チベット仏教史年表 (西暦1267〜1326年)
原 田 覺
本稿は下記の拙稿に接続するものであり、 拙稿の目的や資料などについては下 記拙稿の前書を参照頂きたい。
「チベット仏教史年表(西暦1027〜1086年)(西暦1087〜1146年)(西暦1147〜
1206年)(西暦1207〜1266年)」 国士舘大学文学部人文学会紀要 33、 37、
38、 39号、 同学会、 東京、 2000(平成12)、 2005(平成17)、 同年、 2007(平成19)年 なお従来の略号で現代語訳してきた年表の大幅な改訂版の出版が近年あり、
本拙稿からはこの下記の改訂版を資料として依用する。
(平措次仁)
( 西蔵歴史年表 )民族出版社、 北京、 2005年
また下記の生卒年人名表の出版が近年あり、 拙稿に記載する人物の索引の役を果 たす以上に、 典拠と共に異説をも記載しており、 今後の研究の出発点を示しても 居るので、 参照いただきたい。
(黄明信)、(謝淑)
( 蔵族歴史人物年代手冊 )民族出版社、 北京、 2000年
(索郎頓珠)
( 西蔵歴代名人生卒年表 )民族出版社、 北京、 2006年
Ⅴ.第五のラプチュン
1267(丁卯!)汗が勝者たる に大きな貢物を為
しての座主の施主と成った。 衆生の依怙主たると のお二方はまたお逝きになった。 十二番目の弟御たる
はの座主においでになった。 はお逝きに なった。 ("#277)で が出離してから十二番目の はおいでになった。 はお逝きになった。
(#190)暦3401年暦2294年暦2148年暦2100年 暦1811年西暦1267年に衆生の依怙主たると、 勝者たる と、 の方々は出離した。 蒙古の はの施主と成った。 十二番目の弟御たる はの 座主においでになった。 汗が勝者たる に大きな貢物を為 しての施主と成った。 衆生の依怙主たると勝者たる
一
〇 八
のお二方はまたお逝きになった。 十二番目の弟御たるは の座主においでになった。 はお逝きになった。 衆 生の依怙主たるは再びまた中国においでになった。 (1)第五のラプ チュンの暦算は開始した。 (2)衆生の依怙主たるは御歳二十九 才にお成りになって寺の図書館でお考えは利他にお逝きになった。
(3)衆生の依怙主たるが蒙古の大皇帝のご命令 の如くに、 蒙古文字の創作を為さって北京にお出でになった。 蒙古の王 が大宮殿で衆生の依怙主たるにご会見を賜った。 蒙古文字の新文字を 献上したので、 蒙古の王はお心が本当に歓喜なさりながら、 「天の下、 地の上に、 インドの神のご子息、 文字を編纂する人で変化の仏陀、 国土を安泰にさせる人、 修 辞の原因である、 学者たる帝師」と賛嘆したお名前を献じた。 財 物の貢物も銀の千近い大升(72)量、 五万六千の衣服の反物などの完全な財 宝を賜った。 (4) が寺廟を三十六年間守護し了っ て御歳七十六才にお成りになってこの年のチベット月四月の十四日の昼に お考えは法界にお逝きになった。 衆生の依怙主たる大宝は再びま た蒙古国にご招請された如くにおいでになった。 寺の は寺の首座においでになった。 衆生の依怙主たると、
勝者たるはお逝きになった。
の十二番目の弟御大宝たる はの御座においでになった。
或る方が はお逝きになったと仰せになったのは と一致しない。 の王統の王たるが勝者たるに関係をお 願いしてからの施主と成った。
1268(戊辰)と、 のご子息た
ると の三方がご誕生に なった。 のご子息たるがご誕生になっ た。
と、 ののご子息たる
と、 の方々がご誕生になった。
と、のご子息たると、 の三方がご誕生になった。 具吉祥たるの第八代 在位者たるは、 父上で衆生の依怙主たる がご逝去になり了ってから月分が過ぎた時節に母上たる のご子息としてご生誕になり了り、 御歳九才程から衆生の依怙主 たるが灌頂伝承の教授などを次第通りにお与えになってから恩愛を もって養育し了り、 彼は後に蒙古国においでになり了ってから蒙古の皇帝たる とお目にかかり、 蒙古の皇帝が帝師であって皇帝の阿闍梨のお名前を献 じ、 丁亥(1287)年に はチベットに再び帰ってお出でになる時期に
!と言う地域でご逝去になり了り、 に嫡嗣がい無いので 一
〇 七
の世系が断絶した如くに成った。 衆生の依怙主たるのご子息た る と、 遍知者たる と、
と、 の方々がご誕生になった。 の近侍 たる は出離した。 の王統の大戸長たる と の二方はチベットに到達し了ってから十三万戸の人戸の詳細な帳票を作っ た。
1269(己巳 )(9) は再びまた中国においでになった。
蒙古がチベットに対する不可侵の平和の道を創始した。 或る者は勝者たる はお逝きになったと言う。 は再び蒙古国におい でになった。
は再びまた蒙古国にお出でになった。 蒙古がチベットに対する不可 侵の平和の道を創始した。 蒙古がチベットに対する不可侵の平和の道を創始 した。 或る者は勝者たる はお逝きになったと言う。 或る者は大戸 長たるがの大寺廟をご建立した開始であると言う。 伏蔵師 で師長たるはお逝きになった。 蒙古の大皇帝のご命令の 如くに、 衆生の依怙主たる は再びまた北京 にお出でになった。 チベットの十三万戸の政治と守備の制度の類などの商 議と勧告を善ろしくお与えになった。 或る方がこの年にの大戸長たる がの大寺廟をご建立した開始であると仰せになったのは検討す べきである。 の善知識たるはの大戸長に就任した。
1270(庚午 )或る者は勝者たる はお逝きになったと
言う。 ナシ。
衆生の依怙主たる が蒙古文字で脱穀機のような四角の文字 を創った。 勝者たる は出離した(による)。 或る者 は勝者たる はお逝きになったと言う。 衆生の依怙主たる が蒙古文字を新たに創始したと言う。 汗が衆生の依怙主た る に帝師の地位と、 勅書と、 水晶印を献呈した。 欠。
祖師で師長たるはお逝きになったと言う。 衆生の依怙主たる 大宝がチベット文字の有冠文字の形が変化された蒙古文字を新たに 創始するように為さった。 の王たる が 寺廟をご建立した。 の王統の皇帝たる が衆生の依怙主たる 大宝に帝師の地位と、 勅書を、 水晶印章と共に献呈した。 大戸長た るは出離した。 は大戸長に任命され た。
1271(辛未) はお逝きになった。 !
