奈良教育大学学術リポジトリNEAR
西ドイツ教授学の研究(?)−クラフキー, W.の教 科内容構成論−
著者 小野 擴男
雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学
巻 38
号 1
ページ 109‑121
発行年 1989‑11‑25
その他のタイトル Zu didaktischen Theorien in der BRD(?)−
Wolfgang Klafkis "Didaktishe Analyse als Kern der Unterrichtsvorbereitung"−
URL http://hdl.handle.net/10105/1994
奈良教育大学紀要 第38巻第1号(人文・社会)平成元年
Bull. Nara Univ. Educ. Vol. 38, No. 1 (cult. & soc. .1989
西ドイツ教授学の研究([)
‑クラフキー, W.の教科内容構成論‑
小 野 接 男 (奈良教育大学教育学教室)
(平成元年4月28日受理)
はじめに
授業というのは、いうまでもなく子どもたちに教科内容を教え伝える場である。子どもたちは 授業という場を通して教科内容を学び取ることで、人類史から見ればきわめて迅速かつ「効率」
的に現代文化の基礎を獲得できる。教師が授業に臨むにあたっての基本課題は、まず次のような ことを明らかにするというところにある。子どもたちが習得すべき内容とはいったい何であるの か、どんな教科内容を子どもたちは習得しなければならないのか。教えるべき内容についての検 討がまずなされなくてはならない。
西ドイツ教授学において最も伝統的な立場であると称された「陶冶論的教授学」 (Bildungs‑
theoretische Didaktik)がその中心課題に据えた問題もまた、教授内容の選択・構成、教授内杏 の教育的価値の解明ということであった(1)そうした立場からすると、教授学の課題を狭い意味 での授業方法の問題に限定してしまうことは容認し難いものとなる。というのもそうした考え方 は、結局のところ既存の価値体系を無批判に受け入れ、その価値を子どもに忠実に再生産さすか、
あるいは価値については全く「鈍感」な子、または「アナーキー」な子どもを育てることに奉仕 することになるからである。教育(学)の相対的自立性(relative Freiheit von Lehrer und Sch山er) を主張する「陶冶論的教授学」の立場において、教授内容についての考察を放棄することは、自 らの立場の否定を意味することにもなる。
しかしこうした教育(学)の相対的自立性論は、逆に、しばしば教育における「科学性」を排 除したりあるいは抑圧し、自らの意に反して既存の価値観を次の世代に押しつけることになった のも否めない事実である。しばしば語られる「教育的配慮」が必ずしも教育的ではなく、むしろ 現実の矛盾を隠蔽するように作用している場合も少なくないのである0
西ドイツの教授学においても、一方ではそうした危険性を危供することによってむしろ「科学 性」をこそ問題にし、その結果としてすぐれた教科内容を子どもたちに提示すること、つまり、
専門科学から深く学ぶことが教科内容のすぐれた分析・構成を結果するという主張が一方ではな された。 (2)また逆にそうした教育的価値と深くかかわる内容の問題から自らを「解放」し、効率 的な教授方法の問題に教授学の課題を焦点化する主張もなされた(3)
そのことをめぐっての議論は、西ドイツにおいてすでに'60年代に展開されたものではあるが、
今日でもなお教授学研究にとっては、最も基本的な問題である。本論文では、教科内容の分析・
構成を問題とすることが教授学の中心課題であるとした「陶冶論的教授学」の構想を、クラフキー の「授業準備の中心としての内容分析」 (4)という論文を中心に検討し、教授内容の問題について 一般教授学が果すべき役割について考察を加えようとするものである0
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I.授業内容の基本的性格
授業準備の核心は次のようにも定式化できるかもしれない、とクラフキーはいう。 「特定の子 どもたちと特定の教科内容との一つ、またはそれ以上の豊かな出会いを想想するということであ る。」 (5)しかし、こうした定式化のし方は、子どもと教科内容との出会わせ方、つまり方法の強 調という結果に陥る。そうなると、方法的な原理(たとえば自己活動の原理)あるいは授業形態 (たとえばグループ学習)といった問題が前面に押し出され、そうした原理を生かすのに都合の
よい内容や構成が問題となり、内容の問題はむしろ「方法」の問題に従属しかねない。
クラフキーは、 「だからこそ、方法の問題は重要な問題ではあるが、それは最後の問題である」
という。方法の問題は内容の問題とは区別して考えられるべき問題なのである。ではいったい、
「事物(事象)」 (sache)とか「教材」 (Unterrichtsstoff)と呼ばれるもの、つまり内容とはいっ たい何であるのか。
教師が授業において取り扱う対象(内容)の性格は一般には次のように規定される。 (6) 1.一般に教師は内容をまったく自由に選択して教えるということはできない。その大綱は教 科課程(学習指導要領)によって規定されており、その大綱的な基準を踏まえて、それぞれの学 校や、学級の状況に応じた形で、教師の裁量権が発揮されるということである。では教科課程に 規定されている内容とは何であるのか。
2.教科課程の内容についてはさまざまな特色づけがなされてきた。日く「科学性である。」
日く「文化を担い、文化をつくり出している諸々の力、つまり、教会、法体系、科学・芸術、経 済、職業制度といったものがその内容である。」しかし、最も簡単に言えば、教科課程を構成し た人が陶冶内容(Bildungsinhalt)と考えたものが、教科課程の内容といえる。
