徳之島伊仙台地における説話群
一説話とその生成のダイナミズムー
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山 下 欣 一
目 次
(1)はじめに
(2)伊仙台地をめぐる自然的条件
(3)伊仙台地の聖地と説話群
(4)「テンチュアモレ」の検討
(5)説話群の再生事例
(6)要約一一伝承的世界をめぐって (1)はじめに
南島における説話群の特質は、それらが神話的伝承や伝説としての伝承化を特出させている ことは多くの事例から指摘されてきているところである。
ここでは、徳之島伊仙台地上に多くの説話群の存在が見聞され、さらに豊富に記録されてい るのに着目し、これらの説話群の生成及び説話群の内包するダイナミズムについて若干の検討 を試みることにしたい。
これらの検討については次の順序で行なうことにする。
徳之島伊仙台地の自然的条件としては、琉球層群が古生層に接続しつつ発達し、さらには、
海岸部に裾礁や断崖層を示している特異な景観を示しているのは周知の如くである。
伊仙台地上に生活する人々にとっては、これらの自然的条件は、それなりの意味を保持して いたのであり、生業としての農業を基盤とする人々が湧水を頼りに、長距離の水の運搬労働に 従事したのも南島の人々の宿命であったといえる。または多くの天水田を耕転するために「踏 耕」などを始めとして、営々とその生活の糧を得ていたのであるとすれば、自らそこに生活の 理法としての民俗社会の知識、伝承はたまた人々の信仰もこのような自然的条件が背景として あったものと考えることができる。
従って、伊仙台地をめぐる自然的条件について、必要最低限の理解を試みるために、その要 約の提示を第一に行なうことにし以下の考察の基盤としたい。
第二に、伊仙台地上に見聞できる聖地群とそれらをめぐる説話群についての資料を集成し提 示することにしたい。
第三に、これらの説話群の中心的存在である「テンチュアモレ」についての分析・検討を行な うことにする。
第四として、これらの説話群にユタが関与し、再生している若干の事例群があるので、これ らについての考察を試みることにしたい。そして、最後に、これらの伊仙台地上に存する説話
一 叫 一
群について、以上のような整理・検討を進めることによって、浮上する若干の問題点、すなわ ち自然的条件と聖地ならびにこれらをめぐる説話群の保持する内的特質としての説話の類型的 比較ではなく、台地上における説話群を含める伝承的世界としての空間領域の設定をまず試み たい。さらには、これらの説話群の理解のための読み取りとこれらの説話群の基層的存在形式、
象徴的意味などについての分析を試みてみたいと考えるものである。
(2)伊仙台地をめぐる自然的条件
徳之島の地形をみると、山地と段丘発達地に大別される。山岳は徳之島北部中央にそびえる 天城岳(533メートル)やもっとも標高の高い井之川岳(664メートル)などを主峰とする山々 が中央を南北に連っている。南部には犬田布岳(417.4メートル)がある。そして、これらの山々 から、海岸にむかって緩い傾斜した段丘が広がり、島の東南部から西南部にかけて隆起サンゴ 礁が発達して、広大な海岸段丘を形成している。この台地は、隆起サンゴ礁よりも古く琉球石 灰岩と呼ばれており、この層の厚さはかなりの深さに達していると考えられている。徳之島南 部の海岸線をみると、東岸は、ほとんど全面になだらかな隆起サンゴ礁が発達していて、裾礁 が全域にみられる。西南部に突出する犬田布岬より北の西岸には浸食崖が屹立し、断崖は100メ ートノレに達している。伊仙台地の北方の犬田布岳から南西へとゆるやかな台地となり、ほぼ高 度200メートル以下の台地となる。台地のほぼ中央西よりには鹿浦川が流れるが、段丘面から深 く入りこんでいる。この上流に中山、馬根、北西部に八重竿、糸木名があり、ドリネ跡と考え られる小盆地がみられる。カルスト性の地形のために河川は深い浸食谷を流れ、台地面へは利 用されず、灌慨用水源には利用されなかったが、近年トンネルによる用水路が開通し、利用さ れるようになった。
河川をみると、伊仙台地の東部には、徳之島町との境界をなす本川(3.9キロメートル)があ り、順次西部へ面縄川(3.5キロメートル)、鹿浦川(8キロメートル)、阿權川(5キロメート
(1)
ル)があり、もっとも西北端には上成川があって天城町との境界をなしている。
伊仙台地の中心部は、北部の東西に連なるほぼ高度200メートル前後の頂上から南西へとゆる やかな傾斜地となっている。この台地は、粘板岩と凝灰岩の互層が主となり、輝緑岩をともな う尾母層、および花崗岩と基盤岩があらわれている。それから南部にかけては琉球石灰岩がほ とんどをおおうが、この琉球石灰岩は三層に区分され、上から古い順に糸木名層、木之香層、
亀津層がならびそれぞれに南部の海岸線へと段丘状の地形をなしている。琉球石灰岩と基盤岩
(2)
の境界部にはカルスト性の凹地ならびに洞穴も各地でみられる。湧水点をみると、まず琉球石 灰岩と基盤岩との境界点やまたは海岸段丘の落差のある層位の部分に方言でいう「イジュン」
がみられるといえる。これらを念頭にもっとくわしく素描すれば次の如くである。
伊仙台地のいわゆる隆起サンゴ礁による海岸段丘は、地形学的、層位学的調査によって、段 丘を上位から糸木名、木之香、亀津、低位の四段丘に分け、前三者はそれぞれ糸木名層、木之 香層、亀津層によって構成されていると報告されている。さらに、これらの段丘は上位から白 井面、糸木名面、木之香面、亀津面、目手久面、低位段丘面の六地形面にも分けられるとされ
一 弱 一
ている。白井面は無礁面であるが他は琉球石灰のつくる地形面である。
白井面は、徳之島南部の犬田布岳、剥岳などの中腹の海抜270メートルから200メートル内外
に分布する丘陵の背面である。
糸木名面は、海抜200メートル以下、150メートルまでの高さに分布する。糸木名、上晴付近に もっとも広いが、その東の八重竿、馬根、中山、東南部の尾母にもよく発達する。
糸木名層の一般的な厚さは50メートル以下である。石灰岩におおわれる部分は高い平坦地が よく保存されているが、基盤の浸食面や砂礫層からなるところでは浸食がすすみ、ひろい谷が でき、そして、低い丘陵状の地形をなすことが多い。
