東国の横穴墓における女性の埋葬について
足 立 佳 代
(史学専攻博士後期課程1年) はじめに 現代社会における墓は「家」を象徴するものである。近年、主に女性たちがこれまでの「家 墓」を入ることを拒否し、樹木葬や友人墓などを選択するケースが増えている。こうした墓 をめぐる考え方や社会状況の変化は家の解体、つまり家父長制の解体を促すものであろう(1)。 墓がどのように移り変わってきたのか、女性がどのように葬られてきたのかを解明するこ とは、家あるいは共同体における女性の地位の変化をとらえる試みであり、今後、家父長制 の抑圧のもとにあった女性の地位のさらなる向上と、家が解体されていく中で女性が主体的 に墓を選ぶため(女性が主体的生きていくため)に必要な作業と考える。 考古学の研究対象としての墓を代表するものに古墳がある。3世紀から7世紀にかけて築 造された古墳は、共同体の首長墓であり、単なる墓ではなく、死後の首長がカミとなって共 同体を守るために祀られる祭壇でもあり、前方後円墳祭祀を共有する共同体の政治的モニュ メントとしても機能した(2)。つまり、古墳時代の墓 ・ 古墳は家を象徴するものでなく、共同体 を象徴するものであった。 しかしながら、6世紀後半になると列島各地で小円墳を中心とした古墳が密集して築造さ れる典型的な群集墳や、丘陵の崖面や山麓斜面を掘削した墓室が密集する横穴墓が造営され るようになった。これらの場合、ひとつの墓に複数の被葬者が埋葬される例が多く、被葬者 の数は古墳の数をはるかに上回り、もはやカミとして祀られたとは考えられない。もちろん、 古墳時代前期、中期、後期を通して造営され続けた前方後円墳の被葬者である首長への共同 体成員の祖霊としての期待は継続されていたであろうが、群集墳や横穴墓群は、それまでの 古墳とは意味や機能が違ったものであったと考えられる。群集墳研究の嚆矢である『佐良山 古墳群の研究』において近藤義郎は、群集墳被葬者を古代家族の家父長とし、家父長層の成 長が群集墳築造を可能にしたとした(3)。古墳及び被葬者の増加は、古墳を築造することができ る階層が広がったことを意味し、古墳時代における画期であったと考えられる。そこで、こ の画期を「首長墓」から「墓」への転換と仮定し、後代に続く「墓」の始まりととらえ、当 時の女性がどのように埋葬されたかのかを明らかにする。特に横穴墓群は、古墳時代後期から律令期にかけて造営され、古代との接点にあること、 その構造上被葬者の人骨が保存される例が多いことから、横穴墓を取り上げる。 1 研究史 第二次世界大戦後、考古学による古墳研究を大きく進展させたのは小林行雄であった。小 林は、戦前、戦中からの皇国史観を払拭し、新しい古墳時代像を提示してみせた。古墳発生 の内的要因としては「首長権の男系世襲の発生に関係づけられる(4)」とした。古墳被葬者につ いては、男女が同一古墳に埋葬されている場合には、同族を基本とすることから夫婦埋葬で はない可能性があり、夫婦墓の風習とともに大陸からとり入れられた横穴式石室も、その構 造が多人数埋葬に適していることから、家族墓として定着したとしている(5)。近藤義郎は、岡 山県の佐良山古墳群の発掘調査を通して、地域における歴史の再構築を実践し、佐良山古墳 群のような群集墳は、「家父長制家族」が成長し共同体から自立することによって造営された とし、古墳時代後期に家父長制家族が成立したとしている(3)。 古墳研究者の間で、父系的な社会としての古墳時代観は長らく受け入れられ、前提とされ てきた感がある。 こうした古墳時代観に対して今井堯は、古墳の埋葬施設から出土した人骨を検証し、女性 が埋葬されていたことを明らかにするとともに、古墳時代前半期には女性首長が存在し、双 系的社会であったことを示唆している(6)。辻村純代は、吉備地方における箱式石棺の複数埋葬 例を集成し、同じ年齢区分の男女が埋葬されている場合は夫婦であるとし、古墳時代を父系 社会とした(7)。間壁葭子は古墳の被葬者人骨について、前半期古墳と後半期古墳を大形古墳、 小形古墳に分けた上、九州、中四国、近畿、近畿以東の4地域での性別分類による埋葬状況 を示し、前半期の大形古墳では西日本各地域で女性単葬者が1/4前後を占め、女性が一定の社 会的地位を持っていたとし、後半期には男女2人埋葬を基本とする傾向が強まり、埋葬され る男女は夫婦である可能性が高いとした(8)。 土肥直美、田中良之、船越公威は、古墳から出土した人骨の歯冠測定値を用いて血縁者を 推定する方法により、集団墓内における被葬者の血縁関係を明らかにしようと試みた(9)。 その後、田中良之は、この方法により古墳から出土した人骨の血縁関係を調査し、古墳時 代の親族構造の基本モデルⅠ~Ⅲを提示した。基本モデルⅠは、血縁者が同一墳墓に埋葬さ れ、男女が同じ墳丘や墓室に葬られていても血縁関係が認められることから、配偶者を排除 したキョウダイ原理による埋葬であるとし、分布する地域は南九州を除く九州から中国地方 とする。基本モデルⅠで男女はあまり区別されず、このモデルは双系あるいは父系に傾いた 双系的な親族関係を示すとしている。基本モデルⅡは、二世代の構成を基本とし、家長であ
る第一世代の男性と、家長を継承しなかった家長の子 が埋葬される。家長の配偶者は排除され、男系の血縁 者により構成される。次世代の家長は新に墓を造営す る。基本モデルⅢは、基本モデルⅡに家長の配偶者を 加えたもので、夫婦同一墓となる。第二世代は基本モ デルⅡと変らず、家長を継承しない子とし、西日本に 分布するとする。 また、これらのモデルには時期差が認められ、基本 モデルⅠは5世紀後半を下限とし、基本モデルⅡは5 世紀後半から6世紀後半まで、基本モデルⅢは6世紀 前半から6世紀後半にみられ、5世紀後半に双系的な 社会から父系的な社会へ変化するとした(10)。田中の研究 では、歯冠計測値という形質人類学的方法を用いただ けでなく、人骨の出土状況や閉塞部の土層観察による 追葬痕跡の探究、副葬品の時期差による追葬時期の確 認など、考古学的手法による検討を経た上で親族関係 を明らかにしており、その後の研究に大きな波紋を広 げるとともに、研究を進展させた。 田中の研究については、歯冠計測値には「他人の空似」が存在し、必ずしも血縁関係を示 さないとする西本豊弘 ・ 松村博文による批判がある(11)。また、白石太一郎は、田中による第一 世代を夫婦埋葬とする基本モデルⅢは、渡来系氏族によるモデルであるとした(12)。古代史研究 の関口裕子は、基本モデルⅢの夫婦合葬は文献上では一般化していないと批判している(13)。 清家章は、土肥らの考案した歯冠計測値による血縁判定法を用いて、畿内とその周辺地域 の古墳出土の人骨の調査を実施し、古墳時代前期においては女性首長が一定の割合で存在が 認められるが、中期以降は男性首長が優位となること、古墳時代後期群集墳にも田中の提示 した基本モデルⅠ ・ キョウダイ原理による埋葬が継続し、女性家長の存在も認められること、 夫婦原理の埋葬である基本モデルⅢについては、大王層と渡来系集団以外では認められず、 一般化していないことから古墳時代後期まで双系的地位継承は続いており、田中による基本 モデルⅡは普遍的な存在ではないとする(14)。清家による研究成果は、これまで古墳時代後期に は父系化されているとする考古学研究を否定し、古代社会は家父長制が未成立で、双系的な 社会であるとする意見が大勢を占める古代史研究(15)との距離が近づいたといえよう。 一方、発掘調査された横穴墓群と古代籍帳との対比から親族構造あるいは被葬者の性格等 基本モデルⅠ 基本モデルⅡ 基本モデルⅢ 第1図 田中良之による親族構造の モデル(註10より)
