九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
答書箚記 : 拙著『十八世紀の江戸文芸』諸家評に
中野, 三敏
http://hdl.handle.net/2324/4741954
出版情報:雅俗. 8, pp.70-93, 2001-01-27. 雅俗の会 バージョン:
権利関係:
自著に関して論らわれるのは︑褒貶何れであっても︑
何となく面映ゆく︑また気になるものである︒﹃十八世
紀の江戸文芸﹄は︑特に問題提起のつもりで書いた部分
が多かったので︑歳甲斐もなくその反応は大いに気にか
かっていた︒讃意を表して戴くのは無論有難いが︑それ
だけでは批評になり難かろうし︑寧ろ徹底して批判して
貰えれば︑それを種に︑提起したつもりの問題について
議論をより深めることが出来るのでは︑という期待感を
持ったのだが︑もし黙殺されればそれまでの事︑しかし
嬉しいことに数氏の箪端に懸けて戴くことが出来た︒こ
こに改めて御礼を申述べたい︒そして折角の御厚意に甘
え︑丁度本誌が﹁論争﹂をテーマに編纂されることを奇
答 書 剖 記
拙著﹃十八世紀の江戸文芸﹄諸家評に
特巣◇論争の文学
貨として︑御批判に対する私の考えを述べさせて戴くこ
とにする︒無論再批判の労を厭われぬことを切に願いな
がらの仕業である︒
戴けた書評は次の通り︒
0谷脇理史氏﹁文学﹂第一
0
巻︱︱一号平成︱一年七月0
上野洋三氏﹁江戸文学﹂ニ︱号平成︱一年︱二月
0
西島孜哉氏﹁國文学解釈と教材の研究﹂六五
0
号学 燈 社 平 成
︱ 二 年 一 月 号
0
佐藤深雪氏﹁日本文学﹂五六一号平成
︱二年三月
0堀切実氏﹁﹃好色一代男﹄の文体とリズム﹂﹁近世文
芸 研 究 と 評 論
﹂ 五
0
号 平 成︱ 二 年 六 月 号
中 野
敏
70
0小林勇氏﹁國語と國文学﹂平成︱二年七月号
0
上 野 洋 三 氏
﹁ 日 本 文 学 古 典 研 究 9 9 ﹂
﹁文
芸年
鑑﹂
二
00 0
年七月以上七編︑他にも有るのかも知れないが︑現時点で管
見に入った限りをあげた︒みな雑誌のことゆえ︑発行年
時に実際のそれとは若干のずれがあるが︑そこは頓着せ
ぬ事
とす
る︒
谷脇理史氏へ
拙著は八章にわたるが︑その八章全部に言及して戴い
たのは深謝する他はない︒ただし谷脇氏自身に第一章
﹁十八世紀の江戸文化﹂と第三章﹁戯作の確立ー一代
男首章を例にして﹂について詳論し︑その他は簡略にし
たと言われる通り︑拙著に対する批判は右二篇に集中す
るので︑ここでもその部分をとりあげる︒
まず第一章に関して︑全体として氏は﹁十八世紀とい
う括り方﹂﹁雅俗融和﹂﹁上方と江戸の融合﹂﹁享保の改
革と寛政の改革﹂の大方四点に関する疑義を提された︒
結局︑私がこの論で最も訴えたかった事柄︑即ち元禄や 化政期ではなく︑中期こそが江戸的文化の頂点であるとする私の見方に対する谷脇氏の直接的な意見が明示されなかったのは卿か残念だが︵私はそこで従来型をニコプラクダ型︑そして私の考えを一コプラクダ型と比喩した︶︑それでも﹁融和した文芸などにさ程のものは見出し得ないのではないか﹂﹁静的な﹁融和﹂なる言葉は︑すでに頗落を含む場合が多く緊張感を欠く﹂﹁文芸の世界などで成熟は時にパワーを失った段階﹂などという表現がちりばめられている辺り︑氏の主意は大方うかがえるように思う︒しかし﹁緊張感﹂や﹁パワー﹂といったものを第一に評価しようとする見方は︑確かにあって良いものではあろうが︑それを以て文化全般の成熟とする訳には行かぬのは瞭然だろうし︑﹁パワー﹂や﹁緊張感﹂は︑それこそ私に言う青年期の文芸の特徴であり︑そうした部分を特に評価しようという態度こそ︑まさに近代的な把握として私の退けた所以のものでもある︒江戸的に成熟した文化は︑氏の言う﹁静的﹂で﹁すでに︑頗落を含む﹂ものであってもおかしくはないのではないか︒その
ようなものを評価する術を︑近代の我々は殆んど持ち合
わせていなかった所に問題があると思う︒尤も氏ははや
く一九九三年春号の﹁文学﹂誌上で︑私の前著﹃江戸文
化評判記﹄︵中公新書︒これには今回の拙著第一章の主
旨をかなり粗雑に言表した第一章を含む︶の書評を書い
て下さっているが︵以下﹁岡﹂と略称︶︑そこでは私に
言う一コプ︑ニコプラクダ説に正面からつき合って戴い
て︑﹁江戸中期の存在を軽視する常識はもはや消滅して
いる﹂のに何を今更江戸中期を強弁するのかというたし
なめと︑江戸の文芸はジャンルに依って成熟の度合いが
異なるので一概に中期をピークだなどと言えるものでは
なく︑一世紀という幅でとらえること自体無理なので︑
寧ろ四十年単位で区切った方が良いのではとも言われる︒
私は中期の軽視を憤慨しているのではなく︑中期こそが
ピークだと主張しているのである︒その点で従来︑元禄︑
化政期ピーク説をとって来られた方々から︑その明確な
理由を聞きたいので︑まさに谷脇氏にもそれを期待して
いたのだが︑どうもその理由は明示されず︵とは言え︑
前述したパワー︑緊張感などの言薬から察するべしとい
う事でもあろうか︶︑ただ中期をピークとするのは如何 かという答えしか戴けていないように思う︒そしてその理由は﹁ジャソルによって成熟の度合がかなり異なる﹂から︑十八世紀ピーク説があてはまるジャンルと︑そうでないジャソルとが生じていて︑大雑把に十八世紀がピークだなどとはとても言えたものではないという事らしい︒私はこの︑これまでの文学史につきものだったジャソル毎の把握こそが判断を誤まらせる元凶であったとも思っている︒狭いジャンルの流れではなくて︑より広い視座で江戸文化の全体を見た時︑中期を"総体としての成熟期と見定める事が出来ると言いたいのである︒文化の流れはジャソル毎に定まっているのでは決してない︒それぞれの世代毎に複数のジャソルにまたがっている︒西鶴は浮世草子だけを書いているのではないし︑京伝は洒落本だけ書いて居た訳ではなかろう︒ジャソルの意識など︑それこそ近代に入って文学史家が便宜的に定めた部分が多いのではないだろうか︒
十八世紀という括り方は﹁勇まし過ぎ﹂るとする御意
見も率直に言って良く分からない︒私自身︑要するに大
事なのは享保の改革から寛政の改革迄という意味で︑そ
