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カント初期における神の問題と方法の形成

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(1)

1.

 カント前批判期の著作のうち、全面的に神の問題を扱っ ているのは、言うまでもなく「神の現存の証明の唯一可能 な証明根拠について」 (1763年)である。しかしこれ が単に神を論じているだけでなく、またかなり全面的に哲 学の方法の聞題を論じたものであることは、その表題から も想像のつくところであるが、カッシラ・一一・はこの著作を指 して「将来の超越論的方法の特異な序曲」(1)であるとさえ 言っている。この著作をこのように見るとすると、八年前  「天界の一・般自然史と理論」と同じ年に出た最初の形而上 学書、i一形而上学的認識の第一原理の新論」 (1755 年)については逆のことが言える。すなわち、この論文は 形而上学的認識の新しい原理論であると共に、また根本的 に神の問題を蔵しているのである。さしたる論文も現われ ず、「第一回沈黙期」(2)とさえ言われるこの八年間に当然 予想される両主題の深化発展は、 「唯一可能な証明根拠」

はもちろん、これと相前後して現われた「自然神学と道徳 学の原則の判明性に関する研究」 (1764年)(3)「哲学 に負量の概念を導入する試み」 (1ア65年)にもその顕 著な跡が見られる。

 形而上学的一元論の伝統から出発し、二元論への可能性 を秘めたまま1763年代を経たカントは、やがて諸家の いわゆる「転回」を経験する。そして、乞われて極端な反 形而上学書「視霊者の夢」 (/ア66年)を表わしたりし ながら、一度プラトン風の形而上学的二元論に立ち戻って

「感性界と英知界の形式と原理について」 (17ア0年)

を書き、更に十年の沈黙期を置いて、カントは漸く批判期 に入るのである。我々は転回以前の、第一回沈黙期をはさ む時期を一T一,応カント初期として、その間の二つの主題の結 び合った発展を、以下において検討したいと思う。

 「新論の中で提起されるあらゆる問題の取扱い方は混乱 しており、あらゆる解決はあいまいである」(4)という「新 論」に対する批評は、我々にとってむしろ意味深い。とい うのは、実際にかなり批評が当っているからだけではな い。またカント自身、「このような試みをして前入未踏の 道を歩もうとする者は、非常に誤りに陥りがちである」(5)

から、読者がよりよい方に解釈してなしいと前置きしてい るからというだけでもない。この新原理論は、以後長期に

亘って分析検討されねばならない問題を広汎に、極めて単 純な論述のうちに盛り込んでいるということが、混乱とあ いまいさを呼んでいるrg一一の理由と思われるからである。

その点我々は次のような、意見に近い。

  「新論は前批判期の最も代表的な著作ではないが、この 時期におけるカントの思想の変移を判定するには関らなけ ればならない、広汎な範例を表わしている」。(6)

 このように「新論」における先取りの視野を我々の方で 前批判期、或いは我々のいわゆる初期に限れば、混乱やあい まいさはかなり救うことができる。それ故、また先刻の酷 評者も次のように言い換えることになる、「カントが17

7D年以降に書いた全部を忘れることが許されるとすれば 新論はしばしば主張されるように自己矛盾を含んでいるな どということはなく、我々には疑いもなく合理主義者に見

える」(7)と。

 「新論」の主題は明白であって、第1章、 「矛盾律につ いて」は矛盾律に従来与えられてきた最高優位性の批判で あり、第2章「決定根拠律、世にいわゆる充足根拠律につい て」は、ライプニッツの充足根拠律の批判と修正であり、

第5章「決定根拠律から導出され、帰結豊かな形而上学的 認識の二原理の明示」においては、 「継起の原理」と「同 時存在の原理」が提示される。しかし、これらのうち第3 章は当然時聞空間論にも関わる問題であるから先取りの射 程が遠過ぎると言わざるをえず、充分内容的には我々の視 野に入りえない。また道徳の問題を扱っている第2章命題

8の後半及び命題9は、当然我々の視野に入りうるもので あるが、この小論では道徳の側面は割愛することにする。

従って主に問題になるのは、第1章と第2章前半、命題8 の前半までということになる。

 矛盾律の最高優位性に対する批判は次のように立論され ている。唯一一第一の最高原理があるとすれば、それは単純 な命題でなくてはならないが、そうだとすれば、かかる命 題は肯定命題か否定命題のいずれかでなければならないは ずである。ということは、いずれの命題も他の種類の命題 の真理を含みえないということであり、従って普遍的命題 はありえないということになる。「あらゆる真理にとって 唯一の、普遍的な絶対的第一原理は存在しない」(8)という のが命題1である。すると、第一原理は真理の肯定的、否 定的であるのに応じて、 「あるものはある」と「あらぬも

(2)

のはあらぬ」の二種類の命題で表わされ、 「同一律」はそ の総称ということになる(命題2)。(9)そしてかかる同一 律の方が、諸真理を下属させることにかけては、つまり最 高原理の資格にかけては、 「矛盾律」より優位にあるとい

うのが命題3(lo)である。その理由は「同じものが同時にあ りそしてあらぬということは不可能である」と表現されう る矛盾律は「不可能なものの定義」にすぎないからであ る。というのは、「すべての真理が反対の不可能性に基づ いて確立されねばならぬ必要はない」し、また「反対の不 可能性」に基づくだけでは、「充分でない」からである。

そこから真理の主張に移行するには、「自らの反対が偽で あるようなものは真である」という仲介が必要であるとカ ントは言う。(11)

 矛盾律は不可能なものの定義に過ぎないと言われる裏に は、可能的なものが前提されているはずである。後に明ら かになるように、カントにおいては、「事物の可能性」は 人間の知性にとって根本前提をなすものである。かかる可 能的なものに対しても、同一律は最高原理であるが、それ は「真理根拠」としてであり、「存在根拠」としてではな い。そこにカントは人間の知性の限界を見る。述語と「自 体的に或いは関係的に見られた主語」とが、分析と推理に より同一であることが発見されではじめてこれを止め真理 を手にするのお、「闇に暗められた我々の知性」に他なら ない。これに反し、それの前には一切が最:明晰に開かれて おり、その一致、不一致が同一の表象作用によるだけで直 下にもたらされるのは、知性的かつ意志的な神の知性であ るとカントは見ている。(12)