に迫る研究がある。佐田茂は竹並遺跡における考察で、5世紀後半~8世紀にかけて造営さ れた横穴墓の型式の変化と埋葬数の変化から被葬者の性格をまとめ、当初は世帯共同体的な まとまりがはっきりせず、限られた人々が埋葬されていた段階から、傍系を含む夫婦を基調 とした小家族で、それがいくつか集まった単位が家父長制的な世帯を形成する段階を経て、 次第に有力家父長制的な世代共同体となり、横穴も衰退期には一横穴墓への埋葬は直系小家 族のみとなり細分化され、最終的には戸籍に見えるような家族構成の家父長制的な世帯共同 体となっていったとする(16)。 佐田と同様の試みとして、鈴木敏弘が東京都北区所在の赤羽台横穴墓群の調査で大嶋郷戸 籍と横穴墓の被葬者について検討している。横穴墓の築造時期と埋葬されている人骨の年齢、 性別などから大嶋郷戸籍と対照し、各横穴墓2~3基で構成される群が房戸の墓と推定し、 一主戸と二房戸で形成される一郷戸の二世代にわたる埋葬の歴史を示すとしている(17)。 小高幸男は、千葉県市原市所在の市宿横穴墓群において、埋葬順位及び推定年齢をもとに 考古学的立場から親族構造の復元を試みている。小高によれば、市宿横穴墓群の被葬者の親 族構成は父親(家長)と子どもと父親のキョウダイといった家長制的世帯共同体原理に基づ いており、傍系親族まで埋葬されていると考えられることから被葬者を選別する規制がより 緩やかであったと理解している。横穴墓築造集団内(部族)における世帯共同体としての単 位は、未分化状態であったと考えられており、籍帳に記載された家族形態と、市宿横穴墓で の親族構成に類似する点が認められることをもって、古い時期の籍帳に記載された家族形態 はある程度実態を表しているとしている(18)。 このように比較的人骨の残りの良い横穴墓について、親族構造や古代籍帳との比較検討が みられるが、梶ヶ山真理は、武蔵 ・ 相模地域における横穴墓の出土人骨の様相と埋葬方法を 具体的に検討している。その結果、武相地域において多様な埋葬様相が確認され、群集墳の 単位群の構成で一世代一墳的な理解はできず、改葬 ・ 改葬墓を前提として数基の横穴墓を互 いに同時に関連して親 ・ 子 ・ 孫と世代をこえて使用されたと推定している(19)。 池上悟も指摘しているように(20)、横穴墓のあるいは群集墳の被葬者人骨の埋葬様式の検討に は、横穴墓群の構成が問題となる。つまり、横穴墓群中に占める個別造営主体の累代的に形 成した複数の横穴墓からなる造営単位を確定し、群構成を把握することが前提となる。横穴 墓群は単位群ごとに数基の横穴墓を造営し、それぞれ家長とその親族中心に埋葬する横穴墓、 改葬のために遺体を骨化する施設としての横穴墓、被葬者の人骨を改葬する横穴墓のような、 機能による使い分け、あるいは家長を中心とする横穴墓、男性を主に埋葬する横穴墓、女性 を主に埋葬する横穴墓、子どもを主に埋葬する横穴墓のような、性別や年齢による使い分け がなされていることを提示した。
横穴墓の分布が濃密でない畿内においては、横穴墓の研究が等閑視されてきた。東北、南 関東、遠江、北陸、出雲、北部九州などで研究が進展し、横穴式石室に比べて被葬者人骨の 残りが良いことから、親族構造や古代籍帳との対比研究が先行したことは前述のとおりであ る。しかしながら、親族関係の調査も同一横穴墓に埋葬された被葬者についての解明が中心 であって、群構成を明らかにし、隣接する横穴墓がどのような関係にあるかを検討した上で 調査される必要があろう。 先に示したように清家による親族構造の研究は評価されるが、対象地域が畿内とその周辺 に限定されていることもあり、広く群集墳を対象としているとは言い難い。古墳時代におい て大和政権の中枢地域である畿内を研究対象とする意義は理解できるが、畿内における群集 墳被葬者は、大和政権に近い集団や渡来系氏族など限定された集団である可能性がある。ま た、古墳時代と古代の社会構造のつながりを明らかにするには終末期古墳や古代墳墓の検討 が不可欠であろう。 2 研究の方法 横穴墓は遺体を葬る空間に横から出入りすることができ、横穴墓築造の契機となった初葬 者の埋葬以降も複数追葬することが可能であり、また、それを前提にしている。また、岩盤 やローム層を掘削することによって墓室を造営するという構造上の特徴から、その後の盗掘 や墓室の崩落等に見舞われない限り埋葬時の状態が保存されやすい。したがって、被葬者の 人骨が残されている例が多く、近年では、発掘調査で人骨が発見された場合、多くは人類学 的調査が実施されている。 本稿では、そうした状況を踏まえ、発掘調査によって被葬者の人骨が出土し、できるだけ 人類学的な人骨鑑定が実施され、年齢や性別等が判明している例について分析する。ただし、 同一墓室から出土した人骨であっても保存状態が異なり年齢や性別が明らかにできるものと できないものが混在する例も多いため、すべてが判明していなくても集成の対象とする。ま た、古墳時代後期から終末期、律令期まで造営される例も含めて対象とする。 横穴墓は先に述べたとおり、追葬を前提に築造されている。しかし、そこに埋葬される被 葬者の数は一様ではなく、一つの古墳に埋葬される被葬者の数には意味があると思われるこ とから、まず、埋葬施設に何体埋葬されているかを確認し、類型化する。1体のみ人骨が残 されている場合はS(single)類 ・ 単体埋葬とし、複数人骨が残されている場合のうち、2 体残されている場合はT(two)類 ・ 2体埋葬とし、3体以上9体までをP(plural)類 ・ 複 数埋葬とし、10体以上をM(many)類 ・ 多数埋葬として分類する(第2図)。 また、被葬者の年齢や性別は当時の社会のあり方や造営主体である集団の性格などを表す
ものと考えられること、研究の目的である女性 の地位を明らかにするための必要条件でもある ので、これも類型化する。女性をf(female)、 男性をm(male)、性別不明の成人をa(adult)、 子どもをc(child)とする。(第1表)各類型 について性別及び成人か子どもかについて、組 み合わせごとに分類する。ただし、改葬や墓室 の再利用、盗掘などによって本来の埋葬形態を 保っていない例もあるが、総体把握する上では、 遺存人骨の数によって分類し、個別分析の際に 改葬等について考慮するものとする。 集成した群集墳を上記の類型に基づいて分類 し、総体的な傾向を確認した上で、被葬者人骨 の保存状態の良い例につい て個別に分析を行う。横穴 墓は単体で築造される古墳 ではなく、造営主体となる 集団の墓域に数基から数十 基が築造される。群集する 古墳 ・ 横穴墓は、その地形 や分布範囲によって通常 2、3基から10基程度の支 群に分けられることが多い。 この支群は造営主体となる 集団の中の単位集団と考え られ、この単位集団を「家 族」とする見方が多い。古 墳時代後期における親族関 係を明らかにする場合、単 位集団について検討するこ とが有効と考えられる。そ のため、個別分析ではでき S類 単体埋葬 1体 f 女性 m 男性 c 子ども a 成人 性別不明 T類 2体埋葬 2体 f 女性2 fm 女性+男性 fc 女性+子ども m 男性2 mc 男性+子ども P類 複数埋葬 3~9体 f 女性のみ m 男性のみ f+m 女性+男性 f+c 女性+子ども f+m+c 女性+男性+子ども c 子どものみ M類 多数埋葬 10体以上 f 女性のみ m 男性のみ f+m 女性+男性 f+c 女性+子ども f+m+c 女性+男性+子ども m+c 男性+子ども c 子どものみ 第1表 横穴墓における埋葬類型 第2図 被葬者類型模式図
