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13 総 説 歯科医療訴訟における医療水準と根管治療の事例について 横山敏秀永松 横山法律事務所 Medical Standards(the judgement criteria)in dental litigation, and cases of root canal treatment YOKO

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(1)

は じ め に

�.歯科医療訴訟における医療水準

歯科を含めた医療訴訟全体の件数は,最高裁判所の ホームページで「医事関係訴訟に関する統計」として 公表されている統計資料(表1)によれば,地方裁判所 段階の既済事件の件数であるが若干減少傾向に転じ ていることがわかる.

ただ,歯科に限って言えば,増加傾向にあり,した がって,医療訴訟全体に占める割合も増加している.

こうした現状をみると,歯科の臨床現場で真面目に歯 科診療に取り組んでいる歯科医師にとっても歯科医療 訴訟は必ずしも他人事でなくなってきつつあると言っ ても過言ではない.

そこで,本稿では,歯科医療訴訟において裁判所が 歯科医師の法的責任を認めるか否かの判断基準となる

「医療水準」についてその法的位置づけから説き起こ

すこととした.もちろん,常に訴訟を念頭に日々の歯 科診療を行うというのも実に後ろ向きな姿勢であっ て決してお勧めできることではないが実際の訴訟 における「医療水準」の内容を知っておくことは医療 過誤そのものの回避のためにも必要であろうと思われ る.

�.根管治療や患者との関係

また歯科診療の中でも特に重要な根管治療に関す る医療水準や裁判所の根管治療に対する捉え方につい ても,最近の判例を基に論じた.

さらに,歯科治療における歯科医師および患者の関 係性などについても,触れてみた.

医療訴訟と医療水準

�.医療訴訟と医療過誤

医療訴訟とは端的に言えば医療過誤を理由とする 損害賠償請求訴訟のことである.ここに医療過誤と は,医療に関わる場所で医療の全過程において発生す る人身事故である医療事故のうち医療機関側に法的責 任が認められる場合をいうのである.

�.歯科医療訴訟における医療水準

実際の医療訴訟において医療機関側に法的責任が認 められる医療過誤とされるか否かは,結局のところ医 受付:平成28年10月12日/受理:平成28年12月1日

本稿は,平成28年7月23日〜24日に開催された第37 回日本歯内療法学会学術大会において,「直近の医療訴 訟にみる臨床現場における医療水準と裁判所が求める医 療水準との乖離=根管治療のあるべき医療水準と誤抜歯 後の補綴如何=」のタイトルの下に筆者が担当した特別 講演Ⅰの内容を基に,標題を頭書のとおり改題したうえ で論じたものである.

(日歯内療誌38(1):13〜23,2017) NAGAMATSU YOKOYAMA LAW OFFICE

YOKOYAMA Toshihide

Medical Standards(the judgement criteria)in dental litigation, and cases of root canal treatment

永松・横山法律事務所

横 山 敏 秀

歯科医療訴訟における医療水準と根管治療の事例について

(2)

療機関側の診療行為が医療水準に達していたか否かと いう観点から判断されることになる.したがって医 療訴訟においては医療水準に達していたか否かが最も 大きな争点となる.

そして,この点は歯科における医療訴訟の場合も全 く同じであるので,以下には歯科も含めて(むしろで きるだけ歯科を中心に)論じていくこととする.

歯科診療契約の成立

�.問題の出発点

歯科診療における医療水準を考えるに当たっては 歯科診療契約が要求するところによるので,まず歯科 診療契約から論じなければならない.

�.歯科診療契約成立の手順

通常歯科の患者は診療を受けることを目的とし て医療機関を訪れ歯科診療を依頼する.これを法律 的に評価すれば歯科診療契約の申込みということにな る.

これに対して,医療機関側は,応招義務を負うこと などから(歯科医師法第19条第1項)正当な事由が ない限り上記歯科診療の依頼に応じて診察治療を行う ことになる.これを法律的に評価すれば歯科診療契約 の承諾となり,これによって歯科診療契約が成立する.

歯科診療契約の法律的性格

�.問題提起

このように成立した歯科診療契約によってどのよう な義務を医療機関側が負うのかに関しては,歯科診療 契約の法律的性格をどのように考えるべきかによるこ ととなる.そこで,この歯科診療契約の法律的性格に ついて以下に論じることとする.

�.雇用契約ではないこと

他人に何かの仕事をしてもらう契約としては通常 雇用契約(契約当事者の一方が労働に従事し相手方 がこれに対して報酬を与える契約.民法第623条) 請負契約(契約当事者の一方がある仕事を完成させ,

相手方がその仕事の結果に対して報酬を支払う契約.

民法第632条)および準委任契約(契約当事者の一方 が相手方に法律行為でない事務を委託する契約.民法 第656条・第643条)の三つが挙げられる.

ただ,歯科診療の場合,その専門家である歯科医師 の側に広範な裁量が認められなければ,歯科診療の目 的を達せられないので相手方の指揮命令に服するこ とを本質とする雇用契約とはいえない.

19

平成27年

22

麻酔科 小児科

上記表の数値は,各診療科における医療事故の起こりやすさを表すものではないので,注意されたい.

(注)1 複数の診療科目に該当する場合は,そのうちの主要な一科目に計上している.

2 平成27年の数値は,速報値である.

