『
中論
』第
7
章
と そ
の解 釈
の異 同
に
つ いて
安井 光洋
は じ め に『
中論
』Mthlamadhyamakakdrikd
(MMK
)は龍 樹
(Nagarjuna
)の主要著 作
であ り
、27
の章
で構 成
されて い る。本発 表
におい て は その第
7
章
に焦 点
を当
て て考 察
を行 う
。この
章
はア ビ ダル マ で説
か れ る 「生住 滅
」 の 三相
をMMK
の 思 想 に基づ い て 批 判す
るこ と を主な論 点 とし てい る。 また、 こ の 章は全 部で34
の偈 頌 (漢 訳で は35
)で構 成 さ れてお り、 これは第24
章の40
偈に続い てMMK
の中で2
番 目に大 きな 章 となっ て い る。今
回 この章
を取 り
上げ
る理 由 と して は、 この章
がMMK
諸 注釈
だ けで な く、 『十二 門論
』 に お い て も広 く引用 さ れ てい る という
こ とが挙 げ られ る。 『十二 門論
』 は龍
樹の 著 作 とされ、 鳩 摩 羅 什に よる漢 訳の み が 現存
してい る典籍
であ
る。 こ の典籍
で はMMK
の偈 頌
が そ れ と明 記 さ れる こ とな く引 用 さ れて お り、 全 部 で26
ある偈 頌
のう
ち19
偈
がMMK
か らの引 用 と考え ら れ る。 さ らに 『十
二 門 論』 はMMK
の注 釈書 であるAkutobhaydi
(ABh
)お よ び青
目釈
『中論』(r青目註』)と の 問に も多
くの パ ラ レ ルが存在
して い る。ABh
は現 存 するMMK
注 釈 書の 中で も特に古
層に位 置
づ けら れ、 また後
代の 諸 注 釈 書 におい て、 引 用 と明記さ れ る こ と な くその記述 が広 く
流 用 さ れ てい る こ とで知
られてい る。 『青
目註
』 と 『十
二 門論
』 につ い ては どち ら も漢訳
のみ が現
存
し、 そ れ がいず
れ も鳩 摩 羅什
に よっ て訳 され た という共
通点
を持
つ もの の 、 ど ち らが先
に成 立 した かにつ い て は未だ明 らか に されてい ない 。 これ らの3
者
の関
係性
につ い て は多
くの 先 行 研 究 が存在
し、様
々 な可能性
が検討
さ れ てい る。 その 例と して は 以下 の よう
な もの が ある。 ・ABh
と 『青 目註 』 は も と も と同 じテ キス トだっ た1>。 ・『十二 門論』 の ほ と ん どす
べ て の偈頌
がNagarjuna
作
であ
る こ とは疑
い が無
い が 、 注 釈 部 分の著 者は む しろ青
目(Pihgala
)である 2) 。NII-Electronic Library Service 智山学 報第六十三輯 ・『
十
二 門論
』 は訳者
であ
る羅什
に よっ てABh
と 『青
目註
』 を編 集
して作 成
さ れ た。 『十二 門論
』 独 自の所説
に関 して は な ん ら かの 原典
的資料
に基づ い て い る3)。そして、 こ の ような特 殊 な背 景を持つ 『十二 門 論』 におい て特に
多
く引 用 され て い る のが こ の第7
章
なの で ある。 具 体 的には前 述の よう
に 『十二 門論』 全体 で19
の偈
頌がMMK
か ら引 用 さ れてお り、 そのう
ちの11
偈が第
7
章
か らの引用 であ
る と思
われ る。 ま た、注釈 部分
で はABh
、 『青
目註
』 との 一致 も多 く見受
け ら れ る。よっ て本
稿
にお い てはABh
、 『青
目註
』等
の諸注 釈
と 『十二 門論』 の 比 較 を通 じて、MMK
第
7
章
の解釈 に どの よう
な異 同が 生 じてい る か につ い て考察
を試み た い 。1.
