感情的ではいけないのか一感情の倫理的意義の検討一一 脇 崇 晴
Shouldn,twegetemotional?
-Astudyofthesignificanceoffeelingsinethicg-
TakaharuWaki
Abstract
Theaimofthispaperistoshowthesignificanceoffeelingsinethics・First,I willexplainthatthewayofcaringinterminalcareenablesustoacceptpatient's feelings・Itisimportantfbrpatientstoexpresstheirownfeelingstorelievepain,
anger,griefandsoon、Secondly,Iwillshowthatincidentssuchasethnicconflict cannotbesolvedsimplybyjustice、Hatredanddesirefbrrevengecannotbe
removedbyjudgementsorpunishments・Suchfeelingshavetobehealed・Finally,
Itrytovaluefeelingshighlyfromastandpointofvirtueethics・Accordingto Aristotle,actingwithopportunefeelingsisvirtuous・Herethefbelingsarenot opposedtoreason,butratherreasonable・Everywhereinsociety,expressing feelingsadequatelyisrequired.
は じ め に
東北地方を中心に巨大な地震と津波が襲った東日本大地震はまだ記憶に新しいだろ う。その影響でさらに福島の原発が破損し、放射能漏れが深刻な問題となった。その ような状況下で被害に遭った人々に「頑張れ!」と励ましの声援がたくさん送られた。
しかし、一瞬にして大切な人やものを失って絶望してしまっていたり、あるいは怪我 人の看病や町の復旧作業につねに追われている場合には、励ましはかえって焦りや不 安をもたらすだけで、むしろ逆効果にすらなりかねないのではなかろうか。実際、震 災後に幼い子どもの世話に追われる母親に対してむしろ「ママ無理しないで」、「お母 さんが頑張りすぎないで」という声もかけられた'・励ましが届かない場合、どうすれ ば悲しみから立ち直ることができるだろうか。
では、犯罪や戦争の場合はどうだろうか。そこでは当然、ある犯罪の容疑者に対し て、「法律」によって「裁き」が行われると考えられる。裁きの結果有罪が確定した者 については、その「罪」に対して然るべき「罰」が与えられるだろう。罪を犯した者に はそれに相応しい報復すなわち刑罰が与えられなくてはいけない。しかも、それは公
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的な裁き(国家権力の下での裁判)によって遂行されなくてはいけない。<「罪」には
「罰」を>という応報的な刑罰を犯罪者に課すのが、いわゆる近代的な司法システムで の正当な対処の仕方である。これは戦争においてもしばしば「国際法廷」が設立される と い う 形 で な さ れ て い る 。 し か し 、 そ れ に よ っ て 犯 罪 や 戦 争 で 愛 す る か け が え の な い 存 在 を 失 っ た 人 は 何 を 得 る の だ ろ う か 。 裁 き は 被 害 者 の 憎 し み や 復 讐 心 を 満 足 さ せ た だろうか。復讐は復讐を生み、いつまでも終わらないのではないだろうか。憎むこと でいつまでもわれわれは憎しみの対象に縛られ、苦しみ続ける。憎しみから逃れる術 はあるのだろうか。
これらにおいて問題として残されているのは「感情」の問題である。つまり、絶望や
‘ 憎 し み に 囚 わ れ た と き 、 人 は ど の よ う に し て そ こ か ら 脱 す る こ と が で き る の か が 問 題 となる。こうした感情の問題をどう考えればよいのだろうか。
感情的ではいけないのか