実践家が取り扱おうとしている対象は、したがって、 「無垢」のものではなく、そこにすでに 一定の意思や意図が入り込んだものなのである。だから内容を問題とする場合、どんな意図のも とにそうした対象が教科課程の中に選ばれることになったのか、いわば教科課程の構成者の立場 を実践家は迫体験してみる必要がある。もちろん常にそうしたことを実践家に要請することは無 理な課題であろう。むしろ科学者などとはちがって、与えられた対象とまずは取り組むというと ころにその仕事の特徴があるともいえる。
ただその際に確認しておくべきことは、そうした対象が単に科学や芸術から導き出されたとい うのではなく、すでになんらかの教育的な視点から選び出されたものであるという事実である。
3.内容に対して要請されている「客観性」と「実際性」に対して教師は準備する必要がある。
つまり内容が要請している二つの立場を教師はチビもたちにおいて実践してやらなくてはならな い。
ここでいう「客観性」とは大人の世代からの要請ということである。子どもを永遠に子どもに しておくために教育がなされているのではなく、教育を行うということは、未来の大人の育成を 意味している。クラフキーはそれを「一般人」 (Laien)の育成と呼び、たとえば、民主国家の主 権者、健全な宗教心を持つ人、賢い消費者といった一般市民の育成をあげる。教師自身がそうし た視角から内容を理解し、確信をもってそれを主張できるときにのみ、 「客観性」の立場からの 教育は可能となる。 「だから」、とクラフキーはいう。 「明日、子どもとともに学ぶ詩は一般の人
にとっても意味のある事象として、教師自身を今一・度魅了し、ゆさぶり、幸福感にひたらせ、勇
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気づけるものでなくてはならないのである。」
もう一つの「実際性」という立場は、青少年の立場に立ち、彼らに味方しながら内容を問題と するということである。子どもは永遠に子どもであることを許されるわけではないが、しかし、
未来の大人を準備するために現在を犠牲にするという存在では決してない。 「子どもの時代を最 もよく生きうる者が、最もすぐれた大人となりうる」といわれるように、内容の問題はまた子ど もの視角から問い直されなくてはならないのである。子どものうちに深く秘められている問いや 興味、関心、見方、感じ方といったものが探られてなくてはならないのである。
教科内容というものは青少年の精神を開いてやると同時にそれを満たしてやり、そのことに よってまた将来の可能性や課題に対して子どもたちを準備してやるという性格のものでなくては ならない。
4.教育学の鍵を握るのが、こうした内容分析であるとするならば、それをまさに教授学的分 柿(didaktischeAnalyse)と呼ぶことができる。その際、 「陶冶内容」 (Bildungsinhalt)と「陶冶 価値」(Bildungsgehalt, Bildungswert)という概念をまず明確にしておく必要がある、とクラフキー
はいう(7)
Ⅱ. 「陶冶内容」と「陶冶価値」
1.陶冶内容という言い方をする者は、また、 「陶冶」 (Bildung)という概念を教育上の基本 概念として承認している。もっともその場合も、 「陶冶」という概念は、ある特定の陶冶理想と 結びつけて理解されるものではなく、たとえば、リットやヴェ一二ガ‑が、主張したような広い 立場からの陶冶理解を意味するとクラフキーはいう。
例えばリットは次のように述べている。 「ある人間が教育された(gebildet)といわれるのは、
その人間が次のようになっている場合である。つまり彼の全存在において彼の中では結びついて いる多様な能力、可能性、意欲、行為といったものがある秩序づけを得るということである。し かしそうした秩序をつくり出すためには人間が外界(世界)と正しい関係をつくり出すことがで きなくてはならないのである。そう考えれば、自分自身に対すると同時に外界との関係に一定の 秩序をもたらされた人間の状態を『陶冶』と名づけることができる」
ヴェ一二ガ‑はより慎重に次のような定義づけを行う。 「陶冶というのは、その本質に従えば こうした生活の前庭(Vorhof)なのである。つまり、人間がそこにおいて人格となることので きる生活の決定をただ準備するものだからである。 ‑・‑陶冶というのは、そこにおいて責任を引 き受けることのできる状態を意味している。」
こうした定義によれば、陶冶とは広い意味で人間としての責任主体の形成として理解すること ができる。
2.では、ある内容を陶冶内容とするものは何か。ヴイルマン(0.Willmann)によれば、そ れは教材の「陶冶価値」であるとされ、そのことを次のように説明する。 「習得すべき内容も全 体としてみれば、本質的なものと非本質的なもの、実と葉、内的なものと表面的なものとがある。
学習者にしても、その学習の仕方は一様ではない。深い根源にまで至る者もいれば、きわめて浅 い程度で終る者もいる。したがって、教授対象の全体としての価値と個々の陶冶価値とを区別し ておく必要がある。個々の陶冶価値は、効果を発揮するように教えなくてはならない。つまり、
陶冶内容というのは、外面的に与えられたものではなく、まさにその中に有機的な力を含みもち、
w: 小 野 横 男
精神の中に受け入れられることによって、それを同化し、内的形成に作用するものである。」陶 冶内容は、そこに内在する陶冶価値によって「賢明なもの」 「生気あふれるもの」 「目にとらえ難 い諸能力」となって出現する。
クラフキーによれば、ヴイルマンのこうした「陶冶価値」という概念は、教授学の歴史におけ る一つの決定的な発見であるという。しかしこうした内容の規定のし方ではなお一般的すぎるし さらに問題は、その内容を受け取る人とは無関係に、客観的内容それ自身に陶冶価値があるとい う考え方が一方的に強調される結果ともなったということである。
