﹃伊豆の踊子﹄の解釈をめぐって
西島
宏
川端康成の作品﹁伊豆の踊子﹂を読者つまり享受者の立場から
みるとき︑作者の意図どおり理解できているか疑問に思えること
が少なくない︒
﹁文学というものは︑読者の全面的な創造的参与をまってはじ
ヘ へ めて文学になる﹂という観点に立って︑ ﹁伊豆の踊子﹂読解上の
問題点を指摘してみたい︒
題名 ﹁伊豆の踊子﹂という題名は︑作品そのものが人口に瞼
回した今日からみると︑至極何でもない印象を与える︒しかし︑
踊子のことに触れて書いた最初の作品名﹁ちよ﹂ ︵大正八年︶︑
つづいて﹁湯ケ島での思ひ出﹂ ︵大正十一年︶と比較するとき︑ ヘ へ三人のちよと名乗る女性について書いた﹁ちよ﹂や︑踊子のこと
と中学時代の下級生の思い出と二つの挿話からなる﹁湯ケ島での
思ひ出﹂に対して︑内容的にもずっとまとまりをみせ︑人物を踊
子一人に絞ったものといえよう︒
素材となった作者の伊豆への初旅は大正七年秋であったが︑そ
れから毎年伊豆湯ケ島へ出掛け︑ことに﹁伊豆の踊子﹂執筆前後
ぽ︑作者の言葉によれば﹁伊豆の人間と言ってもいい程﹂ ﹁私の
第二の故郷と思はれる﹂ほど住み馴れた土地になっていた︒だか
ら︑ ﹁伊豆﹂という地名が自然に出たと思われる︒と同時に︑初 ま 旅の頃作者康成をして伊豆に足を向けさせた﹁精神の病患﹂が︑伊豆の風光と踊子との出会いで癒され︑この作品の中で︑
﹁伊豆の踊子﹂の解釈をめぐって︵西島︶ ﹁旅情が身についた﹂﹁一層詩を感じ﹂たと言わせる八年の歳月の重なりと併せて考えるべきであろう︒ ﹁踊子﹂という語も︑国.ω①凱Φ昌ωけざ評興の英訳の標題である↓げ①HN口U碧︒興の﹁ダンサー﹂︑または康成自身の作品﹁舞姫﹂ ︵昭25︶の﹁舞姫﹂とも語感が異なり︑旅芸人の庶民性が表われている︒ ﹁伊豆の踊子﹂という題名には︑こうして﹁伊豆﹂という語のかもしだす︑明るさ︑南国的・風土性・旅情などのニュアンスと︑ ﹁踊子﹂という語の旅芸人・放浪・庶民性のニュアンスとの微妙な絡み合いが感じ取れる︒そしてそれはそのままこの作品の主題ともつながってくる︒ 冒頭︵書き出し︶ 丹羽文雄は﹁小説作法﹂で︑書き出しの難しさを説いている︒作品名とともに︑まずその書き出しが読者の脳裏に浮かぶことを思うと︑丹羽文雄のことばはまことに妥当である︒ では︑ ﹁伊豆の踊子﹂の冒頭はどうであろうか︒ ﹁道がつづら折りになって︑いよいよ天城峠に近づいたと思ふ頃︑雨脚が杉の密林を白く染めながら︑すさまじい早さで麓から 私を追って来た︒﹂という一文には︑ ﹁天城峠﹂という場所が明 示され︑つづら折りの湿性の様子︑そして﹁天城の私雨﹂と作者自身が言う激しい雨が麓から迫る状況が︑ ﹁杉の密林を白く染め
七
長崎大学教育学部人文科研究報告 第二五号
ながらしというダイナミックな描写と擬人法で活写される︒短篇
小説的に一気に事件の中心に入る表現である︒
この冒頭は︑それまでの康成の﹁十六歳の日記﹂以後の︑ ﹁招
魂祭一景﹂ ﹁油﹂以下﹁青い海黒い海﹂等が︑いずれも説明的手
法で書き出すのと違ったものを持っている︒ そして﹁私は二十歳︑高等学校の制帽をかぶり﹂以下の説明的
記述につづく︑ ﹁そのうちに大粒の雨が私を打ち始めた︒﹂と描
写中心・現在形の表現の部分につながっていく︒間然するところ
のない表現である︒ その間に︑雨に打たれながら坂道を急ぐ主人公を描き︑辿りつ