237 181

平成22年

164 内科

平成24年 年

診療科目 平成23年

1 医事関係訴訟事件(地裁)の診療科目別既済件数

(平成22年〜平成27年) 平成26年

8 6

750 98 13

103 81

104 その他

821 770

896 合計

22

178

76 72

歯科

4 6

779 118 10 177 平成25年

2 9

763 98 9 187

20 34

22 24

眼科

10 8

6 19

9 16

耳鼻咽喉科

87 89

78 86

17 13

24 18

15 9

泌尿器科

50 60

56 59

82 89

産婦人科

18 17

142 外科

95 95

90 99

93 105

整形外科

28 28

29 24

24 24

形成外科

33 30

29 精神科(神経科)

6 8

12 6

7 17

皮膚科

121 114

124 145

123

25 31

33

(3)

�.請負契約でもないこと

例えば,インプラント治療のように,インプラント 体を顎骨に埋入させて上部構造を被せるような場合に はまさに仕事の完成を請け負う請負契約(民法第 632条)であるようにも思われる.

しかし,上記のインプラント治療の例でも患者の顎 骨の状況や疾患その他の要因でインプラント体が顎骨 とどうしても結合しないこともありうる.そもそも歯 科診療が生身の人間の体を相手にするものである以 上法律的には必ずしも治癒の結果を約束できないの で,仕事の完成を約束する請負契約(民法第632条)

ということもできない.生身の人間を相手にする歯科 診療は,不動の大地の上に建物を建てる建設請負契約 とは全く異なるのである.

�.歯科診療契約は準委任契約

歯科診療契約の法律的性格についての判例の主流 は,診察治療という事務の委託をする点で準委任契約 であると解している(民法第656条).例えば,東京地 方裁判所平成18年1月30日判決1)は歯科医院で診療 を受けた際に撮影されたレントゲン写真の返還請求を 拒絶されたことを原因とする損害賠償請求事件(請求 棄却)において,診療契約は,通常,患者が,歯科医 師に対し,歯科医師の有する専門的知識と技術により,

疾病の診断と適切な治療をすることを求めこれを歯 科医師が承諾することにより成立するものであり,一 種の準委任契約であると解されると判示した.また,

最高裁判所の判例も医科における診療契約について準 委任契約であることを前提としており,歯科診療契約 を別異に解する理由も全くない.

そもそも歯科診療が生身の人間の体を相手にするも のである以上,治癒の結果を約束することはできず,

歯科診療を実りあるものにするためには歯科医師に広 範な裁量を与え,その中で患者のために最善を尽くさ せることが最も歯科診療契約の実態に合致するので 歯科診療契約の法律的性格は準委任契約であると考え るべきである.

善管注意義務

�.善管注意義務総論

準委任契約の場合,受任者は「委任の本旨に従い,

善良な管理者の注意をもって,委任事務を処理する義 務を負う」ことになる(民法第644条).すなわち,受 任者は相手方に対して「善良な管理者の注意」義務を 負っていることになる.この「善良な管理者の注意」

という用語は,『ローマ法の「善良な家父の注意」dil- igentia boni patris familiasからきたもの』2)であって,

法律における独特の言い回しである.そして,この義 務のことを法律専門家は「善管注意義務(ぜんかんちゅ ういぎむ)」と略称し,注意義務としては最も重いもの とされる.

�.医療における善管注意義務

この善管注意義務を医療についてみると「いやしく も人の生命及び健康を管理すべき業務(医業)に従事 する者はその業務の性質に照し危険防止のために 実験上必要とされる最善の注意義務を要求されるの は,已むを得ないところといわざるを得ない」という ことになる(最高裁判所昭和36年2月16日判決3)). このように,最高裁判所も医療従事者が患者のため に最善を尽くすべき注意義務すなわち善管注意義務を 負っていることを認めている.

善管注意義務と

債務不履行責任・不法行為責任

�.善管注意義務と債務不履行

医療機関側は,この善管注意義務に違反したときに 歯科診療契約に基づく義務を履行しなかったことにな るので,債務不履行による損害賠償責任を負わされる ことになる.

結局債務不履行責任として損害賠償責任を負わさ れるのは善管注意義務に違反した場合となる.

�.不法行為責任との関係

なお,医療訴訟において診療契約による債務不履行 責任と併せてまたはこれに代えて主張されるのが患者 の生命身体等の権利を違法に侵害したことを理由とす る不法行為責任である.ただ,その重要な要件である

「過失」(民法第709条)の中身も善管注意義務違反で あると解釈されている(大審院明治44年11月1日第 一民事部判決4)).

すなわち,いずれの責任の成否も結局のところ善管 注意義務違反があるか否かによるのである.そうする と,善管注意義務違反の有無を論じる場合,不法行為 責任独自の事項をあえて論じる必要もないことにな る.したがって本稿では診療契約を前提にした債務 不履行責任を中心に論じることとする.

医 療 水 準

�.具体的判断基準の必要性

このように考えると善管注意義務違反の有無が医 療訴訟における中心的な争点となる.しかし,善管注 意義務違反の有無というだけでは訴訟において裁判所

(4)

が判断基準として用いるためには抽象的すぎる.誰が 裁判官でも同じような事案の場合には結論も同じにな らなければ,判断の恣意性を払拭できない.そこで,

司法裁判所として行うべき判断についてはその恣意 性を回避するために具体的な判断基準が必要となる.

�.具体的判断基準としての一定の水準

このように医療訴訟における判断基準として,さら に具体的なものが求められることになる.

そこで対象となった診療が一定の水準に達してい たか否かで,善管注意義務違反となるか否かを判断す るという考え方が出てきたのである.

�.判例における医療水準論の登場

次の問題はその一定の水準をどこに置くかという ことである.

この点,患者にとっての「最善」ということを徹底 すれば医学の最先端である学問としての医学水準とい うことになる.

しかしこれでは必ずしも医学の最先端の学問的成 果としての医療技術を習得していないほとんどの臨床 医にとって不可能を強いられることになってしまう.