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示したつもりである︒ れが丁度具合よく西暦の十八世紀に牧まるので︑﹁享保から寛政迄﹂というのでは表題にもなり難く︑﹁近世中期﹂では分かり難く︑まだしも十八世紀の方が現代の読者にはわかり易いのでは︑と用いたまでの事で︑苦心の程をお察し頂きたい位のものである︒その旨の説明もしたつもりであり︑谷脇氏自身もその部分をわざわざ括弧つきで引用もされている︒趣旨は明白な筈である︒又︑谷脇氏は﹁一世紀という括り方は乱暴﹂だとして﹁より肌目の細かい区分が必要﹂とされ︑前述した通り﹁ほぼ四十年単位﹂の区切りを提唱されてもいるが︑以前︑どなたかの御論で十年単位の区切りで近世を論じておられたのを見た事もある︒三百年を十年づつというのでは却って区切った事にもなるまいが︑さればとて四十年とする根拠は何なのか︑是非谷脇氏の持論を拝聴したいが︑恐らくは作者の立場での世代の交代を配慮されたものか︒私は作者の立場での世代というより︑文化の波は社会の基盤の変動に応じると思うので︑その意味で享保と寛政の改革政治を区切りとするのが妥当かと︑その理由を明
ついでに言えば︑十年と四十年と では余り違いは無いようにも思えるし︑肌目の細かさを言うのならば十年刻みの方が良く︑いっそ一年刻みでは如何と言いたくもなる︒
﹁雅俗融和﹂の意味が曖昧であり︑又︑﹁融和﹂という
言葉をプラス価値として用いるのが気になると言われ︑
﹁併存︑時に混消しているだけ﹂ではないかとされるが︑
私は近世が近世である限り︑作り手にも受け取り手にも︑
﹁雅﹂の領域と﹁俗﹂の領域は峻別されていて︑しかも
十八世紀のそれは﹁雅﹂の領域の文化の中に﹁俗﹂の属
性としての暖かみが︑﹁俗﹂の領域のそれの中に﹁雅﹂
の属性としての品格がバラソス良く共存する様態を︑
﹁混惰﹂や﹁折衷﹂という言葉の持つマイナスイメージ
を避けて︑より成熟したものというイメージを与える為
に︑﹁雅俗融和﹂というと説明したつもりであり︑更に
このような意味での﹁融和﹂をプラス価値として考える
のが何故不適当なのか私には理解出来ないとしか言い様
がない︒しかし︑この辺りの語彙については︑より適切
な言い廻しがあれば︑それに代えるにやぶさかではない︒
享保と寛政の改革政治の評価について︑氏は弾圧ばか
りを強調した旧説に対する私の批判の部分は承認した上
でとことわって︑それでも﹁勇ましく両改革の有難味に
まで言及されると︑とてもついて行けな﹂いと言われる︒
この点は︑岡の論に詳しく展開されていたので︑そち
らも眺めながら意見を述べたい︒
又︑旧著﹃江戸文化評判記﹄に賜った谷脇氏以外の書
評でも︑やはりこの部分に関する同様の批判が中心だっ
たので︑以下はその方々への返答でもある︒
睾において︑谷脇氏は享保七年の出版取締り令五ケ条
に関する部分で︑特に第四条の作者や版元名を明記する
事を命じた条令は従来の解釈ではひたすら弾圧の為とさ
れていたのだが︑実は版権の確立という方向へ動いた画
期的な条令であって︑この為︑以後の出版界は大発展を
示す事になった︑とする私の解釈について︑従来確かに
弾圧として過剰にとりたてられて来た点は問題だとしな
がらも﹁出版取締り︑統制の強化であることは疑えない﹂
とし︑又﹁この町触れも︑すでに存在していた出版状況
を追認し︑統制し易い方向に整備しているだけ﹂ではな
いかとして︑吉宗をこれで以てやたらと持ち上げるのは 止めた方が宜しいとやんわりと釘を刺しておられる︒今回の書評の中でも︑この部分には﹁享保改革の出版規制が規制としての有効性を持っていた事は確実である﹂とだめ押しの言及も見える︒
第四条についての私の解釈を採り上げて戴いたのは大
変有難いことで︑まさしくこの出版条令の眼目はこの部
分にあったとするのが私の最も言いたい所でもある︒そ
れにつき諸家の御批判を浴びた上で︑今︑私が言いたい
のは︑法令というものは︑当然のこと殆んど凡て規制の
面を持つという事である︒﹁これこれの事はやってはい
けません﹂というのが法律の基本であって︑その意味で
は拡大解釈すれば凡て弾圧へもつなげる事が出来る︒し
かし︑例えば適切な交通規制をも弾圧だと息まく人がい
ない訳ではなかろうが︑それは余程社会性の無い人だと
言わねばなるまい︒肝心なのは︑その法令の︑その時代︑
その社会体制に及ぼす効果であり︑それが結果としてそ
の対象とする社会なり機構なりの秩序の安定と発展を生
み出したとするならば︑その法令を良いものとするのに
は何の躊躇も要らないのではなかろうか︒享保七年の出
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版条令は︑条令として出された以上︑規則・規制として
の有効性を持っていたのは当然であって猶︑それを越え
て︑以後の出版業界の大進展を保証するものとなった事
は︑事実がそれを証して余りある︒それは版元名︑著者
名を明記させる事で︑その出版物に関する版権︵著作権
についてはやや尚早か︶を公認するという効果をもたら
した所にある︒即ち︑出版業が営業として定着する為の
最も基本的な法整備が出来上がったと理解すべきである︒
谷脇氏は幽に於て﹁版権︑著作権の確立は︑享保以前に
あると見ていいようであり︑上方では本屋仲間は︑その
名称は存せずとも︑もはや実態があり︑仲間内の自己規
制も十分行われていたと見てよい﹂と述べられ︑従って
吉宗にその功を帰せしむる必要なし︑と論じられた︒し
かし︑私的レベルでの仲間結成と公的レベルでのそれと
は事柄の重みに雲泥の差が生じる︒まして封建体制の中
でのこと︑仲間結成を公的に義務づけ︑それを基本とし
た関連法令を整備し︑しかも実名明記という極めて具体
的な処置を要求するとなれば︑その実効の度合は遥かに
違ってくるのは目に見えている︒そして何はともあれ︑ その法令を整備すべく号令したのが吉宗であるとすれば︑その功を帰せしむるにはばかる事はあるまい︒だからと言って︑吉宗大明神を祀る社殿を︑鳥居をと言っているのではない︒氏神云々はほんの比喩的表現である︒この問題について︑谷脇氏は﹁やはり取締りは取締りなのである︒それに依って江戸文化のあり方にねじれ︑歪みが生じている事を否定するのは無理であろう﹂と結論づけられる︒重ねていうが︑法律は凡て取締りである︒つまりは結果の良し悪し如何がその法律の評価となろう︒享保の条令は結果として︑以後の出版界の大発展を保証し︑十八世紀の日本を世界でも稀な出版文化の国として育んだ︒それによって︑文化にねじれ︑歪みが生じたと明言されるのであれば︑まずはその実態を明示される必要があろうし︑それと条令との因果関係を示される必要があろう︒そしてその中では︑近代の出版規制云々との比較ではなく︑十八世紀の諸外国の出版文化と比較して︑どの位ねじれ︑歪んだ状況なのか︑その一端でも示して頂ければと切に願うo.
