はじめに ある人物の思想をたずねる時、一体、何をもってそれを「知った」と言いえるだろうか。書き残された著作の読解にはげむ者もいれば、解説書や先行研究に没頭する者もいるだろう。あるいは、文献ではなく、生きざまそのものに学ぶべきという立場もあるだろう。
それぞれの方法で、見えてくるものがあるには違いない。 次に紹介するのは、明治期の宗教者・清 きよ沢 ざわ満 まん之 し(一八六
三~一九〇三)が、一人の書生に対して語りかけた言葉である。
時に先生、右手に持ち給える珠数を挙げ、其の親珠を指点して曰く、君看よ、此の珠や唯是れ一箇の珠也。されど、右側と左側とは、自ら其の観を異にし、上面と下面とは、自ら其の色彩を異にす。しかも珠の本体に於ては是れ一なり。宇宙の真実本体は唯一なり。し 《研究論文》
清沢満之を「一貫する」思想
──『臘扇記』を手がかりとして──
親鸞仏教センター研究員
名 和 達 宣
かも、左側のみを見て右側を知らざる人あり、右側のみを見て左側を知らざる人あり。此の如き観察より、異同論争を生ずること、世間まま有り勝ちの事なり、道を求むるもの注意せざる可からずと。
(岩波『清沢全』九 四四五頁)
これは、清沢の門弟・安藤州一(一八七五~一九五〇)が、師から聞いた言葉をまとめた『信仰坐談』のなかの一節である。一つの珠 たまであっても、右側と左側、上面と下面とでは、その外観や色彩は異なる。それにもかかわらず、互いに自らの一方的な見地のみを主張し、「異同論争」するのであれば、それは反対の側面を知らないばかりか、唯一の「真実本体」を知らないも同然である。このことは、私たちの生きる世間においては「有り勝ちの事」なので、「道を求むるもの」はよくよく注意しなければならない。このように清沢は指摘する。
ところで、かく語る清沢自身が、生前死後を問わず、そのような「異同論争」の渦中にあり続ける人物であることは言を俟 またない。例えば、清沢には「三羽烏」と称される 代表的な門弟がいた。暁 あけ烏 がらす敏 はや(一八七七~一九五四)、多田鼎 かなえ(一八七五~一九三七)、佐々木月 げっ樵 しょう(一八七五~一九二
六)の三人である。彼らは、清沢のもとに集い、「浩 こう々 こう
洞 どう」という名の信仰共同体を築いた。この場所で、共に研鑽を重ね、それぞれの立場で師の思想を聞き受けていった。時には、彼らの言動がもととなって、清沢にまで糾弾の矛先が向かうこともあった。そして、師の没後は、おのずから袂 たもとを分かち、その結果、浩々洞は次第に崩壊の途 みちを進んでいくことになった。
現代の清沢をめぐる議論に目を向けてみても、一方では、歴史的立場や社会への影響という側面より批判を投げかけ、他方では、薫陶を受けた立場よりその思想を確かめ、場合によっては、無批判な擁護や讃仰に終始することもある。それぞれが、自らの見地においては、紛れもない事実であるに相違ないだろう。
しかし、これらの事態を知ったうえで、単なる「異同論争」として片づけるのであれば、世間に「有り勝ちの事」として通り過ぎ、歴史のなかに埋没してしまうのではないだろうか。それゆえ、現在の清沢満之研究──のみならず、 ()1
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あらゆる思想研究──に求められるのは、個々の珠の緻密な観察に先立ち、それらを数珠としてつなぐ糸、すなわち「一貫する」ものを明らかにすることではないかと考える。私たちは、いまだ唯一の「真実本体」を知りえていないのかもしれない。
本稿は、あえてこの「知らない」という地点より、清沢を「一貫する」思想をたずねていくことを主眼とする。その試みの基本となるのは、先述のとおり、ある人物の思想を「知る」ためには、一つの珠のみを見るのではなく、数珠全体を貫くものを見いださなければならないという視座である。そして、その手がかりとして、清沢の日記であり、同時にまた、思想の転換の軌跡を刻み込んだ思索ノートでもある『臘 ろう扇 せん記 き』をひも解いていく。
一、現今の清沢研究―二つの潮流―
清沢を「一貫する」思想という視座について、現今の清沢研究では、大きく分けて二つの潮流があるように見受けられる。 一つ目は、特に近代仏教史研究において顕著な傾向で、晩年(一九〇一~)に携わった「精神主義」運動をその生涯と信仰の「到達点」と見なし、そこから生涯全体の思想や歴史的立場を俯 ふ瞰 かんしていく立場である。二つ目は、今村仁司(一九四二~二〇〇七)に代表されるような、清沢の生涯を貫く思想の基軸を初期の「宗教哲学」、特に二つの「骸骨」──『宗教哲学骸骨』(一八九二年)、『他力門哲学骸骨試稿』(一八九五年)──において構築された理論的構想に積極的に見いだそうとする立場である。
筆者自身は、後者の今村の立場に近く、「清沢満之の哲学は、理論的な内容に即していえば、主題として有限と無限の関係に尽きる。〔中略〕有限は無限ではなく、無限はけっして有限ではありえないのだが、にもかかわらず究極的なところでは有限と無限は一致すること、これを理論的な言説で首尾一貫して語ろうとするのが、清沢哲学の中心的課題であろう」という視座に賛同する。ただし、今村は二つの「骸骨」を「双子著作」あるいは「セット」とまで称し、その連関性をことさらに強調するが、それだけではなく、『宗教哲学骸骨』から『他力門哲学骸骨試稿』への ()5
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転換が、「死」という「有限なる自己」の現実問題(根本
撞着)と密接した論展開であったという点を重要視したいと考える。また、今村は清沢の仕事を前期(宗教哲学、学
知の道〔フィロソフィア〕)と後期(「精神主義」、特に絶筆「我信
念」がその典型)とに分けて「一貫する」ものを探求するが、その中間に位置する思想の転換期──すなわち『臘扇記』の時代──に何が起こったのか 00000000については深く追究しない。それゆえ、前期の「学的知」が後期の「信念」を支えていると押さえつつも、その間にかえって断絶を感じ、やや飛躍しすぎる印象を受ける。
本稿は、考究の方法として、あくまでも『臘扇記』という一つの書物を手がかりに、清沢の生涯の一断面を掘り起こしていく。しかし、決してその思想の転換や極致(到達
点)を、一時点に集約させることを目的とはしていない。あえて言うならば、「点」としてではなく、生涯を貫く「線」の発見を目指す。本稿の主題は、思想の一貫性ではなくして、「一貫する」思想である。 二、『臘扇記』とはいかなる書物か
① 転換の年―一八九八年―
『臘扇記』が起筆された一八九八(明治三十一)年は、清沢の境遇・思想の両面において、大きな転換が起こった年であった。それは、晩年(一九〇二年)に東京の地より往時を回想した、次の言葉から窺い知ることができる。