「感情的」、「感傷的」といった言葉にはどうしてもマイナスのイメージが付き纏う。
それは理性を失って冷静でなくなるという意味で否定的に使われる。あるいは、「情に 溺れる」、「情に流される」、「私情をさしはさむ」といった言葉も感情に囚われるあまり 周囲が見えなくなって正しい判断や行為ができない状態を指している。本稿では、とも すれば否定的に捉えられ、軽視されがちな感情の問題について考えてみたい。
人 前 で 泣 く こ と は 自 分 の 弱 さ を さ ら け 出 す こ と で あ り 、 恥 ず べ き こ と だ と わ れ わ れ は 考えている2。特に男性は「男なら泣くな」と小さい頃から教えられて育つことが多い。
たとえば、小さい男の子がけんかに負けて家に帰ってくると、運動部系の(たくましい)
父親は「かわいそうに」と慰めるどころか、むしろ「男ならメソメソするな」と叱り飛 ばすだろう。しかし、その一方で、本当につらいとき、悲しいときには、人前であって も泣くことが容認される場合もある。それでは、そのように感情を露わにすることはど のようにして倫理的に容認、もっといえば肯定され得るのだろうか。
何か争いや事件などが起こったとき、それは正義や法の支配のもとで可及的速やかに 解決されなくてはいけない。「正しさ」(Recht:正義、法)に従って、被疑者が拘束さ れ、裁きが下され、有罪となった者は相応の刑罰を受けなくてはいけない。しかし、被 害者の中には深刻なトラウマを抱えてしまう人もいる。あるいは、憎しみのあまり加害 者に対して復讐の念を抱く者もいる。このような残された感情の問題もすべて「正しさ」
によって解決できるのだろうか。
道徳的行為においてわれわれはつねに理性的でなくてはならず、感情に囚われずに理 性の命ずることを行わなくてはいけないというのは西洋近代において有力な(とりわけ カントに代表されるような)道徳の考え方である。そこには理性の感情に対する道徳的 優位という思想があるだろう。感情は理性によって抑制され、制御されていなくてはい
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けないのである。したがって、感情は理性や道徳性に対立するものとして位置づけられ ている。しかし、感情はむしろ道徳的行為に不可欠であると考える余地は本当にないの だろうか。
感情とケア
本 節 で は 、 ホ ス ピ ス ・ ケ ア に 焦 点 を 当 て て 、 終 末 期 医 療 に お け る 感 情 の 問 題 を 考 察 したい。まずもって、死に直面して、みずからの思索によって死の恐怖を乗り越える というあり方があり得ることを示す。次に、それに対し、だれしもがみずから死の恐 怖を乗り越えられるわけではなく、そうした場面(とりわけ死に対して絶望していると き)では患者にとって感情を十分に発露させることが重要となるということをホスピス の事例を手がかりに論じる。それから、患者だけでなく、その家族にとっても「グリー フ・ケア」という形での、感情に対するケアが必要となることを確認しておく。それら の事例を通じて相手(患者や遺族)の感情の発露は、ケアする側の態度、言い換えれば 相手の感情に共感しそれを受けとめようとする倫理的態度によって肯定され得るとい
うことを明らかにする。
(a)死の恐怖の超克
自分が癌に侵され余命いくばくもないと知ったときはどうするだろうか。一つの方 途は、冷静に自己の死を、観察や思索を通じて、乗り越えることである。自己の死か ら目を逸らさずに向き合い、戦うことである。たとえば、宗教学者の岸本英夫は癌の 宣告を受けてから死ぬまでのおよそ十年間、自己の死を見つめ直し続けた3°彼がまず 気 が つ い た の は 、 多 く の 宗 教 が 説 く 死 後 の 世 界 を ど う し て も 受 け 入 れ る こ と が で き な いということだった。そのため来世を信じて救いを得るという道は断念される。この 来 世 の 否 定 か ら 、 む し ろ 残 さ れ た こ の 世 の 生 を 最 後 ま で 一 生 懸 命 に 生 き 抜 く と い う あ り方が導かれる。もちろん、その結論に至るまでには彼の多くの思索や葛藤があった。