無論︑私自身もこの問題についてはそれなりの意見を
述べる用意はあるが︑幸い谷脇氏は﹁近く享保の出版条
令を再考する機会を持ちたい﹂と記される︒大いに期待
してその機会を埃ちたい︒
とまれ︑吉宗の法律好きの性向はあらゆる点に及び︑
従来の徳治︵倫理︶を旨とした幕府の政治理念に加える
に法治の思想を徹底させるに至った︒この徳治と法治の
精神のバラソスこそが︑以後の一世紀を経て︑寛政の定
信に今一度強調される所迄︑封建体制の安定を支え︑文
化の成熟を約束した最も大きな基盤となったもの︑と私
は考えている︒
寛政の改革の場合︑谷脇氏は岡に於て︑黄表紙︑洒落
本への処分などは︑為政者には文学弾圧などという意識
はかけらもないのでは︑という私の説に対して︑﹁たか
が戯作の世界とは云え︑それによって流れが変ったのは
厳然たる事実である﹂筈で︑余りにも﹁過激﹂な説であ
ると再三にわたって﹁過激﹂さを強調される︒過激な事
を言う当人は︑余りその過激さを意識していないのが普
通なので︑勿論私自身はそれ程過激な説とは思ってもい
ないのだが︑それは扱置き︑谷脇氏が﹁流れが変わった﹂ と言われるのは︑多分︑洒落本が従来のトリビアリズムや︑笑いへの指向を転換させて︑芝居仕立てで情緒本位の真情描写を主とする風に変って行った事と︑黄表紙の作者層が︑武士層から町人層へと一変し︑中味もやはり滑稽性第一とするものから︑敵討ちものや︑教訓ものに変ったことを指してのことであろう︒これらの現象については︑その外部的要因のみで説明しようとすれば︑確かに改革政治による弾圧といいたくなるのも人情というものかも知れぬ︒しかしその場合は︑当時の戯作壇には内部的な行き詰まりや変革への意志は皆無だった事を証明しなければなるまい︒もっともっと︑それ迄の路線で進展︑充実の余地が誰の目にも明らかであったのに︑定信の号令一下︑それがみるみるしぽんでしまって︑予期せぬつまらぬ方向へ変らざるを得なかったというのであれば︑これを弾圧の一語で批難するのは誠に妥当な所かと私でさえ思うに吝かではないが︑当時の状況はとてもそうは思えないこと︑これも拙著にしばしば述べた通りである︒改めて述べるには及ぶまいが成り行き上述べる
事にする︒洒落本の内容や方向性に関しては︑既に天明
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末年の﹃田舎芝居﹄序に明瞭な内部批判があり︑質の良
い作者ならば誰しも首肯出来た筈である︒京伝の筆禍を
蒙った当の三部作は︑その批判を受けて今後を模索した
現われの︱つでもあろう︒黄表紙の作者の交代は︑これ
又鋭敏なセソスの持ち主であればあるほど新しさの量産
には耐えられなくなっていたまさにその時機であり︑殆
んど重なった存在だった狂歌作者などは︑より早く狂歌
の大衆化路線にあきあきして︑第一線からの撤退を公言
している程である︒要するに寛政のこの時点において既
に内部的な変化の要因は満ち溢れていた︒何れにせよ︑
洒落本︑黄表紙の世界は︑従来の方向性を以てしては︑
最早それ以上の進展は望めない所迄出来上ってしまって
いたのである︒定信の﹁侍は侍らしく﹂というニ︱日は将
にそうした時に発せられた︒要するに四民の上位に位置
する者に対し︑享保の倫理性をもう一度取り戻すべく号
令され︑号令された側も︑この時点では尚︑それを受容
れる倫理性を辛うじて忘れてはいなかった︑と言うのが
時代に即して眺めた時の正解に近かろうかと私には思え
る︒但し︑残念乍らと言うべきか当然のことと言うべき か︑この寛政の改革時の士分の見せた倫理性のバラソスは殆んどその最後の発現であったと言ってもよい︒享保に始まる成熟の時代が寛政に閉じざるを得ないのはまさにこの点にある︒それは封建体制の中での徳治と法治のバラソスの取れた政治体制の始点と終点を意味し︑寛政以後はそのバラソスの崩れを増大させるばかりで︑やがては封建体制そのものの崩壊へと向わざるを得なかったのである︒定信にとっての文学︑文芸とは︑まずは雅文芸であり︑それは奨励の対象ではあっても︑弾圧など考えた事もなかった筈だし︑洒落本や黄表紙が長編化して︑人情本︑合巻へ向かったのは︑武士作家が後退して︑町人の職業作家が増えた為︑毎年︑毎年の新趣向に苦しむのを避ける為の余儀ない手段であったと考える方がより実際に即していようが︑この辺りは今回は最早蛇足︑谷脇氏の拙著第一章への批判に対する私の意見はこれで終える事にしよう︒・
次に拙著第一二章﹁戯作の確立﹂に対する氏の批判をと
り上げる︒何しろ西鶴に関しては谷脇氏は専家の立場︑
私などは素人︑従って﹃一代男﹄の首章をとり上げて西
鶴戯作者説を展開するに当って︑まず心懸けたのは︑谷
脇西鶴をどのように位置づけるかという事だった︒平た
く言えば谷脇氏の胸を借りたのである︒その結果︑谷脇
氏が﹃一代男﹄を戯作として読む事を提唱された最初の︑
というのは卿か語弊があるとすれば︑恐らく最新の論者
であり︑私などが﹃一代男﹄を読んで感じる戯作性の最
も徹底した指摘を行っている論者であることを確信した︒
然るに︑何故かそれを﹁戯作﹂と称する事を極めて注意
深く避けておられる様に見えた︒それはどうも氏の﹁戯
作﹂観というものが問題であるように思えた︒﹁戯作﹂
ならば︑氏と私の先程の立場は逆転して︑私の謂わば専
門とする所︑そこで氏の三十年前の戯作観に少々の訂正
を促して︑大いに﹁西鶴戯作者説﹂に袈成して貰うつも
りの拙論で︑今回の氏の書評でもこの部分に最も期待し
たのだが︑どうもその辺りの通じが悪かったらしく︑氏
の賛意を得られないばかりか︑突込んだ批判もなく︑た
だ﹁仮名草子以下を﹁戯作﹂と称してみてもさしたる新
たな意味が生じるとも思われない︒レッテルの貼り替え
はさして中味の把握に影響を与えない﹂﹁﹃一代男﹄を戯 作と認定︑定位する事が果してどの程度の意味を持ち得るのか︑という根本的な疑問を提示するのみに止め﹂ると言われるのみ︒卿かならず拍子抜けしたが︑これも最後に︑中野の挑発に乗って︑﹃一代男﹄を再考する機会を持ちたい︑とあるので︑それに期待を継ぐ事にして︑唯一﹁根本的な疑問﹂として言及された前掲の﹁レッテル貼替無用論﹂に関する意見を述べておきたい︒