の孫たる王が甲子(1264)年からこの年の間に北京!等の 四大城塞を建築した。 はお逝きになった。
王が官秤の斤 を生み出した北京等の四大城塞を建築 一
〇 六
した。 は出離した。 はお 逝きになった。 蒙古の王が国都を北京に遷都した。 国名を変更した。
王によって四大城塞はこの年に完成した。 に師長たる は出離したと説示した。 蒙古の王統の名前を変更し了ってからの 王統と名付けた。 はお逝きになった。 の王 統の皇帝たる が国家の名前を大元というものに変更した。 国都を 北京に遷都した。 四大城塞を建設するようにする開始である(年号31年間)。
1272(壬申 )がお逝きになってから 師
長は寺の座主にお出でになった。
で の甥御として著名な方はご誕生になった。 が出離してから座主を が為した。
が出離してから 師長は寺の座主 にお出でになった。 がお逝きになってから 師長は寺の座主にお出でになった。 は生ま れた。 欠。 はお逝きになった。
はご誕生になった。 法主たる 師長は 寺の座主にお出でになった。の王統がチベット地域に長兄たる の司徒のと呼ぶ行政機関を樹立した。
に として著名な行政機構を樹立した。
1273(癸酉 )師長たる師弟三方は布達拉からお逝きになっ
た。 師長たるは庚午(1270)年にと言うけれどこの年に お逝きになった。
(191)師長たる師弟三者は布達拉から出離した。
にこの人は庚午(1270)年に出離したと説示した。 或る者が師長たる 師弟三方は布達拉からお逝きになったと言う。 は
においでになった。 伏蔵師の王で師長たるは御 歳六十二才にお成りになってお考えは安楽にお逝きになった。 伏蔵師で師長 たると、 の阿闍梨たるはお逝きになった。
の大自在天(2291)たる三千世界の勝伏 をご建立し た。 は中央 地区においでになった。 の大戸長 たる は北京に皇帝たる にお目に掛かりに行った。
1274(甲戌 )はお逝きになった。 ネパールとチ
ベットの境界に 寺を建立した。 ネパールとチベットの 境界に 寺を建立した。 は南紹国でお逝き になった。
ネパールとチベットの境界に 寺を建立した。
は南紹国で出離した。 はお逝きになった。 ネパール とチベットの境界に 寺を建立した。 (1)ネパールとチベット 一
〇 五
の国境に寺を建立なさった。 (2)衆生の依怙主たる は侍従と従僕と共に北京からチベットにご騎乗乗駕なさった 。或る方がの阿闍梨たるはお逝きになっ たと仰せになった。
1275(乙亥) がを
編纂し了りをお造りになった。 は十三万戸 の戸長を為した。
がを編纂し了り且つ
をお造りになった。 は十三万戸の戸長を為した。 イタリアの国 の遊歴者たるマルコポーロと言う者は中国 に到着し了ってから二十年余り留まった。 衆生の依怙主たる が
それを編纂した。 が
と、 をお造りになった。 或る年代記にこの年に政教合一の開始 であると明らかである。 の大戸長たるが十三万戸の戸長を為 した。 欠。 が《》 をお造りになった。 衆生の依怙主たる 大宝が《
》をお造りになった。 の大戸長たるは大戸長の 地位からお去りになった。 南のの王たるが政権を執った(年号2年間)。
イタリアの往来者たるマルコポーロと言う者は中国に到着し了ってから二 十年ほど留まった。
1276(丙子 ) は再びまたチベットにお出でになってから
で七万の僧伽に対して供養しての法輪を為さっ た。 翻訳師たるはご誕生になった。 が 寺を建立した。 との上 人たるはご誕生になった。 は再びチベットで座主
においでになった。 が の寺
を建立した。
衆生の依怙主たる が七万の僧伽に対して供養しての法 輪を為さった。 はご誕生になった。 が
寺を建立した。 ( 3233) は再びまたチベットにお出でになってか ら で七万の僧伽に対して供養しての法輪を為さった。
翻訳師たるはご誕生になった。 が 寺を建立した。 ( 73)(1)衆生の依怙主たる は侍従と従僕と共に途中で一年程お出でになるのに遅延が生じて寺 にお出でになった。 (2)翻訳師たるは、 ! の でご誕生なさった。 母上は先からお逝きになったので羊の乳で養育さ れた故にお名前としても!(子羊)と呼んだ。 御歳5才にお成りになった時期に 法主たるから優婆塞の律儀をお受けになった。 お名前は
一
〇 四
と申し上げる。 それから大親教師たると 祖師たる持律者などの 沢山の学者と成就者のご足下に親近し了ってから経論の学説を沢山に聴聞なさっ た。 その後に翻訳師たると、 等からと、
と、 と、 の考え方と研究の二と、 等の学説を沢山に聴聞なさって学者となった。 その後にネパー ル国に七回おいでになった。 沢山の翻訳師と学者のご足下に親近し了ってから学 者の頂点に到った。 と、 等の論書を 沢山に著述した。 沢山の経論の学説をチベット語に翻訳した。 沢山の弟子を恩愛 をもって養育した。 最後に御歳六十七才にお成りになった時期に寺 でお考えが利他にお逝きになった。 翻訳師たる はご誕生 になった。 衆生の依怙主たる 大宝は北京からチベットにご帰還し為さっ た。 ので大法輪を設定するように為さった。
