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【七曲がりの道造り】
藤沢地名の会会報「善行を語る」の座談会で、立石の 神﨑善次郎氏(故人)は、七曲がりの道造りの事を次のように語っています。『下の立石から上の町田線へ上がるには立石神社の後ろにある道と、今の七
曲がりの道の二本しかありませんでした。水道道(横須賀水道路)は後になって
出来たものです。七曲がりに改修される前の道は、下から上の町田線へ直線
で上がるのがとても急な坂道でした。
・終戦後の昭和24、5年頃だったか、その道路を部落の青年団が、戦時中
海軍が防空壕を掘るのに使ったトロッコの軌道を持ってきて使い、七曲がりを付
けました。危険な土木作業をよくやったものです。
当時の立石には農家が24,5軒しかありませんでした。集まりの時などで、当時
の人に聴きますと、何分戦後の物資の無い時で、農家は米を供出すると報奨
として、酒の配給がある。それを目当てに道を造ってやったのだと云う話です。
その後、市が失業対策事業の一つとして改良を加え、さらに道路を広げて、合
計三回の工事で現在の姿になったのです』
(藤沢地名の会・会報第51号より) (語られた神﨑善次郎氏は残念ながら平成23 年7月に永眠されました。もっと 昔のお話しを聴きたかったのですが残念です。お話しにでてくる、立石神社の 裏の古道は今も残っています。)15、立石神社(山神宮)
*立石神社 *力石(立石) *立石神社の石塔群 立石神社と呼ばれていますが、神社に収められている棟札等には「立石神社」 の文字はなく「山神宮」となっています。この祭神は「大山祇命」(オオヤマズミ ノミコト)で、大山の阿夫利神社の祭神で、森と水を守ってきた日本古来の自然 神で、そのご神体は山であり、その象徴がこの「石」であると言われています。 創立年代は不明ですが、延宝9年(1681)社殿造立の棟札、また宝暦2年 (1752)神殿の板敷き修理、同10年(1760)には鳥居建立の棟札が残されて います。またこの棟札によりますと、江戸時代は白王山般若院「荘厳寺」(本町) が別当でした。社の左側には卵形の石があり、この石は丹沢の大山から運ばれ てきたと伝えられており、村の若者がこの石を持ち上げて、力比べをする力石 だったそうです。由来記のように「立石」という地名の由来の石ともいわれて15 おります。 *双体道祖神・年代等不明 *馬頭観音・文化七年(1812) *青面金剛・文化元年(1804) 昔この立石神社の辺りを「立石たていし谷戸や と」とか、「じんじの谷戸や と」「大やぶ」 とか呼んでいました。この「じんじの谷戸」ですが、「藤沢の地名」の本に 『じんじの谷戸には、百年くらい前に「じんじ」という山番が住んでいた』 と書かれています。 再び立石の神﨑善次郎氏のお話
『七曲がりの道を少し下ると大きな谷があり、清水が湧いています。そこを「じんじ
の谷」といいます。私が親から聞いた話では、埼玉方面人らしい老夫婦がそこに
住んでいて、山を守っていたことから付いた名前と云う事です。その老夫婦の墓
が私の墓地に無縁仏として建っています。私が調べたところ、私の家とも付き合
いがあって、本人たちから頼まれてそのような取り扱いをしたのだと聞きました』
(藤沢地名の会・会報より) 民俗学で「ジンジ」は、神社の「神事じ ん じ」のことです。 神事じ ん じの行事は頭屋(今の氏子総代)が主催したそうです。 同意語で「お寺」の行事を「オコナイ」といいます。 立石神社には、他にも、「稲荷神社」「秋葉神社」が祀られていますが、勧請 年などは不明です。この立石神社の前を山沿いに、80m程東に行きますと、 「立石不動尊」が祀られた小堂があります。小堂の中には、大変威厳のある 不動明王像(近代ものと思われますが、立派な像です。)が祀られています。 このお不動さんの裏には、不動の滝口といわれる、大きな穴がありました。 昔は水が滝のように流れていたそうで、今でも水が浸み出しています。 *稲荷堂 *秋葉神社 *不動堂16 *不動堂の内部 *不動堂の不動明王 *不動の滝口の穴
