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文学における音 : 『我らの時代に』 と 『伊豆の 踊子』 をめぐって

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(1)

文学における音 : 『我らの時代に』 と 『伊豆の 踊子』 をめぐって

著者 新井 哲男

雑誌名 東京家政大学研究紀要 1 人文社会科学

巻 38

ページ 119‑125

発行年 1998

出版者 東京家政大学

URL http://id.nii.ac.jp/1653/00009001/

(2)

         文学における音

『我らの時代に』と『伊豆の踊子』をめぐって   新井哲男

(平成9年10月2日受理)

AStudy of the Sounds in・ln Our Time and The 12u Dαncer

1

   Tetuo ARAI

(Received on October 2,1997)

 アーネスト・ヘミングウェイ(Ernest Hemingway)

は、1899年生まれの米国人ノーベル賞作家であり、川端 康成は,同じ1899年生まれの日本人ノーベル賞作家であ る.前者は1961年に亡くなり,後者は1972年に亡くなっ ているが,奇遇なことに,両者とも死の原因は自殺とさ れている.日本とアメリカと生まれ育った環境は異なる が,ほぼ同時代を生きた2人の作家とその背景にある日 米の文化の相違にっいて,これまで何度か考察を試みて きた1)が,ここではヘミングウェイの初期の短篇集

『我らの時代に』(ln Our Time)に収められたいくっ かの作品と,川端康成の作品『伊豆の踊子』に焦点を絞 り,それらの作品中にあらわれる「音」にっいて,両作 家がいかなる扱い方をしているかを探ってみたい。

 ヘミングウェイの作品も川端康成の作品も,映画化さ れたものが多い.このことの理由の一っとして,2人の 作品共た読者の感覚に直接訴える文が多いことがあげら れる.ヘミングウェイは1925年3月20日付けの父に宛て た手紙の中で「私の書いた作品では,現実生活の感じが そっくりそのまま読者に伝わるように,即ち,ただ単に 生活を描いたり批判したりするのではなく,実際にそれ が生きたものとなるように努めています.そこで私の書 いたものを読んだ時あなたは実際にものごとを経験す るのです.( You seeI m trying in all my sto−

ries to get the feeling of the actual life across−

not to just depict life−or criticize it−but to actu−

ally make it alive. So that when you have read something by me you actually experience the

thing. )」2)と書いている帆まさに読者に体験させる ことの有効な1手段として,視覚,聴覚,嗅覚,触角等 をうまく利用している.同様のことが川端にっいても言 うことができる.2人ともその利用の仕方は実に巧みで ある.しかし,本稿では,先にも述べたとおり,主とし て聴覚に的を絞り,聴覚を利用した感覚表現について考 察してみたい.

2

 『我らの時代に』の最初に置かれた短篇「インディァ ン・キャンプ」( Indian Camp )は,子供のニック が医者である父に連れられて,湖を渡る場面で始まる.

この渡湖は,インディアンの男が漕ぐ2艘の手漕ぎボー トにより行われ,1艘には,ニックとニックの父が,他 方には叔父のジョージが乗る.作品冒頭のその場面は,

次のように記されている.

 The two boats started off in the dark.

Nick heard the oarlocks of the other boat quite a way ahead of them in the mist. The Indians rowed with quick choppy strokes.

Nick lay back with his father s arm around him. It was cold on the water. The Indian who was rowing them was working very hard, but the other boat moved further

ahead in the mist all the time.

Where are we going, Dad? Nick asked.

Over to the Indian camp. There is an Indian lady very sick.