がの寺の基礎を施設するように為さった。 南のの王統の 王たるが政権を執った(年号3年間)。
1277(丁丑 ) と、 大成就者たる
の二方はご誕生になった。 或る者は寺を建立したと言う。
寺の はご誕生になった。 はご誕生になった。 がの法輪を為さっ た。 一切智者はお逝きになった。
(!192)西暦1277年にの法輪を為さった( による)。
と、 はご誕生に
なった。一切智者は出離した。 と、 大成就者たる の二方はご誕生になった。 或る者は が 寺を建立したと言う。 蒙古の王たるがに対して蒙古軍の戦争 を為した。 は弑殺されなさった。一切智者は出離した。(1) 孟春に衆生の依怙主たる "はの法輪を集 会し了って七万余程の僧伽に対して美味しいお食べ物で供養をそして、 各僧に各一 銭金のお布施を為さった。 そうである通りに有信の人数千人に対しても完全 な供養の御礼品をお贈りになった。(2)一部の史書と法の起源に の寺をご建立したと言う。 一切智者はお逝きになった。
と、 #$ と、 大成就者たる
の方々はご誕生になった。 衆生の依怙主たる 大宝と、
は謁見をお与えになった。 %の王統の王子たるの軍隊は チベットに到達した。 は弑殺されなさった。
1278(戊寅 ")大宝たる はご誕生になった。
はご誕生になった。
衆生の依怙主が を著述したことは著作自身に明らかである。
はご誕生になった。大宝たる はご誕生になった。
一
〇 三
欠。 の弟御大宝たる はお逝きになった。
はの座主にお出でになった。 の大戸長たる の長子たるは生まれた。 或る者がの十二番 目の弟御たるはご誕生になったと言う。 衆生の依怙主たる 大宝が《》をお造りになった。 南のの王統の王たる が政権を執った(年号2年間)。
1279(己卯 ) はお逝きになった。
弟御たるがお逝きになってから は 寺の座主にお出でになった。 はご誕生に なった。 上人はご誕生になった。 は ご誕生になった。 寺で弟御たるが出離してからは 就任した。 はお逝きになった。
は出離した。 弟御たるが出離してか らは寺の座主にお出でになった。
上人と、 はご誕生になった。
はお逝きになった。 弟御たるがお逝きになってから は寺の座主にお出でになった。
はご誕生になった。 弟御たる 上人はご誕生に なった。 南のの王統は円満した。 欠。 上人と、
はご誕生になった。 或る方が 寺の はお逝きになられたと仰せになった。寺の弟御たる が出離なさってからは寺の座主に 就任した。 の王統の皇帝たる が南のに軍を引率してから統治下に 収めた。
1280(庚辰 ) が 寺の座主を九年間為さっ
た。 衆生の依怙主たる と と、 十二番目の弟 御たると証得者で勝者たる!の四方 はお逝きになった。 の甥御たる はご誕生になった。 寺の座主に親教師たる はおい でになった。 はお逝きになった。 十二番目の弟御はお逝き になった。 はお逝きになった。
衆生の依怙主たる は涅槃した。 中国の文書に王はこの年に 皇帝たる王の座にお座りになった(12801294年)。 が 寺の 座主を九年間為さった。 と、 十二番目の弟御たる と、 証得者で勝者たる!の方々は出離した。
が 寺の座主を九年間為さった。 衆生の依怙主たる と、 と、 十二番目の弟御たると、 証得者で勝者たる!の四方はお逝きになった。
一
〇 二
が を建立した。 欠。 衆生の依怙主たる大 宝と、 と、 の十二番目の弟御たる と、 証得者で勝者たるの方々はお逝きになった。
が をお造りになった。 が
寺をご建立した。 の戸長たるは の 万戸長に就任した。
1281(辛巳)と、
の二方はお逝きになった。 大宝たるが の座 主を為さった。 の座主に はお出でに なった。 蒙古の軍がを略奪してから大戸長たる を殺害した。 寺はが守護した。 の座主に はお出でになった。 の塞を略奪した。 は お逝きになった。
蒙古の軍がの塞を略奪してから大戸長たる を殺害
した。 と は出離した。 大宝
たるは の座主を為さった。 の座主に はお出でになった。 と、
の二方はお逝きになった。 大宝たるが の座主を為さった。 の座主に はお出でになっ た。 蒙古の軍がの塞を略奪してから大戸長たる を殺 害した。 は寺の座主に就任した。 (1)衆生の依怙主 たる(74) は御歳二十八才にお成りになった時期 にの大寺廟の近傍たるの宮殿でご逝去になったと言う。 或る ものに寺の当局者内部の矛盾は最大と成ってしまって衆生の依怙主た るに食物の毒を差上げて弑殺したのであると言う。 (2)の皇帝 の軍隊はにやって来てから大戸長たる を捕らえた。 大戸長 が是と非の状況は如何なるかを聞いたけれども、 皇帝の将兵が白黒を区別すべき ことを区別し了らずに大戸長たる を屠殺に送った。
と、 はお逝きになった。
はご誕生になった。 大宝たるは の座主にお出 でになった。 はの座主にお出でになった。
貴顕たる を首としたの王統の軍隊はチベットに到達してから の塞を降し了っての大戸長たる を殺害した。
の万戸長たるは監禁された。
1282(壬午 )(9)と !