そこで,最高裁判所昭和57年3月30日第三小法廷 判決5)は未熟児網膜症のケースにおいて「注意義務の 基準となるべきものは診療当時のいわゆる臨床医学 の実践における医療水準である」としたうえで,未熟 児網膜症の治療法としての光凝固法は先駆的研究家の 間でようやく実験的に試みられ始めたという状況で あって,一般臨床眼科医はもとより,医療施設の相当 完備した総合病院ないし大学医学部附属病院において も光凝固治療を一般的に実施することができる状態で はなく,患児を光凝固治療の実施可能な医療施設へ転 医させるにしても,転医の時期を的確に判断すること を一般的に期待することは無理な状況であったとし て医療者側の責任を否定した.

�.昭和57年の最高裁判例の問題点

この最高裁判所昭和57年3月30日第三小法廷判決 が示した「診療当時のいわゆる臨床医学の実践におけ る医療水準」の問題点は臨床の現場で現に行われて いる臨床医療で十分であると捉えられかねず単なる 現状追認のための理論になりかねないことにある.実 際,その後の最高裁判所平成4年6月8日第二小法廷 判決6)も同じく未熟児網膜症のケースにおいて「注意 義務の基準となるべきものは一般的には診療当時の いわゆる臨床学の実践における医療水準」であること を前提に「医師は,患者との特別の合意がない限り,

右医療水準を超えた医療行為を前提としたち密で真し

かつ誠実な医療を尽くすべき注意義務まで負うもので はなく,その違反を理由とする債務不履行責任,不法 行為責任を負うことはないというべきである」とまで 言明した.

しかしもともと医療者は患者のために最善を尽く すべき注意義務すなわち善管注意義務を負っていたは ずである.にもかかわらず,その善管注意義務違反の 有無を判断するための基準を「診療当時のいわゆる臨 床医学の実践における医療水準」に求めると,最善を 尽くすべきという善管注意義務自体を否定しかねない 結果となってしまい,このような結論は本末転倒なの ではないかという根本的な疑問があったのである.

�.医療水準を規範的に捉える考え方

この点未熟児網膜症に対する治療法として光凝固 法を実施することがいまだいわゆる臨床医学の実践に おける医療水準にまで達していたものとはいえないと して同じように医療者側の責任を否定した最高裁判所 昭和63年1月19日第三小法廷判決7)において伊藤 正己裁判官は医師が「最善の義務」を要求されること を前提に「医療水準は,医師の注意義務の基準となる ものであるから,平均的医師が現に行つている医療慣 行とでもいうべきものとは異なるものであり,専門家 としての相応の能力を備えた医師が研さん義務を尽く し転医勧告義務をも前提とした場合に達せられるあ るべき水準として考えられなければならない」と補足 意見を述べていた.

この伊藤正己裁判官の補足意見の考え方は,医療水 準を非常に規範的に捉えている点に特徴がある.すな わち「診療当時のいわゆる臨床医学の実践における 医療水準」という文言からだけでは現に臨床現場で 行われている医療行為で十分であるかのような印象を 受けてしまうが,伊藤正己裁判官の考え方によれば,

単に臨床現場で行われているというだけでなく,もっ と動的なものとして研鑽を積み転医勧告も行うことも 要求するなどまさに患者のための善管注意義務である ことを前面に押し出したものと評価できる.

�.医療水準に関する判例の進化

こうした考え方も背景にあったのであろうか最高 裁判所平成7年6月9日第二小法廷判決8)も上記昭和 57年3月30日付判決と同一の「診療当時のいわゆる 臨床医学の実践における医療水準」という判断基準を 用いながら,医療者側に厳しい判断をした.

これは医療水準論について単に臨床現場におけ る現状を追認するものではなく規範的判断として要 求すべき水準すなわち�あるべき医療水準�でなけれ ばならないことを示したことによると考えられる.

(5)

�.医療機関の類型ごとの医療水準

この最高裁判所平成7年6月9日第二小法廷判決 は,有効性と安全性が是認された新規の治療法につい て通常先進的研究機関を有する大学病院や専門病 院地域の基幹となる総合病院そのほかの総合病院 小規模病院,一般開業医の診療所といった順序で普及 していき,また,知見の普及について,医学雑誌への 論文の登載,学会や研究会での発表,一般のマスコミ による報道等によってされまず当該疾病を専門分 野とする医師に伝達され次第に関連分野を専門とす る医師に伝達されるもの,と述べた.

実際,新規の治療法の普及やその知見の普及におい て医療機関などにより差があるのが通例で,患者もこ うした事情を前提に診療契約を締結するに至るのであ る.

このようにみてくると,一般論で言えば,①先進的 研究機関を有する大学病院や専門病院,②地域の基幹 となる総合病院,③そのほかの総合病院,④小規模病 院,⑤一般開業医の診療所,など各医療機関の類型ご とに求められる医療水準は異なることになる.

�.判例の要求する医療水準の内容

したがって,同判決が判示するとおり「すべての医 療機関について診療契約に基づき要求される医療水準 を一律に解するのは相当でない」とともに「新規の治 療法に関する知見が当該医療機関と類似の特性を備え た医療機関に相当程度普及しており,当該医療機関に おいて右知見を有することを期待することが相当と認 められる場合には,特段の事情が存しない限り,右知 見は右医療機関にとっての医療水準であるというべ き」なのである.

このように医療水準とされた知見については,当該 医療機関としては所属の医師等に当該知見を獲得させ ておくべきであって,仮に所属の医師等が当該知見を 有しなかったために,当該医療機関が当該治療法を実 施せずまたは実施可能な他の医療機関に転医をさせ るなど適切な措置を採らなかったために患者に損害を 与えた場合には,当該医療機関は,診療契約に基づく 債務不履行責任を負うことになる.