Oh,・、aid Ni,k.(P.15)3)

英語英文学科 第1米文学研究室

(3)

新井哲男

 暗い闇の中を2艘のボートは出発する.ニックは,霜 の中,はるか前方にもう一膳のボートの擢受けの音を聞 く.作品には,ニックがもう1艘のボートがはるか前方 を進むのを「見ていた」ではなく,そのボートの罹受け の音を「聞いた」と記されている.普通であれば,2艘 のボートは一緒に出発したのであるから,相手のボート は見えるはずである.しかし,ここでは, see ではな hear という語が使われている.それほど暗いので あり,静かなのである.おそらく辺りは何も見えないほ どに竈が立ち篭めていたのであろう.そしてはるか前方 を行く舟を漕ぐ擢の音が聞こえるほど静かなのである.

ニックは緊張している.父親の腕に温かく抱かれてはい るものの,彼の心は緊張で冷え冷えとしている.  lt was cold on the water. という一文に,その時のニッ クの心情は痛いほど見事に表現されている.しかもジョー ジ叔父さんの乗る舟は,どんどん遠ざかっていく.それ も目で見えて遠ざかっていくのではなく,耳で聞きなが ら,舟を漕ぐ罹の音が遠ざかっていくのである.ニック の不安はいよいよ増していく.「お父さん僕たちどこへ 行くの」とニックは尋ねざるをえない.ニックがここで このように尋ねたということは,これまでニックはこの ことにっいて何も知らされていなかったということであ る.っまり,ニックは,何も知らないまま,何も聞かさ れないまま,父に従い,暗闇の中を出てきたことになる.

この時のニックの心中は不安と緊張でいっぱいである.

作者ヘミングウェイは,このニックの不安と緊張で満ち た心境を,朝霧に包まれた闇の静寂と罹を漕ぐ際に生じ る擢受けの音を用いて見事に表現している.

 一方,川端の『伊豆の踊子』は,次の文で始まる.

 道がつづら折りになって,いよいよ天城峠に近づ いたと思ふ頃,雨脚が杉の密林を白く染めながら,

すさまじい早さで麓から私を追ってきた.(6頁)4)

かい急ぐ.時間の経過とともに近づいてくる雨の音は,

「私」の足の速度でもあり,心臓の鼓動の音でもある.

次第に高まる大粒の雨の音は,「私」の足がますます急 ぎ足となり,心臓の鼓動がいやがうえにも高まっている ことを読者に伝える.だが,「私」の心臓の鼓動の高ま りは,雨の音のせいばかりではない.上の引用文に続く 次のパラグラフ中で,作者は,「私は一つの期待に胸を

ときめかして道を急いでゐるのだった」(6頁)と記し ている.つまり作者は作品の冒頭に次第に高まる大粒の 雨の音を置くことにより,激しく鼓動する主人公の胸の 内を,実に巧みに読者に伝えているのである.そして高 まる鼓動の胸の内とは,前の晩に会った踊子と再会する ことだったが,そのことに関し,作者は,後に,「天城 七里の山道できっと追ひつけるだらう.さう空想して道 を急いで來たのだったが,雨宿りの茶屋でぴつたり落ち 合ったものだから,私はどぎまぎしてしまったのだ」

(7頁)と記している.

 ヘミングウェイの「インディアン・キャンプ」で,暗 い闇の中,心を不安と緊張でいっぱいにしながら湖を渡 ってきたニックは,インディアンの男に案内されインデ ィアン部落に着く.ニックは,父の後にっいてインディ アンの女が出産の床についている小屋に入るが,彼が小 屋に足を踏み入れると同時に妊婦の甲高い金切声が小屋 中に響く.