の二方はお逝きになった。 大成就者たる が 寺で をお造りになった。 はお逝きになった。
"#翻訳師はお逝きになった。 !はお逝きになっ 一
〇 一
た。
と、 と、 翻訳師
の方々は出離した。 大成就者たる が寺で をお造りになってが否定したことが有った。
と の二方はお逝きになった。 大成就者たる
が 寺で をお造りになった。 でこの年に
は出離したと説示した。 翻訳師は出離した。
欠。 (2292)と、 と、 翻訳師たる の方々はお逝きになった。《
》から、 寺の はご逝去になったと仰せになっ た。 大成就者たる が 寺で《 》をお造 りになった。
1283(癸未) と、 の証得者た
る の二方はご誕生になった。 はお逝きになった。
後ののご子息たる はご誕生になった。 の初代たる はご誕生になった。 の 弟子そしての上人たる はご誕生になった。 !寺と 寺に はお出でになった。 はお逝きになっ た。
(193) は出離した。 の初代で証 得者たる と、 のご子息たる と、 祖師の上人たる の方々はご誕生になった。
と、 の証得者たる の二方は ご誕生になった。 はお逝きになった。 この年に祖師が座主を為さっ た。 大伏蔵師たるはお逝きになった。 (1)の第六 代で証得者たる は、 父上たる"と母上たる#$ のご子息としてご誕生なさった。 御歳十七才で出家した。 阿闍梨たる 方の御前からの灌頂などの法を沢山に伺った。 その後に 寺に七年間おわした時期に%法主から の三離辺の教誨の 解説と、 中観の考え方の発心を伺った。 経論の]教授の聞思を広大に増強した。 こ の主ご自身が証得者たる%と&'等の弟子を沢山に養育 した。 最期に御歳六十七才にお成りになってお考えが利他にお逝きになった。 (2)或 る仏教史書に はご誕生なさったと記載している。
大宝たる法の上人と、 伏蔵師たるはお逝きになった。
第一世ので証得者たる と、
はご誕生になった。 大宝が はご誕生になったと 仰せになった。 祖師が寺の座主を為さった。
1284(甲申()後の と、
一
〇
〇
との第二十八代と、 の四方はご誕 生になった。 はお逝きになった。 後の
たる はご誕生になった。 の転生者 での第三代たるはご誕生になった。 の 第二十八代たる はご誕生になった。 はお逝き になった。
の第三世たると、 祖師たる (
による)と、 後の たる と、 の第二十八代たる の方々はご誕生になった。
は出離した。 王がスリランカ に使者を送ってから祖師 (釈迦)の御歯と、 鉢と、 舎利などを乞い求めたけれども迎請出来なかった(
による)。後の と、 と、 の第二十八代と、 の四方はご誕生になっ た。 はお逝きになった。 秘書長たる は生まれ たと から説示した。 (3234)が祖師たる はご誕生になったと説示した。 の第三世たるは父 上での咒師たる と、 母上たるのご 子息としてご誕生なさった。 御歳五才で優婆塞の律儀をお受けになった。 お名前と して !と申し上げてそれから阿闍梨たる と、 "
等から経論の学説を沢山に(75)聴聞なさった。 の座主にお成りになった。
それからと地方に沢山の寺廟を新たにご建立して下さった。 橋を新た に設置するなどの所化の衆生に利益するご事業を広大に繰広げた。 辛未(1331) 年にの大皇帝がご招請になった如くに、 国都たる北京にお出でになった。 皇 帝と皇后などにの大灌頂をお与えになった。 それから蒙古地方とウイグル 方面で仏教と衆生の利益を広大に繰広げた。 甲戌(1334)年にチベットに帰ってお 出でになった時節にの大皇帝が総ての法の真実をご覧になるとお名 前を賛嘆しそして、 の官印を賜った。 最期に御歳五十五才にお成りになって 己卯(1339)年にお考えは法界にお逝きになった。 と、
と、 の方々はお逝
きになった。 の第二世たると、 後の
と、 の第二十八代たる の方々はご誕生になった。
《#》から、 祖師たる はご誕生になったと仰 せになった。 祖師ご自身が丁亥(1347)年に御歳八十二才が到ったと仰せになっ た如くであるならば第四のラプチュンの丙寅(1266)年である必要がある。
(閉門修行者)たるはの座主にお出でになっ た。 の秘書長たる はご誕生になった。
1285(乙酉$)が寺を火で燃した。 祖師は弑
殺された%。 がお逝きになってから 九
九
(閉門修行者)はの座主にお出でになった。
はご誕生になった。 が寺を火で燃した。
祖師が弑殺されてから座主は五年間空位であった。
寺でが出離してから閉門修行者は就任した。
が寺を火で燃した。 祖師は弑殺された。
が出離してから閉門修行者はの座主にお出でになった。
はご誕生になった。 が寺を火で燃した。
祖師は弑殺された。 がお逝きになってから閉門修行 者はの座主にお出でになった。 の主たる が と、 を とから埋蔵本として取出した。
欠。 の主たる が 寺廟から《》そ して、 から《》を埋蔵所から取出し了るように為さった。
《》からの軍が寺を火で燃した。 座主者たる 祖師は弑殺されなさったと明らかである。
1286(丙戌) はお逝きになった。
は出離したのか。
は出離した。 祖師者たる
が を著述した。 は
お逝きになった。 翻訳師たる はご誕生になったと或る者は言 う。 欠。 と、 閉門修行者たる と、 の方々はお逝きになった。 祖師者たる が《 》を著述した。
1287(丁亥) と、 の二
方はお逝きになった。 勝者たる 祖師者はご誕生になった。 祖師者が 寺を掌握した。 の上人たる の弟子で 祖師たる はご誕生になった。 丙申(1296)年 にと言うけれどもこの年にである。 寺を!が守護した。
で が出離してから" はおいでになった。
でが出離してからは就任した。
( 194)西暦1287年に勝者たる祖師と( による)、
はご誕生になった。 と、 は出離した。
祖師たる!が寺を掌握した。
と、 の二方はお逝きになった。 勝者たる 祖師はご誕生になったと" の#に明らかである。 祖師が 寺を掌握した。 " は の座主に就 任した。 が上手蒙古#$の軍を率いてから に軍を導いた。
の第八在位者たる は御歳十九才にお成りになって
#と言う地区でお考えが利他にお逝きになった。 の大主宰 九 八
たると、 はお逝きになった。 或る 学者が祖師たるはご誕生になったと仰せになったのは検討すべ きである。 の はの座主にお 出でになった。 祖師たる は 寺の座主にお出 でになった。 の王統がチベット地区で第二回目の人戸の調査を為した。
1288(戊子)法胤たるが法を説示してから六十