 同一律がいかに絶対の真理根拠であろうとも、可能的な ものに対して存在根拠たりえないというところから、可能 的なものの何らか実質的な原理や、或いは何らか綜合的な 真理根拠が求められねばならないということが生じてく

る。このような原理をカントがライプニッツの「充足根拠 律」のうちに追求しようとしたのは当然である。周知のよ うに、ライプニッツは純粋論理の可能的世界を支配する矛 盾律、同一.reとは独立に、共可能的な現実的世界を支配す る原理として、いわゆる充足理由律なるものを持ち出し た。それは各所でいろいろに表現されているが、極く一般 的には「何物もそれが他のようにでなくむしろこのように あらねばならない根拠なしには生ずることはない」(13)と言 われるものである。現実的世界は反対の可能な、つまり共 可能的な、偶然的世界であるが、そこでは相:互に直接影響 し合うことがないとされる個々の事象が、反対の可能を矛 盾なしに許しながら、なおかつそのようにしか起りえなか った充分の根拠をもって存在すると、考えられている。

このように矛盾律とは独立であるところに意義のあるこの 原理を、矛盾律に還元しようとしたヴォルフやバウムガル

テンに反対して、クルジウスはこれを「決定根拠律」と言 い換えることによりその独立的意義を確立しようとしたが そのクルジウスと共にカントは新たな原理を追求しよケと する。そしてそれのみか、いまクルジウスと共に足を踏み 入れた充足理由律の「この問題に、カントは全生涯を通し て悩まされる」(14)ことになるのである。

 しかし充足根拠律ないし決定根拠律の問題が、このよう にカントの哲学とその方法の形成の軸になっているとして も、すでにこの時期において、事態はもっと複雑である。

すなわち充足根拠律は、神の問題といっしょに、しかも直 接に組み合った形で分析されているのである。それ故カン ト初期の神に関する著作について、異なった見地から次の ように言われるのも不思議ではない。「充足根拠律の意味 と形而上学的な神の証明の意義についてのカントの考察は 従って常にいっしょに展開され変移していく、しかも事柄 からくる相互依存においてというのではなく、直接の相互 関係においてそうなのである」。(15)

 かかる形而上学的な神の証明として挙げられるのは、

「新論」では言うまでもなく、デカルトの存在論的証明と その批判に基づく証明である(命題7)。また神の自己根 拠説に対する批判(命題6)も試みられているが極めて不 充分であり、更に、当然充足根拠律の背景をなす宇宙論的 証明も 「新論」ではそれとして明示されていない。しか し第3章の中の「ライ.プニッツの予定調和説は…・・…・予定 調和そのものの内部的不可能性によって、基礎からくつが えされる」(16)という言葉はその批判を充分暗示するもので あると言えよう。充足根拠律が成立するには、相互に対応 は有していても直接影響はし合わない各個体内に予定調和 的に述語を配する神の意志が前提されねばならないからで ある。後に明らかになるように、カントにとって神とは偶 然的なものに調和を与える形相の神ではなく、いかなる必 然とも相容れる創造の神でなくてはならないのである。

 さてカントは、有限な知性の立場から、クルジウスと共 にライプニッツの充足根拠律に対して「存在根拠」と「認.

識根拠」の観点を設ける。それと同時に、 「充足的」とい う用語は「どの程度充足的か」があいまいであるとして、

「事象を別のようにではなく、このように把握するのに確.

実に充分なだけのものを示す」ところの「決定根拠」とい う表現を代りに選ぶ。(17)定義によれば、「根拠」とは「主 語を述語との関係において決定するもの」のことであるが

「決定する」とは「その反対を排除して述語を措定するこ と」であるから、この語を使った方が「確実に充分」であ るというのが、その理由である。(18)ところで、充足根拠律:

の中に設けた存在根拠、認識根拠の視点は、決定根拠とし てはそれぞれ、先行的決定根拠、後続的決定根拠と見られ.

る。後者は「決定根拠によって決定されるべき概念が、す

(3)

でに他から措定されているのでなければ、その根拠が措定 されない場合」(ユ9)とされるのに対して、先行的決定根拠に は二週目の定義づけがなされている。すなわち、「決定根 拠の概念が決定されるべきものに先行している場合」或い は「決定根拠の前提なしには、決定されるべきものが理解 されえない場合」(20)と言われている。前者は「充足根拠 律」の見地であり、後者は先の後続的決定根拠と共に決定 根拠律の見地である。この移行によって、形而上学的原理 論に対する形而上学的認識論陽湖理論の立場が成立してく

るQ

 先行的決定根拠と後続的決定根拠のこの区別を、カント は可能的なものの形式的根拠の場合と実質的根拠の場合に それぞれ適用する。もっとも「新論」においては、まだこ の形式的、実質的の区別は充分行なわれていず、可能的なも のの形式的根拠は「真理根拠」とよばれている。命題5の 補遺の中でカントは次のよう.に言う、 「真理の認識が常に 根拠の洞察に基づくということは、すべて死すべきものな

ら誰でも有する思慮にとって動かぬところである」(21)と。

そしてこのような真理根拠に対して、先行的、後続的の区 別が導入される。 「確実性だけが問題である場合は、我々

はしばしば後続的決定根拠だけで満足する」が、しかしこ れは「決して真理を生み出すことはしないで、ただ説明す るだけである」と、言われる。そこで真理を生み出すもの が考えられねばならないが、カントはそれを、 「先行的決 定根拠、或はむしろ発生根拠、ないしは少くとも同一根 拠」であるとみなしている。(22)

 ここでカントは可能的なものの真理根拠として、同一律 以上のものを示唆しているのであるが、かかる真理根拠が 命題5によって証明されていると見なければならない。さ て、確実性が我々にとって重要だとすると、真理は先ず命 題の真理でなくてはならない。ところで真なる命題がある