3.ヴイルマン等のそうした客観主義の立場に対して、精神科学的な教育学の立場から、ノー ルやヴェ一二ガ‑は、陶冶内容の本質ないし、その陶冶価値について、二重の相対化が決定的に 重要であると主張した。つまり、第一は、子どもたちに目をやった時に、陶冶内容とはいったい 何であり、どこにいったいその陶冶価値があるのかということ、第二は、子どもたちの過去や未 来と結びついた特定の歴史的一知的状況に目を向けた場合にはどうかということである。
子どもの生活に対しての調節を「教育的基準」とノールが名づけたが、それは第‑の相対化を 強調したものである。つまり、子どもが彼の生活とかかわって、自分の力を育て、高めるのに、
そうした要請はどんな意味をもつのか、またそのことをやり遂げるために、子どもは今どんな力 を備えているのかを問題とする必要があるというのである。意図的であれ無意図的であれ教育と いうものは、作用する世界の選択を表わしている。
第二の歴史的相対化という問題はヴェ一二ガ一によって主張されたものといってよい。彼によ れば、子どもが、精神的な内容とふれる時、つまり、文化の構成要素や断面、詩、絵画、音楽、
国家の理解や歴史的、あるいは宗教上の人物にふれることによって教育的作用が生まれる。そう した内容が彼のものとなった時、それらは彼の固有な精神となったといえるのである。子どもの 内に形成されたものが、彼において陶冶財となったものなのである。文化財のうちに埋め込まれ ていた価値を教育の過程において陶冶価値として経験し、それを所有する。そして他の者たち、
たとえば、同じ教育過程にいる者、同じ関心を持つ者、同じ職業や同じ社会層の者、同じ地域に 住む者などなどもまたこうした内容のもつ教育力を経験することになる。したがって、より大き なグループによって共通に教育体験されたものを、陶冶財(Bildungsgut)と呼んでもよいだろう。
だがしかし、なおこうした規定では陶冶内容の歴史性の一面を述べているにすぎない。「歴史性」
というのは、過去に向けられているというだけではなく、未来をも指し示す。子どもたちが仲間 とともに学び取った陶冶財が、またそのまま将来の子どもたちにとっての陶冶財となるとは限ら ない。つまり、将来においても同じような教育経験が呼び起こされるか否かは決して保障の限り ではないのである。陶冶内容の選択や統合の問題は、いわば実存的な集中(KOnzentration)を 意味している。つまり、我々の生活関連の中で、精神的、歴史的世界が与えられているのであり、
しかも我々の具体的な状況の中で兄い出される課題から出発してである。常に、生活の進展の中 で、ある課題は、国民や小集団や個々人に用意されることになるのである。教育内容には、子ど もが巣立つであろう未来を「先き取り」した内容が含み込まれてなければならないのである。
4.結局のところ、教科課程において提示され、 「内容分析」によってその陶冶価値が明らか にされる陶冶内容とは、特定の歴史的、精神的状況において、ある子どもたちの状態を考慮した 上でなされた選択であるといえる。その意味では陶冶内容というのは、確かな秩序や責任、生活 の必要性や自由な生活の可能性を代表するものでなくてはならない。秩序や責任性や必然性の世 界を、そしてまた自由な知的可能性の世界を青少年に開くことができるものでなくてはならない
西ドイツ教授学の研究(Ⅲ) UK
のである。
内容や価値に対して開くことができるものがいわゆる陶冶内容なのである。というのも、個々 の内容でありながら、常に多くの文化内容に対して代表的(stellvertretend)であるということ が陶冶内容を性格づけているからである。したがって陶冶内容というものは、基本内容、基本的 関係、基本的原理を見えるようにするものでなくてはならない。 「陶冶価値」という概念が意味 するものは、特殊の中で、あるいは特殊を手がかりとして、そうした一般を開示することのでき るということである。言い換えれば、それぞれの特殊な陶冶内容が、その中にある種の一般的な 陶冶価値を含み持っているということなのである。
したがって教授内容分析の基本課題は、その内容のどこにいったい陶冶価値があるのかを明ら かにするということである。その際また陶冶価値というのは、関係のあみの目として、つまり、
それ自身が再びまた大きな関係の中に位置づけられるものとして、あるいは関係の複合体として 理解されるものであると、クラフキーは述べる。
Ⅱ.教授内容の分析
クラフキーは、陶冶内容と陶冶価値という概念について以上のように述べるとともに、陶冶価 値を明らかにする五つの教授学的な分析の「問い」 (視点)を提示する(8)問いの順序は絶対的 なものではなく、それぞれはまた相互に関連をもったものである。
1 ̲ この内容は、どんなより大きなあるいは一般的な意味や事物関連を伝えまた関与する のか。その内容を取り扱うことによって、どんな根源現象、基本原理、法則、基準、問題、
どんな方法、技術、態度が「範例的に」つかみ取られることになるのか。
(1)計画されたテーマ(題材)は、何に対して範例的であり、代表的であり、典型的であるの vn
たとえば、自動車はガソリン・エンジンというものに対して、桜の花は生物の根源現象である
「花」に対して、東方ドイツへの入植の歴史は東方の植民地化に対して、 「バンザーイ、雪だ」と いう画題は、吹きつけの画法に対して、預金制度からの課題は利子計算に対して、といった具合 にである。その際、範例的な意味賦与は、教師の目標設定に大きく依存することになる。同じ事 象が多くの場合、さまざまな事象に対して、範例的、代表的なものとなりうるからである。
(2)このテーマによって得られるはずのもの、つまり、洞察、観念、価値概念、作業方法、技 術といったものは、全体としてあるいは、個々の要素として、後にどんな場面で有効性を発揮す