手術してもたびたび再発する癌の苦しみもあった。その苦しみそのものはなくならな い け れ ど も 、 彼 は つ い に 死 と 向 き 合 う こ と を 通 し て 逆 に 生 に 輝 き を 見 出 す と い う 仕 方 で、死に対する恐怖から脱することができたのであった。彼は残された生を研究と世 界各国での講演に捧げ、燃え尽きるように人生を終えた。
(b)ケアの倫理
たしかに死に際して取り乱さず、泰然として死に就くのは一つの理想の死に方であ るように思える。しかしまた、死を目前にしてだれもが冷静でいられるわけではない。
むしろ、多くの人は死の恐怖に対し、恐れを抱き、取り乱し、自分の身に起こった不 幸を怒ったり悲しんだりするのではないだろうか。医師のE・キューブラー・ロスが
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書いた非常に著名な本『死ぬ瞬間』では、不治の病であることを知った患者の心理状態 が分析されている。大まかにまとめると、はじめ患者は自分がまもなく死ぬという事 実 を 認 め る こ と が で き な い 。 死 ぬ は ず が な い と 思 い 込 む こ と に 無 理 が あ る こ と が だ ん だ ん 分 か っ て く る と 、 自 分 の 病 が 重 篤 で あ る こ と に 気 付 か さ れ る 。 す る と 次 に 、 死 の 否 認 の 代 わ り に 、 怒 り や 悲 し み 、 妬 み と い っ た 感 情 が 起 こ っ て く る 。 自 己 の 不 幸 ・ 不 運 を 嘆 い た り 、 健 康 な 人 を 羨 ん だ り す る よ う に な る 。 そ う し た い わ ば 負 の 感 情 は 主 に 周囲の家族やスタッフに向けられる。さらに進めば、抑鯵や受容(感情の欠落、諦めの 状態)の状態となる。これらはいわば望ましくない心の状態ではあるが、しかしショッ クや絶望で自分の心が壊れてしまわないために必要なことでもある。それは無意識的 にとられる自己防衛の手段なのである。
そこで、ホスピス・ケアにおける臨床の場面を事例として挙げつつ、感情にどう対 処すればよいのかを考察しよう。そのために、まず「ケア」について述べることとする。
「ケア」の概念は多くの意味を含んでおり、厳密に定義することが難しいので、よく 出される事例を挙げて説明していきたい。ここで取り上げるのはホスピスの場におけ るケア(その内で特に死期が近いときになされるターミナルケア)である。近代的なホ スピスでは主に癌末期患者を対象とし、「全人的」(身体的、精神的(心理的)、社会 的、霊的)な苦痛に対してケアを行っている。特に重要なのは、「ホスピスケアの焦 点はく死>ではなく、く生きる>ことに当たっている」のであり、「最期まで人間らし く生ききることができるようにサポートするのがホスピスの働きである」という点であ る。また、患者だけでなく、その家族もケアの対象となる。
「ケア」の概念はメイヤロフによってはじめて本格的に取り上げられた。「導入」の はじめでは「別の人をケアすることは、最も重要な意味で、その人が成長し、活動的と なるのを助けることである」と言われるイ。すなわち、人が成長し、自己実現を遂げる ことを助けるのがケアの意味である。(たとえば、第一章は「他者の成長を助けること としてのケアリング」である5。)そこではその人の人間的な成長(徳を獲得すること)
を 手 助 け す る こ と が ケ ア の 意 義 だ と さ れ る 。 ま た 、 ケ ア を 中 心 と し て 論 じ た 人 物 と し てよく知られる人物としてノディングズがいる。彼女は「ケアリングに基づく倫理は、
ケアする態度を維持しようと努力し、したがって、自然なケアリングに依存している のであって、それを越えているのではない。だから、倫理的な行動の源泉は、2つの 心情一他人に対して直接に感じる心情と、最初の感情を拒否するよりはむしろ受け 容れ、維持するかもしれない最善の自己に対して、またそれによって感じる心情一 のうちにある」と述べる6。なお、「自然的なケアリング」として挙げられているモデ ルは「母親が自分の子どものためにケアする努力」である7.