回想す。明治廿七八〔一八九四、九五〕年の養痾 88に、人生に関する思想を一変し、略ぼ自力の迷情を翻転し得たりと雖ども、人事の興廃は、尚お心頭を動かして止まず。乃ち廿八九〔一八九五、九六〕年に於ける我が宗門時事は、終に廿九卅年〔一八九六、九七〕年に及べる教界運動を惹起せしめたり。
而して卅〔一八九七〕年末より、卅一〔一八九八〕年始に亘りて、四阿含 888等を読誦し、卅一年四月、教界時言の廃刊と共に此の運動を一結し、自坊に投じて休養の機会を得るに至りては、大に反観自省の幸を得たり ()10
と雖ども、修養の不足は尚お人情の煩累に対して平然たる能わざるものあり。
卅一〔一八九八〕年秋冬の交、エピクテタス氏教訓 888888888
書 8を披展するに及びて、頗る得る所あるを覚え、卅二
〔一八九九〕年、東上の勧誘に応じて已来は、更に断えざる機会に接して、修養の道途に進就するを得たるを感ず。
而して今や仏陀は、更に大なる難事を示して、益々佳境に進入せしめたまうが如し。豈に感謝せざるを得んや。
明治卅五〔一九〇二〕年五月末日
(岩波『清沢全』八 四四一─四四二頁、〔 〕内の補足は
筆者による)
ここで清沢は、自らの境遇を一八九四(明治二十七)年から翌年にかけての垂 たる水 みでの結核療養(養 よう痾 あ)まで遡 さかのぼる。そこから、教団革新運動の惹 じゃっ起 き(一八九六年十月)、四阿 あ
含 ごん等の読誦(一八九七年末~一八九八年始)、『教 きょう界 かい時 じ言 げん』の廃刊に伴う運動の終結(一八九八年四月)、自坊での反観自 省(一八九八年五月~)、『エピクテタス語録』の披展(一八九
八年秋冬)、東上の勧誘への応諾(一八九九年六月)と、一九〇二年五月(明治卅五年五月末日)の「今」に至るまで、一歩一歩、踏みしめるかのようにたどっていく。
そのなかでも、とりわけ一八九八(明治三十一)年という年に注目したい。ここで回想される歩みにおいて、この年は明らかに一つの転機となっている。東京に身を置く「今」からの回想となれば、「東上」の前年に当たるこの年は、全体の基点と言っても過言ではないだろう。そして、清沢はその直接的な契機となった、「卅一年秋冬」に起こった出来事を、エピクテタスとの邂逅という一事に収 しゅう斂 れんさせる。『臘扇記』は、この時期に書かれた信念の記録である。
② 執筆の背景と実存的課題
『臘
扇記』は、第一号と第二号とから成る。第一号は、一八九八(明治三十一)年八月十五日から十一月十八日までの記録である。一方、第二号には、翌日の十一月十九日から一八九九(明治三十二)年一月二十五日までの記録と、 ()11
その後に続けて「偶坐案定」(二月二十五日付)、「四月五日記」と題された二つの随想群が収められている。
基本的には「日記」として分類される書物であるが、単なる「日常の記録」には留まらない。書かれた当時、清沢は教団革新運動に挫折し、病の身を抱えて自坊の大浜西方寺へ帰っていた。この手記は、その保養生活のなかで内観省察された、自己のすがたを刻み込んだ「実験」の書でもある。それゆえ、友人との面会や往復書簡など、日々の出来事を記録した「日誌」だけではなく、思索の萌芽とも言うべき「断想」が、他の書物からの「抜書」とあわせて随所に書き留められている。
自坊の西方寺へ帰省した一八九八年、清沢は『臘扇記』に先立ち二つの日記──『病床雑誌』(一月一日~三月十五
日、全三号)、『徒然雑誌』(三月十六日~八月十四日、全一
号)──を著している。この年の始めから、約一年一ヶ月もの間(一月一日~翌年一月二十五日)、一日も欠かさず日記を書き続けたのである。それは、あたかも日記を書くこと自体が、「修養」の具体的実践であったかのように窺える。また、これら三つの日記は、「続」という字をもって連続 している。すなわち、『徒然雑誌 第一号』の表紙には「病床雑誌第三号続 0」と記され、『臘扇記 第一号』の表紙には「徒然雑誌続 0」という文字が添えられている。
同時にまた、「病床」「徒然」「臘扇」という題号は、それぞれ起筆された当時の境遇、さらに言えば、実存的な課題をそのまま表しているように見受けられる。それゆえ、この三つの日記は「連続しつつ独立している」とも言い表されるのである。
帰省前、京都にいた清沢は、訪ねてきた知人(河野法 雲)に対し、「それでこれからは一切改革のことを放棄して、信念の確立に尽力しようと思う」と自らの心境を語ったと伝えられる。すなわち、清沢は「信念の確立」を当面の課題に抱きつつ大浜へ帰省していた。しかし、すぐさま『臘扇記』が書き始められたわけではない。その当時、書かれていた日記の名は『徒然雑誌』であった。ところが、帰省後、約三ヵ月の期間を経て、突然『徒然雑誌 第一号 000』を終了させ、新たな名のもとに日記を書き始める。それが『臘扇記 第一号』である。なお、『徒然雑誌』の最後を締めたのは、「如来トハ何物何在ナルヤ」という問いであった。 ()12
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③ 「黙忍堂臘扇」の名のり 『臘
扇記』には、清沢の思想を象徴するような「断想」が、多数刻まれている。なかでも、一八九八年十月二十四日に記された、次の言葉はあまりにも有名である。(以下、
『臘扇記』中の日付は【 】で示す)
自己トハ何ゾヤ、是レ人世ノ根本的問題ナリ。自己トハ他ナシ、絶対無限ノ妙用ニ乗托シテ、任運ニ法爾ニ、此ノ境遇ニ落在セルモノ、即チ是ナリ。
(岩波『清沢全』八 三六三頁)
「自
己トハ何ゾヤ」という問い。それは、あたかも清沢という一個人を突き破り、現れ出たかのような響きをもつ。そして、すぐさま「絶対無限ノ妙用ニ乗托シテ、任運ニ法爾ニ、此ノ境遇ニ落在セルモノ」として見いだされた自己の表白が続く。この問答は、これまで多くの先学によって、清沢における「信念の確立」を表す言葉であると受けとめ られてきた。
無論、その見解に真っ向から反発するわけではない。しかし、ここでは単純にそれを結論として飲み込まず、同時にこの言葉だけを切り取らないよう留意して、清沢の歩みと歩調をそろえながら、問いの起こった意味を確かめていきたい。
また、この「自己トハ何ゾヤ」という問いは、決して唐突に起こされたわけではない。清沢は「信念の確立」を課題として抱きながら帰省したはずであった。しかし、『臘扇記』が起筆されるのは、そこから三ヶ月以上を経てからであり、この問いが現れ出るまでに、さらなる日数を要したのである。
このことを反対の側面からたずねてみれば、なぜ清沢は、『徒然雑誌』を「第一号」で止め、突如として『臘扇記 第一号』に書き換えたのだろうか。清沢が「第一号」と題して書き始めた日記を、一冊のみで終えるのは他に例を見ない。また、日記にかぎらず、『宗教哲学骸骨』や『他力門哲学骸骨試稿』といった哲学論稿、あるいは『在床懺悔録』や『有限無限録』などの随想録に至るまで、書物の名 ()16