るのか。たとえば、二年生で小さなお金を大きなお金に替えるという作業課題は、後に筆算を理 解する際の「要素」として浮かび上がることになる。郷土科の中で展開される基本概念は、後に
「事物科」の中で生かされるといったことが検討されなくてはならない。
2.その内容、あるいは、そのテーマから得られるはずの経験、認識、能力、技能は、自 分のクラスの子どもたちの生活にとってどんな意味があるのか。そうした内容によって、
‑教育的見地から‑子どもたちにどんな意味がもたらされるのか。
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ここで重要なことは、そうした内容ないし、そこから得られる価値が青少年の現在の教育にお いて、つまり彼の生活、彼の世界一自己理解、彼の技能領域の中で、一つの契機となり得ている かどうかということである。こうしたことは学校で教えられるものに限ったことではないが、学 校の問題として言えば、学校外の生活で「電気」 「動物」 「外国の国々」 「音楽」 「工作活動」 「歴史」
といった問題が、子どもたちにどんな意味があり、また意味を持たすことができるのかというこ とである。
より具体的な言い方をするならば、次のように問うことであろう。 「そのテーマについてはす でにクラスで問題とされていることであるのか」 「学校の内外での子どもの生活を活気づけるも のであるのか」 「そうしたテーマに向けての問いを子どもたちにまず喚起しなくてはならないの か」 「どういった角度からそのテーマに切り込ませば良いか」 「どこが子どもにはわかりにくい点 であるのか」ということを問題とするのである。
3.子どもの将来を考えたとき、そのテーマの意味はいったいどこにあるのか。
この問いは、さきに述べた「一般人」について述べたことを具体化したものである。
なお具体的な問いとして考えてみれば次のようになる。 「そうした内容は青年や成人の生活に おいて、生気ある位置を占めるものであるか、それともそれらはなおそのことの証明を必要とす
るものなのか」たとえば、近年の歴史の克服、我々の民主主義の基礎を確固たるものとすること、
コミュニズムの問題、ヨーロッパの統一、女性の二重の役割、余暇の創出、現代芸術の理解等々 の問題。こうした内容は成人に真剣に受けとめられているのか、それは一般陶冶の内容なのか、
職業教育の先取りなのか。こうした内容の将来的な意味はすでに意識化されているか、あるいは 意識化するにはなお非常にむずかしい課題であるのか、といったことを検討する。
4 . 内 容 ( 1 、 2 、 3 の 視 点 か ら教 育 学 的 視 角 の 中 に 引 き 寄 せ ら れ た ) の 構 想 は どの よ う な も の で あ る の か 0
内容のもつ構造を考える際にも、上述の三つの基本的問いを踏まえてはじめて教育学的に正し く構造の問題を考えることができる。そうした視点を欠くならば、構造の問題は、教育学以前の
「事実分析」に終始することになる。つまり理論的・科学的な答えを得ることで終ってしまうこ とになる。たとえば、 「電流」という内容の構造として、 「原子論」 「電子の流れ」 「オームの法則」
といったことをあげることができるであろう。しかし、とクラフキーはいう。こうした性質が教 育的なものとなりうるのは、子どもの問いや理解の水準がそれに対応しているときである。たと えば、どんな学年、どんな学校階梯においてそうした問題が設定されるのかが考慮されなくては ならないのである。小学生の多くの子どもたちにとっては、原子モデルやオームの法則の数学的 定式化はわかりにくいものであり教育的な知識内容とはならない。あえて教えたとしても誤った 観念を引き起こすか、(モデルと現実を同一視)、ただ単に習ったにすぎない(オームの法則を知っ ている)といったことを引き起こすにすぎない。こうした段階での物理学の学習は、もっと現象 を大切にする物理(Fanomen‑Physik)でなくてはならないとクラフキーはいう。つまりそうし た事象は、子どもにとって、より直接的で、簡単な実験などによって興味深く電気的現象にふれ
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さすものでなくてはならないのである。だからまた、電流の技術的・実践的適用や応用という観 点が重要性をもつことにもなる。こうしたことを念頭に置きながら、構造化についての基本的問 いは、さらに次のように分節化することができる。
(1)一つの意味関連としての内容の中にある個々の要素としては、どんなものがあるか。
例えば、ガソリン・エンジンをとり上げると、
a)暖めたときの気体の膨張
b)ガソリンの低い発火温度‑点火プラグ C )上下運動の回転運動への技術的転換
d )機械的運動を伝える単純な歯車の組み合わせ (2)これらの個々の要素の関係はどうか。
a)論理的に明確な関係か。 (計算、数学、理科、物理、化学などの場合)こうした場合には 論理体系が保持されなくてはならない。
b)実際上、作用関連をもったものであるか。そこでは、全体として、あるいは部分的に作用 関連が存在しており、その考察は、主として個々の事物そのもの論理によって特色づけられるも のではない。 (生物界における典型的植物系や動物系、景観の本質規定要因、地理的作用関連)
(3)その内容は層構造をなしているのか。つまり、異なった意味内容の層をもつものなのか。
読み物を例にとった場合。第一には、叙述されている経緯や行為の層。第二は、表面的には表 わされない内的な体験の層。第三は、そうした現象や関連の象徴的な意味の層。
地理学におけるアフリカというテーマ。第一は、気候や植生分布といった基本認識、第二は、
個々の地理的な事象関連の層。
歴史的なテーマとしての「ロシア革命(1917年)」では。第一層:本質的な歴史的事実の層。
第二層:政治思想。第三層:歴史的一政治的一社会的な基本現象と基本概念、つまり、国家、統 治、皇帝、階級、革命といったような。