木之香面は、海抜140メートルから70メートルに広がる階段状の段丘を一括して木之香面と呼 ぶ。この面は海抜100メートル付近に顕著な崖があって、上位面と下位面の二面に分けられる。
木之香上位面は海抜140メートルから150メートルに広がり、一般に傾斜方向への細谷が密であ る。木之香下位面は海抜100メートルから70メートルに、上位面の外縁にそって同心円状に広が
っている。
亀津面は、海抜70メートル前後の高さによく揃い、広がる。亀津面は平坦で、開折がほとん どすすんでいる、発達の良好な段丘面である。
目手久面は、亀津面の外側の海抜50メートル以下の部分に低い段丘面が数段発達する。中川 らは、これらを亀津層の浸食面と考え低位段丘として一括したが町田らは、堆積面と考えられ
(3)
る段丘面があるので、独立して目手久面としている。
要するに、伊仙台地における一つの特色は、琉球石灰岩におおわれた台地であって、これら がゆるい傾斜面をもって海面に達するという点である。しかして、これらを詳細に検討すれば、
北部に基盤岩の露出があり、琉球石灰岩も三層ないし五層の段階に分けられ、それぞれ層位に 落差が観察できるという点でもあろう。これらの地点に湧水点がそれぞれ確認できるというこ
とになるのは前述の如くである。
伊仙台地をめぐる自然的条件は以上の如く要約できる。
次に、この台地上における聖地とされる場所について地図上第1図に示すことにする。そし て、さらに伊仙台地の海岸段丘の分布図(第2図)と断面的な概念図(第3図)を提示するこ
とにする。これらの図については、結論において総合的に検討することにしたい。
(3)伊仙台地の聖地と説話群
伊仙台地の聖地については、第一図の如くであるが、これらの聖地群をめぐる説話群につい て主要なものを東南部地区の喜念から順次番号順に簡単に説明し、説話群について集成、整理 して提示することにしたい。(場所については地図に番号で示すことにする第一図参照)
喜 念
① 新 田 権 現
「按司屋敷」ともいっている。この下方150メートルのところに石灰岩洞穴があってトゥー
(4)
ル(人骨納所)になっているという。
第1図
、
③
霧
三劃
瀞
| 忠
I
‑ W ‑
蝋
新田権現(喜念)
第 2 図 徳 之 島 南 部 の 海 岸 段 丘 分 布 図
雲
この地図は、建設省国土地理院長の承認を得て、同院発行の5万分の1地形図を複製したものである。(承 認番号)昭57九複第9号
| 密
I
第3図伊仙台地断面概念図
田布岳417.4 270m〜1200
200〜150糸之香面 (150〜140)木之香t付面 (100〜70)木之香下位面
70亀津面 50以下目手久面
055505555.2.0︒7︒27222712
皿一肥略
32
一
一一糸木名面白井面
﹄
穴 八 幡 析田権現 喜念権現
︒●●
中山神社 小島ティラ
●
●
ミ ョ ウ ガ ン
o義名山
● コ ー キ ィ ジ ュ ン
東阿三ティラ
墓ン亨謝≦
ウ シ ン
(ア
505550︒P峰垣︾●の〃︼●塊一釘胆
一
一一目手久面亀津面一
/・篭手久《アトム)
ウ ー モ ト ガ ナ シ
1腕 3 m
B O
O 1 肱
2 腕 4 5 m 6 m 7 m 8 9肱 10血
− 開 一
(i)まだ男を知らない箱入娘が外に出て太陽に照らされただけで妊娠した。娘は親兄弟をは じめ親戚や部落の人たちにも恥ずかしく思い、こっそり家を抜け出し、この新田で子ども
(5)
を産みおとし、母親はそのまま神様になったという。
② 喜 念 権 現
椎の木や松の木の生い茂った林の中にある権現。権現は高さ2メートル、横5メートル、
奥行5メートルほどの鍾乳洞穴内にある。洞穴内には白砂がまかれ、石碑がある。洞穴拝所
(6)
の西側には湧泉と下流に隣接して泉がある。この洞穴には人骨がみられたという。
蕊 鰯
喜念権現(喜念)
(i)昔、世にも美しい娘がいた。村の若ものたちは、なんとかしてその姿を一目みようとす るが、娘はどういうわけか人に顔をみられるのを嫌って、全然外に出ることもなく、誰一 人としてまともにその娘の顔をみたものはなかった。ある日、この美女が戸口ですすり泣 きをしているので、その姉がわけをたずねると、何か落としたものがみつからないという。
姉妹が一緒になって庭を探していると、ものかげにかくれていた青年の一人が「みたぞ、
みたぞ」と誇らしげに大声をあげてとびだした。彼女は「しまった」と、失望落胆してと
(7)
うとう山奥の洞穴に身を隠し、そのまま喜念権現の神となったという。
(ii)薩摩からの代官が喜念の美人を島妻に所望したが、娘が断わり、役人たちは娘の親をお どかすようになった。そこで、娘は、親に迷惑がかかってはならないと思い、洞穴に入っ
(8)
て自ら命を断ったという。それで村人たちは、その娘の霊を権現として祭るようになった。
佐 弁
(9)
この集落の北方の人家の後方の林の中に「ネンクシアムト」がある
③「ネンクシアムト」
(i)喜念から北の方約4キロのところに水源地があり、そこに「フッキリ主」という人が住
−100−
んでいた。佐弁の村は近くに水源がなく、不自由していたので、村人たちはなんとかして 本川(地図参照・徳之島町と伊仙町の東の境界)の水をひく方法はないかと話しあってい た。これを聞いた「フッキリ主」が自分ならひけるといって村人とかけをした。「フッキリ 主」はさっそく仕事にとりかかった。工事は着々とはかどるので、村人たちは、かけに負 けるということで、「フッキリ主」の家に火を放って焼き殺してしまった。それ以来、佐弁 では火事が絶えず、いろいろな異変がおこった。村人はこれは「フッキリ主」のたたりだ
(10)
から、その霊をしずめるべきだと、ネンクシ山に祠をたてて祀るようになった。
目手久
④フージンガナシアムト(東目手久)
(11)
(i)応神天皇(軍神)を祀るという。
⑤ 面 縄 ウ シ ク ン シ ャ ヌ ア ム ト