She screamed just as Nick and the two Indi−

ans followed his father and Uncle George into the shanty. She lay in the lower bunk,

very big under a quilt. Her head was turned to one side. In the upper bunk was her hus−

band. He had cut his foot very badly with

−an ax three days before. He was smoking a pipe. The room smelled very bad.(p.16)

 「雨脚が…すさまじい早さで…私を追ってきた」とい う文は,音の無い静かな雨ではなく,大きな音をたてな がら降る大粒の雨を読者の脳裏に描かせる.もちろん

「つづら折り」「白く染めながら」という語句は,読者の 視覚に強く訴えるが,同時にここでは強い雨の音が読者 の耳に響く.しかも,主人公の「私」を雨が追いかけて いる.雨が近づくにっれ,雨の音が大きくなる.次第に 大きくなる雨の音を背後に感じながら,「私」は峠に向

 ここでは,妊婦の鋭い金切声と共に,布団の下のとて も大きな腹,部屋に充満するいやな臭いが一体となって,

ニックに大きな衝撃を与えている.っまり,ニックは,

聴覚,視覚,嗅覚を通して,このお産の場のひどく異様 な雰囲気を今感じているのである.しかも上の文の前に は,  The men had moved off up the road to sit in the dark and smoke out of range of the noise she made. (p.16)という文が置かれている.ニックが

(4)

小屋に足を踏み入れた途端に耳にした金切声は,男たち がその声を避けて,その声の聞えない所まで避難してい たほどのものだったのである.先に引用した文の後半に は,足の怪我のためにその場を離れることができない妊 婦の夫の様子が描かれているが,夫でさえ,甲高い金切 声を聞きながらその場にいることはとても耐え難いこと だったのである.果たせるかな,ニックは,後に,医者 である父に向かい,「どうにかしてあの声を止めること はできないの」と頼む.

 ニックの不安と緊張の気持を代弁するかのような静寂 の中で始まった「インディアン・キャンプ」は,彼らが インディアン部落に到着すると同時に,妊婦の鋭い金切 声の響き渡る世界へと変わる.そしてこの金切声の大き さは,ニックの心に受けた衝撃の大きさをそのまま物語 る.しかし,麻酔無しの帝王切開という難手術を終えた 後には再び静かな世界が訪れる.作品には,  She was quiet now and her eyes were closed. (p.18)と 記されている.この後,妊婦の夫の自殺という事件が発 覚するが,ニックはこの事件に動揺することなく,冷静 に対処する.来る際には,暗い闇であった森の道や湖も,

帰りには夜があけ,太陽が上りかけている.作品には,

It was just beginning to be daylight when they walked along the logging road back toward the lake. (p.18)  They were seated in the boat,

Nick in the stern, his father rowing. The sun was coming up over the hills (p.19)と2度繰り 返して,太陽が上りかけていることが述べられ,そのこ とが強調されている.つまり,ニックにとっての新たな 一日の始まりである.彼は,静寂から騒音の世界に入り,

再び静寂の世界に戻ることにより,生にっいての大きな 経験を得,一回り大きくなった人間としてまた新たな一 歩を踏みだそうとしているのである.その証として,作 品の最後には,  In the early morning on the lake_, he felt quite sure that he would never die. (p.19)という文が置かれている.

3

 川端康成の『伊豆の踊子』には,擬声語や擬態語が多 く使われている.例をあげると,「かちかちと歯を鳴し て」(7頁)(下線は筆者,以下同じ),「ちょこちょこっ いて來て」(9頁),「冷い雫がぽたぽた落ちて」(10頁),

「ぽっぽっ私に話しかけ」(11頁),「手をぶるぶる頭はせ」

(12頁),「ことこと笑った」(16頁),「枝の枯葉がかさか さ鳴る」(27頁),「指でべんべんと太鼓を叩く」(27頁)

とあり,他にも多く使われている.英語でも,例えば bang を副詞として使えば似た表現となるが,日本 語には英語に較べ擬声語や擬態語が多いことが分かる.

川端康成が『伊豆の踊子』において多くの擬声語や擬態 語を用いたということは,彼が読者に直接その場を体験 させようとしていたことの表れであると考えられるが,

作品中に用いられた多くの擬声語や擬態語は,読者の臨 場感を高あ,登場人物の微妙な心理のあやを表現する上 で極めて効果的に用いられている.

 特に,激しい雨の音に混じり,遠くの方で聞える「と とんとんとん」という太鼓の音は,主人公である「私」

の心の動きと深く関係している.