私の主意は︑江戸期の文芸の内︑通俗散文文芸の総称
として﹁仮名草子﹂以下︑﹁合巻﹂までを﹁戯作﹂と呼
ぶ事にしては如何か︑というものである︒無論︑西鶴も
その中間に現われた戯作者の一人として扱う︒全体を
﹁戯作﹂として眺める時︑それぞれのジャソルや作家や
作品は︑その﹁戯作性﹂の内容とその有無︑深浅高低を
観測する事によって定位され︑評価される事になる︒西
鶴の場合も﹁戯作﹂全体の流れの中に位置づけられて︑
その観点からの到達点や深浅の度合いを観測され論じら
れる事になろう︒そうすれば奇妙に近代的な立場からの
み評価されたり︑超倫理や非日常︑反価値と言った語彙
によって生み出される価値づけとは違った評価も生じて
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くるだろうし︑何よりもまず︑近世という時代の総体の
中で︑過不足なく位置づけられた西鶴像が結ばれるので
はないか︒西鶴のみならず︑仮名草子も浮世草子も一度
そうした観点を瑯入する事で︑新しく見えてくる部分は
必ずあるに違いない︒それは単なるレッテル貼り替えと
いったレベルではない事は言う迄もあるまい︒勿論その
場合最も重要なのは﹁戯作性﹂なるものの内実であり考
察である︒谷脇氏は中野のいう事を認める為には﹁戯作﹂
の定義を少し変更せざるを得ないとして︑その不当を言
われるが︑当然仮名草子からを戯作という為にはその戯
作の意味が従来通りであっていい筈はないのである︒私
自身そのつもりで︑拙著第三章で︑従来の所謂﹁戯作﹂
観とは趣きの違うものとしてその一端を述べ`て置いたし︑
そこで氏の﹁戯作観﹂が︑従来説かれて来た享保以後の
閉塞的な状況の中での居直りや︑ニヒルといった把え方
に終始している事についての批判も述べておいたのだが︑
その点に関する谷脇氏の御意見は︑今回私が引用した氏
の戯作観なるものを三十年前のものと迷惑がり乍らも︑
その戯作観を変更する必要はないらしく︑残念乍ら何ら 触れられてはいなかった︒その代り︑﹁中野氏にひとつ﹁一代男論﹂を御執筆いただくしかない﹂と︑その観点からの﹁一代男論﹂を︑首章だけというケチな事をせず︑全体の論を書いたらどうかという挑発をいただいた︒確かにその通りなので是非この挑発には乗って見たいと思
う︒
尚﹁一代男論﹂に関しては後掲の堀切氏の論に数多く
言及して戴いているので詳しくはそちらで触れる事にす
る︒又私なりの﹁戯作﹂の新しい意味づけもそこで改め
て述べてみよう︒
以上で谷脇氏への返答を終るが︑最後に一っ︑氏の岡
の論の中に︑より根本的な問題が提示されていて︑これ
は他の評者の二︑三の方の疑義にも現わされている所な
ので︑やや気恥かしい行文になる事を敢えて承知の上で
総括してここに記す︒
それは︑江戸に即して考える︑という私の態度に関す
るもので︑﹁余りに当り前の事ながら現代を生きる氏
︵中野︶が江戸人になり切れる筈はない﹂という御指摘︑
これは後掲する数氏の言説中にある﹁現代的観点﹂︵西
島孜哉氏︶︑或いは﹁政治性﹂︵佐藤深雪氏︶︑或いは︑
﹁今日的評価﹂︵小林氏︶などいうものと通じ合う文脈で
もあろう︒お答えしたい︒如何にも﹁当り前﹂である︒
だからこそ︑江戸に即し︑江戸人になろうとする意志と
行為が必要なのではないか︒所詮我々は現代人であるか
ら︑江戸に即して考える事など出来る筈もないと考えた
時︑まともな江戸研究は放榔されざるを得ない︒﹁現代
的観点﹂というような所に落ち着いてしまうのを批判す
る所から拙著は出発したつもりなのである︒どんなにあ
がいても努力しても江戸人にはなり切れないからこそ︑
一歩でもそれに近づくことを求める立場こそが︑近世研
究に志した者に課されたものと私は理解しているつもり
である︒しかも近世という時代はそれ以前の時代の研究
と比べてその意味では極めて有利に出来ている︒つまり
近世の文物そのものが︑謂わば物理的な近世が大量に残
されているのである︒芭蕉︑西鶴︑秋成︑馬琴︑その自
筆の手紙が︑原稿が︑或いは刊行された板本が︑初刷り
から︑後刷り︑再版︑三版まで︑又その周辺の︑西鶴が
読み馬翠が目にした文物そのものが︑とにかく残るべき ものは大概残り︑残らずとものものは大概消えてくれている︒近世以前の無さ過ぎと︑近世以降の有り過ぎの中間で︑まことに都合よく存在するのが近世の文物であり文献である︒それが︑何時目の前に現われるのか︑それは明日かも知れぬし︑三十年後かも知れぬ︑或いは私の死後の場合であれ︑それはどうでも良いので︑誰も自分一人で凡てを明らかにしようなどと考える事はない︒最善を尽くした上で次の世代に期待すれば良いだけの話であ
る︒
﹃一代男﹄の初印本を手に載せれば︑紛れもなく天和
二年が掌上に在るのである︒これをとりあえず︑江戸人
になる︑と言わずして何と言うべきなのか︒無論︑初印
本﹃一代男﹄を掌上に置いて︑扱︑そこから過不足ない
天和二年の江戸を看取する為には︑それなりの習錬が必
要となろう︒その習練の度合いは深浅︑人によっては様々
であろうが︑あとは志如何の問題︑ともかく努める以外
はあり得ないと思う︒ここまで来て尚︑﹁所詮我々は⁝
⁝⁝﹂と考える人は江戸研究にとって︑それこそ所詮縁
無き衆生と言わざるを得まい︒
80
尤も谷脇氏の言う所は︑以上の様な事をふまえて︑中
野の場合はまだ習練の度合いが足りぬ︑との批判である
のならば︑誠にごもっとも︑と言わざるを得まい︒
上野洋三氏へ
上野氏には二度に亘って過褒としか言い様のない書評
を戴いているが︑﹁江戸文学﹂のそれにおいて︑拙著に
欠けているものとして︑日に﹁十八世紀の宮廷が江戸に
対して持った意味﹂︑即ち﹁天皇制﹂というものが︑こ
の頃︑﹁文芸﹂﹁文化﹂とどの様な関係にあったのかにつ
いての示唆がない︑口に和歌︑連歌︑俳諧︑という﹁我
が国固有の韻文については︑少しつれな過ぎる﹂と苦言
を呈された︒まことにニ︱︱口もない︒この内︑俳諧につい