るだけ単位群を設定し、単位群における 埋葬順序や改葬状況などを把握した上で、 埋葬の様相について分析を行うこととす る。また、ここでいう「家族」とは、同 じ竪穴住居に暮らす血縁に基づいた最小 単位である集団程度の意味となろうが、 当時の社会が父系制であったか、母系制 であったか議論されているなか、「家族」という言葉はあまりにも現代における「家族」のイ メージと結びつきやすい。そのため、本稿ではできる限り「家族」は用いず、「単位集団」と する。同じ理由から「家」、「家長」も用いない。 3 横穴墓における被葬者の様相 横穴墓の被葬者の様相を総体把握するために、27遺跡361基1111体の被葬者の人骨について 被葬者内訳、埋葬類型を確認した。 人骨の年齢、性別の内訳は、成人78%で、このうち女性が263体、25%、男性が351体、 33%、性別不明の成人は220体、20%、子どもが238体、22%である(第3図)。成人の男女比 は男性がやや優位であるが、その差は大きくない。 次に埋葬類型をみてみよう。S類が133基、38%、T類が74基、21%、Pが132基、38%、 Mが11基、3%である(第3図)。S類の割合が多いことが目立っている。これは後述する が、改葬によって一次葬として使用された横穴墓に残された人骨の量が少なく、1体とみな されたことが一因としてあげられる。 次に、被葬者人骨の保存状態のよい横穴墓群について分析し、その概要を述べる。 ① 神明上遺跡 神明上遺跡は日野市神明1丁目に所在する複合遺跡である。神明上遺跡の所在する日野台 地は面積が8㎢ほどの広さの段丘地形で、北を多摩川に、南を浅川に挟まれ西は加住丘陵を 経て関東山地へと連なる。横穴墓群は台地の南向き崖面にあり、標高90m を中心とする上下 数mの範囲にあるローム層を掘削して、上下数段にわたり造営されている。横穴墓の年代は 出土遺物である土器の年代から、7世紀後半を中心に造営され、8世紀前半まで機能してい たとされる(21)。 調査された23基の横穴墓のうち、被葬者の人骨が確認されたものは7基で、全部で19体で ある。その内訳は、成人15体、子ども4体、成人骨のうち性別が判明したものが8体でうち 第3図 横穴墓における被葬者内訳と埋葬類型
女性が1体、男性が7体である(第4図)。性別不明の成人骨が7体と半数近くを数えるとは いえ、女性が埋葬される割合が少ないことが特徴としてみてとれる。埋葬類型は、S類が2 基、T類が2基、P類が3基であり、M類はない。それぞれの類型の割合は同程度である。 被葬者の人骨が出土している横穴墓につい てその分布状況により単位群を次のように設 定した。(第5図) A支群 K区2号横穴墓 K区3号横穴墓 (2基) B支群 K区1号横穴墓 L区1号横穴墓 L区3号横穴墓 L区2号横穴墓 (4基) C支群 N区1号横穴墓 62次2号横穴墓、 62次3号横穴墓 A支群は発掘区の東端、標高約90.5m に位置する。2基からなり、隣接して造営される。 玄室の主軸はほぼ南北で南に開口する。B支群はA支群の西に隣接し、標高約90m に位置す る。4基からなり、玄室の主軸は南北よりやや西に振れ、南に開口する。C支群は、B支群 の西、標高約90m に位置し、3基からなり、A支群とは主軸の方位を異にし、この点でも造 営主体が異なることを示す。 横穴墓群からは出土品が少ないため、報告書による玄室の形態分類(21)を参考し、編年を試み た上で築造順序を推定した。(第2表) 第4図 神明上遺跡における被葬者内訳と 埋葬類型 第5図 神明上遺跡における横穴墓群分布図(註21より一部改変)
1類 明瞭な両袖型で、平面形が方形を呈するもの。 I区1号横穴墓 2類 明瞭な両袖型で、平面形が長方形ないし台形で、天井がアーチ形であるもの。 K区1号横穴墓 L区1号横穴墓 L区3号横穴墓 3類 やや不明瞭な片袖状で、ゆるい胴張りを呈する長方形状、天井がドーム形となるも の。 N区1号横穴墓 4類 不明瞭な両袖型で、平面形が胴張りを呈する撥形ないし台形のもの。 L区2号横穴墓 5類 無袖型で平面形が撥形、天井がアーチ形となるもの。 K区2号横穴墓 K区3号横穴墓 池上悟による多摩川上流域横穴墓の研究によれば(22)、玄室の形態の変遷は胴張り長方形から 矩形、さらに無袖の台形ないし撥形となる。 A支群、B支群ともに被葬者の人骨が残っていることから、それぞれの群について検討し たい。 A支群で確認された人骨は8体である。8体のうち性別が判明した成人骨は6体で5体が 男性、女性は1体であった。女性の人骨が確認されたK区3号横穴墓はT類であり、2体は 男女で、2体の人骨の形態に類似性がないこと、ミトコンドリア DNA の分析から母系でつ 支群 A支群 B支群 その他 墓室形態 5類 2類 4類 1類 3類 6類 Ⅰ期 I区1号横穴墓 N区1号横穴墓 Ⅱ期 L区1号横穴墓 K区1号横穴墓 L区3号横穴墓 Ⅲ期 K区3号横穴墓 L区2号横穴墓 K区2号横穴墓 Ⅳ期 N区2号横穴墓 表2 神明上遺跡の横穴墓群編年表
ながる血縁関係をも持たないとされ ることから、夫婦であると推定され ている(23)。A支群K区2号横穴墓は人 骨6体が埋葬されるP類で、成人男 性4体、性別不明の成人1体、幼児 1体である。 K区3号横穴墓とK区2号横穴墓 では、K区2号横穴墓よりK区3号 横穴墓の方が大きく、K区3号横穴 墓は床面礫床の下に排水溝がめぐら されていることなどから、先行して 造営されたと考えられる。また、K 区3号横穴墓は、玄室の主軸に対し て平行に2体並べてほぼ同時に、あ るいはかなり近い時期に埋葬された 状態であったのに対し、K区2号横 穴墓は、玄室の主軸に対して直交し て埋葬され、おそらく、追葬のたび に前に葬った遺体を奥へ片付けた様 子がうかがえ、K区3号横穴墓とは 被葬者の扱いが異なっている。副葬 品はなく、副葬品から格差は見いだせないが、被葬者の扱いを格差とみなすことができる。 おそらく、K区3号横穴墓の被葬者は、A支群の造営主体である単位集団の長とその配偶者 と推定できる。最終埋葬が女性とされる2号人骨とされているので、男性の死を契機として、 近い将来配偶者が葬られることを計画して横穴墓が造営されたものと考えられる。また、つ づくK区2号横穴墓の被葬者のうち3号人骨男性は、DNA 分析によると、K区3号横穴墓 の2体の被葬者人骨とは母系でつながる血縁関係をもたないとされており(23)、少なくとも第一 世代と考えられるK区3号横穴墓の女性被葬者の子ではないことになる。A支群は、第一世 代を夫婦埋葬のみとし、第二世代は長とならなかった子とその配偶者とみることが可能であ り、田中による基本モデルⅢのバリエーションの一つといえよう。 B支群は4基の横穴墓より、9体の人骨が確認されているが、性別が判明する成人骨はわ ずか2体でいずれも男性である。各横穴墓の埋葬類型は、3体と4体のP類2基である。1 第6図 A支群における横穴墓の変遷(註21より 一部改変) 第7図 K区3号横穴墓の人骨出土状況(註21より 一部改変)