 夕暮からひどい雨になった.山々の姿が遠近を失 つて白く染まり,前の小川が見る見る黄色く濁つて 音を高めた。……

 ととんとんとん,激しい雨の音の遠くに太鼓の響 きが微かに生れた.私は掻き破るやうに雨戸を明け て膣を乗り出した.太鼓の音が近づいて來るやうだ.

雨風が私の頭を叩いた.私は目を閉ぢて耳を澄まし 乍ら,太鼓がどこをどう歩いてここへ來るかを知ら うとした.間もなく三味線の音が聞えた.女の長い 叫び聲が聞えた.賑かな笑ひ聲が聞えた.そして藝 人達は木賃宿と向ひ合った料理屋のお座敷に呼ばれ てゐるのだと分った.…しかしその酒宴は陽氣を越 えて馬鹿騒ぎになって行くらしい女の金切聲が時々 稻妻のやうに闇夜に鏡く通った.私は挿i脛を尖らせ て,いっまでも戸を明けたままじっと坐ってゐた.

太鼓の音が聞える度に胸がほうと明るんだ.

 「ああ,踊子はまだ宴席に坐つてゐたのだ.坐っ て太鼓を打ってゐるのだ.」

 太鼓が止むとたまらなかった.雨の音の底に私は 沈み込んでしまった.

 やがて,…齪れた足音が暫く績いた.そしてびた と静まり返ってしまった.私は眼を光らせた.この 静けさが何であるかを闇を通して見ようとした.踊 子の今夜が汚れるのであらうかと悩ましかった.

 雨戸を閉ぢて床にはいっても胸が苦しかった.ま た湯にはいった.湯を荒々しく掻き廻した.雨が上 って,月が出た.雨に洗はれた秋の夜が冴え冴えと

(5)

新井哲男

明るんだ.(14−15頁)

 「ととんとんとん」という軽快な太鼓の響きは,踊子 に会えるという主人公の弾んだ期待を表す.その音は,

だんだんと近づき,次第に大きくなり,三味線の音まで 聞えてくる.しかし,その音は,途中で止まり,それ以 上は大きくならず,主人公の心に胸騒ぎが起こる.心の 動揺は次第に増大し,苛立ちへと変わる.しかし,太鼓 の音が聞えている間は,酒宴の席が賑やかに行なわれて いることの証であり,苛立ちながらも主人公の心は平安 が保たれる.問題は太鼓の音が止んだ時である.音が止 み,静寂が訪れると主人公の心は千々に乱れる.踊子の 身が案じられて仕方がないのである.彼はどうにもなら ぬ自分の気持を湯にぶっけ,湯を荒々しく掻き廻すこと で爆発寸前の自分の心を抑える.

 太鼓の音は,時に主人公の弾む心と共鳴し,時に不安 感をあおり,時にはその音を停止させることにより主入 公を絶望の底に陥れる.太鼓の音は,主人公にとり,踊 子と一体となっている.作品では,後に,東京に帰る前 の晩の主人公の心を「窓閾に肘を突いて,いっまでも夜 の町を眺めてゐた.暗い町だった.遠くから絶えず微か に太鼓の音が聞えて來るやうな氣がした.わけもなく涙 がぽたぽた落ちた.」(32頁)と記しているが,微かに聞 えてきそうに思われる太鼓の音は,主人公にとり,踊子 そのものである.川端は,音を実に巧みに作品中に取り 入れて,微妙な主人公の心の動きを見事に表現している.

4

 『我らの時代に』で「インディアン・キャンプ」の次 に置かれた作品「医者と医者の妻」( The Doctor and the Doctor s Wife )は,医者であるニックの父 が湖岸に流れ着いた流木を自分のものにしようとして雇 用入のインディアンと口論になり,憩いを求めて家に帰 るが,そこでも再び妻と対立し,家を出て森に入りはじ めて安らぎを得るというものである.ここで問題となる のは妻との対立である.インディアンとの口論の後,苛 立たしい気持で家に帰ってきたニックの父は,壁の向う から「あなた仕事に戻らないの」と言う妻の声を聞く.