てはまだしも若干の意見︵例えば私には芭蕉の句より蕪
村の句の方が︑或いは十七世紀のそれより十八世紀のそ
れの方がより近世的に成熟している様に思える︑など︶
は有るのだが︑十八世紀の歌壇の動向については︑上方
宮廷歌壇と︑江戸武家歌壇の在り様について到底まとまっ
た見解を出し得るような状況ではなかったし︑今も猶︑ 全く自信はない︒天皇制に関しても︑国学以前の和学と儒学の関わりの面から︑松宮観山や篠崎東海︑山県大弐︑といった人物伝の範疇からの推論︑宝暦・明和両事件の江戸文壇に及ぼした影響︑程度の用意しか無くて︑まとまりのある論とはなし得なかった︒結局︑これらの点の根幹に関わるものとして︑まずは狙裸学の位置づけを明確にさせておきたかったのが拙著におけるぎりぎりの線だった︒尚︑それにつけて反省しきりなのは︑歌舞伎・浄瑠璃に関する私の知見の乏しさである︒この面に関しては如何なる批判も甘んじて受ける以外はない︒
西島孜哉氏へ
短文の中に極めて直接的に拙著への疑義も提されてい
て有難いが︑その疑義は口に﹁雅俗融和﹂は果して可能
か︑又︑そこから有価値的なものが生じ得るのか︑混合
や︑折衷の形で本質的に反発し合うのが本来ではないか︑
口に近世からの観点のみに重きを置いていて︑現代的観
点や︑今日に通じる評価に欠ける︑というもの︒何れも
既に︑谷脇氏への答えの中に触れたつもりゆえ︑饒言を
正匝に言って︑この書評には卿か困惑させられると共 四 避ける︒ただ︑﹁今日に通じる評価﹂︑﹁現代的観点﹂に欠けるとされる点についてのみニ︱︱口する︒現代人の我々が江戸研究に志した時︑江戸に即して︑江戸の姿をありの儘に見つめる事こそが︑すぐれて現代的観点を持ち得
ることになる筈ではないのか︒
まさか評者も︑現代のトピックス的な新理論を当て嵌
めて見るのが現代的観点だなどと考えておられるのでは
あるまい︒
今一っ︑前期の西鶴・芭蕉︑後期の三馬・馬琴より︑
中期の秋成や南畝を雅俗融和の観点から︑より評価しよ
うとしているように見えるのは誤解を招く︑とあるが︑
しようとしているように見えるのではなくて︑まさに評
価しているのである︒江戸的文化とはそのようなもので
ある筈だと述べているのであって︑その上で近代人の感
覚として西鶴︑芭蕉︑三馬︑馬琴を評価する事とは何等
障りはない筈だと思うが如何か︒
佐藤深雪氏へ に︑おかしくもあったが︑事実に反する部分や誤解などは改めておかねばなるまい︒
のっけから︑拙論に頻出するという十一の語彙を︑以
前の拙論の一っと対照して︑その出現率の増減なるもの
を計算して戴いている︒こんなに詳しく読んで戴いた事
に対しては御礼申し上げるほかないが︑そこから出され
た結論が︑拙著における﹁﹁実証主義﹂の後退﹂であり
﹁権威﹂の倍増︑であり︑その原因は﹁文部省における
九州大学文学部の地位向上﹂か﹁近世文学会における氏
︵中野︶の業績評価の上昇﹂かとされるに至っては︑何
とも返答に窮するのみ︒もしや去年から生やし始めたこ
の髭が︑かかる報いの種かなど恐縮させられるのだが︑
或いは論の枕か︑つかみの部分の冗談としても︑氏は
﹁権威﹂という語彙
が余程お好きか︑或いは何らかの思
い入れがあられるのでもあろう︒
本論に入って︑まず氏は私の選び取ったスタソスなる
ものを規定して﹁雅俗融和の文化は根本的に政治とは何
の関係もないという政治性の消去﹂﹁政治とは根本的に
何の関わりもない雅俗融和の文化﹂﹁念入りに政治色を
82
払拭﹂等々︑誠に念入りに政治性︑政治色の無さを批判
される︒これを理解するのも︑私にとっては頭痛の種で︑
私は時代の文芸文化は︑その社会体制の産物であり︑そ
の意味で政治は大いに関係があると言って来た︒例えば︑
吉宗による享保の治が︑まさに以後一世紀の成熟を保証
したのだという事を︑寧ろ必要以上に強調したつもりな
のだが︒要するに氏の言われる﹁政治﹂とは﹁悪の象徴
. . .
としての封建性﹂という意味であり︑そう把えて江戸時
代を断罪しなければ︑政治性に配慮し︑十分な政治色を
もってものを考えた事にはならない︑という御意見なの
だろうか︒﹁歴史は必然か﹂という論議はさておき︑江
戸時代は封建性の時代なのであり︑その真只中で育まれ
た文化なのである︒私は︑十八世紀はその封建性の中で
まさに封建的な社会の安定の時代だったと述べているの
であり︑それを近代の側から﹁支配﹂だ﹁弾圧﹂だ︑だ
から﹁悪﹂だと叫んでばかりいては︑何も見えないので
はないかと述べているつもりなのである︒
雅俗の範疇についての把握を中村幸彦氏に拠ったとし
た事に就いても︑氏は中村雅俗論は文芸思潮を考える上 での意味ある﹁文学論﹂だった筈なのに︑中野はそれを﹁文化を認定するための普遍的規準﹂に読み替えてしまった︒中野は中村学を継承すべき立場にあり乍ら︑その継承の仕方には疑問が残る﹂と不可解な忠告がある︒﹁雅俗論﹂は扱置き︑﹁雅と俗﹂を文化の範疇として考えるのが私の勝手な読み替えになるのかどうかは大方の研究者の御判断にお任せしておけばよかろうが︑一方︑﹁文学論﹂としての﹁雅俗論﹂の重要性も︑私は決してないがしろにしたつもりはなく︑その根本にあるものとして︑狙裸学の位置づけに気を配ったつもりだったが︑たまたま私が狙裸学派と京個の関係を︑いわば関西学派と関東学派との対立という把握で示したのを︑そのような矮小化は怪しからんと言われるのは︑それこそ問題そのものを矮小化して把えておられるのではなかろうか︒もっとも︑氏の行文を見ると︑前述した文部省と九大だとか︑近世文学会と私だとか︑或いは︑中村学の正統な継承者としての﹁江戸時代文学誌﹂と︑それを潰した﹁雅俗﹂の発刊だとか︑即ち︑その次元の︑しかもかなりひどい
臆測と誤解としか言いようのない話柄を敢えて持ち出し
ておられるので︑私の前記のような祖裸学派と京儒の関
係の記述もそのレベルの所で御考えになれば︑面白がっ
て戴けたのではなかろうか︒それは扱おき︑拙著︑第七
章︑﹁秋成の文学観﹂において︑秋成の位置づけを当代
思潮の中で十分説明出来るとした事を氏は﹁中村氏が
.
.
.
.
.
.