には、その当時の直接的かつ実存的な課題が表現されていると見受けられる。したがって、「徒然〔手持ち無沙汰、退 屈なこと〕」ではなく、「臘扇」と名づけなければならないような、逼 ひっ迫 ぱくした問題があったということだろう。
そもそも「臘扇」とは、「十二月〔冬〕の扇」という意味で、つまるところ「無用者・役立たず」を表す。大浜に帰ってからの清沢は、「さしあたり、寺の役にたつことは何もない」という有り様だったようで、自らも後に「どの方面から眺めても、私が居らねばならぬという必要は此の寺に於いて毛頭無いのだから、真実の厄介者である」と述懐している。また、具体的なエピソードとして、婿養子の立場で実父の永 なが則 のりを迎え入れたことにより、寺での肩身が狭くなったことや、門徒たちに嫌われていたことなどが伝えられる。そのことが、先の回想文では「人情の煩累」という言葉で表されているのだろう。そして、その問題に対して「平然」ではいられず、さらにはその原因が周囲にではなく、「修養の不足」によると内省されているのである。
ここにおいて注目すべきは、第一号の表紙の題号に添えられた「黙忍堂」という語である(図参照)。「黙忍」とは、 第一号の裏表紙に記された、江戸期の儒学者・貝 かい原 ばら益 えき軒 けん
(一六三〇~一七一四)の『続和漢名数大全』からの引用「百戦百勝不如一忍 0〔百戦百勝、一忍にしかず〕、万言万当不如一黙 0〔万言万当、一黙にしかず〕」に基づくと考えられる。 また、「堂」とは建物のことで、ひいては「生きる場所」を表す。「真実の厄介者」を自覚し、居場所のない不自由な生活において、「黙忍を生きる場所」とするという、静かなる意志が表されていると読みとれる。したがって、『臘扇記』とは、「徒然」なる自己から「修養の不足」の内省を潜 くぐり、さらに深く自己を掘り下げようとした軌跡にほかならない。言葉を換えれば、「黙忍堂臘扇」という名のりのもと、その自覚内容がそのまま「記」された全身全 ()17
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明治卅一年八月十五日起 黙 忍 堂
臘 扇 記 第一號 徒然雑誌續 山谷養生印曰 百戦百勝不如一忍 ◉
萬言萬當不如一黙 ◉
無可簡擇眼界平 ◉
不藏秋毫心地直 ◉
續和漢名數大全八六帋
【表紙】【裏表紙】
霊の書であり、西田幾多郎の言葉を借りれば、まさに「悪戦苦闘のドキュメント」であった。それゆえ、その軌跡をたどっていくことで、清沢から「自己トハ何ゾヤ」という問いが発起する、その瞬間を目の当たりにすることができるだろう。
ただし、ここで付言しておかなければならないのは、『臘扇記』に刻まれた思索の軌跡は、確かに、内省を潜った言葉ではあるが、それらは決して社会との関係が断絶されたものではないということである。後ほど確認するが、「日誌」にかぎらず、思索の「断想」や「抜書」の一語一語に至るまで、そのすべてが現実の生活に根差したものであり、決して他者との交流を断絶した思弁的なものではない。そもそも、境遇と乖離した思想などありえない。
三、『臘扇記』の公開と波紋
①
「絶対他力の大道」
『臘
扇記』が、清沢の書いた他の日記と異なるのは、著者が生前にその公開を、断片的ながらも認めたという点で ある。ここに『臘扇記』特有の歴史的意義があるのではないかと考える。そこで、この意義を確かめるにあたり、『臘扇記』がいかなるかたちで世に出され、読み継がれてきたか──すなわち、その公開と波紋という見地よりたずねていきたい。
この書が一般に公開されたのは、一九〇二(明治三十
五)年六月、浩々洞の発行する雑誌『精神界』(第二巻第六
号)へ掲載されたのが最初である。ただし、この時に発表されたのは、「断想」の一部が抜粋された「絶対他力の大道」という題名の抄録であり、『臘扇記』という書名と清沢の名は表に出されなかった。(ちなみに、本人の執筆した文
章のなかに「絶対他力」という表現は見られない。)
この抄録は、清沢の死後、法要や集会で「聖典」のごとく唱和されるなど、後学の間で最も大切に伝えられ、また「清沢満之の思想」を表す言葉として親しまれてきた文章の代表格である。
先述のとおり、「絶対他力の大道」が誕生したのは、清沢がまだ存命の頃である。掲載の経緯に関する記録や追憶がほとんど残っていないため、詳しい事情は不明であるが、 ()21
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次の暁烏敏の証言(『絶対他力』弘文堂、一九五四年刊行)により、この抄録を編集・抜粋し、誌上に掲載させたのは、門弟の多田鼎であったと考えられる。
「精 神界」の本領をいつも先生が書いておられたのですが、何時か先生が暇がなくて多田君が先生の「日記」の中から短文を集めて、それにこの『絶対他力の大道』という題号をつけて『精神界』に出しました。それがこの文章です。『絶対他力の大道』というそういう文を、別に先生が書かれたのではないのであります。(『暁烏敏全集』第八巻 三二六頁、凉風学舎)
このなかで「何時か先生が暇がなくて」と言われる事情について確認しておきたい。第一に、この年(一九〇二
年)の春、清沢をはじめ浩々洞の門人たちに住居を貸していた近 ちか角 ずみ常 じょう観 かん(一八七〇~一九四一)が、欧州への宗教事情の視察から帰国したことが挙げられる。それに伴い、六月一日に浩々洞はそれまでの本郷森川町(現・求道会館)から東片町へ引越しをすることになった。この件について、 『精神界』同号巻末の「報道」欄には、「新たに居を移して、事の忙 いそがわしきことありたるため、本誌の発刊、其の期に遅れ候」と記されている。続いて考えられるのが──これが最も重い事情のように見受けられる──長男・信一の死(六月五日、享年十一歳)である。前の月までは大学病院に入院していたが、引越しを機会に六月からは浩々洞へ入ったという。「とても全治の見込がない」ためであったとも伝えられる。さらにその四か月後には、妻・ヤスが大浜で死去している(十月六日、享年三十六歳)。この頃には、すでに病状が悪化していたと推測されるが、同時に自らもまた重い結核を抱える身であった。そして、同年十月、清沢は真宗大学でのトラブル、すなわち、学生たちが大学主幹の関 せき根 ね仁 にん応 のう(一八六八~一九四三)を排斥しようとする運動の責務を負い、学監を辞任して翌月には大浜西方寺へ再び帰省している。そこに至るまでにも、年の始めから学内では学生騒動などの混乱が続いていたと伝えられる。自ら吐露するように、一九〇二(明治三十五)年は、清沢にとってまさに「皆んな砕けた年」であった。
しかし、ここで見過ごしてはならないのは、冒頭で引用 ()24