妻と夫は,互いに顔を合わさず,壁を挟んで対話を続け る.対話の内容は,インディアンとのロ論の原因につい てであるが,妻は,夫が述べる理由を信じようとしない.

2人の間の対立は,相手の声が聞こえる度ごとに高まっ

ていく.時々2人の間の声のやりとりが途切れ,父は憩 いを得たかのように,好きな銃の手入れをする.しばら くして壁越しに声を発するのは,決まって妻の方である.

 His wife was silent. The doctor wiped his gun carefully with a rag. He pushed the shells back in against the spring of the magazine. He sat with the gun on his knees.

He was very fond of it. Then he heard his wife s voice from the darkened room.

Dear, I don t think, I really don t think that anyone would really do a thing like

that.

N。?・th。 d。,t。。、aid.・(P.26)5)

 彼女の声と共に再び緊張は高まる.作品前半に置かれ たインディアンとの口論は,お互いに顔を合わせてのも ので,殴りあいになるかと思われるほどの激しいもので あった.作品後半に描かれる妻との対立は,前半とは対 照的に静かな対立である.しかし,お互いに顔を見ない で行われる対立だからこそ,壁を挟んでの対立だからこ そ,夫と妻の確執がいかに深いものであるかを読者に感 じさせる.上の引用文中に並んで置かれた He was very fond of it. と  Then he heard his wife s voice from the darkened room. の文は, 再び妻 の声を耳にした時の医者の衝撃を如実に表している.こ の後,医者は,この場にいることに耐えられなくなり,

家を出て森に散歩に行くことを決心するが,その時の様 子は次のように記される.

 The doctor went out on the porch. The screen door slammed behind him. He heard his wife catch her breath when the door slammed.(p.26)

 医者は,散歩に行こうとして玄関を出るが,その時玄 関の網戸が大きな音をたててバタンと閉まる.目の見え ないところで,妻がはっと息を呑む音が聞える.医者と その妻の間の緊張が極度に高まった瞬間である.この後,

夫が,妻のいる部屋の外で,「済まない」と謝ることに より,2人の間の緊張は和らぐが,バタンという大きな 音,はっと息を呑む音は,夫と妻の間の緊張の極度の高

(6)

まりを,間接的ではあるが,実に見事に表現している.

 『我らの時代に』の3番目に置かれた作品「何かの終 わり」( The End of Something )では,作品の冒 頭に町中に響き渡る製材工場の鋸の音が置かれている.

 In the old days Hortons Bay was a lum−

bering town. No one who lived in it was out of sound of the big saws in the mill by the

1。k。.(P.31)6)

 「鋸の音の外に住むものはいない」ということは,

「その町に住むものは,皆その鋸の音を聞きながら生き ていた」ということであり,このことは,町の人すべて が,直接であれ間接であれ,何らかの形でこのぶ一んと いう大きな音をたてる鋸と,即ちこの製材工場と関係を 持って暮らしていたことを示している.っまり,町中の 人すべてが,この鋸の音を生活の糧として生きていたの であり,逆に言えば,町の人たちの生活は,この鋸の音 にかかっていたのである.果たせるかな,上の引用文に 続き, Then one year there were no more logs to make Iumber. (p.31)という文が置かれている.

栄華盛衰の理あり.作品では,この後,製材にする丸太 のなくなった町が,工場の閉鎖と共に,急激に衰退して いく様子が描かれるが,作品冒頭に置かれた町中に響き 渡る大きな鋸の音は,ホートンズ・ベイという町の盛衰 を描く上で大きな役割を果たしている.