とするならば、その命題の述語の反対は排除されていなけ ればならないのは当然である。しかるに論理的に、矛盾律 による反対の排除がなされない場合、つまり「排除される べき反対に矛盾する概念が存しない」場合、もし何らかの 仕方で反対の排除が行われないとすると、真なる命題とし ては前提に反する。従って「すべて真理の中には、反対さ れるべき述語の排除によって命題の真理を決定する何かが 存しなければならない」、それが「決定根拠」であると言 われる。(23)これは単なる論運的証明にすぎないが、矛盾律 による論理的反対とは別に、命題10において触れられ後に  「負量の概念」の中で主題化されることになる実質的反対

の闇題が深くからんでいることは確かである。そしてまた それとは別に、上の証明を補遺における先行的、後続的の 区別によって補うならば次のようなことも言うことができ る。 「主語が述語との関係において、述語の反対排除によ

る措定によって、決定される」という「命題の真理」の見 地は、その反対排除が矛盾律によるものであれ或は他の原 理によるものであれ、いずれにしても論理的厳密さを旨と するものであるが、その反面先行的根拠或いは発生根拠が 真理根拠として要求されている。この後の点については、

後の方法論的な研究の進展と共に根拠観の変化が見られる ことになる。(24)

 次に当然問題になるのは、可能的なものの実質的根拠に 対する、先行的決定根拠、後続的決定根拠の適用である。

しかしかかる根拠に対して我々は後者しか適用できないこ とをカントは次のように示している(命題6系)Q  「絶対必然的に現存すると言われるものは何であれ、何

らかの根拠のために現存するのではなく、その反対が全く 思考不可能であるから現存するのである。この反対の不可 能性はその現存の認識根拠にすぎないが、先行的決定根拠 は全く欠如している。それは現存する。 そのものにつ いて真にこのことを言い理解するならば、それで充分であ

る」。(25)

 しかし他方カントは、可能的なものと言うよりはむしろ 実在的なものの根拠に対しては、撚る意味での先行的決定 根拠を考えており、これをir原因」とよぶ。それ故カント は、 「或る物の現存の根拠を含むものはすべてそのものの 原因である」と言う一方、むしろ時間概念がからんでくる

〃prior〃、〃posterior〃の語を初めて使って次のように 言っている、「原因の概念は、その原囚によって生じたも のの概念よりも本性上掛であり、後者は前者より後であ る[と。このような原因の概念を使って、カントはデカル

ト或いはライプニッツ・ヴォルフ流の神の自己根拠説を批 判する。すなわち、自己根拠を自己原因と置き換えてみれ

ば、自らが自らの先であると同時に後であるという不合理 が明らかになると言うのである(命題6)Q(26)

 以上我々は、充足根拠律の中に確実性の視点を設ける ことによってなされる真理根拠と存在根拠の論理的分析を 見てきたが、命題6によれば、存在根拠の問題は先行的決 定根拠の問題において、可能的なものの実質的根拠の問題

と、いわば実在的なものの先行的根拠の問題とに分れた。

そのうち前者の問題は、命題7において検討されて神の証 明を形成し、命題8においては、後者の問題が変形されて

「偶然的なものの先行的決定根拠」の問題として追究され ることになる。充足根拠律の以上のような扱い方が、すで により広汎な神の問題の中を歩んでいることを暗黙裡に示 しているのは確かだとしても、このように存在根拠ないし 可能的なものの実質的根拠の問題のうちに、神の問題が初 めて表明されるということは、それだけでもカント独持の 思考方法を顕著に示していると言える。

 ところで命題6において批判された神の自己根拠説は、

(4)

見方を換えれば、神の存在論的証明と言われているものと 同じことになる。神の完全性の概念は、もし神が現存しな いとすると不完全となるから、神は存在するという有名な 証明は、最初ライプニッツさえ踏襲したと言われるくらい であるが、(27)これは根拠としての神の可能性から、帰結と

しての神の存在への証明に他ならないからである。この種 の証明法に対して、カントは自分の証明は逆に、i一事物の 可能性そのものという最も根本的な証拠に基づく証明」〔28)

であると言う。カントの言う可能性とは、入間の知性にと っての思惟可能性であり、その際真理とは先ず命題の真理 であった。そしてさし当り、矛盾律による反対の排除によ って主語が述語との関係において規定されることが、確実 な根拠を有することと考えられた。言い換えれば、それは 一つの思惟可能性である。しかし後に言われるところによ れば、それは可能性の形式的側面に過ぎない。命題7の証 明の冒頭は「結合された概念が矛盾していない時にのみ可 能性は存する」で始まる。反対が排除された述語が主語と矛 盾なく結合しているということは、しかし可能性の形式的 側面であるから、その実質的側面が不可欠である。可能性 の概念は一面矛盾律に基づいているが、ということは反面 比較を前提しているから、可能的なものが考えられるには 無矛盾の他に比較されるものが不可欠であり、従って何ら か実質的なものが不可欠である。ところがもし何ら実質的 なものが存しないとすると、可能的なものの素材がなくな るから、いかなるものも可能的なものと考えられなくな る。それ故実質的なものは絶対必然的に存しなければなら ない。概略このような証明を経て、命題7は次のように表 現される、「その現存が、自らの可能性及び万物の可能性 に先立っており、従って絶対必然的に現存すると言い表わ されうる存在者が存在する、そのものは神とよぼれる上(29)

 可能的なものの実質的根拠は、このように可能的なもの の先行的な真理根拠の聞題として考えられている。命題の 真理は形式的には矛盾律によって得られるが、確実性以上 のものはもはや命題の論理的形式の中にはありえない。そ こでカントは、比較に基づく抽象的概念論に立って、「実 質的なものの源泉」としての神にそれを求めようとした。

もちろん神については、反対の不可能性という認識根拠し か我々の知性に許されていないとされたが、いまそのよう な真理根拠として、つまり絶対必然的な現存として神は証 明されたのである。(30)

 偶然的現存の先行的決定根拠については命題8において

「偶然的に現存するものはいかなるものも、その現存を先 行的に決定する根拠を欠くことができない」31)と表現され る。命題6において、存在根拠としての先行的決定根拠は、