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した回想の文が、「明治卅五〔一九〇二〕年五月末日」に書かれたものであるという事実である。後に「皆んな砕けた年」と述懐される、その境遇のただなかにおいて、清沢は感謝の念を表白する。「今や仏陀は、更に大なる難事を示して、益々佳境に進入せしめたまうが如し。豈に感謝せざるを得んや」と。ここに宗教的境涯とも呼ぶべき開けを読み取ることができるだろう。
以上の事情により、清沢は『精神界』のために筆を執ることができなかったと考えられる。ここで、もう一点注目すべき事実がある。それは、実際に多田との間でいかなるやりとりがあったかは測りかねるものの、清沢が三年以上前に書き上げた日記を手元に置いており、さらには、たとえ断片であったとしても、その公開を認可したという事実である。若い頃の日記の表紙に「厳禁他見者也」と記すなど、清沢は基本的に日記をきわめて個的・内的なものとして扱っていた。それゆえ、『臘扇記』は個人的な記録に留まらない書物として捉えられていたと考えられる。言葉を換えれば、少なくとも「断想」部分に関しては、自身以外の読者の存在を認めていたのである。 ところで、「絶対他力の大道」は、編集の多田鼎が、『臘扇記』のなかから七節を抜粋して「成文」したものである。各節に清沢本人の表記と異なる箇所が確認できるため、「文脈を軽視した編集」と指摘され、あるいは「信仰の花
〔他力の讃嘆〕」だけを摘み取って「満之の闇の根〔喘 あえぐよ
うな歩み、妄念の闇の省察〕」を切り捨ててしまったと厳しく批判される。確かに、多田の編集により、「自己ヲ省察シテ天道ヲ知見スベシ」や「自己ヲ知ルモノハ勇猛精進」といった、清沢において「修養」を意味する重要な表現が変更もしくは削除されてしまった点は、大きな問題かもしれない。また、先の【十月二十四日】の問答(第一節)が、「自己トハ他ナシ」以下の「応答」部分のみ摘み取られ、「自己トハ何ゾヤ」という「問い」の部分が省かれている点にも疑問を感じる。
しかし同時に、その編集のすべてを「不純物」と見なして切り捨ててしまってはならないとも考える。無論、多田の手によって、幾分か恣意的に「成文」されたのは確かな事実である。しかし、それだけではない。この抄録は、後学の間で大きな波紋を起こしながら読み継がれ、現代にま ()27
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で──「絶対他力の大道」という名のもとに──清沢の思想の「骨格」を確かに伝えてきた。そのこともまた、紛れもない事実なのである。それは言わば、『信仰坐談』のなかで語られるところの「砂金」である。たとえ「水中」に沈んだとしても、「一種の光彩」を放つものは、必ずその声が聞き取られていく。
② 清沢没後の公開と波紋
清沢が死去した翌月(一九〇三年七月)、その月に発行された雑誌『精神界』(第三巻第七号)の巻末には、「本巻本号を清沢満之逝去の紀念となす」という言葉が添えられた。そして、この紀念号から清沢を憶念しつつ新たな連載が始まった。その名を「臘扇日乗」という。
「日
乗」とは「日記」の意味であるが、言うまでもなく、『臘扇記』にちなんでつけられた題名である。「雑 ざっ纂 さん」欄に一年半(全十八回)にわたって続けられたその連載は、清沢の日記の言葉を年代順不同で引用していくという内容であった。その第一回(『臘扇日乗』の一)は、「如来の奴隷 となれ」という標題のついた一節で、一九〇三(明治三十
六)年の『当用日記』からの引用である。
我等の大迷は如来を知らざるにあり。如来を知れば始めて我等の分限あることを知る。乃ち我等の如意なるものと、如意ならざるものとあるはこの分限内のものと分限外のものとあるが為也。然るに我等は始めより何が分限内のものにして何が分限外のものたるやを知らず。(中略)我等が賦与せられたる種々の能力を適当に運用し進めば如来は我等の分限を増大ならしめ玉う也。是れ我等が我等の能力を精練修養せざる可からざる所以也。如来の奴隷となれ、其の他のものの奴隷となること勿れ。(岩波『清沢全』八 四五三頁─四五四頁)
連載名の由来となった、『臘扇記』の言葉が掲載されるのは、翌月の第二回からである。以後、最終の第十八回
(一九〇四年十二月)まで、すべて「清沢満之」の記名が入 ()32
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り、計四十七節が続けて掲載されていく。そのうちの三十二節が『臘扇記』からの抜粋であった。
(『臘扇記』初出の)第二回は「不可思議」と題された一節──すなわち、かの 00「問答」に始まる。この時に初めて「自己トハ何ゾヤ」という「問い」が、清沢という個人を超えて世に公開されたのである。没後ただちに記名入りで発表され、しかも一年半にわたって世に出され続けた清沢の言葉が、『臘扇記』を中心とする日記からの抜粋であったことは、再評価に値するのではないだろうか。
その後、単行本としては初めての公開となった『懺悔録』(梁江堂、一九〇六年、内容は「臘扇日乗」からの転載が中
心)を始め、没後の記念年(十周年・三十周年・五十周年・百
周年)にあわせて四度編纂されてきた全集、さらには文庫本などにおいても、『臘扇記』はそのたびに必ず収載され、多くの人々の目に触れる機会を得てきた。特に、没後百周年(二〇〇三年)を機縁に、岩波書店から全集が刊行された意義は大きい。そのことにより、「宗門内(東本願寺)ではウルトラ有名人、宗門外ではほとんど忘れられた思想家」(今村仁司)と称されるような壁を越えて、広く公開さ れる可能性が拡がった。 そして、二〇〇八(平成二十)年には、清沢満之記念館
(西方寺)より、肉筆を写した『影 えい印 いん本 ぼん 臘扇記』が出版され、あわせて詳しい補注や解説のついた初めての注釈本『臘扇記 注釈』(大谷大学真宗総合研究所編、法蔵館、以下
『注釈』と記す)が発刊された。
ここにおいて、それまでは研究の領域においても、一部の言葉が抄出されるに留まっていた『臘扇記』の「骨格」に、思想的・歴史的な肉付けを施していく準備が、ようやく整ったのである。
四、「日誌」から見えるもの
① 浮かびあがる人物像
あらためて整理すると、『臘扇記』の記述は大きく三種に分類できる。すなわち、日常の出来事を記した「日誌」と、他の書物からの「抜書」、そして思索の軌跡を書き留めた「断想」である。従来の研究では、「断想」部分の思索内容や『エピクテタス語録』の「抜書」に関する考察に終 ()34
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始されており、「日誌」部分、特にその書き方そのものに対しては、詳しく言及されてこなかった。