いた茶店に同じく雨宿りをしている踊子を描く︒ともに効果的な
舞台への登場である︒ 踊子 踊子は﹁十七くらみに見えた︒私には分らない古風の不
思議な形に大きく髪を結ってみた︒ ︵中略︶髪を豊かに誇張して
描いた︑稗史的な娘の絵姿のやうな感じだった︒﹂とあるが︑こ
のうち﹁十七くらみ﹂という娘⑳年令の推定は後毅のストーリ1
の発展への伏線として︑すぐ次の条の﹁踊子は太鼓を提げてみ
た︒﹂とともに重要である︒ 十四歳の踊子を十七歳くらいと思ったことによって︑茶店の婆
さんのことばにあおられて︑ ﹁踊子を今夜は私の部屋に泊らせる
のだ︒﹂と思い︑ ﹁伊豆の踊子︵二︶﹂後半で踊子が酒宴のあと
﹁今夜が汚れるのであらうかと悩まし﹂く︑ ﹁太鼓の音が聞える
度に胸がほうと明るんだ﹂りする︒さらに﹁太鼓﹂は﹁伊豆の踊
子︵四︶﹂で︑踊子が﹁聲攣り﹂なので︑歌を歌わせられないか
ら︑太鼓を叩く役であることが分かってくる︒
さらに︑踊子の古風な形の髪は︑ ︵四︶に﹁不自然な程美しい
八
黒髪しと強調されているが︑これは︵二︶の﹁踊子の髪が豊か過
ぎるので︑十七八に見えてみたのだ︒﹂と︑踊子への誤解の因と
なったのとは違って︑ ︵五︶では︑その豊かな髪に挿した桃色の
櫛を貰いたく思うまでになっている︒ 康成は女性美を表現するのに︑黒くて豊かな髪に重点を置く作
家であるが︑その始まりが早くも﹁伊豆の踊子﹂に原型的に出て
いるといえる︒僅々百字たらずの踊子の描写中にこれだけの内容 を籠めた康成の表現は巧
みである︒
湯川橋 主人公と踊子
荒 画寺
湯ケ島
湯川橋 の最初の出会いを︑康成は次のように描いている︒ ﹁私はそれまでにこの踊子たちを二度見てみるのだった︒最初は私が湯ケ島へ来る途中︑修善寺へ行く彼女たちと湯川橋の近くで出會つた︒﹂この文はそのまま読めば︑修善寺から湯ケ島へ来る
私と︑修善寺へ行く踊子
たちとすれ違うので︑踊
子たちは湯ケ島から修善
寺へ向っているかのよう
に取られやすい表現であ
る︒しかし︑事実は図示
したようになっているわけである︒大仁・長岡方面から修善寺へ
行く踊子たちと︑修善寺を発って湯ケ島へ行く﹁私﹂とが︑湯川
橋の近くで出会うことが不自然でなく理解できる︒
文章表現面だけではやや分りにくく︑現地に就いて見なければ
ならない点に︑多少の問題があろう︒
五十銭銀貨 ﹁伊豆の踊子︵一︶﹂の終り近くに婆さんが︑
﹁私﹂の置いた五十銭の茶代を過分のものとして︑ ﹁勿艦なうご
ざいます︒お粗末いたしました︒お顔をよく覚えて居ります︒今
度お通りの時にお禮をいたします︒この次もきっとお立ち寄り下
さいまし︒お忘れはいたしません︒﹂と︑私のカバンを抱きかか
えて︑トンネルの入側まで送ってくれ︑ ﹁私﹂は﹁痛く驚いて涙
がこぼれさうに感じてみる﹂場面がある︒
当時︑作品成立の大正十五年または︑素材となった康成の大正 ま 七年の伊豆の旅の時点での物価からして︑五十銭は確かに過分す
ぎるものである︒高等学校の学生が誰もこのようなお茶代を置く
ほど裕福であったわけでもなく︑また作中の﹁私﹂がそれほど裕福であったことの説明も文中にはない︒
この点は︑ ﹁伊豆の踊子﹂以前の﹁ちよ﹂ ︵前出︶に出てく
る︑ ﹁山本千代松﹂まつわるエピソード︑つまり千代松は﹁私﹂
の祖父の借用証文の書き替えを強制したりしたが︑その死後︑謝