体の人骨が確認されたのは2 基であるが、このうちL区2 号横穴墓は玄室の奥が撹乱さ れており、本来の埋葬個体数 は不明で、S類であることが 確実であるのはL区3号横穴 墓である。B支群では女性が 埋葬されていたかどうかは不 明である。L区3号横穴墓の 被葬者は、DNA 鑑定により 渡来系であることが推定され ている。人骨を鑑定した梶ヶ 山は、L区3号横穴墓の被葬者が渡来系という「よそ者」であるが故に単葬埋葬とされた可 能性を指摘している(24)が、むしろ、単独で、しかも玄室の中央に主軸に平行して埋葬され、刀 子を副葬している状況からは、埋葬されたL区3号横穴墓の被葬者は、B群の造営主体の単 位集団の長であることを示していると考える。このことは、神明上横穴墓群を造営した集団 が渡来系、あるいは渡来系に近い集団であったことを示す。そして、K区3号横穴墓に見る 夫婦埋葬は、渡来系集団であるからこその埋葬形態であると考えたい。 ② 日野坂西横穴墓群 日野坂西横穴墓群は、東京都日野市坂西に 所在する。多摩川と浅川に挟まれた加住丘陵 が東に延びて舌状に突き出した日野台地の東 端、神明上地区に位置する。この周辺はかつ て矢ノ川と呼ばれる小河川によって形成され た谷戸であり、横穴墓群はこの谷戸の奥の東 面する崖の標高90m の高さに7基並んで造営 されている(25)。横穴墓はすべて谷戸東南斜面下部のローム層を掘削し造営されている。南北は 約50m にわたり、調査時は7基の横穴墓が並んでいたが、前述のように、過去の工事で横穴 墓が発見されていることから、さらに数基があったと考えられている。 発掘調査された横穴墓7基すべてで被葬者の人骨が確認されている。全部で15体であり、 その内訳は成人11体、子ども4体、成人骨のうち性別が判明したものが8体で、うち女性が 第8図 B支群における横穴墓の変遷(註21より一部改変) 第9図 坂西横穴墓群における被葬者内訳と 埋葬類型
4体、男性が4体である。性別不明の人骨が3体あるが、概ね成人の男女比が同程度である ことが特徴といえる。(第9図) 坂西横穴墓群の群構成は、その分布状況から次のように設定できる。(第10図) A支群 第2号墓、第1号墓、第3号墓(3基) B支群 第4号墓、第5号墓、第6号墓、第7号墓(4基) 横穴墓はその形態から4類に分けられる。 a類 複室胴張り型で規模が大きく、墓前域に石積施設を有するもの 第1号墓、第4号墓 b類 前壁が明瞭で胴張りを呈する長方形のもの 第5号墓 c類 正方形に近く、側壁が内側に張り出す形態で、天井がアーチ形のもの 第2号墓、第6号墓 d類 袖が明瞭でない台形ないし撥形のもの 第3号墓、第7号 多摩川上流域に展開した横穴墓については、池上悟によりその変遷が示されている(22)。それ を参考にすれば、a類は横穴式石室を意識したものであり、群中で最も早く造営されたと考 えられる。続いて胴張り長方形のb類、c類は天井がアーチ形を呈していること、前庭部の 構造がd類に近く、b類に続くものと思われる。d類は、当地域では最終末に位置付けられ る。 被葬者の人骨は、A支群で5体、B支群で10体が確認されている。盗掘を受けた第1号墓、 第4号墓、人骨の遺存状況の悪い第2号墓と第7号墓に、仮に4体の被葬者が埋葬されたと 第10図 日野坂西横穴墓群における横穴墓分布図(註25より一部改変)
仮定するとA支群が9体、B 支群が14体となる。 A支群、B支群ともに、第 1号墓、第4号墓の玄室は複 室胴張り型で他と比べ規模が 大きい。とくに第4号墓の壁 面は白色粘土で化粧しており、 群中では最上級の横穴墓であ り、築造時期も最も早いと考 えられる。残念ながら、いず れも盗掘を受けているために 人骨の遺存状態が悪く、副葬 品の有無、内容も不明であるが、おそらくそれぞれの支群の造営契機となった単位群の長が 被葬者であったと考えられる。 A支群の築造順序は、玄室の形態から第1号墓→第2号墓→第3号墓で、追葬により使用 された期間を考慮すると、同時期に使用された期間があると考えられる。第1号墓は盗掘を 受けており、実際に埋葬されていた被葬者数は不明である。第2号墓は、成人男性1体と子 ども1体である。第3号墓の被葬者人骨は成人女性2体であり、近接した時期に追葬された とされている。男女の使い分けを示唆すると同時に、キョウダイあるいはその年齢差からは 直系親子を埋葬した可能性もあるが、いずれにせよ夫婦墓ではない。 B支群の築造順序は、その形態から第4号墓→第5号墓→第6号墓→第7号墓と考えられ る。単位群造営の契機となった第4号墓については、被葬者の人骨が散乱した状態で確認さ れているが、盗掘を受けており、実際に埋葬されていた被葬者の数、性別については明らか ではない。第5号墓、第6号墓はP類で成人男女と子どもの組み合わせである。成人男女が 夫婦であるかどうか不明であるが、同じ横穴墓群にあっても、支群の違いによって、埋葬様 相が異っている例である。 ③ 赤羽台横穴墓群 赤羽台横穴墓群は、東京都北区赤羽台に所在し、武蔵野台地北東隅の先端に位置する。古 代の交通上でも要衝を占める。歴史的には古代豊島郡豊島(驛家)郷の北側で、豊島郡衙 (評)と推定されている御殿前遺跡から約4.5㎞の距離に位置する。台地上面には、古墳群、 集落が展開し、横穴墓群は、台地の南東端から西に向かって延びる谷に面した南向きの斜面 第11図 B支群における横穴墓の変遷(註25より一部改変)
に造営されている。8世紀初頭から築造が始 まり、令制下の墓制として形成され、被葬者 集団は、大宝年間の戸籍に登録された郷戸主 とその家族であると結論づけられている(26)。 横穴墓群は19基が調査され、被葬者の人骨が 出土した横穴墓は、15基で34体である。その 内訳は、成人女性6体、成人男性11体、性別 不明の成人5体、子ども12体で、男女比では 男性がやや優位である。(第12図) 横穴墓は、大きくは丘陵の東端の一群と、西に展開する一群に分けられる。さらにその分 布状況から墓道を推定し、墓道を共有すると思われる横穴墓群を単位群として次のように設 定する(第13図)。 A支群 第1号墓 ・ 第2号墓 ・ 第3号墓 ・ 第4号墓(4基) B支群 第5号墓 ・ 第7号墓 ・ 第8号墓(3基) C支群 第9号墓 ・ 第10号墓 ・ 第11号墓(3基) D支群 第13号墓 ・ 第14号墓 ・ 第15号墓(3基) E支群 第16号墓 ・ 第17号墓 ・ 第18号墓 ・ 第19号墓(4基) F支群 第6号墓(1基) 第13図 赤羽台横穴墓群における横穴墓分布図(註26より一部改変) 第12図 赤羽台横穴墓群における被葬者内訳 と埋葬類型