(i)ある母親が海岸から煮炊き用の潮水を汲んで帰る途次、坂道の下で野焼きにあっている 蛇をみた。母親は潮水で火を消し蛇を救った。家に帰ってみると不思議に焼けたはずの蛇 はわが愛娘であった。娘は母の顔を一目みると、ニコッと笑った。あらためて母の愛情を 確かめ母子の誓いを強く結びつけた。このようなことで、このアムトには蛇は全然いない
(12)
という。
(13)
(ii)昔ここに杖をさしたらそれが生き返り枝が生じ大木になったので祀るようになった。
⑥ ナ ガ ク ン ウ ワ ム ト ガ ナ シ
古く、坂水部落に絶世の美女がいて、伊仙方面の男と恋仲になり、親兄弟の目を盗んでは 密会するまでになった。ある日のこと、これを知った兄は妹を殺害しようと追った。妹は永 久山のショウジダに逃げたが、折りしも田仕事の人が刈り積んだ草山があったのでそこに身 を隠した。刀を持った兄は農夫に妹の行方をたずねたが、知らぬ存ぜぬの一点ばりで応対し たため、怒りのつのる兄は農夫にお前も一緒に殺すとおどしたので、隠れ場所を教えた。兄 は積み草の下に隠れている妹を一突きにさし殺した。その後、農夫は、その女の死をあわれ
(14)
み、霊を慰め供養したのがこのアムトの起源である。
⑦ オ ド ン の ハ ン タ ア ム ト
琉球のミヤコからきて面縄の部落を統治していたオドンのハンタなる人物を祀ったアムト
(15)
である。
⑧ ナ カ モ リ ア ム ト
かじ屋が村仕立て神である関・森家の先祖を祀ったアムトであるという。
森家の先祖は、織田信長の家老役をつとめ、3万3千石を領していた毛利輝政の聟、森武 蔵守長可といい、秀頼の敗戦によって島に下り、刀かじになったのだという。刀をつくるに は材料がなかったので鍋を7枚くずにしてたきあわせ、それで鋼をつくり、3ヶ月間、シト ギだけを食べて名刀を打ち出し、出来た刀は沖縄から中国に流れ、その見返り物資として焼
(16)
物がもってこられたが、今では焼物も方々に分散して残っていないという。
⑨ ウ ー モ ト ガ ナ シ
−101−
面縄の海岸部の古里にあるアムト
今から3百年以上も前、広島の生まれの人で、諸国88ヶ所の行脚を企てて、この島の鹿浦 港に上陸した当時19歳の娘を付近の数人が強姦して殺したので、その人の霊を祀った墓所で あるという。娘の名前は碇波止原実子光義姫(いかりはとばらさねこみつよしのひめ)とい い、当時45両の金を所持していたが、その金を盗んだ3人は気が狂って死んだり、その子孫
( 7 ) , :
に不幸があったという。
(ii)沖縄から一人の娘がこの村にきた。村人がこの娘を追いつめく床下に隠れた娘を竹槍で
(18)
滅多突きにして殺した。その霊を鎮めるために祀ったアムトという。
上検福
⑩ 穴 八 幡
(i)検福村に洞穴アリロノ高サー間半、幅三間ニシテ、横二通ズル深サ凡ソニ丁余(中略)、
洞穴上下左右二、生乳石其他奇石怪石霧多アリ。村民ハ穴内二石碑ヲ建テ穴八幡トシ、検 福穴と称ス。毎二之ヲ祭ル。其石碑ノ前二睾丸形の花瓶アリ。之レハ其当時島詰官吏の寄 納シタルモノナリ。其睾丸形の花瓶二左ノ如キ歌ヲ彫刻シアリ。世の中はよき事のみを神 かけて、松茸どののなりのおかしさ
この穴八幡の祭神ハ姫女ニシテ、右の睾丸形の花瓶ヲ寄納シタルヲ不敬ナリトテ、該島 詰官吏ノ帰国シタルトキ七島灘ニテ難船シ、又ハ此ノ花瓶ヲ持テ寄納スベシト使ハレタル
(19)
モノノ子孫ハ絶テ此ノ穴八幡二参詣スルコト能ハザルトノコトヲ今ニロ碑二伝へ居しり。
(ii)遠い昔の話である。検福村に互いに好き合っている若い男女がいた。ある日のこと、男 は愛する娘へわらぞうりをこしらえてやった。娘はぞうりが美しかったので、恋しい男の ウナリ(妹)にはいてもらった。喜んだウナリは、さっそく美しいぞうりをはいて検福洞 へ水汲みに行った。そんなこととも知らず牛に水を飲ませるためにやってきた男は、洞穴 の入り口に行儀よくそろえられたぞうりをみると、恋人が水を汲んでいるのだと思いこみ、
中に入っていった。実の兄に道ならぬ恋を打ちあけられたと信じこんだウナリは、死ぬ覚 悟で、すべてを任せてしまった。そして、鍾乳洞の奥深く消え去ってしまった。ウナリは 二度とその姿を村人たちの前に現わすことはなかった。このような悲しいできごとがあつ
(20)
てから、村人たちによって ウナリ神様 が祀られるようになったそうである。
中 山
⑪ 中 山 神 社
昔、中山のキサドンという寺に、美しいミヤルという女神がいた。ところが、犬田布のメ ヨウガン寺にいるヌルクンガナシという男神が、この美しい女神ミヤルにすっかりほれて毎 日通ったが「そんなに私が好きなら一千夜通ったら、あなたのいうことを聞いて夫婦になろ う」と答えた。男神は喜び勇んで犬田布から中山まで毎晩二里半の道のりを通いつめた。い よいよ一千夜の晩、女神はサビチ川の橋が途中で折れるようにしておいた。男神はそうとは 知らずいつもの通り川の橋を渡った。橋は中ほどから折れて男神は川に落ちたが着物をぬら
しただけで助かって女神の所にたどりついた。それからカケ合い歌が始まる。
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中山神社(中山)
ごうわた
男 神 か な さ う ち ふ り て サ ビ チ 川 渡 て 降 ら ぬ 夏 雨 ね ん み 袖 ぬ ら ち 女 神 降 ら ぬ 夏 雨 に い が み 袖 ぬ ら ち や
腕 ま く ら し ゅ う て ぬ ら ち や ん さ れ
ちゆゆる
男 神 千 夜 通 わ ち 一 夜 は だ 知 ら さ じ わ ん や 悪 く ね ん ど ウ ラ が 悪 さ ん ど 女 神 千 夜 通 う て よ は だ 知 ら ん ど
く つ ち ゆ み ち
ち ゆ み じ さ し 殺 ち 一 道 な ら だ ん や
その夜女神は私は神であるから夫婦になれないと拒絶した。
その夜女神は私は神であるから夫婦になれないと拒絶した。男神は神である証拠をみせよ とせがんだ。女神は証拠に炭火を手のひらにのせてみせた。炭火は手のひらを焼いて裏へ通 し、女神は死んだ。死ぬ前に中山部落に今後美人は生まれないようにと祈って死んだ。美人 が生まれたら、自分のように男に迫られて苦労するからとの意である。しかし女神は顔以外 はウロコのはえた魚の精であったから男を拒絶したのであった。いまなお、両部落では悲恋
(21)
の神様を祭っているという。