16、横浜水道~境川管橋・引地川管橋
横浜水道は横浜市に水を運ぶための橋です。横浜水道は明治20 年にイギリス 人パーマーによって作られました。相模川から野毛山貯水池までの鉄管の水道 が発端ですが、この水道道は、寒川の取水口から横浜市戸塚区の小雀浄水場ま で、ほぼ一直線に続いています。 *境川を渡る横浜水道管橋 *引地川を渡る横浜水道管橋 この境川の横浜水道管橋には鳥の「チョウゲンボウ」が巣作りをするので、 多くのバード・ウオッチング愛好者が訪れます。17、藤會橋
(藤沢⇔六会の境の橋)・円行道(星の谷道)
藤沢と亀井野との境を流れていた白旗川に橋が架かり、コンクリートの 柱に、「昭和26年11月竣工・藤會橋」とあります。 昔は土橋でした。この辺りでは「どんどん」と呼ばれていました。17 『白旗川に土橋があり、ここはかなり深く、丸橋の縁に芝を張って土が落ちな いようにしてあった。足で橋を踏むと「どんどん」とひびいたところから「ど んどん」と言ったのだろう』(松本富司氏著・善行を探るより) *藤會橋 *円行道(星の谷道) *暗渠になった白旗川 現在は、この橋が架かる白旗川は暗渠になっていますが、川を渡って日大方 面に行く道を「円行道」(星の谷道)ともいいました。 亀井野や立石に住んでいた人たちは、藤沢方面に行くのに、この橋を渡って行 ったそうです。 *馬頭観音塔
【藤會橋の馬頭観世観音塔】
この藤會橋の手前に文字「馬頭観世音供養塔」が祀られて います。この馬頭観音塔は台座に、馬持中・近隣七村の村々の 村名が刻まれています。近隣の馬持衆が共同で立てた馬頭観音 塔は大変珍しいと、「藤沢地名の会」の湯山 学氏(善行台在住) が書かれています。 (略図は「藤沢地名の会」・会報第50 号・円行道の馬頭世観音塔・湯山学氏記稿より)18 この馬頭観世音塔台座に刻まれた村々は、「世話村」=善行寺・円行・亀井野・ 土棚、「馬持中」=落合村・深谷村・寺尾村と七ケ村の名前があります。 ・この馬頭観音塔は、銘文は弘化三年(1846)丙午三月吉日の造塔です。 この上(前頁)の地図は藤會橋から円行道(星の谷観音道)を通り、座間の星 の谷観音に行く道です。この道沿いの村々が・善行寺村⇒亀井野村⇒円行村⇒ ⇒下土棚村⇒落合村⇒深谷村⇒寺尾村⇒星の谷観音(座間市・星谷寺)と七つ 続くのです。この村々の馬持衆(馬持中)の方々が祀ったと分かります。 石塔が建立された江戸時代末期の周辺の環境は、台地を下った白旗川の岸辺近 くで、藤沢側は兼子分といわれた森林、六会側は亀井野の大野といわれる広大 な原野(秣場まぐさば)で、人家は無かったと推定されます。 この石塔を紹介した「藤沢地名の会」の久保尚雄氏(故人・善行台の方)は 地元での聞きとりから、この付近に「立場」らしいもの「爪切場」(馬の蹄を切 るところ)もあったと記録しています。さらに付近にあった共有地は馬捨て場 との説もあります。 (藤沢地名の会会報50 号より・一部修正・湯山学氏記稿) (馬頭観音には仏教の畜生道をつかさどる馬頭観音と、馬持衆が飼い馬を供養 する馬頭観音があります。馬頭観音供養塔は文字・馬頭観音と像姿の馬頭観音 があります。像姿・馬頭観音像も「仏教」の像姿と「馬持衆」の馬頭観音像姿 があります。立石神社には「仏教」の馬頭観音像があります) *立石神社の仏教の馬頭観音像 *羽鳥御霊神社の馬持衆の (頭に馬頭・肩の上に羽根があります) やさしい顔の馬頭観音像 (なお、藤沢市内には像姿の馬頭観音像が15基あります。仏教上の馬頭観音 像が5 基、馬飼いの馬頭観音像が 10 基です)
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18、全龍寺のこと