一年が経過した。 大宝たるは出離した。 閉門修行者たる がお逝きになってから法門者たるは の座主にお出でになった。 はご誕生になった。
はご誕生になった。 寺に祖師たる は おわした。 で閉門修行者が出離してから法門者たるは就任した。
はお逝きになった。
は出離した。 閉門修行者たるが 出離してから法門者たるはの座主にお出でになった。
はご誕生になった。 大宝たるは出離した。 閉門修 行者たるがお逝きになってから法門者たるは の座主にお出でになった。 はご誕生になった。 得成就者 たるがをの生有(受胎した瞬間の 有)であると識別を為した。 これはチベットで変化身を識別することを為す始まりであ るのである。 の大皇帝がという総官の機関それを という名前に変えた。 これはの皇帝たる がチベットたる祖 国を勢力範囲に正式に変えた後にチベットの外と内の全ての重要な事務に付い て指揮を為す行政の機関の一なのである。 法主たるは ご誕生になった。 法門者たるはの座主にお出でになっ た。 得成就者たる! がを 大宝の后有(転生活仏)であると識別することを為さった。 それはチベットで上人 たる変化身の后有を識別することを為した始まりそれであるのだ。 が上 手蒙古の軍隊を率いてからに軍を導いた。
1289(己丑)" が寺の座主を十八年間
為さった。 大宝たる (二供者)はの座主にお出でになっ た。 はご誕生になった。
はご誕生になった。 寺の座主に" はおいでになっ た。 の座主に二供者たる はお出でになった。 寺 の# $ はお逝きになった。
" が寺の座主を18年間為さった。 大宝たる二供 者はの座主にお出でになった。 はご誕生になった。
# $ は出離した。" が 寺の座主を十八年間為さった。 大宝たる二供者はの座主にお出で 九
七
になった。 はご誕生になった。 大親教師が は出離したと承認した。 欠。 はご 誕生になった。 善知識たるは 寺院の座主にお出でになっ た。 大宝たる二供者はの座主の座にお出でになった。 或る方が の戸長たるはの万戸長に任命されたと仰せになった のは検討すべし。
1290(庚寅)祖師大宝と、 の王子たると、
の方々はご誕生になった。 の内乱は起こった 。 の軍がを略奪した。 祖師たるは ご生誕になった。 はご誕生になった。 が を略奪し了ってから内乱は起こった。
祖師で一切智者たるはご生誕になった。 の王子 たると、 はご誕生になった。 がを略 奪したのでは内乱が起こった。 寺にお火の過患は起こった。
祖師大宝と、 の王子たると、 の方々 はご誕生になった。 の軍がを略奪し了っては内乱が起こっ た。 (1)がの指揮に従わずに反抗を為した故にの 十三万戸の軍隊がを略奪した。 これを年代記類はの内 乱と言う。 (2)大翻訳師で祖師たるは、 父上での大 上人であり祖師たる と、 母上たるの 二方のご子息としてこの年の三月の二十四日の昼にご誕生なさった。 御歳五才 から(76)文字と算術について学習を為さった。 その後に と、 の上人たる等の沢山の学者と成就 者のご足下に親近し了ってからの法を巡行すること(転経)と、
内治療と外治療と工巧明などの学習すべき度量の徹底を為さっ た。 その後にと、 などから律と、 波羅蜜 と、 阿毘達磨の典籍などを善ろしく聴聞なさった。 それから と、
と注釈などの声明と、 修辞学について最高に権威者と成った。 イ ンドと、 カシミールと、 スリランカ等の沢山の語種が理解お出来になって世間の内 で比 較 が 困 難 な 大 翻 訳 師の一人と 成 っ た 。 沢 山 の 経 と 論 書 を チ ベ ッ ト 語に翻訳した。 庚申(1320)年に 大寺院の座主を三十六年間掌握した。 密 咒と性相(顕教)の講経院を建立し了って僧伽は三千八百人ほど集まっ た。 !の"という寺廟を建立なさった。 #寺の 論疏部に対する校正を為さった。 所化たる衆生の利益として経論の学説につ き著述した。 弟子も沢山に養育した。 この世間に於いて比較するのに困難な学者の 才能と成った。 御歳七十五才にお成りになって !でお考えは利他にお 逝きになった。 祖師で大宝たると、 の王子たる と、 の方々はご誕生になった。の大戸
九 六
長た るが 主 導 し たの 軍 が を 略 奪 し 了 っ て 年 代 記 類に (2293) の内乱と著名なことそれが起きた。
1291(辛卯 ) が寺の修繕を為さった。
はご誕生になった。 は寺の座主 にお出でになり了って寺も王がお与えになった黄金で修理され た。
王がお与えになった黄金で が寺の修繕を為さっ た。 はご誕生になった。 が寺の修 繕を為さった。 蒙古の軍を とに導いた。 を牢
獄に捕らえた。 と、 得成就者たる
はご誕生になった。 欠。 と、 得成就者 たると、 の方々はご誕 生になった。 が寺の恢復を為さった。 の王統の軍隊 を との両方に導いた。 は逮捕を為された。
1292(壬辰)遍知者たる はご誕生に
なった。 が大成就者たる を招請した。 の継承者 たる はご誕生になった。 の弟子 たる はご誕生になった。 は蒙古の国 に行った。 遍知者たるはお逝きになった。
王が大成就者たる を招請した。 の継承者たる と、遍知者たる はご誕生になっ た。 遍知者たるは出離した。遍知者たる
はご誕生になった。 が大成就者たる を招請した。 遍知者 たるは出離した。 はご誕生になっ た。 或はは、 の という地域でご誕生なさった。 御歳十三才で出家した。 青年の時から沢山の学者 と成就者のご足下に親近してから経論の学説を沢山に聴聞なさった。 御歳三十一 才でにお出でになり了ってから学者にして尊者たる か らタントラと注釈と教授などの法を沢山に聴聞なさった。 それからの 座主を掌握し了ってからの考え方の講経と修道の教えを広大に発展さ せた。 (77)弟子を沢山に養育した。 最期に御歳七十才にお成りになってお考えは 法界にお逝きになった。 遍知者たるはお逝きになった。
と はご誕生になった。
の王統の皇帝たる!が成就者たる を北京に招請した。
1293(癸巳)(10)はご誕生になった。 法門者
たるがお逝きになってから大宝たるは の座 主にお出でになった。 はご誕生になった。
! はご誕生になった。
九 五
はお逝きになった。 で法門者たるは就任した。
(195) はご誕生になった。
は出離した( による)。 が出離してから大宝た るは の座主にお出でになった。の論書部は出現した。
はご誕生になった。 法門者たる
が(3235)お逝きになってから大宝たるは の座主に就任した。
はご誕生になった。 欠。 或る方が 法身たる