第
1
偈
の 解 釈に つ い てまず、
第
7
章
の第
1
偈 とその解釈
につ い て見てみ よう。 こ こで はABh
、 『青 目註
』、 『十二 門論
』 の3
つ に加 えて、Buddhapalita
(BP
)の注釈
も以下 に挙 げ
る。 こ のBP
も 『青
目註
』、 『十
二門論
』 と同様
にABh
の記 述
を多 く流 用
して い る こと で知
ら れ る注釈書
であ り
、 以下に挙 げ
る箇所
で は こ の4
典籍
に興 味 深い 異 同が 見 ら れ るの で そ れ を確 認
していく
。[
MMK
Chap
.7
v,1
]
4)yadi samskrta utpadas
tatra
yuktatrilakSa
ロi
/athasa 卑skrta utpadah
katha
卑 sarpskrtalak §apam //も
し生が有為
である な らば、 そ こに3
つ の 特質
が伴う
だろう
。しか し、
も
し生 が 無 為で あ る な らば、 どう して有為
の特 質
であるか。[
ABh
]5)gal
te
re zhig skyeba
de
’dus
byas
yin
na /de
Ia
mtshan nyidgsum
dang
ldan
par
「gyur
te
/ mtshan nyidgsum
po
de
dag
la
yang
mtshan nyidgsum
po
gzhan
dag
dang
ldan
par
’gyur
bas
thug
pa
medpa
’i
skyondu
thal
bar
’gyur
ro //
gnas
pa
dang
’jig
Pa
dag
la
yang
de
bzhin
no //(16)
『中 論』 第
7
章とその解釈の異同につ い て (安井) まず
、 もしも生 が有
為である なら ば、 そこ に3
つ の特 質
を有
してい る こ と に なる だろ う。 さらに、 それ らの3
つ の特質
も また 、別の3
つ の 特 質 を有 して い るこ と になるの で、 無 限 遡 及 とい う過失に陥るで あろう
。住
と滅につ い て も同様
である。 [BP
]6)gal
te
skyeba
yang
skyeba
dang
gnas
pa
dang
「jig
pa
,i
mtshan nyiddang
ldan
/gnas
pa
yang
skyeba
dang
gnas
pa
dang
卩jig
pa
「i
mtshan nyiddang
ldan
/’jig
pa
yang
skyeba
dang
gnas
pa
dang
’
jig
pa
’
i
mtshan nyiddang
ldan
namtshan nyid mtshungs
pa
’
i
phyir
mtshan nyid rnamsla
khyad
par
medpar
’
gyur
ro //khyad
par
med na ’di
ni skyeba
’o //’di
nignas
pa
’o//di
ni ljigpa
’o //zhesbya
ba
de
dag
yod
par
ga
la
’gyur
/もし生 が さ らに生 と住 と滅の
特 質
を有
して おり
、住
も また 生と住と滅の特質
を有
して お り、 滅 もまた生 と住 と滅
の特質
を有
してい る な らば、 共 通の 特質
である か ら諸特 質に区別が ない ことになるだろう
。 区 別が ない な らば 「これ は生である」、 「こ れ は住であ
る」、 「これ は滅
で ある 」 と言わ れる それ らが ど こに存在
しよう
か。r
青 目註』7>若生是
有爲
則應有
三相
若 生 是 無 爲何 名 有 爲 相 若生 是 有
爲
。應有
三相
生住滅
。 是事 不
然。 何 以故
。共相違 故
。相
違者
。 生相
應生 法。 住 相 應 住 法。 滅 相 應滅法
。若法
生 時。 不 應 有 住 滅 相違法
。 一時則
不然
。如
明 闇 不倶
。 以是故
生 不應
是有爲法
。住
滅 相 亦 應 如 是。r
十二 門論』8>若
生是有爲
復 應有
三相
若
生是 無 爲何
名有爲 相
若
生是有爲者
。即應 有
三相
。 是三相 復 應 有三相。如是 展轉則爲無
窮。 住 滅 亦爾
。以 上 を見る と、 ま
ず
この偈
の前半部分
は、 生 住 滅の 三相
のう
ち生が も しつ くら れ た もの (有 為 :samskgta )で ある な らば、 そ こに もさ らに有 為
の特 質
(相 :lakSarpa
)NII-Electronic Library Service 智 山学報 第六 十三輯 で
あ
る生住 滅
が伴 う
こ とになっ て しまう
という
もの で ある。この偈に対 して
ABh
は 「生 とい う特 質に さ らに3
つ の特質
が付
随す
る な らば、 さ らにその特 質
に も3
つ の 特 質 が付 随 する」 という
無 限 遡 及 (anavastha )の過失
に陥
っ て し まう
という
注 釈 を施 してい る。 また 『十二 門論
』 が こ のABh
と同様
の解釈
を示す
。他方
、BP
と 『青
目註』 は こ こ で はABh
と異
なる見解
を示 して い る。 まず
BP
は生に さ らに3
つ の 特質
が付
随す
るな ら、住
と滅
に も同様
に3
つ の特 質
が付 随
す るこ と にな るた め、 生住 滅そ
れ ぞ れの個別性
が成 り
立たなく
なっ て しまい 、 こ の 三者 を区別で きな くなっ て しまう
とす
る。 そして 『青
目註
』 は生住
滅の そ れ ぞ れ が 互い に相 違 する もの で あるか ら、 生に対
して住
と滅
という特
質
が 同時に付 随 し て 成 り立つ ことは あ りえない という
見 解 を示 してい る。 これ らの異 同につ い てABh
の記 述が後 代の 典 籍で広 く流用 さ れて い る こ と はす
で に述べ た が 、 こ の偈 に関 して はABh
と同様
の解
釈 を示
して い るの は 『十
二門論
』 のみ であ
る。 こ こ で その 理 由につ い て考察
を試
み た い 。ま
ず