そして,新規の治療法実施のための技術・設備等に ついても当該医療機関が予算上の制約等の事情によ りその実施のための技術・設備等を有しない場合には 当該医療機関は,これを有する他の医療機関に転医を させるなど適切な措置を採るべき義務があることにな る.

このように医療水準を解すべきなのは,患者のため に最善を尽くすべき医療者のあり方によるものなので ある.そして,この最善を尽くすべき義務こそが善管

注意義務の中身であり,�あるべき医療水準�の具体化 であるといえるのである.

ちなみに,前述した最高裁判所昭和63年1月19日 第三小法廷判決において伊藤正己裁判官もその補足意 見の中で最善の義務を果たすためには絶えず研鑽し 新しい治療法についてもその知識を得る努力をする義 務を負っており,自ら適切な診療をすることができな いときには,患者に対して適切な医療機関に転医すべ き旨を説明し,勧告すれば足りる場合があり,また,

そうする義務を負う場合も考えられると述べていると ころである.

対価の有無と医療水準

�.問題提起

無償で診療行為を行った場合でも医療水準は影響を 受けないのだろうか?

�.対価の有無は無関係

もともとローマ法の昔から委任契約および準委任契 約は無償が原則とされ,実際,現代のわが国の民法で も規定上は無償が原則である(民法第648条第1項「受 任者は,特約がなければ,委任者に対して報酬を請求 することができない.」).これは,医師・僧侶・教師・

弁護士などは高尚な仕事であって対価と結びつくこと が好ましくないという考え方によるものである.

ところで,このように無償であっても委任契約およ び準委任契約における受任者は善管注意義務を負うも のと規定されている(民法第644条).

こうしたことから論理的には善管注意義務違反の有 無の判断基準である医療水準が対価の有無に左右され ることはないと考えるべきである.

�.実務的な感覚

ただし対価を伴わない場合にまで善管注意義務と いう重い義務を課するのは問題だとして責任を軽減さ せようという考え方9)もなくはない.

実務上の経験でも裁判官が和解を勧めるときには無 償であることが責任を限定させる方向に働くことが多 いように思われる.すなわち論理的には無償だから といって軽々に責任を軽減できないが資本主義社会 において対価を伴わないのに対価を伴うときと同じ重 い責任を負わせるのは常識的ではないという感覚が裁 判官にもあるものと思われる.

(6)

保険診療と医療水準

�.保険診療における医療水準

上述のとおり論理的には医療水準が対価に左右され ることはないはずである.

しかも,保険の利用はあくまでも診療の対価の支払 方法の選択肢の一つにすぎない.

そうだとすると保険診療だからといって最善を尽 くさなくてもよいことにはならず論理的には保険診 療の場合でも保険外の自由診療の場合でも医療水準は 同じとなる.

�.歯科治療の特殊性の影響

歯科治療においては,①適応可能な治療方法や② 使用する材料・材質が多種に及ぶ場合が少なくないと いった特徴がある.こうした特徴から,歯科治療にお いては治療方法や材料等に関する選択の範囲が広いと いえる.こうした範囲の広さを反映して説明義務も広 範なものとなる.

ただ,保険診療の場合,保険医療機関および保険医 療養担当規則(以下「療担規則」という)に従わなけ ればならない(健康保険法第70条第1項ほか).そし て,療担規則第18条は「保険医は,特殊な療法又は新 しい療法等については厚生労働大臣の定めるものの ほか行つてはならない」と規定し療担規則第19条第 2項本文は「歯科医師である保険医は,厚生労働大臣 の定める歯科材料以外の歯科材料を歯冠修復及び欠損 補綴において使用してはならない」と規定して,治療 方法や材料等が決められておりその意味で選択の範 囲も限定されている.

したがって,保険診療の場合,こうした制約の下で の善管注意義務(医療水準)とならざるを得ない.少 なくとも歯科医師にとって説明義務が限定される要素 となるのである.すなわち保険診療の場合には診 療としてできることは限定されており上記のとおり 療担規則の範囲内で最善を尽くせばよいといった限界 がある.

この点,横浜地方裁判所昭和58年10月21日判 決10)「悪い所は全部治療したい.」という項目およ び「治療費について」の欄のうち「保険診療の範囲で よい.」という項目などにそれぞれマル印をつけた受 診申込書を提出した患者が外貌に不満をもって訴訟を 提起した事件について,外貌に対する影響についての 説明がやや明確を欠くものながら患者が主張するほ どの具体的な説明義務まではなく患者の依頼の趣旨 すなわち診療契約の内容を「保険診療の範囲内で悪い 所は全部治療を受けたい旨の依頼をなしたと認めるべ

き」としたうえで「保険診療の範囲内で行いうる最も 適切な治療であることが認められるから,結果として も被告の行つた右治療行為は原告の依頼の趣旨から逸 脱したものではないということができる」と判示した.

このように判例も保険診療の場合には要求される医 療水準自体にも療担規則の範囲内という限界がありう ることを示唆しているのである.

根管治療(根管充塡)における医療水準

�.根管充塡に関する判例の事案

東京地方裁判所平成23年2月14日判決11)は次のよ うな事案について,根尖から2 mm程度の位置より明 らかに歯冠側までしか根管充塡がされなかったものと 認定しこれによって根尖性歯周炎に罹患したとして 歯科医師に対して,損害賠償として224万1,310円の 支払いを命じた.

まず,本件の患者は,左上中切歯,左上側切歯およ び左上犬歯,右上中切歯,右上側切歯および右上犬歯 について根管治療を受けた.

上記根管治療を受けてから5年ほど経過した後,左 上側切歯のクラウンが脱離したことから,同じ歯科医 院で左上側切歯のクラウンを再装着してもらった.