はお逝きになったと仰せになった。
と、 法主たるはご誕生になった。 或る方が 法門者た るがお逝きになってから第十二代近侍たる は の座主にお出でになったと仰せになったのは《 》と一致しない。
1294(甲午)親教師たるはご誕生になった。
は王位に就任した。 大親教師たるはご誕生になった。 の甥たる乙丑(1265)年生まれの は中国と蒙古の王位に 就任した。
の甥たる は王位に就任した(蒙古の档案による)。 親教師た
ると はご誕生になった。
は出離した。 にが十九才では出離 したと言うのと対応する。親教師たるはご誕生になった。
汗が出離してから は王位に就任した。 の時期に の論 書部は出現した。 欠。 はお逝きになった。 大 親教師たるはご誕生になった。 はご誕生 になった。 の王統の皇帝たるは出離した。 は皇帝の座に就 任した(年号14年間)。
1295(乙未) と、 勝者のご子息た
る と、 親教師たる上人の三方はご誕生になった。
勝者のご子息たる はご誕生になった。 祖師の朋友たる はご誕生になっ た。
蒙古の第二代の王は座に就任した(中国の档案による)。 勝者のご子息た る はご誕生になった。 と、 親教師 たる上人はご誕生になった。 !大寺院を建立した。 中国で! の法は広まった。 と、 勝者の ご子息たる と、 親教師たる上人の三方はご誕 生になった。 欠。 大救度たる と、 持明たる"#
"と、 と、 大親教師たる 上人の方々はご誕生になった。 翻訳師たるはネパール 国にお出でになった。#の戸長たるが!大寺院たる$
九 四
を建立した。 中国で の宗教が広まる開始である。
1296(丙申 )法主たる はご誕生になった。
と、 の二方はお逝きになっ た。 はご誕生になった。 はお逝きになった。 はお逝きになっ た。 蒙古の王たるはお逝きになった。
は ご 誕 生 に な っ た ( と、 のによる)。 これはの如くであるならば前過ぎる。
と、 は出離した。 王は出離
した。 と、 の
二方はお逝きになった。 或る者は汗は出離したと言う。 欠。
と、 はお逝きになった。
或る方が遍知者たる はご誕生になったと仰せになったのは《
》と一致しない。 《》から、 第十二代の近侍たる はの座主にお出でになったと明らかである。 大親教師など の学者の才能ある或る方が、 の王統の皇帝たるはお逝きになった と仰せになった。
1297(丁酉 ) がお逝きになってから法主たる
は寺の座主にお出でになった。 (277)で 上人が出離してから は座主者を為した。
(196)西暦1297年に が出離してから法主たる は 寺の座主にお出でになった。 がお逝きになってから法主 たる は寺の座主にお出でになった。
は にお出でになった。欠。法主たる がお逝きになった。 法主たる は寺の座主に お出でになった。 法主たる は にお出でに なった。 の大戸長たる は万戸長の辞職を為した。 戸長 たるはの万戸長に任命された。
1298(戊戌) はお逝きになった。 !"
祖師は中国に迎請された。 !"祖師は蒙古の国においでになっ た。
勝者たる!"祖師は中国に迎請された。 は出離 した。 はお逝きになった。 勝者たる!"祖師は 中国に迎請された。 大主宰者たる# はチベットに引き帰した。欠。
!法主たる はお逝きになった。 大主宰者た る# は処罰から解かれて国内からに戻ってお出でにお成りになっ た。 数年分の期間の座主にお出でにならずに顕密の法の相続を聴聞し為 さりそして同時に学生を為さった。 の王統の皇帝たる$%が!"祖師 九
三
たる を応供処としてご招請した。
1299(己亥)と の二方はご誕
生になった。 寺の座主にはお出でになった。
のご子息で帝師たるはご誕生になっ た。 の弟子たる はご誕生になった。
寺の座主にはお出でになった。 帝 師たると はご誕生になった。
帝師たると、 の二方はご誕生になった。
寺の座主にはお出でになった。
は父上たる と母上たる !の二方の
ご子息として"でご誕生になりなさった。 ご幼少の時に出家した。
" と、 法主たる#と、翻訳師たる"
と、 "祖師者などの百八人の阿闍梨に依存し了ってから顕密の学説 を沢山に聴聞なさった。 修辞学などの一般的明処として学習すべきものを徹底し て為さって学者の頂点と成った。 弟子たる#と、 学者にし て成就者たる" と、 大親教師たる 等を 沢山に養育し了り最後に御歳八十才で有辺の寝台の方と成った。 の帝 師たると、 $ はご 誕生になった。 は寺の座主にお出でになった。
1300(庚子 )法主たるはご誕生になった。
はご誕生になった。
法主たるはご誕生になった。 法主たるは ご誕生になった。 欠。 法主たるはご誕生になった。 大成 就者たるはインドの各聖地と、 (%2294)具吉祥たる"寺 を仏塔と共に拝見にお出でになったと仰せになったのに或る疑問が有る。 ある方 がこの年に蒙古の軍が寺院を火に燃したと仰せになったのは誤っている。
1301(辛丑 )ナシ。 ナシ。
ナシ。 ナシ。 欠。 の万戸長たるは出離した。
或る者がこの年に寺院の恢復を為したと言う。
1302(壬寅 )大司徒たると、 大翻
訳師たるの二方はご誕生になった。 の大司徒 たるはご誕生になった。
大司徒たるはご誕生になった。 が
&寺を守護した。 大司徒たると、 大翻訳師た る"の二方はご誕生になった。大司徒たる は# 氏の家系で父上たる# と母上たる
" のお二人のご子息としてご生誕になった。 御歳七才で優婆塞の律儀をお 九 二
受けになった。 お名前として と申上げた。 その後に の俗官請求者と学習者の兼任者にお成りになった。 の上人で大主宰 者たると、 特には上人たる の御前から喜金剛第 二品の屠殺者と、 性相(顕教)の典籍と、密咒などで学習すべきものを徹底して お為しになっての善知識の称号が獲得された。 その後に の万戸長 の執行者をお為しになった。 それから と、 と、 等の各 万戸長の間は一致せずにの大戸長達に告訴を如何なる如くに為しても大戸 長達が公正と真実を元から為さずに に無量の苦情を 送った。 最期に (78) が軍を主導してに軍を率 いた。 の統治の上下を転覆して が全チベッ トの政治の統制を執った。 その即座に使者を特に派遣し了っての皇帝た る に是非の状況は明らかであると報告したので、 チベットの時局平 静が到来した故に万戸長たる に大司徒であって皇帝の助手 の地位と、 全チベットの政権を執る可きである公文書と官印を賜った。 それから