伊 仙
⑫ 義 名 山 神 社
桂家の先祖が昔飛脚をしていたが、面縄から西天城に行く途中伊仙の義名山を通る時、女 が綿から糸をつむぐために夜ナベをしていた。(シマでは夜糸をつむぐ時には大きな音をたて てはいけないといわれている。)その音をきいてケンムンがきてその女にいたずらをしかけた。
ケンムンか人間かみわけるには袖の下からみるとわかるので、飛脚は袖の下からのぞいてみ たらケンムンだったので、ケンムンは鶏がうたえばいなくなるというので、鶏をつかんで(
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タバタさせたところが、ケンムンは井之川嶽の方へ逃げ去った。男が女をかいほうしている
と今度は沢山のケンムンが追ってきたので飛脚は義名山の中に入り、ウシクの木の下に行っ て命ごいをしたところが、ウシクの木の葉が落ちて、その人をかくしてくれたので命が助か った。その人は夜明けを待ってウシクの枝を切って、それを杖について家に帰り、これを庭 にさし、牛を殺して命の助かった祝いをした。その木を神木として祭るようになった。それ
(22)
が現在の義名山神社であるという。
⑬ ナ ー マ ン ド ウ ガ ナ シ
伊仙の水田地帯「ミンツキ田袋」の北端の付近を名真山と呼び、天人の子孫という名真氏 を始め人家があったが、現在は目手久に移住している。1973年に「ミンツキ田袋」は大規模 な耕地整理が行なわれて、キビ畑になった。ナーマディラ(「名真山御宮」)の御神体として いた「世の主の神」(みかる主)、と「みく くの神」(天女)の大・小の二つの石が姿を消した。
ナーマンドウの森だけは残った。名真氏は驚いて、海辺に行って大小二個の石を広い、きれ
(23)
いに洗って、清め森へ埋めた。それが今のナーマンドウガナシである。この石の上にゴミが たまったり、木の葉が落ちてのるということはないという。
ナーマンドウガナシ(伊仙)
⑭ コ メ オ ロ シ ド
義名山の谷の一つにナーマダというところがあり、その奥にコメオロシドがある。ナーマ ダは、神様の田で、雨が降らない時にも、そこの田だけには雨が降ったという。コメオロシ ドは、天人がみかる主との間に生んだ三人の子どものうち、その末の子である三番目の三歳 の娘を落としてきたので、その子どものために、正月元旦に、むしろ7枚を敷いておくと、
その一杯つき米を天上から降ろしていた場所である。ところが、ある時、心の悪い人が元旦
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に、そこに汚いふんどしを竹につるしたので、それからは怒って降ろさなくなった。今でも
(24)
その子孫が、正月の元旦に、そこをみれば必ず三粒は落ちているという。現在は、町営運動
場の一画に残されている。
阿 三
⑮ティラ(東阿三のティラ)
な お 君 <
今から百八・九十年前の直屋という人がいて、明日家を葺くという晩の夢に、白髪の高貴 な老人が現われて、「お前が神を信心してよく仕事に励んだら、一家は富み栄え、子孫は繁栄 する」と、告げられた。あくる朝竹を切りに林の中に入った。もの静かな密林の中に一陣の 風が吹いてきて、あたりにたえなる香りがただよい、生まれてこのかたみたことのない足の 三本ある一羽の小鳥がとんできて木の上にとまった。立ちどまってじっとみつめると、その 気高い姿はいいようのない感じをおこさせ、霊気が身にしみて自然と襟を正させるのであっ た。しばらくして立ち去ろをとすると、頭上にとんできて、狂ったようにとびまわって鳴く のであった。これは不思議なことである。昨夜の夢と思いあわせて、きっと霊鳥であろうと 服装を正し、「直ちに祠を建てて神を祭ります」と唱えたところが、木の枝の小鳥は頭上高く
(25)
二・三回輪を描いて一声大声で鳴いて西の方へ飛び去った。これがこのティラの縁起で、直
ちに祠を建てた。
小 島
⑯ ク ラ ゴ ウ
(i)伊仙町の小島クラゴウという鍾乳洞の中にウナリ(妹)とイヒリ(兄)が住みついてい た。いつの間にか二人は多くの兄妹を生み、そして小島のシマ(村)を開いた。なお、こ の兄妹が徳の高い人たちだったので、小島には昔から悪い病が流行したことがないという。
(26)
また、徳之島の村々は二人の子孫が散らばってできたという伝えがある。
(ii)昔、兄と妹の二神があった。暗川の中があまり暗かったので相通じ、子どもが生まれた。
(27)
その子どもたちが成長して徳之島全島に広がったのだという。
う と う く ら ご う
伽 だ ん と 音 わ た る 島 尻 の 暗 川 うなりいひり知らぬあわれ暗川
このネィグリ(根本)はこういうことだ。昔はサバ(草履)を作ってはくものであった。
イヒリがウナリに二つのサバを作り、いいサバはネンゴロ(愛人)にやって、悪い方はお 前がはけといって渡した。ウナリはネンゴロのサバがきれいだったので、それを自分のも のにした。ある日、そのサバが暗川の入口にぬいであったので、男はネンゴロが暗川にい るものと思いこみ、その暗川の中で自分のウナリと通じてしまった。そこで、そのウナリ
(28)
は人のしないことをしたというので身を投げて死んでしまった。
以上16事例について断片的でなく、比較的まとまった聖地についての説話群を集成してみた。
これらの分析については、要約において試みることにしたい。
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(4)「テンチユアモレの検討」
徳之島における天人女房讃は、普通の話の形式をとるものの他に、前半に口説形式を持ち、
後半に説話形式を持って話されるのが特色である。
そして、登場人物は「みかる主」、「たから主」、「め−ぬ主」などとか男の名前は話される。
あ も あ が れ ち ね ん ご
天女は「天か天降り」と呼ばれており、その場所は「東知念川」であるのが多い。この話は徳 之島では、かなりよく話されるもので、前半の口説は蛇皮線の伴奏でうたわれている。
また、伊仙町で採話された「天人女房」の2話の資料があるので、これらを簡単に要約して
提示してみることにする。
事例(1)「ティンチュアモレ」