(c)励ますことと聴くこと
患者の感情に対する受け止め方について、医師の柏木哲夫はホスピスでの体験をこう
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述べている。
「医者にとって患者の『もうダメなのではないか』という言葉ほど対応に困る問いかけ はない。筆者は思わず『弱音をはかずに頑張るように』と励ました。そして、弱音をは く患者を励ますのは医者の務めであり、良いことをしたと思っていた。しかし患者は励 まされてしまって、弱音をはくことができずに、やるせない思いを抱いたという。筆者 の励ましは何の役にも立たなかったというよりは、むしろ患者にとってマイナスであっ た。/体の衰弱を自分の体で感じ、頑張ろうと思いながら頑張れない状態にある患者を 安易に励ますのは良くない。『安易な励まし』は役に立たないだけでなく、害になる場 合も多い」8。
ここでは、患者(末期癌)の「もうダメなのではないか」という言葉に対する「安易 な励まし」はむしろ逆効果になり得ると言われる。患者は別に批判や励ましを欲してい るわけではない。だれかに自分のやり場のない気持ちを受け止めてほしかっただけであ る。そのため頑張れと励まされることで、弱音をはききることができず、やるせない思 いを抱くこととなったのである。
そうした出来事に対する反省から、柏木は「前述の『もうダメなのではないでしょう か』という問いかけに対しては、『もうダメかもしれない……と、そんな気がするので すね』と返す」という「理解的態度」が望ましいとしている9.たとえ自分が末期癌で なくても、上述のような気持ちを理解することは可能であろう。たとえば友人に仕事な どの「グチ」を漏らしたときに、「そんなこと言うな」と怒られたり、「それは間違って いる」と反論されたりすると、余計にひどく落ち込むことになる。自分はただグチに対
して「そうだね」と相槌を打って欲しかっただけである。
また、「感情に焦点を当てる」という項目では、患者の何気ない言葉の裏に隠されて いる「つらい」、「苦しい」といった感情に気づくことの重要‘性が説かれている。その例
として、毎日看護師に付き添ってもらって散歩している患者が、ある日散歩の途中で時 間を尋ねたが、実はそれが「今日はつらい」という感情を含めた問いかけであったとい
う話が挙げられている'0。(もちろん、相手の気持ちを察することは簡単ではないが。)
これらの事例を挙げて言いたかったのは、ケアということの中には他者(ここでは患 者)の感情を否定せずにはき出させ、受け止めるという要素(あるいはその必要性)が 認められるということである。もっと言えば、自分の弱さを見せるような感情の発露を 受け容れ許容する倫理の可能'性をケア(に基づく倫理)に中に見て取ることができる。
上の事例にもう少し解釈を加えてみよう。弱音をはくということは自分の弱さを他者に さらすことである。弱音をはかれた側(医師や看護師)は、「理解的態度」によって自 分の弱さを見せることはよいことであるという態度を示すことで、その感情(つらさ、
苦しさ)を肯定することができる。残された生をできるだけ幸福に過ごすというホスピ スの趣旨から見ても、弱音をはけずにやるせない思いを抱きながら過ごすというのは不 幸なことであり、なるべく避けたい事態であるといえるだろう。弱音をはくことが患者
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の精神的な苦痛を軽減し、かつ幸福な生を援助することに繋がると相手を慮ることで、
弱音をはいてもよいのだと思うことができる。それによってまた、患者の側も弱音をは いてよいのだということが実感され、弱音をはきたいという自分の感情を肯定すること ができるだろう。
もちろん、患者のだれもが弱音をはいてくるわけではないだろう。自分のつらさや苦 しさを語ることに抵抗を感じたり、悲しくても泣いてはいけないと思ったりしている場 合はどう考えればよいだろうか。そのときには、他者理解の相互性がより重要となって くると考えられる。つまり、スタッフの側が患者に対して弱音をはいてもよいという態 度を示す、あるいは、そうした場の雰囲気をつくるだけでなく、患者の側もスタッフの 気持ちを汲み取り、変わる努力をしなくてはいけない。努力といっても、特別なことを しなくてはいけないわけではない。むしろ逆に、弱音をはくことを受け容れたいという スタッフの気持ちを汲み取ることで、弱音をはいてはいけないと努力することをやめる よう努力してみてはどうかと提案したいのである。もちろん、自分に余裕がもてず、他 者の気持ちなど気にしていられない場合もある。そのときにも、少しでも心が落ち着い たときに、もっと気を楽にもてるように、頑張ることをやめて他者の気持ちに寄りかか ってみる必要があると言いたい。それは恥じでも甘えでもなく、他者理解の努力であり、