赤羽台横穴墓群では副葬品を伴う横穴墓は少なく、遺物が伴うのは第9号墓と第14号墓で、 いずれも墓前域から須恵器が出土した。7世紀後葉から8世紀前葉のものとみられるが、追 葬に伴う場合もあり、必ずしも横穴墓の築造年代を示すものではない。ここでは横穴墓の形 態を分類し、編年を試みた上で、各支群における横穴墓群の築造順序を推定した。(第3表) a類 玄室の平面が矩形で、天井がドーム形のもの b類 両側壁が玄室に向かってやや開き、平面形が台形となるもの c類 両側壁の胴がやや張り、前壁が奥壁と平行せずに外に開くもの d類 玄室の幅が奥壁でもっとも広くなり、玄室と羨道の境が明瞭でなく、平面が撥形を 呈するもの e類 小型のもの 赤羽台横穴墓群においても、a類とした平面矩形、長方形を呈する横穴墓が主体であり、 a類から派生したと思われるb類、c類のほか、展開期になって見られるd類が客体的に見 られる状況が伺え、およそa類からd類へ変遷すると考えられ、各時期はⅠ期からⅢ期とし た。 赤羽台横穴墓群では、被葬者の埋葬類型のうち、S類、T類、P類の3つの類型が見られ るが、埋葬後の骨の改葬、集積などの行為が見られ様相は複雑である。人骨も墓室間での移 動が推定されるため、人骨の個体数が被葬者人数を示すものともいえない。ただし、改めて 支群ごとにその埋葬様相を整理すると、それぞれの支群ごとに追葬、改葬、単葬と使い分け 群 東群 南群 支群 A支群 B支群 C支群 D支群 E支群 F支群 墓室形態 a類 c類 e類 a類 e類 b類 a類 e類 a類 c類 d類 a類 Ⅰ期 第2号墓 第13号墓 第7号墓 Ⅱ期 第1号墓 第5号墓 第10号墓 第15号墓 第17号墓 第18号墓 第6号墓 第9号墓 Ⅲ期 第4号墓 第3号墓 第8号墓 第11号墓 第14号墓 第19号墓 第16号墓 第3表 赤羽台横穴墓群おける横穴墓編年表
られた墓室があることがわかる。 支群の造営契機となった横穴墓(第2号墓 ・ 第10号墓 ・ 第13号墓 ・ 第18号墓)では、追葬 を想定して墓室は大きいものを掘削する。初葬者を埋葬後しばらくして追葬が行われ、追葬 が数回に及ぶ場合には、埋葬場所を確保するために骨化した遺体を集積し、片付ける。次に 掘削された横穴墓も追葬 ・ 集積を繰り返すが、最初に掘削した墓室との間で骨の移動をする。 骨を移動する際にはすべての骨を移動しない可能性が高い。その後、墓室の一方が遺体を骨 化するための場所として使用される。墓室の規模は縮小する傾向にある。 改葬のための小型の横穴墓と単体埋葬用の横穴墓を築造するのは、Ⅲ期である。骨化した 骨を埋葬する改葬墓も1体のみ他と分けて埋葬するという点では単体埋葬とみることができ る。 改葬墓でない単体埋葬は、第9号墓、第11号墓、第16号墓、第17号墓、第19号墓、第6号 墓であるが、第9号墓は入口の閉塞部に追葬の痕跡があること、人骨が5歳前後の幼児の個 体であることなどから、幼児の他に成人が埋葬されており、骨化したものを第10号墓へ移動 し、集骨したと推定されており、本来的には単葬墓として築造されたものではないだろう。 第17号墓も人骨1体分のみの出土であったが、集骨の状態での出土で、二次的に動かされて いることが明らかであり、本来的な単葬墓とはいえない。 単葬墓は、第11号墓、第16号墓、第19号墓、第6号墓でいずれも玄室規模が小さい。特に 第11号墓、第16号墓、第19号墓は狭長で、単葬を意識したものと思われる。 以上のように、赤羽台横穴墓における埋葬様相は追葬→集骨→改葬→単葬(改葬墓含む) の変遷が明らかとなった。 次に赤羽台横穴墓群における被葬者の性別について確認したい。個別支群で初葬者が推定 できるのは第2号墓である。第2号墓は赤羽台横穴墓群において最初に築造されたと考えら 第14図 A支群とC支群における横穴墓の変遷(註26より一部改変)
れる。防空壕による攪乱のため、追葬であったか、追葬 後の集骨状態であったかは不明であるが、被葬者の人骨 は壮年男性と幼児の個体であった。もともと2体の埋葬 であるとすれば、壮年男性が初葬者であった可能性が高 いであろう。 追葬や改葬による複数埋葬された横穴墓では、埋葬順 序や初葬者を推定することは難しいが、被葬者の組み合 わせについて確認すると、5例のうち女性 ・ 男性 ・ 子ど もの組み合わせわが3例(第1号墓、第10号墓、第18号 墓)と最も多く、埋葬者を特別選別している様子はうか がえない。しかし、第13号墓は成人男性2体と子どもの 組み合わせである。第13号墓はD支群で最初に築造され たと考えられる横穴墓であること、第2号墓も成人男性と子どもの組み合わせであることを 考え合わせると、支群の造営契機となる横穴墓の被葬者は成人男性であった可能性が高い。 単葬墓では第11号墓と第19号墓が成人女性であり、第6号墓と改葬墓でもある第8号墓が 成人男性、第16号墓が成人で性別不明である。性別について偏りは見られない。むしろ単葬 墓には成人を埋葬することが指摘できるであろう。 赤羽台横穴墓群における単葬墓は、横穴墓群造営の終末期である。広い墓室を必要とする 追葬を前提とした墓室から最終的に一人のための墓へと変る。時期はおそらく8世紀初頭頃 と思われる。これは、それまでの埋葬習慣とは異なるものである。この変化がどのような要 因であったのか、ここで論じることはできないが、単葬墓に埋葬された人物は、造営主体と なる集団でそれまで以上に限定された存在であり、単位集団の長あるいはそれに準ずる人物 であったと思われる。そこに女性が埋葬されていたという事実は、女性もその地位にあった 可能性がある。 単葬墓については、奈良 ・ 平安時代に南武蔵で盛行した土器を蔵骨器とする火葬墓との関 係も視野に入れ論じる必要があろう。 ④ 笊内古墳群 笊内古墳群は福島県西白河郡東村大字上野出島字笊内に所在する。笊内地区は、奥羽山脈 の甲子山を水源とする阿武隈川と、その支流である社川に合流する矢武川とに挟まれた丘陵 地帯である。この丘陵は浸食の顕著な残丘で、標高は約300m 以上ある。丘陵南側には矢武 川によって形成された段丘と氾濫原が広がり、古墳時代から古代にかけての遺跡が数多く点 第15図 第19号横穴墓の人骨出土 状況(註26より一部改変)
在している。発掘調査では高塚古墳4基、箱式石棺1基、横穴墓54基、土坑1基が確認され ている。 横穴墓はその分布状況から東西2つのブロックが認められ、東群は、1~18、51、54号横 穴墓の20基、西群は19~50、52、53号横穴墓の34基である。さらに各横穴墓は、3基から7 基の単位で、墓道あるいは前庭部を重複または共有する。これを単位群とすると、次のA~ Lの12グループが識別される(27)。 これらの横穴墓群の内、被葬者の人骨が確認されたものは、9 号横穴墓、16号横穴墓、17号横穴墓、18号横穴墓、26号横穴墓、 37号横穴墓、39号横穴墓の7基 ・18体である。内訳は、成人女性 7体、成人男性4体、性別不明の成人5体、子ども2体で、女性 がやや多く、子どもが少ないことが特徴である。 埋葬様式は、男女を含むP類が3基 ・ 9号、16号、26号横穴墓、 男女のペアの2体埋葬が1基 ・18号横穴墓、女性と性別不明の成 人の組み合わせの2体埋葬が1基 ・39号横穴墓、女性の単葬が1 基 ・37号横穴墓、性別不明の成人の単葬が1基 ・17号横穴墓であ る。ただし、37号横穴墓については、人骨と副葬品の出土状況から追葬の可能性もあるとさ れる。 人骨の遺存状況が比較的良好なEグループについて詳しく見てみよう。Eグループは4基 の横穴墓が前庭部を共有し、平面で見ると指を広げたようにそれぞれの横穴墓が造営されて いる。前庭部の切合い状況から18号横穴墓がまず築造され、続いて16号横穴墓が築造され、 初葬者が埋葬される。その後、15号横穴墓、17号横穴墓が順次築造され、その後18号横穴墓 の追葬があり、続いて17号横穴墓が築造される。 Eグループの4基の横穴墓には合計9体の人骨が確認されている。その内訳は、成人男女 各2体、性別不明の成人4体、子ども1体である。15号横穴墓では人骨が確認されていない こと、長い間に失われた人骨もあると推定できることから、総数はもう少し増える可能性が ある。 Eグループでは18号横穴墓の初葬者の死が契機となって造営されたと考えられる。被葬者 の人骨は男女各1体で、どちらかが横穴墓造営の契機となった人物であり、単位群の長であ ろう。どちらが初葬者であるか、二人の被葬者が夫婦であるのか、血縁者であるのか不明で あるが、初葬者が埋葬される横穴墓が男女の2体埋葬であることは注目される。続いて築造 された15号横穴墓では被葬者に人骨は確認されていないが、奥壁部分が攪乱されており、人 骨は残存していなかった可能性がある。16号横穴墓6体の人骨が出土しており、その内訳は 第16図 笊内横穴墓群 における被葬者内訳