①天女が里に降りて、東知念川で浴びている。
②「みかる主」に見つかり、飛び衣、舞い衣を隠される。
③二人は夫婦になり、子どもが3人生れ、長女が7歳、長男が5歳、その弟が3歳の時に、
長女が末の子を子守りしていた。
と ぎ ん
④子守歌で天女の飛び衣の隠した場所を教える。天女は立ち聞きする。
⑤六つ股倉を突きあげ、米束や粟束をおしのけて、飛び衣をとり出し、着て、倉のまわりぎん
を飛ぶと、もとの如く飛べた。
⑥長女、長男は抱いたが、末子はとり落とす。
⑦天にとびあがっていく。
⑧天上の家では、天女の7年忌をしていた。
⑨地上では、天女の置き手紙を夫は読み、ワラジを千つくり、その上にキンチク(錦竹)
を植えて天に上っていった。
⑩ワラジは一つ不足していたので、布を織っていた天女がヒジキをやってつかませてひき
あげた。
⑪天女の母が7町歩の木をみんななぐこと。そこを耕やすこと。そこにシブリを植える
ことの難題を「みかる主」に課す。
⑫「みかる主」は天女の助言でこの難題をすべてやってしまう。
⑬最後にシブリを切る時、天女のいうことを聞かず、天女の母のいうことを聞いて縦に切
ると、シブリが大川になって、二人は流れていった。
⑭流れる時に二人は「何とか星」になろうといって流れていった。
⑮その後も3歳の末の子のため、正月元旦に「コメオロシド」に、むしろを7枚敷いてお
くと、そこに一杯つき米を降ろしていた。
⑯ところが、ある時、心の悪い人が元旦にそこにきたないふんどしを竹につるしたので、
それからは降りてこなくなった。
(29)
⑰今でも、その子孫が正月の元旦にそこをみれば必ず3粒は落ちているそうだ。
この事例(1)は伊仙町伊仙の義山まるさんという当時87歳の人の話である。義山さんはいい話 者であったという。
−106−
この話の前半①〜⑦まで、すなわち、天女が子どもをだいて天上にのぼるまでは口説でうた われる。しかして⑧〜⑰までは、話されるものである。蛇皮線の伴奏で口説をうたっている場 合は、ここで蛇皮線の弦を手で押えて話し始めるのである。そして、注目すべきは⑮〜⑰で、
これは聖地の項に(⑭コメオロシド)提示した部分でもある。要するに「コメオロシド」の縁 起を説いており、それは前半部分(①〜⑭)天人女房讃と接合しているものであることが理解 できる。この「テンチュアモレ」の構成をみると次のようなことが指摘できよう。
(1)「テンチュアモレ」は口説形式と普通の話の形式に二区分できる。
(2)この形式の相違は、もともとこの二区分が別個のものであり、なんらかの機会に接合し
たものであろうかと考えられる。
(3)接合した理由は「天人女房」讃に地上から天上までのぼるまでの話と天上での試練の話 を持つものとがあり、このような話に刺激を受けて話すようになったもののようである。
(4)従って、この「天人女房」讃は次のように区分するのが妥当であろう。
(i)①〜⑦まで……(口説の部分)
(天女が天上にのぼるまでの内容)
(ii)⑧〜⑭まで……(普通の話の部分)
(夫が天上にのぼり試練にあう内容)
伽⑮〜⑰まで……(普通の話の部分)
(「コメオロシド」の縁起の内容)
このようにみると、各この三大区分のいずれもが、独立してうたわれ、話されることが可能 なのである。そして、特に、6iDの「コメオロシド」の縁起の部分は、(i)の口説の部分とそのま ま接合しても、よくその意味が通ずるのが理解できる。しかし、㈱の話の部分は(i)の口説の部 分なしには理解できないのであり、(ii)と伽との間には積極的に接合できないのである。(ii)の部 分は、このような検討により借用の部分であることが推測できるものである。
事例(2)天人女房
①伊仙の義名山の後の方に行くと、キンブイという木の生えない広場があって、そばに泉
がある。
②伊仙のある男が毎日朝早くそこを掃除していたが、ある日、この人よりも先に掃除して いる人がいた。怒って、確かめるために物かげに隠れてみていた。
③そこに天女が降りてきて、衣をたたんで掃除を始めた。
④その衣を隠し、二人は夫婦になる。
⑤二人は7ヶ年くらし、子どもが3人生まれた。
⑥母親は、子どもの子守歌で高倉の下に埋めてある衣をみつけ、3人の子どもを抱いて天
にのぼる。
⑦真中の子どものために、この広場に米が降りる。最近までもその子暮しといって降りて い た と い う 。 、
⑧夫は、天女の伝言のように、広場に草履をおき、その上に竹を植えて、それが天にとど
−107−
蕊蕊蕊
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ぬロ恥・叩・拍守雫胆・心・︾守亜阜即令即知︒恥b叩年︒︾・︾呼叩︒
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コメオロシド(伊仙)
いたので、それにつかまって天にのぼる。
⑨天にのぼった男に天女の女は一町の畑を耕すこと、冬瓜を植えることの仕事を与え、
天女の助言で立派に仕事をしとげる。
⑩冬瓜を分ける時に天女の母のいうことを聞いて、冬瓜を縦に分けると、水が一度に流れ
(30)
て、天の川になったという。
この事例(2)は伊仙町犬田布の伊喜美代敬さんが話した天人女房である。この話は、事例(1)と 比較すると、口説の部分は欠落し、かなり説明的となっているといえる。内容的にみると、天 女が真中の子どもを落とした部分(⑥と⑦)が語られていない。田畑英勝氏も真中の子どもで
(31)
なく、長男のまちがいではないかと注記している。長男が7歳で、広場に落ちたので「7つ馬 鹿」というのであれば、筋が通ることになる。伊仙の男と天女は7ヶ年暮らしたことになって
いるからである。
事例(2)は、義名山の後方、それは「コメオロシド」のことだと思われるが、その広場を中心 にして話が展開している。むしろ、「天人女房」讃そのものよりも,義名山の後方のキンブイに ついての説明の話という形式と内容になっている点が特色になっている。
他にも、徳之島の「天人女房」護は多いのであるが比較的早い機会に記録されている伊仙の
「天人女房」讃の事例(1)、(2)を検討してみると、伊仙の「ミンツキ田袋」を中心にした義名山 から南下する地区の聖地と結合する話になっている傾向を看取することができよう。