絶対必然的な現存に対しては否定されたが、実在的なもの に対しては原因として認められた。いま命題8においては、

実在的なものは論理的に確かめうる限りの偶然的現存とし てその先行的決定根拠の必然性が証明される。決定論の証 明と言うべきこの証明は論理的に帰謬法によって遂行され る。偶然的に現存するものが、触りに先行的決定根拠をも たず、従って偶然的現存によってしか決定されていないと しても、現存するのである限りそれはあらゆる反対を排除 して、つまり決定されてある。しかし述語の反対でなく、現 存の反対の排除は現存そのものの措定によらずには不可能 である。すると偶然的現存は自らの現存の反対をそれ自身 排除して現存することになるが、それでは現存の反対が絶 対不可能ということになるから、それは偶然的現存の非存 在の可能性に反して、絶対必然的に現存することになる。

しかしこれは仮定に反する。

 この証明こそ、クルジウスが真ではあるが、「証明不可 能」であることを強調した「決定根拠律」の証明であり、

しかも「確実性の全き光に照らし出された」(32)証明である とカントは確信している。しかし未だ命題7から独立でな いこの論理的証明は、方法論の進展と共に先で修正を受け ねばならないことは言うまでもない。

 以上のように「新論」は結果的には、神の現存と決定根 拠律の証明であると言うことができる。後者が決定論の証 明であるとすると、この結果から直ちに神の意志と決定論 の問の論理的な諸問題(33)が生ずるが、我々の関心は言うま でもなく、かかる結果の生じてくる過程にあった。形而上学 的な充足根拠律の概念を、ライプニッツ自身も時たま使っ た決定根拠律(34)の意味の方向へ解釈しようとしたクルジ ウス(35)と共に、カントはこれに確実性の視点を入れるこ とによって、形荊上学的認識論的な解釈を試みた。確圃たる 真理の及ぶところで、偶然的現存の先行的決定根拠が得ら れ、確実性の命題的真理を超えたところで却ってかかる真 理を実質的に可能ならしめるものとして、絶対必然的な存 在者が証明された。神の証明はこの場合、いわば目的では なく手段であったとも言える。(36)

 論理的に確実性が証明された決定根拠律は、第5章にお いて、時問に適用されて「継起の原理」となり、 1一実体は 他の実体と達関する限りにおいてのみ変化を生じうる」〈37)

以下命題12が得られ、空間に適用されて「同時存在の原 理」となり、 「有限な諸実体は自らの現存のみによっては いかなる相互関係にも立ちえ一ないQそれらはそれらの現存 の共通な根拠、すなわち神の知性によって相互関係に立つ よう形成維持されている場合以外、いかなる相互関係も持 たない」(38)という命題/5が得られる。この「一形而L学的認 識の二原理」は、ライプニッツの予定調和を否定、修正し て、(39) $:物の相互作用と因果的決定論を容れうるものにし ようとする意図に立っていることは明らかである。カント はまた一方、決定根拠律の真理性を最後まで確実に証明し

(5)

ようという試みにおいて、すでにクルジウスにも先んじて いるのである。

2.

 「新論」をさして、 「カントの最初の問題はいかなる範 囲まで論理学のカが及ぶかである」(4e)と言った入がいる。

確かにカントは現実に対する論理学の限界を知って、却っ て論理学の真の射程をぎりぎりまで見極めようとしている と言える。しかし「新論」においては、このような試みそ のものが未だ論理的で生硬であったため、かかる試みが本 来含んでいる視野の展望も検討も極めて不充分であったこ とも確かである。従って、充足根拠律の中へ確実性の視点 を導入しようとする試みも、論理的で未だ充分の展開を見 ていないのは当然である。これを方法論的に補うのが、八 年後に相次いで出た著作群である。極く大づかみに言うと すれば、そのうち特に形而上学的認識の方法論を扱ったも のは「判明性研究」であり、この方法論に基づいて「新論」

における一方のテーマ、神の現存の証明を試みるのが「唯 一可能な証明根拠」であり、同様にして、もう…方のテー マ、命題8に繋がる問題を前進させるのが「負量の概念」

である。

 「判明性研究」における方法論の研究は、「新論」にお ける神の証明方法と深い関わりをもち、また後に「純粋理 性批判」の超越論的方法論に継承される、哲学そのものの 方法の問題を扱っている。「新論」においてすでに、デカ ルト的な神の証明法は:方法論的には幾何学の方法を形而上 学がそのまま模倣するものである点について批判され た(41)が、 「判明性研究」においては、「数学が用いられえ ない時の数学、すなわち思惟方法における数学の模倣ほど 哲学に有害なものはない」(42)と言われるQまた「唯一可能 な証明根拠」の中でも、「平坦な大通りを安全に前進する 数学者の模倣」は「方法狂」と呼ばれ、「滑り易い形而上 学の地盤」の上ではそれは少しも安全でなくむしろ危険な こと、形而L学にはそのような地盤に向いた独自の慎重な 方法が必要なことが、主張されている。(43)

 それでは形而上学の慎重な方法とはどういう方法であろ うか。哲学は「方法狂」と同時に確実性をも遠ざけなけれ ばならないのであろうか。しかしカントの念頭から確実性 の問題が去ったことがないのは言うまでもなく、(44)哲学独 自の方法の反省の中で確実性の問題が見直されようとして いるとみなされるべきである。それ故カントは先ず、数学 の方法と哲学の方法の根本的相違に着眼する。数学の方法 は徹頭徹尾、「綜合的」である。というのは数学においては 素材の任意的結合によって定義が与えられ、この定義によ って初めて概念が生じるのであって、定義以前に概念はな いからである。しかもそうした概念に関して、数学におい

ては象徴的記号のもとにおける具体的考察が可能である。

これに対して哲学の方法は「分析的」である。すなわち、判 明でない物の概念がすでに与えられていて、哲学はかかる 概念を分析するのである。更に言うならば哲学は、「分離 された徴表を与えられた概念とあらゆ.る場合に比較して、