罪の意味で遺言の中に︑﹁私﹂に五十円を送るよう指示しており︑
その金で﹁十日あまり﹂ ﹁伊豆の温泉場﹂を回った︑そこで﹁大
島育︑ちの可愛らしい踊り娘﹂と出会った旨の記述がある︒
これならば︑五十円という当時にあってはそれなりの大金が手
許にあったので︑五十銭の茶代を払うという筋書きも無理なく理
解できるが︑そうでなければ︑ ﹁伊豆の踊子︵二︶﹂後半で﹁私﹂
﹁伊豆の踊子﹂の解釈をめぐって︵西島︶ が二行の﹁男﹂に︑宿の二階から﹁柿でもおあがりなさい﹂と言って︑金包みを投げる場面︑同じく︵六︶で︑男に旅で死んだ赤坊の法事への包金を渡す場面などと併せて︑読者に誤解されやすい部分である︒ さらに︑ ﹁包金﹂の条に続く記述に︑ ﹁私は明日の朝の船で東京に帰らなければならないのだった︒旅費がもうなくなってみるのだ︒﹂とあるのが︑主人公がこれまでの旅中に金を浪費したから云々と誤解されかねない危険がある︒ 天城七里 ﹁1あの日が修善寺で今夜が湯ケ島なら︑明日は天城を南に越えて湯ケ野温泉へ行くのだらう︒天城七里の山道できっと追いつけるだらう︒さう空想して道を急いで来たのだった⁝⁝﹂とある﹁天城七里﹂は︑湯ケ島から天城峠までの四里︵16キロメートル︶の上り︑峠から湯ケ野まで三里︵12キロメートル︶の下りを合わせたものである ところで︑ ︵二︶に︑ ﹁湯ケ島を朝の八時に出たのだったが︑その時はまだ三時前だった︒﹂との記述がある︒ ここで︑天城七里の峠越えの作中の主人公の行程を辿ると︑湯ケ島を朝八時に発ち︑ ︵一︶に書かれたように︑天城トンネル入口に近い茶店で︑濡れた着物を乾かすなどして﹁小一耳聞﹂費し︑湯ケ野の木賃宿で︑ ﹁一時間程休んでから﹂男に案内されて
﹁別の温泉宿へ﹂行き︑﹁そこの内湯につかっていると︑後から
男がはいって来た︒自分が二十四になることや︑女房が二度とも
流産と早産とで子供を死なせたことなぞを話し﹂ ﹁湯から上ると
私は直ぐに昼飯を食べ﹂ている︒ 天城七里︵28キロメートル︶に費した七時間︵朝八時−午後
三時︶から︑茶店の小一時聞︑木賃宿の一時間︑入沿と昼食の時
九
長崎大学教育学部人文科研究報告 第二五号
間を差し引くと四時聞余にしかならない︒
しかも︑湯ケ島︵海抜二百メートル︶と天城峠︵海抜七百メー
トル︶の高度差約五百メートル︑峠と湯ケ野︵海抜百メートル︶
の高度差は六百メートルであることを思うと︑作中の主人公は︑
距離にして二十八キロ︑高度差五百メートルの峠越えを四時間余
でしていることになり︑今日からみると相当の健脚であったとい
える︒ 登場人物 ﹁伊豆の踊子﹂は︑康成の作品のなかで︑作品の長
さに比べて登場人物が多い方に属している︒主人公の﹁私﹂︑踊
子とその連れの四人のほか︑茶店の老夫婦︑木賃宿で出出会う人
々︑下田の乗船場の人たちと二十数人にも上るが︑この中で比較
的に造型の確かな﹁四十代の女﹂について触れてみたい︒
﹁四十代の女﹂は︑踊子の兄栄吉の妻である千代子︵十九歳︑ ヘ ヘ へ作品のはじめでは上の娘と書かれる︶の実母である︒そこで作品の後半では﹁おふくろ﹂と呼ばれている︒甲斐の甲府の出身であ
るが︑長く大島に住んでおり︑尋常小学校五年の子供がいる︒
この四十女は︑作品中では古風な女の一曲一型として描き出され
ている︒例えば︑湯ケ野の宿の前で︑男が﹁この方はお連れにな