これらは、この地区における湧泉地点とそれに関連する聖地がきわめて濃厚にこれらの「天 人女房」讃を受容し、それぞれに定着していったものもその主因であったと考えるものである。
1984年刊行の『徳之島の昔話』には「天人女房」讃は全部で類話まで含めて17話掲載されてい る。この中口説形式を持つのは一例である。この一例は徳之島町花徳での採話である。また普
−108−
通の話の形式でも伊仙町阿権、上面縄などから3話採話されている。これらの話は、あまり地 域を特定せず、天城町兼久の採話例の場合に兼久のアガリシンゴウ(東しん川)、天城町当部の 採話例の場合に兼久のセンゴという以外には、ほとんどその場所が東知念川であり主人公はミ カルシュとして話されている。天城町兼久のアガリレシゴウも「天人女房」と関係のあった川 であったものかも知れないと考えられる。しかし、話の叙述、展開は、ほとんど類型的で、か
(32)
なりととのっている話が典型話として掲載されている。これらの類語群は、昔話としての存在 形式をとっており、これらの話群と先にあげた2事例と比較すると、伊仙の「ミンツキ田袋」
(33)
や「コメオロシド」の由来を話そうとしている傾向をかなり明確に理解できるものである。
(5)説話群の再生事例
① ミ ナ デ ウ ン ノ ウ
ミナデウンノウは、上面縄に伝承されている英雄の名前である。ウンノウとは上面縄のこ とであるから、上面縄のミナデという意味になるものであろう。
上面縄から北方へ約1.5キロほどのぼった海抜100キロ位のところに丘陵があり、ウガンウ スジと呼ばれている。ここはアジ屋敷跡またはウンノウ城などと呼ばれている。周囲は100メ 一トルで、まわりは絶壁をなし東側の谷間と西側には川が流れている。南側入口に2段づみ の石垣がある。西側の谷間に按司グムリ(泉)があり、東北側にツガイヨウ(桝のように真 四角になっている洞穴)があって、按司の鍛冶場だと伝えている。北側入口近くには豪力者 ミナデウンノウが攻めてきた時、戦ってウガン按司一族が殺害されたときの戦死者の骨が多
ま − は ら し み ち
数ある。この近くにはタシキシ石という物見をした石や馬走道といって、騎馬の練習道など がある。
隣の検福から穴八幡を行き、山手にのぼると十字路に達する。この十字路の北の方に向っ
ぐすく
て左手の方向に小高い丘がある。これをウービラ城という。このウービラ城に住んでいたの がウービラ按司である。ウービラ按司は、性が横暴で、村人たちの牛を度々とりあげて食べ
(34)
るなどの凶悪な振舞が多く、ウシクレ按司(牛食い按司)という別名をもらっていた。
ウガン城のウガン按司とウービラ城のウービラ按司の時代に英雄ミナデウンノウは活躍し ている。それらの話を要約して集成してみよう。
(i)ある日ミナデウンノウは野につないであった牛が盗まれたことを村人から聞いた。ミナ デウンノウは一人で弓を持って出かけた。ミナデウンノウはかねてからウービラ按司の悪 事を働くことを知って、いつかは亡ぼす覚悟をしていた。谷間の小川を登っていくと、ウ ービラ按司たちの屠殺している現場をみつけた。そこでミナデは弓を隠し,現場に近より、
自分も仲間に入れてくれるように交渉する。ウービラ按司は、日頃ミナデの力量を知って いるし、また悪事をしている現場をみられてのことだから、断るわけにいかず仲間にした。
いよいよ屠殺も終り、配分することになり、ミナデウンノウも配分をとり、それぞれ背負 って帰った。ウービラ按司たちが山の細道を背負って帰るところを、ミナデウンノウは弓
(35)
をとり出し、ウービラ按司を一矢で殺した。こうしてウービラ按司は滅亡したという。
−109−
(ii)ある日、ミナデウンノウは検福村のヤスクマメーバルというものと、上面縄の西南部に ある鍛冶岩の近くのムジ田(水いもを植えてある田)で、夜通し相撲をとっていた。それ をみたムジ田の主は、なにしろ強い2人なので泣き寝入りするほかはなかった。翌朝、ム ジ田の主人が行ってみると、なにごともなく、もとのままだった。こんなことがあって以
(36)
来、村人たちは2人のことを神様というようになったという。
伽ミナデウンノウは一人で、ウガン城を滅ぼしたという。ミナデが戦った場所はウガン城 の北の入口の幅1メートル位の道で、両側は10メートルほどもある崖であるという。ミ ナデはこの入口で、襲ってくる多くの敵を数時間にしてかたづけ、ウガン按司の妹「マル」
(ノロ)が一人残った。マルが戦っているうちに、刀の目釘が抜けた。すかさず「マル」
は髪のかんざしを取り目釘にして戦った。しかし、「マル」の髪はほどけて、体よりも長く ひきずった。下にいたミナデは「マル」の髪をつかんで引きずり落し、殺した。死んだノ ロの「マル」はウービラ按司から好かれ求婚されていた。ウガン城からウービラ城へ渡る ミチチ(地名)には「マル」の「マブリ」(霊魂)が現われて、通行人をまどわしたという。
一人歩きはいけない。ここを通る時には「マル」と呼んではいけない。男と女と手をつな
(37)
いで歩くところといわれている。
6v)ある日、ミナデウンノウは7人の荒くれ按司が牛を殺して、その肉を切り裂いて食べて いる現場に出くわした。ミナデは、なにくわぬ顔で仲間に入り、牛肉のごちそうになり、
一足先に帰ると弓を持って、連中の帰りを待ち伏せていた。7人の按司が坂道の中腹にさ しかかった時に、一矢で7人の按司の胸もとを串刺しにして殺した。なお、ミナデウンノ ウは長さ1メートル20センチ、直径24センチほどの大きな鉄棒を杖に全島村々をめぐり歩
(38)
いていたという。
ここにミナデウンノウの伝承の代表的なものを4事例あげてみた。
ウガン按司の滅亡の話は、唐の大軍との戦争という話があり、「マル」の奮戦と髪の乱れで死
(39)
ぬモチーフが語られてもいる。「マル」の亡霊はウンノウ城跡に現われるともいう。またこの唐 軍と戦いの時に奮戦するのはウガン按司の7人の男の子で末の娘は18歳の「マール」であり、
髪の乱れで死ぬ。7人の男の子も死ぬが、ウガン按司は降伏しない。そこで唐軍は水攻めにす る。この時作ったのが「トウノチュホリキリ」(唐人堀切)である。ウガン按司は10数頭の馬を 唐軍からみえる高い丘にひきだし、米で水浴びするようにみせた。このため唐軍は戦うのを中