成人男女各1体、性別不明の成人3 体、子ども1体である。出土状況か らみると他の場所で埋葬されたもの を改葬した可能性が高い。16号横穴 墓と18号横穴墓に挟まれた17号横穴 墓は、グループ内の他の横穴墓と比 較すると玄室が扇型で幅が狭く、1 体の埋葬用のようにもみえる。死者 をまず17号墓に埋葬し、骨化した遺 体を16号墓に改葬したのではないだ ろうか。 笊内横穴墓群では、その他のグ ループでも玄室の大きさや副葬品な どに差が見られ、Eグループと同様 の使い分けがされていたと思われる。 つまり、グループの造墓の契機とな る単位群の長の墓、これは横穴墓も 大きく、副葬品も豊富である。次世 代以降は、単位群の長と同程度の横 穴墓を造営するが、埋葬者の増加に より、改葬を準備するための単葬用 の横穴墓を築造するようになる。 笊内横穴墓群では、37号横穴墓から鉄地金銅張棘葉形鏡板付轡を含む優秀な馬具一揃いや 銅鋺等が副葬されている。おそらく、37号横穴墓の被葬者は笊内横穴墓群を造営した集団の 長の墓であり、37号横穴墓が含まれるIグループは集団の長の関係者が葬られたものと考え られる。37号横穴墓は、被葬者の人骨が成人女性であったことが判明しているが、出土状況 などから追葬があったと推定されている。いずれにしても、笊内横穴墓群を造営した集団の 長が埋葬された墓室に女性被葬者の人骨が残されていたことは注目される。 ⑤ 市宿横穴墓群 市宿横穴墓群は、千葉県君津市字川崎に位置する。房総半島南部の上総丘陵を水源とし、 東京湾へ流入する小糸川上流の左岸の標高260m ほどの急峻な丘陵の東側斜面に造営されて 第17図 笊内横穴墓群におけるEグループの被葬者内訳 と横穴墓分布図(註26より一部改変)
いる。発掘調査は標高40~60m、南北90m の範囲に分布する一群で、16基の横穴墓が確認さ れた。周辺の分布調査や平成7年の発掘調査以前に発見された横穴墓も勘案すると20基以上 からなる横穴墓群であると推定されている。横穴墓の形状や出土遺物から横穴墓群は6世紀 後半代に造営が始まり、7世紀後半まで造営が続けられ、7世紀後半代から改葬がはじまり、 8世紀代まで追葬及び改葬が行われたとされる(28)。 16基の横穴墓群は大きく北支群と南支群の二つに分けられ、南支群は1 ・ 2号墓で、他は 北支群とされる。北支群は、築造される斜面の高低によって単位群が形成されている。南か らA~E支群と設定する。(第18図) 南群 A支群 第1号墓 ・ 第2号墓 北群 B支群 第16号墓 ・ 第3号墓 ・ 4号墓 C支群 第5号墓 ・ 6号墓 D支群 第7号墓 ・ 第8号墓 ・ 第9号墓 ・ 第10号墓 ・ 第11号墓 E支群 第12号墓 ・ 第13号墓 ・ 第14号墓 ・ 第15号墓 横穴墓の構造は、両袖型で方形ないしは矩形の平面形、短い羨道を持つもの(a類)、両袖 型で玄室の平面形がやや狭長な長方形で全体的に羽子板状を呈するもの(b類)、無袖型で細 長い逆台形のもの(c類)の3つに分けられ(第19図)、a類は大型で、b類、c類は小型で ある。池上悟によれば、a類の横穴墓に見いだせる特徴は上総地域において初期段階に認め られるものとされており(20)、市宿横穴墓群においてもa類が初期に導入された形態であると考 えられる。 単位群の変遷、横穴墓の構造からは第4表のような変遷であると考えられる。南群では大 第18図 市宿横穴墓群における横穴墓分布図(註28より一部改変)
型のa類である第2号墓が、北群で は第8号墓が、それぞれの群の造営 の契機となった横穴墓であり、単位 群であるA支群、B支群、D支群、 E支群でも大型のa類の横穴墓が単 位群形成の契機となった横穴墓と考 えられる。これらの横穴墓群の内、 被葬者の人骨が出土したのは第1号 墓、第2号墓、第3号墓、第4号墓、 第6号墓、第7号墓、第8号墓、第 9号墓、第10号墓、第11号墓、第13 号墓、第14号墓、第15号墓の13基で あるが、出土した人骨の数は165体に 及ぶ。内訳は、成人女性38体、成人 男性41体、性別不明の成人12体、子 ども74体であり、子どもの割合が多 第19図 市宿横穴墓群における横穴墓の類型 (註28より一部改変) 第20図 市宿横穴墓群における被葬者内訳と 埋葬類型 群 南群 北群 支群 A支群 B支群 C支群 D支群 E支群 石室形態 a類 b類 a類 c類 b類 a類 b類 c類 a類 c類 Ⅰ期 2号墓 8号墓 3号墓? 10号墓 12号墓? Ⅱ期 6号墓 9号墓 11号墓 14号墓 1号墓 13号墓 Ⅲ期 4号墓 5号墓 7号墓 15号墓 2基 3基 2基 5基 4基 48体 7体 3+α 90体 17体+α *B群16号墓、D群12号墓は未調査のため詳細は不明 第4表 市宿横穴墓群おける横穴墓編年表
く、男女比がほぼ同じである。埋葬 類型は、P類が最も多く7基が認め られ、各々3体から9体を埋葬する。 単位群ごとに分析すると、A支群 が横穴墓2基で48体を数える。B支 群は2基で7体であるが、未調査で ある第16号墓を含めるとさらに増え る。C支群は2基で3体であるが、 近世に再利用されている5号墳では 当初の被葬者人骨は不明であり、さ らに被葬者数は増える。D支群は5 基で90体と突出している。E支群は 4基で17体であるが、未調査である 第12号墓を含めるとさらに増える。 市宿横穴墓群では、単葬、複数埋葬、多数埋葬の例があり、その埋葬様相は非常に複雑で ある。6世紀後半にまずA支群で支群形成の契機となる大型の横穴墓 ・ 第2号墓が築造され、 間もなくD支群で第8号墓が築造される。それぞれ単位群の長である初葬者が埋葬される。 初葬者は男性で直刀や鉄鏃が副葬される。その後おそらく7世紀初頭頃まで順次追葬が繰り 返され、同時に第10号墓、第12号墓などが築造され、単位集団の成員が順次埋葬される。7 世紀前葉までは大型の横穴墓の築造が続くが、狭長な玄室をもつ第6号墓や第11号墓などの 築造も始まる。大型の横穴墓でも順次追葬を続けると墓室に被葬者を埋葬できなくなるため、 狭長な横穴墓に一次埋葬し、骨化した被葬者を大型の横穴墓に改葬する。第1号墓、第4号 墓、第6号墓、第11号墓、第13号墓が改葬のための一次葬墓の可能性がある。改葬墓は、第 2号墓、第9号墓が相当すると思われる。大型であっても第10号墓は改葬の状況は見られず、 追葬を繰り返している。7世紀後葉築造される第15号墓は、単葬用の横穴墓と考えられこれ を最後に横穴墓は築造を終える。 人骨や遺物の移動状況から見ると、改葬は支群内でのみで行われたわけではなく、D支群 の第8号墓からA支群の第2号墓への人骨、遺物の移動が推定されている。人骨が移動され ている状況からすると、同一個体の人骨が2つの横穴墓から出土している場合があり、実際 の被葬者数と出土人骨個体数は一致しないことになる。 改葬骨を除くと、多数埋葬された横穴墓群の被葬者は、木棺などの単位ごとに4体から10 体程度でひとまとまりとなり、複数埋葬の被葬者数と同程度となる。男女比も同程度であり、 第21図 第2号墓の人骨出土状況 (註28より一部改変)
