短報
視覚的情報を活用した鹿児島市内城館跡分布の分析事例
別府佳祐l)
l)891‑0197鹿児島市坂之上8‑34‑l鹿児島国際大学
l はじめに
中世城館の多くは,古代末期以来,荘園制秩序の中にあっ て次第に独自の勢力を確保し,封建的支配を拡大してきた 在地領主の領内統治の拠点であり, また有時の際の防衛拠 点であった. このような性格をもつ中世城館に関する従来 の研究は,地表面観察に基づく縄張図研究や文字史料・絵 画資料・地籍図をもちいた文献史学,そして発掘調査の成 果を用いた考古学的分析などの方法で進められてきた.
中世の権力者の支配構造やその変化を読み解くうえで,
城館の分布のありかたとその変遷を把握し,当時の山城か らの景観・眺望を推測することは重要な作業となると考え られる. これまでの研究において,城館の分布とその変遷 については,領主の系譜や城主の交替,城の立地の変遷が 時系列的に記述・表現されることはあるものの,視覚的・
客観的な方法でそれが明示されることは少ない.そこで本 稿では,鹿児島市内における中世城館跡を対象とし,分布 図や3次元ソフトによる景観復元を用いて,城館の分布や 景観の変化を客観的に示すとともに,視覚的情報に基づく 分析とその意義についてふれてみたい.
図と山城からの景観・眺望図を作成した.分布図作成に は,国土地理院から無料で提供されている50mメッシュ
¥250mメッシュなどの数値地図(標高)や国土画像情報 (カラー空中写真)を用いた.また城からの眺望図作成には,
カシミール3Dを用いた.
3分析結果 3.1分布の変遷
図lと2は,鹿児島県および鹿児島市域の城館配置を示 したものである. この図から,現在の吉野地区・谷山地区 に城館が集中していることがわかる.
次に,時期ごとに分布をみると, 12世紀〜13世紀にか けての城館数は8ケ所であるのに対して, 14世紀に入る と34カ所と急増し,その後減少している.以下,城館分 布の変遷を時代ごとに追ってみたい.
A)12世紀〜13世紀
鹿児島市の境域内は, 中世の薩摩国鹿児島郡,谷山郡の 全域と満家院の南東地域を含んでいる.いずれも島津庄寄 郡で地頭は島津氏であり,郡司は鹿児島郡の場合,薩摩平 氏から惟宗氏,そして再び薩摩平氏の流れをくむ矢上氏,
長谷場氏となり,谷山郡の場合,薩摩平氏の谷山氏,満家 院の場合,大蔵氏から税所氏に移っている(鹿児島郡吉田 町は中世においては,大隅国正八幡宮領吉田院).満家院 のうち鹿児島市に属する比志島地区は大蔵氏の末商で源姓 の比志島氏が本貫の地として名主職を世襲していた.
したがって, この時期の城館分布は, これらの地区の要 地にそれぞれ関係のある豪族が居館を構えていたものと思
われる.
2分析方法
鹿児島県内の城館研究は,五味克夫氏や三木靖氏を中心 に,文献史料に基づき城館跡やそれに関連する地域史の研 究が進められてきた(五味1967. 1971 ;三木1979・ 1981 など). また,昭和56年(1981)から昭和61年(1986)にか けて,鹿児島県教育委員会による県内の中世城館跡の悉皆 調査が行われた(鹿児島県教育委員会1987・ 1990).鹿児 島県下944ケ所城館跡の調査の結果, 841ケ所が現存する とされた.そして鹿児島市内には,現在約60カ所の中世 城館跡が所在しているとされ,古くは平安時代末期から江 戸時代初期のものまで確認される.