、 こ の偈
頌の 説 を 「無
限 遡 及の 過 失に陥る」 とす
るABh
の解釈
は、 一 見す
る と妥 当
なよう
にも見 え
るが、ABh
が こ こ で言及
して い る無 限遡
及の過失
は こ の後
の第
3
偈
9)で論
じ られ る 問 題 なの である 。 そのためABh
は こ の第
1
偈で先行
して無
限遡 及の 過失
を論 じ、 さ らに第
3
偈
で も同様
の説
を述
べ る ことに よっ て注釈
の内容
が重複
して しまい 、文脈
に齟齬
が 生 じてい るこ とになる。 以上 の理 由か らBP
と 『青
目註』 はこ の 第1
偈に関 して はABh
の説
を用 いず
、独 自
の解 釈 を示
して い る もの と考
えら れる。そ れ で は
ABh
と同様
の解釈
を示 す 『十二 門論』 は どう
だ ろう
。 『十二 門論
』 につ い て は まず
上記
の よう
にMMK
の第
1
偈
を引 用 して か ら、 無 限遡 及 を指
摘 す るABh
と同様
の解 釈
を述べ て い るわ け だが、 『十
二 門論
』 はその後
の無
限遡
及
が言及
される第
3
偈
を引用
してお らず
、 この後
は 第4
偈 1 )を引 用 してい るの で ある。 その た め、内容
が重複
して しまう
という
過失
は 『十二 門論』 の場
合に は生 じて い ない 。こ の よ
う
に、後代
の注 釈書
はABh
の 説を広 く採
用 してい る が、ABh
の内容
が 望 ま し くない 場 合 には、 独 自の 解 釈 を施 して い る。 ま た、 『十二 門論』 につ い て はABh
と同様
の解釈
を示 しつ つ もその構 成
を組
み替 え
る ことで巧 み に矛盾
を 回避
してい る こ とがわかる。 (18
) N工工一Eleotronlo Llbrary『中 論』 第
7
章とその解釈の異 同 につ い て (安井)2
. 第4
偈に お け るABh
の解 釈につ い て次に第
4
偈 とそ れに対す
る注 釈 を見てい く。 こ の 偈はMMK
の 主張に対
して反論者側
の 主張
が示
さ れ た もの であ
る。 そ こで、ABh
の 注釈
に特徴
的 な解
釈 が見
られ、 そ れ が他
の注釈書
におい ても踏襲
され てい るの でそれ を参照
してみ よう
。[
MMK
Chap
.7v
.4
]
11>utpadotpada utpado mUlotpadasya
kevalam
/utpadotpadam utpado maulo
janayate
punah
//生生 は
本
生の み を生 じ る。 そ して本
生は生 生 を生 じ る。以 上 が ア ビ ダル マ か らの反
論
を唱
える第
4
偈
であ
る が、 こ こでは先
に見
た第
3
偈の 「生住 滅 それぞれ に さら に有為
の特 質
があ
る な らば無
限遡
及に陥
る」 という
MMK
か らの批判
に対
して、本
生は生 生に よっ て生 じられ、 その 生 生 は本生 に よ っ て生 じ るの である か ら無 限遡 及 に は陥 らない と して反 論 してい る。 こ の反 論は ア ビ ダル マ の 九法倶
起の 教理 に基づ い てい る もの と考
え られる。し か し、 この 偈 に対 し て
ABh
は9
の法で は な く下 記の15
の法が 同時 に生ず
る と して、 それ を列挙
してい るの で ある。 だが、管見
した かぎ り
ではその よう
な15
種
が 同時
に生ず
る という
よう
な記 述 はい か なる文
献 に も見受
け られ ない 。ま
た、 これ らの15
種
を 一 つ の グル ープと して挙 げ
る こと に も整
合 性 が 見出
せ ない 。そ
う
であ
る に も関
わ らず
、 こ のABh
の記 述 は後 代のMMK
注 釈 書 まで踏 襲 さ れてい るの である。 以下 が その 一覧
である。[
ABh
]
12)法
(chos )生 (skye
ba
)住(gnas pa)
滅 (’
jig
pa )具
有
(ldan
pa )老
(rga
ba
)解 脱 (rnam ・par・grol・
ba
)あるい1
ま邪 解脱
(1
・g pa’i
rnarn pargr
・1
ba
)出離
(nges par ’
byung
ba
nyid )あるい は不 出 離(nges par ’byung
ba
ma yin pa nyid )生 生
(skye
ba
’
i
skyeba
)住住
(gnas
pali gnas pa )滅滅
(’
jig
pa’
i
djig pa )具有具有
(ldan
pa’
i
ldan
pa )老老
(rgaba
’i
rgaba
)解 脱解 脱 (ma 皿 par gr・
l
ba
’
i
rna エn par gr・I
ba
)ある い は邪
解 脱
邪解 脱
(1
・gpa’
i
rnam pargr
・1
baTi
1
・g
pa
’i rnam par gr・l
ba
)出離
出離
NII-Electronic Library Service
智 山学報 第六十三輯
lbyung
ba
ma yin pa nyidkyi
nges par 「byung
ba
ma yin pa nyid )[
BP
]
13)法
(dharma
)生 (utpada )
住
(sthiti)滅
(bhaiiga
)具 有
(samanvagama )老 (
jara
)正
解 脱
(yangdag
pali
rnampar
grol
ba
/sarnyagt ・imukti
)あ
るい は邪解 脱
(mithyavimukti )出
離
(nairyanikata )あ
る い は不 出離
(anairy …珈kata
)生 生(utpa −
dasyotpadab
)住 住
(sthiteb sthitib )滅 滅
(bhahgasya
bhahgah
)具
有
具有
(samanvagamasya sa nanvagarnab )
老老
(jarayab
jara
)解脱解 脱
(vimukter ・vimuk −tih)あるい は
邪
解 脱邪解