木棺1つでほぼ1単位群と考えられよう。 また、第2号墓の第1木棺は、骨化された人骨が埋葬されたと思われるが、人骨のほとん どが女性である。同じく第2号墓で初葬者が埋葬されたとされる第2木棺は、初葬者である 2号人骨から順次追葬された5号人骨までは成人男性と子どもであり、子どもの性別は不明 であるが、木棺単位に使い分けがされた可能性がある。 ひとつの横穴墓群でこれだけ多くの人骨を出土した例はなく、このことは、横穴墓群の造 営主体となった集団が広範囲に、また、横穴墓の使用期間が長期にわたった可能性がある。 ⑥ 鷲ノ山横穴墓群 鷲ノ山横穴墓群は千葉県匝瑳市(旧八日市場市)鷲ノ山に位置する。鷲ノ山横穴墓は旧椿 海に近く、九十九里平野を見渡せる台地の斜面にある。横穴墓群が造営された台地は、標高 約34m、東西180m、南北70m という痩せ尾根状の舌状台地である。横穴墓群は5基以上確認 されているが、2基の発掘調査が実施された。横穴墓群は、軟質な成田層の標高14m から20m の高さに構築されている(29)。 鷲ノ山横穴墓群は、5基以上の横穴墓が構築されていることは確認されているが、調査さ れた横穴墓は2基のみであり、その群構成は不明である。調査された2基の横穴墓ではいず れも被葬者の人骨が確認され、全部で4体確認されている。その内訳は、成人骨4体でうち 女性が3体、男性が1体である。女性が埋葬される割合が多いことが特徴としてみてとれる。 埋葬類型は、2基ともT類で、複数埋葬が多く見られる横穴墓にあって少ない事例と言える。 1号横穴墓の初葬者は熟年男性であり、鉄鏃を副葬し、その年代観から7世紀初頭に造営 第22図 鷲ノ山横穴墓群における人骨出土状況第2号墓の人骨出土状況(註29より一部改変)
されたとされる(29)。他の横穴墓の状況は明らかでないが、横穴墓群の造営主体となる集団の長 であった可能性がある。追葬されたのは壮年女性で、副葬された土師器から7世紀前半に追 葬され、追葬の時期と年代差からは初葬者の配偶者とは考えにくく、直系親族である女性と 推定できる。 2号横穴墓は、棺座が三カ所に設けられているが、埋葬されたのは2体の女性であった。 親族関係は不明ではあるが、2体の女性のうちどちらかが初葬者であると考えられ、この横 穴墓の構築の契機となったのは、女性の死であったことが明らかである。また、2体の被葬 者が2体とも女性であることは、二人の関係がキョウダイ、あるいは直系親族の可能性が考 えられ、「各横穴の被葬者間にいくつかの形態的類似点が認められ(29)」ていることからも血縁関 係にあったことを示唆するものである。 ここでは、7世紀初頭に造営された鷲ノ山横穴墓群において、男性初葬者とその直系親族 と推定される女性追葬者2体の埋葬例があることを確認しておきたい。 4 横穴墓における女性の埋葬 以上、個別に考察したことをもとに、群集墳における女性の埋葬についてまとめてみたい。 古墳時代後期から律令期における墓制である横穴墓においては、女性も埋葬されているこ とが確認され、総体としては、女性が埋葬されている割合は、男性に比べやや少ないものの その差は大きくなく、横穴墓に埋葬される際、性別による選択はなかったものと考えられる。 終末期古墳が単葬化する傾向の中で、横穴墓においても単葬化されることが確認されたが、 この時期、赤羽台横穴墓群においては、単葬墓に男女の別はないことが明らかである。赤羽 台横穴墓群の造営主体となった集団の性格や、他の横穴墓群における様相をさらに確認する 必要があるが、律令期における墓制にあって、女性が単独で埋葬されていた事実は、横穴墓 造営集団における女性の地位が決して低いものではなく、まして、当時の社会が家父長制で あったことを示すものでないことは強調しておきたい。 また、赤羽台横穴墓群において、単葬の中には改葬墓も含まれるが、3基は玄室が狭長で 追葬が認められないことから、単葬墓として築造されたと考えられる。被葬者は、第11号墓 と第9号墓で女性であった。副葬品はないが横穴墓の形態から横穴墓群の中で造営の終了に 近い時期のものと思われる。単位群の中でみても最後に築造されており、この事例は横穴墓 造営の停止と単葬化、改葬墓の導入、そこに女性の埋葬がどう関わるかという問題をはらん でいる。松崎元樹によれは、南武蔵の横穴墓はその終焉期に改葬墓の出現とともに墓室が縮 小化、簡略化されるという(30)。横穴墓群における改葬については、池上悟による研究がある(31)。 以下要約すると、横穴墓の単位群中にみられる小型横穴墓は他の横穴墓に埋葬し、骨化した
遺体を再埋葬する施設であるが、単位群中に一次埋葬用の横穴墓と再埋葬のための横穴墓と の使い分けがみられ、この場合、必ずしも小型横穴墓ではない。人骨の出土状況は、改葬墓 の場合解剖学的配列を保っておらず集積され状態である。追葬による片付けとの違いは、最 終埋葬者の伸展位の人骨が伴わないこと、集骨された人骨が必ずしも一個体分そろわないこ とである。小型横穴墓を改葬墓とする場合は、その規模からみて被葬者一体の人骨を埋葬す るのであろうが、通常の横穴墓を使用する場合は、改葬墓の規模が大きく、一次埋葬用の横 穴墓は遺体を骨化するための施設であり、小さい場合が多い。 縮小化については、いずれも横穴墓築造に際しての省力化が認められ、薄葬化ともみられ る。この事象は、横穴墓造営集団内における横穴墓造営の意義が失われるということと、外 的要因としては、支配層から横穴墓造営集団である農民層への横穴墓築造規制が考えられる。 内的要因については、新たな墓制への転換が考えられる。造営集団におけるより限定された 人物、集団の長のみを単葬墓に埋葬し、それまで横穴墓に埋葬されていた集団の長の周辺の 人々は、土坑墓などへ埋葬されるようになったのではないか。 外的要因としては、横穴墓の造営が停止する時期は8世紀前葉であり、律令期である。郷 里制や戸籍の編成など律令国家による人民支配に手が付けられた時期であり、墓制について も当然規制されたと思われる。 では、改めて赤羽台横穴墓群の場合はどのように考えられるであろうか。赤羽台横穴墓群 では、小型の改葬墓が共存する。第8号墓は改葬墓で、男性1体の人骨が出土している。小 型であってもわざわざ横穴墓を築造して改葬するという点では、すでに使用されている横穴 墓に埋葬するよりはより丁寧な埋葬といえる。改葬墓と単葬墓の関係であるが、池上の研究 に従えば(31)一体分のみ埋葬できる第11号墓や第19号墓を一次葬として数回使用し、最後の埋葬 者は改葬せずに伸展位まま埋葬したとも考えられる。しかし、入口の閉塞状況や玄室内の人 骨出土状況を見る限り、単葬墓と考えられよう。また、改葬墓を被葬者の遺体処理方法の一 つと考えると、単葬墓が省力化の結果によるとも思われない。むしろ、前述したように集落 内のより限定された人物を埋葬する墓であることを強調すべきかもしれない。 第11号墓、第19号墓に埋葬された女性とはいったいどんな人物であったのか考えてみたい。 義江明子は、福島県荒田目条里遺跡で出土した「里刀自」木簡について言及している(32)。「里刀 自」木簡とは、郡から「里刀自」へ、30人ほどの男女を率いて郡の長官の田植えをし、つい ては農作業の統率指導をするよう命じたものである。この木簡が発見される以前は、「里刀 自」と書かれた墨書土器が1点出土しているのみで、「里刀自」の具体的な立場や役割は知り 得なかったものである。この木簡の発見によって、公の行政組織にあらわれない「里刀自」 と呼ばれる女性が、村人を率いて農作業の指揮をする責任ある立場にあったことが確認され