 しかしながら,ホートンズ・ベイの町の盛衰は,この 作品の主題ではない.作者の主眼は,今は全く衰退して しまったこの町を背景にして起こるニックとマージョリー との恋の破局にある.作品の展開についてここで詳述す ることは避けるが,マージョリーと別れた後,ニックは 湖岸の浜で,毛布に顔を埋める.マージョリーは,1人 ボートを漕いで遠ざかっていく.

She was afloat in the boat on the water with the moonlight on it. Nick went back and lay down with his face in the blanket by the fire. He could hear Marjorie rowing on the water.(p.35)

 もちろん,月明かりを浴びて次第に遠ざかっていくマ ージョリーの姿を見ているニックの姿を描くだけで,二

ックの悲しみや苦しみは十分に伝わってくる.しかし作 者は,それだけでは満足せず,焚火の傍に敷いた毛布の 所にニックを戻らせ,その毛布に顔を埋めさせた.顔を 埋めるということは泣くということであり,ニックを泣 かせることにより,ニックの悲しみ,苦しみをより強く 表現している.しかし,それと同時に,ニックが顔を毛 布に埋めることにより,ニックの悲しみ,苦しみは,視 覚によってではなく,聴覚によって表現されることにな る.つまり,ニックは,マージョリーが次第に遠ざかっ ていく姿を見送るのではなく,ギーギーという彼女の漕

ぐ罹の音が次第に小さくなるのを聞くことにより,彼女 との別れを感じるのである.ここでもまた, hear いう語が,ニックの心情を読者に体験させる上で,重要 な役割を果たしている.

5

 アーネスト。ヘミングウェイの『我らの時代に』に収 められたいくっかの短編と川端康成の『伊豆の踊子』に 見られる音の表現にっいて多少の考察を試みてきたが,

ヘミングウェイにおいても川端康成においても音が重要 な役割を果たしていることが分かる.特に登場入物の心 の動きと関連しながら,音が効果的に使われていること が多いことは注目に値する.先に,ヘミングウェイの作 品も川端康成の作品も映画化されることが多いと述べた が,映画においては,音は重要な効果をもたらす.2人 の作家が音を効果的に用いていることと,2人の作品が 映画化されることが多いこととは無関係ではあるまい.

本稿では,ヘミングウェイと川端康成が共に卓越して用 いている音を利用した技巧にっいて考察したが,この両 作家には,共通点や相違点も多い.相違点には,日米の 文化を背景にした相違も多いが,これらの点にっいては,

今後,更に詳しく検討を重ねていきたい.

 また,日英語の音の表現法の違いという観点から見る と,日本語には,擬声語や擬態語を使った表現が多くあ り,英語ではそれを動詞で表すという傾向が見られる.

逆に言えば,英語の動詞を日本語に訳す時,文脈によっ ては擬声語や擬態語を用いると,より日本人の感性にあっ たものとなると言うことができよう.例えば,「医者と 医者の妻」に見られた医者が家を出て行く時の The screen door slammed behind him. (下線は筆者,

以下同じ)は,「網戸が,背後で大きな音をたてて閉まっ た」よりも「網戸が,背後でバタンと閉まった」の方が,

(7)

新井哲男

日本語としてはよく使われる表現ということになる.ま た,その音を聞いた妻の反応 (He heard)his wife catch her breath._ は,「妻が息を呑むのを(聞い た)」よりも「妻がはっと息を呑むのを(聞いた)」の方 が,日本人にとり臨場感の増した表現となる.ちなみに,

『伊豆の踊子』の「ととんとんとん,激しい雨の音の遠 くに太鼓の響きが微かに生れた」の文は,サイデンステ ッカー(Edward Seidensticker)の英訳では,

Then,distant in the rain,1 heard the slow beatin of a drum. 7)となっている.文の主語の有無に関し て象徴的に見られるように,一般に曖昧な表現の多い日 本語が,音に関しては,英語よりも具体性を持っことに なり興味深いが,この点に関しては,言語の背後にある それぞれの文化の相違を視野に入れて,更なる考察を進 めていきたい.