あれ程大切に論じて来た秋成を︑これ程取るに足らない
ものとして論じるとは﹂と大上段で憤っておられるのは︑
特に腑に落ちない所である︒
秋成が当代の先端的な思潮を逸早く消化して自説に取
り込んだ事の実証が︑どうして﹁取るに足らないものと
して論じ﹂た事になるのだろうか︒寧ろ︑この様な秋成
の姿勢は﹁現在の視点なくして歴史認識はあり得ない﹂
と喝破される氏の一番好ましき秋成像の描出ではなかろ
うか︒しかも﹁中村氏があれ程大切に論じた秋成を云々﹂
というフレーズは到底︑当代の論客を以って自認されて
いるらしい氏に応わしい文章とは思えない︒こんな調子
で自説の継承を云々されることは︑最も唾棄すべきこと
と考えておられたのが中村先生であったことだけは︑是
非記しておきたい︒恐らく︑筆のすべりでは︑と解釈し 結論として氏は︑私の姿勢を︑ドイツ︑ロマソ主義に
似て非なるものとして﹁玩物喪志のロマソ主義﹂と命名
して下さった︒有難くも迷惑なことではある︒
とまれ︑拙著に対する氏の批判の根幹は︑私の﹁近世
に即して﹂という姿勢が﹁我々の現在については一切口
をつぐみ︑語ろうとはしない﹂ものであると断罪し︑
﹁そもそも︑現在の視点なくして歴史認識はあり得ない﹂
ので︑結局﹁十八世紀という時代を磨き上げ︑タイムカ
プセルに牧め﹂てすっかり血の気の通わぬ玩物に仕立て
上げ︑好事家向きの陳列に供するものにしてしまったと
いう事になろうか︒これは前述した谷脇氏︑西島氏の批
判と通底する所もあるので︑私なりの答えは既に記した
通りであり︑もはや付け加える必要はあるまい︒
私は
︑
秋成なら秋成の等身大の姿を提示する事をつとめとする
ものであり︑現在の視点と称するプリズムで恣に︑矮小︑
或いは拡大するが如きは全く興味はない︒
過去の一時代の文芸の研究に従事する者はその時代に
即した理解を心懸ける事によってのみ︑初めて現在に関 ておこうか︒
84
谷脇氏の書評では︑敢えて触れられなかった部分を堀
切氏には真正面から取り上げて戴いた︒誠に有難い︒但
し︑氏の論はあく迄︑正面切った﹃一代男﹄の文体論で
あって拙著批判を主題とするものではない︒そこでは特
に﹁﹃一代男﹄の文章︑表現のおもしろさ﹂の解明を行
うことを主題として︑それを︑﹁わざとらしさ﹂と﹁ま
ことしやかさ﹂の間にあるもの︑更にいえば﹁表面的に
は"まことしやかさを装った語りの姿勢にその基本的
なスタイルがあ﹂り︑それは確かに一般的にいう近世戯
作文体の特色でもあるが︑尚﹁西鶴作品戯作説﹂﹁一代
男戯作説﹂という所までの判定は慎重でなければならぬ
五 堀 切 実 氏 へ
わる事が出来る︒即ち︑それが︑望まれる所の︑私の現
代的視点であり︑今日的評価に他ならないと思うばかり
である︒それにしてもこの程度の理解は︑古典研究の領
域ではとっくに了解されていた事ではなかっただろうか︒
とま
れ近
世と
近代
の"
断絶
"と
"連
続は
︑そ
のよ
うな
形
で三百年を後れて生きる私に課せられた問題であろう︒ と︑確かに堀切氏の言説は慎重である︒
以下︑氏の論は︑具体的な首章の本文に密着して︑そ
の﹁わざとらしさ﹂と﹁まことしやかさ﹂を分析するが︑
この辺りから谷脇氏と私の論にふれ︑谷脇氏の例の﹁反
価値的﹂や︑﹁倫理の超越者﹂云々の表現に対しては︑
﹁多少行き過ぎ﹂﹁論理の飛躍﹂などの批判を加えつつも︑
拙論が西鶴作品を戯作的範疇に組み入れる方向で論じる
のに対しては︑﹁いっそう疑義を感じ﹂るとする︒そし
てその理由として世之介の行動は﹁単なる︿わざとらし
さ﹀ではなく﹂﹁単なる︿はぐらかし﹀の表現ではない﹂
ので﹁浮世の鋭い観察者としての西鶴の批評精神が生き
ている事を見逃がしてはならないので﹂あって﹁西鶴は
勿論︑無思想の工ソターティナーではない﹂とされる︒
ここに到れば︑私はやはり谷脇氏への返答でもそうであっ
た如く︑﹁戯作﹂とは何かについて改めて論じなければ
ならなくなってくる︒そもそも﹁戯作﹂をこのようにし
か把えられない所に問題の喰い違いが生じてくるように
思う︒私の考える﹁戯作﹂はまず単なる﹁わざとらしさ﹂
や単なる﹁はぐらかし﹂のみである訳はないので︑極め
て意図的に行われた﹁わざとらしさ﹂や﹁はぐらかし﹂
である︒また︑戯作者はもちろん無思想のエソタティナー
である筈はない︒封建思想を受容れるのは︑即無思想で
あるという立場があり得るとすれば別だが︒そして︑又
西鶴を前述のような形でしか評価できない所にいわゆる
近代批評の限界があるとも言えよう︒
次に世之介七オのエピソードをしめくくる母親の﹁御
よろこびのはじめ﹂という反応について︑谷脇氏の浮世
の倫理の超越という論に対し︑七オで性を意識するのは
倫理に即して当然であるとする私の説を挙げて︑堀切氏
は﹁浮世の倫理と全く合致したものであるとすると︑
﹃一代男﹄の世界は平凡なものでしかなくな﹂ると批判
されるが︑浮世の倫理と合致したものを面白く書くのが
戯作者の手腕であり︑それは平凡なものである筈はない
のである︒そしてここでも氏は﹃一代男﹄の世界は平凡
なものであってはいけないし︑平凡なものである筈がな
い︑だから﹁戯作﹂ではない︑という前提に立ってしまっ
ているようにも見えるのだが︒
更に氏は︑世之介七オのエピソードは確かに戯作的な 誇張表現で笑いを誘うが︑それは﹁西鶴のさまざまな人間観察に基づくリアリティが潜んでい﹂て︑﹁ただ笑い飛ばしてしまう事の出来ない真実味が生じてくる﹂とい
う︒﹁人間性の真実﹂というフレーズは︑従来の西鶴論
のどこにでも出て来るものだが︑それは大概︑所謂﹁戯
作性﹂とは対極的なものとして理解されて来た︒しかし︑
私にいう﹁戯作性﹂との間にどれほどの径庭があるのだ
ろう
か︒
﹁戯作﹂の内容の二本柱として︑私はしばしば﹁笑い﹂
と﹁教訓﹂の二つを示して来た︒それに創作意識として
の﹁新しさ﹂の追求を加えれば大方は説明が出来ると思
うが︑今暫く内容面だけに限っても︑﹁笑い﹂は説明不
必要であろうが︑﹁教訓﹂は例えば︑ある時は﹁談理﹂
とも表現された︑世俗的な﹁倫理性﹂︑もう少し気張っ
て﹁思想性﹂と表現してもよかろう︒つまり﹁戯作﹂の
出発点は疑いなく︑諧誹性と教訓性の二つから成り立ち︑
それぞれが微妙にからみ合い︑作品を成り立たせている︒
その中でも︑又教訓性の強いもの︑滑稽性の強いものが
あり︑やがて教訓の為の笑い︑手段としての笑いから︑
86
次第に笑いの為の笑い︑目的としての笑いへと純化して
行く︒従来︑所謂﹁戯作﹂として考えられたのは︑主と
してこの笑いに純化した段階︑もしくはその傾向の強い
ものを指していたと思う︒しかし︑﹁教訓性﹂は常に戯
作の中に見え隠れしながら存在する︒それは文字通りの
教訓から︑世俗的な倫理性︑思想性迄︑様々な姿勢をと
る︒かつて︑西鶴における談理の姿勢︑を説かれた中村