脱 (mithyavimuktermithyavimuktih
)出
離
出離
(nairyarpika−tayab
nairyanikata )あるい は不 出 離 不 出離 (anairyanikatay 的 anairyanikata )[
P
吻 擁砂 名α4
勿α]
14) ※犢
子部
(gnas
ma 「i
buli
sde pa )の説
として挙 げ
る法
(chos )生 (skye
ba
)住
(gnas
pa )滅
(’jig
pa )具 有
(ldan
pa )住 異
(gnas・pa・
las
・gzhan・du
・gyur・pa・nyid )正
解脱
(yangdag
pali rnam par grolba)
あ
るい は邪
解脱
(1
・g pa’i
mam par grolba
)出離
(nges par ’byung
ba
nyid )あ
るい は不出離
(ngespar ’
byung
ba
ma yin pa nyid )生
生 (skyeba
’i skyeba
)住 住 (gnas
pa
’ignas
pa
)滅 滅(’
jig
pali ’jig
pa )具
有
具有
(ldan
pa’i
ldan
pa )住
異住
異 (gnas・pa・las
gzhan・du
’
gyur
ba
nyidkyi
gnas palas
gzhandu
’gyurba
nyid )正
解脱
正解脱
(yangdag
pii rnampar gr。
l
bali
yangdag
pa「
i
rnam par gr・l
ba
)あるい は邪解
脱 邪解脱
(log
pa’i
rnam par grolba
’i
l
・g pa’
i
rnam par gr・l
ba
)出離 出離(nges par
’
byung
ba
nyidkyi
nges par ’byung
ba
nyid )ある い は不 出離 不 出 離(nges par ’
byung
ba
mayin
pa
nyidkyi
ngespar
’byung
ba
ma yinpa
nyid )
[
PrasannaPadd
]
15) ※正 量部
(sarpmitiya )の説
として挙 げ
る法
(dharma
)生 (utpada )
住
(sthiti)無 常
(anityata )具
有
(sarrlanvaga −ma )
老 (
jara
>解 脱(samyagvimukti )あるい は
邪 解 脱
(mithyavimukti )出
離
(nairyaロikata
)ある い は不 出離 (anairya ロikata
)生 生 (utpadsyotpadab )よ り
不出離 不 出離
i
(anairyatiikatatiairyanikata )に至る まで 『青
目註』16)お よ び 『十二 門論 』17)法
生
住
滅
生 生
住 住
滅 滅 (
20
) N工工一Eleotronio Libraryr
中論』 第7
毒と その解釈の異罰につ いて1
安井〉以 上 を
見
てみ ると必ず
し もす
べ ての 注釈
書の説 が完全
に一致
してい る わけで はない ことが わ か る。 それ らの掘
違
を ひ とつず
つ確
認 して い くと、 まず
BP
につ いて は
が
ABh
で はただ解
脱 (rnampar
gr
。l
ba)と
されて い たの に対
して 、 ここ では正
解
脱(samyagvimukti /yangdag
pa
’i
rnam par grolba
)とされて い る。 これ は次に挙 げられて い る邪 解 脱 (mithyavimukti )との 対 比 か ら付 加 さ れ た もの と考え ら れ る。 ま
た 、 そ れ嶽
外
につ い て は チベ ッ ト語訳
がA
跳 と一致 してい る た め、ABh
のサ ンス ク リッ トもこ の
BP
の テキス トと同様
の14
種
を挙
げて い た もの と推 測で きる。続
い てPP
で はABh
、BP
で老
(jara
)と されて い た箇所
が住異
(gnas palas
gzhandu
gyur pa nyid )とさ れて い る が 、 これも住
の状 態
か ら滅
の 状態
へ衰滅
さ せ る という
意味
であ
るか ら老
とほ ぼ同様
の意 味
と考 え
て よい だろう
。 また、PP
は この15
法
という
説を 「犢
子 部の 説である」 と してABh
、BP
で は奮
及さ れ な かっ た特 定 の部
派名
を挙
げて説 明 してい る。 しか しな が ら、 こ れ はPSP
で は 「正 量部
の説
」 とされて お り、 部 派の特 定につ い て は注釈
者 問で 見 解が 一致
して い ない 18)。 またPSP
は後 半のか ら
の 間は 「生 生 より不
出
離 不出
離 にい た る まで 」 という形
で省 略 されて い る。他 方
、羅什
の漢訳
に よ る晴
冩註
善 と 『十二 門 譱』 は15
法で は な く7
法を挙
げ
ており
、 その内容
も 一致
して い る。 これ は生住 異
滅の四相
か らMMK
の説 に 合わ せ て 「異」を抜
い たうえ
で九法倶起
の原理
に当
て は めた もの と考
え られる。 その た め 、解釈
として は前述
の よう
に15
法
を列挙 す
る もの よ りも整 合性
が伴
っ たも
の とな っ てい る とい える。 しか し な が ら、 三相 という
伝 統 的 な解釈 か ら四相 へ 展 開 した後に成
立 し た 九法倶 起
の思想 を、 ふ た た び古 形である 三 相に戻 して 当 ては めて解釈
し よう
とす
る点につ い ては疑 問 が 残る。以 上の よ
う
にいず
れ の典
籍 もABh
がア ビダルマ の教 理 として挙 げ
る15
法
膜 訳は7
法)の倶
起 を踏襲す
る が、 それ は注釈者
ご と に より整合性
の伴
っ た もの とな る よう解
釈 に修 正 が 加 え られてお り、 そ れ らは必ず
しも
一致
してい ない 。3
.第
7
偈
の解釈
につ い て続い て は
第
7
偈
に お い て主に漢訳典籍
に特
徴 的 な解釈
が見