ただ,数カ月後,左上側切歯と右上犬歯のクラウン が脱離するとともに腫れによる疼痛があったため 患者は根管治療専門の歯科医師の診察を受けた.そう したところ,上顎前歯6歯に施された根管治療がすべ て不十分であり,これらが根尖性歯周炎に罹患してい ると診断された.

そして本判決は原則として「少なくともX線写 真上根尖から2 mm程度の位置まで充填されている かどうか」が根管治療(根管充塡)を行う歯科医師に とっての医療水準となるとして,複数のX線写真を 基に根管充塡材が根尖から精々4 mm程度手前までし か達していないことなどを認定し本件根管治療を 行った歯科医師には根管の緊密な充塡を実施すべき注 意義務違反があるとして,上記のような判断を下した のである.

�.根管充塡についての注意義務

本判決は「根管治療の基本原則は,①根管の徹底 的な拡大清掃(根管拡大形成),②根管の確実な消毒

(根管消毒),③根管の緊密な充填(根管充填)という 根管処置の3要綱を,無菌的処置のもとに,根尖歯周 組織を傷つけることなく,確実に実施することにある」

としたうえで「根管充填の目的は歯髄組織がなく なって空洞となった根管を,生体に為害作用のない無 刺激な物質によって緊密に充塞することにより,歯根

(7)

を無菌状態に保つとともに根尖孔及び根管口からの再 感染を防止し,かつ根尖付近組織の健康を保持するこ とにある.言い換えれば,抜髄や感染根管の消毒後に,

死腔となった根管内空隙に残存する壊死物質や組織液 の分解産物などの化学的刺激及び根管経由の細菌学 的刺激が根尖歯周組織に影響を及ぼさないように,根 尖孔を象牙セメント質境で封鎖することによって,歯 根を歯周組織に対して無害なものとして歯の機能を長 く保つとともに,根尖病変が存在する場合には,その 自然治癒を促進することにある」「この目的を達成す るためには,①根管充填を実施する時期を誤らないこ と,②根管充填操作は,必ず無菌的条件下で行うこと,

③根管充填剤(材)には,組織親和性があり,なおか つ,根管を緊密に充塞できる材料を選択すること,④ 根尖孔を完全に閉塞すること根管充填剤(材)の到 達限度は象牙セメント質境とすること,⑤根尖孔外に 根管充填剤(材)を�出させないこと,⑥根管内を緊 密に充塞することを厳守する必要があり,一つでもお ろそかにすれば,歯内治療の成功はおぼつかなく,か えって患者に苦痛を与えるような結果になりかねな い」「根管充填は根管治療の最終処置であり歯の存 亡にかかわる重大な処置であることを銘記すべきであ る」と判示した.

そのうえで,本判決は「医学的知見によれば,根管 充填は根管治療の最終処置であり歯の存亡にかか わる重大な処置であること根管の緊密な充填を確実 に実施することが根管処置の基本原則の一つであるこ と,根管充填の適否が根管治療の予後に大きな影響を 与えることが認められる.以上の事情に照らせば,根 管治療を行う歯科医師としては根管充填に当たって は根管の緊密な充填を実施すべき注意義務を負って いるというべきである」と根管治療(根管充塡)に当 たる歯科医師が負うべき注意義務について判示した.

この点,日本歯内療法学会の「歯内療法ガイドライ ン」4-2-3.3)12)においても「全ての根管を可能な限り 根尖近くまで緊密に充填し,X線的に良好な根管充填 をする」としており,緊密な充塡が必要であることを 明らかにしているところであって,緊密な充塡が根管 治療に欠かせないことは明白である.

�.根管充塡についての医療水準

このように,根管治療(根管充塡)を行う歯科医師 は根管の緊密な充塡を実施すべき注意義務を負ってい るが,根管治療(根管充塡)を行う歯科医師に求めら れる医療水準として具体的な緊密な充塡の程度はどの ように考えるべきなのか.

この問題についても,本判決は「炎症等により根尖 部が吸収されるなどして生理的根尖孔が破壊されてい

るなどの特段の事情がない限り,少なくともX線写 真上,根尖から2 mm程度の位置まで充填されている かどうかが適否の重要な基準になるものと解するのが 相当である」とまで踏み込んで判示した.

もちろん「根尖から2 mm程度の位置まで充填さ れているかどうか」だけが絶対的な基準ではなく,こ れが根管の緊密な充塡を実施した適切な根管治療で あったと判断する際の重要な基準になるとしたにとど まる.また,この基準は「炎症等により根尖部が吸収 されるなどして生理的根尖孔が破壊されているなどの 特段の事情がない限り」という限定付きである.

ただ,本判決が根管充塡についての医療水準を明確 に打ち出したことは確かである.これだけ踏み込んだ 判決を出すことができたのは,本判決の内容をみると わかるように各種の医学文献ならびに根管治療の専 門家や大学病院の講師を含む複数の歯科医師の証言な どから相当丁寧に審理した結果の所産といえる.さら に言えば,次に述べるように医療集中部における審理 であったことも大きかったと思われる.

�.医療集中部による判断の重要性

本判決によれば,結局,当該歯科医師が行った根管 治療(根管充塡)が医療水準に達していたか否かは,

原則として「X線写真上,根尖から2 mm程度の位置 まで充填されているかどうか」を重要な基準として決 せられることになる.

ところで,本判決は,東京地方裁判所の医療集中部 である民事第14部が担当したものである.医療集中 部の存在意義としては,医療関係訴訟を専門的に行わ せることでレベルの高い審理を丁寧に行わせることに あるので医療集中部の判決は一目置かれることにな ろう.