この抽象的な思想を周密かつ確定的たらしめなければなら ない」(45)のである。任意的結合による概念構成に対して、

「分析によって判明にされた認識からの分離」によるとこ ろの概念の形成が哲学の方法である。そしてかかる哲学に は、自ら部分概念を指示することの不可能な一般的概念を 使っての抽象的思考しか不可能である。(46)

 このような哲学の方法的反省に基づいて、「可能な限り 最高の形而上学的確実性」のための「方法の規則」(47)が自

ら成立してくるQ哲学の本性に適つたように、「定義から 始めるな」というのが第一の規則とされる。その代りに、

定義以前に「直接確信するものを対象のうちに求め」、

「そこから帰結を引き出して、対象についての真の全く確 実な判断のみを獲得する」ようにしなければならない。そ の際、定義は「明白な判断から判明に提示される時、初め て認容する」以外、敢てなされるべきではないとされ る。(48)第二の規則は、最初対象のうちに確実に見出された ものに関して、「対象についての直接的判断を選別し」、

これを公理的にすべての推論の基礎たらしめねばならない ということである。(49)

 無拘束な物理学の請仮説を、 「経験と幾何学に従う確実 な手続き」(50)に変えるのに成功したのは、ニュートンの方 法であったが、いま形而上学的確実性のための方法の規則 を確立しようとするカントの念頭にあったのはそれであ る。「自然の仕る現象が生ずる時の諸規則を、確かな経験 により、場舎によっては幾何学の助けを借りて探究する」

自然科学においては、「現象の第一根拠が物体の中に洞察 されなくとも、物体がこの法則に従って作用することは確 実なこと」t51)になるが、形而上学の真の方法はこのような ニュートンの導入した方法と根底において同じであるとカ ントは考える。「何らかの一般的性質をもった概念の中に 確実に存している徴表を、確かな内的経験すなわち直接的 な明白な意識によって探究せよ」とカントは言う、 「そう すれば、事象の全本質は知らなくとも、それらの徴表は事 物におけ.る多くのことをそれから導出するために、確かに 利用されうるのである」。(52)これは言うまでもなく、前か ら主張されてきた分析的手続きに他ならない。綜合的手続 きが許されて、数学におけるように最も単純な認識のもと に複合的認識が従属させられうるような事態を考えるにし ても、カントは、それは「分析に助けられて、我々が判明 かつ周密に理解された概念に到達した場合のみ」であると し、「まだまだ形而上学において綜合的に手続きしてよい

(6)

時期ではない」(53)と言う。

 以上カントの叙述に従って形而上学的認識に確実性を保 証する方法を検討してきたが、本論において特に注目すべ きなのは、この方法論がクルジウス批判を通じて直接「新 論」の問題に繋っていく第5考察の第3節であるQここで は「形而上学の第一根本真理の真の性質」と「クルジウス 氏のこの方法の真の内容」(54)とが示されると言われる。と いうのは、クルジウスの真理の方法が実は目下問題の「哲 学の思考法」の論点と深く関係する問題を含んでいるから である。当面の問題に関して、クルジウスの方法の核心点 をカントは次のような二点でとらえる、「あらゆる認識の 普遍的最高原則という特権を矛盾律に対して認めぬこと」

「多くの他の直接に確実で証明不可能な諸原則を導入し、

それらの正しさは、私が真として以外に思惟しえないこと は真であるという規則によって、我々の悟性の本性から理 解されると主張すること」。(55)

 この二点は更に詳細に展開されているが、要するに第一 点は「新論」の第1章に類似した主旨のものであり、第二 点は「新論」第2章の特に真理根拠の問題に関係している

ことが解るQカントは次のようにクルジウスを理解する。

クルジウスはなるほど一方において、同一律、矛盾律を形 式的原則とみなし、これのみに最高原則を求める学派を非 難し、別に「実質的原則」を導入した。かかる実質的原則 は形式的最高原則のもとに直接的に立つもの故、もはや証 明不可能である。これら形式的な最高原則のうちの「一一つの 下に直接的に思惟されており、別様には思惟されえない命 題はすべて証明不可能である」(56)と考えられる。ところで かかる「人間理性の第一の実質的原則」が、形式的最高原 則の直下にあってしかも実質的と呼ばれるわけは、「同時 に他の諸認識の根拠を含んでいる」からである。他の諸命 題(例えば「物体は可分的である」)が証明可能となるの は、かかる実質的原刷(例えば、「物体は複合的である」)

を根拠とし、それを介して間接的に、分析によって述語と 主語の同一性が示されうるからである。その点実質的最高 原則は、定義があればその「素材」であり、なければまた 確実な推論のための「与件」となるものであるから、まさ に「人間理性の基礎と堅固さとを構成する」と言わなけれ ばならない。(57)

 こうして引き出されてきたクルジウスの方法の一面は、

まさに論じられてきた形而上学的認識の分析的方法の実例 と言われるべきものである。しかしそれにも拘らずカント がクルジウスを批判せざるをえないのは、彼が他方におい て、形而上学的認識をも含む「すべての認識」に対して、

以上の方法とは別個に「確実性の最高原則」を設けた点に ある。人間悟性にとって明白でもなく、従ってその名に価 いしないような命題が実質的最高原則の中に紛れ込んでい

るのも、このような確実性の原則によるものとみなされ るQ「私が真として以外に思惟しえないことは真である」

(58)と表現されるかかる原則は、カントによれば、真理根拠 としては明らかに成立しえないものなのである。というの は、かかる命題はかかる命題以外に真理根拠は存しないと いう告白に他ならないが、それが真であることのいかに確 信の感情に満ちた告白であろうとも、真理根拠ではありえ