幸彦氏の有名な論がある︵﹁西鶴の創作意識とその推移﹂
著述集巻五︶︒その西鶴の﹁談理﹂とは︑﹃見聞談叢﹄に
梅宇の言う﹁人情にさとく生れつきたるものなり︑老荘
とも見えず︑別種のいき形とみゆ﹂であり︑平たく言え
ば世俗的な倫理性に他ならない︒それと︑これ迄の西鶴
論に頻出した﹁人間性の真実﹂というものと果してどれ
ほどの径庭があろうか︑というのが私の言いたい事柄の
根本である︒そして︑そこに大差なしと認められた時に
は︑西鶴と戯作者との間に差を見出すことの方が余程難
かしかろう︒堀切氏や谷脇氏の御意見を是非お伺いした
い所
であ
る︒
続いて堀切氏は西鶴の文体には随所︑折々に︑戯作的 表現が表われる事を充分首肯出来るとした上で︑﹃一代男﹄では特に首章と終章に著しいとして具体例を列挙されるが︑全体的にはそれほど頻出するものではないと断って︑以下その首章と終章を除いた他の章段から︑これも具体例を列挙され︑これら以外では極端な誇張のレトリックはそれほど見受けられないから﹁一代男の文体の全てを︑︿わざとらしさ﹀のレトリックで︑戯作調のものとしてみることには︑やはり無理がある︒﹂と結論づけられる︒ところがここで他章から抜き出され︑列挙された文例は十︱︱一例に及んでいる︒それも言われる通り極端な誇張のレトリックによる文体ばかりである︒私などこれだけあれば十分に全体を戯作的と称して差し支えないように思うのだが︒しかもその後に堀切氏は尚︑パロディ︑見立︑茶化しなど︑誇張表現以外の戯作的表現の箇所も幾つも指摘しておられるのであれば︑何故﹃一代男﹄の表現を戯作調のものとして見る事に無理があるのか︑私としては理解に苦しまざるを得ない︒その理由を堀切氏の文中に探してみると次のような所が目に入る︒即ち︑
﹁笑い﹂の背後には︑なんらかの実が汲みとられ﹂
﹁緊密な叙述とリアルな描写がむしろ基調となってい﹂
て﹁戯作調の筆致が全体を支配している訳ではなく﹂
﹁真情を吐露した語りの文体﹂や﹁抒情的な文体﹂﹁情趣
深い文体﹂や﹁雅の文体﹂と﹁戯文調の文脈とが組み合
わせられ︑思い切った変化と対照によって叙述が展開さ
れている所に﹃一代男﹄の特色がある﹂という事らしい︒
要するに﹃一代男﹄は全体が戯作調で書かれているので
はなく︑様々な文体が組み合わせられているのが特色な
ので︑戯作とは言えない︑と言う事になろう︒とすれば︑
氏の所謂﹁戯作﹂とは首尾一貫して戯文調で塗り固めら
れたものでなければならないらしい︒私見ではそんな乎
板な戯作調はそれこそ下手の見本にはなり得ても︑上手
の作とはとても言い難いので︑抒情性や叙事の文章と笑
いを織りまぜてこそ戯作調が生きてくることなど︑江戸
の作者は先刻御承知だった筈である︒もっとも戯作全盛
期の狂文集や︑見立絵本︑或いは笑話本などの中には徹
頭徹尾滑稽表現一本で通すものもあるにはあるが︑それ
は始めから意図的にそうした趣向立てをした迄の作であっ
て︑それが一般ではあり得ない︒西鶴が笑いの背後にし のばせた実や︑真情吐露の文章などという把え方で示された部分も︑前述した如く﹁世俗的な倫理性﹂から一歩も出ているものではないし︑それは︑その儘西鶴の﹁談理﹂的︑﹁教訓﹂的な姿勢から璃かれた文章となっている場合が一般であろう︒そしてこれも前述した通り︑江戸の俗的散文文芸の凡てを﹁戯作﹂として見た時︑西鶴の存在はその生成の一過程に当る文章︑敢えて言えば戯作の青年期の終りに突出した形で現われた異オの文章と
位置づけられるのではなかろうか︒
堀切氏の論はこの後︑更に精緻な西鶴文体のリズム論
といった方向に展開するが︑それはもはや拙著との関わ
りからははずれる︒
結局氏は西鶴文体の分析を通じて︑戯作調の文体は頻
出するが︑決してそれだけでなく︑従って︑西鶴戯作者
説︑一代男戯作説は飛躍しすぎである︑と結論づけられ
たようである︒
これは︑取りも直さず氏の﹁戯作﹂観そのものが︑単
なる誇張表現といった程度のものでしかなく︑西鶴はそ
うではなくてより高級な作者なのだとする従来の西鶴研
88
ここ迄の諸氏の御批判に答えながら気附いたのは︑拙
著にいう﹁戯作﹂と評者のそれとの間に︑かなりの喰い
違いがあるように思えることであった︒諸氏は従来通り
近世後期の散文小説類を主とした表現第一主義的な内容
のそれをそのまま宛てはめようとし︑私は敢えて通説に
従わず︑より範囲を拡げて近世期全般に亘る俗文芸の領
域をそれに当てようと試みた︒当然私の場合︑内容面に
おいても︑通説とは若干異なるものとならざるを得ない 六
小 林 勇 氏 へ
究者の呪縛から抜け出せない儘での立論である所に帰着
しよう︒無論︑谷脇氏︑堀切氏ともに従来の所見を変え
る必要はない︑とされるのもまた一見識ではあろうが︑
折角の討論の機を得た事でもあり︑改めて一考を御願い
した
い︒
私見では︑西鶴作品は︑少なくとも﹃一代男﹄は谷脇
氏によって内容的に︑堀切氏によって文章的に︑見事に
﹁戯作﹂であることを証明され尽したようにしか思えな
いの
だが
︒
ので︑その事については︑第一︳一章﹁戯作の範囲﹂に述べ
たつもりだったが︑うまく理解して戴けなかった様であ
る︒その上拙著第五章に﹁文人と前期戯作﹂という私自
身︑通説に沿った理解をしていた頃の旧作を牧めた為︑
出来るだけ内部訂正は施したのだが︑やはり混乱を招い
てしまったようである︒
但し︑小林氏は戯作を専門とされる新進の研究者であ
る︒その意味で右の様な部分にも十分な御批判が戴ける
ものと期待したが︑果して氏の書評は特に︑第一章﹁十
八世紀の江戸文化﹂と︑第三章﹁戯作の範囲﹂の二章に
特に筆を割いて戴けたのは何よりだった︒
第一章に関する氏の批判は︑まずこの時代を論じて田
沼に筆を及ぼすことが極端に少ないのは何故かという一
点に絞られる︒
﹁政治史上の田沼時代を無視﹂﹁かくも田沼の存在を軽
視﹂云々といった表現にそれは示されている︒そして氏
の付度される理由として︑それは田沼の存在が﹁非封建
的﹂であるが故に︑当代の﹁公式見解﹂に即して理解す
る立場をとれば軽視せざるを得ないのであろうが︑﹁故
らに近世の公的な価値観に従えばこうなるという点を強
調して﹂いるだけで︑今日的な評価に欠けるとし︑安永︑
天明期の全盛期の戯作はまさに田沼時代の申し子的存在
であるだろうに﹁それらをどのように評価されるのかが
今︱つ判然としない﹂し︑それどころか﹁寧ろ否定的な
ものが感じられる﹂のはどうしたことか︑という風に要
約出来よう︒
田沼軽視の理由に関しては後述する︒﹁公・私﹂はあ
<迄も公を優先させるのが封建社会の当然であり︑従っ
て近世に即して考える事を第一義とする拙著においては︑
公的な価値観を以て計量する事を第一に心懸けている︒
これは江戸人の最も理解し易い価値感であったと信ずる
し︑特に十八世紀の江戸人は︑それが私のいう如く︑最