こうした諸層は、まず最初相対的に区別して理解できるものなのか。それともある層を理解す るためには、その前提として他の層の理解が要請されているかの検討0
(4)この内容はどの程度の内容葺があるものなのか。内容的にどんなことが先に教えられてい なくてはならないのか。 (モーターを理解するには、磁石の理解がなければならない、といった 具合に)
(5)内容のどういった,蕪が、その事象を理解するのに子どもにはむずかしいか。
たとえば表現の問題。理科において、日常の表現としての「窓ガラスが汗をかいている」とい う言い方、あるいは逆に理科での「遠心力」 「電流の流れ」といった言い方は、子どもに誤った 類推概念を呼び起こしてきたし、また呼び起こすものである。電流の流れという定式化は、高低 差によって生じる水の流れを類推させてしまうのである。
また、歴史の授業などにおいても、現在の経験からつくり出されている子どもの観念が歴史現 象の理解を妨げるということも考えられる。教師が注意しておかないと、子どもの日常経験が科 学的概念を形成するうえで妨げとなってしまう場合があるということである。
(6)先に進んでも、学んだ内容が身につき、 「生きて」 「働く」学力となる必要最小限の知識と は何であるのか。
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5 . どんな特殊事例 、現象、状況、試み、人物 、事件、形式 を手がか りとして、ある教育 段 階、学級の子 ど もたちに、興味 深 く、わか りやす く、「直観 的に」その内容の構造 を理解
さそ うとするのか。
(1)まず問題とすべきことは、どんな事物関連、現象、状況、試み、論議、言い換えれば、ど んな「直観」が、それぞれの内容の本質、その間題の構造へと目を向けさすことができるのかと いうことである。授業を展開していく核として何を設定するのかということである。
H.ロートの定式化に従えばそのことは次のようになる。 「教えたい対象をどのように子どもの 問いとするのか。対象を、どのようにして子どもが間うに値するものとするのか。問いに対する 答えを再びまた問いの対象‑とどのように転化さすか」そうした問いに対するロート自身の答え
は次のようなものである。 「子どもと対象とのかぎがかかり合うのは、その対象を生成過程の中 でたどるときである。そのけ寸象』 『課題』 『文化財』を、それが発生したところの『本源的な状 刺の中において問うときである。」(9)っまり教育的に「本源的状況」へと立ち戻らすことによっ て、生気を失なってしまった事物関連を生気に満ちた行為へと連れもどそうとするのである。対 象を発明や発見の過程へ、作品を創作の過程‑、計画を思考のレベルへ、答えを課題へ、現象を 本源的現象‑と連れ戻すことが重要であるというのである。
ミルクの缶に二つの穴が開けられミルクが流れ出すときに大気圧の作用についての子どもの認 識関心がよび覚される。山村と平野部での残雪の相違を実感することで、気候についての基本問 題を考える契機が与えられるのであるし、さまざまな気分を喚起する音楽の提示が、長音と短音 の音のひびき(性格)の違いに気付かすことになるのである。
(2)どんな直観、示唆、状況、観察、話、試み、モデルといったものが、事物の本質に向けた 問いに対して自分自身で応えてみたくなる気を起こさすか。
この点については、 「要素的な事例のモデル的性格」 「要素的なもののもつ生産力」という言い 方で、原理的な考え方が提示されているといってよい。歴史的だけではなく体系的な意味におけ る本源への帰還という原理は、また直観化における十分正しい形式であるといえる。
帆船時代の無風地帯における帆船の話は、貿易風の発生についての問いを子どもたちに生じさ せ、暖められた部分での空気対流をモデルとしてその答えを考えさすことになる。
(3)範例的な例や要素的事例によって、理解した原理や構造を効果的なものとし、応用し、使っ てみるためには、どんな状況や課題が適しているか。
今日の言語教育は、事物や子どもに即した形で応用練習をさせている。たとえば文章構造が明 らかにされた後、 「そうした構造の文章を10作ってみなさい」という代わりに、そうした文章構 造は子どもの日常生活において実際どのような場面で使われているのかという問題が出されるこ とになる。
あるいはいくつかの例を手がかりとして理解した法則は他の事例においてもあてはまるもので あるのか。たとえばみつばちを手がかりにして解明した昆虫の生態は、アリの生態の解明に役立 つというように。
西ドイツ教授学の研究(Ⅲ) 117
Ⅳ.内容分析の事例
まったく抽象的に用いられてきた「陶冶内容」とか「陶冶価値」を具体化して、日常の教育実 践を指導できるものにしようとした最初の教授学者としてクラフキーはザイフェルトをあげる。
サイフェルト(Seyfert,K)は「一般的実践的陶冶論」 (1930年)の中で次のように述べる。 「細 部に到るまで構成しつくされた現実的な像を考慮することにおいてのみ、陶冶価値を確定すると
いう教授学的課題は実現される。」
ザイフェルトは「建築」という小学生5年生のテーマを取りあげ、その「陶冶価値」を次のよ うに述べる。
(1)それを扱うことによって現象の中にある本質的な意味内容を呼びさまし満足さすことがで きる。 (計画と遂行、確かな基礎。特性や目的に応じた建材、基礎となる単純な機器類)
(2)内的な関連をとらえるという能力が促進される。 (建築は全体として、家というものの性 質が要請するものの一つの意味関連を表わしている)
(3)似たような現象や過程を自分で意味づけることのできる一般的な認識能力が獲得される。
(テコ、滑車、弾性といったことについての物理的原理、化学の法則、作業計画とその内部構成) (4)模索的、創造的思考の刺激。 (モデルで物理的なことをとらえる。実験・測定・計算によ る物理的な問題の把握)