しかし、頁をめくり「日誌」の記述を追っていくほどに、ありありと浮かんでくる人物像がある。次に示すのは、起筆して最初の四日間(八月十五~十八日)の「日誌」を、肉筆をもとに活字化したものである。
明治三十一年八月十五日(月)六、二十八日晴 ㋫稲葉氏 ㋫乗杉氏 小包、清川氏中ニ白川会諸氏ヨリ寄贈品絹地 一疋ヲ封ス野寺小山氏来寺 十六日(火)六、二十九日晴蒸暑㋩井上氏 ㋩乗杉氏宛 十七日(水)七、一日晴蒸暑㋩井上氏宛 ㋫稲葉氏宛 ㋫清川氏宛町内衛生演説主トシテ赤痢予防ニ関スルモノ 夜小雨
十八日(木)七、二日晴少シク涼味ヲ帯ス昨雨ノ結果ナラン ㋫占部公順氏
寺務所会議絶版及高倉相伝ノ義ニ同意云々報来且ツ二諦教報ヘ投稿ヲ促ス ㋫占部氏宛 右略答 ㋫楠龍造氏無尽灯原稿依頼 (改頁)言志四録清川氏寄贈 ㋩清川氏宛同上謝辞
文明各国宗教法論 著者寄贈葦原林元子媒 ㋫葦原氏宛前書受領謝辞(『影印本 臘扇記』をもとに活字化、岩波『清沢全』八 三三七~三三八頁参照)
ここから、まず単純に見えてくるものは、きわめて几帳面で律儀な人間性ではないだろうか。毎日欠かさず天候が記録されると共に、日付には、新暦(グレゴリオ暦)に加えて旧暦(天保暦)が書き添えられている。また、人の名には必ず敬称(氏・子)が付されており、失念した際にはわざわざ後で書き加えた形跡も確認できる。それ以前に、一目瞭然で文字の大きさや高さが整っており、しかも、これらの傾向はすべて、その日の体調や多忙さの如何にかかわらず、隅々にまで行き届いている。
続いて目に飛び込んでくるのが、㋫㋩小といった記号である。それぞれ【㋫=封書】【㋩=葉書】【小=小包】(そ
の他にも【
○郵=郵便】【
○デ=電報】【
すが、驚くべきは、その頻度と小まめさである。清沢から ○刷=印刷物】がある)を表
暑 極
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送られる往信には「~宛」と記されているため、手紙や寄贈品が届いたら、すぐに返事や御礼を書き送っていたことが確認できる。そして、その往復書簡の主たる相手には、稲葉昌 まさ丸 まる(一八六五~一九四四)・清川円 えん誠 じょう(一八六三
~?)・井上豊 ぶん忠 ちゅう(生没年不詳)といった、教団革新運動を共に主唱した「白川党」同志の面々が名を連ねる。(その
後、月見覚了〔一八六四~一九二三〕や沢柳政太郎〔一八六五~一九
二七〕の名も頻繁に登場する。)
清沢の生涯を追っていく際、留意しなければならないのは、教団革新運動の時代(一八九六年秋~一八九八年春)と、この『臘扇記』の時代(一八九八年夏~一八九九年春)、さらには一八九九年六月に東上した後の時代(浩々洞の時代、一
九〇二年秋まで)とを分断して考えてはならないということである。運動の終結から『臘扇記』の起筆まで半年も経過しておらず、いまだ同志との交流は途絶えていない。そして、これら三つの時代は合してもわずか六年であり、清沢の人生を貫く「修養の道途」としては、間違いなく連続している。そのことを、決して忘れてはならないだろう。
このように一つ一つの記述をひも解いていけば、一見、 無機質に映り、退屈な印象を受ける「日誌」部分にも、確かに、生命が流れていることが明らかとなる。そうして、歩調を合わせて読み進めていくと、突然、その流れが激変するような事件に遭遇する。 ──新法主及三連枝一条。 清沢にそう呼ばれるこの事件は、教団全体を揺るがすほどの大騒動であった。『臘扇記』では、清川円誠からの封書(八月二十八日)で初めて知って以来、九月上旬までの間にたびたび関連の記述が登場する。それは文字どおり、清沢を心身共に揺り動かすような激震の出来事となった。そして、この一件(一条)を契機として、清沢の内奥より、かつての志願が再燃するのである。
② 転換の契機―新法主及三連枝一条―
『臘
扇記』前半(第一号)の記述を追っていくなかで、その内容が劇的に変化する局面が二箇所ある。一つ目は、『エピクテタス語録』の英文書写が始まる日(九月二十七
日)。二つ目は、そのエピクテタスを潜った思索が日本語 000 ()41
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で 、書き出される日(十月十二日)である。「自己トハ何ゾヤ」という問いは、決して唐突に起こったものではなく、この思索からの展開にほかならない。そして、これら一連の転換の契機となったのが、先に挙げた「新法主及三連枝一条」と呼ばれる事件である。それは同時に、翌年六月からの東京移住の萌 きざしでもあった。
ここで清沢が「一条」と呼ぶものは、当時の法 ほっ主 す(現在の 門首)、現 げん如 にょ(大谷光 こう瑩 えい、一八五二~一九二三)の子である新 しん法 ほっ
主 す・大谷光 こう演 えん(一八七五~一九四三)と、三人の連 れん枝 し(法主の
家系の子息、浄暁院〔大谷瑩亮、一八八〇~一九三六〕・慧日院〔大谷
勝信、一八七六~一九五一〕・能浄院〔大谷瑩誠、一八七八~一九四八〕)が、一八九八年の八月下旬に突然、寺務所の「諮 し議 ぎ」や法主の「允 いん可 か」を待たずに京都の東本願寺を脱出 00し、新法主と浄暁院の二名は東京へ留学、また慧日院と能浄院は海外
(上海・台湾)での開教を表明したという事件である。この一件は、ただちに全国へ通達が出され(八月二十七日付)、当時の大谷派機関誌『常葉』の号外(八月三十日発行)では、「新御門 もん跡 ぜきの英断」と称して華々しく発表された。
また、一週間後に発行された『常葉』第三十三号(九月 七日発行)では、九月五日に東本願寺大 おお寝 しん殿 でんで示された「御門跡〔法主〕」の「御親言」「御親示書」とあわせて、首謀者との風評の立った参 さん務 む・石川舜 しゅん台 たい(一八四二~一九
三一)の演説内容が公表された。
清沢はこの一件を知るやいなや、月見覚了・清川円誠といった、かつての同志との往復書簡を重ねていく。石川参務の画策によると察知していたようではあるが、文面には「感服」「感心」「感激」といった言葉が並び、その想いを新法主へ伝えようと努めていた様子が窺える。自坊の西方寺では門徒のみならず、地域の僧侶や名士を集め、「大谷派一大事報告演説」を開催した(九月五日)。この演説会は、『教学報知』(現在の『中外日報』)で報道されるほど注目を浴び、満堂の聴衆が感涙にむせんだという。
そのような一連の活動の成果であろうか、やがて新法主の側近・葦 あし原 はら林 りん元 げんから「スグノボレ」という電報が届き
(九月十六日)、その二日後に「東上ノ途ニ就ク」こととなる。わずか十日間の滞在であったが、この時の東上こそが、清沢の身に大きな転回をもたらした。すなわち、その期間中に実現した新法主との面会が機縁となって、翌年六月か ()43