ひ い て は 残 さ れ た 人 生 を 全 う す る た め の 努 力 に も な る と 考 え 方 を 転 換 し て み る の で あ る 。
少し長くなったが、以上、ケアにおける他者理解とその相互性に着目しつつ、他者 の感情(特にネガティヴな)の表出を受け容れることのできる倫理の可能性を考えてみ た。そこでは、まずは患者の言葉に傾聴し、感情を受け止めるという面に重点が置か れていた。そうしてケアにおいて他者との「共感」がまずもって重要となる。次節では 共感に基づいた共同性という点に着目しつつ「グリーフ・ケア」について考察する。
(。)グリーフケア
「グリーフケア」とは広い意味では喪失の体験によってもたらされる苦痛に対するケ アのことである。「グリーフ」(grief,悲嘆)という言葉はさまざまな意味を含めて使 われている。それは、単に悲しみや怒りだけでなく、自責、不安、無力感など喪失体 験に関するさまざまな感情を意味し、あるいはさらに睡眠障害などの身体症状や知覚、
行動の反応をも含めていわれることもある。喪失という言葉も、狭義には愛する人と の死別を意味するが、しかし広義では「ペットの死や離婚、失業など」も含まれてくる。
ここでは悲嘆や喪失を狭い意味に限定して用いることとする。それから、喪失の体験 とは死別後だけでなく、患者に死が迫った時期から死に至るまでをも含めて言うこと とする。(「死別ケア(bereavementcare)」という言葉もしばしば用いられる。)また、
グリーフケアの対象となるのは主に患者の家族である。(そのため「遺族ケア」とも 呼ばれることもある。)
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人は悲しいときでも泣くのを我慢するように小さいころから教えられている。涙を 見せるのは「恥じ」であり、「人前で泣くな」、「男なら泣くな」などと注意される。
しかし、とりわけ死別のように深い悲しみを伴う出来事に際して泣くのを我慢してし まうと、新しい生活に戻ることができず、うつ状態などに陥る人も多いという。(「イ ギ リ ス の セ ン ト ・ ク リ ス ト フ ァ ・ ホ ス ピ ス で の 研 究 に よ る と 、 臨 終 の 場 で 十 分 に 泣 く ことができた家族は、一年後、普段の生活に戻っている人が多いが、泣けなかった人 はすっきりせず、うつ状態になっている人が多いという」’1。)家族にとっても、死別 の悲しみを十分に表出することは重要である。それだけでなく、患者の生前にも「予期 悲嘆」という仕方で死を想像して泣いておくと、死別時のショックが和らぐという。
「がんの場合、家族に悔いの少ない看病をしてもらうことが、医療者や周囲の人にで きるグリーフケアである。まだ生きているうちに家族は、相手の死後のことなど想像 して涙に暮れ、そんな想像をしたことをやましく思うが、家族が十分に感情を表出で きるような環境をつくることがケアする側の役割でもある。予期悲嘆を十分にすると、
後が楽だと言われる」’2.
愛する人を失った家族にとっては、泣くことを抑え込むのではなく、十分に悲しみの 感情を表出することのできる場が必要である。そうした場に共感を示してくれる人がい れば、なおのこと気持ちが和らぐだろう。たとえば、具体的な活動として、戸田中央総 合病院では遺族のサポートグループを作り、家族・遺族のためのグリーフケアを開催し ている。そこでは「故人の思い出の品を持ってきて語ること」、「故人に手紙を書いてき て読むこと」、「死別に関する絵本を読むこと」などが行われている。悲嘆からの回復を 援助するために、感情の表出をしてもよい場を設ける。また遺族同士で語り合うことで 共感が得られ、それに基づいたメンバー間の相互援助が可能となる'3。
裁 き と 癒 し
ここでは正義や法のもつ役割と限界を押さえつつ、犯罪における被害者の「憎しみ」
とそこからの「癒し」という感情の問題を論じる。無法状態においては、いわゆる「法 の支配」の必要性が叫ばれる。それによって犯罪者には裁きが下されるとともに相応の 刑罰が科されるべきことが説かれると同時に、その実現によって将来起こるであろう犯 罪を未然に防ぐことが期待される。国内での事件だけでなく、戦争や民族紛争といった 大規模の事件に対しても、(後述のように)「国際刑事裁判所」が設立され、「法の支配」
のもとに戦犯を裁き、刑罰を科すことで、悲惨な争いに解決をもたらそうとするという 試みが現になされている。そこには正しい規範(法)に従って正しい手続きによって事 件が処理され、解決されなくてはいけないという考えが前提としてある。それは、正義 や正論によって物事を切り分けて断罪し、<罪には罰を>という仕方で正常な状態(法 的な状態)へと回復させようとする態度であるともいえるだろう。