したがって,根管治療(根管充塡)を行う歯科医師 としては上記の「X線写真上,根尖から2 mm程度の 位置まで充填されているかどうか」という基準が原則 として歯科医療訴訟においての医療水準となったもの と考えておかなければならない.

根管充塡とリーマー破折片残置

�.判例の概要

東京地方裁判所平成24年9月13日判決13)は,左上 第一小臼歯にリーマーの破折片を残置し,それが歯科 医師の善管注意義務違反によるものだとして歯科医師 の責任を認めた.

�.善管注意義務違反を認定したこと

本判決は,左上第一小臼歯にリーマーの破折片を残

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置した点については実質的に争いがなかったため,そ のとおり認定し,「リーマーが破折した場合,根管の緊 密な充填をすることが困難となって,根尖病巣を生じ させる危険性があることから根管治療に当たって リーマーが破折しないようにすることは歯科医師が 負うべき注意義務である」としたうえで,患者の左上 第一小臼歯の歯根部が曲がっていることが認められる としても,歯科医師が,かかる歯根部の形状に特段の 注意を払ってリーマーによる操作を進めたなどという 事実は見いだせないのであるから歯科医師にはリー マーを破折した善管注意義務違反があるというべきで あると判示した.

ちなみに,リーマーを残置した点については,「リー マーを除去することが困難である場合,あえてこれを 残したまま根管充填を行うことがあり得るとの医学的 知見が認められる」としながらも,本件においては歯 科医師はそもそもリーマーを破折したことに気付か ず,患者に対してこれを説明することもしなかったと いうのであるから,上記のような医学的知見を踏まえ たうえであえてリーマーの破折片を除去しないとい う判断をしたものとも認め難いと判示した.

�.根尖病変についての責任も肯定したこと

さらに,本判決は,そもそも根管充塡が緊密にされ たとの事実を認めるに足りる証拠はなく歯科医師が リーマーの破折片を残置したことを認識したうえで 左上第一小臼歯の根管充塡について特段の配慮をした との事実も見いだせないのであるから,左上第一小臼 歯の根尖病変は,歯科医師の上記善管注意義務違反に よって生じたものと認定した.

そのうえで本判決は歯科医師には左上第一小 臼歯について,リーマーの破折片を残置した善管注意 義務違反があり,その結果,緊密な充塡を不可能とし,

根尖病巣を生じさせたという善管注意義務違反が認め られると判示した.

�.本件における医療水準

結局,本判決は,リーマーが破折しないよう操作す べき医療水準を認め,仮に破折した場合でも根管充塡 が緊密になるように特別に配慮すべき医療水準を認め たものと考えられる.

ちなみに,本判決も東京地方裁判所民事第14部(医 療集中部)が担当したものであり,前述の「X線写真 上,根尖から2 mm程度の位置まで充填されているか どうか」という医療水準を打ち出した裁判体(3名の 裁判官で構成される)とは3名の裁判官のうち裁判長 と右陪席の2名までが同一であった.

根管充塡とリーマー破折片残置 および説明義務違反

�.判例の事案

東京地方裁判所平成13年3月12日判決14)は,根管 治療にあたりリーマーの破折片を根管に残置した善管 注意義務違反などにより治療費や慰謝料など495万円 の請求が認められた事案である.

�.歯科医療水準に達していなかったこと

本判決は「破損したリーマーを残置した状態で根管 充塡を行なうことは,将来の根管感染の不安を残した 処置であると認められ当時の歯科医療水準上相当 な治療とはいえない」と判示した.

すなわち,本件歯科医師の行った治療は,当時の歯 科医療水準に達していないものということである.

�.説明義務違反

さらに本判決は「異物が根管に残ったまま根管 充填を行うことは,細菌の増殖の危険があり,患歯の 予後に重大な影響をもたらすのであるから,その説明 においても,現時点で,根管充填することの危険を,

患者に対して十分説明した上で,患者からの同意を得 なければならない」と判示した.

要は本件歯科医師の治療はいわゆるインフォー ムドコンセントを患者から得ていないので,違法性も 阻却しないということである.

そこで,上記のとおり患者の請求が認められること になったのである.

根管治療の原則性と抜歯の最終手段性

�.判例の事案

東京地方裁判所平成19年10月4日判決15)歯科 医師の診療を受け,その抜歯行為により1歯の歯冠部 をほぼ喪失した事案に関するもので,歯科医院側に責 任があるとして164万1,967円の損害賠償請求を認め た.

�.歯を残すことの重要性

本判決は「かつては,う�(むし歯)の進行した歯 を直ぐに抜くことが歯科診療の現場で広く行われてい たが,歯には,胃腸の消化,吸収を助けるという働き や歯触りが味覚を敏感にするという働きがありま たよくかむことには脳の血流が増える効果があるこ とが知られていることから,最近では,できるだけ歯 を残すような治療を行うべきであると考えられるよう

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になってきている」と判示して,できるだけ歯を残す ような治療を行うべきであるとした.

�.抜歯の最終手段性

その上で本判決は歯を残す治療として根管治療を 挙げ「根管治療は,一般には,歯の神経の治療と呼ば れ,可能な限り『歯を残す』ことを重視する考え方に 立つ治療方法であり,根管治療の考え方からすれば,

『歯を抜く』ことが必要になるのは非常にまれなケー スに限られることになる」とした.

�.抜歯をする場合の手順

さらに,本判決は「抜歯は,歯に加えられる最終的 な医療処置であり,可能な限り避けるべきものである とされていることが認められるからう�症等の治療 に当たる歯科医師としては,治療の対象となっている 歯が根管治療の禁忌症に該当する場合を除き,当該歯 の抜歯以外の方法で治療目的を達成するための手段を 尽くすべき義務を負っており,抜歯を行うことがやむ を得ない場合であっても抜歯を行う必要性について 患者に対し十分な説明を行う義務を負っている」と述 べ,抜歯は最終手段であることを確認したうえで,や むなく抜歯を行う場合でも患者に対し十分説明義務を 尽くすことを要求した.