(40)
止したという。別の話によればウービラ按司は坂水ノロであるウガン按司の妹をもらいたいと 申しこんだところ、ノロの祭りができないと断った。そこで、ウーピラ按司はウガン城を水攻 めにするための工事を始めるが、ウガン按司は馬に白米をかけて水浴びするようにみせかけた
とうのちゅう
ので、ウービラ按司は工事を中止したいという。この堀切がトウノチュホリキリであり、唐人
(41)
をつれてきて工事したともいう。
若干の類話をあげてみたが、整理してみると次のようになろう。
ぐすく
(i)面縄・検福の台地上また丘陵における按司と城の伝承である。
(ii)ウガン城、ウービラ城のウガン按司、ウービラ按司滅亡の伝承である。
‑ 1 1 0 ‑
伽 滅 亡 の 話 に は 、 次 の 要 素 が 話 さ れ て い る 。 (a)末の娘の奮戦、髪の乱れでの戦死 (b)白米城の話
(iv)ウガン城、ウービラ城の勢力範囲は馬根・中山・伊仙のイシャンダリの丘の付近まで及んで
いたという伝承がある。
このように整理できるが、ミナデウンノウはこれらの伝承の中でどのような英雄像を形成し
ているかと考えてみると次のようになろう。
(i)豪勇のもので、大きな鉄棒を杖にして歩きまわっていた英雄という。
(ii)ウガン城にもウーピラ城などの按司とも関係がない。(村人の一人という想定)
伽検福のヤスクメーバルという英雄とムジ田で一晩中相撲をとるが、翌朝ムジ田はもとの ままだったという。この二人の英雄は神聖視される。
《v)ミナデウンノウは、ウガン城、ウーバル城を滅亡させている。
(v)ウガン按司を滅亡させて、入手した金物で鋏をつくったという伝承があり、その時使用
お お ば ん ( 4 2 )
した鋳型の石があり、この場所を大判司といったという伝承かあり、この石もあった。
このようにみてくると、ミナデウンノウはある一つの時代(按司時代とでも呼ぶべきかも知 れない)に変革をもたらした英雄としての像を形成しているとすることができよう。
ミナデウンノウの墓と称するものは、現在でも、面縄小学校の西側の、墓地群の崖の部分に あり、近くに面縄第一貝塚がある。そして、この墓には、ミナデウンノウの杖であったという 石と力石もある。この墓は、ミナデウンノウの子孫であるというA家が祀っていた。ミナデウ
ンノウには四人の男の子がおり、A家はその長男家であったという伝承がある。ところが次のよ うな(i)M家の主婦の病気、(ii)ユタの判断に伽ミナデウンノウをM家に祀る、6v)墓の整備という 事情があって、ミナデウンノウの墓は現在M家が拝むようになっている。この順序で記述して
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…
ミナデウンノウの墓(力石と石杖)(面縄)
醤油
−111−
いくことにする。
(i)M家の主婦の病気
1971年のある日、夜寝ていると、口から唾液がでて止まらなくなった。そして、そのあ とに傷ができた。伊仙の診療所に1ヶ月ほど通ったが、病名を告げられなかった。親戚の ものが看護婦をしていたので、それとなく聞いてみると脳髄炎だという○注射やつけ薬で もなおらなかった。老人のように寝たきりになり、食欲もなくなっていった。昼となく夜 となく夢をみた。その時は馬に追われる夢とか、家の西側から陣羽織を着た人が入ってき て、ちょうど入口の間にすわっているのを目の前にみることなどあった。義母と本人の姉 がすすめて、主人が河内のFユタの所へ行った○
(ii)ユタの判断
ユタは、次のような判断を下した。
本人の主人の父方の伯父はウマ年で目の不自由な人であり、神様を拝んでいた。M家は ミナデウンノウの次男家であり、ミナデウンノウがM家で拝まれることを望んでいる。こ のことを知らせるために本人を病気にしたのである。ミナデウンノウを拝んでいるA家は 子どもたちもみんな健在で栄えているので、M家に今度拝まれたいという。その理由は本 人の主人の兄妹は8人いたが病没して、現在は4人になり、男は主人一人ということにな っているからだとのことであった。そのためにまず墓をきれいにすることという。石垣が くずれているので、これをきれいにしなさいということでもあった。
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暮釦
野生
…
Fユタと祭壇(河内)
6ilミナデウンノウをM家へ祀る。
この頃A家でもなにかがあったらしく、判断に迷っていたので、河内のFユタのところ へ行きA家、M家と一緒にエキをさせてみたら、前とおなじようにでた。それで、日柄を
−112−
みて、ミナデウンノウをM家へ祀ることにA家が同意した。ミナデウンノウの霊を祀る儀 礼が行われた。河内のFユタの子どもが主として、仏壇の前でお経を唱える。Fユタは、
入口にすわっていた。何日かこの儀礼を試みたがミナデウンノウの霊を祀ることはできな かった。しかし、ある日、部屋の入口にすわっていたFユタが夜中の一時頃であったが、
流石につかれていねむりをしていた。ところが突然とび起きて、今サッと風のように自分 のそばを通って行ったのがミナデウンノウの霊で、今仏壇に祀られたと宣言した。これで
ミナデウンノウの霊をM家へ祀ることができた。
6v)墓の整備
墓をきれいにすることと、1日、15日に拝むことなどが必要といわれたので、M家では このことを実行し、仏壇にはミナデウンノウの位牌とM家の位牌を新しくして供えること にした。現在仏壇の位牌は向かって右側に大きな二つの位牌がある。それらはミナデおん の居士霊位。前原家祖先代々之霊位である、この右側に8つの小さい位牌が並んでいる。
これらはすべてFユタの子どもの指導であった。ミナデウンノウの力石を掘り出し墓のそ ばに供えた。また、このような英雄であり、何百年もたった墓には供養塔として五輪塔を 建立した。
以上のような事情でミナデウンノウの霊をM家に祀り、墓をきれいにすると、本人の病気は 漸次快方にむかい、それ以来'4年病気したことはないという。次に、本人の伝承しているミナ デウンノウの話を要約して提示しておくことにする。