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これに対し、以下では正しさによって物事を解決していくことの有効性と限界を押さ えた上で、戦争や民族紛争の後で人々に残されたトラウマ、あるいは憎しみや復讐心か らの癒しといった感情の問題に対処できる方途を探る。
(a)犯罪から生み出される感情
もし自分の家族や友人が何者かによって殺害されたとしたら、あなたはどう思うだろ うか。深い悲しみとともに「犯人を殺してやりたい」という怒りや憎しみといった感情 に囚われるのではないだろうか。実際、被害者(たとえば、殺人事件で子どもを失った 親、あるいは民族紛争におけるジェノサイドで多くの仲間が無惨に殺された中での生存 者)は一様に加害者に対して悲しみ、恐れ、怒り、憎しみなどのいわば負の感情を深く 抱いている。これらの感情を行き場のないままに放置してしまうと、いつまでも否定的 な感情に囚われて苦しむことになるし、さらに悪いことには被害者が復讐に身を委ねる ことによって新たな加害者となってしまう可能性さえある。
事実、幾多の戦争や紛争の中で憎しみからの報復のし合いが繰り返し行われてきた。
たとえば、旧ユーゴスラヴィア(以下、旧ユーゴ)の崩壊に伴う諸民族間での紛争にお いては度重なる「民族浄化」によって多くの命が失われた。また、アパルトヘイト体制 下の南アフリカ共和国では、白人の政府によるアフリカ人の管理と弾圧が行われ、さら にアパルトヘイト体制への反発が強まる中で、政府と対立するアフリカ人勢力の中でも 争いが起こり、血で血を洗う状態が長く続いた。
(b)国際刑事裁判所による裁き
そうした深刻な紛争に対処する手立てとして、国際裁判所を設置して戦犯を特定し、
裁きにかけるということが世界的に行われてきている。個人間や民族間での憎しみから の武力による応酬はそのままではいつまでも終わりが見えてこない。報復は「裁判」に 委ねられることで公的に取り扱われ、「応報刑」として戦犯に対して科されることにな る。一九九三年に国際連合により設置された「旧ユーゴスラヴイア国際刑事裁判所」
(InternationalCriminamdbunalfbrtheFormerYUgoslavia、以下、ICTY)は「|日
ユーゴ崩壊の過程で起こった「民族浄化」に緊急に対処するため、一九九一年以降に戦 争犯罪を犯した個人を処罰することを目的とし」て設立されたものである'4。「民族浄 化」(ethniccleansing)とは民族同士で行われた虐殺や迫害を指す言葉である。旧ユー
ゴは、スロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人、モンテネグロ人、マケドニア人な どの多様な民族によって構成された連邦共和国であった。民族紛争の歴史的経緯は措く が、中でもスレブレニツァでのモスリム人虐殺は凄!惨を極めたという。「この事件では、
スレブレニツァの全人口四万人の約六分の一にあたる七○○○人余りが殺された」とさ れる'5。
一般に裁きは何らかの「正しさ」(正義、法)のもとでなされる。ICTYは民族紛争
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における戦争犯罪を、確立された国際慣習法とみなされる「ジュネーヴ条約」、「戦争法 規および慣習に違反する罪」、「人道に反する罪」、「ジェノサイドの罪」に基づいて判決 を行なった'6.戦犯には量刑(主に拘禁刑)が科されたが、確定された罪に対してそれ に見合う刑罰(ここでは量刑)を科すというあり方は通常「応報刑」と呼ばれるもので ある。たとえば、スレブレニツァ事件はこの裁判で唯一「ジェノサイドの罪」が適用さ れ、計39人がそれぞれ3~35年の拘禁刑を受けた17。このようにして、個人または一 定の民族集団の暴力による報復ではなく、国際刑事裁判によって「正義」が執行される
という仕方で公的に報復が達成されることとなった。それと同時に繰り返される報復に 歯止めをかけるだけでなく、将来の紛争を予防するという役割も果たされると期待でき
る 。
このような国際刑事裁判の為し得ることには当然限界もある。そこにおける応報刑の 目的は犯された罪の重さに応じて刑罰を与えることであり、それによって罪が償われ、
さらにまた再犯が防止されることも期待するものである。しかし、被害者に深く刻まれ た心の傷、あるいは怒りや憎しみといった否定的な感情は加害者が犯罪者として裁きを 受け、それにふさわしい刑罰が与えられたとしても容易に消えることはない。マーサ.