本稿は, これらの先学の研究成果に依拠し,城館跡の存 続の時間幅を想定した(表l).そのうえで,新たに分析
B)14世紀
この時期は,城館の数が急激に増加している. また,城
表1鹿児島市中世城館存続時期
※鹿児島県教育委11会 1987 『鹿児島県の中世城航跡』
鹿児島市教育委員会 1990 『鹿児島市中世城航跡Jをもとに作成
城館跡名 12世紀 13世紀 14世紀 15世紀 16世紀 17世紀
東抓寺城跡 一
浜崎城跡 一
伴橡館跡 −
米倉城跡
上髄城跡 ー 一
給黎城跡 ー
谷1I1城跡 ー 一
比志励城跡 −
苦辛城跡 −
川上城跡 讐 一
犬迫塁跡 一 一
橘之口城跡 一
小111田城跡 −
尼顕小城跡
催蝿楽城跡 −
野元営跡
唐湊城跡 網屋城跡
稚山城跡 −
谷峰城跡 −
宇宿城跡 −
御所ヶ原城跡 −
波之平城跡 脈羅営跡
一一
夏蔭城跡 上111城跡
小田城跡 −
神前城跡 菊地城跡
城ヶ原跡 −
茶臼城跡 −
堀ノ内跡 −
大餉山陣跡 辺田城跡
茶晦塁跡 −
栫城跡 −
勝山城跡 川口城跡 将口城跡
消水城跡 一
松尼城跡 ÷
内城跡 石谷城跡
横山城跡 し
鹿児勘城跡 ゴ ー
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図1鹿児島県内および鹿児島市域の城館配置図
いった結果である思われる.
島津氏の勢力が拡大するにしたがい.東福寺城は手狭で 不適当となり.島津氏久の子元久は.対岸に位置する清水 城を築いてそこに移った.清水城は以後室町時代を通じて 三州守護職を世襲した奥州島津家の14代勝久に至るまで 約150年間居城として存続し,鹿児島本城と呼称された 館跡の分布からみると,現在の鹿児島市吉野地区と谷山地
区にその数が集中していることがわかる.
当該時期は.南北朝の争乱期であり.鹿児島市内におい ても北朝方と南朝方の戦闘をくり返していた時代であっ たこのような分布をみせるのは,北朝方の拠点となった のは東福寺城であり.南朝方の拠点となったのは谷山城で あっため,その周辺地域に多くの城館が築かれたことによ
ると思われる. D)16世紀
この時期の城館分布をみると.鹿児島市内西側に.川口 城や苦辛城石谷城など多くの城館が立地しているこれ は,薩州家の島津実久と相州(伊作)家の島津忠良.貴久 父子との島津一族中の両実力者間の島津氏の内紛が大きく 影響していると推測される. 当時.島津実久は谷山を拠点
とし,忠良・貴久は伊作城を拠点としていたそのため,
忠良・貴久は.谷山本城並びにその周辺の属域を手中に収 めることに重点を置いており.実久は鹿児島市内西側の守 C)15世紀
この時期の分布図をみると. 14世紀に領主層の拠点と なっていた城館は継続して利用されるまた.数多くあっ た支城(臨時的な施設)は,拠点的な城館を中心に安定し てきていることがわかるこのような分布を見せるのは.
領主の中でも生き残った者の勢力拡大とともに.周辺の城 館を取り込む形で城館そのものの規模も拡大・整備されて
12世
13世
14世 15世
図2−1鹿児島市内城館の分布の変遷
16世 17世
図2−2鹿児島市内城館の分布の変遷
や錦江湾から視認できる眺望にすぐれた地点に立地してい ることがわかる.
りを強化する必要があったのだろう
3.2山城からの景観・眺望の推定
14世紀は.前述したように城館の数が急激に増加して おり,東福寺城と谷山城が拠点となり.周辺には支城が形 成された.そこで.東福寺城・谷山城のからの眺望を復元 してみると、勢力範囲内を見渡すことができる地点に立地 し.各支城を視認する場所に位置していたことがわかる(図 3.4).二つの城は.交通の要所や見晴の良いところに立 地し,見張りや監視として機能をもっており,それぞれが ネットワーク化していることがその配置からわかる.