�.本件の場合

にもかかわらず,本件歯科医師は本件歯の抜歯を回 避するための手段を尽くさず,かつ患者に対して抜歯 の必要性も説明せずに,本件歯の抜歯を行った点は歯 科医師としての医療水準に到達していない善管注意義 務違反に基づくものとして本件抜歯行為によって生じ た損害を賠償する責任を負うものと本判決は判断した のである.

ちなみに,本判決も東京地方裁判所民事第14部に よるものである.

不当抜歯後の補綴

�.歯科の参考になる判例

上記の抜歯を回避せず不当に抜歯した事件である東 京地方裁判所平成19年10月4日判決はさらに損害 賠償の範囲についても以下のとおり歯科にとって参考 になる判断を示した.

�.判例が示す欠損歯の補綴の方法

不当抜歯による欠損歯の補綴の具体的方法につい て,患者はインプラント治療を主張し,歯科医師側は ブリッジ装着で十分であると反論した.要は損害賠償

の額が異なってくるための争いである.

本判決は,(1)(a) ブリッジの人工歯には歯根がな いこと,(b) ブリッジの場合,欠損歯の両側の健康な 隣接歯を切削する必要があるうえ,土台となる歯(支 台歯)に歯根のない歯の分の大きな負担がかかりそ の寿命が短くなること,(c) ブリッジの咀嚼力は,天 然歯の咀嚼力を大きく下回ることなどの点において,

原告の受けた被害を回復する方法としては,不十分で あること,(2) 欧米においては歯を失った時の主な治 療法はインプラントであること(3) 日本においても 歯科医師によって技術の巧拙はあるもののある程度 専門的に勉強した歯科医師であればインプラント治療 を行っていることが認められるから,本件抜歯行為と インプラント治療との間には相当因果関係が認められ ると判示した.

すなわち本判決は不当抜歯による欠損歯の補綴 の具体的方法としてインプラント治療によることを相 当と判断したのである.

�.賠償すべき損害額算定の内訳

わが国の損害賠償法では金銭による賠償を原則と するが(民法417条)できるだけ原状回復に近い状態 にするのが損害の公平な分担という損害賠償法の理念 に沿うことから,原状回復自体不可能だとしても最も それに近い状態にできるだけの費用(金額)での賠償 をすべきことになる.

その意味では,本判決が判示したとおり不当抜歯の 場合には元の自然歯に代わるものとして最も自然歯に 近いインプラントの治療費を損害額と認定したことは 当然のことであったとも評価できるのである.

お わ り に

�.�あるべき�医療水準

以上の判例から明らかなとおり裁判所は歯科医 師の歯科診療全般に多種多様な,かつ,高度な医療水 準を求めている.

もともと医療水準論はすでにみたとおり未熟児網膜 症に関する医療訴訟の中から出てきたものである.こ の医療水準を検証すると従前は臨床現場で行われて いる臨床医療そのもので十分であるとも思われていた が,医療に対する国民の期待を背景に単なる現状追認 の理論とするのでは許されなくなり�あるべき�医療 水準として�規範�化されてきた.

そしてこの規範化された�あるべき�医療水準が 当然のことながら歯科診療にも適用されこの�ある べき�医療水準という法的規範に違背した歯科医師に 善管注意義務違反に基づく損害賠償責任という一種の

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法的制裁を加えていくことになるのである.

�.訴訟社会到来への対処法

このように歯科医師の法的責任が重く認められるよ うになったのと軌を一にするように訴訟社会の到来 といったことがよく言われるようになった.

昔であれば,歯科医師は「先生」あるいは「先生様」

であって訴えるなどとんでもないという感覚が社会の 中では共有されていた.しかし現代社会においては 患者にとって歯科医師を訴えるハードルは昔に比べて 相当低くなってきたように思える.

こうした訴訟社会における処方箋であるが,まずは 診療録などの記載を徹底してきちんと行い証拠の確保 について万全を期することが何より第一である.実 際「根尖から2 mm程度の位置まで充塡されている かどうか」が医療水準であるとした上記の東京地方裁 判所平成23年2月14日判決の事案では,当初の治療 時の診療録が存在しておらず,これにより歯科医師自 らを守ることもできなかったのではないかとも考えら れるのである.

�.患者の法的位置づけ

また,最近の歯科におけるさまざまな問題事例は患 者の法的位置づけについての誤解が発端になっている 気がしてならない.

たしかに患者も一人のかけがえのない人間として

「個人として尊重される」(憲法第13条前段)ことは当 然である.

しかし,今,医療特に歯科医療の現場において,患 者を必要以上に「患者様」に祀り上げてしまっている ことが多くの機会で見受けられる.これは完全な誤解 に基づくものであって,本来あるべき患者の正しい法 的位置づけからすると完全な間違いと言ってもよいだ ろう.

もともと,患者は自らの選択で自分だけの力で歯科 の治療をすることも妨げられないはずである.このこ とはまさに憲法の保障する自己決定権の発現であって

(憲法第13条後段「幸福追求権」),こうした観点から は自分だけの力で歯科の治療を行うのが本則なのであ る.

しかし歯科医療が高度に進歩した現代において 患者個人が行えることには限界があって現実の問題 として自分の力だけではまともな歯科の治療など不可 能である.例えば,レントゲンやCTを自宅に備えて いる患者など稀有であると思われるし,歯科医師と同 等の知見を有する患者など皆無と言ってよいだろう.