ないからである。

 ところで我々が特に注目しなけれならないのは次のこと である。この確実性の最高原則に対するカントの批判は、

先ず文脈から考えれば、クルジウスの形而上学的認識の確 実性の方法論の狙いが足らなかったことではなく、多すぎ たことに対する批判に違いないが、他面また認識一般にお ける告白的な真理根拠そのものに対する批判を含んでいる ことも確かである。 この第一点は言うまでもなく、形而 上学的認識の問題である。分析的方法のうちでとは別個に 独自の真理根拠が形而上学に成立しえないとすれば、 「形 而上学がもつ確実性の根拠は、形式的な根拠であれ実質的 な根拠であれ、幾何学のそれと別の種類のものではな い」(59)と言われるのも当然である。確実性ではなく確実性 の根拠が問題だとすれば、形而上学においても幾何学にお いても「判断の形式面」は同一律と矛盾律に従っている点同

じであり、また実質面も推論の基礎として証明不可能な命 題が前提される点で同じあるからである。定義が定義され るもののそうした前提であるか、或は定義の素材ないし推 論の第一与件がそうした前提であるか、という両者の違い は今の観点では問題でない。第二点は、認識一般の問題で あると言うことができる。「すべての認識に対して」立てら れた告白的真理根拠について、カントは「確信の感情はそ れらが真であることの一つの告白ではあるが、そのことの 証明根拠ではない」(61)と言うQ第一点は、第4考察におけ る自然神学のac一・根拠の判明性の闇題と共に、「唯一可能 の証明根拠」における諸閥題に連なっていくのに対して第 二点は、かなり強い伝統的形而上学への非難を含む「負量 の概念」における諸問題に繋がっていると見るべきであろ うQ

 我々は先にこの第二の方向を暫く検討してみることにす る。上述のように、形而上学的認識論によれば、数学の確 実性と形而上学の確実性は性質を異にするが、その確実性 の根拠は同じであるということであったが、このことと形 而上学独自の確実性の根拠は他にないということとは同じ ことである。ところでクルジウスが確信的な真理根拠を立 てたのは、形而上学的認識に対してのみでなく、すべての 認識に対してであった。そこでカントの問題は、かかる告 白的真理根拠を廃してしかも形而上学のみに特殊なもので はないような、真の真理根拠を得るにはどうすればよいか

(7)

ということになる。形而上学的認識論が分析した確実性の 根拠は、形式的なものも実質的なものも、数学的認識にと

って外的である限りにおいて形而上学的認識と共通してい るのである。すでに綜合的として分析された数学の方法内 部に立ち入った確実性の根拠の分析は未だなされていな い。かかる分析がもし、数学を自らの対象に応用して成功

した自然科学の方法の分析と模倣を通じて得られるとすれ ば、それはクルジウスを批判する有力な手掛りになるに違 いない。

 もっともクルジウスの確信的な真理根拠の見方の中にも 一応「観念的根拠」と「実在的根拠」の区別が立てられて いることをカントは認めている。(61)しかしこの区別が真に 有効にはたらかないで、重なり合い結局一つものになって

しまう憾みがあったのであるが、それはクルジウスの分析 が未だ論理的であって、充分方法論的でなかったことに起 因するとも言える。カントはこの点に着眼し、クルジウス の二分法を根本的に考えなおすことによって、クルジウス を克服しようとする。そしてこのことがまた、 「新論」に おいて提示された実質的根拠、或は真理根拠、ひいては決 定筆下律の概念に重大な影響を及ぼすことになるのは言う までもない。

 「哲学において数学が使用される場合は、数学の方法を 模倣するか、或いは数学の諸命題を哲学の対象に実際に応 用するかのいずれかである」(62)と「負量の概念」の冒頭で 言われている。問題になるのは言うまでもなく後者の応用 法である。すでに「判明性研究」においてカントは、思考 方法における数学の模倣を有害として退ける一・方、「量の 認識が現われるような哲学の諸部分における数学の応用に 闘しては全く別であって、応用の有用性は計り知れない」

(63)と言っている。そしてその方法論を背景にして、「量一 般、一、多、空間などは少くとも数学においては解決不能 である。つまりそれらの分析と定義とは全くこの学問に似 つかわしくない」(64)と言い、量論における境界逸脱による 幾何学者の哲学を逆に批判しているくらいであるQ「早取

の概念」の論文が、こうした量論を本格的に展開するもの でないことは言うまでもないが、少くともその手始めであ るとは言えよう。それ故、カッシラーもこの論文において

「数学と形而上学の問の境界に関する昔からの問題に新た な内容が付与された」(65)と見るのである。

 カントにとって事態は、「数学の方が確実性と判明性で すべてに優っているのに、形而上学はそれらに達しようと やっと努力を始あたばかり」(66)という有様であった。そこ でカントは「形而上学は自らの考察をそれに基づけるに足 る確かな基礎を数学から借りてこれる」(57)と洞察する。

「日量の概念」の中でカントは、力学的概念を媒介にして数:

学的負:量の概念を哲学に導入することにより、初めて「実

在的反対」の概念を獲得し、この中でクルジウスのいわゆ る「実在的根拠」の概念を根本的に問い直すことにより、

その全く新しい意味を獲得しようとするのである。

 カントは先ず、実在的反対の概念を論理的反対の概念と 徹底的に区別することから始める。論理的反対は言うまで もなく、矛盾の場合であって、 「同一のものについて降る ことが同時に肯定され否定される場合」(68)である。反対と 言えば従来それしか考えられなかったものが、いまや論理 的にすぎないものとして、反対の一つの場合とみなされ る。この反対の特徴は、一つの物の二つの述語が互いに廃 棄し合って、結果をも廃棄する点にある。例えば、運動し ている物体も、していない物体もそれぞれ或るものである が、同時に運動しかつ運動しないような物体は全くの無で あり、全く思惟不可能である。これに対して、「実在的反 対」は「一方が、他方によって措定されたものを廃棄す る」点で反対の一つの場合に相違ないが、或る物の二つの 述語が矛盾律によることなしに反対し合って、一方が他方 を廃棄しても、結果はなおかつ或る物であり、思惟可能で ある。更に言うならば、論理的反対の場合、二つの述語は いずれかが肯定的、いずれかが否定的であることに相違は ないが、実はそのいずれが真に肯定的つまり実在的である かに全く無関心である。他方実在的反対の場合は、述語の 双方がそもそも肯定的であって、他の肯定するものを単に 否定するもので.ヘない。これはちょうど、プラスとマイナ スの符号を含む数式の答は、プラスのついた数と全く同じ だけ、マイナスのついた数からも積極的影響を受けるのと 同様である。肝心なのは否定の概念に代る負の概念であ る。クルジウスはこの「負の量」と「量の否定」を同一視 していることをカントは指摘している(69)。負量の概念は決 して否定的ではない。しかし同様に重要なことは、負量の 概念は決して個別の事物を指すものではなく、 「プラスに よって表示される以る他の物と、その中でいっしょにされ るところの反対関係」(70)を指すのみである。それ故、上昇 の負は下降であるということは、「他の否定ではなく、他 と実在的反対の関係に立つ或るものを意味する」(71)と言わ れる。