また,清水城から鹿児島城に本城を移したことはさま ざまな事情があったことが考えられるが. この時期の城館 が戦時を想定した城から地域の象徴・シンボルとして変化 していったことが考えられる(千田2014) そこで.清水 城と鹿児島城を視認できる範囲を示してみた(図5)清 水城は.三方を山に囲まれた地にあるため.南に開かれた 範囲からしか視認することはできない一方,鹿児島城は.
背後に山を背負うが市街地の開かれた平地にあり.城下町
4考察
以上.鹿児島市内に所在する城館跡の分布の変遷や立地 の特徴について、時代ごとにみてきた 12世紀〜13世紀 の城館については,その数は少ないが古代以来の豪族の 居館がそれぞれの要地に配置されている.ただし調査例が 少なく,その実態が不明なものが多いその後,城館の数 は増加し,南朝方,北朝方の拠点を中心として拡大したこ とが把握できる
これらの城館配置が, 中世〜近世を通じて各領主の拠点 となった地点に立地することが.重要な点であり,今回の
分析によってそれを明確に示すことができた. また,拠点
となる城館の周辺域には,支城や合戦の際に用いる臨時的 な駐屯施設が築かれたが,眺望の推定から,本城と支城の 関係は,互いに視認できる範囲にあることが示された.支 城となる城館の多くは山城であり,交通の要所に立地し、見張りや監視として機能を有していたことも.今回の分析
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図3谷山城からの眺望想定図
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図4束福寺城からの眺望想定図
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図5清水城と鹿児島城の視認範囲
鹿児島市教育委員会(1992) 『谷山弓場城跡』鹿児島市埋
蔵文化財発掘調査報告書(1l)鹿児島市教育委貝会(1992) 『清水城跡』鹿児島市埋蔵文
化財発掘調査報告書(16)鹿児島市教育委員会(1993) 『谷山菊池城跡』鹿児島市埋
蔵文化財発掘調査報告書(17)鹿児島市教育委員会(1994) 『川上城跡』鹿児島市埋蔵文
化財発掘調査報告書(18)鹿児島市教育委員会(2000) 『谷山城跡E地点」鹿児島市
埋蔵文化財発掘調査報告書(31)鹿児島市教育委員会(2012) 『川口城跡」鹿児島市埋蔵文
化財発掘調査報告書(64)三木靖(編) (1979) 「鹿児島県」『日本城郭体系」第18
巻新人物往来社三木靖(1981) 「鹿児島県主要城跡一覧」『鹿児島大百科
事典別冊』南日本新聞新納泉(2005)「考古学への活用」『遺跡学研究』日本遺
跡学会第2号千田嘉博(2014) 「近世城郭史料論」「第31回全国城郭研
究者セミナー」
から追認できる
また、中世から近世への城館のもつ意義や役割の変化は.
城館からの視認範囲の変化からも,具体的に把握すること
ができる.
今後も.城館間の視認関係や築城場所の選択.歴史背景
と立地の特徴から文献や伝承に残らない城館の推定,城館 遺構と地質の関係などの研究を進めていきたい《引川・参考文献》
古澤拓郎・大西健夫・近藤康久(2011) 『フイールドワー カーのためのGPS・GIS入門一フィールドにGPSを持っ ていこうGISで地図を作ろう」古今書院
五味克夫(1967) 「伊作城」『(鹿児島)中世史研究報』第
7号鹿児島中世史研究会五味克夫(1971) 「建昌城の史料」「中世史研究会報j第
30号鹿児島中世史研究会原口泉・永山修一・日隈正守・松尾千歳・皆村武=(1999)
『鹿児島県の歴史』県史46山川出版社
鹿児島市教育委員会(1979) 『大龍遺跡』鹿児島市埋蔵文
化財発掘調査報告書(1)鹿児島県教育委員会(1987) 『鹿児島県の中世城館跡』