や征清連勝、土地割領の勢につれて、我か園の武威の全世界に赫々たる

も、さきに軍隊に降し給ひし物議に基つかすはあらすかし、されば、教育の勅語Q文運を隆興し、國光を宣

揚する大基本たること、素より予か一一一一戸を侍土さることなれば、益その聖旨を發揮して、國民の脳裏に徹底せし

めんこと豈國家の急務ならさらめやは、弦に吾が章軒翁は、兼てより勅語の御趣旨を長みて、博援秀讃して、

我が生徒に教へ授けらるシ、常に熱誠を震きて、感化至らざる所なく、殊に勅語の御詞をロに詞み奉る時に至

りては、感極りて詞絶え、しはし打沈みて講筵滿坐、水をうちたるかことくなりぬること、屡なり、その生徒

の脳裏に浸染せる、最深きを見るに足々かシれは翁のゆく末長く我が校にありて、教育に力議されんこと

は個皆人の切に望む所にして、翁もその髪染めすして尚黒く、歯補はすして未允全かろを、其謙譲の念、と夢

めかたくやあらん、こたひ群して、故山に蹄らんといひ出てられしか峰生徒欽慕の情に土へす、いて勅語の

因りて恩ふに、勅語演説はや御下賜の明年を以て奉進せられたものであるが、

第一一一章新校建築と共後の第五高等中學校 末彫琢ノエ||至テハ量一一翁ノ務ムル所ナラム哉謹テ一語ヲ巻尾一一書シ以テ翁ノ微意一一答フト云爾 演説を摺巻にして、記念にもせむとてn余に序を乞ふ、余尤も翁の去を惜しむ者なれは、いなみかたく、こシ に謹みて勅語のありかたきゆゑよしを述へ、併せて翁の斯の道に講されし程を一一一一一口篇首に冠す

明治一一十八年卯月のそれの日

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1...肥叱躯・錨(.》殉・級「輸醗・勤

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第五高等學校長中川

一兀

而して木村弦雄氏の「勅語演説敵」は、

教育ノ物語學者ノ解鐸スルモノ極メテ多シ井

上文學博士赤松連城師以下十数人一一下ラス皆

各長スル所アリ秋月章軒翁頃者亦ダ勅読演説

ノ署アリ予受テ之ヲ讃ムー一義ヲ鐸スルコト明 断ニシテ意ヲ用ユルコト懇篤ナリ意フ一一衆解

中ノ出角ナルモノナルヘシ蓋翁ノ學ハ實捗ヲ

主トス長スル所説明ノ巧一一アラスシテ而テ心

得ノ手一一在り衆解一一超ル以所ナリ若夫章句ノ

後學木村弦雄

が、二十八年章軒翁の吾が枝を去るに

(6)

DIB●8■2口■■

臨んで、感銘を蕊つた生徒によって印行を企てられたものであることが、中川校長の序にも見えてゐる。古稀翁 》》酔馥》》託罰轌召趾囹》》智吾卍秋肝甸十》曰丘}ヨヱ』丑(》一一『卍}←佃寺》崔啼》一F{府引田Ⅲ四一曰」

第一同卒

業式概況

1-.’川Ⅱ‐・凸,二町①1100冊どB一■95V■ⅢI50IBU■PC 田や□侭jじみ.。,r脳一・・L出Ⅱ・・PZPLT4孑暉l旧い仇,ロvⅢt・I‐■,。‐,釘,い■I 氷令▼向ロ■日,P・■〃哉曲

}鳶二箇年諌十画一〉『隣Ⅲ蝕塁了迩】 》騨電蕊鱗 蕊鑛溌議鐇蝋謹灘駄騨 犠卦簸

圦・トー丹,、除P監守,孔・聖火韻.・轟璽埆鳶瞳珂L疸○も Ⅱ■Pロ

本校創業の際に於て,遠大の抱負を以て豫科第一一一級に入墨した一一十四名竝に六十一名の假入學者中、學業に、 運動に、將龍南會の創立に、不断の努力を続くること五星霜、錘に首尾よくその業を了へた一部法科生四名・同 文科生一一名、一一部工科生五名、同理科生一一一名、合計十四名の人々に對する晴れの第一同卒業式は、二十五年七月

第一一一章新校建築と其後の第五高等中學校

一七五

過日掲示置候勅語奉迎トシテ明廿三日午前第九時當校へ参集スベシ

明治廿四年一月十六日 第五高等中學校長平山太郎殿 迫テ本文謄本竝一一訓示一組〈貴枝醤學部へ交付ノ分一一有之候右申添候也 謄木竝訓示〈別便差立候也 明治廿四年一月廿三日 第五高等中學校 文甲六號 |月廿一日受付第二二賎 教育一一一一關スル勅語親署ノ分既一一下附相成候庭尚勅語謄本竝一一文部大臣訓示各二葉交付相成候條御受領有之度此段申進

候也

右掲示ス 本日勅語奉迎トシテ参集之儀掲示置候虚已||昨夜御到清二付テハ本日校内一一於テ奉拝セシムペシ 但奉拝〈震操教員ノ指揮二依化へシ

第三章新校建築と其後の第五高等中學校

右掲示ス 明治廿四年一月廿二日

第五節第一同卒業式と透別會、附二十五・六年に於ける本校

壯趨の翁軒章月秋

Ⅱ曰0■■■用『ⅢP■仏■甲■呵曰Ⅱ刀Ⅱ02『■■■0Ⅱ

られろ。而して又勺我が五高同窓會が曇に秋月先生特輯號の會報を刊行した所以 でもあるのである。

註下賜ノ勅語〈御親筆ナルヤ果シテ然ル中〈職員生徒奉迎スベクーー付御報示ヲ乞う (此鐇罫繩謝齊) 勅語〈御名丈親筆也奉迎等ノ事〈郵便一一一リ(一月九日付午山校長ヨリ返電) 生徒 今股教育一一關スル哀署ノ勅語ヲ奉持シ・平山校長不日歸校一一付右勅語御到着ノ際市外 一一於テ職員生徒一同奉迎致スベク答一一付同時制服着用校内へ参集スベシ 但時曰く迫テ相示スベシ 右豫メ掲示ス 明治廿四年一月十九日 第五高等中學校

生徒

文部省總務局長辻新次回

一七四

第五高等中學校

d石「HⅥ■1Jザ■」。』FOPulq寸GI●・AL山

生徒 FDN1貯勝菫b・・

参照

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