ミノウは「個人的変容がないまま、訴追に焦点をあてるのであれば、それは報復したい という敵対心を強固にするだけである。しかし、そうした復讐の念は、訴追が上手くい っても満たされることはない」と指摘する18.刑罰(ここでは応報刑)の目的にとって、
被害者(ひいては加害者も)の「癒し」は当然のことながらまったく問題とならない。
ここに「正しさ」のみでは解決できない問題一感情の問題一が生じてきている。癒しが もたらされるには、報復ないし応報とは別の観点が必要である。その観点とは心理的な
「和解」、「赦し」、「復讐心からの癒し」といったものである。
(c)復讐心からの癒しの問題
そうした紛争の問題にとって画期的だったのは、南アフリカ共和国においてアパルト ヘイト廃止後、1995年に創設された「真相解明・和解委員会」(、mthand ReconciliationCommission、以下、TRC)である19.アパルトヘイト(人種差別政策、
元はオランダ語apartheid)は少数の白人が多数の黒人(アフリカ人)を支配し、抑圧
した政策として悪名高いが、そのもとで、旧ユーゴの民族紛争におけるのと同様、民族 浄化や武力衝突が繰り返されてきた。先述のように、政府とアフリカ人との対立のみな らず、アパルトヘイト体制撤廃後にアフリカ人の中でも諸民族の間でも主導権をめぐっ て争いが起こった20。マーサ・ミノウはTRC設置の正当性と目標を次のように述べる。
「真相解明委員会の設置の正当性は癒し(healing)という目標に依拠しているが、そ
こには、委員会に公式に提出された被害者・加害者の証言こそが個人や国家全体に対し 癒され得る機会を提供するはずであるという想定が働いている。真相解明委員会は、虐 殺に関する公正かつ徹底した説明を生み出すという目的をかかげ、個人がそれぞれの物
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語を語ることを支援し、またそれを公的に認知してもらうことを手助けするという前提 に立って手続きを進めている。さらにここで想定されているのは、最終報告は、国家が 自らの過去を処理する際の枠組みを創出できるという前提である。サイコセラピーや信 仰 告 白 そ し て ジ ャ ー ナ リ ス テ ィ ク な 不 正 追 及 な ど も 共 有 し て い る こ の 前 提 と 響 き あ い ながら、真相解明委員会は、真相を語りそれに耳を貸す行為は癒しにつながるという想 定を置いているのだ」2'。
ここでまずTRC設置の正当性が「癒し(healing)」という目標にあると押さえられ、
そのために「真相を語りそれに耳を貸す行為」が必要であるということが示される。つ まり、'mcは刑罰による報復(応報刑を科すこと)ではなく、「癒し」を目的として設 置されたのである。TRCが、ICTYとは異なり、そもそも法廷や裁判所ではなく、「公 聴会」の場として設けられたということは画期的である22.TRCは加害者を犯罪者とし て裁くのではなく、事件の当事者や目撃者(加害者であれ被害者であれ)から広く証言 を得るための場なのである。同時に、それは個人がそれぞれの「物語」を語ることでそ れが「公的に認知」される場としても考えられている。そこでは犯罪者に復讐や刑罰を 与えることではなく、真相を明らかにすることが重要となる23°
では真相を語ることはいかにして癒しにつながるのだろうか。上の引用では「真相を 語りそれに耳を貸す行為は癒しにつながる」と言われていた。「真相を語る」こととし て、まずTRCの設ける公聴会でトラウマを持った被害者が自身の体験を物語ることが 挙げられる(「証言と審問を通じての癒し」24)。そこでは語り手は反対尋問などを受け ることなしに、自分の思いの丈を存分に語ることができる。「自分のことを信用しても らえているという環境の中で語るというまさにその行為そのものが、犠牲になった者た ちを肯定する(affirmative)意義を持ち得る」という25.他者に自分の語りを受けとめ
てもらえること(上述の「耳を貸す行為」)は、それまで閉じ込められていた感情が解 放されることや26、あるいはトラウマを過去のものとして受けとめることにもつながる 27.ミノウは共感してくれる他者の重要性を強調し、「被害者の道徳的傷を他者が認知 することこそ、癒しのプロセスの中心的要素となる」28とも述べる。さらに、加害者や 傍観者の証言が加えられることで真相解明の作業がもっと進めば、人々の記憶において 断片化した歴史を統合することもできる。そのことを通じて個人的なトラウマが政治 的.社会的文脈の中に位置づけられるとともに29、「民族全体のトラウマ」30を癒す一契 機ともなり得る。