 かかる数学的な負量の概念を、力学は自らの動力の概念 に導入することにすでに成功しているのであるが、カント は同じ実在的反対の概念の中で次に力学的な動力の概念を 分析することによって、「積極的根拠」とその結果の概念 を獲得する。そこで次のような表裏一体をなす根本原則が 与えられる。「実在的反対は、積極的根拠としての二つの 事物の一方が、他方の結果を廃棄するときのみ生ずる」(72)

及び「一つの積極的な根拠があって、しかもそれにも拘ら ずその結果がゼロの時は、いつでも実在的反対が存する」

(73)という命題がそれである。前者を数学的概念を使って言

(8)

い換えれば、互に他の負であるがそれ自身正の量をもつも の同志が同一の主語の中で結合される時、結果が棺殺され 結局ゼロになるということであり、このことを積極的根拠 としての動力の概念を使って裏から言えば、彫る動力を加 えても動かないものには反対の動力が積極的に作用してい るということになる。カントはこのような積極的根拠の原 則を、さし当り、実在的反対の現実的なケースについて証 明するが、もちろん哲学にとって重要なのは可能的なケー スである。

 そこで最:後にカントは、不確かな試論の形ながらと前置 きをして、かかる積極的根拠の原則を哲学の対象に応用し て一般化することを試みる。さし当り手掛りになるのは消 滅の現象である。すなわち、「現存しているものがいかに して存在するのをやめるのであるか」という問題において カントは積極的根拠の原則を導入することにより、「すべ ての消滅は負の生成である」と言う。(74)消滅も生成と同様 積極的なものになる。「現存する或る積極的なものを廃棄 するには、存在していないものを生起せしめるのと全く同

じように、真の実在根拠を必要とする」。(75)

 しかし積極的根拠の原則のこのような一般化において得 られる「実在的根拠」の概念は、更に可能的なケースにつ いて見られなければ未だ不充分である。ところで可能的反 対としての実在的反対は、現実的反対の場合のように同一 主語内の反対関係ではなく、それぞれ別々の主語をもつ述 語間の反対関係である。この場合一方が他方の結果を廃棄 することは、直接的には考えられない、しかし可能的には 少くとも一方は、他方の結果と等しいものを廃棄すること ができる。AB二つの物体が同一直線上を反対の方向に同

じ力で遠ざかっていくような場合が可能的反対に他ならな いが、もしBと全く同じ条件でただAに向ってくる点だけ 異なるCという物体とAが衝突すれば、AはBの:有する力 と同じだけの力を失うことは明らかである。

 言うまでもなくすでに数学も力学もかかる可能的反対の 概念を使用している故、カントは哲学も是非これを使用す べきであると言うが、哲学は同時に「ただ単に動力に帰属 する実在的反対の根拠についてのみならず、世界の実在的 反対のあらゆる根拠についても」(76)見ていかねばならな い。可能的反対のしかもこうした一般的な取り扱いは、直 観化が可能で理解が明晰にいく力学的分野を出ざるをえな いから、困難かつ不明晰にならざるをえないことをカント は認めている。そしてその上で次のような二つの実在的根 拠ないし実在的反対の原則を試みとして提示する。「世界 のあらゆる自然的変化において、積極的なものの総計は増 えも減りもしない、但し同符号の(異符号でない)項は加 算され、実在的に反対する項は相殺されるというようにそ の総計を見積るならばである」。(77)カントはこの命題を力

学的にはすでに証明ずみで、形而上学的に根拠づけも可能 な、いわゆる力の保存律に基づけることができると考えて いる。そして第二命題は「宇宙のすべての実在的根拠は同 符号のものを合計し、相互に反対するものを相殺するなら ば、その総計はゼロに等しくなる」(78)と表現される。

 カント自身の簡潔な定式化によれば、「実在的根拠とそ の結果の関係」についてそもそもカントが立てた問題とい うのは、「或るものが存在するが故に他の或るものが存在 するということをいかに理解すべきか」(79)ということであ ると言われている。かかる問題をめぐって不充分ながら、

上述の手続きによって実在七七拠ないし実在的反対の原則 がひとまず獲得されたわけである。ところでこの試論がい かに不完全であろうとも、ともかくこのように方向づけら れた実在的根拠の原則と、「新論」において可能的なもの の実質的根拠とみなされた神との関係についてのカントの 考え方は我々にとって特に注目に早いする。先ず実在的反 対の原則から生じてくる、「世界の全体はそれ自体では無 である」という結論は「世界の本質」であると考えられて おり、そしてこれは、「世界内に根拠づけられるすべての 現存する実在の総和をそれ自身として考察する」内在的見 地の必然的結論であると考えられている。(80)これに対して 神は、別の超越的見地において初めて考えられるものとみ

なされるQ「あらゆる可能的実在は神の意志との関係にお いては正の総計になる」(81)と言われる。そして両見地の関 係についてカントは、超越的見地がたとえどのようなもの であろうとも、「それだからといって、世界の本質がそれ によって棄てられることにはならない」として内在的見地 の独立性を主張する。「世界内に現存するものの総和は、

世界の外にある根拠との関係においては正となるが、内部 的な実在的根拠同志の反対関係から見ればゼロに等し

い」。(s2)