の政権は実際に樹立された。 法規の革新と、 各県の新設と、 森林の植林事 業と、 河に渡し舟と橋を設置したこと等の社会と経済に利益する行 為を広大に為さった。 或る方が大翻訳師たる はご誕生になっ たと仰せになったのはと一致しない。 大親教師たる は 寺座主にお出でになった。 大司徒たる はご誕 生になった。 秘書長たる はの万戸長に就任した。 の 王統の皇帝たる が の地位を賜った。
1303(癸卯!)得成就者たるはお逝きになった。
が 寺を建立した。 翻訳師たるの甥御 たる はご誕生になった。 が 寺 を建立した。 寺に はおわした。
はお逝きになった。 はお逝きになった。 得成就者たるは出離した。 が 寺を建 立した。 翻訳師の甥御で大翻訳師たる はご誕生になった。
大成就者たるはお逝きになった。 が 寺を建立した。 は出離した。 (1)第三 世たるが 寺をご建立になった。 (2)或る仏教史書に得成 就者たるはお体が安楽にお逝きになったと記載している。 得成就 者たると、 はお逝きになった。 大翻訳師 たる はご誕生になったと学者にして才能ある 大宝のから仰せになった。 がで 寺をご建立になった。 秘書長たる はの万戸長に任 命された万戸長の教示をこの年に為さった。
1304(甲辰!)ナシ。 ナシ。
九 一
ナシ。 は寺の座主に就任した。 欠。
法主たる は寺の座主にお出でになった。
1305(乙巳)大主宰者たる と、
はご誕生になった。 ののご子息で学者にし て尊者たる はご誕生になった。
大主宰者たる と、 はご誕生になっ た。 大主宰者たる と、 はご誕生 になった。 (1)大主宰者たる 或は は、 偉大なる父上たると母上たるの二方 のご子息としてでご誕生なさった。 この主がの初代の座主を 掌握し且つ、 乙丑(1325)年に具吉祥たる寺の座主にお出でになった。 座 主を十九年間守護した。 御歳三十九才でお考えは涅槃した。 (2)或るものに はご誕生なさったと言う。或る方が祖師たる はご逝去なさったと仰せになった。 の大主宰者たる と、 はご誕生になった。 の が大寺院の最上階の走廊に七百八十七の曼荼羅の壁画を描き賜 ることを為さった。
1306(丙午)大主宰者たる はの座主にお出でになっ
た。 の弟子たる はご誕生になった。 の座主に はおいでになった。
大主宰者たる はの座主にお出でになった。
はご誕生になった。 大主宰者たる はの座主に お出でになった。 大主宰者たる はの座主にお出でになった。
と、 密咒師たる はご誕 生になった。 大主宰者たる はの座主にお出でになった。
1307(丁未) が寺の座主を十八年間為さっ
た。 寺の座主に はおいでになった。 蒙古の王 たるはお逝きになった。
( 197)西暦1307年に が寺の座主を十八年間為さっ た。 が寺の座主を十八年間為さった。 は出 離した。 欠。 が寺の座主を十八年の期間為さった。
翻訳師たる がで根拠地を掌握し了る様 に為さった。
1308(戊申!)!はお逝きになった。 "
の弟子たる はご誕生になった。 蒙古の王たる の曾孫たる辛巳(1281)年生まれのは王位に就任した。
はご誕生になった(と、 と、 "による)。 にこの方のお名前として
九
〇
と有る。 第三代の蒙古の王たるは王座に就任した。
は出離した。 はお逝きになった。 大主宰者たる はご誕生になった。 の遍知者たる
はご誕生になった。 の曾孫たる王は王座に就任した。
(1) の開宗者たる 或は正式のお名前たる は、 父上で阿闍梨たる(79) と母上たる の二方のご子息として でご誕生なさった。 出家 したお名前としてと申上げる。 それから阿闍梨たる と、 等の沢山の勝れた大丈夫のご前から道果と、 二種の六 法と、 勝楽の鈴などの顕密の系統を沢山に聴聞なさった。 その後に
と、 ! 等から因明と、 声明と、 修辞学と、 韻律学
などの明の処の一切について究竟の聞学と思量をお為しになって学者の頂点 に成った。 で" 寺をご建立になった。 # 等の外と内と秘密の三種の二百五十冊の書函の論書を編 纂した。 学者にして成就者たる と、 $ 等の本当に沢山の弟子を養育した。 御歳五十六才にお成りになった時期に #の森林でお身体は安楽にお逝きになった。 (2)或るものに
はお身体が安楽にお逝きになったと言う。 の帝師たる はご誕生になった。 遍知者たる はこの年にご誕 生になったと《% 》と《 #》の両者に一つに一致 して仰せになった。 はお逝きになった。!の王統の皇帝たる の曾孫たる汗は皇帝の座に就任した(年号4年間)。 この方が #を蒙古の国に迎請し了り且つ、 が創制を為さった蒙古文字 に改良と補足を為さったとチベット文字の年代記の中に明らかである。
1309(己酉& )法主たるによりが の座
主に就任してから自分自身は遁世 ' を為さった。 大成就者たる と学者にして成就者たる祖師のお二方はお逝きになった。
の座主者をは為した。 祖師たるは お逝きになった。 大成就者たるは辛酉(1321)年に出離 したと言うけれどもこの年に大変著名な方はお逝きになった。
法主たる はご誕生になった($ による)。
は生まれた。 大成就者たると学者にして成就者たる 祖師は出離した。 は の座主に就任した。 ( が) 寺を守護した。 がこの方を庚戌 ' (1310)年の年表に記録した。 お名前として と言う。 法主たる によりが の座主に就任してから自分自身は遁世を為 さった。 大成就者たると学者にして成就者たる祖師は(3236) お逝きになった。 はご誕生になった。 欠。 大成就者 八
九
たる と、 学者にして成就者たる祖師はお逝きになった。 法主 たる はご誕生になった。 法主たる は遁世を為さった。 法主たるはの座主にお出でになった。
の帝師たる至尊をの王統の皇帝たる汗が布施 処に迎請した。 はご誕生になった。
1310(庚戌 )(10)帝師たると、
(新十二代)と、 法主たると、 の方々はご誕生になった。 大宝たる(二供者)と、 法 主たるの二方はお逝きになった。 のご子 息で帝師たると はご誕生になった。 の弟子たる はご誕生になった。 新十二代たる はご誕生になった。 の継承者たる はご誕生になった。 でが出離 してから!はお出でになった。 寺に は おわしたのか。 はお逝きになった。
帝師たると、 新十二代たる と、 法主
たる と、の継承者たる
の方々はご誕生になった。 と、
は出離した。 帝師たると、 新十二代たる
と、 法主たると、 の方々はご
誕生になった。 大宝たると、 法主たるの二方はお 逝きになった。 はの座主に就任した。 蒙古 の王たるは出離した。が 寺をご建立になった。 二供者たる はお逝きになった。 !