こうした事例から分かることは個々人の抱く憎しみや復讐心に対しては裁きだけで なく、「癒し」が必要だということである。応報刑は確かに裁判という公の場で刑罰を 与えるという仕方で復讐を代行するものである。しかし、その憎しみなどの感情は繰り 返される争いの中で積み重なった、歴史的に根深いものであり、訴追がうまく行き、加 害者が罰せられたとしても消えることがない。憎しみがある限り、憎しみの対象に縛ら れて苦しみ続けることになる。赦すことは容易ではなく、長い年月を必要とすることが
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多い。上で述べたミノウの考察を踏まえて言うと、TRCの活動は二つの点で癒しをも たらす契機となり得る。一つは公聴会の場を設けることで、語り手(被害者)は共感し てくれる他者がいるところで閉じ込めていた感情をだれにも邪魔されず十分に吐露す ることができる。自分の体験を物語ることを通じて語り手はいわゆるカタルシスを得る と考えられる。もう一つは真相を知ることでトラウマとなった出来事を過去のこととし て受け止め直すことができるということである。いわば断片化された出来事を時系列に 従って再統合することで、過去を過去として位置づけることができるのである。癒しを 目的とした調停の場を設けるという仕方で、裁判や刑罰によっては解決されない感情の 問題もカバーすることが可能となるのである。
感 情 と 徳
「感情的」という言葉には道徳的に否定的なニュアンスが含まれている。たとえば、
議論の場でだれかの意見についカツとなって怒ったときには、「冷静になれ」「頭を冷 やせ」と注意されるだろう。しばしば円滑な人間関係を築くために用いられるいわゆる
「温情主義」も、悪くすれば、単なる「えこひいき」になりかねない。そのとき、感情 は理性によって抑えられなくてはいけない。感情に左右されることなく理性的に振る舞
うのが道徳的なあり方であると考えられる。
しかし、感‘情を表出することが倫理的に要求される場合も少なくない。たとえば家族 や友人を亡くしたときに一滴の涙も見せない人はむしろ「冷たい人だ」と非難を受けて しまうだろう。本節の目的は、感情を表出することは必ずしも道徳的に非難されるわけ ではなく、むしろ適切な範囲でなされる限り道徳的行為に不可欠なものであるというこ
とを明らかに示すことである。
(a)ルール主義と徳倫理
まず理性と感情を対立するものとみなし、感情に囚われることなく常に理性に従って 行為しなくてはいけないとする道徳上の立場が考えられる。とりわけ西洋近代における カント倫理学や功利主義がそれに該当するだろう。カントはみずからの「純粋実践理’性」
が命ずる普遍的な「道徳法則」に従って行為すべきことを説いた。また、いわゆる「最 大多数の最大幸福」を原理とするベンサムの功利主義においては、どの行為がより快楽
(=幸福)をもたらし得るかを理性によって計算し(いわゆる「快楽計算(道徳算術)」)、
それによってなすべき行為を決定しようという方針が示される。いずれも、感情ではな く、理性的に知られるルール(何らかの規則や原則)に従って行為すべきことを主張す る立場であり、近代以降の倫理学に多大な影響を与えた。このような立場をここでは「ル ール主義」と名づけておく。
こうしたルール主義に対しては「徳倫理」の立場が対比されるだろう31°これは、理
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性的なルールに従うのではなく、個々人の備えている「徳」を発揮することが道徳的行 為となるという考えである。そこでは、理性と感情とは必ずしも対立するものとはみな されない。むしろ、行為において感情を適切に表すことは道徳において重要となってく る。その点を踏まえ、以下の論では徳倫理の立場から道徳における感情の重要性を擁護 したい。
(b)徳倫理における感情
では徳と感情との関係を見ていこう。徳倫理の代表者として当然アリストテレスが挙 げられるべきだろう。彼は有名な「中庸」を論じる箇所でこう述べている。
「然るべきひとに対して、然るべき目的のために、然るべき仕方においてそれを感ずる ということ、これは『中』的にして最善であり、まさしくこうしたことが徳には属して いるのである。そして行為に関しても同じく超過と不足と『中』が存在している。徳は 情念と行為にかかわるが、これらいずれにおいても、超過ならびに不足は過つに反して
『中』は賞賛され、ただしきを失わないものなのである・・・徳とは、それゆえ、何ら か中庸ともいうべきもの-まさしく『中』を目指すものとして-にほかならない」。
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