りたいとおっしゃるんだよ︒﹂といったのに答えて︑﹁それは︑
それは︒旅は道連れ︑世は情︒私たちのやうなつまらない者で
も︑御退屈しのぎにはなりますよ︒﹂と︑当意即妙に諺を出し︑
また自己卑下をするところ︑下田の宿で芸人たちが鳥鍋をつつい
ていて︑居会わせた﹁私﹂におふくろが︑ ﹁一口でも召し上って
下さいませんか︒女が箸を入れて汚いけれども︑笑ひ話の種にな
りますよ︒﹂と謙遜まじりにすすめるところ︑さらには︑湯ケ野
から下田への途中︑泉を見つけて︑﹁さあお先きにお飲みなさい 一〇
まし︒手を入れると濁るし︑女の後は汚いだらうと思って︒しと
言うところなどの男尊女卑的な考え方などがそれである︒
またこの一座の束ねとして︑踊子たちを統制し︑旅の日程を決
め︑踊子たちが必要以上に客︵﹁私﹂を含めて︶と馴れ親しむの
に目を︐光らせる︒したがって︑旅芸人としての分を弁えた︑世故
にたけたところを持っており︑ ﹁私﹂が踊子と近くなる機会が︑
おふくろの出現によって再三つぶされる︒例えば︵三︶の菊畑の
場面︑ ︵四︶の五目並べの場面︑ ︵六︶の活動写真への同行を止
める場面などである︒
しかし︑踊子への芸人としての愛情は濃やかで︑暇々に三味線
を教え︑声変わりを気づかい︑太鼓を打つ手が痛まないかと心
配し︑踊子をからかう鳥屋を﹁生娘なんだからね︒﹂と叱りつけ
る︒ 踊子の兄栄吉の女性的な線の細い性格に対して︑終始このおふ
くろは一本びいんと張りつめた剛直なものをもって︑この小説全
篇を引き締めている︒
このおふくろの長い旅芸人暮らしから得た世間知が︑茶店の婆
さんに﹁あんな者﹂と言われ︑宿のおかみさんに﹁あんな者に御
飯を出すのは勿膿ない﹂と言われ︑戸々の入ロの立札に﹁物乞ひ
旅芸人村に入るべからず﹂と記される境涯にいながら︑ ﹁野の匂
ひを失はないのんきなもの﹂であることを保たせる原動力になっ
ている︒ ﹁私﹂は最初この芸人たちの旅心を﹁世智辛いもの﹂と考えて
いたが︑ ︵四︶の後半になって︑この精神の呪縛から解き放たれ
る︒ ﹁おふくろ﹂は︑この作品の低音部を奏でる旅芸人の世界の体
現者として存在している︒康成の小説の素材となった伊豆への初
旅で出会ったおふくろは﹁いかにも薄汚なかった﹂だけに︑却っ
て虚飾を去って描けたのであろう︒
以上︑ ﹁伊豆の踊子﹂の題名︑冒頭および第一章にみられる語
旬中で作品自体からだけでは理解の困難な﹁湯川橋﹂ ﹁五十銭銀
貨﹂ ﹁天城七里﹂︑それに作品の中では脇役的位置にいながら︑
作品の基底にかかわる登場人物としての﹁四十代の女﹂について
考察した︒
付記﹁伊豆の踊子﹂の﹁踊子﹂が︑﹁踊り娘﹂と呼ばれる可能
性があったことは︑初期の作品﹁ちよ﹂に﹁大島育ちの可愛らし
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へい踊り娘﹂ ﹁伊豆の踊り娘ほどには﹂とか︑大正十年作の﹁招魂 ヘ へ祭一景﹂に﹁大正踊の踊娘﹂などの用例もあり︑語調の簡潔な
﹁踊子﹂に統一されていったのであろう︒
註①
②
③
④
⑤
⑥
⑦ 磯貝英夫﹁雪国一作品分析の方法﹂川端康成﹁少年﹂︒以下の﹁伊豆の踊子﹂からの引用は新潮社版﹁川端康成全集第一巻﹂ ︵昭34︶による︒同前︒同前︒川端康成﹁伊豆湯ケ島﹂
当時の茶代は一銭ないし二銭程度であった︒
﹁伊豆の踊子﹂の解釈をめぐって︵西島︶
一