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らの東京生活が導かれる。そして、二年後の一九〇一(明
治三十四)年には、京都から東京巣鴨の地に真宗大学が移転建設され(九月落成、十月開校)、その初代学監となる。さらには、時を同じくして、本郷森川町には浩々洞が開かれ、そこに彼を慕う青年たちが集った。
ならば、結核の病を抱え、自坊で保養生活を送っていた清沢を、ここまで揺り動かしたものは一体何であったのか。
③ 志願の再燃―東京への想い―
「新
法主及三連枝一条」の事件を知った時、清沢がことさらに注目したものは、おそらく「東京」という地名であった。東京──それは一年前の教団革新運動の折、何としても「教育の中心」を置くようにと願った場所であった。一八九七(明治三〇)年七月、清沢は『教界時言』(第九
号)で「真宗大学新築の位置に就きて」という題の論説を発表する。そこではまず、革新の目的は、制度の改正や会議の開設ではなく「精神的革新」にこそあると主張される。そして、「なぜ精神的革新が成功しないのか」という問い が立てられ、それは「僧侶の腐敗」によるもので、その「主要なる原因」は「僧侶教育の怠慢」にあると押さえられる。それでは、現今の教団に必要な教育とは何か。
余輩の称して教育と為すものは所謂精神的教育にして、かの記誦詞章の学には非ざるなり、記誦詞章の学は死学のみ、死学は活ける知識を産し活ける道徳を生ずること能わざるなり、(岩波『清沢全』七 八七頁)
清沢の志願する教育は、「精神的教育」であった。それは決して「記誦詞章の学」であってはならない。教授された言句を闇雲に暗記するような「記誦詞章の学」では、「活ける知識」「活ける道徳」を産出できないので、それはもはや「死学」である。ここで提唱される「精神的教育」は、やがて東京の地で、真宗大学と浩々洞を現場として目指された教育の方法にほかならない。その基礎となる視座が、この時代にすでに提唱されていたのである。
そして、この「精神的教育」のための学校を新築する際には、本山(東本願寺)のある京都よりも東京を優先すべ ()46
きだと宣言される。その理由については、「東京は吾邦文化の中心にして社会の大勢の最も早く現わるる地たるのみならず、又吾邦に在りて海外の事情を観察するに最も便利なる処なり」と言われるが、保守的な空気が漂う本山の御膝元(京都)を離れなければ、目指す教育は実現されないということだろう。
また、日誌の記述によると、新法主等の上京を清川からの回書(八月二十八日)で知った清沢は、その二日後に送った返信に次の図を書き入れたという。 ここに示されるのは、「宗義〔真宗の教義〕」を中心に、そこから「安 あん心 じん〔信心〕」「学説〔学問・解釈〕」が派生するという視座である。特に注目すべきは、「普通的〔普遍
的〕」で「一定不変」の「宗義」が「宗祖〔親鸞〕・本典〔『教行信証』〕」に依るのに対して、「発達進歩」のある「学説」は「宗徒〔宗学者〕・末書〔解釈書〕」に過ぎないという視点である。
一八九七年十月、清沢は「貫 かん練 れん会 かいを論ず」(『教界時言』
第十二号)という論説を発表する。貫練会とは、清沢たち革新勢力に対抗して結成された、江戸以来の「宗学」の伝統を師資相承する会である。この論説では、貫練会の設立の趣意書から四つの問題点が挙げられ、そこに「宗義」と「宗学」を混同する謬 びゅう見 けん、それに起因する誤解、さらには「党 とう同 どう伐 ばつ異 いの精神」を実行しようとする弊害があると厳しく批判される。ここで言われる「宗学」とは、先の図の「学説」と同意である。この論説でも、「一定不易」の「宗義」は、「立教開宗の聖典たる広本六軸〔『教行信証』〕の中に在り」と断言される。それに対し、「発達変遷」のある「宗学」は、「宗義を学問の方面より討究するもの」 ()47
安心 宗義 学説 不可見 可見 可見 不可説 可説 可説
個人的 普通的 個人的 一定不変 一定不変 発達進歩 宗祖 宗徒 本典 末書
(岩波『清沢全』八 三四三頁) ()48
であり、解釈の深浅優劣にかかわらず──たとえ香 こう月 がつ院 いん深 じん
励 れいや円 えん乗 じょう院 いん宣 せん明 みょうなどの「学轍」であっても──「末学の私見」に過ぎないため、宗祖建立の「宗義」と混同してはならないと押さえられる。
これらの指摘は、『臘扇記』中に描かれた先の図の視座と一致する。革新運動の際に発起した志願が、東京への想いと共に再燃したのである。そして、「一定不変」たる「宗義」を、一貫して宗祖親鸞と『教行信証』に依るべきだと断言している点は、清沢の学問の姿勢を考えるうえで見過ごしてはならないだろう。
このように、『臘扇記』をひも解くことで初めて見えてくる歴史があり、清沢のすがたがある。しかし言うまでもなく、ここで見えたものもまた一つの側面、一箇の珠に過ぎない。さらにもう一点、見過ごしてはならない事実がある。清沢がエピクテタスの言葉に震撼したのも、一八九八年秋の東上を契機として起こった出来事であった。 五、『臘扇記』における思索の展開
①
『エピクテタス語録』
東京新橋に到着した日(九月十九日)、清沢は親友の沢柳政太郎の家へ向かう。その日から帰省するまでの十日間、新法主との面会以外にも、かつての同志や教え子、恩師など、限られた時間のなかで数多の知人との再会を果たす。
そして、この期間中に偶然、沢柳宅の書棚から『エピクテタス語録』を発見する。この書は、やがて『阿含経』、『歎異抄』とあわせて「予の三部経」と言われるほどに読みこまれていく。『臘扇記』中に初めてその言葉が書写されるのは【九月二十七日】であったが、「東上」期間中だけでは飽き足らず、沢柳から借用し、自坊へ帰省(九月二
十九日)してからも読書と思索に沈潜する日々が続く。
あたかもそれは、死に直面し、「黙忍堂臘扇」と名のらずにはいられなかった不自由な境遇と、自らの至奥より再燃した志願との間に生じる煩悶を省察していくような歩みであった。 ()49
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ところで、清沢がエピクテタスに触れたのは、この時が初めてではない。かつて真宗大学寮で行われた「西洋哲学史講義」(一八八九年十月~一八九四年四月)でも取り上げられており、「宗教と道徳を重んぜり」「其の奴隷なりし時、極めて強き虚平の心を有せり」「此の人の考は自己の脆弱と云う事を論の起点とせり。霊魂の療治の工夫を以て、人世の目的とせり」「人間に取っては、意志が吾人の行の道具で、甚だ大切なり」等と講じられた。かねてより、重要な哲学者・聖賢の一人としては、十分に認められていた。しかし、この時の邂逅をとおして、「羅馬第一、唯一の聖哲」と讃嘆され、その語録は「西洋第一の書」とまで称されることになる。