善行には「起雲山 全龍寺」という寺がありました。 この全龍寺は大庭の宗賢院の末寺で、寛永十七年(1641)に創建した寺です。 場所は善行1-21 松本家の辺りです。この全龍寺の本尊は聖徳太子です。 この辺りは昔「寺屋敷」という旧地名と「太子谷戸」と呼ばれている場所があ りました。寺屋敷は寺の領分だったところです。太子谷戸はご本尊の聖徳太子 からきています。(参考・善行を探る2~松本富司氏 著より) 善行神社境内の東北の隅に薬師堂があり、そのなかに薬師如来像や種々の位牌 が残っています。善行稲荷神社の別当を勤めていた起雲山全龍寺のものです。 この寺は曹洞宗で大庭の宗賢院の末寺で、寛永17 年(1641)の創建ですが、明 治維新の廃仏毀釈の時に廃寺となりました。本尊は聖徳太子(『新編相模国風土 記稿』)で、神社下の善行バイパス沿い駅寄りの小塚豆腐店あたりにあったとい われています。体育センター内のグリーンハウスあたりから善行駅へとつづく 谷戸を太子谷(たいしやと)と呼んでいたのもこの関係でしよう。(善行案内記) 全龍寺が廃寺となったのは、明治維新の神仏分離令(廃仏毀釈運動)による ものといわれています。この全龍寺が嘉永三年(1850)に奉納した稲荷神社の 梵鐘が美術品調書として残されています。 ※全龍寺は無住職のお寺だったそうです。 なお、善行神社の境内には、この全龍寺(以前松本氏宅前)にあった薬師堂 が神社の脇にあり、お堂の中には薬師如来や昔のお位牌などが祭られています。 *善行神社 *元全龍寺の薬師堂 *薬師堂の薬師如来20
19、善行神社(善行稲荷社)
善行神社は白旗神社の末社、善行地区の鎮守の社(やしろ)です。 明治12 年頃の『皇国地誌稿本』には「式外社、社地東西 21 間(約 38m)南北 7 間 2 分(約 13m)面積 151 坪(約 498 ㎡・・・善行寺町字唐池にあり、祭神 「稲倉魂命」とあります。昭和34 年から始まった開発で現在の姿になりました。 境内に種々の石像物が集められている中で、寛文4 年(1664)の庚申塔が一番 古いものです。土地の名こそ刻んでありませんが、地元の先祖の方々の名前が わかります。享保元年(1716)の庚申塔には「善行寺村」「左ほしのや道」とあ ります。地名の入ったものとしてはこれが一番古いものです。これからもこの 地が昔は「善行寺村」と呼ばれていたことがわかります。石像物の銘を読むの も楽しいもので、先ほどの「ほしのや道」とは座間市にある星の谷観音(星谷寺しょうこくじ) へとつづく道であります。 (善行案内記より) 平成10 年、近くにあった「八坂神社」「善行稲荷神社」を合祀して、「善行神 社」と改称しました。善行稲荷の創建は不詳ですが、松本氏の記録によれば、 寛文四年(1664)銘の石塔碑などがあることから、分祀されたのは、江戸 時代初期かそれ以前ではないかと書いています。白旗神社の末社で、祭神は 宇 うかの 加魂 みたまの 命 みこと です。文政五年(1822)に再建されたとのことです。 棟札には(表)天下泰平 文化十□酉歳(1814) 別当 全龍寺奉勧請正一位稲荷大明神 村内安全 十二月 吉祥日 本寺宗賢院智□とあります。善行神社には数多くの石塔が 祀られています。「青面金剛」が3基と多く、その一つには 「右 ほしのやみち」「左 あつきみち」と刻まれた庚申塔が あります。この庚申塔は昔からここに祭祀されていたので しょうか?確かに案内道標の「右ほしのや道」の方向は 合っています。 *道案内のある庚申塔 道祖神は双体道祖神が2基、文字神名道祖神が1 基祭祀されていますが、 双体道祖神は二基とも文字が良く読めません。記録によりますと、中央側の双 体道祖神には「天明元 秋 吉日」(1781)とあり像の頭上に「奉納」とありま す。「奉納」と刻まれた双体道祖神は藤沢市内ではここだけです。 右側の双体道祖神は首から上が割れて無くなったのをセメントで再生されて いました。胴体の左右には右(向かって)は□□祖神 左 □辰五月吉日とあ ります。文字神名道祖神は小さめの兜巾型(先頭角)の道祖神で右側に文政四 巳十一月吉日(1821)とあります。21 ここに多くの石造物が祭祀られているのは、合祀する前の八坂神社や開発さ れる前の周辺から集められてきたからなのではないかと思われます。 *双体道祖神 *文字神名道祖神 *双体道祖神