(5)他の学習領域とも豊かな関係をもつ。 (住居の歴史、外国の住居、家の装飾、建築技術など) まとめれば、 「建築」というテーマが陶冶価値をもつのは、すでに子どもの牲界に大きな位置 を占めている一つの典型的な、繰り返し生起する現象だからである。いってみれば、それによっ て個々の現象が明らかにされ、同じような構造を理解する場合の手助けが与えられ、全く異なっ た現象を考える際にも一つの手がかりを与えるものとなるのである。クラフキーによればテーマ の陶冶価値は範噂的な認識を与えるという点にあるというのである。
クラフキーはこうしたサイフェルトの見解をも踏まえながら、「分度器を用いて角度を測る」(小 学校6年)ことの陶冶価値について、自ら分析を行う(10)
〔6年の幾何:テーマ、分度器を用いて角度を測る〕
1.分度器そのものが一般的な内容を有している。というのも幾何の授業が進んでも常にこの 補助手段に立ち戻るからである。しかし、それだけではない。それによって幾何的な図というも のは、一定の軌跡であるという幾何的思考の基本に思い到らすことになるからである。
2.学校での角度の学習ということを通して子どもたちは、日常現象における角度の問題に興 味を持ち、その関心を高めることになる。たとえば、道路の勾配(自動車の馬力やサイクリング の経験を通して)、山の傾斜(スキーやリュージュによって)、飛行機の運行(降下、滑空、仰角)、
気象学的現象(日光浴と光線の角度との関係、地表や屋根のあたたまり方)、そしてあらゆる種 類の工作において。こうした問題は、また角度の問題をいっそう深めることにもなる。
3.一般の成人にも必要とされる空間認識が角度の問題を通して形成される。絵を書いたりす る場合にも角度の問題は前提とされるし、多くの職業にとっても基本的な意味をもっている。子 どもにもそうしたことは理解されるであろう。
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4. (1)‑(3)幾何的補助手段である分度器には、統一的な幾何的思考過程が存在している。つま り角度は二直線の方向を決めるということである。角度は空間的なものを表しているのではなく、
一つが固定された二つの「脚」が中心点を回転することによって形成されるものである。角度の 開きの大きさは決まっているこ というのも、 ‑t面においては動く一方の直線は必ず他の直線のと ころに戻ることになるからである。この線の動きを正確にとらえるために、同じ大きさの区分が 行なわれることになった。つまり360‑を分割したのである。
分度器というのは、その線の動きを固定したものに他ならない。扱いやすさと180‑をこえる角 を測定することは現実的には少ないということから半分の円運動にとどめられている。したがっ て、分度器は決して半円ではないのである180。の角の上にできている半円の弧である。
分度器はこのようなものとして教えられなくてはならない。その「中心点」は頂点なのである。
そのことを理解させておけば、角度をはかる時に分度器の直線部の片端をはかりたい角度の頂点 と重ね合わすということはおこらないのである。
(4)分度器を扱う一般的前提は、二つの線の方向のずれを示すものとしての「角」という概念 へ導くことにある。しかし、現実の「小学校幾何」では、鋭角、鈍角、 450、 180。といったこと が角の学習についての第一歩となっている。そうしたとらえ方の限界につき当って、より正確な 測定の問題が出てくることになる。
(5)分度器によって角度を運動としてとらえることを難しくしているのは、分度器の外見に子 どもがとらわれてしまうからである。運動が静止している状態を測るものとしての分度器を理解 することは、子どもにとってなかなか難しい課題である。
(6)こうしたことが実際にわかるということが重要である.つまり、言葉の上だけで「角は一 点を固定した二直線の開きによってつくられる」ということを知っていることではない。実感を
もってわかるということが、ここで要請される「最小限の知識(能力)」の内容なのである。
5. 「問題一問いを喚起する」 「十分な直観をつくり出す」 「学んだものが十分に使える」といっ た課題に対して、次のことが問題となる。
(1) 「ほぼ450」 「少し鋭角」といった言い方の不充分さが明らかにされてくるとき、授業に生 き生きとした知識活動が生まれはじめたといえる。そこにおいてはじめて、角度はいったいどの ように測られるのかという問題が出されてきたといえるのである。
(2)分度器において線の動きが直観化されなくてはいけない。こうした動きという問題を分度 器から再発見さすということ。でき上がっている分度器をそうした生成過程へと引きもどすとい うことが課題となる。そうした動きを学ばすことのできるモデルを本や紙でつくるということが 必要となる。
(3)学んだことを、地図を扱ったり、製図を書いたり、平面上で角度を測ったりすることで応 用してみる。
おわりに‑ 「クラフキーの内容分析」の意義一
以上クラフキーの「教授内容の分析」についてみてきたが、最後に、その内容論の特質(意義) と問題点をまとめておきたい。
1̲ 「『教授学的な構成物』としての教科内容」。陶冶論的教授学の立場は決して単純な観念論 の立場ではない。クラフキーなどが、科学(芸術)が、教育内容構成のための唯一、絶対的基準
西ドイツ教授学の研究( II ) 119
でないと主張するのは、現実の教科課程編成を考えれば明らかなことである。そこには間違いな く、社会的な要請や社会的利害が反映しているし、子どもの発達段階や学校階梯というものが考 慮されているのである。教科内容の問題を単純に科学(芸術)の問題に還元してしまうことは誤 りであり、また、子どもの心理発達を絶対化して内容の配列、構成を考えることもできない。未 来の大人を視野に入れながら、子どもの立場に立って教科内容を構成しようとするとき、そこに 教授学の責任と課題が生じてくる。 「社会(政治、経済)」、 「租学(芸術)」、 「子どもの心理発達」、