ら れ るので 、 そ れ を検
討 して み たい 。 こ の第
5
偈か ら第7
偈 まで の3
偈は文 脈 と しては前
述第
4
偈で 示 され たア ビ ダル マ の 「生 生 が 本 生 を生 じ、本
生が生 生 を生 じる」 という
教 理 を 批 判す
る偈
という位 置
づけ
で ある。NII-Electronic Library Service
智 山学報 第六十三輯
[
MMK
Chap
.7v
.5
]
19>utpadotpada utpado mUlotpadasya
te
yadi
/maulenajanitas
tam
te
sakatham
janayi
$yati
//汝に とっ て、 もし生 生が
本
生 を生 じ る という
な らば、ま だ本
[
生]
に よっ て 生 じ られ てい ない そ れ(生 生)が 、 汝に とっ て どう
してそ れ (本生)を生 じるこ と に な るの か。[
MMK
Chap
.7
v.6
]
20)sa
te
maulenajanito
maularpjanayate
yadi
/maulab sa
tenajanitas
tam
utpadayatekatham
//汝に とっ て 、 もし本 [生]に よっ て生 じた それ (生 生)が、
本 [
生 ]を生 じる というなら ば、
それ (生 生〉に よっ て まだ生 じ ら れて い な い その 本 [生]が、 ど
う
して そ れ (生 生)を生
じるの か。[
MMK
Chap
.7
v .7
]
21)ayam utpadyamatias
te
katnam
utpadayedimam
/yadlmam
utpadayitum ajatabSaknuyad
ayam //汝
に とっ て 、 も し、 この ま だ生 じて い ない ものが、 そ れ を生 じるこ とができ
る な らば、 こ の現に生 じつ つ ある もの が望み 通り
に そ れ を 生 じる だろう
。ま
ず
、第
5
偈 と第6
偈では本生 と生 生の どちらが どちら を生 じさせ る に して も、 その ため に は どち
らか一方
が 先 に成 立 して い なけれ ばな らない という矛盾
を指摘
して い る。そ して
第
7
偈
であるが、 こ の偈で は先の2
偈
と異
なり
生 生、 本生 という名称
が 明記 されて お らず
、代
わ りに ayam 、imam
とい っ た代 名
詞で表
現 さ れてい る。 こ の偈につ い て まず
はABh
の解釈
を参
照 してみ よう
。 ・第7
偈 の注 釈[
ABh
]22)khyod
kyi
rtsabii
skyeba
de
skyebzhin
pa rang nyid ma skyespa
des
gal
te
(
22
>『中論』 第
7
章とその解釈の異同につ い て (安井)skye
ba
「i
skyeba
gzhan
de
skyedpar
byed
nus na ni / skyeba
,i
skyeba
de
bskyed
par
’dod
la
rag na mi nuste
/de
’i
phyir
khyod
kyi
rtsaba
’i
skyeba
de
skye
bzhin
pa
rang nyid ma skyespa
des
skyeba
「i
skyeba
gzhan
de
bskyed
par
mi nus so //yang
na ldi nibrtag
pa
gzhan23
)te
/khyod
kyi
skyeba
’i
skyeba
de
skyebzhirl
pa
rang nyid mabskyes
pa
des
gal
te
rtsaba
,i
skyeba
gzhan
te
/skyed
par
byed
nus na ni rtsaba
’i
skyeba
de
bskyed
par
’dod
la
rag na mi nuste
/deTi
phyir
khyod
kyi
skyeba
’i
skyeba
de
skyebzhin
pa
rang nyid rna skyespa
des
rtsaba
’
i
skyeba
gzhan
de
bskyed
par
mi nus so //汝に とっ て 、 その現に 生 じつ つ ある本生 とい うのは 自分 自身が まだ 生 じ終 わっ てい ない もの であるの で 、 もしその他に生 生 を 生 じさせ る こ とが可 能で ある とい
う
な ら、その 生 生 を思い 通 りに生 じる こ と は不 可 能で ある。 その た め 、汝
に とっ てその現に生 じつ つ ある本生 とい うの は 自分 自身が まだ生 じ終 わっ てい ない もの で あるの で 、 その他
に生 生 を生 じる こ と は不 可能
である。あるい は また、
次
は別
の見方
であ
る。汝
に とっ て 、 その現に 生 じつ つ ある 生 生 という
の は自分 自身
が ま だ生 じ終
わ っ てい ない もの で ある の で 、 も しそ の 他に本生 を生 じさせ るこ とが 可能で ある という
な ら、 その本
生 を思 い 通り
に生 じる こ とは不 可 能である。 そ の た め 、汝
に とっ てその現に生 じつ つあ
る 生 生 という
の は 自分 自身
が ま だ生 じ終
わっ てい ない もの で あ るの で、 その他 に本 生 を生 じる ことは 不 可能である。以 上 を
参
照す
る とABh
は この第
7
偈
につ い て、 生 じ さ せ るもの を指 す
ayam と、 生 じられ る ものを指す
imam
という
2
つ の代 名詞
に生 生 と本
生の どち
らを当
て は めて も読解
で きる偈
と して解釈
してい る ことが わか る。そして、 この よ
う
に2
通り
の見方
で捉
えたう
えで、 生 生 と本
生の どち らが現
に 生 じつ つ ある に して も、現
に生 じつ つ ある もの 自体が ま だ成 立 してい ない もの で あるか ら、 も う 一 方 を生 じ させ る ことは で きない と して い る の で ある。 そ して 、 こ れ につ い て は先 に挙 げたBP