そこで憲法第25条第2項の要請に基づいて歯科 医療制度が創設されることになったのである(歯科医

師法・医療法などの制定および施行).

この歯科医療制度において,あくまでも治療の主体 は患者なのである.患者は,歯科の治療に関し,自ら の責任で歯科医師を選択し,きちんと歯科医療の専門 家である歯科医師の助言や指導を聞き,治癒に向かっ て自ら努力しなければならないのである.歯科医師 は,患者の治癒のために必要不可欠な存在ではあるが,

あくまでもお手伝いをするという脇役なのである.そ の意味では,歯科医師が「先生様」としてふんぞり返 るのもこうした法的位置づけから不合理なのである が,患者が「患者様」として祀り上げられるのも同様 に不合理であることになる.

こうしてみてくると,患者にとって歯科医師とは自 分に協力して歯科疾患と闘ってくれる大事な仲間なの である.あくまで患者自身が主体的に治していかなけ ればならず,患者にとって歯科医師は専門家として自 分を助けてくれる存在なのである.

実際,医療法第1条の2第2項も「医療は,国民自 らの健康の保持増進のための努力を基礎として,医療 を受ける者の意向を十分に尊重し」と規定しまず患 者自身が自らの健康を保持し増進するための努力をす べきことを前提に,医療が患者の意向を尊重して行わ れることになっている.自らは何の努力もしない「患 者様」の鼻息まで窺うようなことをする必要はないこ とは明白なのである.

今後はこうした法的位置づけにあることを患者に理 解させることも不要な紛争を回避するために必要であ ろう.また,モンスターペーシェントの問題もこうし た観点から相当程度解決はできるのではないかと思料 する.医療法第1条の2第1項も「医療は生命の尊 重と個人の尊厳の保持を旨とし医師歯科医師薬 剤師,看護師その他の医療の担い手と医療を受ける者 との信頼関係に基づき」と規定しているとおり,医療 は医療者側と患者側の信頼関係に基づいていることが 必要なのである.きちんと患者との間でコミュニケー ションが取れていれば前述してきた判例に挙げられ た事案のように訴訟まで発展せずに済んだ気がしてな らない.このことは歯科医師のみの不幸というだけで なく,実は訴訟のために経済的コストのみならず時間 的コストや精神的コストを負担させられる患者にとっ ても不幸なことなのである.

�.まとめ

今後は高度化した医療水準のことや診療録の記載に も留意しつつ,歯科医師の先生方や歯科医療関係者各 位には上記のような患者との関係も念頭に真に患者の ためになる歯科医療に邁進していただきたい.

(11)

文 献

1) LLI/DB判例秘書,判例番号L06131047.

2) 我妻 栄,有泉 亨,清水 誠ほか:コンメンター ル民法 総則・物権・債権第2版追補版,693,日 本評論社東京,2010.

3) 輸血用血清の給血者に対する医師の問診義務につ いての最高裁判決,判例タイムズ,115:76-80,

1961.

4) 損害要償ノ件,大審院民事判決禄,17輯:617-623.

5) 一昭和四四年一二月に出生した極小未熟児に対 する担当医師のステロイドホルモン剤等の投与の 措置について診療上の過失責任が認められなかっ た事例 二,昭和四四年一二月に出生した極小未 熟児につき担当医師において光凝固法の存在を説 明し転医を指示する義務がないとされた事例判 例タイムズ,468:76-83,1982.

6) 未熟児網膜症により失明したことを理由とする慰 謝料請求について担当の眼科医に注意義務違反を 認めた判断が違法とされた事例,判例タイムズ,

812:177-189,1993.

7) 未熟児網膜症に対する治療法として光凝固法を実 施することがいわゆる臨床医学の実践における医 療水準になっていたとはいえないとされた事例,

判例タイムズ,661:141-158,1988.

8) 未熟児網膜症姫路日赤事件 一 診療契約に基づ き医療機関に要求される医療水準 二 昭和四九 年一二月に出生した未熟児が未熟児網膜症にり患 した場合につきその診療に当たった医療機関に当 時の医療水準を前提とした注意義務違反があると はいえないとした原審の判断に違法があるとされ た事例判例タイムズ,883:92-102,1995.

9) 我妻 栄,有泉 亨,清水 誠ほか:コンメンター

ル民法 総則・物権・債権第2版追補版,1171,

日本評論社,東京,2010.

10) 歯科診療において,治療結果の外貌に及ぼす影響 等につき具体的に説明する注意義務の違反がある とする主張が排斥された事例判例タイムズ 516:165-168,1984.

11) 根管治療を行う歯科医師として負っている根管の 緊密な充填を実施すべき注意義務に違反する治療 がされたとして損害賠償請求が一部認容された事 例判例タイムズ,1381:192-201,2012.

12) 日本歯内療法学会:歯内療法ガイドライン,4-5.

13) 歯科医師の行った抜髄及び歯冠形成についての説 明義務違反や補綴治療における診療技術上の過失 等が認められた事例判例タイムズ,1411:374- 388,2015.

14) 一 破損したリーマーを歯牙に残したまま根管充 填したことについて,歯科医師に損害賠償責任を 認めた事例 二 矯正歯科医師が患者に対し通 院を促す電話連絡を怠ったことが診療契約上の債 務不履行に当たらないとされた事例判例タイム ズ,1089:238-248,2002.

15) LLI/DB判例秘書,判例番号L06232462.

著者への連絡先:横山敏秀

永松・横山法律事務所

〒 104-0028 東京都中央区八重洲 2-7-2

八重洲三井ビルディング6階603C 号室

電話:03-3516-1141 FAX:03-3516-1140

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