この三者を視野に置きながら、子どもの立場に立つことによって、教授学の固有の問題領域が成 立するといえる。教科内容とはそうした意味での「教授学的構成物」である(ll)
2. 「『要素的なもの』の発見」。 「要素的」というのはクラフキーによれば、 「典型的な現象の 認識を超え出て、他の現象や関連に対しても有効に適用できるもの」を意味しており、別の言い 方をすれば、範晴的な認識(kategorialeEinsichte)を可能にするものである。クラフキーの事 例に従えば、それは「分度器」であり、ザイフェルトにおいては「建築」というテーマがそれに 当たる。子ども自身の内的世界や認識を広げるとともに、外的世界の構造をより鮮明なものとす ることのできる「要素的なもの」の発見、構成は、今日の教科構成論においても一つの鍵的概念 たりうるものである。あり余る情報を子どもに羅列的に提示するのではなく、ある事象の本質理 解を可能にすると同時に、その後の認識発展にとっても重要な手がかりを与えることのできる鍵 的テーマ(題材)の発見、構成が内容研究において課題となる。そうした題材は、一方では科学 (芸術)の基本的性格を典型的に担っているものであると同時に、子どもの興味、関心、生活経 験に結びついたものであるということが基本的要件となる。
3. 「発生的原理」。 「要素的なもの」の発見が教材構成の基本原理とするならば、 「本源的出会 い」ないし、 「発生的原理」 (dasgenetischePrinzip) は教科内容を獲得させていくその遺すじ を特色づける「方法」原理であるといえる。ある科学的概念を教えようとするならば、その概念 が発見された遺すじを再び子どもたちに歩ますことが、子どもたちにもっともわかりやすく、ま た感動をもって理解することができるというのである。発生的原理の強調は、子どもたちに「わ かりやすさ」を保障しようとすると同時に、概念の「言葉主義的」理解の克服をもめざすものな のである。概念の発生プロセスを再び歩ますということは、 「現実」の中で知識や概念を形成し ようとすることである。書物や単なる説明からではなく、現実にふれ、現実の中で生きて働く学 力を形成しようとするものであるといえる。
しかしこうした発生的原理の無原則な強調は、子どもたちの思考をかえって混乱させてしまう 場合もある。学び取らせたい概念だけではなく、その他の諸々の要素が複雑にからみ合っている 現実と素朴に向かい合わせるだけでは目標とすべき概念形成を子どもに実現することはできな い。発生的原理といってもそこに教授者の構成やコントロール(焦点づけ)が働いていなければ ならないのである。
にもかかわらず伝統的には「直観の原理」として強調されてきたように、子どもにおける概念 形成は、生き生きとした「直観」に絶えず媒介されることによって本質的な意味を得ることがで きるのである。現実を把握し、変革していくことのできる力を子どもたちに形成するうえで、発 生的原理から示唆を得るところは少なくない。
注
( 1 ) 「陶冶論的教授学」は精神科学的なM.場に立つ教授学(die geisteswissenschaftliche Didaktik)とも呼
120 4、野 横 男
ばれ,西ドイツにおいて最も伝統的な立場に立つ教授学であった。ヴェニーガ‑ (Weniger,E)やタラ フキ‑ (Klafki,W)を代表的論者としてあげることができるが, '60年代末から70年代にかけて,クラ フキーは,自らの立場をさらに「発展」させて, 「批判的‑構成的教授学」を提唱するに到っている。
その概要については,拙論「西ドイツ教授学の研究( I )‑ (Klafki,W)の批判的‑構成的教授学と授業 の基本構想」 F奈良教育大学紀要』第36巻1987,および拙論「W.クラフキーの批判的一構成的教授学に ついて」 F教育方法学研究1第13巻1987年において報告した。新しい見地においては,クラフキーは教 授学の問題を教科内容の観点からだけではなく,目標o内容⇔方法の相互関連の中で論じようとして
いるのが一つの特色であるといえる。
(2)たとえばザイフェルトはクラフキーの論述の検討を通して次のようなことを主張するO 「教育学と事 物との正しい関係を打ち立てるには,事物そのものに目を向けることが必要である。事物と教授学的転 換との二元性などは存在しないということ,したがって,事物そのものが教育的視点を与えてくれると 認識する時に,教授学者の仕事は,ずっと軽減されることになる。教育学が事物から『客観的に』規定 されなくてはならないという理由からではなく,誤解を恐れずに言えば,その逆である。つまり,教育 学者が考える以上に事物そのものが,それ自体,教育的だからである」 seiffert, H, Mun die P畠dagogik
eigenstandig sein? In; Das Problem der Didnktik, Ehrenwirth, 1973 S. 35
(3)情報理論とサイバネティックスを基礎に教授学を構想したクーペは次のようにいう。 「科学としての 教授学は,所与の学習目標をできるだけよく達成するためには,学習システムの学習プロセスをどう指 導し,操作したらよいのかということを研究するのである」 (クーペ著,西村.井上訳F情報理論と教 育学J慶応通信, 1972 Felix Von Cube, Kybernetische Grundlagen des Lernens und Lehrens, Klett, 1968
(1965), S. 185)
したがって,教授学を目標値(Soll‑Wert)の領域まで拡大させると,教授学者はもはや学者ではなく, 一人の立法者であると断定する。 (Ebenda, S. 192)