、PP
、PSP
の い ず れの注 釈 書 もABh
の 明ら か な 重複表
現
を修
正 してい る程度
で、基本
的には 同様
の解
釈 を
示 してい る。他
方
、 『青
目註
』 で は こ の第
7
偈
の後
に他
の 注釈 書
には見
られ ない 偈頌
が 一つ付加
さ れてい る。 そのた め、 『青
目註
』 の第
7
章
は他の注 釈 書 よ り偈 が 一つ多
く なっ て い る。 以下で は これ につ い て考 察
したい 。NII-Electronic Library Service 智山学報 第六十三輯
r
青
目註』24)若
生 生 生時
能 生 於 本 生生 生 尚未 有
何 能 生 本生 [第
7
偈 ]若
謂 生 生 生時 能
生本
生可爾
。 而實
未 有。 是故
生生 生時。 不能
生本
生。復 次
若本
生 生時
能
生於
生 生本
生尚未
有
何 能生
生 生[
第
8
偈]
若
謂是本生
生時能
生 生 生可爾
。而實未有
。是 故本
生 生時
。不
能生 生 生。これ を
見
る と、 第7
偈 とその 注釈
が 「生 生が生 じつ つあ
る時
に本
生 を生 じる こ とは認
め られ ない 。」 と してお り、第
8
偈 が 「本
生が生 じつ つあ
る時
に生 生 を生 じ るこ とは認 め られ ない 。」 と してい る。 そ して、 その理由
は どちらも現
に生 じ つ つあ
る もの はまだ存
在 して い ないも
の で ある か らとして い る。つ ま り 『青 目註』 は
MMK
の第7
偈の内
容 を2
分 割 する こ とで 、現 に生 じつ つ ある ものが 生 生、 本生の ど ち らで も成 り立 た ない こと を説 明 してい るの である。 その た め、 解釈
の方向性
としては 上記
の注釈 書
群 と同 じく、偈頌
の 代名
詞に生生
、本
生どち らを当
て は めても読解
でき
る よう
にす
るため、 こ の よう
な措置
を施 して い る もの と考 え られる 25)。それで は
最後
に 『十
二 門論
』 を見
て み よう
。 『十二 門論』26)是 生 生 生
時 或能
生本
生生 生 尚未 生
何 能 生 本 生
是
生 生 生時
。或能
生本
生。 而 是 生 生 自體 未 生。 不 能 生 本 生。これ を
検 討す
る と、 まず
『十二 門 論』 は生 じつ つ ある もの を生 生 と して理解
し てい るこ とが わかる。 さ らに 『十二 門論』 は偈頌
自体 も生 じつ つ ある もの を明確
に生 生 であ
る と断定
して い る。 その た め、 この 偈 につ い て はMMK
の第
7
偈 を引
用 してい る という
より
は、 『青
目註
』 で 二分割
さ れた偈頌
の 一 つ 目の偈
を引 用 してい る と考
え たほう
がい い だ ろう
。 しか しなが ら、 この 第7
偈につ い ては前 述の ように、 い ず れの 注 釈 書 も生 じつ つ ある もの を生 生 と本生 の どち らかに断 定せ ず、 両 様 に解 釈 して きた。 ま た、 偈 を二 分 割 した 『青 目註』 もそ れと同 様の解 釈 をするた め に二 分 割 して い る のだか ら、 こ こ で 『十
二 門論
』 が二 分割
し た偈
のう
ち前半
の み を挙 げ
るの はい さ さかバ ラ ン スを欠
い て い る よう
に思われる。 (24)
N工工一Eleotronlo Llbrary『中論』 第
7
章とその 解釈の異 同につ い て (安井)これ につ い て、 まず 『青 目註』 に おける偈の分
割
に関
して は、他
本に こ の よう
な例 が まっ た く見
ら れ ない た め、 翻 訳 前の サン ス ク リ ッ ト原典
の時 点
か らの 相 違 で ある とは考 えに くい 。 その た め、 これ は訳 者で ある羅什
に よ る翻 訳 時の措 置で ある可 能 性が高
い 。 よっ て 『十二 門論』 につ い て も、 こ の よう
に生 じつ つ ある も の を生 生で あ る と した サ ン ス ク リ ッ トの テ キス トが存在
し たの で はな く、 『青目 註』 の解釈
を流用
して い るも
の と思わ れ る。そ して、 そ
う
で ある な らば 『青
目註』 と 『十二門論
』 で は 『青
目註』 の 方が先行
して成
立 して お り、 『十二門論
』 はABh
と 『青 目註』 の 両者
を参 照
して引
用 してい る という
こ と になる。4
. 第14
偈
につ い て[
MMK
Chap
.7v
.14
]27)notpadyamanar ロnotpannarp nanutpannarp
katharpcana
/utpadyate
tathakhyata
甲gamyamanagatagataib
//現 に生 じつ つ ある もの も、
す
で に生じ た ものも
、 まだ生 じてい ない もの も、ど
う
しても生
じない 。現 に
去
りつ つ ある もの、す
で に去
っ たも
の、 まだ去
っ てい ない もの に よっ て説 明 され た通
り
で ある。こ の第
14
偈 では こ の 章の第1
偈 か ら論 じ ら れ て きた 「生 じる こ と」 が どの よう
に して も成り
立た ない こ と を 主張 してお り、 そ れ を第
2
章
の観
去 来 品(gatagata−parlk
§a)に なぞ らえて説
明 して い る。こ の
偈
につ い て はABh
が 極 めて長 い 注 釈 (約1
.5
葉 )を施
して い る。 本 来ABh
は全体 的
に極
め て簡 単
な注 釈
しか して い ない場合
が多
い が 、 こ の偈
の注釈
はABh
の 中で は特
に長い稀
有 な例である。ABh
が こ の 偈に こ こまで 重点
を置
い てい るの は、 こ の偈
に第7
章 全
体の主 張 の 要 点が集約
さ れ てい る と考 えた こと に よ る もの と思わ れ る。 つ ま り、 生 じつ つ ある もの、すで に生 じ た もの 、 まだ生 じてい ない もの という