○M家の主婦(1931年生)の伝承するミナデウンノウの話
(i)7人の按司がいて一人だけ女性でマルグワーといった。牛を殺し、その肉を背負って一
−113−
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ミナデウンノウの墓と供養の五輪塔(面縄)
本道を歩く7人をミナデウンノウは一矢で串刺しにして殺した。その場所をミッチーチと いう。そこにはマルグワーの霊が出るという。また、牛が夕暮れなどになく場所ともいう。
(ii)伊仙のヤスクメーバルという力持ちとミナデウンノウは腕競べをした。今でもその場所
が残っているという。
伽ヒガシバマにはミナデウンノウの足跡、革履があったという。すごく大きいという。
ミナデウンノウは、豪力の人で、その証拠として力石とか杖が残っているという。
次に、ミナデウンノウの話とその霊と墓をM家に祀るようにと判断したFユタと実際的に位 牌や墓の整備や霊を祀る儀礼を指導したFユタの子どもについて記してみる。
○Fユタ(1905年生)の成巫過程は次の通りである。
40歳の時末の子どもの産後20日目に発病し48歳まで病気をした。しばしば呼吸困難になっ た。医者という医者にみてもらい、ユタにもみてもらったがよくならなかった。本人の姉が 三京にいて、そこに名瀬からTというユタがきていたので、この人に神をつけてもらった。
その時には、静かにしていなさいといわれたが、体が自然に動き出して踊りだした。その翌 日から体がすっきりして元気になり、20日ぐらいしたら人の霊魂が拝まれるようになった。
1961年に真言宗に入り修業して、真言宗御室流派から僧名慈圓をもらい得度した。ミナデウ(43)
ンノ.ウについては、断片的には知っているがあまりよく知らなかった。M家の人たちも全然 予期しない判断が自然とクチからでたので驚いたのを覚えている。
○Fユタの子ども(1943年生)
Fユタの長男に当たる。中学校卒業後、神戸で就職。23歳の時に高野山の学校へ入り、律師 になり、1966年の暮に河内に帰る。現在Fユタの家のそばに住み、2階に壇を設けている。
主として墓相などもみている。
−114−
このFユタの子どもの伝承しているミナデウンノウの伝承は次の通りである。
蕊
Fユタの子どもの壇(河内) 呂啓拝,歩。■(i)ミナデウンノウは豪傑であって、7人引きの弓を持っていた。ある時、弓を持って川か ら歩いていたら、男6人と女1人が川のそばで牛を殺していた。ミナデウンノウに牛の肉 を分けるといったので、竹の串に7片の肉をさしてもらって、自分の家に帰った。畠の牛 小屋に行ってみると、自分の牛がいない。かねてから、牛が盗まれるというのはあいつら だということで、弓を持って、川のところへ引っ帰してみた。あの7人は、牛をかごに入 れ背負うと、坂をのぼり1本道を歩いていた。ミナデウンノウは弓を引きしぼり一矢で7
人を殺したという。
(ii)検福の豪傑ヤスクマメーバルと二人で長い間相撲をとっても勝負がきまらなかったとい
う。
6iD沖永良部島から面縄には弓の名人で力持ちがいるというのではるばる力勝負にたずねて きた人がいた。ちょうど畠仕事をしていたミナデウンノウをみかけた沖永良部島の力持ち はミナデウンノウ本人とは知らずに面縄の弓の名人で力持ちはどこにいるかとたずねた。
ミナデウンノウは、まあ煙草を一服して行きなさいというと、畠のそばの大きな松の木の 枝をまげてすわらせて休ませた。そして、ミナデウンノウがその大きな枝ではねとばした
ら、沖永部島の力持ははるか遠くまではねとばされたという。
以上、上面縄におけるミナデウンノウの伝承の再生事例の経過について提示してみた。これ らの事情を図示してみると次のようになろう。
−115−
① M 家 の 主 婦 の 病 気 〔 ミ ナ デ ウ ン ノ ウ 伝 承 〕
↓ ① 英 雄 證
② ユ タ の 判 断 ②ミナデウンノウの次男家であるという伝承
↓
③ ミ ナ デ ウ ン ノ ウ の 霊 を 祀 る
↓ ③ミナデウンノウの墓、力石、石杖の存在
④ ミ ナ デ ウ ン ノ ウ の 墓 を 祀 る
↓
⑤ M 家 の 主 婦 の 本 復
この図示で重要な点は①と②であり、面縄より同じ町内とはいえ、遠隔の地のユタの判断で あり、ほとんどが的中していたということである。この判断にはミナデウンノウの名前が最初 からはっきり出てきている点も注目すべきであろう。M家では、これだけのことをするのに相 当額の負担をしたのであった.ミナデウンノウという英雄讃は多くの類話を持つが、M家の主 婦及びFユタの子どもの伝承ならびに面縄現地での聞書によれば、この二人の伝承と類型を示
している。それは次のように整理できる。
(i)弓の名人→牛泥棒の7人のアジ(一人は女)を殺す。
(ii)ヤスクマメーバルとの力競べ
6il他所からきた力持ちを松の木の枝ではねとばす。
この二人の伝承したのは、義母、祖母などからであり、面縄の人から直接聞いたりしている。
次に同じような類型を示す犬田布のコイチヤンノロの説話の再生事例があるので、これを提
示してみることにする。
② コ イ チ ヤ ン ノ ロ
犬田布から糸木名へののぼり口の左方の小高い丘がミョウガングスクである。このモリに は昔、ミョウガン按司がおり、その娘にコイチヤンという美しい娘がいた。このコイチヤン にまつわる話がコイチヤンノロの伝承である。この話の典型的な話を要約して示してみるこ
とにする。
徳之島が琉球に統治され按司がいた頃、犬田布のミョウガングスクの按司に二人の美し い娘がいた。二人ともノロであった。妹のコイチヤンはあまりに美しかったので琉球王の 使者の目にとまり、琉球王の娘にと所望された。ミョウガン按司はこれを喜ばず、コイチ ヤンノロの顔にお灸をすえてあばた顔にして琉球へ送った。琉球王はコイチヤンの顔をみ て驚き、七重衣裳、じゅばん、首飾り、真珠、鉢巻、帯、金盃、鏡などの調度品を土産と して持たして、ミョウガン城へ帰した。コイチヤンノロは、大和船を利用して面縄港に着 いた。大和船から船賃として砂糖を要求されたが、砂糖を琉球からの土産物の品々を抵当 に入れて面縄の地主から借りて支払った。そこで、なにもなくなったコイチヤンは、せめて