『臘 扇記』のなかに集中して英文の「抜書」が見られるのは、大きく二つの時期に分けられる。第一期は【九月二十七日】【十月三日】【十月六日】【十月二十二日】【十月二十三日】の計五日、第二期は【十一月十日~十七日】の八日間である。また、第一期途中の【十月十二日】には、咀 そ
嚼 しゃくされたエピクテタスの言葉(十文)が初めて日本語で表され、【十月二十四日】には「自己トハ何ゾヤ」という 問いが発起する。そして、この一連の読書と思索が、後年に「頗る得る所あるを覚え」と回想されるに至るのである。
②
「仏教の効果は消極的なるか」
『臘扇記』における思索の展開を追っていくうえで、
『エピクテタス語録』の「抜書」とならんで見過ごすことのできない軌跡がある。それは、ちょうど同じ時期に雑誌『無尽灯』で発表された論文「仏教の効果は消極的なるか」である。一八九八年九月十五日発行の『無尽灯』第三巻第九号から同年十二月十五日発行の第十二号まで四回にわたって連載された。
従来の研究では、滅多に扱われないばかりか、全四回があたかも一本の論文のように見なされるばかりで、回ごとに表れた思索の展開や『臘扇記』との連関に注目されることはなかった。しかし、実は先に示した【八月十八日】の日誌に、すでに『無尽灯』編集担当の楠龍造(一八七四~
一九三三)から依頼の文書が届いたことが記されていた。その十日後には、あらためて第一回の委嘱状が届き、翌月 ()51
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の頭(九月五日)には、原稿が送られている。次号以降も同様に、月末に届く寄稿の委嘱状を受けて、月初めに期限を守って原稿が編集局へ送られている。
第一回(九月五日発送)は、『エピクテタス語録』の「抜書」が始まる前で、標題に関する問題提起に留まる内容である。最初に、仏教で説かれる「無我」「空」「寂」「他力」といった原理を「消極的」とする物議や、仏教の伝播諸国が衰滅したのを見て、その影響が「魔酔的」と言う論議に対して、「果して正当の論議なるや」という疑問を出す。その後、すぐさま「仏教の宣言は慈悲にあり救済にあり転迷開悟にあり、是れ豈に積極的の至極にあらずや」と自ら応答し、次回につなぐかたち(未完)で終わっている。 第二回(十月五日発送)がまとめられたのは、第一期の英文書写が始まった直後である。その影響が反映されたのか、「相対有限/絶対無限」という語が初めて登場し、「吾人が人世に対して不足を感ずる所以の本根は蓋し絶対無限に到達する能わざるにあらずや」と問われ、そのために「人世」には道徳や宗教が必須と論じられる。
第三回(十一月二日発送)は、エピクテタスとの邂逅後、 自らの言葉で語るほどに思想が浸透した【十月十二日】、さらには「自己トハ何ゾヤ」という問いが発起する【十月二十四日】を経由して執筆されたものであり、よほど吟味したのか、編集局へ送付する前日(十一月一日)の日誌には「原稿改写〔書き改め〕」のために一日費やしたと記されている。そして、この回の冒頭は「吾人は現在に相対有限の境界に落在せるものなり」という一文から始まる。【十月二十四日】に「絶対無限の妙用ニ乗托シテ、任運ニ法爾ニ、此境遇ニ落在セルモノ」として見いだされた「自己」の自覚と同内容であると共に、「現在」という語が見られ、後年、浩々洞の時代に提唱された「現在安住」にも通じる言説である。それ以外にも、「相対有限」のわれわれが「絶対無限」という「大積極的のもの」を開顕するためには「否定の方法」に依らなければならない、という独特の論理も繰り広げられる。全四回のなかでも、特に思索の展開がはっきりと見られる回であり、エピクテタスとの邂逅を潜った思索が色濃く反映されたものとして、きわめて重要な論考であると考える。
最終の第四回(十二月四日発送)は、「絶対無限」が「人 ()55
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生の最大疑問」「全く不可解の疑問」と述べられたうえで、最後に改めて「仏教に対して論議するの人士は、人生に迷悟あることを知れるや否や」と問いを起こす。清沢において「迷悟」の別は、絶対無限に達していないことが「迷」で、絶対無限に達することが「悟」であると明らかであり、それゆえ「既に絶対無限の必要を感じ、既に迷悟二界を認識せるものは、既に是れ仏教界に一歩を踰して、其の効果を実験せるものなり。〔中略〕仏教の外面的関係のみを観察し而も亦其の見解を精くせずして、仏教の効果は消極的なりと、概論するの人士は、請う吾人の言議を一顧せんことを」という言葉をもって、力強く締めくくられる。
以上、簡単に内容を確かめてみたが、『臘扇記』期間中の思索の展開をリアルタイムで伝えるものとして、再評価に値する論文であることは間違いない。また、かねてより革新運動時代の『教界時言』や、晩年に浩々洞から発行された雑誌『精神界』誌上での言説に注目した研究は大いに盛んである。しかし、『教界時言』には「教団の革新」、『精神界』には「仏教の大衆化民衆化」という明確な発行目的があった。それゆえ、清沢自身の思索の展開を確認す るためには、この論文にかぎらず、教団革新運動の時代から『臘扇記』を経て、浩々洞の時代まで一貫して発表され続けた『無尽灯』誌上の論文を、当時の境遇や歴史的状況と照らし合わせながら確かめ直す必要があるだろう。
六、エピクテタスとの邂逅
① 自由の場所を求めて
清沢が沢柳宅で手にしたジョージ・ロング訳の『エピクテタス語録』(一八七七年、英題は“DiscoursesofEpictetus”)には、エピクテタスの弟子・アリアノスの聞き書きである「語録〔デアトリバイ〕」と、そこから抜粋して手短にまとめた「要録〔エンケイリディオン〕」とが収められている。【九月二十七日】に初めて書写されたのは、「語録」の序盤からの二文であった。(以下、英文・単語に付す和訳は、岩
波文庫『人生談義』〔上・下、鹿野治助訳〕を参照して筆者が作
成したもの)
Man,hesays,youhaveafreewillbynaturefrom ()58
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hindranceandcompulsion.But,youobject,“Ifyouplacebeforemethefearofdeath,youdocompelme.”No,itisnotwhatisplacedbeforeyouthatcompels,butyouropinionthatitisbettertodoso-and-sothantodie.Inthismatter,then,itisyouropinionthatcompelledyou:thatis,willcompelledwill.Epict.BkI,Ch.XVII,p.54.Butthetyrantwillchain─what?theleg.Hewilltakeaway─what?theneck.Whatthenwillhenotchainandnottakeaway?thewill.Thisiswhytheancientstaughtthemaxim,Knowthyself.ch.XVIII,Ib.p.58.(岩波『清沢全』八 三五〇─三五一頁)