はの座主にお出でになった。 の
帝師たると大主宰者たる
と、 新十二代たる(2295) と、 と、 の方々はご誕生になった。
の王統の皇帝たる汗は出離した。 法主たる はお逝きになった。
1311(辛亥)阿闍梨たるはお逝きになった。
の弟子たる"はご誕生になった。 寺は#(管理者)により#に委託されたのか。 後の はお逝きになった。 蒙古の王たるはお逝きになった。
阿闍梨たるは出離した。 "はご誕生 になった。阿闍梨たると、法主たる は出離した。 の弟君たる$ は王座に就任した。
欠。 阿闍梨たるはお逝きになった。の王統の皇帝たる 八 八
汗のご子息たる は皇帝の座に就任した(年号9年間)。
1312(壬子) はお逝きになった。 最勝の
上人たるはご誕生になった。
のご子息で最勝の上人たるはご誕生になった。
が出離してから はお出でになっ
た。 蒙古の国での弟君で乙酉(1285)年生まれのは王座 に就任した。 上人はインドでお逝きになった。
は出離した。 のご子息で最勝の 上人たるはご誕生になった。 蒙古の第四代の王たる は王座に就任した。祖師たる は具足戒した。
上人はインドで出離した。 はお逝きになった。
最勝の上人たると、 大主宰者たる
はご誕生になった。 法主たる上人はインドで出離した。
(1) の最勝の上人たるは、 父上で大主宰者 たる と、 母上たる のご子息としてご生誕になっ た。 生得の般若の能力を具えていたので御歳八才にお成りになった時期に沢山 の学説を聴聞なさることと、 それ等を広大に仰せになることとに耐えたのでご名声 は大きく成った。 それから優婆塞の律儀をお受けになった。 祖師たる と、 無比の勝者たる偉大な 等のご前から顕密の甚深の法を沢山 に聴聞なさった。 学者の頂点と成った。 因明と、 密咒と、 史書と仏教史(80) 等の二十五函の論書を著述した。 と、
等の弟子を沢山に養育した。 御歳六十四才の丙辰(1376)年にお考えは法界にお逝 きになった。 (2) (カム地方)の三の内のは、 父上たる! と母上たる のお二方のご子息としてご生誕なさった。
はお逝きになった。 法主たる上人はイン ドにお行きになってからそこでご逝去になった。 の最勝の上人たる と、 大主宰者たる はご誕生になった。
祖師大宝は市場たる"にお出でになってから具足戒の律儀をお受けになっ た。
1313(癸丑) はご誕生になった。
はお逝きになった。 でが出離してか ら は就任した。 # が出離してから# に五十 七才の は(64才まで)住した。 $ 変化身たる が%
& 'を取出したと言い得る。
はご誕生になった。 # と、 は出離した。 $ が%&
'を埋蔵所から取出した。 がお逝きになってか ら は の座主に就任した。 # が出離してから 八
七
はの座主に就任した。 欠。 はお逝き になった。 はの座主にお出でになった。
はお逝きになった。 菩薩たるは の座主にお出でになった。 大主宰者たるは具足戒を為さった。
の万戸長たるは出離した。
1314(甲寅)大親教師たる と、
の二方はご誕生になった。 大親教師たる はご 誕生になった。 はご誕生になった。 大親教師たる と、 はご誕生になっ た。 が と言うのはこの方と同一であろうか。 の 聖地の門を開いた。大親教師たる と、
の二方はご誕生になった。 が の聖地の門を開いた。
欠。 第十二代の近侍たる はお逝きになった。 大親教師 たる と、 はご誕生になった。
衆生の依怙主たるが の聖地の門を開く様に為さった。
《》から大司徒たるはこの年にご誕 生になったと説示したのは《》と一致しない。
1315(乙卯)大宝たる がお逝きになってから
はの座主にお出でになった。 大寺院をご建立した。 で が出離してからは就任して大寺院をご建立した。
はお逝きになった。
大宝たる が出離してからはの座主にお出で になった。 の大寺院をご建立した。 は出離した。
大宝たる がお逝きになってからはの座主に就任 した。 大寺院をご建立した。 は出離した。 欠。 大翻訳 師たるはご誕生になったのか検討すべし。
はお逝きになった。 大宝たる はご出離になった。
第二十八代の大宝たるはの座主にお出でになった。
大寺院を新たにご建立し為さった。 大司徒たるは の大主宰者の従者に任命された。
1316(丙辰)ナシ。 が を湖に埋
蔵したのをの後世たるが取出したと言う。
はお逝きになった。
は出離した( による)。
は出離した。 が を埋蔵所から取出した。
欠。 はお逝きになった。
はご誕生になった。 衆生の依怙主たるが
《 》を埋蔵所から取出した。
八 六