7)Yasunari Kawabata, tr. by Edward Seiden−

 sticker, The Izu Dancer, Tんεたu 1)αηlcer  /ln(メαんθr Stories,(Tokyo:Charles E. Tuttle  C6.,Inc.,1965)p.14.

参考文献

1)拙稿  「二っの「徒労」の物語一『雪国』と『老   入と海』における文化比較一」『ディアロゴス3』

  (池畔談話会 1995)及び「動と静一ヘミングウェ   イと川端康成に見られる文化的背景の比較一」

  『ディアロゴス4』(池畔談話会 1997)を参照.

2) Carlos Baker ed., Ernest Herningωay Se−

  lected Letters 1917−1961,(New York:Charles   Scribner s Sons,1981)p.153。

3)Ernest Hemingway, lndian Camp, Jn Our   Time,(New York:Charles Scribner s Sons,

  1925)p.15.以下この作品からの引用及び頁数はす   べてこの版による.

4)川端康成『伊豆の踊子』(角川文庫)(東京:角川書   店1965)6頁.以下この作品からの引用及び頁数は   すべてこの版による.

5)Ernest Hemingway,  The Doctor and the   Doctor s Wife, In Our Time,(New York:

  Charles Scribner s Sons,1925)p.26.以下こ   の作品からの引用及び頁数はすべてこの版による.

6)Ernest Hemingway, The End of Something,

  1九〇ur Time,(New York:Charles Scribner s   Sons,1925)p.31.以下この作品からの引用及び   頁数はすべてこの版による.

岡田春馬著  『ヘミングウェイの短編小説』近代文藝社   1994

川端康成著 羽鳥徹哉編『川端康成』(作家の自伝15)

  日本図書センター 1994

嶋 忠正著  『ヘミングウェイの世界』北星堂書店   1975

田久保英夫著  『川端康成』(群像日本の作家13)小学   館 1991

西尾 巖著 『ヘミングウェイ小説の構図』研究社出版   1992

長谷川泉著 『川端康成論考』(長谷川泉著作選5)明   治書院 1991

Baker, Carlos ed..Ernest Hem.ingωay Selected   Letters 191 7−1961. New York:Charles Scribner s   Sons,1981.

Baker, Carlos. Herningωαツ!The VVriter As Art−

  ist. New Jersey:Princeton University Press,

  1972.

Benson, Jackson J。 ed.. NeωCriticαl Aρproαch   to the Short Stories q/Ernest Herningωay.

  Durham and London:Duke University Press,

  1990.

Benson, Jackson J. ed.. The Short Stories cゾ   Ernest Ilenzingωαツ:Criticαl Essaツs. Dur−

  ham, North Carolina:Duke University   Press,1975.

Gurko, Leo. Ernest Herningωαツαnd the Pursuit   of Heroism. New York:Thomas Y. Crowell   Company,1969.

McCaffery, John K.M., ed.. Ernest Hernin8ωαy.

  The Mαnαnd his Work. New York:Cooper   Square Publishers, Inc.,1969.

(8)

Synopsis

AStudy of the Sounds

   in In Our Tin te and The Izu 1)ancer

 本稿は,平成7年度に始まるプロジェクト研究「日英 の語学・文学・文化の接点を探る」の一環として行われ ている調査・研究の中間報告である.

 Many of the works of the American novelist Ernest Hemingway and the Japanese novelist Yasunari Kawabata have been made into films.

This is partly due to the uncanny appeal in these writers works to the human senses of sight,

smell, and hearing. Their works are full of pic.

tures, smells, and sounds. This paper focuses on the last−mentioned of these, the sense of hear−

ing. Specifically, the paper offers an analysis of the relationship between the sounds that certain Hemingway and Kawabata characters hear and the movements of their minds.

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