 翻って見るならば、同一律による真理根拠と同一律以上 の真理根拠という区別はすでに「新論」以来のものであっ た。 「判明性研究」における方法論的研究によって明かに なったのは前者であって、かかる真理根拠は確実性を保証 するものとして、形而上学の分析的方法のうちに位置づけ られた。しかし同一律以上の真理根拠を、クルジウスの確 信的真理根拠とは別の仕方で哲学はいかにして求めうるで あろうか。これが「局量の概念」の問題であったQここで の方法論的分析は、もはや数学や自然科学の外部から、そ の確実性の根拠を形式的或いは実質的な形而上学的根拠に 帰着させるというやり方ではなく、逆に形而上学自身の確 実性を何らかの仕方で数学や自然科学に基づけるという仕 方でなされなければならない。すでに「判明性研究」にお いて、現象の第一根拠が物体の中に洞察されなくとも、物 体が確実にそれに従って作用するような法則を探究する自

(9)

然科学の方法が分析されていた(83)が、カントは「負量の概 念」においてかかる内在的見地を模倣することによって、

形而上学の確実性を確実な自然科学に基づけようという方 法を採用した。実在的根拠の概念を、数学における負:量の 概念と、かかる概念を導入した力学の動力の概念に基づけ

る試みがなされ、その結果不充分ながら、力学の範馴を出.

ない限りにおいて確実性の保証される実在的根拠の原則が ひとまず獲得されたのである。

 ところで「新論」において真理根拠の問題は、一方存在 根拠の問題に深い関連をもっていた。可能的なものと言っ てもその可能性はカントにとっては思惟可能性であり、真 理が問題だからである。この観点では、同一律による真理 根拠は形式的、論理的であり、他方同一律以上の真理根拠 は、可能的なものの実質的根拠の方向と、実在的なものな いし偶然的現存の先行的決定根拠の方向とに分れる存在根 拠の問題と一しょに考えられていた。「負量の概念」にお いて実在的根拠の原則が得られると同時に、神が問題にさ れたのは当然であり、またこの段階においてもカントは

「新論」における問題の大きな枠組の中にあることを示し ていると言ってよい。ただしかしここでカントが、実在的 根拠を考える内在的見地と神的根拠を考える超越的見地を 分離させる立場を示した点は大きな変化と言わねばならな いであろう。

 このような分離を背景にして初めて、確証可能な実在的 根拠と、単に同一律に基づく論理的根拠の区別が、かのク ルジウスの観念的根拠と実在的根拠の癒着を根本的に修正 することを可能ならしめる。クルジウスの「認識原理と存 在原理の同一性の背景には神の存在が究極的な真理源泉と して考えられている」(84)というのはハイムゼートの指摘で あるが、クルジウスの確信的な真理根拠の見地はこのよう な理性信仰(85)のうちにあると言うことができる。カントは 次のような仕方で、実在的根拠の論理的根拠によるすりか えを戒めるが、いまやそれには根拠があると言える、「神 の意志という概念をいかに分析していっても、現存する世 界がその意志の中に含まれていて、同一性に基づいてその 意志によって措定されているかのように、その意志の中で 現存する世界に出合うことは決してない」。(86)このような 全能の意志の概念だけでなく、因果概念にしても、その概 念の中に実在的根拠と結果の関係をすでに考えておいて、

結果の定立を同一律によって洞察するというように、理性 には実在的根拠の問題を論理的根拠の聞題にすりかえる危 険が多分にある。 「限界を知らない越権の洞察力」(87)に対 するカントの批判的姿勢はいまや明らかと言わねばならな

い。(88)

3一

 「負量の概念」における試論が提示した方法がいかに画 期的なものを含んでいたとしても、「新論」に始まる思想 の枠組から言って神の問題が解消してしまうことはありえ ず、むしろより根本的な形で検討を迫ってきていると言え る。神の問題は何よりも先ず現存の問題であったからであ る。「新論」における神の絶対的必然性の証明は、デカル トの存在論的証明を批判したライプニッツ、クルジウスの 線で始まったことはほぼ確かなことであった。そして17

63年の「唯一可能な証明根拠」が、厳密な著作順序はと もかく、ほぼ同年に出たと言える他の方法論的な二薯と、

八年間の研究成果を共にしていないということは考えられ ないことである。そもそも「新論」においては可能的なも のの実質的根拠という言葉の意味があいまいかつ不明であ った。しかし「判明性研究」における形而上学的認識論的 分析によってカントは、幾何学と形而L学との異質な確実 性に共通な根拠として、形式的根拠と実質的根拠を明らか

にした。幾何学における実質的根拠とは、幾何学の出発点 をなす定義の際の結合の素材に関わるものであり、形而上 学の実質的根拠は推論の第一与件或いは定義の素材に関わ るものとされた。ここで我々は先に残してきた第一の道に 戻らなければならない。

 「判明性研究」の中の自然神学に関する短い一節、 「自 然神学の第一根拠は最大の哲学的明証をもつことができ る」(89)においてカントは、自然宗教の対象は第一原因であ るとして、その証明のために形而上学者は「全然何も現存 しないということが可能かどうか」(90)尋ねるだけでよいと 言う。そうだとすれば「全くいかなる現存も、また思惟さ

るべき何ものも、そしていかなる可能性も成立しない」(91)

ことに気づくからである。従って形而上学者はただ「一切 の可能性の根底に存しなければならないものの現存」(92)の みを求めていけば、絶対必然的現存に到達すると言われ る。極めて短い論述しかなされていないが、これは「新 論」における可能的なものの実質的根拠としての絶対的必 然性の見地を、「判明性研究」においてそれまでに方法論 的に明らかとなった実質的根拠の概念と結びつけようとす るものである。

 「負量の概念」の方法論的成果によれば、同一律的論理 的根拠、内在的実在的根拠の他に、確かに超越的な実質的 根拠がはっきり区別されるようになった。 「新論」及び

「判明性研究」においては、これらの根拠のうち主に最初 と最後の根拠が、それぞれ形式的根拠、実質的根拠として 考えられていた。そして「判明性研究」においては、この 両者の根拠の意味がより明瞭になったとはいっても、実質 的根拠の超越的な意味は充分明らかでなかった。しかし

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