清沢は、英文を書き写す際、特に着目した単語に下線を引く。最初に抜き書きされた二文のなかで、下線が引かれているのは、“freewill”“fearofdeath”“opinion”“willcompelledwill”“Knowthyself”の五ヶ所である。
このなかの“freewill”というのは、かねてより清沢がエ ピクテタスの思想において「甚だ大切なり」と押さえていた「意志」である。ただし、原文では“willfree”となっており、“free”はその後の“from~”にかかるはずである。「自由意志」と読むためにあえて順序を変えたのか、あるいは単純な写し間違いなのか。いずれにせよ、それほどまでに自由(free)に着目し、自らの境遇において心底渇望していた様子が窺える。 それでは、妨害(hindrance)や強制(compulsion)から解放され、暴君(tyrant)によってつながれ、命が脅かされないような、真に自由(free)なる意志(will)とは何か。ここでは、対照的に不自由なものとして“opinion”が挙げられる。(ある事実に対する)自らの意見(opinion)こそが、自身を強制する(compel)のだと。
この文に関連して、【十月三日】には“ouropinionssqueezeusandputusinstraits〔われわれの意見が自らを押 し潰し、窮地に追いやっている〕”という一文が書写される。現にこの時、清沢の身には死の恐怖(fearofdeath)が迫っていた。しかし、その恐怖とは、「死」という逃れられない一つの事実に対する、個人的な意見(opinion)、あるい
は心の現 あら象 われ(Appearance 以下、心象)に過ぎない。しかし、その不確かで個人的な意見や心象が、自身を押し潰し
(squeeze)、窮地に追いやる(putusinstraits)──これこそが、自らの境遇を不自由と感じ、そこに落ち着けずに苦悩する根本の原因ではないか。それゆえ、自由の場所を「意志」に見いだしたエピクテタスの言葉が、その身に響いてきたのだろう。
なお、エピクテタスの思想において、「意志」は「ロゴス」と同義で扱われ、人間のロゴスは神と共通のロゴスと言われる。
② 絶対無限(他力)の妙用
それでは、いかにして自由(free)なる意志(will)を獲得することができるのか。自坊へ帰ってからも、清沢は読書を続けていく。
【十
月三日】には「語録」から七文が書き写される。そのなかでも、とりわけ次の文に注目したい。 Youarenotabletopurgeawaythewickednessofothers.Clearawayyourown.Fromyourselfcastawaysadness,fear,desire,envy,malevolence,avarice,effeminacy,intemperance.ButitisnotpossibletoejectthesethingsotherwisethanbylookingtoGodonly,byfixingyouraffectionsonhimonly,bybeingconsecratedtohiscommands.Epict.Bk.II,Ch.XVI,p.152-3.(岩波『清沢全』八 三五三頁)
最初に、他人の悪(thewickednessofothers)を粛 しゅく清 せいすることはできないと断られ、そのうえで“Clearawayyourown.〔あなた自身の悪を取り除きなさい〕”と言われる。この語には下線が引かれてあるので、善悪の問題の焦点が自己自身へと向けられていることがわかる。続いて、自身の悪を取り除き、そこから苦痛や恐怖、欲望、嫉妬等々を捨て去るための手立てが“bylookingtoGodonly〔一般に
は「ただ神のみを仰ぐことによって」と訳す〕”と言われる。
清沢は、この一文をことさら深く受けとめた。【十月二 ()61
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十六日】には、自らの言葉で長文の思索がつづられていくが、そのなかの「信仰ト修善ノ関係」を説く一節で再び引用される。
自力ノ修善ヲ勤ムベシ(之ヲ勤メザルハ人間ニアラザルナリ)然レドモ之ヲ勤メントスルニ能ワザルナリ。如カズ、自力ヲ捨テテ他力ニ帰シ、其ノ信仰ノ結果トシテ自 オラ避悪就善ノ為シ得ラルルヲ期センニハ(四日対面ノエピクテタス氏語参照スベシ)(ItisnotpossibletoejectthesethingsotherwisethanbylookingtoGodonly)(岩波『清沢全』八 三六六頁)
自力の修善を勤めること──これこそが人間の根本的な条件であると清沢は言う。しかし同時に、そのことをまっとうできない自身が深く自覚される。そこにおいて「自力ヲ捨テテ他力ニ帰シ」と言われ、「避悪就善〔悪を避け善に
就く〕」という生き方は、「他力に帰す」という「信仰の結果」として、おのずから獲得されると示される。その道理を、【十月三日】に引用したエピクテタスの言葉“Itisnot possibletoejectthesethingsotherwisethanbylookingtoGodonly”において確かめるのである。エピクテタスが言うところの“God”を、清沢は「天道」と翻訳するが、その「天道」とは「他力」と同義で用いられる語である。
善トハ何ゾヤ、悪トハ何ゾヤ、天道ニ安ンズルガ善ナリ。之ニ安ンゼザルガ悪ナリ。天 他力道何レノ処ニカ在ル。自分ノ禀受ニ於テ之ヲ見ル、自分ノ禀受ハ天命ノ表顕ナリ。之ヲ尊ビ之ヲ重ンジ以テ天報恩 恩ヲ感謝セヨ。然ルヲ自分ノ内ニ足ルヲ求ムルコトヲ為サズシテ、外貪慾ノ源 物ヲ追ヒ、他瞋恚ノ源 人ニ従ヒ、以テ己ヲ充サントス、顚倒ニアラズヤ。(岩波『清沢全』八 四二〇頁)
清沢がエピクテタスの言葉をとおして見いだしたのは、「天道ニ安ンズル」ことこそが「善」であるという地平であった。そして、「天道」を知ること──それは同時に、外物を追い、他人に従うことによって己を満たそうとして、かえって貪 とん慾 よくと瞋 しん恚 にが生じるという「顚倒」なる自己のすがたを明らかに知ることでもある。 ()64
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