( 4 ) Klafki, W, Didaktische Analyse als Kern der Unterrichtsvorbereitung(1958), In: Studien zur Bildungs theorie und Didaktik. Beltz 1975(1963)
Ebenda, S. 127 6 ) Ebenda,Ss. 127‑130 ( 7 ) Ebenda,Ss. 130‑134 (8) Ebenda,Ss.135‑142
( 9 ) Roth, H. Die originale Begegnung als methodisches Prinzip, In: Pえdagogische Psycholgie des Lehrens und Lernens, Schroedel, 1964, S. 123.
(10) Klafki, Ebenda, Ss. 145‑148.
(ll)内容構成についての教授学的観点の強調については, (1)に述べたザイフェルト以外にも対象(事物) の分析にこそもっと力点を置くべきであるという主張は根強くある。たとえば,同じ陶冶論的な立場に 立つ,ペックマンもクラフキーの内容分析論の問題点の一つとして次のような指摘をしている。 「クラ フキーは内容の構造についての問いを四番目にはじめて提出している。それは教授学的な問題設定を抜 きに単なる事物の分析に基づいて,方法上の問題を導き出すことを否定しようとするからに他ならない。
そうしたことが不当であるとしても,同程度に次のことについての疑問が生ずる。代表的であるという ことについて,あるいは現時点での意味あるいは将来的な意味を問題にしようとするならば,事物に即 して考えなくてはならず,それには事物の構造を十分に解明するということが不可欠の前提ともなる。
したがって事物構造についての問いこそ第一に問題とされねばならないことであり,より詳細に専門科 学に基礎づけられて答えられなくてはならないものである。」 Beckmann, H.‑K., Aspekte der geisteswis‑
senschaftlicher Didaktik, In: Modelle grundlegender didaktscher Theorien, Schroedel, 1972, S. 111.
(12) 「発生的原理」は,とくにヴァ‑ゲンシャインにより主張された学習方法であるが,またロートの「本 源的出会い」論と軌を一にしている。 (Wagerschein, M, Zum Problem des Genetischen Lehrens, In Ver‑
stehenLehren,Beltz,1968.)ロートやヴァ‑ゲンシャインとともにクラフキーもまたこうした学習方法 に注目した一人であるO
r.'i
Zu didaktischen Theorien in der BRD( II )
‑Wolfgang Klafkis "Didaktishe Analyse als Kern der Unterrichtsvorbereitung"‑
Hiroo ONO
(Department of Pedagogy, Nara University of Education, Nam 630, Japan ) (Received April 28, 1989)
Was ist die Hauptaufgabe der Unternchtsvorbereitung fur den praktiker? Man kann sagen:
Die Vorbereitung soil eine oder mehrere Moglichkeiten zu fruchtbarere Begegnung bestimmter Kin‑
der mit bestimmten Bildungsinhalten entwerfen. Das wichtishsten Problem des Unterrichts ist aber
nicht der Prozeslゝ in dem ein Lehrer seiner Shuler begegnet, sondern dis Sache, den die Shuler im
Unterricht begegnen. Als ihre primaren Aufgabe muli die Didaktik da fur antworten: Was ist denn die 'Sache'? Was ist sogen. 'Unterrichtsstoff lhren Wesen nach?
Die Kern der didaktishe Analyse (Analyse der Inhalt) ist Meinung Klafkis nach folgend.
1 ) Die Begriffe ̀Bildungsinhalt'und 'Bildungsgehalt'geklart werden miissen.
2 ) Die allgemeine Frage nach dem Bildungsgehalt mussen in funf didaktishe Grundfragen konkresiert werden.
a ) Welchen allgemeinen Sinnzusamenhang ershliefゝt dieser Inhalt?
b ) Welche Bedeutung hat der betreffende Inhalt bereits im geistigen Leben der Kinder meiner Klasse?
) worin liegt die Bedeutung des Themas fur die Zukunft der Kinder?
d ) Welches ist die Struktur des Inhaltes?
Welches sind die besonderen Falle, an denen die Struktur des lnhaltes den Kindern
anschauhch werden kann?