たとして高く評価している。さらに義江は『日本霊異記』にみえる村の酒造りとその酒の貸 し付け運用をしていた桜大娘が、「里刀自」である可能性を指摘している。「里刀自」木簡の 書かれた時期は9世紀半ばであるが、「家刀自」は8世紀には金石文や写経の奥書などにみら れる(33)。 さらに大事なことは、「里刀自」が、「里長」の妻とは限らないことである。『日本霊異記』 には、郡長の妻として資産家で強欲な高利貸しである女性が登場する。しかし、桜大娘は村 の有力者である岡田村主石人の妹として登場するのである。 赤羽台横穴墓群で女性の単葬墓が、同時期に第11号墓、第19号墓の2基あり、これらの墓 の被葬者が「里刀自」や「家刀自」であるはと断言できないが、おそらく横穴墓の造営主体 である集落において、軍事力ではない力 ・ 家政能力を備えた女性で、単純に「家長」の妻と はいえないであろう。 二体埋葬の場合、女性+男性の組み合わせが多いが、必ずしも夫婦ではなく、親子(孫子 含む)、キョウダイである可能性を示した。夫婦合葬と推定できる場合、群集墳の造営集団が 渡来系氏族あるいは渡来系氏族と関係が深い集団である可能性も指摘した。神明上遺跡の例 では、男性被葬者の割合が高いことも他の横穴墓とは性格や系統が異なっていることを示し ている可能性もある。 複数埋葬、多数埋葬では、被葬者の男女比は小さく、女性+男性+子どもの組み合わせが 最も多く、横穴墓造営集団の「家族」の実態を反映しているようにみえる。しかし、群構成 を把握した上で被葬者の様相を分析すると、市宿横穴墓群のように、多数埋葬された横穴墓 の中に、女性被葬者を多く改葬する木棺があり、性別によって横穴墓あるいは木棺を使い分 けている事がうかがわれる。横穴墓、あるいは木棺に埋葬される集団の単位が、必ずしも「単 婚家族」と一致していないことを示す。 群集墳の被葬者の分析から女性の埋葬について検討してきた。これまで指摘したことは古 墳時代後期から律令期における社会は、男性優位とはいえず、女性も一定の地位を有してい た集団もあるということである。また、その集団の性格や系統によっては、女性の地位が異 なる可能性もあり、一様ではない。 おわりに 横穴墓における女性の埋葬について分析を進めたが、横穴墓の埋葬様相が多様であり、そ の分析 ・ 整理が成功したとはいえない。しかしながら、女性の多様な埋葬様相を確認したこ とにより、今後の研究への足がかりとしたい。 出土人骨を資料として扱ったが、考古学的に埋葬様相を検討しても、血縁関係を推定する
には科学的な調査が必要である。また、人類学研究者と連携して発掘調査を行うことで、埋 葬状況などについて新たな知見が得られる可能性もある。DNA 鑑定の技術は日々更新され ていると聞く。今後、人類学、民族学などとの学際的研究が伸展することが望まれる 本稿は、平成25年度立正大学大学院文学研究科に提出した修士論文の一部に加筆訂正した ものである。 指導教授の池上悟先生及び副査の奥田晴樹先生には懇切丁寧なご指導いただきました。記 して感謝いたします。 註 (1)戦後、明治民法かで制度化された「家」は廃止されたが、フェミニズムでは男性支配と女性 の従属の概念として現代社会においても使用される。 (2)広瀬和雄『カミ観念と古代国家』角川学芸出版 平成22(2010)年 (3)近藤義郎「問題の所在」『佐良山古墳群の研究』昭和27(1952)年 (4)小林行雄『古墳時代の研究』青木書店 昭和36(1961)年 (5)小林行雄『古墳の話』岩波書店 昭和34(1959)年 (6)今井 尭「古墳時代における女性の地位」『歴史評論』№383 校倉書房 昭和57(1982)年 (7)辻村純代「古墳時代の親族構造について―九州における父系制問題に関連して―」 『考古学研究』第35巻第1号 考古学研究会 昭和63(1988)年 (8)間壁葭子「婚姻と家族」「古墳時代の研究12 古墳の造られた時代」雄山閣出版 平成4 (1992)年 (9)土肥直美 ・ 田中良之 ・ 船越公威「歯冠計測値による血縁者推定法と古人骨への応用」『人類学 雑誌』94巻2号 昭和61(1986)年 (10)田中良之『古墳時代親族構造の研究―人骨が語る古代社会―』柏書房 平成7(1995)年 (11)西本豊弘 ・ 松村博文「中妻貝塚出土多数合葬人骨の歯冠計測値にもとづく血縁関係」『動物考 古学』動物考古学研究会 平成8(1996)年 (12)白石太一郎「総論―考古学からみたウジとイエ」『家族と住まい』考古学による日本歴史15 雄山閣出版 平成8(1996)年 (13)関口裕子『日本古代家族史の研究』下巻 塙書房 平成13(2001)年 (14)清家 章『古墳時代の埋葬原理と親族構造』大阪大学出版会 平成22(2010)年 (15)古代史研究では、高群逸枝、関口裕子、服藤早苗、明石一紀、義江明子らが古代社会におけ る父系制を否定している。 (16)佐田 茂『竹並遺跡』昭和52(1977)年 (17)鈴木敏弘「第七節 横穴墓の被葬者」『赤羽台遺跡―赤羽台横穴墓群』東北新幹線赤羽地区遺 跡調査会調査団 平成元(1989)年 (18)小高幸男「千葉県君津市市宿横穴墓群における親族構造の復元」『多知波奈考古』第3号橘考 古学会 平成9(1997)年 (19)梶ヶ山真理「出土人骨からみた武蔵 ・ 相模地域の横穴墓の様相」『立正考古』第29号 立正大 学考古学研究会 平成元(1989)年 (20)池上 悟『日本横穴墓の形成と展開』雄山閣出版 平成16(2004)年 (21)財団法人東京都スポーツ文化事業団 東京都埋蔵文化財センター『日野市神明上遺跡』 平成 19(2007)年
(22)池上悟 「武蔵地域における展開期横穴墓の一様相」『立正大学大学院文学研究科紀要』第29 号 平成25(2013)年 (23)篠田謙一「神明上遺跡横穴墓群出土人骨の DNA 分析」『日野市神明上遺跡』 平成19(2007) 年 (24)梶ヶ山真理 ・ 馬場悠男「神明上横穴墓群出土人骨」『日野市神明上遺跡』 平成19(2007)年 (25)久保常晴『日野市坂西横穴墓群』昭和51(1976)年 (26)鈴木敏弘「第七節 横穴墓の被葬者」『赤羽台遺跡―赤羽台横穴墓群』東北新幹線赤羽地区遺 跡調査会調査団 平成元(1989)年 (27)財団法人 福島県文化センター『母畑地区遺跡発掘調査報告書39本文編』平成8(1996)年 (28)財団法人君津郡市文化財センター『市宿横穴墓群発掘調査報告書』平成8(1996)年 (29)八日市場市教育委員会『横穴墓群発掘調査報告書 鷲ノ山横穴墓群 吉田小下原横穴墓群 平 成3(1991)年 (30)松崎元樹「東京都 ・ 埼玉県における横穴墓の特性」『横穴墓と古墳』東北 ・ 関東前方後円墳研 究会 平成22(2010)年 (31)池上 悟『日本の横穴墓』雄山閣出版 平成12(2000)年 (32)義江明子『古代女性史への招待』吉川弘文館 平成16(2004)年 (33)義江明子「家刀自」『日本歴史大事典』小学館 平成19(2007)年