も江戸的に成熟した時代であったとするならば︑その江
戸人は尚更の事この考えに異論はなかった筈である︒
﹁雅・俗﹂に関してもそうであった︒江戸が江戸である
限り︑高雅︑低俗の価値感にゆるぎはなかった筈である︒
若し︑﹁公・私﹂︑﹁雅・俗﹂の価値に逆転が生じるよう
ならば︑もはやそれは近世ではあり得ないし︑封建制で もあり得ない︒従って江戸人はその価値の序列には何ら変更の必要性は認めず︑その儘で︑それぞれの領域にそれぞれに力を尽して疑う所はなかったと思う︒従って氏の言われる如く︑﹁当時の知識人たちは︑それ︵戯作︶を私的領域において面白がったの﹂はまさに事実だとしても︑明確にどちらを第一義とすべきかと問われれば︑躊躇なく公的領域︑雅領域を第一義とすると答えたに違いないのである︒少くとも寛政の改革の知識人まではそうであり得た︒だからこそ私は十八世紀を近世的な成熟の時代と呼び︑寛政の改革をその終点と見定めたのでもある︒氏の言に﹁著者︵中野︶の評価では︑さすがに雅人の手になるものは俗文学でも気品があるという程度のものでしかないことになる︒無論これが著者の本音であれば﹁雅と俗の成熟﹂を以て本書の副題とされる故もない﹂とあるが︑これはまさしく私の本音である︒﹁⁝⁝程度のものでしかない﹂と言われるのは小林氏の評価であろうが︑どうしてこれが︑﹁程度のものでしかない﹂ことになるのだろうか︒私は俗文学に対する最高の讃辞
としてこれを理解している︒私自身は︑﹃戯作研究﹄と
90
いう著書を主著と自認する戯作研究者のささやかな一人
でもあるが︑近世の俗文芸である戯作は︑江戸人の価値
感に沿う限り︑雅文芸の下位にあるものとしての認識を
改めたことは一度もない︒無論︑西鶴を戯作に含めるこ
とを認めて戴いた場合もそれは変らないし︑そしてそれ
が研究の邪魔になった覚えも全くない︒またそのような
認識で戯作の面白さが損われる事も決してなかった事は︑
これ迄公にして来た私の著述の凡てに表して来たつもり
である︒仮りに︑もし氏が﹁そう考えるのでは戯作の面
白さが失なわれる﹂と言われるのであれば︑或いは又︑
そう考えるのでは︑戯作研究には身が入らないと思われ
るのであれば︑私とは戯作研究の道筋を根本的に違える
もの︑としか答えようがない︒
氏の言の中にはやはり﹁今日的評価﹂という例の文句
もあるが︑それについての私の考えは既に述べ尽くした
よう
に思
う︒
ここ迄︑﹁公・私﹂や︑﹁雅・俗﹂の見解についてのお
答えばかりになってしまったが︑田沼に関わらせて言え
ば︑安永︑天明期の戯作の全盛が︑田沼の重商主義に根 ざす一面があった事は疑えないが︑それを余りに過大に評価することには疑問を持つものである︒やはり︑近世的な文化成熟の大きなきっかけになったのは︑吉宗の享保の治と︑狙裸学の登場であり︑田沼の政治は︑文化の成熟には経済的浪費を不可欠とするという意味で︑その趨勢に一しきり煽りを加えたものと理解する︒その存在は﹁非封建的﹂ゆえに評価される︑と言うには当るまい︒田沼自身は封建制を最大限に利用して︑その中で経済成長に重きを置き気を配った結果︑富の集中︑そして倫理的頗廃という︑封建政治の最も忌むべき部分をさらけ出し︑それが結果的には封建制の解体に強く作用した事は事実だろうが︑自ら封建制に対する疑義を持つのではなく︑その恥部をさらけ出したのみに終ったのは︑到底︑﹁非封建的﹂として評価するには価しないのではないか︒封建制度の中での文化の成熟は︑それが倫理感を欠いたものである限りは︑所詮徒花に過ぎぬと云えよう︒田沼自身は幕政の積極的打開を意図したのでもあろうが︑やはり十八世紀の文化的成熟は︑吉宗から定信に至る強烈
な倫理感あってこそ︑本物の成熟と言うべきであり︑そ
れ故に拙著においては︑敢て田沼に触れる事をしなかっ
た︑と言えば氏に納得して戴けるかどうか︒
享保の出版条令が出版界の発展を約束したというが︑
宝暦元年になって︑吉宗︑大岡の死去が出版界の雪解け
現象を起したとする記述と矛盾するではないかという御
指摘もあった︒釈迦に説法かとも思うが︑享保の出版条
令は﹁物の本﹂に対してのもので︑その時点の︑吉宗︑
大岡︑には﹁地本﹂﹁草子﹂は殆んど念頭になかったと
いうべく︑当然﹁地本﹂﹁草子﹂はその分際を心得えて
いたのが︑享保から宝暦の間に﹁物の本﹂の世界の進展
が進んで︑出版界全体の好景気となり︑吉宗︑大岡の死
去によって﹁地本︑草子﹂屋も一挙に解放感を味わった
とすれば︑矛盾はないように思うが如何゜
吉宗の存在が俗の文化の発展には﹁否定的に作用した
ことは間違いない﹂と言われるが︑そこは﹁雅・俗﹂
﹁公・私﹂についての前述の部分がそのお答えとなって
いよ
う︒
安永︑天明期の洒落本︑黄表紙︑狂歌などに関しては︑
抽象的に触れるばかりで︑具体的な評価を述べないのは 如何︑とあるが︑それは論文のスタイルや︑目的に拠ること︒私自身︑今度の拙著以外の諸論文において︑かなり具体的に述べて来たつもりであり︑氏もそれらに就いては︑十分眼を通して下さっている筈︒例えば近年の岩波講座﹃日本文学史﹄第九巻に牧まる氏の﹁安永・天明の江戸文壇﹂は︑その﹁むすび﹂の章の結論に至るまで随所に拙論の引用が︑恐らくは定説と認めて戴いたのであろうか︑南畝の章以外は私の名前は省略した形で︑参考文献にも明記されぬまま牧めて戴いているように思うのだが︒今度の拙著でもおおかたは略述したつもりだったが︑これも抽象的すぎたかも知れぬのは︑やはり論文のスタイルによるものと御了承願いたい︒
﹁﹁雅・俗﹂を単純に範疇の問題として考えるならば︑
十九世紀の雅文芸は︑量的に空前の盛況を呈してい﹂る
のに拙著では︑十七世紀から十九世紀へと雅の範囲が狭
まり︑俗が広がった︑という見取図を示しているのには︑
﹁戸惑いも覚える﹂とあるが︑雅俗を範疇として考える
のは︑既に佐藤氏へのお答えにも述べた通り︑別に私だ
けの特別な考えという訳でもない︒十九世紀は︑雅文芸
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だけが空前の盛況なのではなく︑俗文芸も量的にはより
盛況といえよう︒その上に作者層や︑読者層の広がりを
考え合わせれば︑相対的に近世末になるほど俗の範疇の
広がりは誰しも首肯し得るものと思ったのだが如何︒十
九世紀の雅文芸を空前と感じられるのは︑十七︑十八世
紀のそれと比べた時の感じであって︑同じ十九世紀の俗
文芸と比べた時にも同じ感を持たれるのだろうか︒
以上︑六氏への返答︑数氏に重複した御批判もあって︑
それはまとめて御答えした方がよかったのかもしれない
が︑出来る限りそれぞれの御意見の文脈を尊重して個別
に答えさせて戴いた︒何れも妄言多謝と記すほかないが︑
主意は︑不敏とは云え︑折角の御書評を出来る限り発展
的に受け止めたいと考えた上での所業と御許し戴き︑再
度の御加評をお願いする次第です︒