よう
にい か なる観点
か らも生が成
り立 た ない こ とを第2
章の 論法
に即 して論
証 する こ とで 、 こ れ まで の第
7
章
の前 半 部 分で論 じられて きた生に対 する議論 を総括
する だけでな く、同時
に残 り
の住
と滅
につ い て も同様の解
釈 を当ては め るこ とが でき
るの で ある。 そNII-Electronic Library Service 智山学報 第六 十 三 輯 の た め、 これ以
降
、 つ ま り第7
章後半
のABh
の 注 釈は通 常 通 りの簡素
な もの と なっ てい る。し か し な が ら、 この 偈は
BP
やPSP
な どの他
の注 釈 書 で はそ こ まで 重 要 視 さ れて い る形跡
は なく
、 このABh
の解釈
を踏襲
して い るの は漢 訳の 『青
目註
』 と 『十二 門論』 の みであ
る。 よっ て こ こか らはABh
、 『青
目註
』、 『十二 門論』 の注釈
か ら主だ っ た箇 所 を抜
粋 し て その異 同 を検討
して み たい 。す
で に生 じたも
の の否定
[
ABh
]
28)re zhig
dngos
po
skyespa
ni skyedpar
mibyed
de
/ci’i
phyir
zhe na /thugpa
med
par
thal
bar
’gyur
ba
’i
phyir
dang
/byas
pa
la
bya
ba
medpa
’
i
phyir
te
/ま
ず
、すで に生 じた事 物 に は生 じる は た らき
が ない 。 なぜかという
な ら、無
限 遡 及の
過失
に陥るか らであ り、 すでに は た らき終
っ た もの に は はた らき
が 無い か らで ある。『青 目註』V9)
已生法 不 可生 。 何以
故
。 生 已復
生。如是展 轉則爲無窮
。如作巳復作
。『
十
二 門論
』30)生 果不 生
者
。是
生 生 已 不 生 何 以故
。有 無窮過故
。 作 已 更作 故。まだ生 じ てい ない もの の否
定
[
ABh
]3Dgal
te
yang
dngos
po
ma skyespa
skyedpar
byed
na/don
gang
dag
ma skyespa
de
dag
thams
cadkyang
skyebar
thal
bar
’gyur
te
/de
la
byis
pa
so so ,i
skye
bo
thams
cad !abyang
chub ma skyespa
de
yang
skyebar
thal
ba
dang
/dgra
bcom
pa
migyo
bii
chos can rnamsla
kun
nas nyon mongspa
ma skyespa
de
yang
skyebar
thal
ba
dang
/ribong
dang
rta ,i
rvala
sogspa
ma skyespa
de
yang
skyebar
thal
bar
’gyur
bas
de
yang
mi ’dod
de
/de
’i
phyir
ma skyespa
yang
skyedpar
mibyed
do
/さ らに も し、 まだ 生 じて い ない
事 物
に生 じ るはた ら きが ある なら、 ま だ生 じてい ない それ らのあら ゆ る
対象
もまた生じる とい う過 失に陥るだろう
。 その場 合、 あ ら ゆる愚 童 凡
夫
に もま だ生 じ てい ない菩
提 が生 じて し まう
という過
(
26
)『中論』第
7
章とその解釈の異 同につ い て (安井 ) 失に陥 り、 不動の法
を有
する阿 羅 漢た ちに生 じてい ない 煩 悩が あ まね く生じ て しまう
という
過 失に 陥 り、 兎 と馬
に角
な どが 生 え な くて も、 それ が 生え
て しまう
という
過失
に陥る こと に な るの で、 そ れ も ま た認め られ ない 。 そのた め、 まだ生 じてい ないも
の に生 じる は た らきは ない 。r
青 目註』32)復
次 若未
生法
生者
。 世 間 未 生法皆應
生一切凡 夫
。未
生 菩 提今
應 生菩
提 不 壞 法。 阿羅漢無有煩惱
。今應
生煩惱
。 兎等無角今皆應
生。 但 是事
不然
。是故 未
生法
亦
不生 。 『十二 門論』33)復
次若
不生法 生。 一切不 生法皆
應生 。 一切 凡 夫 。未
生 阿耨多
羅三藐三菩提 皆
應 生。 不壊
法 阿 羅 漢煩惱
不 生 而生。 兎 馬 等 角不生 而 生。 是事
不 然。 是故
不 應説
不 生而
生。現 に生 じつ つ ある もの の
否定
[
ABh
]34)gang
la
skyebzhin
pa
skyedpar
byed
pa
de
la
skyeba
gnyis
suthal
bar
圏gyur
te
〆skyebzhin
pa
gang
gis
skyebzhin
pa
nyiddu
tgyurba
dang
/skyebzhin
pa
skyedpar
byed
pa
gang
yin
pa
,o //skye
ba
gnyis
su mi rigste
/dngos
po
skyes
pa
gnyis
medpa
’
i
phyir
ro //de
’i
phyir
skyebzhin
pa
yang
skyedpar
mibyed
do
現
に生 じつ つ ある もの に生 じる は た らきがある とするなら 、 そこ に は2
つ の生 とい
う
過失
が付 随 する。現
に生 じつ つあ
るも
のが 現に生 じつ つ ある ものその もの と、 現に生 じつ つ ある もの が生じ させ る
も
の で ある 。2
つ の 生 という
の は理に合わ ない 。
事物
に生 は2
つ も無い か らであ
る。 その た め、 現に生 じつ つ ある もの に も生 じる は た ら きはない 。
『青 目
註
』35)復
次若
言 生 時生者。 則 有二生過。 一以生故名
生時。 二 以 生時 中生 。 二皆 不然
。無
有
二法
。 云何 有二 生。 是 故生 時 亦不生。『十二
門論
』36)復次若
人説
生 時生 。 則 有二生。 一以 生 時爲
生。 二 以生時
生。無
有二 法。 云何言有
二生。是故
生時亦
不生。NII-Electronic Library Service 智 山 学報第六十三輯
以 上 の よ
う
に、 こ のMMK
第
14
偈 に対 す るABh
の 長大
な注釈
の ほ とん どが 『青
目註
』 と 『十
二門論
』 にその ま ま流用 さ れてい る。しか し、 『十二 門
論
』 に よ るABh
の 流 用 と 『青
目註』 に よ る流 用
は少
し趣
が異
な っ てい る。 まず
、先程
まで に見
てき
た 『十
二門論
』 にお け るMMK
第
7
章
の引 用はす
べ て 『十二 門 論』 の第
IV
章
37)に見 られ る例
で あっ た。 しか し、 この 第14
偈の 注 釈 に限っ て は 『十
二門論
』 最後
の章
であ
る第
XII
章
で 引用 さ れ てい るの であ
る。 しかも
、 こ の第
XII
章
は ほ ぼ全 文
がこ のABh
に よ る第14
偈の長
大
な注釈
で構
成 されて い る。しか しなが ら、 『十二 門
論
』 の こ の章
に はABh
と も 『青
目註』 とも
一致
し な い点
があ
るの で、 そ れを確 認
し て み よう
。 『十二 門論』第
XII
章
冒
頭 偈38) 生 果 則 不生不生
亦
不 生離是
生不
生生
時亦不
生これ は 『
十
二 門論
』第
XII
章
の 冒頭 に挙 げ
られた偈である。 この第
XII
章 は前
述の とおり
ほ ぼ全体
がABh
に よる第
14
偈
の注 釈
で あるか ら、 こ の偈
もそ の ま まMMK
の第
14
偈
の漢訳
が挙
げら れ るべ きで ある が、 先に挙 げたMMK
の 第14
偈
と は若
干 異な っ てい る。 それ は後 半
の 「現
に去 りつ つ ある もの、す
で に去 っ た もの 、 ま だ去 っ て い ない もの に よっ て説
明 さ れ た通 りで あ る。」 という
MMK
第
2
章
に関す
る記 述が抜 け落
ち てい るの で ある。これ は 『
十
二 門 論』 で はMMK
第
2
章
につ い て は言 及さ れて い ない た め、 こ の 『十二 門論
』 の文
脈に沿う
よう意
図的
に省
か れた もの と考
えら れ る 39)。 そのた め、 こ の注釈
部分の 末 尾 もABh
、 『青
目註
』 と比 較 する と以 下の よう
な相
違 が生 じてい る。 ・第
14
偈
の注 釈お よ び 『十二 門論』 第XII
章の末 尾[
ABh
]40)de
ltar
skyespa
dang
ma skyespa
dang
skyebzhin
pa
skyedpar
mibyed
pa
’
i
phyir
skyeba
rabtu
mi 「grub
ste/ skyeba
rabtu
magrub
na /gnas
pa
dang
Ijig
pa
dag
kyang
rabtu
mi ,grub
bo
//skyeba
dang
gnas
pa
dang
Tjigpa
dag
rab
tu
magrub
na /’dus
byas
kyang
rabtu
mi ’grub
ste /de
ltar
de
dag
ni song(
28
)『中論』 第
7
章とその解釈の異 同につ い て (安井)ba
dang
ma songba
dang
bgom
pa
dag
ni rnampar
bshad
par
khong
du
chudpar
bya
’ o// 以 上 の よう
にす
で に生 じた もの 、 まだ 生 じてい ない もの 、現に生 じつ つ ある もの に は生 じ るはた ら きが ない の で 生 は成 り立 た ない 。 生が成 り立たない な らば、住
と滅 も成 り立たない の で ある。 生 と住 と滅が 成 り立 た ない な らば有 為 もまた成 り立 た ない 。 そ の よう
に、 そ れ らはすでに去 っ た もの 、 まだ去
っ てい ない もの 、 現に去 りつ つ ある もの に よっ て説
明さ れて い る と理解す
べき
である。r
青
目註
』41)如是推 求
。 生 巳無
生。 未生無生 。 生 時 無生。無
生故
生 不 成。 生不成 故 住 滅 亦 不成
。 生住
滅不
成 故 有 爲 法 不 成。 是故
偈 中説
去未
去 去 時 中 已 答。 『十二 門論』42) 如 是生不生 生時皆
不 成。 生法
不 成 故 無生住 滅 亦 如 是。 生住 滅 不成故。 則 有 爲法 亦
不成
。有爲法不
成故。無爲 法亦
不成
。有爲無爲法不
成故
。衆
生 亦 不 成。 是故 當知
。 一切法無
生 。畢 竟
空寂故
以 上の よ
う
に 『十二 門論』 のみ が末尾
で3
種
の 「去
る こと」 につ い て言 及 して い ない 。 そ してその代
わり
に、 「空で ある か ら何物
も生 じない 」 と結ん で い る。以上の 一
節
が 『十
二門論
』 という
典 籍自体
の末
尾 とな るわ けだが、 こ の 「空で ある が故
に」 という表
現は 『十二 門 論』 の各章
に共
通 した表
現で、 ほ とん どの章 が 「一切法
は空なり
、 なん となれば 〜」 と始
まり
、 「〜 な る が故 に空 な り。」あ
る い は 「空な る が 故 に。」 と結 ばれ る。 その た め、 この箇 所
につ い て は途
中 までABh
の説 をその ま ま引 用 しつ つ 、 最後
に 『十
二 門論
』独 自の 定 型 句 を当て は め て論 を結んでい るという
こ と になる。 結 語こ こ まで
MMK
第
7
章
につ い てABh
、『青
目註』、 『十二 門 論』 を 中 心 と して そ こに見 られる解釈
の異
同 を比 較 してき
た。検討
し た内 容を再度
まとめ る と、 まず
ABh
につ い て は第
1
偈の 注 釈の よう
に文脈
に そぐ
わ ない もの は他 の注釈 書
で はNII-Electronic Library Service 智山学報 第六十三輯